【10】当日
 
「一つ、大事なことを君に伝えておきたいんだ」
 クリスマスパーティーのあの夜、銀山さんは最後にそう切り出した。
「彼女の病について、担当医として僕の見解を述べさせてもらおう」
 銀山さんが担当医であることは薄々察していた。婚約者であり、担当医。ずいぶんと四季宮さんと接する機会が多かったのに……病気の名前は、知らないんだな。
「彼女は自遊病って呼んでましたよ」
「自遊病……自遊……自由、か。なるほど、なかなか皮肉が聞いているね」
 皮肉。確かに僕も最初はそう思った。
 だけど今にして思えば……あれは彼女の希望だったのではないかと感じる。
「では便宜上、僕も自遊病と呼ばせてもらおう。共通認識性を高めるのは大切なことだからね」
「何か知ってるんですか?」
 銀山さんはかぶりを振る。
「いや、何も知らない。あんな病気は見たことも聞いたこともないよ。だけど、公にしてはいけないとも思う。寝ているうちに勝手に死んでしまう病気だなんて……いかにもメディアが喜びそうな精神病じゃないか」
 ただ、と続ける。
「一つ、気にかかっていることがある。もしかしたら君なら、この情報をうまく扱えるかもしれない」
「気にかかること……?」
「ああ、よく聞いてくれ。実は――」

 ※

 はっと目が覚める。
 あわてて横を見ると、四季宮さんがうとうとと舟をこいでいるところだった。
「し、四季宮さん。起きてください……」
「んんっ……ねてないよ?」
 そんな子供みたいな言い訳……。
 とはいえ、僕も意識が飛びかけていたので、人のことは言えない。
 今日の僕たちはホテルを出て、どこに行くでもなくショッピングモールをぶらぶらと散策し、何を買うでもなくウィンドウショッピングに興じていた。
 そして夕方ごろになり、急激に疲れが押し寄せてきたため、引き込まれるように、ソファーに二人、腰かけていたのだった。
 足早に目の前を通り過ぎる人並みを眺めていると、なんだか眠くなってきて、僕たちはどちらともなく寝てしまっていたようだった。
「大丈夫ですか、四季宮さん。疲れてますか?」
「ううん、もう大丈夫。昨日は真崎君のお陰で、よく眠れたし。むしろ、真崎君の方が眠そうだよ?」
 結局あの後、四季宮さんの胸の感触が忘れられず、もんもんと一晩を過ごしたのだから、寝不足で当然だった。とても四季宮さんには言えない理由だ。僕は誤魔化しつつ答えた。
「枕が合わなかったみたいで……。でも、今ちょっと寝られたのですっきりしました」
「ふふ。そっか、ならよかった。こんな風にうたた寝してるときって、変な夢を見たりするでしょ? かえって寝る前より疲れちゃったりすることもあるから、ちょっと心配で」
「あはは、確かにありますね。僕もついさっき――」
 はたと、そこで言葉を止める。
「……どうかしたの、真崎君?」
「いえ……」
 数十秒か、あるいは数分か。
 さっき意識が飛んでいる間に脳裏によみがえったのは、銀山さんとの会話だった。
 あの時は、銀山さんの意図を計りかねていたのだけれど。
 ここにきて僕はようやく、あの人の言いたかったことが分かった気がした。
 稲妻のような直観が、一瞬にして脳裏を駆け抜けた。というほど、鮮烈なひらめきではなかった。
 ただ、これまで四季宮さんと共に過ごした時間の積み重ねが、少しずつ真実に近づいていって、昨日今日と彼女と接したことで、ようやくそれが閾値を超えた。
 そんな緩やかな気付きだった。
 昨晩おぼえた違和感の正体も、もしかしたら……。
 もし僕の予想が正しければ、彼女を救う糸口がつかめるかもしれない。
 期せずして手に入れた活路の一端を見失わないうちにと、僕は慌ててスマホの通話ボタンを押し、立ち上がろうとした。
「四季宮さん、少しここで待っていてもらっても――」
 ふと、肩に重みを感じて、目線を横に向ける。
 四季宮さんの頭が、僕の方に乗っていた。
 浮かした腰を戻して、通話ボタンを切る。
「ど、どうしたんですか? 急に」
「んー?」
 角度的に、彼女の顔は見えなかった。ゆったりとした髪の毛が目元を隠していて、ただ彼女のつむぐ言葉だけが、雑音をかき分けて僕の耳に届く。

