深夜一二時──。
真夜中の月光に照らされたプールから上がった少女はこちらに顔を向ける。
胸下辺りまで伸ばされた痛みのない髪は、一瞬で目を引く水晶に近いアクアマリン色をしている。今は水で濡れて靡くことはないが、とてもサラサラしていそうで、風に弄ばれてしまいそうだ。
アクアマリン色の瞳が妖精の涙のようで、この世の悪を知らないように純粋で美しい。地上の世界を知った者がその瞳に見つめられると、否応なしに心が締め付けられ、視線を外すことができなくなってしまうだろう。傷一つないきめ細やかな肌は雪のように白い。
今にも消えてしまいそうなほどに儚い姿は、まるで絵本などにでてくる妖精のようだ。とても神秘的かつ幻想的な印象を与える少女は、この世の者とは思えないほどに美しかった。
「ぁ、えっと……」
僕は上手く言葉を紡げず、視線を右往左往にさ迷わせることしかできない。
少女はパクパクと口元を動かす。何かを言っているようだが聞き取れない。否、音が一音も聞こえてこないのだ。
「君、もしかして……ッ」
声が出ないの? と言う言葉を慌てて吞み込んだ。出会って間もないのにそんなことを問いかけるのは失礼だと感じたからだ。
少女は悲しそうに目を細め、微苦笑を浮かべる。刹那、少女は膝から崩れ落ちた。
「えッ⁉」
何事かと、僕は慌てて少女に駆け寄り膝を折る。
「だ、だいじょ……ッ」
「触らないでちょうだい!」
僕の言葉を掻き消すかのように、凛とした声が響く。その声はどこか大人びすぎていて、とても少女から零れ落ちた音とは思えない。
両膝をついて項垂れる少女の様子を伺おうと、少女の肩に触れようと手をほんの少し伸ばしかけていた僕は、慌てて右手を胸の前に当てる。
「その子に触らないでちょうだい。それ以上近づかないで!」
切羽つまった悲鳴にも似た音が飛び出してくる方向に視線を向ける。
ショートパンツとなっているドレスにはウエストにビジューがついており、前だけ素肌をさらす形でまとわる太股丈のシースルー生地が足首まで伸びている。スラリと伸びた綺麗な足には、白とビジューを基調としたハイブランドのサンダル。
日本では見たことのないドレスを着こなす女性は、ウェーブがかかったナチュラルなワンレンロングの髪を靡かせてこちらに駆け寄ってくる。
遠目からでは分からなかった顔が月光と淡いライトで露わになる。スゥと通った鼻筋。知的かつエレガントな雰囲気漂う目元。ふっくらした唇には品よくグロスが塗られている。綺麗に手入れされている肌は吹き出物の一つもなく艶々だ。
細めの直線眉だが眉山に少し角度があるため、意志が強く凛とした印象を与えている四十代後半程と思しき女性は、こちらを睨み据えてくる。一体僕が何をしたというのだ。
「美月。一人で家から出ちゃダメじゃない。真夜中のマンション内と言っても危険よ」
女性は僕にかまっている暇はなかったとでもいうように、シースルーの生地が地面につかないように手で持ちながら、少女の前で片膝を折る。
《ご・め・ん・な・さ・い》
美月と呼ばれた美少女はパクパクと口を動かす。僕には何を言っているのか理解できないが、女性には理解できるようだ。
「貴方が無事ならそれでいいのよ」
少女を安心させるような穏やかで優しい笑みを浮かべた女性は、勢いよく僕を睨み据えてくる。
僕はその女性に怖気付き、思わず半歩後ろに下がって身構えた。
「君、この子に何かした?」
「な、何もしていませんッ。プールに来てみたらその方が泳いでいて……プールからでた彼女が膝から崩れ落ちたんです。心配になって駆け寄ったら貴方が現れて――」
僕は慌てて答える。変な言いがかりも誤解もごめんだ。瞬時に手を引いた自分の瞬発力を褒めてやりたい。
「そう。この子に指一本でも触れてなければいいのよ」
「指一本どころか、髪の毛一本さえ触れていません」
「そう」
どこか安堵したように小さく息を吐くように頷く女性は、「君、名前は?」と問うてくる。
「相手の名前を知りたければ、まずは自分からが礼儀だと思うのですが」
女性はその言葉に刹那目を見開いたかと思うと、口端を少し上げた。
「面倒な少年ね。女性のプライバシーを守ってはくれないのかしら?」
「僕は少年じゃありません。もう二十歳なので立派な大人です。それと、女性のプライバシーは守られて、男性のプライバシーは守られなくて良いと? そんなの、フェアじゃなくないですか?」
僕は少しムッとしながら答える。
「二十歳なんてまだまだ子供じゃない。男女関係にフェアを求めるのがいい証拠だわ」
女性はそう言って首を竦めて見せる。
「どういうことですか?」
「そのままの意味よ。まぁ、いいわ。私の名前は、中条優香里よ。で、君の名前は?」
「白崎優太ですけど」
さらに子ども扱いをされた気分になり、つい不服気な声で返答してしまう。……やはり、子供なのだろうか?
「それで、君はここの住人なのかしら?」
人に名前を聞いておいて貴方呼ばわりする中条さんに、「いえ。住人は僕の兄で、今日はたまたま遊びにきていただけです」と、僕は馬鹿正直に答えてしまう。
「そう……。そうよね」
女性は僕の履いている靴やつけている腕時計を確認すると、納得したように頷いて見せる。一般大学生の僕が高級品を身につけられる可能性はあれど、ここに住める可能性はあまりに低い。
地上三十三階の地下一階。東京都江戸東区有明にある高級タワーマンション。
今いるプールはもちろん、ジムにスパ施設といった共有施設がリゾートのように集約されている。とても一般大学生が住めるところではない。
女性は僕の身なりと年齢で確信したのだろう。兄がよく言っていた。どんなに安物の服を着ている者でも、豊かな者達は、靴と腕時計は上質なモノを身につけていると。そして、身につけた豊かさが心の豊かさと比例していないこともあると。
「僕がここの住人だったら困るんですか?」
「この子に出会ったことは忘れて。今この子はココにいなかった。いいわね? この子のことは誰にも、お兄さんにも口外しないでちょうだい」
「え?」
僕の質問を見事にスルーする中条さんは、今起きた出来事をなかったことにしようとする。意味が分からない。
美月さんは中条さんに口をパクパクと上下をさせて何か言っているようだが、一音も聞こえない。やはり美月さんは声を失っていたのだ。
「美月どうしたの? そんなに早く話したら読み解けないわ」
中条さんは美月さんの口元を見つめながら言った。
読唇術でも心得ているのだろうか? そもそも中条さんは美月さんのなんなのだろう? 母親とは違うように思える。
二人から醸し出される雰囲気からして、深い関係性であることは見受けられる。だが、二人の見目や雰囲気はどこも似ていない。かと言って、親戚や友人とも違うように思えた。
美月さんは傷一つないスラリと伸びた綺麗な指を空中で動かし始める。
右手の親指以外を直角に曲げ、親指を人差し指の第三関節の付け根に重ねる。
例えるなら、よく小説のセリフ時に使われているかぎかっこの『「』の形に似ていた。
その次に右手人差し指で空中に[ノ]の形を描いた後、人差し指を立てて見せる。
ノ一――くノ一? いやいや、明らかにこの場には似つかわしくない単語だ。そもそも、最初の『「』が何を意味しているのか全く分からない。空中でただ文字を書いているわけではなさそうだ。
「……手話?」
僕の口から疑問交じりの言葉が零れる。
「君、この子の言っていることが分かるの?」
中条さんは驚いたように僕へ意識を向けた。
「いえ。ただ筆談と読唇術以外でコミュニケーションを図るとしたら……と考えただけです」
「そう」
中条さんはどこか安堵したように小さく息を吐くと、美月さんに意識を戻す。
「美月、話は後で聞くわ。今は部屋へ戻りましょう。風邪を引いてしまっては大変よ」
中条さんはそう言って、視線を一度プール施設の出入り口のガラス扉に向けた。
美月さんも一度、中条さんと同じ方角を向いた後、小さく頷く。
「美月、立てそう?」
中条さんは美月さんに心配そうに問いながら、自身はスッと立ち上がり、手を差し伸べようとはしない。
「ど、どうして……」
中条さんは僕の呟きに反応するかのように、肩越しに振り向く。
「どうして手を差し伸べようとしないんですか?」
「……私だって、手を貸せるものならそうしてあげたいわよ」
中条さんはどこかやるせなさを抱えるように呟き、乾いた笑みを浮かべる。
「ぁ、美月!」
ふらふら立ち上がった美月さんに手を差し伸べようとする中条さんだが、慌てて手を引っ込める。どうしてそこまでして触れようとしないのだろうか?
「歩ける?」
中条さんの問いかけに、美月さんは小さく頷き、覚束ない足取りで歩き出した。
「優太君だったわね?」
心配そうに美月さんの背中を見守っていた中条さんは身体全体でこちらへ振り向き、冷静な口調で問う。
「はい」
僕は控えめに頷き、中条さんと向き合う。
「兎にも角にも、今日見たことは誰にも言わないでちょうだい。あの子の存在を君の記憶から消して。君はあの子に出会っていない。いいわね?」
腕を組んだ中条さんは釘を刺すようにそう言いながら、意志の強い瞳で気高く僕を睨み据えてくる。とてもじゃないが、首を横に振れる空気ではない。だが、僕は簡単に従いたくなかった。
僕はもう彼女と出会ってしまったから。
彼女の存在を知ってしまったから。
彼女のことをもっと知りたいと思ってしまったから。
また会いたいと思ってしまったから。
だから僕は首を縦には振れない。かと言って、横に振ることも出来ない。そんな僕に中条さんは憎たらし気に溜息を吐く。
「否定も肯定もしたくないようね。この場面において何も反応を示さないのは、否定を意味するのよ。でも残念ね。私が二度と君にあの子を会わせない」
中条さんは凛とした声でそう言い終えると、渋栗色に染められたウェーブがかかった髪を翻し背を向ける。
「あの子のことは忘れることね。夢を見たのだと思いなさい」
最後の忠告だとでも言うようにそう口にした中条さんは、ヒール音を鳴らしながら美月さんの後を歩く。
僕はヒール音が感じられなくなるまで、その場で突っ立っていることしかできなかった――。
「はぁー」
三〇五号室の部屋に戻ってきた僕は倒れるようにキングサイズのベッドに沈み込む。もちろん、このマンションに住んでいるのは僕ではないし、この部屋も僕の部屋ではない。全て兄さんのものだ。当の家の主は、仕事の真っ最中だろう。兄さんは夜の帳が下り切る前に、歌舞伎町へと舞い降りるのだ。
僕が十四歳の時に両親が天国へと旅立ったあと、六つ年上の兄さんは夜の仕事を始めた。
約半年間は夜の仕事一本で過ごすことが出来ず、自転車で飲食配達のアルバイトを日中にこなしながら生活をしていた。
日を追うごとに痩せていく兄さんが心配で、申し訳なくて、何度学校を辞めて働こうかと思ったことだろう。だが中学生を雇ってくれるお店は見つからず。今流行りの配信者として食べていけるわけもなかった。
世間の厳しさに敗北した僕は高校卒業するまでのあいだ、大人しく兄さんに守られ続けた。だが今の僕は守られるだけしか出来ない子供ではない。
「いつまで続けるつもりなんだろう?」
不健康な兄さんの生活を思うと、そんな言葉が自然と口につく。
防音設備が整っているためか、物音一つ聴こえない。独り言がやけに大きく響く。僕が住んでいる安アパートとは大違いだ。
アルバイトをこなしながら大学で勉強に勤しむ僕と、ハイグレードマンションに住む謎の美少女。兄さんならともかく、この先僕と接点を持つことなどありえるのだろうか?
叶うのなら、もう一度会って話がしてみたい。だけどもし会えたとしても、今の僕ではあの子と挨拶を交わし合うことさえも出来ない。
「やっぱり、忘れた方がいいのかなぁ」
僕の口からポロリと諦めの言葉が零れ、睡魔に負けた神経は夢の中へと旅立った。
†
翌朝。
バタン。カチャ。ゴトン――。
「ん~……ッ」
僕は騒がしい物音で夢から目覚める。
「兄さん?」
眠さの残る目元を指先で擦る僕は、重怠い身体を起こして玄関へと足を向けた。
「なっ!」
思わず声を上げて目を見開いてしまう。
上質なスーツに身を包んだ青年がうつ伏せ状態になって、玄関扉の前で倒れ込んでいたのだから仕方ない。
「兄さん! ちょ、大丈夫なの⁉」
僕は慌てて兄である白崎(しろさき)龍(りゅう)優(ゆう)に駆け寄り、自分よりも体格の大きい青年を仰向けに転がす。
「おぉ! 優太来てたんだ!」
鎖骨まで伸ばされた髪をウルフカットに整わせてゆるくパーマをかけたアンニュイスタイルと、整った顔立ちが破綻するような笑顔を見せる。
「来てたんだ! って、兄さんが掃除しに来てって呼んだんでしょ? 作り置き料理もなくなって死にそう。とかなんとか言って連絡してきたこと忘れたの?」
兄さんから甘えたようなメッセージが来ることは滅多にない。
こういう時は大抵仕事で嫌なことがあったときか、普通の生活が恋しくなった時だ。
「したした~。味噌汁飲みてぇ。シジミとかいいな。ザ・和食! みたいな……さ」
兄さんはそんなことを言いながら、眠りに落ちてしまう。
「せめてベッドまで起きていて欲しかった」
僕は右手で顔を覆って溜息をつく。
一七〇センチで細身の僕に対し、兄さんは一八二センチの長身。
女性のような細身の体型の僕に対し、兄さんは頼りたくなる体格と鍛えた身体を持っていた。そのおかげで、毎回運ぶのには一苦労している。
「よっし!」
僕より二センチ程大きな兄さんの靴を脱がして頭上に立った僕は、幅の広い肩を羨ましく思いながらも、両脇に両腕を差し込む。
「おっも……い」
スーツに皺が出来てしまうことなどお構いなしに、兄さんを寝室までズルズルと引きずっていった。
†
「ふぅ~。はぁ、はぁ、はぁ」
どうにかこうにかキングサイズベッドに爆睡中の兄さんを転がした僕は、犬のように荒い息を繰り返す。
息を整え終えた所で僕は一度、床にしゃがみ込んだ。
「兄さん。僕はもう二十歳になったんだよ」
瞼にかかった兄さんの前髪を払いながら呟く。
一向に起きる気配のない兄さんに僕の言葉は届かない。
兄さんのおかげで中学、高校と無事に卒業できた僕は今、大学費用や自身の生活費を自分で払えるようになった。僕はもうあの頃みたいに、守ってもらうしか出来ない子供じゃない。
僕を立派に育て上げる、という兄さんの目的を果たしたはずだ。
それなのに何故、兄さんは今もこの仕事を続けているのだろう? 夜の世界に染まり切ってしまったのだろうか?
