「胡都のせいじゃないよ……」
その手を包み込むように自分の手を重ねれば、彼女の手は俺でサンド。同じ温もりになっていく。
「はいはいっ。イチャつくのはいいから、あんたたち早く下校しなさいっ」
ふたりだけの世界へ入る寸前、西条先生が割って入る。
「今度からこういう時は病院行ってよねっ。頭打って意識ない人なんか連れてこまれても、わたしなにもできないから」
その言葉に「すみません」と、謝るのは胡都。
「だってついこの前、山内くんの家はお姉さんのことがあったばかりだから、また病院から呼び出されたら、親御さんびっくりしちゃうと思って」
「だからって自腹でタクシー乗ったの?優しいわねえ伊吹さん。あとで山内にきっちり請求しなさい」
はい、と軽く笑って返した胡都は、その顔のままこちらを向いた。
「山内くん歩けそう?」
「あ、うん」
「じゃあ帰ろっか」
保健室を出てすぐの、がらんとした下駄箱。下校時刻を過ぎた今の今まで付き添ってくれた胡都へ、何て礼を告げようか考えていれば。
「今日ふたりして授業をサボっちゃったことはね、西条先生がツッチー先生に、上手いこと言い訳してくれるって。優しいね」
と言われ、そのタイミングを見失う。
「そうだね」
ふふっと微笑む大好きな彼女。きらきら輝くこの真珠を、守り抜きたいと切に思った。
線路を挟み、異なるホームで向き合って立つ俺等ふたり。風が胡都の髪をさらりと靡かせ、それだけでも目を奪われる自分に、彼女への絶大な愛を思い知らされる。
「ばいばい、山内くんっ」
先に電車到着のアナウンスが流れたのは、胡都のいる方。車両がホームに進入するまであと少し。手を振る彼女に俺も振る。
「また明日ね、胡都っ」
「うん、ばいばいっ」
「ばいばいっ」
駅へ着き乗客を乗せれば、再び走り出す電車。四角に縁取られた窓枠の中、もう一度手を振った胡都がまた真珠をくれたから、俺は心に決めたんだ。
「ばいばい、胡都……」
君をもう、自由にしてあげようって。
ようやく空へと羽ばたいた鳥。俺は君の檻にはなりたくない。独りよがりな三度目の正直などなくていい。
俺はただ、見守るよ。君が優雅に羽ばたく姿を。
あれだけ断ることを躊躇していたわたしがはっきりと言えた、剣崎先輩へのノーの言葉。それは必死にわたしを探し回ってくれた山内くんが背中に手を添えてくれたからで、彼がいなければ、わたしは未だに殻に閉じこもったままだった。
もし剣崎と胡都が別れたらさ、俺からもう一度、告白していい?三度目の正直ってやつ。
山内くんがくれたその言葉を信じ、待ち侘びて過ごす日々。けれど期待虚しく捲られるカレンダーは、とうとう十二月に突入した。
「ねえねえそこのふたり〜。旅行いこ〜」
休み時間。教室の後方で懐かしい遊びをしている山内くんと根本くんに、みっちゃんが声をかける。わたしはそれを、窓際一番後ろの席から眺めていた。
「ねえふたりとも、聞いてる?今度の週末、旅行いこーよ」
存在感たっぷりあるブランドもののマフラーをぷらぷら揺らせて、束ねた髪の毛も最近染め直して、異彩を放っているというのにもかかわらず、メンコに夢中な彼等の目には、どうやらその姿が映らないらしい。
「うわ、根本それ反則っ。今息でふーってやったろっ」
「やってねえしっ」
「はい、あと一回で退場なー」
「退場ってなんだよ!」
みっちゃんを無視に盛り上がるふたり。彼女は首に巻いていた高価なそれを、メンコの上に投げつけた。
「なに!?ここだけ時代違うの!?現代の声はシャットアウト!?」
そんな彼女の発言に、くすくす笑うクラスメイトたち。真剣勝負の舞台を台無しにされた山内くんと根本くんだけが、不愉快そうだ。
「美智ひでえっ」
「ひどくない!答えなかった山内たちが悪いんじゃん!」
「自分で買ってないものだと、扱いも雑になるんだなー」
「ばっ!ちょっと静かにっ!」
