誕生日の朝は、するりと、滑るようにやってきた。
 あの日僕たちは、浜辺と駐車場で一夜を明かし、行きと同じ経路を経て戻ってきた。
 別れ際、古閑さんと僕は、誕生日の一週間後までは会わないことを約束した。古閑さんも僕も、互いに納得した上での決断だった。
 あれから、数週間が飛ぶように過ぎた。
 夏休みももう残りわずかだというのに、相変わらず外はうだるような暑さだ。
 カーテンの向こうで凶悪に照り付ける太陽と、ジキジキジイと鳴くアブラゼミの声に一瞬目をやって、部屋を出る。
 リビングに降りると、珍しく母親がソファに座っていた。
 この時間に彼女が起きているのは、あまりないことだった。
 何か予定でもあるのだろうか。
 特に興味もないが、ひとまず「おはよう」と挨拶だけして、冷蔵庫に向かう。
 その時。
 ふと、テーブルの上に置かれた通帳が目に入った。
『流へ』と書かれた付箋が貼られている。
 なんだろうと思って、通帳を開く。
 そこに記されていた金額に、震えた。

「ねえ」

 思わず、声をかけた。

「なに、これ」

 視線をこちらに寄こさないまま、独り言のように、彼女はつぶやく。

「高校卒業したら、家を出るって言ってたでしょ。そのための資金よ」
「なん、で……」

 そんなこと覚えてるんだよ。
 確かに、いつだったか僕はそう言ったけれど。
 だけどあんたは、あんなに興味がなさそうな顔をしていたじゃないか。
 僕の言葉を、その辺に浮かぶ、糸くずみたいに受け取っていたじゃないか。

「なんでって……」

 彼女は小さくため息をついた。

「あなた今日、誕生日でしょ」
「それは……」
「お誕生日おめでとう、流。ずっとずっと……いい母親じゃなくて、ごめんね」

 そう言って彼女は、静かに僕を見つめた。
 久しぶりに見た母親の目は、まるで僕のことを子供だと認識しているような色を灯していて。
 僕は震える声を絞りだした。

「なんで、今更……そんな母親面するんだよ……」

 彼女は。
 寂しそうに笑った。

「……流が怒る気持ちも、分かるよ。仕事が忙しくて、ろくに家にいてあげられなかったし、何より私は……あなたとの距離の取り方が、分からなかったからね」
「なんだよ、距離の取り方って……。ただ、無視してただけじゃないか」

 僕の言葉に、彼女は眉をハの字に下げて、小首を傾げた。

「無視なんてしてないわ。小学生くらいから、あなたが私をさけ始めたんじゃない」
「そんなこと――」

 ない、と言おうとして。
 ある記憶が脳裏を過った。
 自分の名前の由来を調べてきてください。
 あの時僕は、両親に聞かず、自分で勝手に名前を調べて、自分が望まれず生まれた子なのだと、確信を抱いたけれど。
 もし、僕の心境に、あれから変化が起こっていて。
 彼女がそれに気づいていたのだとすれば――

「反抗期ってやつなのかな。男の子だし、そういうのもあるとは思ってたけど……。男親がいないと苦労するっていうのは、本当なのね」
「……どういうことだよ」
「どうって……そのまんまの意味よ」

 彼女は言う。

「あなたが生まれた時には、離婚してたんだから」
「…………ぁ」

 思えば。
 こんなにも長い間、父親の姿を見ていないということに、違和感を抱くべきだった。
 そもそも、春海家に父親が存在しないという可能性に、思い至るべきだった。
 だけどそう、思えなかったのは。
 頑なに、信じなかったのは。
 ただ僕が、自分を――

「……あなたはもう大人になった。私は何もしてあげられなかったし、今更、母親面をしようとも思わない。だからね、流。せめてあなたは――」


「あなたは、自由に生きて」


 その言葉に。
 僕は。
 痺れるような衝撃を受けた。

「あの、さ……」
「なに?」
「一つ、聞いてもいいかな」
「ええ、もちろん」
「僕は……僕の、名前は……」

 飲み込んだ唾が、喉に引っ掛かりながら、落ちていく。

「どういう意味をこめて、付けたの」
「ふふ……今更なに? そんなの、決まってるじゃない」

 彼女は、静かに笑った。


「川のせせらぎのように、自由であって欲しい。そんな願いをこめたのよ」


 刹那。
 僕の脳裏を、さまざまな光景が駆け抜けた。
 定期的に机の上に置かれていた数枚の千円札。そこにくっついていた付箋を僕は無造作に捨てていたけれど。何か書いてないか、確認したことはあっただろうか?
 冷蔵庫の中にたまに入っていた、僕が作ったものではない料理。あれが自分用ではないと思ったのは、一体どうしてだったのだろうか?
 高校卒業後は家を出て働くと言った時、彼女の顔に浮かんでいた感情は、果たして本当に無関心だっただろうか?
 彼女が毎日毎日、家にほとんどいなかったのは、身を粉にして働いて、女手一つで僕を育てるために、必死で稼いでくれていたからではないだろうか?
 父親とは離婚していて、既にいなかったことを知らなかったみたいに。
 自分の名前の由来を勝手に想像して、両親に期待を抱かなかったみたいに。
 僕は、見ていなかった。
 見ようとしていなかった。
 だって、怖かったんだ。
 現実を直視して、確認して、自分が愛されていないという事実を突きつけられた時、それに耐えられる自信がなくて。
 だから自分は望まれた子供ではないのだと、勝手に悲観して、勝手に妄想して、そうやって鼻から期待などしていないと心に分厚い壁を敷くことで、弱くて脆い心を守っていたんだ。
 ソファに座り、目をつぶる。
 古閑さんと見上げた夜空を思い出した。
 あの日見た空に、細かい星屑が無数に散らばっていたように。
 都会では、ネオンの明かりや排気ガスのせいで、瞬く星を見ることはできないように。
 真実を、僕という灰色の霞が覆い隠していた。
 本当に僕は……弱い人間だ。

「ねえ……母さん」

 恐る恐る、声をかける。
 僕の視線は自分の膝を捉えるばかりで、母さんの顔は一向に視界に入らない。

「もう一度……名前で呼んでくれないかな」

 身勝手な願いだと、分かってはいた。
 だけどどうしても、呼んでもらいたかった。
 しばらくして、くすぐるような笑い声が聞こえて、

「お誕生日おめでとう、流」

 僕は右手の甲に顔をこすりつけた。
 ごめん。
 ごめんね、母さん。
 いい母親じゃなくてごめんと、あなたは言ったけど。
 僕だって同じくらい……いや、それ以上に、いい息子じゃなかったはずだ。
 それに気付けなくてごめん。
 ずっと不貞腐れていてごめん。
 そして何より。
 あなたを悲しませるかもしれない選択をして、ごめん。
 本当のことを話せば、きっと母さんは止めるだろう。
 引き留めてくれるだろう。
 僕は弱い人間だ。
 引き留めて欲しいと思う気持ちは、胸の奥底にきっとある。
 だけど。
 それでも。
 それでも、今。
 助けたい人がいるんだ。