「お水と痛み止め置いとくよ」
穏やかな口調でそう言いながら、冷蔵庫から取ってきたペッドボトルの水と頭痛薬をサイドテーブルに置く。
「ん~……」
兄さんはむにゃむにゃと口を動かすが、何を言っているかさっぱり分からない。まるで睡眠中の赤ん坊のようだ。まぁ、兄さんに天使の可愛さなどはないのだが。
「しじみ、買ってくるね」
と一応書き置きを残し、三〇五号室を後にした。
†
「やっぱり、ここにはないかぁ」
マンション一階のコミュニティーエリア。
二十四時間営業のコンビニに足を運んでみたものの、やはりここには真空パックのしじみは置いてなかった。
「まだ八時過ぎかぁ」
スマホで時間を確認して目線を上げた僕の視界に、今しがた会計を終え、キャップ付きブラック缶コーヒーを手にした中条さんが映る。
「ぁ!」
思わず声を上げた僕の声に反応した中条さんが肩越しに振り向く。
瞬時に会釈をした僕に対し、微笑むことすらない中条さんは無言でコンビニを後にした。まるで、数時間前の出来事はなかったかのように。
「なに、あれ」
少しムッとする僕だが、中条さんを追いかけるような子供じみた真似はせず、近くにあるスーパーへ買い出しに行くことを選んだ。
「ただいまぁ」
僕は小声で帰宅の挨拶を溢す。
お帰り、のかわりに唸り声が響く。
「に、兄さん?」
兄さんに何かあったのかと、僕は靴を脱ぎ散らかして家に上がる。
背もたれの高い灰色のレザーチェアに腰掛けた兄さんは、黒の太いNに似たうねりで支えている黒のガラス天板テーブルに突っ伏していた。
「ちょ、大丈夫?」
「どうしてにぃちゃんを置いていくんだよぉ」
メイクを落としたのか、目の下にクマを見せた兄さんは僕の腰にしがみつく。まるで母親に置いて行かれた子供のように。お客さんが見たらなんて思うだろうか。
「人聞きが悪い。ちゃんと置手紙置いて行ったでしょ? それに、兄さん寝てたじゃん」
「寝てたけど……起きた時に一人って寂しいじゃねーかよ」
顔を上げた兄さんは上目遣いで睨んでくる。その瞳からは灰色のカラーコンタクトは姿を消し、黒に近い焦げ茶色の瞳に僕が映っていた。
鎖骨まで伸ばされた髪は一束にまとめられ、スーツからセットアップのスウェットに着替えている。
完全に源氏名の龍から、白崎(しらさき)龍(りゅう)優(ゆう)に戻っていた。
「いや、一人暮らしだよね? いつも一人で起きているよね?」
僕は呆れ口調でそう言って微苦笑を浮かべる。
「いつもはな。今は優太が来てるのが分かってんだろ。それなのに、起きた時姿がねーのは孤独だぞ」
噓泣きを辞めた兄さんは僕から離れ、煙草を銜える。
すでにコロンとした黒の球体型灰皿には、四本の煙草が刺さっていた。昨晩片付けたばかりだ。僕が家を出て約二時間のうちに、四本も吸ったようだ。
「そうですか。じゃぁ、僕は味噌汁作るから。しじみの味噌汁飲むんでしょ?」
「そうそう」
僕の言葉に対し、拗ねた幼子のようだった兄さんの顔が一気に華やいだ。
「軽く朝食も食べる?」
「ありがとう。でも今は味噌汁だけでいい」
「了解」
僕はライター音を聞きながら、味噌汁を作るためにキッチンへと足を向けた。
このマンションのキッチンは本当にハイテクで使い勝手がいい。
人工大理石トップはオシャレだし掃除がしやすい。蛇口はシングルレバーのハンドシャワー型。僕のアパートは蛇口をひねるタイプで、両手が汚れていたら蛇口も汚れてしまう。三又コンロは調理時間短縮になるし、厨房を彷彿とさせる換気扇は大活躍。
何より羨ましいのは、全自動ディスポーザーがついていることだ。これによって三角コーナーは不要となり、生ごみの匂いに悩まされることもなくなるのだから。
キッチンの他にも、ハイテクなものが色々ある。なおかつトイレやお風呂のバリアフリーなところに優しさを感じる。
まぁ、凄いのは部屋の中だけではないのだが。
マンションには、昨晩訪れたプール以外の施設も充実していた。
ジムはもちろん、エステなどが受けられるセラピールーム。スパ施設にテラス。住民専用のレストラン。まるで、高級ホテル暮らしをしているような暮らしができる夢のような住まいだった。
著名人も多く住んでいるマンションのようで、セキュリティも万全だ。コンシェルジュに兄の弟と主張しても、本人からの伝言を言付かっていなければ、僕は赤の他人とみなされて門前払いされる。
兄さんがここへ引っ越してきたばかりの頃に訪れたことがあるが、兄に話さず来てしまったばっかりに面倒な目にあったことがある。それからというもの、僕は毎週火曜日の夕方に来ることにして、兄さんが火曜日の朝にコンシェルジュに話をつけてくれる手筈となった。
それ以外では、兄さんが呼び出さない限り訪れることはない。
僕には縁遠い世界観のマンション。一般大学生が住めるわけがない。だが美月さんはココに住んでいる。多分契約者であろう中条さんと一緒に住んでいるのだろう。二人はどういった関係性で、どういった世界で生きているのだろうか?
「まぁ、僕には縁遠い世界には変わりないのだろうけどさ」
どこか拗ねるようにごちた僕の耳に、「なんか言ったか?」と兄さんの声が届く。
「なんでもないよ。もうできるから」
兄さんの声で我に返った僕は、頭を二回程左右に振って思考を切り替える。
「お待たせ」
「Thank you always, yuta! Ⅰ love you♡」
兄さんの前に味噌汁をそっと置いた僕に対し、妙に発音が良い英語でお礼を伝えてくる。しかもウィンク付きだ。
「ぇ、酔ってんの?」
「酔ってねーよ。昨日は英語圏のお客様を相手にしてたから、英語で想いを伝えただけだろ」
身の毛をよだたせ一歩後ろに下がる僕を、冗談が通じない奴だなと、落胆したように見る。
「あぁ。お客様って日本人だけじゃないんだ」
僕は納得したように頷きながら兄さんの正面のチェアに浅く座った。
「当たり前だろ。基本はお店の出入りは自由。英語圏のお客も相手にできれば客層も増えるし、俺の強みにもになる」
と言った兄さんは、いただきますと両手を合わせ、味噌汁を一口。
「あぁ~五体六腑に染み渡るわ~」
「ぇ、おじさん?」
「誰がおじさんだッ。まだ二十八だっつーの!」
「ごめんごめん」
僕は勢いよくツッコミを入れてくる兄さんに顔の前で両掌を重ねて謝る。
「軽っぅ。全然心こもってねーしな。……ま、まぁまぁ、俺は優しいから、きんぴらごぼうで許してやるよ」
兄さんはどこか勝気に口元の弧を上げた。
本当に優しい人は自分で優しいと言わないと思うし、謝礼のようなものは求めないと思うが……という言葉は飲み込み、ありがとう。という言葉をだけ溢す。
こうしてじゃれ合えるのも、甘えてもらえるのも、信頼されている証拠だろう。普段仮面を被っている兄さんには僕の前だけでも、素顔でいて欲しいと思う弟心だ。
「ごっそーさん。美味かった」
兄さんは空になったお椀を僕に見せ、シンクに持っていった。その後ろ姿は腹正しいほど絵になる。可笑しい。僕も同じメーカーのセットアップのスウェットを持っているのだが、兄さんのようには着こなせない。
僕も僕なりに努力をしているつもりなのだが……。
大学に入って髪を焦げ茶色に染め上げ、眼鏡からコンタクトに変更させた。
髪型は美容師さんにおすすめされた、軽すぎず重すぎないナチュラルマッシュヘアーした。素髪風な質感をしているが軽くパーマをかけている。スタイリングが苦手だと言ったらこうなった。
切れ長の目元をした兄さんに対し、母親似の僕はビー玉のように丸い目元をしている。二重と涙袋まであるものだから、女子顔負けである。大学でついたあだ名がハムスターだ。
身長は一七三センチの細身で体格が中性的というべきか……なんと言うべきか、一言で言うなら兄さんと正反対なヴィジュアルなのだ。
同じ血を分け合った兄弟のはずなのに、この差は一体なんなんだ⁉
「さっきから視線が痛いんですけど、優太さん?」
戻ってきた兄さんは微苦笑を浮かべ、首を傾げて見せた。
「ぁ、つい」
「ついって何だよ、ついって」
兄さんは僕の返事に呆れ笑いながら先程座っていた席にどかりと座る。長い足を持て余しているようで羨ましい限りである。
「今日泊まっていい?」
「今日と言わず永遠に」
思わぬ返答に対し、僕の頭上で葛根長が鳴き声を上げる。
「んっだよ、その反応は」
「いや、職業病って怖いなぁ……と思いまして」
「職業病じゃなくて、これが本来の俺だ」
「へ、へぇー」
兄さんは呆れ気味の相槌を打つ僕に、「ほんっとノリ悪ぃな」とクスクスと笑う。
「まぁ、いいけど」
席を外した兄さんは寝室に足を向けた。
「?」
寝室でガタゴト音を立てて戻ってきた兄さんは、「好きなだけ泊って行けよ」と言いながら、机の上に部屋のカードキーを置いた。
「これ、予備のカードキー。いつでも出入りしていいから」
「もらっていいの?」
「もちろん。上手い家庭料理も食えるし、可愛い弟に癒されて面白がれて万々歳」
兄さんは明るい声でそう言いながら、綺麗な白い歯を見せて笑う。
「ちょっと気になることを言われた気もするけど、ありがたく受け取らせて頂きます」
手放しで喜べない感もあるが、僕は紺碧色のルームカードキーを受け取った。部屋の鍵までが高級ホテル使用だ。……行ったことないけど。
「じゃぁ、俺はもう少し寝る」
「了解」
僕はまた寝室に戻っていった兄さんを起こさないように、後片付けを済ますのだった。
†
深夜二時――。
「こんばんは、僕」
「ッ⁉」
プールの出入り口扉を開けてすぐ、中条さんの声が響く。
視線を左に向けると、壁に背を預けた中条さんの姿があった。
「僕。じゃありません。ちゃんと名前があります」
「失礼。白崎優太君」
僕は中条さんが名前を覚えていたことに一驚する。
「顔と名前を覚えることが得意なのよ。それに、君は要注意人物だもの」
「忘れていないからですか?」
「そう。忘れていないから。だから、また同じ時間にここへ来たのでしょう?」
カツカツとヒール音を鳴らして僕の正面に立った中条さんは、微笑を浮かべながら小首を傾げる。聞かずとも分かっているだろうに。
「残念だけど、美月はいないわ。忘れなさいと言ったでしょう?」
「存在はない。と仰るわりには“美月さん”という名前が存在するんですね」
中条さんは僕の答えを面白がるように、そっとほくそ笑む。
「もし、美月の存在がいたとして、貴方は美月とどうなりたいの? ただの興味本位でしょ? 美月の容姿に魅了される者は少なくないわ。そもそも、どうコミュニケーションを取るつもり? 昨日の貴方を見る限り、美月の言語を読み取れていないようだったけど」
「それは……ぶ、文通?」
「フフッ。文通って、いつの時代よ」
一瞬目を点にした中条さんは、拳を口元に当ててくすくすと笑う。
「中条さんは毎朝コンビニに訪れているんですか?」
「今日はたまたまよ。それがどうかした?」
「明日また会えませんか?」
「明日は忙しいから無理よ。そもそもあの子と会わせる気はないの」
中条さんは僕の話に興味がない、とでも言うように卵を掴むような形で拳を作り、赤を基調としたネイルを自身の目で楽しむように一八〇度手首を回転させた。
「直近で美月さんと会えなくてもかまいません」
冷めた口調で返された返答に対しい、僕はめげずに次の提案を提示した。
「私をポストか郵便局員にでもするつもり?」
ネイルから僕に視線を移す中条さんの視線は冷たい。
「それは……」
言葉に詰まる僕に余裕のある笑みを浮かべた中条さんは、「気が向いたら、またこの時間この場所に来てあげる」とだけ言い残し、この場を去って行ってしまった。
†
翌朝、十一時。
僕は目覚めから覚醒した兄さんと共に、朝食兼昼食を取っていた。
「優太。昨日は眠れなかったのか?」
「ぇ?」
豆腐とわかめの味噌汁が入ったお椀を口につけていた僕は、思わず手を止める。
「目の下にクマが出来てる。後、少し元気がない。悩みごとでもあるのか?」
「クマはクマとして、どうして元気がないと思うの?」
持っていた食器達を元居た位置に戻し、兄さんに問う。
「時折目が虚ろになる。後、伏し目がちになる回数がいつもよりも多い」
「こ、こわっ!」
恐ろしいほど人のことを良く見ている。探偵の才能でもあるんじゃないか。
「怖いとはなんだ、怖いとは」
「ぁ、つい本音がポロリと」
僕は指先を口元に当てて空笑いを溢しつつ、先程までの席に腰を下ろして兄さんと向き合う。
「本音ポロリしすぎると、いつか痛い目に合うぞ」
「以後、気をつけます」
と指先を机にちょこんと置き、ぺこりと頭を下げる。
「はいよ。で、なんかあったのか?」
「う~ん……。あのさ、英語圏のお客さんも来るって言ってたよね?」
「? あぁ、言ったけど、それがどうした?」
兄さんは話しの意図が見えないとばかりに首を傾げる。
「声が出せないとか、車椅子利用者とかのお客さんもいるの?」
「いるにはいるけど、滅多に来ないな」
「じゃぁさ、声が出せない人にはどう接客するの?」
「俺は筆談か……」
そこで言葉を止めた兄さんは指を動かしだす。
僕に手の甲を見せながら、親指と小指以外の指を、やや丸みを持たせて立てる。
次に掌を見せ、人差し指だけを突き立てたまま、左にスライドさせる。
その次に僕に手の甲を向けると、親指と人差し指だけ上向きに立て、指通しを引っ付けて離す。
その次に、親指と人差し指と中指を横向き立て、左にスライドさせた。
「?」
それらが何を示しているのか分からない僕は小首を傾げる。ただ分かるのは、美月さんが使っていた動作と似たようなものということだけだった。
「一番目が、ゆ。二番目が、び。三番目が、も。四番目が、じ」
「ゆびもじ?」
確認すると兄さんは頷く。
「音を失った人とのコミュニケーション方法は、手話、筆談、指文字、メッセージアプリのデジタル会話、相手の手の平に指で文字を書く。他にもあるのかもしれないが、俺の知る限りこの四つ」
「へぇ~」
僕が感心したように頷いていると、兄さんは数口残っていた味噌汁を飲み切った。
「いつから手話とか覚えたの?」
「三年前」
「ぼ、僕でも出来る? 出来ればすぐにでも習得したいんだけど」
僕は前のめりになって問うてみる。
「出来るかどうかは優太次第。後、すぐに習得できるものなんて余程の才能か、愛がねーと無理。後は切羽詰まったときの火事場の馬鹿力」
「ご、ごもっとも」
淡々とした口調で正論が返ってきて、僕は思わず項垂れる。
「いきなり何? 大学で好きになった人でも出来たか?」
左手で頬杖をつく兄さんの瞳がキラリと光る。まるで、いい獲物を見つけたかのようだ。
「ち、違うよっ。なんか、もし使えたらこの先の未来に役に立つかも知れないじゃん」
即とした返事はどもりが酷く、嘘っぽく聞こえてしまう。
「この先の未来ね……。なら、すぐに習得出来なくてもよくねぇ?」
「た、確かにそうなんだけど……」
ニヤニヤ意地の悪い笑みを向けてくる兄さんに対し、僕は瞬時に良い反論が思いつかず口ごもる。
「まぁいいけどさ。昔使っていた本見繕ってやるから、それ見て勉強でもしてみろよ。今の時代は動画でも見れるし。インプットしやすい世の中になったもんだ」
兄さんは白い歯を見せてニカッと笑うと、僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。いつまで経っても子ども扱いだ。
その後、食事と後片付けを終えた兄さんは外出をし、僕はレターセットで文章を綴った。
いきなり連絡先を書くことはせず、自己紹介だけを綴る。だが、その手紙は誰にも開封されることなく、二日間の時が過ぎた。
†
深夜二時。
三十五階建て高層マンション、プラージュ・零。
僕は本日も三十三階にあるプール施設に訪れていた。
最後に中条さんと会ってから二日間連日、同じ時間ここへ訪れ、四時まで待ってみてはいるものの、中条さんがここへ現れることはなかった。
「今日も来ないのかなぁ。……今日というか、ずっと来ない?」
「君もしつこい子ね」
驚きと呆れが入り混じる声音がプールに響く。
「中条さん!」
「声が大きい。ここの施設、利用時間は二十二時までなのを知らないのかしら?」
大きく響く僕の声を不快そうな顔をした中条さんは、声音に呆れを滲ませる。
「すみません」
しゅんと肩を落として謝る僕に小さく首を竦めて見せる中条さんは、ヒール音を鳴らして近づいてくる。その距離、畳一畳分くらいだろうか?
