人の名前を覚えなくても、意外と生きていけるのだということを知ったのはいつの頃だったか。

「春海ー、悪いんだけど、課題見せてくんない?」

 毎週毎週僕に課題を見せてくるようせびってくるのは、茶髪君。
 髪を染めることは校則で禁止されてはいないけれど、彼ほど明るく染めている子は珍しい。
 全校集会で整列しても、一人だけひと際頭が明るくて、よく目立っている。

「いいよ」
「サンキュー! いつもありがとなー。今度なんか奢るからさー」
「気にしないで。何か減るわけじゃないし」

 茶髪の彼は嬉しそうに自分の席に戻っていく。
 周囲には彼の友達が数人いて、「お前またかよー」「高三でそれはやべーって」と笑い声交じりに非難されている。その中の一人が、

「春海ー。嫌だったら嫌って言っていいんだからなー」

 と声をかけてくれたけれど、僕はわずかに口角を上げて右手を振った。
 教室の端で歓声が上がったので、僕は視線をそちらに向けた。
 女子生徒が五人ほど集まっていた。特に意味もなく大きな声を出すのが彼女たちの習性なので、なにか特別なことがあったのかと思ったわけではない。
 けれど、彼女たちの中には古閑さんがいた。
 思えば、僕がクラスメイトをちゃんと認識したのはずいぶん久しぶりのことかもしれない。彼女はグループの輪の中にいて、楽しそうにケラケラと笑っていた。
 声が塊となって、耳に届く。

「だからさー、翠もそろそろ彼氏作りなって」
「やー、私はいいよ。まだなんかよく分かんないっていうか」
「誰だって最初はそうだって!」「つーかさー、翠って誰に告られてもオッケーしないじゃん? 理想高すぎなんじゃないのー?」
「そういうんじゃないって」
「まあ、狙いが被らないのはありがたいけどさあ。もしかしてあれ? B専?」
「あはは、それはないよ」
「じゃあさじゃあさ! 今度また合コン組むから、その時は彼氏作ろ! イケメンから微妙なのまで、色々そろえておくからさあ」
「もう、微妙なのって……相手に失礼すぎでしょ」
「おっと、失言失言」

 あの会話は、楽しいのだろうか? 僕にはよく分からない。
 ふと、彼女の右手がカーディガンのポケットの中で何かを触っていることに気が付いた。
 人差し指と親指でつまみ、振り、時には手のひらで包んで回転させたりして、弄んでいる。
 他の誰もが気づかないだろうけれど、僕には分かった。
 彼女のポケットに入っているのは――僕の薬だ。
 思わず僕も、右手をポケットの中に入れる。
 瞬間、奇妙な連帯感を覚えた。
 僕は彼女をいつでも殺せて、彼女は僕をいつでも殺せる。
 互いの命を握り合いながら、僕たちはさも普通の高校生のような顔をして、クラスの中に紛れ込んでいるのだ。

「……っ」

 一瞬、古閑さんと目が合った。けれど彼女は、背景の一部でも見たような素振りで、そのまま会話に戻った。
 できるだけ関わりを持ちたくないのだろう。その気持ちは十分に理解できた。
 だから僕は、彼女たちから視線を外そうとして――

「お、珍しいな。春海が女子のこと見てるなんて」

 茶髪君に捕まった。
 がっしと首に腕を回され、否応なしに彼女たちの方に視線を固定される。

「いや、僕は別に……」
「誰だ誰だー? 誰が好みなんだー? やっぱりクラス一可愛いと名高い、白雪ヒナか? でもあいつはやめとけよー、性格きっついから」

 あの中の誰が白雪という人なのかも分からない僕は、「へえ」と返すしかなかった。そんな僕の反応を見て、茶髪君は「違うのか」と話を続ける。
 どうやら写し終わった課題を返しにきてくれたようだ。
 それならそれで早いところ自分の席に戻って欲しかった。

「となると残るは……大人な魅力を醸し出す、駒木りり子か? それとも逆に小さくって高校生には見えないと評判の高寺千里か? あとは――」

 出てくる名前の誰もピンと来なかったし、五分後には忘れている自信もあった。
 けれど。

「なるほど、さてはお前、古閑翠狙いだな?」

 彼女の名前が出た瞬間、ほんの少し体が動いてしまった。
 それを敏感に感じ取ったのか、茶髪君は嬉しそうに笑ってばっしばっしと僕の背中を叩いた。

「あっはは! いいじゃんいいじゃん! なんだよー、春海も意外とすけべなんじゃん!」
「なんですけべ?」
「だってあいつ、おっぱいでかいじゃん」
「……へえ」

 まったく気づかなかった。
 というか、古閑さんの魅力がそれに集約されてるというのは、いかがなものだろうか。
 彼女の魅力は、やはりあの黒髪だろう。
 遠目に見ても分かる。彼女の髪は、女子の中に紛れていても、ひと際きれいだ。
 そんな僕の考えなど露知らず、茶髪君は嬉しそうに体をゆする。

「そうかそうかー春海がねー。それならそうと早めに俺に相談してくれればいいのによー」
「あのさ、なんか勘違いしてるみたいだけど、僕は――」

 その時、よく通る声が僕と茶髪君の体を貫いた。

「ちょっとそこ! 全部聞こえてんだからね!」
「やっべ、ヒナに聞こえてた! 退散退散っと」

 雑然としていた教室の中でも、茶髪君の声はよく聞こえていたようで、古閑さんを含む女子グループが、僕たちを見てくすくすと笑っていた。
「やだあ」「男子ってそればっか」という声に混じって、古閑さんの冷ややかな視線が僕を刺す。
 今度は間違いなく彼女と目が合っていて、古閑さんの口がぱくぱくと動いた。
「さ」「い」「て」「ー」
 なんとも言えず、とばっちりを食らった気分だった。