慌てた様子で山内くんの口に手で蓋をしたみっちゃんは、「ばかばか」と連呼していた。あはは、と笑う山内くん。なんだか以前よりも親しげなふたりの仲に、もやっとするのは胸辺り。
「いいから旅行いこーよ、とりあえず」
お金も時間もかかることなのに、さくっと話を進めるみっちゃんには、わたしの隣で立つ萌ちゃんとゆっぴーが、「さすが」と感嘆していた。
「美智のあーいうとこ、まじですごいよね」
と、ゆっぴーが言えば。
「ふふふっ。山内くんも根本くんも、亀みたいに首出してるよ」
と、萌ちゃんが返す。何も言わないわたしの背を、ふたりが「大丈夫だよ」と摩ってくれた。
「大丈夫だよ、胡都。美智なら山内を誘える」
「そうだよ。美智は言い出しっぺが得意だから」
言い出しっぺが得意。
萌ちゃんのその言葉には少し笑えて、わたしはことの行方を見守った。
剣崎先輩と別れてから間もなくして、ゆっぴーと萌ちゃんにもわたしの全てを打ち明けた。
過去にわたしを好きでいてくれた、秋宮くんという人がいたこと。彼に告白をされて断って、目の前で命を絶たれたこと。そしてそれがトラウマとなり、断ることが怖くなってしまったこと。
山内くんと付き合った時も、そこに好きの気持ちはなかったこと。けれど彼を知っていくうちに、段々と惹かれていったこと。
山内くんが剣崎先輩からわたしを救ってくれたこと。背中を押してくれたこと。けれどもう一度わたしに告白をしてくれると言ったのに、してくれないこと。
みっちゃん以外の友人には話せないだろうと思っていた数々を、わたしがどうして話すことができたか。きっとそれも、ノーと言えたお陰、山内くんのお陰。彼がわたしに授けてくれたものは、両手で抱えても零してしまうほどたくさんある。
「旅行ってどこ。他に誰来んの。なんで俺と山内?」
「千葉の銚子ってとこ。伊吹胡都。なんとなく」
根本くんの素朴な疑問にみっちゃんが即答すると、それを聞いていた山内くんの瞳がこちらを向いた。
「え、胡都も行くの?」
「う、うん」
「胡都と美智と、根本で旅行……?」
「い、嫌だ?」
嫌だと言われるのが怖くて、俯きがちに聞いてみた。前髪の隙間から上目でちらり、山内くんを見ると、彼は左右にぶんぶんと首を振っていた。
「い、嫌じゃないっ!」
廊下まで響き渡るような大声でそう言われ、全身がむず痒くなる。
山内くんが好き、大好き。
それを実感して、なんだか涙が出そうになった。
「根本も行くよなっ?」
急に意欲的になった山内くんに肩を組まれ、根本くんが「うーん」と唸る。
「べつにいいけど、そんな高くないプランでよろしくな」
「わかってるって。東京駅出ちゃえば銚子なんて二時間くらいだし、宿も安いとこ目星つけてあるから」
「じゃあオッケ」
そう根本くんが頷けば、決まる予定。みっちゃんがこそっと投げてきたウインクには、白い歯を見せて返した。
秋宮くんのお墓参りに行きたい。
数週間前、みっちゃんへそう告げた時、彼女はわたしを抱きしめて喜んだ。
「本当に!?胡都からそんな台詞聞けるなんて、まじで夢みたいっ!」
ぎゅうっとみっちゃんの腕に包まれて、わたしもそれに応えるよう、彼女の背中に手を回す。
「二年二組のみんなが行った時、わたしだけ行けなくてごめんね」
「そんなのいいんだよ!仕方ないよ!」
「その時は行く勇気がなかったの。でも今ならちゃんと、秋宮くんに手を合わせられる気がする」
秋宮くんのお通夜もお葬式も、そしてクラスの皆で計画したお墓参りさえも、わたしは一切顔を出さなかった。
彼を殺してしまったわたしにそんな資格はないと、そう思っていたけれど、山内くんがその考え方を変えてくれた。
わたしのせいではないと、今まで何度も訴えかけてくれたみっちゃん。しかしそれにわたしが同意できずにいたのは、きっともうすでに、自分で自分に手錠をかけていたからだ。だからいくら彼女が弁護してくれても、その罪は消せなかった。でも。
宝石のように笑える胡都なんかに、誰も殺せないって!俺が保証する!