「幸せだなあ、と思って」

 四季宮さんの指が、僕の手に絡む。
「なんだかここに座ってると、私たちだけが世界の流れに取り残されたみたいに感じるね」
 彼女はとつとつと言葉をこぼした。
 周りの人たちはせかせかと足早に歩いて行って、私たちには目もくれない。
 あくびで潤んだ目で見ると、人影が帯を引いて右へ左へ駆け抜けていって、そんな中で私と真崎君は、のんびり会話を交わしたり、たまに居眠りしそうになりながら、互いに起こし合ったりして。
 なんだかこの一角だけが、別世界みたいに切り取られたような、二人だけの空間が形作られているような……そんな気がするんだ。
「ずーっと、このままだったらいいのにね」
 隔絶された世界で二人、いつまでもこうしていられればいい。
 僕だって同じことを思う。
 なにも憂うることなく、周囲の変化から、時間の経過から取り残されたまま、ただ安寧とした時をゆったりと過ごすことができたら、どれだけいいかと思う。
 だけど――
「うん。現実はそんなに甘くないよね」
「四季宮さん……」
 肩から重みがはずれ、四季宮さんは顔を起こした。そして笑って言う。
「ごめんね、変なこと言って。ちょっと寝ぼけてたのかも」
 何か気の利いた言葉をかけたいと思ったけれど、いくら脳を振り絞ってもろくな言葉が浮かんでこなくて、自分の不甲斐なさに下唇を噛んだ。
 そうこうしているうちに、スマホが震えた。着信の合図だ。
「電話、鳴ってるよ?」
「……少し、ここで待っててもらってもいいですか?」
「うん、りょーかい。急がなくていいからね?」
 右手をひらひらと振って、四季宮さんは少し眠そうに、だけど笑顔で僕を見送った。
 僕は四季宮さんに会話が聞こえないくらいの位置で、柱に背中を預けて、スマホを耳元に寄せた。
 通話口から聞こえてきたのは、突き抜けるくらい明るい声だった。
 僕は答え合わせをするために、彼女に問いかける。
「織江さん。突然すみません。一つだけ、教えてもらいたいことがあるんです」

 ボタンをタップして、通話を切る。
 少し時間はかかってしまったが、なんとか織江さんから話を聞きだすことが出来た。
 僕の予想は確信に変わった。
 彼女が――四季宮さんがついていた大きな嘘に、ようやく気付くことができた。
 ただ……ここからどうすればいいだろうか。
 彼女を助けるために、彼女を幸せにするために、僕にできることはなんだろうか。
 答えはまだ見つからない。だけど、何とかしなくてはいけないという焦燥感だけは、今まで以上に強く胸の内で燃え上がっていた。
 とにかく、四季宮さんと一度話し合って――
「……え」
 思考と歩みが止まる。
 さっきまで僕と四季宮さんが座っていた場所。
 二人で肩を寄せ合っていたソファー。
 そこには、誰もいなかった。
 ただ、一通の手紙が置かれていた。
 震える指で、それを開く。
 中には、端的に、短い文章だけが書かれていた。