「連日ここへ来て何がしたかったのかしら?」
「それは……」
左端にイルカのシルエットがあしらわれた封筒を、そっと中条さんに差し出す。
「これを、美月に渡せと?」
「許されるのであれば。なんでしたら、中身をチェックしてもらっても構いません。封を開けやすいように、シールを一つだけしかつけていません」
中条さんが先に読むことも考慮し、レターセットについていた銀のイルカシルエットシールしかつけていない。
「貴方が良いのなら、遠慮なく」
破らないようにシールの下半分を慎重に捲って中身を取り出した中条さんは口を真一文字にして、文面に目を通してゆく。まるでテスト答案か何かの合否を待っているような緊張感だ。
【こんばんは。突然のお便りを失礼いたします。
数日前、真夜中のプールで出会った青年を覚えていますでしょうか?
その後、体調はいかがですか?
あの時はお名前も聞くことが出来ず、自己紹介すら出来ずにいた、白崎優太です。
貴方のお名前をお聞きしてもいいですか?
もし不快に感じたのなら、変な人だとひと蹴りして、これを捨てて下さい。
最後まで目を通して下さり、ありがとうございました。
白崎優太】
「連絡先は書いていないのね」
中条さんは意外そうに呟く。
「少しでもお話しができるなら、個人的なやり取りじゃなくても構わないんです。いきなり連絡先渡されても困るでしょうし、紳士じゃない」
「まぁ、連絡先を書かれているよりは紳士ではあるけれど」
微苦笑を浮かべた中条さんは手紙を丁寧に元に戻す。
「中条さん」
視線を僕に向けて欲しくて、中条さんの名を呼ぶ。
「まだ何か?」
顔を上げた中条さんが僕と視線を合わせてくれる。
僕は言葉の代わりに指を動かし始めた。
中条さんに手の甲を向けて親指と人差し指だけ上向きに立て、指通しを引っ付けて離す。これが[も]
親指と人差し指と中指を横向き立てる。これは[し]
「⁉」
中条さんは唐突に始まった僕の行動に驚いた顔をするが、僕は何も言わずに続けた。
親指を曲げ、四本の指を横向きに伸ばしたまま、中条さんに手の甲を向ける。これが、[よ]
手の平を中条さんに見せながら、人差し指と中指を伸ばし、親指を中指につける。アルファベットのKを表す形が[か]
小指と薬指を伸ばし、他3本指で輪を作る。指先で一つまみするような感じでカタカナのツを表すが、今回はその形のまま手首を後ろに引く。これで促音(そくおん)の[っ]になるらしい。
中条さんに手の甲を向け、親指だけ伸ばすグッドボタンの形で[た]
手の平を中条さんに向け、伸ばした中指の腹に人差し指の爪の先をのせる。なんらかのアニメキャラが、アディオス、とウィンクを飛ばしそうな形が[ら]となる。
こうして僕はゆっくりと、覚えたての指文字で思いを伝えていった。
[もしよかったら美月さんに渡して下さい]
声にすれば五秒足らずで終わるが、拙い指文字となると一分近くかかってしまう。
普段どれだけ声で楽をしているのかがよく分かる。自分が発した言葉が刹那で相手に届く声と、考えて自分で文字を作ってゆく指文字とでは、どこか言葉の重みの違いを感じた。
声にする言葉の重みとありがたさをもう少し知るべきなのだと、僕はここ数日で学んだ。
「わざわざ覚えたの?」
「いえ」
僕は中条さんの問いかけに対し、静かに首を横に振った。
「まだ全てを覚えられたわけじゃありません。記憶している文字でさえ、瞬時に形にすることが出来ません。だから、今は筆談でしかコミュニケーションを図る方法がないです」
眉根を下げて答える僕の声は頼りない。
「そう。今回は君の頑張りに免じて美月に渡しておくわね」
「本当ですか⁉ ありがとうございます」
靄が晴れて光が差し込んできたような気分となり、子供のように笑顔が零れる。
「……君は美月の正体を知らないのかしら?」
「ぇ? ……正体というのはどういう意味ですか? 人間ですよね?」
中条さんの言っている意味が分からず、怪訝な顔で問い返す。
「それはジョーク? それとも本当に聞いているのかしら? だとしたら、君の頭は少し抜けているわ」
中条さんは鼻の先で少し笑う。完全に馬鹿にされているとしか思えない。
「まぁいいわ。美月の生きている世界、美月の正体を知らないならそれでいいわ。今知らなくとも、どの道どこかで知ることになるでしょうし」
「どういうことですか?」
「また三日後、同じ時間に会いましょう。おやすみ。子供が連日真夜中の住民になるものじゃないわ」
中条さんは僕の問いに答えることなく、余裕のある笑みを故意に溢して去っていった。
一人残された僕は、一歩前進出来たことへの喜びと、また一つ増えた美月さんの謎に首を傾げながら、兄さんの部屋に戻るのだった。
†
午後十一時四十分――。
「兄さん」
朝食兼昼食を終え、特大L字ソファで横になって寛いでいた兄さんに近づきながら呼びかける。
「どうした?」
兄さんは読んでいた雑誌から、僕へと視線を移す。
「僕、今日は帰るね」
「なんで?」
勢いよく上半身を起こす兄さんの膝の上に雑誌が転がる。
「ぇ⁉」
丁度開いている雑誌のページに映る女性に、僕は目を見開いた。
「どうした?」
「ちょっ、ちょっとそれ見せてっ!」
不思議そうに僕を見る兄さんをスルーして、兄さんの膝上にあった雑誌を勢いよく手に取った。
一瞬で目を引く水晶に近いアクアマリン色の長い髪。その色より透明感を増した瞳の色。
白色のマーメイドドレスに身を包む身体は細く、傷一つないきめ細やかな肌は雪のように白い。
正面、横顔、斜め、どのショットも目を見張るほど美しい。一貫して感じたのは、神秘的かつ、幻想的な儚い印象を与える人物だということ。
雑誌に映る妖精のような美少女が美月さんだと、僕の感覚が思う。こんな絵本から飛び出してきたような美少女が多くいるとは思えない。
「この子……」
僕は詳しい情報を求めるように、今開いている雑誌ページを両手で開き、突き出すようにして兄さんに見せる。
「あぁ、meeか」
「みぃ? 有名なの?」
「嗚呼」
と頷く兄さんは、どこか気だるそうに立ち上がった。
「僕、見たことないんだけど」
「まぁ、ファッションやコスメに興味のない男子なら、そうだろうな。だが、その界隈では有名だよ。知っている人は知っている。だが基本、日本での活動はしていないモデルだ。その雑誌も、海外のファッション雑誌だしな。コンビニや書店では売っていない。CMなどで見かけることもない。そもそも、精力的に活動はしていない」
兄さんはそう話すと、よっこらせ、と言いながら立ち上がる。
「精力的に活動していないのに、どうして人気なの?」
「高級ブランドの新着ドレス発表のモデルに起用され、鮮烈なデビューを果たした。しかも、元々決まっていたモデルがトラブルを起こし、その子が起用された説がある。その後、大手デザイナーとのコラボをよくしている。コラボした洋服や雑誌は即完売。
本名、年齢、出身国、何もかもが謎に包まれた美少女。明かされているのはその美貌と、『mee』という活動名のみ。だが、圧倒的美貌とオーラとミステリアスさにより、海外で人気が出始めた。今は日本でも人気になりつつある。
老舗ブランドの広告モデルではあるが、デビュー時以来、その姿を見られるのは、月一で発売されるその雑誌。そして、老舗ブランド店の会員のみに渡される広告パンフレットや、webプロモーションCMのみ。もちろん、その映像を切り取ってネットに晒したり、動画を引っ張ってきたりするのは許されていない」
兄さんはそう話しながら、キッチンの換気スイッチをONにさせる。
煙草の匂いを家に充満させたくない兄さんが、煙草を吸う前にするルーティンのようなものだ。
「知る人ぞ知る……感じ?」
「まぁな。で、その子がどうした? まさか、その子の正体でも知ってるとか?」
兄さんは冷静な口調でそう言いながらリビングチェアーに腰を下ろし、慣れた手つきで煙草を嗜む。
「ま、まさか」
僕は瞬時に嘘をつき、逃げるように雑誌を閉じた。別に兄さんに言っても害はない。だが、そこまで正体を隠して活動をしているのならば、内密にしていた方がいいと思ったからだ。それに、何かの拍子で兄さんが二人に接触したとき、僕が口の軽い人間だと思われかねない。
「ふ~ん。まぁ、いいけど。つーか、なんで帰んだよ?」
兄さんは腑に落ちていない様子だが、あえて追求せずに、話しを切り替えた。
「同棲するのはちょっと」
「はぁ? 俺を相手に贅沢な奴だな」
失礼な奴だ、とばかりに、兄さんはどこか呆れたように首を左右に振った。
「また近いうちに来るね」
眉間に皺を寄せる兄さんにそう言って背を向け、マンションを後にしようとする僕だが、「優太」と、兄さんに呼び止められてしまう。
「なぁに?」
僕は肩越しに振り向く。
「ないと思うけどさ、もしmeeと知り合いで、お前がmeeに恋していたとしたら――」
「……したら?」
兄さんの何かを見透かすような瞳と言葉にドキマギしながら、僕は続く言葉を待った。
「中途半端にするなよ」
「ぇ?」
断固拒否でもされるのかと思っていた僕は、思わぬ兄さんの言葉におとぼけ顔を晒す。
「色恋沙汰なんてもんは、人の人生を光にも闇にも落とすことがある。お前だけが傷ついて終わることもあれば、相手だけが大きく傷つくこともある。ましてや相手は、芸能界で生きている世界線が違う奴だ。失うものも多いだろう。興味本位で近づくもんじゃねーよ」
「――」
僕は兄さんの言葉に現実を突きつけられたような気がして、思わず無言になってしまう。
「どんな代償も覚悟の上なら、死ぬ気で進め。但し、自分が相手の一番の理解者であること、自分が一番相手を愛すること。自分が一番に相手を守ること。そして、自分が一番、相手を笑顔にするんだって決めろ。中途半端にするなよ」
「……将来、大切な人が出来た時に、その言葉を噛み締めて進むよ」
僕は美月さんのことを悟られないように、そう返事をして、力のない笑みを浮かべた。
「次、肉じゃが喰いてーから、よろしくな」
兄さんは、話しは終わりだとばかりに全てを切り替え、屈託のない笑顔を見せながら、手の平をお腹前で左右に振った。
「分かったよ」
僕は笑顔で頷き、背を向ける。
玄関のドアノブに手をかけた僕は、「兄さん」と力なく呼びかけた。
「どうした?」
「ありがとう」
「……お前の人生だよ」
兄さんはそう言って、換気扇を止め、寝室へと戻っていく。
僕は兄さんの大人な言動にどこか子供じみた悔しさと、守られている安心感と、信頼されている嬉しさがない交ぜとなった感情を昇華しきれぬまま、マンションを後にした。
†
八王子にある築五十年以上の二階建てアパート、スミレ荘に帰宅した僕は、慣れ親しんだ畳に腰を下ろす。
高級ホテルのような兄さんの家との違いは歴然。
家賃は二万円弱。押し入れ付きの和室六帖。キッチン三帖。お手洗いはついてはいるが、シャワーすらない。毎日大学の帰りに銭湯によって、清潔さを維持しているため、けして悪臭を漂わせてはいない。
季節は秋口。
隙間風の多い部屋はあのマンションよりも肌寒いが、コタツがあるのでなんてことはない。いざとなれば、エアコンをつければいい。エアコンが付属されていたのはありがたかった。
近所にはコンビニや薬局、少し出向けば、色々な商店もある。
僕の現在の目的は、無事に大学を卒業することのため、さして大きな問題はないが、今は少し事情が変わってきたかもしれない。
「こんな家に住んでいる凡人大学生と、世界的モデルの美少女。兄さんならまだしも……僕じゃ釣り合わないよね」
投げやりに倒れる僕の口から盛大な溜息が零れ落ちる。
嘆いても仕方がない。出会ってしまったのだから。
すでに縁が出来ている。それだけでも凄いことなのではないだろうか? 美月さんとどんなに出会いたいと願っていても、出会うことすら出来ていない人は、星の数ほどいるはずだ。
今すぐどうこうなりたいわけじゃない。ただ、知りたいのだ。彼女のことを。
彼女がどんな人で、何が好きで、どんなふうに笑うのかを。
「……めげない。言い訳しない。前を向く。チャンスは見るものではなく、掴むもの」
僕は幼少期から兄さんに言われてきた言葉を並び立てる。そうすることで、気分が上向きになれる気がした。
何をすればいいのか分からない。今すぐに美月さんに見合う男になれるわけでもないし、中条さんに認められるわけでもない。それでも僕は前に進むしかない。その為には、今の僕にできることを、ただ淡々とこなしてゆくしかない。
「頑張れ」
僕は両頬を両手でパチパチと叩いて気合いを入れ、指文字と手話の勉強を始めるのだった。
三日後――。
「ぇ?」
深夜二時。プラージュ・零の三十三階にあるプール施設に訪れた僕を待っていたのは、中条さんではなく、美月さんだった。
リクライニングのプールサイドチェアにちょこんと腰を下ろしていた美月さんは僕に気がつき、美しく口角を上げて微笑む。
「えっと、あの」
僕は予想もしていなかった美月さんの登場に、顔の周りで両手をわちゃわちゃさせてテンパってしまう。
そんな僕が可笑しいのか、美月さんは音のない笑顔を少し溢す。その笑顔は想像していたよりも幼く見え、より僕の心を弾ませた。
美月さんに両掌を見せながら、暗転するように顔の前で交差させる。これが、手話で夜を表している。
次に、向い合せた両人差し指達をお辞儀をするように曲げる。これが挨拶。
前者が夜で後者が挨拶。夜と挨拶で[こんばんは]となる。
指文字と違って二種類の動作だけしか要らないため、指文字よりもはるかにテンポよく会話が出来る。もちろん、手話を習得していればの話だが。
