深夜一二時──。

 真夜中の月光に照らされたプールから上がった少女はこちらに顔を向ける。
 胸下辺りまで伸ばされた痛みのない髪は、一瞬で目を引く水晶に近いアクアマリン色をしている。今は水で濡れて靡くことはないが、とてもサラサラしていそうで、風に弄ばれてしまいそうだ。
 アクアマリン色の瞳が妖精の涙のようで、この世の悪を知らないように純粋で美しい。地上の世界を知った者がその瞳に見つめられると、否応なしに心が締め付けられ、視線を外すことができなくなってしまうだろう。傷一つないきめ細やかな肌は雪のように白い。
 今にも消えてしまいそうなほどに儚い姿は、まるで絵本などにでてくる妖精のようだ。とても神秘的かつ幻想的な印象を与える少女は、この世の者とは思えないほどに美しかった。



「ぁ、えっと……」
 僕は上手く言葉を紡げず、視線を右往左往にさ迷わせることしかできない。
 少女はパクパクと口元を動かす。何かを言っているようだが聞き取れない。否、音が一音も聞こえてこないのだ。
「君、もしかして……ッ」
 声が出ないの? と言う言葉を慌てて吞み込んだ。出会って間もないのにそんなことを問いかけるのは失礼だと感じたからだ。
 少女は悲しそうに目を細め、微苦笑を浮かべる。刹那、少女は膝から崩れ落ちた。


「えッ⁉」
 何事かと、僕は慌てて少女に駆け寄り膝を折る。
「だ、だいじょ……ッ」
「触らないでちょうだい!」
 僕の言葉を掻き消すかのように、凛とした声が響く。その声はどこか大人びすぎていて、とても少女から零れ落ちた音とは思えない。
 両膝をついて項垂れる少女の様子を伺おうと、少女の肩に触れようと手をほんの少し伸ばしかけていた僕は、慌てて右手を胸の前に当てる。
「その子に触らないでちょうだい。それ以上近づかないで!」
 切羽つまった悲鳴にも似た音が飛び出してくる方向に視線を向ける。
 ショートパンツとなっているドレスにはウエストにビジューがついており、前だけ素肌をさらす形でまとわる太股丈のシースルー生地が足首まで伸びている。スラリと伸びた綺麗な足には、白とビジューを基調としたハイブランドのサンダル。
 日本では見たことのないドレスを着こなす女性は、ウェーブがかかったナチュラルなワンレンロングの髪を靡かせてこちらに駆け寄ってくる。
 遠目からでは分からなかった顔が月光と淡いライトで露わになる。スゥと通った鼻筋。知的かつエレガントな雰囲気漂う目元。ふっくらした唇には品よくグロスが塗られている。綺麗に手入れされている肌は吹き出物の一つもなく艶々だ。
 細めの直線眉だが眉山に少し角度があるため、意志が強く凛とした印象を与えている四十代後半程と思しき女性は、こちらを睨み据えてくる。一体僕が何をしたというのだ。


美月(みつき)。一人で家から出ちゃダメじゃない。真夜中のマンション内と言っても危険よ」
 女性は僕にかまっている暇はなかったとでもいうように、シースルーの生地が地面につかないように手で持ちながら、少女の前で片膝を折る。
《ご・め・ん・な・さ・い》
 美月と呼ばれた美少女はパクパクと口を動かす。僕には何を言っているのか理解できないが、女性には理解できるようだ。
「貴方が無事ならそれでいいのよ」
 少女を安心させるような穏やかで優しい笑みを浮かべた女性は、勢いよく僕を睨み据えてくる。
 僕はその女性に怖気付き、思わず半歩後ろに下がって身構えた。

「君、この子に何かした?」
「な、何もしていませんッ。プールに来てみたらその方が泳いでいて……プールからでた彼女が膝から崩れ落ちたんです。心配になって駆け寄ったら貴方が現れて――」
 僕は慌てて答える。変な言いがかりも誤解もごめんだ。瞬時に手を引いた自分の瞬発力を褒めてやりたい。
「そう。この子に指一本でも触れてなければいいのよ」
「指一本どころか、髪の毛一本さえ触れていません」
「そう」
 どこか安堵したように小さく息を吐くように頷く女性は、「君、名前は?」と問うてくる。
「相手の名前を知りたければ、まずは自分からが礼儀だと思うのですが」
 女性はその言葉に刹那目を見開いたかと思うと、口端を少し上げた。
「面倒な少年ね。女性のプライバシーを守ってはくれないのかしら?」
「僕は少年じゃありません。もう二十歳なので立派な大人です。それと、女性のプライバシーは守られて、男性のプライバシーは守られなくて良いと? そんなの、フェアじゃなくないですか?」
 僕は少しムッとしながら答える。
「二十歳なんてまだまだ子供じゃない。男女関係にフェアを求めるのがいい証拠だわ」
 女性はそう言って首を竦めて見せる。
「どういうことですか?」
「そのままの意味よ。まぁ、いいわ。私の名前は、中条優香里よ。で、君の名前は?」
「白崎優太ですけど」
 さらに子ども扱いをされた気分になり、つい不服気な声で返答してしまう。……やはり、子供なのだろうか?