『今までありがとう。さようなら』

 現状を把握するまでに数秒。
 その文章を理解するまでに、さらに数秒。
 それだけの時間硬直していた僕は、やがて弾かれたように
「……四季宮さんっ!」
 駆けだした。
 四季宮さんの連絡先をタップして耳元に寄せる。
『おかけになった電話は、現在電波の届かない場所に――』
「くそっ!」
 悪態をついてスマホをしまう。
 四季宮さんは電源を落としたままのようだった。スマホは使えない。
 足で稼いで、目で見つけるしかない。
 ショッピングモールの中には、うだるくらいに人がいた。
 人混みをかき分けながら、左右に目をせわしなく走らせて四季宮さんの姿を探す。
 いない……。
 いない。
 いない、
 いない、いない、いないいないいない!
「くそっ!」
 悪態をつきながらエスカレーターを駆け降りる。
 駆け降りるのが正解なのか分からなかった。
 駆け上がった方がいいのかもしれなかった。
 だけどなんとなく、もう四季宮さんはこのショッピングモールから離れようとしているのではないかと。外に向かって歩いているのではないかと、僕は直感的にそう思って、下へ下へと駆け降りた。
 途中で二列になって並んでいるカップルが邪魔で、どいてくださいと言いながら、荒々しく間をすり抜けた。たくさんの人が、必死の形相で走っている僕を、怪訝な顔で見送っていた。
 普段運動をしていないツケが回ってきたのか、肺は簡単に悲鳴を上げた。喉の奥が焼けるように痛くて、ろくに走ることすらできない自分にいら立った。
 ショッピングモールの一階でも彼女を見つけることはできなくて、僕は転がるように外へとまろび出た。
 モール内に響いていた音楽が消え、代わりに雑踏の音が大きくなった。
 車が排気ガスを出す音が聞こえる。
 タイヤと地面の摩擦音がする。
 電光パネルの向こう側で、アナウンサーが喋っている声がする。
 そのすべての音が広大な世界を想起させて、今からでは四季宮さんを探し出すことはできないのだと、非常な現実をまざまざと僕に突き付けてくるように感じた。
 ――もう間に合わない。
 脳裏によぎった言葉を振り払うように、僕はかぶりを振る。
 まだだ……まだ、諦めない。
 彼女が向かうとしたら、駅の方だろう。
 電車に乗る前に捕まえられれば、引き止めることが出来れば、まだ間に合うはずだ。
 そう思って、自分を叱咤して、数歩走り出した時――

 僕はその光景を視た。

 何かに誘われるように、目線を上げた。
 ビルの屋上、フェンスの外側。
 圧倒的な死の匂いを振りまいて、むせかえるような橙色を背に受けて、彼女はそこに立っていた。
 声をあげる間もなく、四季宮さんの体が一瞬宙に浮いて。
 地面から伸びてきた、黒くて長い怪物の手に引きずり込まれるように、その速度を増していく。
 彼女の身体は、地面にしたたかに叩きつけられて、真っ赤な血を周囲にまき散らした。
 四季宮さんはその瞬間、四季宮さんだったものに変わってしまって。
 すぐ近くにいるのに、だけど永遠に出会えない存在になってしまった。
 
「きゃははっ! もー、待ってよー!」
「……っ」
 隣で子供の笑い声が聞こえて、僕は現実に引き戻された。
 いずれ訪れる未来。六十秒後の光景。
 これまで何度も僕を苛んできた、僕の幻視が告げている。
 間違いない。
 四季宮さんは、あのビルから飛び降りる。
 六十秒後に、彼女は死ぬ。
「……はっ……はっ……」
 呼吸が荒い。おびただしい量の汗が背中を伝う。
 現状を整理しなければと焦りが体中を駆け巡るのに、意に反して体は全く動かずに、眼球だけがやけにせわしなく、右へ左へと揺れ動く。
 今、四季宮さんが飛び降りる光景を幻視したということは、彼女はもう上り始めているだろう。あるいは既に、屋上に着いているかもしれない。
「はっ……はっ……!」
 今からビルに飛び込んだところで、絶対に間に合わない。
 スマホでの連絡も取れない。
 状況は絶望的だった。
 彼女に手を伸ばすには、どうしようもなく時間が足りない。
 彼女を助け出す手段を、僕は何一つ持ち合わせてはいない。
 僕は臆病だ。
 ちっぽけ存在だ。
 笑ってしまうくらいに非力で無力だ。
 彼女が死ぬことを知っていても、彼女が飛び降りることが分かっていても、その未来を変えるだけの力がない。
 ……ごめんなさい、本当にごめんなさい、四季宮さん。
 僕は……僕は、あなたを助けることが――
 
「違うだろっ……!」

 街路樹に頭を打ち付けて、腐りきった思考を追い出した。
 彼女を止める手段は、まだ残っている。
 絶対ではない。だけど彼女の耳に、僕の声を届ける方法は一つだけある。
 今それを躊躇ったのは、怖いからだ、恐ろしいからだ。
 たくさんの人間が周囲にいる状態で目立つのが怖いからだ。
 奇異な目線を浴びせられることに恐怖を抱くからだ。
 自分の意志を強く伝えることに尻込みするからだ。
 もし四季宮さんに僕の気持ちが届かずに、彼女が死んでしまったらと思うと、恐くて怖くて、体の震えが止まらなくなるからだ。
 