[こんばんは]
美月さんは僕の挨拶を見て嬉しそうに微笑み、同じ仕草で挨拶を返してくれる。
右手を横向きピースサイン。左人差し指を中指につける。〒マークに見える形だ。その形のまま手前に腕を引く。
その次に、胸の前で左手の甲に右手を置き、そのまま跳ね上げるように垂直に上げる。すぐに両掌をお腹の辺りで組むと、会釈をする。濡れていないアクアマリンの髪がサラサラと肩から流れ落ちてゆく。まるで穏やかな波のようだった。
手紙+ありがとう。ということは、手紙を受け取ってくれたということだろう。
読み解くことは出来たが、今の僕には返す言葉を持ち合わせていない。
「えっと、あの」
口元の周りでどうしようもない両手を弄ばせながら、視線をさ迷わせる。筆談するにも、ボールペン一本すら持ち合わせていない。かといって、自分の髪の毛を引っこ抜いて床に文字を描いていくのは狂気すぎる。
美月さんは不安そうな顔で小首を傾げる。
「ぁ!」
右手を横向きピースサイン。その後に、右の中指に左人差し指をつける。〒マークに見える形で手紙を表す。たぶん、自分の方に腕を引くと手紙をもらう、腕を前に出すと手紙を送る。という意味になるはずだ。だから僕は真ん中で維持をする。[手紙]
親指を曲げ、四本の指を横向きに伸ばしたまま、美月さん手の甲を向ける。[よ]
人差し指で十一時の方角から斜めに下げ、そのまま十時の方角にカーブさせるように人差し指を上げる。相手側から、カタカナの「ン」に見えるようになるはずだ。
[で]は分からないから空書。
美月さんに手の甲を見せ、二時の方角に上向きに親指を伸ばし、残り四本指を揃えて横向きに倒す。[く]
手の平を見せ、親指と一指し指を上向きに伸ばし、他指は握る。[れ]
美月さんに親指以外を揃えて手の平を向ける。[て]
胸の前で左手の甲に右手を置き、そのまま跳ね上げるように垂直に上げる。すぐに両掌をお腹の辺りで組むと、会釈をして満面の笑顔を見せる。これが、[ありがとう]と言う意味となる。
[手紙読んでくれてありがとう]
手話、指文字、空書。あらゆる方法を使い、僕はなんとか美月さんに想いを伝えた。
僕の言葉が伝わったのか、美月さんは笑顔で何かを伝えてきてくれる。だが申し訳ないことに、今の僕に手話を読み解くことが出来ない。
「そこまでね」
第三者の声がプールに響く。冷静さと色香が含まれる凛とした声音だ。
後ろを振り向くと、胸下辺りで腕を組んだスーツ姿の中条さんが立っていた。
「優太君、ゲームオーバーよ」
中条さんはそう言って僕の隣を通り過ぎ、美月さんの前に立つ。
何やら二人は指や表情を動かし、会話を交わし合っているようだが、僕にはてんで理解が出来ない。
「後で話があるから、優太君はココにいなさい」
美月さんとのお話が終わったのか、中条さんが振り向いて僕と向き合う。
「ぇ?」
僕は中条さんの登場と言葉に素っ頓狂な声を出し、間抜け面を晒す。
「聞こえなかったのなら、そのまま帰ってくれてもいいのよ?」
「い、います! ずっと」
「ずっといたらストーカーよ」
中条さんは焦って前のめりで答える僕の言葉を冷静に突っ込み、茶化すような微笑を浮かべた。
「いや、それは……」
次の言葉を困る僕になどかまっている暇はないとばかりに、中条さんは再び美月さんと向き合った。
「み・つ・き」
中条さんは、ゆっくり美月さんの名前を呼ぶと、芸能人が結婚指輪でも見せるように左手の平を美月さんに見せ、自分の方へ腕を引く。それが手話として、何らかの意味を差しているのか、ただのジェスチャーなのかさえ、今の僕には分からなかった。
下唇を少し噛む美月さんは小さく頷く。その表情は、どこか悲しくて寂し気だった。
中条さんはそんな美月さんに眉根を下げ、小さく頷き、先へ歩く。その後ろを美月さんがついていく。僕を通り過ぎる二人からは、シャネルの香水とフローラルシャボンが混じり合った香りが漂う。
香りだけ残していく二人の背中が見えなくなるのはすぐなのに、待っている時間は嫌に長く感じた。
†
「優太君」
同じ場所で突っ立って待っていた僕の背中に声がかけられる。
振り向くと中条さんがいた。美月さんを部屋まで送っていったのだろう。
「ちゃんといたのね」
「はい」
「美月と話してどうだったかしら?」
「それは……」
ほんの少しでも話せて嬉しかったのは事実だが、今の自分ではどうしようもないと実感したのも、また事実である。
「まだ美月と話したい?」
中条さんの問いに深く頷く。
「でも、君には話す方法がないんじゃないかしら」
「……」
中条さんの言葉に、ぐぅの音も出ない。それでも、僕は言葉を絞り出す。
「今すぐには無理でも、これから方法を取得していきます。それまでは筆談で……」
「美月は文字が得意じゃないのよ」
中条さんは僕の言葉を掻き消すように言った。
「ぇ?」
僕は中条さんの言葉の意味が理解できず、深い答えを求めるように聞き返してしまう。
「これは、美月から君へ」
中条さんは僕の疑問には答えることなく、一通の手紙を差し出した。
夜空に星屑のような星々を隠すような曇り空と、右斜め上に三日月がプリントされた封筒だった。
「もらってもいいんですか?」
僕は思わぬものを差し出され、きょとん顔で首を傾げる。
「君がいらないのなら、美月に返すけど」
中条さんは僕をからかうように、封筒を持っていた腕を自分の胸に引き寄せようとする。
「い、いただきますッ!」
僕は慌てて、半ば中条さんの手から手紙を受け取った。
「⁉」
受け取った際、裏側に書いてあった宛名の字が目に入り、思わずハッとする。
「ふふふ。想像通りの反応ね。中を見たらもっと驚くでしょうね」
「ぇ?」
美月さんが書いた文章の中身さえも確認済みだと言うことに、多少の驚きが零れる。
「確認するのは当たり前でしょ? 出来うることなら、今の美月を他者へ混じり合わせたくないのだから」
「それは、美月さんがモデルだからですか?」
「あら、もう知ったのね」
中条さんは、意外と早かったわね。とでも言いたげな顔で、ほんのり目を見開く。
「兄さんが持っていた雑誌で見ました」
僕は起きた出来事そのままに答える。
「失礼だけど、お兄さんはなにをされている方?」
「……言いたくありません」
正直に答えても良かったのだが、悪いイメージを持って欲しくないと思い、つい口つぐんでしまう。高校生のとき、教員に兄さんの業種を知られて白い目で見られたことがある。若い子であるほど抵抗はないだろうが、酸いも甘いも知り尽くした大人が僕達に向ける目は冷たい。
「あぁ、夜の住民なのね」
「⁉ ぼ、僕何も言っていません」
俯いていた僕は勢いよく顔を上げ、やや早口で言う。それはもう肯定しているも同然だった。
「ここに住んでいる住民は著名人や社長。医学や弁護の道で生きている人が多いのよ。業種すら言えないのは、君が何処かで他人の目を気にしているから。人によって、夜の住民として生きてゆく人を毛嫌いする人もいるものね。君のお兄さんがどれほどの立場にいるか分からないけれど、ココに住むくらいだもの。それなりの地位を築き上げたのでしょう? その事に関して、私は尊敬の意を示すわ。例え、どんな働き方をしていようともね。どんな仕事でもそれなりの地位を築くことは、生半可な気持ちでは出来ない。競争率が激しい世界で在ればあるほどね。もし君がお兄さんを隠すべき対象としているのなら、私は君を軽蔑するわ。お兄さんがいてこそ、今の君がいるはずではないのかしら? 美月と距離を縮めるより、お兄さんとの心の距離を縮めた方がいいんじゃない? また一週間後、同じ時間、ココで」
中条さんは話したいことだけ話し終えると、颯爽とこの場を後にした。
残された僕は、しばし呆然と突っ立っていることしかできなかった。
†
兄さんの寝室。
僕が大の字になっても、寝返りを豪快に打っても、充分すぎるほどゆとりのある外国製キングサイズベッド。僕はそこにうつ伏せで倒れ込むように、ダイブした。
美月さんが書いてくれたという手紙は、僕のバッグにしまってある。現在、手放しで喜んで小躍り出来る程の心境には至れない。
――業種すら言えないのは、君が何処かで他の目を気にしているから。
――もし君がお兄さんを隠すべき対象としているのなら、軽蔑するわ。お兄さんがいてこそ、今の君のはずではないのかしら?
中条さんに言われた言葉が僕の頭でループする。
確かに、僕は兄さんの仕事を周りに隠してきた。
僕は本来、父の姉の家にお世話になっていくはずだった。
実際、両親が無くなってすぐ、三ヶ月間お世話になっていた。だが父の姉である美保さんには、小学校三年生の子供、海人君がいて、すでに温かい家庭が出来上がっていた。そこにいる僕は、異物のような存在。
ありがたいことに、美保さん達は僕を温かく迎え入れてくれていたし、温かく接してくれていた。だがそれは表側でしかなかった。
裏側では、美保さん夫妻が資金面に困っていることを知っていたし、海人君は自分の母親が取られてしまうのではないかと、僕に警戒心むき出しだった。
正直、肩身が狭くて息苦しかった。ありがたいことだと充分に理解していながらも、これ以上迷惑をかけてはいけないと、常にいい子の仮面を被り続けないといけない。
僕の家ではないから、簡単に友人を呼べない。僕の両親ではないから、授業参観日のお知らせは秘密にした。お小遣いをもらうことも申し訳なく、受け取ったお小遣いは使わずに貯金していたし、小さくなってしまった上履きを無理やり履いていた。
何より、心許せて話せる人がいない。という毎日が辛かったのだ。
そんな日々を半年間続けていた僕を救ってくれたのは兄さんだった。
ホストの仕事が軌道に乗ったから一緒に住もう。と迎えに来てくれた兄さんは、僕にとってヒーローだった。
その時の兄さんは、黒縁眼鏡と黒髪のウィッグをかぶり、夜の仕事を伏せて美保さん夫妻との話をつけた。何故そこまでして業種を隠し通したのか、僕は半月後に理解することになった。
――兄が夜の仕事をしていると、弟もロクなのに育たない。
熱を出した兄さんの看病をして遅刻してしまった僕に、担任が放った言葉だ。
――あの子よ、お兄ちゃんがホストしてるって子。
――教育上悪いわね。うちの子に悪影響を及ぼさないといいのだけれど。
授業参観時にコソコソと陰口を叩くクラスメイトの母親達。
――さっすが、ホスト様の弟君。女の子に声をかけるのがお上手。それ、本当に笹木のか?
女子クラスメイトが落とした消しゴムを拾って手渡しただけで、男子クラスメイトが口笛を吹き茶化す。もちろん、僕が事前に用意した消しゴムなどではない。
そう言った件があり、高校は地元より遠い場所を選び、そこでは兄さんの存在を隠していた。
授業参観や三者面談日を隠してしまうこともあったし、友人を泊まらせることもなかった。
感謝はしていたが、兄の存在を堂々と明かすことが出来なかったのだ。
「兄さん、ごめん……」
申し訳なさと、自分の弱さで涙が零れ落ちる。
自然と零れ落ちた言葉が兄さんに届くことはない。
「……手紙」
一人でしばし泣いた後、僕は美月さんからの手紙を受け取っていたことを思い出す。
ずぴっと鼻水を啜り上げ、服の袖で涙を拭った僕は、フローリングに腰を下ろす。
「なんて書いてあるんだろう?」
ベッドサイドテーブルの脚に寄りかけるようにして置いてあった、ショルダーバックにしまっていた手紙を、おずおずと取り出す。
封筒の裏に貼られていた満月のシールをそっと剥がし、中身を取り出す。
「ふぅ」
僕は緊張の糸を解すように、小さな息を吐く。
四つ折りにされていた便箋を広げた瞬間、僕は目を見開くことになった。
「ぇ?」
思わず戸惑いの声を溢してしまう。
そこに綴られていた文字は、ほとんどがひらがなだったのだ。
【白崎優太さま。
白崎優太さま、ごきげんよう。
おてがみ、ありがとうございました。
とても、うれしかったです。
わたしのなまえは、天海 美月とかいて、あまがい みつき。といいます。
白崎優太さまのこと、ずっとおぼえています。
わたしのことを、おぼえてもらえていたこと、すごくうれしいです。
白崎優太さまは、このマンションにすんでいるんですか?
わたしは、中条さんのところで、くらしています。中条さんは、わたしを、2ばんめに、たすけてくれたひとです。おしごとをしている中条さんは、とても、カッコいいです。
わたしはいま、中条さんに、いろいろなことを、おしえてもらっています。
中条さんは、いつもおしごとが、いそがしいです。
わたしは、中条さんがおしごとのときは、このマンションで、ずっとひとりですごしています。
中条さんがおしごとのときは、中条さんのおへやで、すごしています。
白崎優太さまは、ふだん、なにをされていますか?
わたしは、ひとりでおうちのなかにいると、さみしいときがあります。
もしよかったら、またこうして、おはなしをしてもらえると、とってもうれしいです。
天海 美月】
手紙に綴られていた文字達は達筆どころか、文字を覚えたばかりの小学生のようだった。文字が得意じゃない。と中条さんが言って通り、漢字は人名しかない。
何故、僕だけが“さま”付けなのかが分からない。中条さんならまだしも。
中条さんが二番目に美月さんを助けた、とは一体どういうことなのだろう? 二度ということは、一度目もあるのだろう。だが美月さんの分面通りならば、一番目に助けてくれた人は、中条さんではなかったということになる。
モデルとして活動しているのにも関わらず、なぜ引き籠っているのだろう?
まさか、誰かに命でも狙われているのではないだろうか?
