その日の夕方、古閑さんの家に着いて初めにしたことは、部屋のチェックだった。
 玄関のカギは空けておき、カーテンは完全に閉め切って、エアコンの温度はでき得る限り下げた。扇風機も回し、僕たちに当たるようにしたので、少し肌寒いくらいだった。生ごみも捨て、日時が経つと悪臭を放ちそうなものは全て取り除き、そこまで確認してようやく僕たちは、部屋の中で落ち着いて互いに向き合うことができた。

「久しぶり、古閑さん」
「久しぶり。あと、誕生日おめでとう」
「そちらこそ」

 そう言って僕たちは、小さく微笑んだ。

「春海は、あれから何してた?」
「特に何も。古閑さんは?」
「私も、何も」
「そっか」
「うん」
「……部屋、寒いね」
「ね。でも、これくらいにしないと、腐っちゃうかもしれないでしょ? 夏だし」
「そうだね」
「だから今は……これで我慢してよ」

 そう言って古閑さんは、僕を抱きしめた。
 彼女の柔らかなぬくもりが、肌を通して伝わってくる。

「どう? あったかくなった?」
「うん。悪くない」
「素直にいいって言いなさいよ」
「最高です」
「よろしい」

 僕もそっと、彼女の背中に腕を回した。
 古閑さんは少し身じろぎしたけれど、何も言わなかった。
 絹糸のような黒髪に顔を埋める。

「……うまくいったら、あったかいもの食べたいな」
「夏なのに?」
「鍋のことしか考えられない」
「ばあか。エアコンの温度上げたら、すぐ冷たいもの食べたくなるって。そうめんとか」
「今その名前出さないで、震えそう」
「貧弱だなあ。あー、もうご飯の話しないでよ。私、今朝から何も食べてなくて、お腹空いてんだから」
「準備いいね」
「あんた、まさか食べたの?」
「たらふく」
「何してんのよ、まったく……」

 対照的だな、と。僕はこっそり笑った。
 これが今の僕たちだ。
 明日には、同じになっていればいいのに。
 僕はそっと体を離し、ポケットに手を入れた。

「じゃあ、始めようか」

 そして黒い遮光性のプラスチックケースを取り出し、開ける。
 青色の薬が手の中に落ちた。

「うん。そうだね」

 彼女も僕と同じ様に、滑らかな手のひらに青い薬を出した。
 僕たちが取り出した薬は、薄暗い部屋の中、カーテンの隙間から零れ落ちた漁火のような夕焼けを受けて、それでもなお青くあり続けた。
 古閑さんの指がそわそわと膝を撫でているのを見て、僕は問う。

「緊張してる?」
「まさか。あんたの変態チックな発想に、改めてびっくりしてるだけ」
「でも、いいよって言ってくれたじゃん」
「そ、それはまあ……嫌ではなかったし……」

 最後の言葉はもごもごと口の中で動き回って、僕の耳にはほとんど届かなかった。

「受け入れてくれたってことは、古閑さんも僕と同じってことでしょ?」
「なんでそうなんのよ。私の心が広いの。あんたの変態性を、大らかな心で受け入れてあげてんの」
「分かった分かった、それでいいよ」
「あんたねえ……旅行終わったあたりから、ちょっと生意気じゃない?」
「そうかな?」
「そうよ」
「心境の変化があったからかな」

 僕はそう言って、ディープブルーを口にくわえた。
 古閑さんの首の後ろに手を回し、引き寄せる。

「ちょ、ちょっと待って……」

 あわてて古閑さんも口にくわえて、僕の顔を引き寄せた。
 互いの鼻が触れ合うほどの距離。
 その距離で。
 僕はディープブルーを舌の上にのせて。
 彼女もそれと、同じようにして。
 僕たちは、初めてのキスをした。