山内くんは、その手錠を解く鍵を持っていた。その現場にいなかった、わたしの過去の全部を知らない山内くんだからこそ所持していたその鍵。同情でも何でもない彼の莫大な信頼が、わたしに自信を持たせてくれた。
秋宮くんが死んでしまったのは、たまたまだった。
百パーセントそう思えた、わけではない。けれど少しずつ前に進みたい。そしてその時は、隣に大切な人がいてほしい。
だから今回、みっちゃんにお願いして山内くんを誘ってもらった。千葉県銚子市にある秋宮くんのお墓。わたしたちが住む東京の街からは、電車を乗り継げば数時間ほどで着く場所。
自ら秋宮くんの元へ行くのは、彼が生きていた頃を含めても、初めてのことだった。
「男子たちおっそーい!」
旅行当日。東京駅のメイン改札で待ち合わせしたわたしたち。数分遅れてやって来た山内くんと根本くんには、みっちゃんが焦れていた。
「三十四分発の電車乗らないと、あっち着く時間一時間も変わっちゃうっ」
足早に改札を抜け、飛び乗る電車。ふたりずつ向き合って座れる四人席を確保すると、根本くんがリュックから、トランプを取り出した。
「ダウトやろ、ダウト」
ダウトとは、一から順番通りの数字を手札から出していくゲームだ。カードを裏返しに置いていき、相手のカードが口にした数字と異なると思ったら、周りがダウトと言うゲーム。
「ダウトって言われたやつのカードが間違った数字だったら、そいつはカードの山を全てもらわなくちゃいけないからなー。もしそいつのカードが合っていたら、ダウトって言った人間が山をもらう。先に手札をなくしたやつの勝ちね」
簡単なルール説明をしながら、手際よくカードを配っていく根本くん。配り終わり、各々自分の手札をチェックする。わたしは数字にバラつきのない手元のカードに早速青ざめたが、真正面に座る山内くんは顔色ひとつ変えずに、自身の手元を眺めていた。
ジャンケンをし、わたしから始まるゲーム。
「いち」
「ダウト」
素知らぬ顔でカードを置いたのに、目の前から即刻疑われる。
「え、なんで」
「だって俺、エース四枚持ってるもん」
ぴらっとその四枚を見せて、にかっと笑う山内くん。わたしはつい今しがたテーブルに置いたカードを、渋々手元に戻した。次は山内くんの番。
「いち」
「に」
「さん」
根本くん、みっちゃんと泰然としたふたりもカードを置けば、すぐさまふりだしに戻るターン。
「よん」
「ダウト」
「え」
にやにやと、どこか嬉しそうな山内くんを前にぶうっとむくれ、計四枚のカードを手元に運んでいると、彼がぽそっと呟いた。
「胡都の嘘には俺、敏感だから」
しかしそれからわたしのみに限らず、すぐ「ダウト」と言ってしまう山内くんには、根本くんから注意が入った。
「カードの山が高くなってから終盤で誰かが一気にもらうのが面白いゲームなんだから、少し黙れ」
と。みっちゃんはそれを見て、「まじ山内ウケる」と笑っていた。