僕は美月さんに対し、分らぬことが増えてしまったと同時に、美月さん身に対する心配や不安事が増え、眉間に皺を寄せる。
便箋を戻した封筒をバッグにそっとしまった僕は、のそのそとベッドによじ登るようにあがり、枕に突っ伏した。枕から兄さんがつけている香水の匂いがする。
ウッド系の甘さと色気のある大人の男性の香り。それは、白崎龍優ではなく、『龍』の香りだ。
その香りに酔いながら、美月さんになんて返事を書こうかと頭を悩ませる。が、いつのまにか浅い眠りについてしまった。
†
一週間後――。
深夜二時――。
僕は美月さんに宛てた手紙を手に、マンションのプールへと訪れていた。
「きたのね」
リクライニングのプールサイドチェアで、組んだ足を斜めにずらして浅く腰掛けていた中条さんは、僕に視線を向ける。
「はい。勿論です。ぁ、こんばんは」
中条さんに歩み寄りながら答える僕は、思い出したかのように、挨拶の言葉を付け足した後、視線をさ迷わせた。
「こんばんは。……どこを探しても、ここに美月はいないわよ。今日は連れてきていないもの」
「!」
中条さんから全てを見透かされているようで、ドキリと胸を跳ねさせて目を見開く。と同時に、中条さんに失礼なことをしてしまったと、胸の内で自分の行動に反省する。僕は慌てて軽く頭を左右に振って邪念を落とし、中条さんとの会話に意識を集中させた。
「美月からの手紙は読んだのかしら?」
「はい」
僕は小さく頷き、中条さんの目の前で両膝をつく。目上の方を見下ろす形で話すのは、失礼に値すると思ったからだ。多少膝が痛むものの、使用可能時間を終えたプール施設床には一滴の水滴も残っておらず、ズボンが濡れることはなかった。
「……真面目だこと」
中条さんは僕の意図を汲み取ったのか、刹那目を丸くさせ、微苦笑を浮かべた。
「ありがとうございます。褒め言葉として受け取っておきます」
「どうぞご自由に。それで? 美月の手紙を読んで、どう感じたのかしら?」
「どう……とは?」
僕は怪訝な顔で首を傾げる。
「そのままの意味よ。字が下手すぎる、なぜ人名しか漢字ではないのだろう? とか。……少しは、美月に幻滅したかしら?」
中条さんはどこか僕を試すかのようにそう問うと、そっと口端を上げる。
「いえ。驚きはしましたが、幻滅なんてしません」
僕は中条さんの瞳を見つめ、はっきりした口調で断言した。
「何故?」
微笑を浮かべる中条さんは、落ち着いた声音で問うてくる。
「今の僕は、美月さんのごく一部すら知らないからです。美月さんは帰国子女などで日本語が苦手なだけかも知れませんし。お手紙には、中条さんの事を二番目に助けてくれた人、と言う風に書いていましたから、事故かなんらかで言語記憶を失ってしまったのかもしれない。何かしらの病で、文字を書くことが難しいのかもしれない」
「……君、凄い想像力ね。感心するわ」
僕の答えが意外なものだったのか、中条さんは珍しく目を丸くさせて驚きの色を見せた。
「今僕の目の前に映り、僕の知りえる人は、その人の全てじゃない。知り合ってばかりであればあるほど、僕はその人の表しか知らないし、分からない。人は裏にこそ、その人の本質があり、その人が本来持つ魅力なんだ。だから、お前も人の本質を見抜き、魅力に気が付ける人であれ。本質を見抜き、その人に寄り添える優しい人であれ――というのが、ホストをしている兄の言葉であり、教えです」
僕の想像力が凄いわけじゃない。
あらゆる方向性を持って人を見ることで、人の本質に近づくことが出来ること。人の本質を見抜くことの大切さ。それに伴った想像力を養うこと。そういった方向性に僕を導き、示してくれた兄さんがいてこそ、今の僕がいるのだ。
「そう。お兄さんの存在を認めるのね」
中条さんは柔らかな笑みを口端に浮かべる。その口調は、いつもよりもほんの少し、柔らかい気がした。
「はい。僕は一度だって、兄を恥ずかしいと思ったことはないと思っていました。ただ、兄の存在を知った皆の反応が変化することが嫌だった。恐ろしかった。それを跳ね返すだけの強さが、僕にはなかったんです。きっと、それはどこかで兄の仕事を恥ずかしいものだとか、公にはしてはいけないんだとか、バレたらハブられる……とか、なんか、色々な思い込みがあったからだと思います」
僕は自分を情けなく思い、苦笑いまじりに話す。
「世の中は偏見の目ばかりよ。お客様の求めているモノを瞬時に見抜き、ソレを提供していくということは、口で表現するほど簡単なものじゃない。人の本質を見抜く目を養い、ソレを提供していけるスキルを磨き、臨機応変に対応出来る場数も踏んでこなければ、お客様一人をも満足させることなど出来ない。どの仕事も、上位に立つことは並大抵なことじゃないわ。美月のことをそんなに想像できるのなら、お兄さんのことも少し想像してみれば理解できるでしょ? これから先、お兄さんがどんなに偏見の目を向けられたとしても、君だけはお兄さんの見方でいてあげることね」
「はい!」
僕は中条さんの言葉に、力強く頷いた。
「それで、美月への手紙は? 持ってきたのでしょう?」
「ぁ、はい」
中条さんの言葉でハッとする僕は、グレーのフード付きパーカーのお腹ポケットに忍ばせていた手紙を取り出し、中条さんにそっと差し出すように手紙を見せる。
「確認しても?」
「どうぞ」
「そう。じゃぁ、遠慮なく」
手紙を受け取った中条さんは例のごとく、封筒に貼ったシール下半分を綺麗に剥がし、便箋に目を通してゆく。
【天海 美月 様
天海さん、こんにちは。
中条さんから、お手紙をうけとりました。おへんじ、ありがとうございます。とてもうれしかったです。
天海さんのお名前をしれたことも、おぼえていただけていたことも、うれしいです。
僕に“さま”をつけなくて大丈夫です。むしろ、つけないでいただけるとありがたいです。
僕はここのマンションにはすんでいません。僕は八王子にある、レトロなアパートにすんでいます。このマンションにすんでいるのは、8つ年上の兄です。僕はアルバイトをしながら、大学生をしています。せんもん大学ではありません。
兄はホストクラブでホストをしています。兄は夜から、あけがたまで、はたらいています。
僕は、兄のはたらいている姿をみたことはありませんが、たぶん、カッコいいのだと思います。
兄はおきゃくさまの笑顔ため、しんしてきマナーや英会話などをマスターしています。それだけではなく、毎日ニュースペーパーやテレビニュースなどで、せかいじょうせい、のことなどを、インプットしています。
かくいう僕は、マナーも英会話もにがてです。これからは僕ももっと、学びたいとおもいます。
兄は男性としてカッコよくなるため、美容や身体作りにも、よねんがありません。おなじ兄弟なのに、スタイルが全く違うので、ズルいです。兄さんを動物でたとえるなら、クロヒョウですが、僕はハムスターです。
お店ではカッコイイ、セクシーだとか言われているようですが、僕にとってのカッコいい、というかんじょうとは、少し、ちがうのかもしれません。
父と母は、僕が中学生のときに、天国へ旅立ちました。僕はしんせきの家にあずけられましたが、すでに大人になっていた兄は一人暮らしを。ひつぜんてきに、はなればなれとなりました。
はなれるとき、兄は「ぜったい、むかえにくるから。それまで待っていてくれ」と言いました。
その半年後、兄は僕をむかえにきてくれました。
そこから兄は僕が20才になるまで、僕をそだて、守ってくれました。いつだって僕を守ってくれた、カッコイイ兄です。
僕でよければ、またこうしてお話してもらえると、うれしいです。
白崎 優太】
「えらく赤裸々に書いたのね。書いてあることは、全てが本当のことなのかしら? あと、美月に合わせて平仮名を多くしたの?」
「えぇ。まぁ」
漢字が書けないのなら、漢字も読めない可能性があると思い、出来る限り平仮名にすることを心掛けてみた。それと、兄の存在を隠すこともしなかった。中条さんの言葉で、僕の心が入れ替わったからだ。
「相手のことを知りたいなら、まずは自分から心を開こう、ってこと?」
中条さんに図星を突かれた僕は、苦笑いを浮かべるしか出来なかった。
「君がどんなに心を開いたところで、美月の過去は知れないわ。君も、私も……」
「ぇ?」
中条さんの言葉の意味が分からず、怪訝な顔で中条さんを見る。
僕だけならまだしも、なぜ中条さんまでもが、美月さんの過去を知れないのだろう?
「あの子にはね、過去の記憶がないのよ」
「え? どういうことですか?」
中条さんの返答に、ますます僕の眉間の皺が深くなるばかりだ。
「私と美月はなんの血の繋がりもない。あの子は私が拾った子だから」
「えっと、すみません。もう少し分かりやすく教えてもらえませんか? 拾ったって……捨て子、ということですか?」
中条さんかの唐突に明かされる話に、僕は戸惑う。
「えぇ。三ヵ月前のことよ。仕事に行き詰った私は、真夜中の海に行ったの。誰もいないはずの浜辺を歩いていたら、あの子が倒れていたのよ。それも、産まれたままの姿でね」
「⁉」
僕は中条さんの言葉に瞠目する。言葉が出てこない。
「誰かから乱暴に扱われたのかと考えたけれど、あの子の身体には、かすり傷一つ、跡一つついていなかったわ。自殺するにしても、一糸まとわぬ姿というのも可笑しすぎる。生きているようだったから、取り合ず警察に通報しようと、バックからスマホを取り出したらあの子が目を覚ましたのよ。話が聞けると安堵したのも束の間、あの子は何かを叫びながら転がるように逃げ回って、本当に大変だったわ。だって服を着ていないんだもの。事情を聞こうにも声が出せないし、砂に文字を書いてもらおうとしたけれど、あの子は文字が書けなかった」
中条さんは履いていた黒のパンプスに視線を落とし、落ち着いた口調でそう話す。
「天海美月。って書いていましたよね? ちゃんと自分の名前を憶えているようですし、今では文字も書けています。時期に記憶も戻るんじゃ……」
中条さんは僕の言葉を否定するように、重い息を小さく溢し、控えめに首を左右に振った。
「その名前は、私がつけたものよ。よくよく話を聞いたら、名前も年齢も覚えていないのよ。自分に家族がいるかどうかも分からないし、何故浜辺にいたのかも分からない。自身で分かっていることは、ある人を探していることと、人の体温に触れ合うことを嫌う。ただ、それだけ」
「ただそれだけって……」
僕は中条さんの話が信じがたくて、言葉が見つからない。質問しようにも、何を質問すべきか分からない。目の前にいる中条さんでさえ、美月さんの存在に戸惑っているようだった。
「……その後、警察へは?」
少しの間が開いてしまったが、僕はありきたりな質問を絞り出す。
「行っていないわ」
「何故ですか?」
「それは言えない」
「モデル業をしているのは、その影響ですか?」
深追いしても無駄だろうと、僕は質問を変えた。
「今はね。あの子の探している人が見つかるかもしれないし、あの子の保護者が見つかるかもしれない」
「今は?」
僕は中条さんの真意が分からず、首を傾げて問うしか出来ない。
「私は美月を表舞台に出すつもりはなかった。だけど、モデルが急に降板をして代理を探さなければいけなくなったことで、風向きが変わってしまった。洋服と広告のコンセプトにあった外国人モデルを一日で見つけ、来日させる必要があったのだけど、無理に等しい。国外と国内にいるモデルを探しに探していたら、美月が名乗りを上げたのよ。私も切羽詰まっていたし、クライアントのお眼鏡にもかなった。その後、想像以上の反響があってね」
「それだったら、もっと多くのメディアに多く」
「それはできないわ」
ぴしゃりと一刀両断する中条さんに、「なぜですか?」と問うてみる。
「大々的に人気になってしまうと、後に面倒なことになってしまう。家にマスコミをはられたり、罠に駆けられたりなんて面倒はごめんだわ。それに、あの子を多くの人に携わらせる分だけ、あの子に危険が及ぶわ。命のね」
中条さんは、“命のね”という言葉を強調させるように言って、僕に視線を向ける。その瞳は生きているものの、顔色にはどこか疲れを感じさせた。
「どういうことですか?」
「さぁ、知りたければあの子から聞きなさい。簡単には教えないでしょうけど」
中条さんは乾いた笑みを浮かべる。その瞳には、脆さが含まれているように感じた。
「……中条さんは知っているんですか?」
「深く知っているわけじゃないわ」
「そうですか」
自然と僕の口から重い溜息交じりの頷きが零れ落ちる。中条さんでさえ知らないのに、僕がソレを知れる日などくるのだろうかと、少し弱気になってしまう。
「この話を聞いてもなお、美月と親しくなりたい? 君はまだ若い一般大学生。秘密を抱えた謎の美少女と親しくなってボロボロになるより、もっと楽な道があるんじゃない?」
「どうしてボロボロになると決めつけるんですか?」
少しの苛立ちが声音に含まれてしまう。
「目に見えているからよ」
「今だけで決めつけられた未来なんてものは、ないと思います。人生、何が起きるか分からない」
僕は一般的と言われる穏やかな幸せの道を歩むはずだった。だけど、ある日突然両親を失い、兄と離れ離れで暮らすこととなった。
僕は一年に二~三回程会う間柄の美保さんの家で暮らすこととなり、兄さんはホストとなった――想像もしていなかったことばかりが起きる。美月さんとの出会いだってそうだ。今の延長戦にある未来など、この世には存在しない。
「顔に似合わず頑固ね。手話の方は?」
中条さんはこれ以上話しても意味がないわね、とばかりに小さく息をつく。
「か、会話出来るほどにはまだ」
いきなり逸れた話に対応出来ず、僕はどもりながら答えた。
「そう。取り合えず、これは美月に届けておくわね。また一週間後。朝五時、マンションのエントランスへ来なさい。じゃぁ、おやすみ」
話しは終わりだとばかりに、中条さんはヒール音を鳴らして去っていった。
プールに一人残された僕は、緊張の糸から解放されたように、その場へ大の字になって寝転ぶ。
全身に床の冷たさが沁みこんでゆく。ガラス張りの窓から見える満月は、半月雲隠れしていた。
†
一週間後。
マンション、プラージュ・零。エントランス。
ブドウを主としたステンドグラスランプが四台あり、一台ずつ端に置かれている。ランプが置かれた中央には、ワイン色のベアロ生地の背もたれ付き椅子が十六脚あり、その中央には丸いガラステーブルが四脚。カウンター席が合計四席出来るように、それぞれ設置されていた。
僕は左上端の席の椅子に腰を下ろす。座り心地が驚くほどふかふかしていて、もはやベッドのようだった。
落ち着かないまま待ち人を待っていると、ほどなくして黒のパンツスーツスタイルをした中条さんが現れた。
「おはようございます」
勢いよく立ち上がる僕は、お行儀よく会釈をする。
「おはよう。何も飲んでいないのね」
テーブルを流し見しながらそう言う中条さんに、着席する気配はない。そのため僕も、立ったまま話を続けた。
「はい。僕はここの住民でも来客でもないので」
ここのエントランスでは、コンシェルジュにお願いをすれば、コーヒーなどのドリンクがもらえるサービスがあるらしい。堂々とお願いできる器は、今の僕にはない。
「そう」
と相槌を打った中条さんは、持っていた黒色のクラッチバックから、一通の封筒を取り出した。
「これ、美月からの返事」
「もらっていいんですか?」
あっさり美月さんの手紙が差し出されることに戸惑う僕は、ついつい弱気に確認してしまう。
「いらないなら持って帰るけど?」
「ぇ、いります! 下さいッ」
一度差し出した手紙を、再びバッグに終おうとする中条さんに慌てた僕は、前のめりで両手を差し出し、頭を下げる。
「いるなら最初っからそう示しなさい」
中条さんは、しょうがない子ね、とばかりに肩を竦めて見せる。
「は、はい。すみません」
「弱気でいるばかりでは、掴めるモノも掴めなくなるわよ」
中条さんはそう言いながら、余裕ある大人な笑みを浮かべ、僕の広げられた僕の両手に、そっと手紙を置いた。
「ありがとうございます」
ほっと安堵する僕はそっと手紙を握り、自分の胸に当てた。
前回は、夜空と月が印象的な封筒だったが、今回は太陽が昇った穏やかな朝の海が印象的な封筒だった。美月さんは海が好きなのだろうか?
「次は二ヵ月後」
「二ヵ月後⁉」
穏やかな喜びを噛み締める間もない驚きの言葉に対し、思わずオウム返しをしてしまう。
「何か問題でも? むしろ、好都合じゃない?」
「好都合?」
「この与えられた二ヶ月間で、出来ることがあるでしょ? ただ何もせずに、待て、をするだけでは、ただの犬よ」
「犬……」
「じゃぁ、これで失礼するわね」
よほど忙しいのか、中条さんは颯爽とこの場を後にした。
残された僕は手紙を手に、この二ヵ月で何をできるのかをしばし考える。ただの犬で終わるのだけは、勘弁したい。
小さな息を吐きつつ、手紙をバッグにしまった僕は、静かにマンションを後にした。
†
大学からアパートに帰宅した僕は畳の上に横たわる。美月さんからの手紙は、まだ未開封のままだ。
「疲れたなぁ」
苦手な学科に頭を悩ませた本日、脳みそはパンク寸前だ。出前でも注文したいが、そこは節約。冷凍ご飯と冷凍カレーをレンジで温める。
その間に、美月さんからの手紙を戦々恐々で開封した。
【白崎 優太 さま】
宛名に様がついていたことに、僕は早速ガクリと肩を落としつつ、先を読み進める。
【おてがみ、うけとりました。おへんじ、ありがとうございます。とても、うれしかったです】
それはなによりです。と内心で頷き、視線を泳がせる。
【さま。づけしないほうがよい、ということですので、優太さん。と、およびいたしますね。私のことは、美月。と、よんでもらえると うれしいです。天海。とよんでくださるかたはすくなく、あまりなれていないのです】
「ふ、不意打ちっ」
いきなり名前で呼ばれる嬉しい驚きにトキメキを覚える。フルネームの様づけを思うと、驚きの距離感を感じる。呼ばれなれていないということは、中条さん以外には『mee』と呼ばれているのだろうか?