 僕はビルの正面にあるひと際高い石塀の上に立って、空を見上げた。
 二、三度空気を吸い込む。
 心臓が拍動する音が痛い。嫌な汗がとめどなく流れ落ちる。
 既に周囲の目線が痛い。喉が縮こまってしまいそうになる。歯をがちがちと打ち鳴らしそうになってしまう。
 そんな自分を叱咤する。
 どれだけ彼女に助けられたと思ってる? 
 どれだけ彼女に思い出をもらったと思ってる?
 他人の嬌声がトラウマになっていた僕が、四季宮さんの綺麗な笑い声に救われたことを忘れたのか? 彼女の声が好きで、気づけば目で追っていたことを忘れたのか?
 彼女と秘密を共有してからの日常が、どれだけ楽しかったのか忘れたのか?
 四季宮さんと出会えたから、織江さんとも友達になれた。
 織江さんと友達になれたから、御影も含めた四人で修学旅行を楽しめた。
 なんの思い出もなかった高校生活に、彩りを与えてくれたのは、一体誰だ? 
 怖い? ああ、怖いさ。怖ろしいさ。
 だけど。
 そんな恐怖に向き合ってでも彼女のことを助けたいと、今、強く、強く、心の中で願うから。
 一瞬のうちに脳裏を駆け巡った四季宮さんとの思い出が。
 彼女が僕にかけてくれたたくさんの言葉が。
 背中を押してくれている気がするから。
 だから、今――

「四季宮茜ぇええええええええええええええええええええええええええええ!」

 叫べ。

「死ぬなぁああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 叫べ……叫べ、叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べっ!
 この透き通った空の隅々まで響き渡る位に。
 喉がかすれて、真っ赤な血が噴き出すくらいに。
 どこの誰かも分からない、有象無象の耳にも届くくらいに。
 そして何よりも、君のもとに、君の耳にっ、君の心に届くくらいにっ!
「なに勝手に死のうとしてるんだよ! ふざけんな! 僕がどんだけ心配したと思ってんだ!」
 痛いくらいに声を張り上げて、敬語なんてとりやめて、僕を外界から守っていた、ありとあらゆる壁をかき捨てて!
「自遊病だからしょうがないとでも言うつもりかよ! ついうたた寝しちゃったから死にそうになってるとでも言うつもりかよ! バカにすんなよ! もう全部知ってんだよ! 分かってんだよ!」
 あらゆる言葉を区切ってしまう句読点も!
 君がしきりに言っていた、その句読点すら置き去りにして!
 短く!
 早く!
 鋭く!
 今、叫び声を疾らせろっ!

「自遊病なんて病気、端から全部、嘘っぱちなくせに!」
 
『人の傷痕からは色々なことが読み取れる。いつ頃できた傷なのか、何でついた傷なのか、そして――誰につけられた傷なのか』
 銀山さんはあの日、僕にそう語った。
『彼女の身体にはいくつも傷痕があった。手首と足首の傷は間違いなく手錠によってできたものだろう。だけど、その他の傷痕。あれは、第三者によってつけられた傷だ』
『どういうことですか……?』
『後は自分で考えるといい。全てを僕から話してしまったら、語る相手が変わるだけになってしまうからね。それでは意味がない』

「なあ四季宮さん! それは誰かから付けられた傷を隠すための、架空の病気なんだろう!」

 四季宮さんの家に遊びに行った日、彼女のお母さんが手に巻いていた包帯。
 クリスマスパーティーの夜も、まだ巻かれていた包帯。
 あれは、四季宮さんに暴行を加えた時にできた傷だったのかもしれない。だとすれば、四季宮さんのお母さんが口走った「自業自得」と言う言葉にも、説明がつく気がする。
 真相は分からない。だけど、四季宮さんの自遊病が架空の病気であるという証拠は、他にもある。

『だから教えられないってばー。茜ちゃんにかたーくかたーく口止めされてるんだから』
『そこをなんとかお願いします……っ』
『むむー、藤堂君ってば、結構頑固だね? こんなに粘られるとは思ってなかったぞよ?』
『普段ならこんなにしつこくお願いはしません。しつこくするのは……こわい、ですから』
『じゃあ、どうして?』
『……四季宮さんの力になりたいから』
『そのために、私の知ってる茜ちゃんの秘密が知りたいと』
『はい』
 電話口の向こうで、織江さんが浅く息を吐いた。
『分かった。君のこと、信じるよ。と言っても……私もなんで口止めされてるのか、分からないような内容なんだけどねえ』
『どういうことですか?』
『んーとねえ』
 一拍置いて、彼女は答えた。
『茜ちゃん、お家が結構厳しいらしくて、息が詰まるって言ってたんだよね。そのせいでちょっと睡眠不足なんだーって。だから――』

