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 家に帰ると、母親が玄関で寝ていた。
 アルコールと油が凝り固まったような、つんとする臭いに、僕は顔をしかめた。どうやら、外で飲んできたらしい。

「……みず」

 かすれた声で、うわ言のようにつぶやいた。見れば、手に持ったミネラルウォーターのペットボトルは空っぽだった。どうにか自分でアルコールを中和しようと、試みはしたようだ。
 しょうがないなとスクールバッグを下ろし、キッチンで水を汲んだ。

「ほら、持ってきたよ」

 一向に目を開けようとしないので、手を持ち上げて、コップを握らせる。そして、ゆっくりと口元に持っていく。半分以上が顎を伝って胸元にこぼれた。
 ダメだな……これは。
 コップを回収しようとして、母親の手に触れた。細い指は、堅く、骨ばっていた。まるで骨の上に直接皮を貼り付けたようだった。
 暗がりの中、母親の横顔を見る。正しい年齢は知らないけれど、まだ若い、と思う。
 自分を産んだとき、彼女は一体いくつだったのだろうかとふと考え……どうでもいいかとすぐに思考を放棄した。
 何歩か先に歳を取ってしまったような寂しい手からコップを取り、床に置く。
 そのまま母親の脇に腕を通して、体を起こした。
 軽い。
 想定していたよりもすんなりと持ち上がってしまい、あやうくバランスを崩しそうになる。
 体勢を整えて、廊下を進む。少し歩くと、耳元で唸り声がした。

「……りゅう?」
「……」

 思えば。
 思えば、自分の名前が呼ばれるのは、随分と久しぶりのことだった。

「そうだよ」
「……あんた、大きくなったわねえ」

 夢の中にいるような状態なのだろう。きっと明日になれば、この会話だって覚えていないに違いない。僕は適当に相槌を打つ。

「もうすぐ十八だからね」
「知ってるわよ……それくらい……」

 どっちだよ。
 酔っ払いの戯言ほど、聞いていて無意味なものはない。
 扉を開き、電気をつける。
 悲惨な有り様だった。服は脱ぎっぱなし、下着は散乱、机の上には何かの本と資料の束が山積みになって、一部はなだれ落ちている。
 物が散らばった床を慎重に進みながら、ベッドに母親を横たえた。ベッドの上だけは何も物が置いていなくて、ここが彼女の生活空間なのだと言うことが見て取れる。
 スーツはしわになると取れにくいらしいので、仕方なく母親の上着を脱がせにかかる。

「りゅうー……」
「なに」

 ぐったりと力の抜けた人間を脱がすのは、意外と手間がかかる。片手で固定したり、体をつかったりしながら、なんとかして上着を剥いだ。

「学校は、たのしい?」

 なんだよ、その質問。思わず苦笑いがこぼれた。
 まるで小学生に聞くようなセリフじゃないか。もう後一年もせずに、高校だって卒業するっていうのに。彼女の中にいる僕は、それくらいで成長が止まっているのかもしれない。

「別に、普通かな」
「なによそれ……」

 ごろん、と転がった。シャツが見るも無残なしわを作っている。やっぱり上着は脱がせておいて正解だったなと思った。

「そんなつまんない言い方、しないでよ……」

 床に散らばった酒の空き缶を回収していた僕は、思わず手を止めた。

 
『つまんないやつ』


 さっき、耳元でささやかれた言葉と重なって、僕は自然と口角が上がるのを感じた。
 そうだな、僕はつまらないやつだ。
 とてもとても、つまらない人間だ。
 だけど。

「いいみたいだよ、それで」

 持てるだけの空き缶を回収して、僕は母親の部屋を後にした。
 電気を消すと、ベッドの上に横たわった母親の姿は、暗闇に飲まれて消えた。