【おなじマンションでは、なかったのですね。また出会えるきかいがあるのではないか、ときたいしてしまいました。出会えた日は、ぐうぜん、だったのですね。またいつか、出会えると うれしいなぁ、とおもいます】
そこまで読み進めた僕は、「ぁ」と声を上げる。美月さんが名前以外の漢字を書けていることへの驚きだ。
【カッコイイお兄さんなのですね。
ところで、ホスト、というおしごとは、どういうおしごとなのですか?】
「どういう……」
美月さんの質問に首を捻る。
僕は一度も兄さんが仕事をしている姿を見たことがない。何をしているのか、どういう仕事なのか、よくよくは理解していない。
兄さんの職場にお客さんとして出向くには、中々に勇気があることだ。そもそも、僕はそこまで裕福ではない。スーパーの見切り品やセール調べに余念がないし、自炊自炊の毎日。
客として行って、お金が足りなくなってしまっては大変だ。兄さんに迷惑はかけたくない。
かと言って、ホストとして潜入するわけにもいかないし、過去の職業体験学校行事であるわけもない。
ホストクラブというのは、本当に未知の世界だし、僕にとってホストの兄さんは未知なのだ。
僕が知っているのは、疲れ果てて帰宅した兄さんが玄関やソファで眠っている姿。出勤前の姿。スマホの画面に険しい顔をしている姿。後は、兄としての素顔しか知らない。
仕事をする兄さんを見て見たい気持ちもあるが、兄さんの世界に足を踏み入れる気にはなれなかった。兄さんも、僕が訪れることを望んでいる気もしない。
【ごりょうしんのこと、とてもかなしいです。私のおとうさん、おかあさんは、てんごくへ たびだっています。すこし、おきもち、わかります。ただ、優太さんが一人ぼっちにならなくて、よかったです。おにいさまが、優太さんのおそばにいてくれて、よかったなとおもいます。
2人でいられれば、つらいことはわけあい、たすけあい、ささえあいができます。2人いれば、笑顔も2ばい。うれしいことも、たのしいことも2ばい、になりますものね。
私も、中条さんがそばにいてくれたから、色々なことをのりこえられています。出会ったよるから、たすけられて、いまでもずっと、たすけられています。
私は今、ときおり中条さんがデザインしている、おようふくのモデルをしています。私はモデルみならい、のようなものですが、少しでも、中条さんのおてつだいができたらいいなぁと、思っています。
いつか私がいなくなるまえに、中条さんにおんがえしができたらいいなぁと思っていますが、いまはまだまだ、むずかしいです。
今はまだ、優太さんと会うことはいけないと、中条さんにいわれています。会ったところで、どうしようもないでしょ。というのです。私は優太さんとお会いできるだけで、とてもうれしいのですが。
おてがみは、中条さんに1どよんでもらわないとダメなのが、それが、すこしはずかしいです。だけどこうして、おはなしできることは、すなおにうれしいです】
勉強したのだろうか? 前回よりも漢字が増えていること、文字のバランスが整ってきていることに驚く。
――ただ何もせず、待て、をするだけでは犬よ。
今朝中条さんに言われた言葉が脳裏に過る。
美月さんは僕の返事が届くまでのあいだ、漢字や文字の勉強をしていたのだ。僕はと言えば、手話どころか、指文字でさえもマスター出来ていない。
僕は自身を呆れるように小さな息を吐き、丁寧に便箋を封筒に戻し、バッグにしまった。
手話をマスターしたい気持ちはあれど、中々学べていない。それは、大学の勉強やアルバイト、レポート提出や日常など何かにつけて理由をつけていた気がする。
手話を練習しても、役に立たなかったら無意味だと。美月さんと親しくなりたいと思いながらも、親しくなった先の未来があやふやで進めない。きっと、美月さんへの気持ちが不透明で、僕の覚悟が足りないのだろう。
自分の不甲斐なさに項垂れる僕に対し、まるで声援をおくるかのようにして、電子レンジが高らかな音をだす。僕は重い腰をあげ、夕食の準備をする。
特売で一番安くなっていた辛口カレーのスパイスの香りが、落ちた気分を刺激した。
これを食べたら勉強しよう。まずは指文字をマスターするんだ。大丈夫。二ヵ月の猶予がある。日常会話を学べるくらいの時間はあるはずだ。あるはず、ではなく、確実に時間は存在する。それを生かすか殺すかは僕次第なんだ。
二ヵ月。それは、僕が持つ美月さんへの想いの覚悟を試すために与えられた期間なのだと思う。
僕は腹ごしらえと気合い注入とばかりに、カレーライスを一口、口に運ぶ。
特売品激辛カレー。さほど辛味に強くない僕には刺激が強すぎて、自然と涙がでた。その涙に、悔しさと後悔の色が混じっていることに気がつかぬふりをして、僕はカレーライスを口に運び続けた。
†
翌日。
「兄さん、少し聞いてもいい?」
僕はソファーで寛いでいた兄さんと向き合うように、カーペットに正座する。
「な、なに? 改まって。怖ぇんだけど」
「怖くないよ。……多分」
「多分ってなんだよ、多分って」
「僕、もう二十歳になったんだ。大学生になった」
「は? 知ってるよ。バカにしてんのかよ?」
僕のスタートダッシュが悪く、兄さんは意味不明だとばかりに、眉間に皺を寄せた。
「馬鹿になんてしてないよ。これからが真剣な話なの!」
「真剣な話? 結婚でもすんのか? ご祝儀のおひねりとか?」
「違うよっ。まだ結婚しないし、ご祝儀のおひねりもしない。ちょっとは真面目に大人しく聞いてよっ」
全然話が前に進まないことに不服を覚える僕は、前のめりになって言った。
「へいへい」
寝転がっていた兄さんは起き上がり、足を開いて座る。真面目に話を聞いてくれるのだろうが、見た目も相まって皇帝オーラが凄い。ただのスゥエットのはずなのに。
「僕、このマンションみたいに凄い家ではないけど、一人暮らしをしてる」
「それも知ってるつーの。同棲もお金の援助も断られたしな」
兄さんはどこか不貞腐れているように言った。高校卒業後、めっきり兄さんに頼らなかったのを根に持っているのだろうか?
「兄さんは、僕を守るためにホストになったんだよね?」
「嗚呼~、未だホストをやってる理由を聞き出そうとしてるのか?」
話しの芯をつかれ、頷くことしかできない。
「……お前、取引業は向いてなさそうだな。本題に入るのが下手すぎる」
「そ、そこは今関係ないでしょ」
僕は気恥ずかしさでどもる。
「償いだよ」
「ぇ?」
思いもしない兄さんの言葉に戸惑う。償いとはどういうことなのだろう? お客様と何かあったのだろうか? それとも他の人と? 僕は頭の中でぐるぐると思考を張り巡らせてみるが、分かるわけもなかった。
「優太は知らないだろ?」
「何を?」
小首を傾げ、深い話を求める。
「親父が無職だったことを」
「ぇ?」
思わぬ事実に驚きを隠せない僕に、兄さんは話を続ける。
「親父は優太が五歳の時に会社をクビになった」
「どういうこと? お父さん、日中は家にいなかったじゃん。スーツ着て毎朝家をでていたし」
「俺達に隠すため、日中は家を開けていたんだ」
「家を空けてどこに? 次の仕事を探さなかったの? そもそも、なんでクビにさせられたわけ? お父さん、会社の次長だったんだから、早々に辞めさせられないはずだよね?」
「リークされたから」
「リーク?」
兄さんは僕のオウム返しに対し、苦虫を踏み潰したような顔で後ろ髪を掻く。
「親父は会社の若い女性と浮気をしていたんだよ」
「は?」
思いもしない言葉に、僕は鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔で兄さんを見る。
「だから、浮気していたんだよ。二十歳も若い女性社員に手を出した。それを知った女性社員が情報を集め、部長にリークした。決定的な証拠を突きつけられちゃ、クビにせざるを得ないだろう。それをネットに流されたらたまったもんじゃない」
「そ、それでどうしたの?」
兄さんは戸惑いを隠しきれない僕に答えを与え続けてくれる。
「どうもしねーよ。親父は仕事をクビにさせられ、俺達を騙すように過ごしていた。しかも、裏で浮気女性と仲良くしていた……というのは、葬式の日に知ったことだ。親父が会社を辞めて半年後には、親父とおふくろは離婚していた。親父が海外赴任するって話を聞かされたこと覚えてないか? 親父がずっと家を空けていたときがあっただろ?」
「うん。お父さんが帰ってこないことにぐずったら、お父さんは海外でお仕事しているからしばらく会えないのよ、ってお母さんが言ってた。それで、お母さんのお葬式の日に現れなかった父さんの事を兄さんに聞いたら、もう亡くなっていたって」
僕は過去の記憶を引っ張って話すそれが、僕の過去の事実だった。それ以外の話は、僕は知らない。
「嗚呼、そうだ。だが事実は少し異なっている」
「どういうこと?」
僕は怪訝な顔で首を捻る。
「……おふくろ達は、親父が会社をクビになった一ヵ月後には離婚をしていたんだ。家庭を失った親父は、浮気相手の家に転がり込んでいたらしい。その半年後、親父は事故死。浮気相手にゾッコンで再婚していた親父の遺産は遺言書によって、全て再婚相手の元に行ってしまった。おふくろは幼い俺達に事実を話せるわけもなく、お前には出張だと話し、俺には親父が事故死したという事だけを話した。俺もそれが事実であると信じていた。だが真実と思っていたものは、虚像だったってことだよ。母さんはその事実と俺達についた嘘を抱えて、あの日までずっと、俺達を育ててくれていたんだ。一年間は貯金でやりくりしていたけど、働かざるを得なくなった。その時の俺は十四歳で中学二年。中退して働くことは許されず、母さんが一人で頑張っていた」
「……知らなかった。全く」
僕は両肩を落とす。
「当たり前だ。その時の優太はまだ六歳だったからな。俺だって、親父の真実を知ったのは母さんの葬式の日だった」
「母さんは過労死だったって聞かされていたけど?」
「――まぁ、ある種な」
兄さんは僕から視線を逸らす。
「まだ何か隠しているの?」
僕は兄さんの言葉の間と自嘲気味な笑みを変に思い、詰め寄るように問いかけた。
「……おふくろは俺達を守るために、自殺したんだ」
「⁉」
瞠目して言葉を失う僕に、兄さんは話を続けた。
「おふくろは、多額の死亡保険をかけていた。追い込まれた母さんはその保険金を下ろすため、自ら命を落とした。その保険金の受取人は俺になっていたけれど、その時の俺は未成年。未成年が受取人である場合、親権者・または未成年後見人が手続きすることになっている。
本来、その保険金があれば俺が成人するまでやっていけたはずなんだ。だが後見人であるおふくろの姉さんは、保険金の半額を猫糞して、行方をくらました。俺は受け取った半額の保険金を使い、おふくろの葬式をあげた。
その後、俺は未来のことを見据え、しばらくの間は美保さんの力をかりた。美保さんに親父の事実を話したら償い精神が出たんだろうな。二つ返事で承諾してくれたよ。親父である弟の尻拭い、としか思ってなかったであろう美保さんの力を、そう長く借りるつもりはなかった。本当は、美保さんの力を借りずにいれたら最高だったんだけどな。あの時の俺では力不足だったから、すぐに現在の店で雇ってもらった。そこからは、お前の知るとおりだよ」
兄さんの話を聞いた僕は呆然とするしか出来ない。本題に入るまでの衝撃が大きすぎて、瞬時に次の話にいけない。
そんな僕の様子を複雑そうな顔で見つめていた兄さんは、僕の頭をくしゃりと撫でた。
「優太、おっきくなったな。ありがとう」
「……なに、言ってんの? お礼言わなきゃいけないのはこっちじゃん!」
笑顔を見せてくる兄さんに少し苛立ち感じながら、僕はがぶりをふる。どうしてお礼を言われるのか意味が分からない。僕がいたから余計な負担がかかったはずなのに。今までの自分の能天気さと、無力さを悔いずにはいられない。
「いや、お前がいてくれたから、守り切りたい人がいたから、俺はここまでやってこられたんだ。お前の存在がいなかったら、きっと俺はロクな人生を歩まなかったはずだ」
「……兄さん、もういいんだよ」
僕の心を読み解くような言葉をかけてくる兄さん対し、僕は小さく首を横に振る。
「何が?」
「兄さん。もう、僕を守ってくれなくてもいいんだよ。自由に生きていいんだよ? 僕、覚えてるよ。小学校の頃、兄さんが獣医になりたがっていたこと。動物の本とか色々難しそうな本を学校で借りまくってたじゃん。その夢、叶えようとか思わないの? 今からでも遅くないんじゃないの?」
小首を傾げる兄さんへ届くように、僕は涙声になりながらも、真摯に言葉を投げかける。
「……そう、だな」
困ったように眉根を下げて笑みを浮かべる兄さんは、キッチンに足を向けた。煙草を吸うため、換気扇の電源を入れるのだろう。
「今更、獣医になろうなんて思わねーよ」
冷静な答えを返す兄さんはダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、煙草に火をつける。
「どうして? もう遅いの?」
「遅くはねーんじゃねぇ? やる気があれば、の話だけどな」
冷めて口調でそう言う兄さんは、テーブルに置いていたアンティーク調の横開きシガレットケースから、煙草を一本取り出して口に銜える。
「やる気を失ったってこと? そう言えば、償いってどういうこと?」
僕は兄さんと向き合うように、兄さんの正面の椅子に腰かける。
「母さんへの」
「?」
頭上でクエスチョンマークを浮かべる僕に、煙草に火をつけた兄さんは、すぐに答えを与えてくれる。
「俺は母さんを守れなかった。まだ義務教育すら終えてない子供に何が出来たか分からねーけど、もっと出来たことがあったかもしれねー。目の前にいたはずの大切な女性を、俺は幸せに出来なかったんだ。笑顔に出来なかった。だから、俺の元に来てくれるお客様達を、俺の傍にいる女性達だけでも、俺は笑顔になって欲しい。一人でも多くの女性を笑顔にしたいんだよ。もう泣かせたくない。女性に涙なんて似合わない。
実際、店にやってくる女性は何かしらの闇を抱えている人が大多数なんだ。俺がその人達に対して、根本的な解決や手助けは出来ないかもしれない。だけどさ、俺と言う存在が生きる活力になると言ってくれる人達がいるのならば、俺は、この仕事を続けていたいと思うんだよ」
兄さんは淡々と話す。その瞳は儚げでありながら、瞳の奥には信念があるように感じられた。
「それが、兄さんにとっての償い?」
「ただの自己満足だよ。お前が気にすることじゃない。俺は俺の人生を生き、お前はお前の人生を生きる。ただ、それだけのこと。つーことで、俺は今からアフターだから、夕飯は一緒に食えねーわ」
「……そう」
「寂しい?」
「……嘘で寂しいって言って欲しいの?」
「それはそれで虚しいな」
兄さんは苦笑いして煙草の火を消す。まるで、この話はもう終わりだ、とでも言われているようだ。
その後、兄さんは仕事の顔と洋服に切り替え、マンションを後にした。
残された僕は、一度気持ちをリセットしようと、自分のアパートに帰宅した。
†
「はぁ~」
僕は畳に寝そべり、盛大な溜息をつく。
思わぬ新事実に衝撃が隠し切れない。兄さんは今までどれだけ一人で苦しんできたのだろう?
――2人でいられれば、つらいことはわけあい、たすけあい、ささえあいができます。2人いれば、笑顔も2ばい。うれしいことも、たのしいことも2ばい になりますもんね。
ふと、美月さんの手紙に書かれていた言葉が脳裏に過る。
素直に美月さんの言葉に同感した僕だったが、本当は何も知らなかった。
守られてきた自覚は持っていたつもりだ。だけど実際は、自覚していたものよりも遙かに大きく守られていた。大人になってもなを、守られていたのだ。
今では、辛いことを分け合えていた気がしない。助け合い、支え合いなんてどうして思えていたのか。兄さんは、笑顔の裏で重い真実を抱え生きていたのに。
「兄さん、今は幸せなの?」
母さんのことはとてもショックだし、悲しい。何より、僕達がいなければ、母さんは死の道を歩まなくてよかったのではなかったのか? そう思わずにはいられない。
命をかけてまでの自己犠牲をすることがあったのだろうか? 本当にダメなら、孤児院という手もあったはずだ。第三者や第三の世界を頼ればよかったのではないのか。と思うが、何を思っても後の祭りだ。せめて、今を生きている兄さんには、自己犠牲精神で生きていて欲しくない。
兄さんは償いだと言った。これがもし純粋に天職だと感じているならば、こんなにモヤモヤすることもなかっただろう。だが兄さんは、確かに償いだと言っていたのだ。
「償うだけの人生は空しすぎる。……母さんは、きっとそんなことを望んでいないよ」
僕の呟きが兄さんに届くことはない。
その後、兄さんと僕の関係性や、兄さんの心に大きな変化が起きることもなく、二ヵ月の月日が立った。
変わったことと言えば、僕が手話をマスターしたことだ。
人は真摯に真剣に取り組めば、大半のことは可能なのかもしれない。
†
僕は中条さんと最後にあった日から二ヵ月が経った夜からは、毎晩深夜二時のプールに訪れたり、早朝六時からエントランスで中条さんが現れないかと待機したりしていた。
「二ヶ月立ったものの――これじゃまるでストーカーだよ」
「あら、今更気がついたのね」
「⁉」
唐突に響く声に、ビクリと肩を震わせる。
声がした方へと視線を向ければ、生成り色の膝下タイトスカートスーツを着た中条さんの姿があった。
「……中条さん」
「なにその顔。幽霊でも見たようね」
「ぁ、いや、そう言う訳ではなくて。まさか本当に会えるとは思ってなくて」
中条さんの言葉に僕は中条さんと向き合い、慌てて弁解をする。
「二ヵ月後とは言ったけれど、詳しい日付までは約束していなかったものね」
「どうして、僕がココにいるって分かったんですか?」
「貴方の行動なんて予定調和のようだもの。それに、待ち伏せは得意のようだから」
「そ、そうですか」
僕は中条さんの返答に苦笑いを返すしかない。
「それで? 貴方は二ヶ月間何をしていたのかしら?」
中条さんの言葉に待っていました! とばかりに、僕は目を輝かせる。
僕は両手を使い、学びの成果を見せつけるように動かした。
まずは、自分の鼻を右手の人差し指でちょんっと差す。
[僕]
自分のことを差す手話は、コレの他に、右手の人差し指で胸を差す二パターンあるようだが、僕は鼻を差す方で統一することにした。
そしてもう一つ覚えたことは、手話には強弱や表情がとても大切になってくるということ。
目上の方や年上の方と話す場合は、肩をすぼめて柔らかく指さしをする。
両手人差し指通しを胸の前で重ね、前に回転させる。
[手話]
空中に上げた右手の平を米神の横に下ろしながら握る。
[覚える]
少し曲げた右手の親指以外の指先を左胸に当て、軽くジャンプするように右胸に当てる。
[出来る]
ようになりました。は指文字で伝えた。
手話単語を多く覚え、敬語や言葉との繋ぎは指文字で表せるようになった僕は、どこか自信がついたように思う。
「そう。覚えたのね。日常会話ぐらいには出来るようになったのかしら?」
中条さんの問いかけに頭の上で丸を作り、大きく頷く。
「犬にはならなかったのね」
口元に弧を描いた中条さんは、どこか納得したように小さく頷いた。僕は中条さんの次の言動を待つ。
「じゃぁ、もう文通を止めてもらえるかしら。私、貴方達のポストになるほど暇じゃないのよ」
「ぇ⁉」
お褒めの言葉の一つでも頂けるのかと期待していた僕に、バチが当たったのだろうか?