『うちでよく、仮眠を取ってたんだよ』

「いろんな人に嘘をついて! そこまでして隠したいものだったのかよ!」
 周囲が騒がしくなってきた。
 誰かがスマホを向けている気配もする。動画を撮影しているのかもしれない。
 知ったことじゃなかった。
 僕は叫び続ける。
「だったらなんで僕に色んなヒントを与えたんだよ! 修学旅行先で手錠の付け方を見せて、一緒に夜を過ごそうとしたんだよ!」
 あの日、もし僕が四季宮さんの部屋で夜を明かしたら、彼女が自遊病を発症しないことを、知れていたかもしれない。
 もっと早く、彼女のために何かしてあげられたかもしれない。
「昨日だってそうだ! どんな不思議な現象にもきっと必ず理由があるって君は言ったけど! それは君の自遊病にも当てはまるんじゃないのか!」
 僕の幻視の仕組みについて、彼女は昨晩言及した。だけど彼女の発言は、そっくりそのまま自遊病にも当てはまるものだった。もし僕があの時、四季宮さんの言葉の真意を掴めていれば、今よりも早く、真実にたどり着けたかもしれない。
「なあ四季宮さん! 君は! 本当は! 僕に気づいて欲しかったんじゃないのか! 生きたいと思ってるんじゃないのかよ!」
 四季宮さんに、僕の声は届いているだろうか。
 彼女は聞いてくれているだろうか。
 確認する術は僕にはない。
 だから。
 ただ、叫び続ける。
「なあ、頼むよ! 死なないでくれよ! 残された僕の気持ちを考えたことがあるのかよ! 四季宮さんがいないことで僕がどれだけ悲しむか考えたことがあるのかよ! 君がいない明日を想像しただけで! 僕がどれだけ胸が苦しくなるか分かってんのかよ!」
 いや……これは詭弁だ。
 彼女がもし生きていたとしても、銀山さんと結婚することを想像するだけで、僕は同じくらい胸がかきむしられるように辛い。
 これは僕の本心ではない。
 だからきっと、彼女の心には届かない。
「なあ頼む! 頼むよ……!」
 この期に及んで、まだ自分の本音を語れない自分に辟易とした。
 普段声を出し慣れていないからか、かすれて段々と声量が落ちてきた自分に嫌気がさした。
「分かった……言うよ。君に死なれたくないんだよ、君に行って欲しくないんだよ……っ! だって僕は、君の、ことが……」
 最後の言葉は、かすれて声にすらならなかった。
 肩で息をしながら、目をつぶる。
 周囲のざわめきが、耳に飛び込んでくる。
「なにあれ?」「きもいねー」「警察に誰か連絡した?」「青春ってやつかなー」
 違う、聞きたい声はこれじゃない。
「ねえ早く向こういこ」「動画取ったわあ。どっかにアップしよ」
 違う、聞きたい声はこれじゃないんだ。
「てか、誰に語りかけてたんだろうねー」「さあ、妄想じゃね?」
 違うんだ。聞きたい声はこれじゃ――

「惜しい、あとちょっとだったのに」

 弾かれたように目をあげる。
 誰もが遠巻きに見つめる中、ただ一人、僕の前に立ち、柔らかく微笑みながら、僕を見上げていた。
「しきみや、さ……」
 のどに引っ掛かりを覚えて、せき込んだ。
 どうやら叫んだ影響が、まだ喉に残っているらしかった。
「もー、馬鹿だなあ。こんなになるまで、無理しちゃって」
 言葉に反して、四季宮さんの口調はとても優しかった。
 彼女はそっと手を差し出した。その手を取ると、四季宮さんはぐいっと引っ張って走り出す。
「ちょ、どこに……」
「逃げるよ、真崎君! さっき警察の人がこっちに来るのが見えたから!」
 人混みをかき分けながら、僕たちは手をつないで走り出した。
 取り囲んでいたやじ馬たちは、腫れ物にでも触るみたいに僕たちを避けてくれたから、するすると間をすり抜けることができた。
 僕の手を取って走る四季宮さんの表情は見えなかったけれど、だけど背中からは生き生きとした活力が伝わってきた気がして。
 僕はそっと彼女の手を握りなおした。