「それで、君はここの住人なのかしら?」
 人に名前を聞いておいて貴方呼ばわりする中条さんに、「いえ。住人は僕の兄で、今日はたまたま遊びにきていただけです」と、僕は馬鹿正直に答えてしまう。
「そう……。そうよね」
 女性は僕の履いている靴やつけている腕時計を確認すると、納得したように頷いて見せる。一般大学生の僕が高級品を身につけられる可能性はあれど、ここに住める可能性はあまりに低い。
 地上三十三階の地下一階。東京都江戸東区有明にある高級タワーマンション。
 今いるプールはもちろん、ジムにスパ施設といった共有施設がリゾートのように集約されている。とても一般大学生が住めるところではない。
 女性は僕の身なりと年齢で確信したのだろう。兄がよく言っていた。どんなに安物の服を着ている者でも、豊かな者達は、靴と腕時計は上質なモノを身につけていると。そして、身につけた豊かさが心の豊かさと比例していないこともあると。
「僕がここの住人だったら困るんですか?」
「この子に出会ったことは忘れて。今この子はココにいなかった。いいわね? この子のことは誰にも、お兄さんにも口外しないでちょうだい」
「え?」
 僕の質問を見事にスルーする中条さんは、今起きた出来事をなかったことにしようとする。意味が分からない。
 美月さんは中条さんに口をパクパクと上下をさせて何か言っているようだが、一音も聞こえない。やはり美月さんは声を失っていたのだ。
「美月どうしたの? そんなに早く話したら読み解けないわ」
 中条さんは美月さんの口元を見つめながら言った。
 読唇術でも心得ているのだろうか? そもそも中条さんは美月さんのなんなのだろう? 母親とは違うように思える。
 二人から醸し出される雰囲気からして、深い関係性であることは見受けられる。だが、二人の見目や雰囲気はどこも似ていない。かと言って、親戚や友人とも違うように思えた。
 美月さんは傷一つないスラリと伸びた綺麗な指を空中で動かし始める。
 右手の親指以外を直角に曲げ、親指を人差し指の第三関節の付け根に重ねる。
 例えるなら、よく小説のセリフ時に使われているかぎかっこの『「』の形に似ていた。
 その次に右手人差し指で空中に[ノ]の形を描いた後、人差し指を立てて見せる。
 ノ一――くノ一? いやいや、明らかにこの場には似つかわしくない単語だ。そもそも、最初の『「』が何を意味しているのか全く分からない。空中でただ文字を書いているわけではなさそうだ。


「……手話?」
 僕の口から疑問交じりの言葉が零れる。
「君、この子の言っていることが分かるの?」
 中条さんは驚いたように僕へ意識を向けた。
「いえ。ただ筆談と読唇術以外でコミュニケーションを図るとしたら……と考えただけです」
「そう」
 中条さんはどこか安堵したように小さく息を吐くと、美月さんに意識を戻す。
「美月、話は後で聞くわ。今は部屋へ戻りましょう。風邪を引いてしまっては大変よ」
 中条さんはそう言って、視線を一度プール施設の出入り口のガラス扉に向けた。
 美月さんも一度、中条さんと同じ方角を向いた後、小さく頷く。
「美月、立てそう?」
 中条さんは美月さんに心配そうに問いながら、自身はスッと立ち上がり、手を差し伸べようとはしない。
「ど、どうして……」
 中条さんは僕の呟きに反応するかのように、肩越しに振り向く。
「どうして手を差し伸べようとしないんですか?」
「……私だって、手を貸せるものならそうしてあげたいわよ」
 中条さんはどこかやるせなさを抱えるように呟き、乾いた笑みを浮かべる。
「ぁ、美月!」
 ふらふら立ち上がった美月さんに手を差し伸べようとする中条さんだが、慌てて手を引っ込める。どうしてそこまでして触れようとしないのだろうか?
「歩ける?」
 中条さんの問いかけに、美月さんは小さく頷き、覚束ない足取りで歩き出した。
「優太君だったわね?」
 心配そうに美月さんの背中を見守っていた中条さんは身体全体でこちらへ振り向き、冷静な口調で問う。
「はい」
 僕は控えめに頷き、中条さんと向き合う。


「兎にも角にも、今日見たことは誰にも言わないでちょうだい。あの子の存在を君の記憶から消して。君はあの子に出会っていない。いいわね?」
 腕を組んだ中条さんは釘を刺すようにそう言いながら、意志の強い瞳で気高く僕を睨み据えてくる。とてもじゃないが、首を横に振れる空気ではない。だが、僕は簡単に従いたくなかった。



 僕はもう彼女と出会ってしまったから。

 彼女の存在を知ってしまったから。


 彼女のことをもっと知りたいと思ってしまったから。

 また会いたいと思ってしまったから。


 だから僕は首を縦には振れない。かと言って、横に振ることも出来ない。そんな僕に中条さんは憎たらし気に溜息を吐く。

 

「否定も肯定もしたくないようね。この場面において何も反応を示さないのは、否定を意味するのよ。でも残念ね。私が二度と君にあの子を会わせない」
 中条さんは凛とした声でそう言い終えると、渋栗色に染められたウェーブがかかった髪を翻し背を向ける。
「あの子のことは忘れることね。夢を見たのだと思いなさい」
 最後の忠告だとでも言うようにそう口にした中条さんは、ヒール音を鳴らしながら美月さんの後を歩く。
 僕はヒール音が感じられなくなるまで、その場で突っ立っていることしかできなかった――。