僕は中条さんから出た言葉を瞬時に受け止めることが出来ず、瞠目することしか出来ない。
「お間抜けな顔ね。そんなに美月と文通出来なくなるのが悲しいのかしら?」
中条さんの言葉に、僕は素直にコクコクと頷く。まるで赤べこだ。
「時は令和。文通とはまた違う連絡方法が存在することを忘れていないかしら?」
僕をからかうように微笑を浮かべる中条さんは、左手に持っていた赤色のクラッチバックからスマホの二分の一程のサイズをした一枚の封筒を取り出し、僕に差し出してくる。
「?」
「あら、いらないの? 美月と繋がることが出来るリモートアプリのIDを書いたメモが入っているのだけど」
「もらっていいんですか?」
「いらないならいいのよ」
「いります!」
再びバックに終おうとする中条さんに対し、僕は慌てて両掌を突き出しながら食い気味に答える。
「なら最初っから受け取りなさい。受け取りを拒んでばかりいては、本当に欲しいモノや、大切な人は離れていくばかりよ」
中条さんはそう言って僕の両掌に封筒をそっと置いた。
「日本人において、謙虚は美徳だなんて言われているけれど、それは世界に出れば通用しないのよ。そして、ソレは貴方を幸せから遠ざける。美月ともっと親しくなりたいと思うのなら、自分の言動をよくよく考えなさい。それと、もうここには来なくて大丈夫よ」
中条さんは冷静な口調でそう言って、その場を後にした。
†
兄さんの部屋に戻った僕は、リビングテーブルの椅子に腰かけ、手紙の封を開ける。
中には、名刺サイズのメッセージカードが一枚入っていた。
【白崎優太 様
リモートアプリ OCEAN. ユーザーID mituki941
七時~二十時までなら、いつでも繋いでくれて構わないわ。けれど、くれぐれも、美月に無理はさせないようにね。リモート中、美月に何かあれば、私に電話をかけてきてちょうだい。このメモを確認次第、一度私に電話をかけてきて。話さなくていいから。
090――】
美月さんとリモートを出来るのも驚きだが、中条さんの携帯番号まで教えてくれたことに驚きを覚える。急展開すぎて喜びがついてゆけない。一体どういう風の吹き回しなのだろう? 注意喚起が時間しか書いていない。ということは、明日にでも繋いで良いのだろうか? いきなりで迷惑にならないのだろうか? それに、今の僕の手話技量だけで、本当にちゃんと美月さんとお話しすることが出来るのだろうか?
――日本人において、謙虚は美徳だなんて言われているけれど、それは世界に出れば通用しないのよ。そして、ソレは貴方を幸せから遠ざける。美月ともっと親しくなりたいと思うのなら、自分の言動をよくよく考えなさい。
中条さんの言葉が再び鼓膜に響く。
常に謙虚でいようと思ってきたし、心掛けてきた。それが正しいと思っていたし、それでいいと思っていた。
本来、謙虚さは縁の下の力持ちのような人のことを指すのだと思う。だけど僕は、自信の無さを謙虚の裏に隠して生きてきたのだと思う。
もちろんその謙虚さで得てきたものはあるかも知れない。だがその裏では、謙虚さのおかげで失ってきたモノもあるし、人から贈られる言葉のギフトを目の前で投げ捨ててきたことも、多々あったと思う。
今だって、行動的になれていない。相手のことを思うように装いながら、本当は自分が傷つくことが怖いだけなのだ。
普段からずっと自己主張の強い人はどうかと思うが、社会に出れば、自己主張をしていかなければいけない場面があるのだろう。何らかの取引に置いて、相手の要件ばかりを受け入れてばかりいては、こちら側が潰れかねない。たぶん、それは友情や恋愛関係でも言えるはずだ。
中条さんは多分、そのことを僕に伝えようとしてくれていたのだろう。美月さんと繋がる切符を手にしたのに、謙虚さの裏に隠した自信の無さで、その切符をただの紙切れにするのはありえないと。
「明日、繋いでみよう」
決心を静かに口にした僕は、小さく息を呟く。
「ぁ、電話しておかないと」
メモ内容を思い出した僕は、慌てて中条さんの携帯番号を登録してワンコールさせるのだった。
†
翌日――。
「ふぅ」
午前九時。
僕はアパートの一室で小さく息を吐く。
目の前には、甘栗色の円形型テーブル。その上には、白色のノートパソコンが開かれている。画面は既に、リモートアプリ OCEAN.内のユーザー検索欄になっている。
もちろんスマホからでも問題なくリモートは可能なのだが、手話で会話するとなると、画面が大きいに越したことはない。それに、パソコンからの方が回線が安定している。
「後はユーザーIDを検索して、通話リクエストをするだけ――なんだけど、緊張する~」
一人叫び声のように悶え、後ろに身体を倒す。雨漏りの跡が残る天井。電気から吊るされた紐。天井を這う蜘蛛が一匹。手で畳を撫でれば、少しざらつきを感じた。
「……全然、違う」
ボロアパートに住む一般庶民の僕。何か才能に長けているわけでもなく、ルックスが特別いいわけじゃない。就職に有利になるだろうと入学した大学が有名所と言う訳でもない。そこでの成績すら平均点。全てが平々凡々。
そんな僕が何故、兄さんと同じマンションに住む少女と、妖精のような美貌を持って世界で活躍するモデルの顔を持つ少女と、生きる世界が全く更なる少女との進展を、こんなにも望んでしまうのだろう。もし先へ進んでも、傷つくだけではないのだろうか?
「引き返せなくなる……」
もし美月さんとリモートが繋がってしまったら、当初から抱いていた淡い想いが、更に膨大してゆくことが分かり切っていた。それと同時に、この想いの先に光などないと、心が怯えている。
美月さんは僕のIDを知らない。ここで進むか停止するかは、全て僕次第。止まるなら、今しかない。
僕は今までのことは幻想だったのだと、長い夢を見ていたのだと、そっとノートパソコンを閉じた。
その後、僕は一週間何をするでもなく、大学生活を過ごしていた。
一週間に一回兄さんの家に行って家事をする今まで通りの生活。ずっとそうして生きてきたし、兄さんが結婚するまで、そうして生きてゆくつもりだった。
その生活が戻っただけ。ただそれだけのこと――。
†
中条さんに連絡先をもらってから、九日目の朝。
兄さんからコンビニアイスの買い出しを頼まれた僕は、マンション内にあるコンビニに訪れていた。
「あったあった」
兄さんから頼まれた、かき氷キャンディーを手にする僕の背中に、「弱虫君」という声が届く。
その聞きなれた声に思わず反応してしまう僕は、勢いよく首だけで振り返る。
「あら、弱虫君だと認めるのね」
微苦笑を浮かべた中条さんと目が合う。
「……中条さん」
「美月と繋がるチャンスを棒に振る気?」
「それは……」
「貴方は身を引けばそれで終わりでしょう。だけど、このままでは美月が持つ物語は終われない。貴方、美月の気持ちを考えたことはある? 待たされる側の立場、貴方なら分かっていると思っていたけれど……違ったみたいね」
と首を竦めて見せる中条さんの言葉に、僕は言葉をつまらせる。
「今日一日、貴方からなんの行動もしないのなら、貴方に教えたIDを変更するわね。そうすれば、貴方と美月は一生会うことも、話すこともないでしょう。よくよく考えなさい」
中条さんはそう話し、颯爽とその場を後にした。
残された僕は、しばし呆然とするしか出来なかった。
†
「う~ん……」
兄さんの介抱をし、家事や作り置きご飯を作り終えてアパートに帰宅した僕は、ノートパソコンの前で唸っていた。
時刻は午後二時前。充分に連絡可能な時間帯だ。
――貴方は身を引けばそれで終わりでしょう。だけど、このままでは美月が持つ物語は終われない。貴方、美月の気持ちを考えたことはある? 待たされる側の立場、貴方なら分かっていると思っていたけれど……違ったみたいね。
中条さんの言葉が耳奥で響く。
言われて初めて気がついた。
確かに自己完結した僕の物語は終わりを迎えるが、何も知らない美月さんの物語はずっとモヤモヤしたままで、終わりを告げることはない。
物語のページを開いても開いても、この先は無地のページばかり。それでも次を期待してページを開き続ける。それは僕の存在がどうでもよくなるまで、もしくは、対象を忘れられるまで続けられるのだろう。
昔、兄さんと音信不通になったことがある。
その時は兄さんの生存を心配したり、本当は嫌われて見捨てられてしまったのだと思い込んだり、今は忙しいだけなんだと言い聞かせてみたりと、眠れぬ夜を過ごしていたものだ。
このまま僕がなにも行動も起こさなければ、この物語は強制終了される。それでもいいのではなかろうかと思ってしまう僕は、なんて弱虫なのだろう。
――優太。未来のことを考えるな。過去を思い返すな。俺達は、“今・ココ”でしか生きられないんだ。一秒後にはどうなっているか分からない世界。病死しているかも知れない。交通事故に合うかもしれない。自然災害に見舞われるかも知れない。俺達は一秒後には、どうなっているか分からないんだ。分からないからこそ、“今・ココ”を生きていかなきゃいけねーんだよ。優太。恐れるな。前に進むことを。恐れるな。希望の道に進むことを。恐れるな。自分の気持ちに正直になることを……。
いつかの日、兄さんが僕に言ってくれた言葉と、その時の真剣な兄さんの顔が、脳裏にフラッシュバックする。
「過去でもなく、未来でもなく、今を見て、今を感じて、今・ココを生きる……」
僕の今の感情だけを見ると、美月さんともっと親しくなりたいし、もっとお話し出来たらいいなぁと思っている。思ってはいるが、その先の未来に幸せがあるとは思えない。
もっともっと親しくなれたとしたら、きっと僕の想いはもっと膨大してしまう。その膨大した想いのまま縁を強制終了させられてしまったら……。もし美月さんに嫌われてしまったら――そんな想いが邪魔をして、僕を前に進ませてくれないのだ。
――うじうじ考えるな。今笑えていたら、きっと未来でも笑える。今笑えないなら、未来も今が続くだけだ。前に進まないと何も分からない。何も分からないままだと、ずっとモヤモヤしたまま生きて行かなきゃいけねーんだ。そんな重いモノを背負って生きていくのは辛いぞ。当たって砕けてもいい覚悟で行け。
友人と喧嘩をして、うじうじしていた僕に対し、兄さんはそう言って背中を押してくれたことがあった。
兄さんの言葉はいつだって、正しいのだと思う。子供の時は分からなかったが、兄さんの言葉には、兄さんの人生が乗り移っている。きっと兄さんは母さんのことで、ずっとモヤモヤした思いを抱えて生きていたのかもしれない。
美月さんはこの九日間、考えても答えが分からないモヤモヤを、ずっと抱えていたのだろうか? もしかして、僕の連絡を待っていてくれていたり……していたのだろうか?
「……不確定な未来に怯えて降参するよりも、自分の五感で世界を見ていった方が絶対にいいよね」
これから先も美月さんと向き合っていく覚悟を決めた僕は一度一呼吸置き、リモートアプリ OCEAN. を立ち上げた。そして、ユーザーID mituki941 に検索をかける。
夜の海に満月が輝く神秘的なアイコンを持つ、mituki941のユーザーが一名上がってくる。
OCEAN.に同じユーザーネームを持つ者はいない。よって、このユーザーが美月さんであることが確定した。中条さんに騙されていなければ、の話だが。
「これで、本当に繋がるだろうか?」
僕は一抹の不安を抱えながら、通話リクエストをクリックした。
♪プルルル、プルルル――♪
二回程の通話コール音が響き、しばしの無音時間が続く。
ブッ! という機械音が響き、通話リクエスト画面から一人の少女の映像に切り替わる。
胸下辺りまで伸ばされた痛みのない水晶に近い、アクアマリン色をした髪。その色より透明感を増した瞳はキラキラと輝き、こちらを見ていた。
傷一つないきめ細やかな肌は、雪のように白い。抱きしめたら壊れてしまいそうなほど華奢な身体を包むのは、前後アシンメトリーとフリルが印象的で可愛いらしい白色のフィッシュテールフリルワンピース。
本当に絵本から飛び出してきた妖精のようだった。
だが左耳には補聴器がつけられており、僕と同じ現実世界の住民であるのだと実感させられた。
美月さんの桜色の唇がパクパクと動く。その音が僕の耳に届くことはない。機械トラブルなどではない。美月さんが本来出せるはずの音が失われているのだ。
クロスさせた両掌で顔を隠すところから、両掌を外側に動かし、向かい合わせた両人差し指を第二関節から下げる。
[こんにちは]
僕は自分の声でも伝えながら、手話をする。
美月さんはホッとしたように身体の力を抜き、微笑みを浮かべながら僕と同じ動きをする。
[コール対応]
親指と小指だけを突き出した左手を、左耳に当てるように持ってゆき、小首を傾げる。
その後、指文字で、対応を表し、ありがとうは手話単語を使う。
美月さんは人差し指で自分を差し、僕と同じ動きをする。
[私も、通話ありがとう]
というニュアンスだろう。手話単語では繊細な表現や方言が出来るわけではない。だから、ニュアンスで読み取ってゆく翻訳に近いものがあった。
[連絡]
僕は左手で親指と人差し指でリングを作り、右手でそのリングを指の鎖で繋げるようにして、同じ指リングで∞マークを作る。
“先を教えてもらっていたのに、今になって”は指文字を使う。
次に、右手の親指と人差し指で眉間のシワを摘まむような仕草をして、その手を顔の前で頭と共に下げ、[ごめんなさい]と伝える。
美月さんはそんな僕に対し、少し慌てたように首を左右に振った。そして、少し曲げた右手を左胸に当ててジャンプするように右胸に動かし、指先を右胸に当てた。
[大丈夫]
美月さんの返答に、これは気を遣わせてしまっているなと感じた僕は、すぐ前に進めなかった自分を悔いる。
[通話]
“もらえて”を指文字。
両掌を胸の前で、交互に上下させる。
この動きは、嬉しいとき、楽しいとき、喜ぶときに使う表現法だ。
そして、ありがとう。と手話。
美月さんの整い過ぎた顔は、どこか現実味がないように感じることもあるが、手話でお話しをする美月さんの表情は、とても豊かで人間味が溢れていた。
[元気ですか?]
