夢を見ていた。
 夢だということは、すぐに分かった。
 霧深い森に囲まれた、灰色の湖。その水面の上に、座っていた。
 しばらくすると、雨が降ってきた。
 音もなく、静かに降りしきる雨は、だけど水面を揺らしはしなかった。
 よく雨粒を観察してみると、それは一つ一つが言葉になっていた。

 音楽、食堂、劇場、数学、写真、読書、ドーナッツ、パソコン、コント、ダイエット、川、短パン、空、登山、研究室、ブドウ、マンション、天才、財宝、らせん階段……

 何の脈絡も関連性もない単語たちが、雨となって降りしきる。
 手を伸ばしてそっと掴もうとするのだけれど、言葉の雨は僕の手のひらをすり抜けて、そのまま湖の中に静かに消えていく。
 干渉する術もないので、僕は座ったまま、ぼうっと雨を眺めていた。

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 ふと、一粒の言葉に目が止まった。
 それだけに唯一、色が付いていた。
 目に鮮やかな青色。
 一面灰色の世界を背景に、恐ろしいほどに異質な存在感を放つ――青色。
 
 ディープブルー

 その一滴は、他の言葉と同じように、静かに静かに舞い降りて。
 そしてそのまま湖面に消えた。
 僕はまた空を仰ぐ。無数の言葉の雨が降り注ぐ。
 色が付いている言葉は、他にはなさそうだった。

「ほんと、つまんないことしてるね」

 声がした。
 いつの間にか目の前に、古閑さんが立っていた。
 後ろ手に両手を組んで、僕を見下ろしている。
 風もないのに、静かに髪が波打っていた。
 黒よりも黒い髪。キープレートのインクでは到底表せないような、深みのある――黒。
 僕は言う。

「仕方ないんだ」
「なんで?」
「僕にはどうしようもない」
「ふうん」

 彼女はつまらなそうに相槌を打って、辺りを見渡した。
 そうして、二歩、三歩と歩く。
 驚いたことに、彼女が歩くと、湖面に波紋が生まれた。
 円形の波が僕の座っている水面を、ゆらゆらと揺らした。
 僕はあわてて立ち上がる。
 すぐ目の前に彼女の顔があった。
 あわてふためく僕を楽しむかのようにじっくりと眺め、そして不敵に笑う。

「ぶっ壊してあげる」

 湖が荒れる。
 吸い込まれた言葉たちが、サメに追われた小魚のように、わらわらと浮き出してくる。

「ちょっと古閑さん、何を……」 
「こんな、風に――」


「起ーきーろっ」


 後頭部に軽い衝撃が走って、僕は目を覚ました。
 アブラゼミのジキジキジイという鳴き声が、バスの中まで聞こえるくらいに、響き渡っている。じっとりと首筋に浮いた汗をハンカチでぬぐっていると、隣にいた古閑さんが、唇を尖らせて言った。

「よくお眠りで」
「……おはよう」
「もうすぐ着くってさ」
「ありがとう。寝過ごすとこだった」
「どっちにしろ、終点らしいけどね」

 程なくして、バスは緩やかに停車した。
 僕たちはお礼を言って、バスから降りる。他に下車した人間はいなかった。

「帰りのバスは……十六時がラストか。それまでに戻ってくれば、大丈夫そう」

 バス停の時刻表を確認した古閑さんが言う。四時間ほど、自由時間が取れそうだった。
 観光目的は藻引岬だけだし、十分に余裕があるだろう。

「それじゃ、行こっか」
「うん」

 一つ、潮風が強く吹いた。
 真夏の空気をかき混ぜるべた付いた風は、驚くほどに海の香りがする。
 見渡す限りの大海原と、そこに挑むようにせり出した切り立った崖。
 白波を泡立てる青い海に、なぜか僕は、ポケットの中にある小さな薬を髣髴とした。