と伝えるため、胸の前で両拳を肘と共に上げた状態で、握り拳を二回上下させながら首を傾げる。
美月さんは笑顔で僕と同じように手を動かす。疑問ではないため、首は傾げずに、表情で表現していた。
今までは手話は、手だけで成り立つものだと思っていた。だが実際は、感情を表情で表現することがとても大切だったのだ。
まるで、手では踊りを、表情では感情を表現するミュージカル俳優のようだ。手話を操ることが出来る人は、愛ある<表現者>なのかも知れない。
[美月さんは]
と伝えながら、人差し指で美月さんを指差す。掌で表現した場合、また違う手話単語になる可能性が無きにしも非ずのため、多少の罪悪感を抱えながら、マニュアル通りに動く。
[朝、何時に起きるの?]
握り拳を米神に当て、鎖骨辺りまで下げる。次に手首を人差し指で指し、左人差し指を左右に振る。
拳で太陽を表し、手首で時計を、指振りでクエスチョンマークを表している感じだろうか。
美月さんは僕の質問に対し、手首を人指し指で指した後、親指と人差し指と中指を立てた手の甲を僕に見せ、掌を横に向けて左右に動かす。
[七時頃]
[そっか]
と、僕は笑顔で大きく頷く。
そうして僕達は、一時間程他愛のない会話を交わし合うのだった。
一ヵ月後――。
あれから毎日一時間程リモート会話を重ねた僕達の距離は、穏やかに縮んでいた。
美月さんの日常、好きな食べ物、好きな音楽、色々なことを知った。呼び方も進化し、敬語もほぼなくなっていた。それでも、美月さんの内情を知ることはなかった。
もっと深く知ってみたい、というエゴが出る時もあるが、深追いをしないようにコントロールする。美月さんと他愛もないお話をする時間がとても幸せで、壊したくなかったから。
[おはよう]
瞼を瞑り、左拳を枕のようにして眠る仕草をした後、瞼を開けながら頭を起こす。それと同時に、左拳は下げる。
その後に、向い合せた人差し指同士をこんにちは。という風に、第二関節から曲げた。
[おはよう]
美月さんも、僕と同じ仕草をする。
時刻は九時。
[体調はどう?]
右手を開いて、掌を胸の前で一回転。これで身体を差す。
胸の前で開いた左掌の上で、右拳を三回転で《調子》。
身体+調子=体調。となるらしい。合わせ技で一つの単語となるのは面白い。
その後。右手を開いて指先を相手に向けて軽く左右に振りながら、小首を傾げる。
これが、《どう? どうですか? いかがですか?》という表現になるようだ。
手話は知れば知るほど興味深くて、奥深いと感じる。
美月さんは、[いいですよ]と、左小指を下唇の下に当てる。
その後、元気にしています。とでも言うように、笑顔で《元気》を手話で表現する美月さんは、今日も可愛い。
[今日はお出かけの日ですよね?]
手話で問うてくる美月さんに大きく頷く。
[兄さんのところに行くんだ]
今日は兄さんのマンションに行って、作り置きを作る曜日だった。
[本日のメニューはなんですか?]
美月さんの質問に対し、僕はスマホを操作をする。
「肉じゃがだよ」
と言いながら、スマホ画面に映る肉じゃがの写真を美月さんに見せる。
僕が手話で表現しきれないモノは、写真や映像を美月さんに見てもらっている。
[美味しそうですね]
[和食、好きですか?]
僕の問いに美月さんは笑顔で頷く。
[僕も、和食が好き。心が温かくなります]
[今日は、お兄さんの所にお泊りしますか?]
[三日、泊まります]
[いいなぁ]
[?]
僕は何に対してのいいなぁ、なのかが分からず、小首を傾げる。
[三日も優太さんと一緒に過ごせていいなぁと。私もまた、優太さんに会いたくなります]
指文字も加えながら、そう伝えてくる美月さんは少し寂しそうに微笑む。
[僕も、またいつか美月さんに会えたらいいなぁと思っています]
僕はそう伝え、力のない笑みを浮かべる。
一ヵ月間、美月さんとリモートをできど、一度も会えることはなかった。中条さんからは何の連絡もない。これ以上の進展は許されていないのだろう。きっと僕達はこれからも、このガラス越しでしか会えないのだと、なんとなく思う。
何故、人間は与えられたものでは満足出来ないのだろう?
最初は文通だけでも嬉しくて、奇跡のようだった。だけど、美月さんの顔を見てお話ししたいと願っていた。それはリモート通話という形で叶ったのだが、次は対面で話したいと願ってしまう。
その僕の願いが叶うとは、この時の僕はまだ知らなかった。
美月さんが何故、人と接触しないのかも――。
二ヵ月後――。
午前十時。
僕達はガラス越しに会って話しをしていた。
[美月さん]
兄さんのマンション。ダイニングテーブルで自分のノートパソコンを開き、画面越しの美月さんに手話で呼びかける。
[?]
僕の手話での呼びかけに、美月さんはどうしたの? とでも言うように小首を傾げる。
[美月さん、無理していませんか? 今日は顔色が良くないように感じます。体調は大丈夫ですか?]
[大丈夫です]
と答える美月さんは微笑んでくれるが、顔の血色が悪い。いつもうるツヤで桜色の唇は、ほんのりかさつきを感じるし、頬と共に血色が悪い。
[今日はもうリモートをお終いにしましょう? 無理は良くないです]
美月さんはがぶりを振る。
[また明日おは――]
イヤよ! 美月さんはそう叫ぶように口を動かす。美月さんが僕に対して感情的になるのは、これが初めてのことだった。
[私には時間がないんです]
[?]
手話で読み解いた美月さんの言葉の意味が分からず、僕は小首を傾げる。
[だって私、もうす――ッ]
美月さんは手話の途中で物音を立てながら、左横に倒れ込む。
「美月さんッ⁉」
それに慌てた僕は、机に前のめりになりながら画面を見る。
先程まで美月さんが座っていた背もたれの高い白のチェアは、斜めに動かされる形で止まっている。背景は赤い薔薇を基調にデザインされた遮光カーテン。そこに美月さんの姿はなく、物音一つ聴こえてこない。
「美月さん? 美月さん! 美月さんッ‼」
何度呼び掛けても無音と同じ画面。まるで写真を写しているようだ。そもそもどこまで僕の声が聞こえているかが分からない。
「どうしようッ」
立ち上がる僕は両手で頭を抱える。焦りから、即座にいい案が出てこない。
救急隊員を呼ぶにも何号室か分からない。マンションのコンシェルジュに頼むも同じこと。兄さんを頼ることは出来ない。
僕は唸りながら、意味もなくダイニングテーブルの周辺を、グルグルと歩き回ってしまう。
――リモート中、美月に何かあれば、私に電話をかけてきてちょうだい。
中条さんにもらったメモ内容の文字が脳裏に浮かぶ。
「そうだ、中条さんッ」
通常ならショートメールで通話の良き悪きを聞くところだが、今回ばかりはそうも言っていられない。
僕はアドレス登録している中条さんの番号をコールする。
♪プルルー、プルルー♪
呼びかけコール音の二回がやけに長く感じた。
「お願いしますッ。中条さん。出て下さい……ッ」
切実な祈りが届いたのか、三回目のコールで、どうしたの? という、中条さんの冷静な声が耳に届く。
僕はその声につい安堵の溜息を溢してしまうが、全然落ち着ける状態ではない。一秒でも早く状況を伝えなければ。
「中条さん、あの、今――ッ」
「美月がどうしたの? 何かあったのよね?」
僕が皆まで言う前に中条さんが問うてくる。
「た、倒れて、呼びかけても、も、物音一つ聞こえなくてっ」
震える声で答えながらオロオロする僕に対し、中条さんは驚くほど冷静だった。
「貴方、今どこにいるの?」
「兄さんの部屋です」
「一〇二号室」
「はい?」
「コンシェルジュに連絡を入れておくから、貴方は早急に一〇二号室の鍵をコンシェルジュから受け取り、美月の様子を見てきてちょうだい」
「ぇ? な、中条さんは?」
僕は思いもしていなかった指示に戸惑う。
「会社からマンションまで一時間以上かかるのよ。魔法でも使わない限り、早急に駆け付けるだなんて無理だわ。それなら、貴方のほうが早いでしょ?」
「へ、部屋に入ってもいいんですか?」
「美月の危機なのよ。背に腹は代えられないわ。貴方が何かしたら独房にぶち込むだけの話し。一度電話切るわね」
「ぇ、ちょっ」
しれっと怖いことを言った中条さんは、僕の言葉を最後まで聞かず、電話を切る。きっとコンシェルジュさんに連絡をつけるのだろう。
僕はノートパソコンを閉じ、走ってエントランスに下りる。
もし美月さんが画面に映っても大丈夫なように、人の目に触れなさそうな柱に隠れた僕は、立ちながらノートパソコンを確認する。映像は変わりがなく、物音も聞こえてこない。
イヤホンを装着して音量を上げてみる。
「ヒュー、ヒュー」
「⁉」
微かにだが、苦しそうな息が耳に届く。息というより、喘鳴に近い。
ノートパソコンを閉じてトートバッグに終った僕は、再び中条さんと連絡を取るため、尻ポケットからスマホを手にする。
♪プルルー♪
タイミングよく中条さんからの電話がかかってくる。僕はその電話に秒速で対応した。
「中条さん、美月さんが!」
「早く確認してきて。話は通してあるから。美月はリビングに居ると思うわ。タクシーが来たから、また後で」
いつもよりもやや早口で電話切る中条さんの声音に、少し焦りの色を感じた。
今からタクシーに乗るということは、一時間は帰ってこられないということだろう。やはり、中条さんの帰宅をおちおち待ってはいられない。
僕はドキドキしながらコンシェルジュさんに合鍵をもらい、一〇二号室に足を踏み入れる。
†
「美月さん!」
半ば靴を投げ捨ててしまった僕は通路を走り、リビングの部屋の扉を開ける。
ホワイトゼブラ柄のような大理石のリビング机に、白のノートパソコンが一つ。背もたれが高い白のチェアーが四脚。そこには誰も座っていない。
「美月さん⁉」
来客用のスリッパがどこにあるのか知る由もない僕は、無遠慮にリビングの中に入る。
斜めになっているチェアーから崩れ落ちたように、美月さんが横向きで倒れていた。
「み、美月さんッ! 大丈夫ですかッ⁉」
邪魔な椅子をどかし、美月さんを抱きかかえようとした僕の両掌を拒絶するかのように、両掌に強い痛みが走る。
「⁉」
まるで何かに刺されたかのような強い痛みに、バッと両手を引く。
両掌を見て見れば、赤みがさしていた。それだけじゃなく、永続的にズキズキした痛みを感じる。
「な、んで……」
可笑しい所はそれだけじゃない。
僕の手が微かに触れた美月さんの腕の色素が薄くなっていた。僕の指跡がくっきりと分かるほどだ。
「……」
美月さんはパクパクと口を動かすが、その音が届くことはない。口の動きで読み解くことは、今の僕には出来ない。
美月さんは苦しそうに肩を上下させる。頬は赤く染まり、汗で前髪が額に張り付いている。熱があるように思うが、確認しようにも先程のことが気がかりで、安易に触れることが出来ない。触れた個所はまだ痛む。もう訳が分からない。
――……私だって、手を貸せるものならそうしてあげたいわよ。
美月さんと初めて出会った日、倒れた美月さんに手を貸そうとしないのは何故なのか問うた僕に対し、中条さんはどこかやるせなさを抱えるようにそう答えたシーンが脳裏に甦る。
「だから……なの?」
どんどん赤みが増してくる両手を見ながら呟く。その問いに答えが与えられることはない。
♪コンコン♪
「!」
肩を震わして驚く僕は、美月さんを見る。
先程まで苦しそうに硬く瞼を瞑っていたはずの美月さんの瞳は、薄っすらと開かれていた。
♪コンコン♪
美月さんは指先でフローリングを控えめに叩く。
[大丈夫ですか?]
僕は手話で問う。
美月さんは手話で話すことはなく、フローリングに人差し指で文字を書く仕草をした。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
ノートパソコンを入れていたトートバックから、B5のノートとボールペンを取り出した僕は、白紙のノートページを見開き、美月さんの顔の近くに置く。次に、蓋を開けたボールペンを美月さんの手元の近くにそっと置いた。
【ゆうたさん】
震える手でボールペンを力なく持った美月さんは、そう文字を綴る。力が入らないのか、文字はミミズ文字のようにひょろひょろだ。書けるはずの漢字も、ひらがなになっていた。
[どうしました? 体調。熱?]
【だいじょうぶ。ただのねつです】
【やっと、おあいできた】
美月さんは嬉しそうに、へにょりと力なく笑う。
「⁉」
美月さんの笑顔が驚きに変わる。
[? どうしましたか?]
【そのて】
「ぁ」
僕は慌てて両手を背中に隠す。
【ふれたんですね。わたしに】
「えっと……」
僕はバツが悪そうに視線をさ迷わせるが、背中に手を隠したままでは、手話会話は出来ない。
[すみません。抱き起そうとしたんです]
【すぐ、おゆで、てをあらってください。せんざい、つけないでください】
「ぇ?」
【はやく!】
「は、はい! キッチンかります」
潤んだ瞳で僕を睨んでくるような美月さんに慌てた僕は、ドタバタとキッチンに向かう。兄さんと同じマンションのため、使い勝手が同じで助かった。
どうしてお湯で手を洗わなければならないのか、僕には分からなかったが、今は美月さんの指示通りに動くことにした。
「キッチンペーパもらいます」
現在ハンカチを所持していないため、目についたキッチンペーパーを二枚ほど拝借する。どこかにキッチンタオルがあるのだと思うが探すわけにもいかないし、使う訳にもいかない。
出したごみは尻ポケットに突っ込む。家の主がいないところで、好き勝手には動きたくない。
「美月さん」
手を洗い終えた僕は慌てて元の場所に戻る。
【中条さんは?】
[今、タクシーで、帰宅中です]
新たに書かれていた文字に対し、僕は手話で答える。
[病院、電話、しますか?]
【だめ!】
美月さんは慌てたように書く。その表情には焦りが見えた。
[じゃぁ、せめて、ソファかベッドに横になりましょう]
【ほこうき】
「?」
【中条さんのへやに、ほこうきがあります。それを、とってきてくれませんか?】
[少し、待っていて下さい]
僕は慌てて中条さんに電話をかける。勝手に入ることも可能だが、女性の部屋に無遠慮で入ることは気が引ける。しかも、そこまで親しくない目上の相手だ。
『もしもし、美月は大丈夫?』
「大丈夫かは分かりません」
『分からないってどういうこと? 意識はあるのよね?』
僕の正直な答えに対し、中条さんは少し焦る。
「意識はありますが、高熱がありそうな雰囲気で。後、中条さんの部屋にある歩行器を取って来て欲しいと……部屋に入ってもいいですか?」
『そう。えぇ、かまわないわ。寝室はリビングと隣接している部屋よ。美月を私のベッドに寝かせてちょうだい。冷蔵庫に冷却シートがあるから、それを美月に渡して。自分で貼ると思うから。その後は、美月に聞いて。美月の要望は全て聞いてあげて。自由に家を動いてもらって構わないし、家にあるものを使っても構わないから』
「はい」
『じゃぁ、私がつくまでお願いね。もう数十分かかるから。急変したらまた連絡してきてちょうだい』
「分かりました。ありがとうございます。失礼します」
僕はそう返事をして電話を切る。
[今から持ってきます]
美月さんにそう手話で伝え、ドタバタとリビングに隣接する部屋に足を向ける。
開け放たれたカーテンから、心地の良い陽の光がたくさん入る部屋。兄さんとは違い、落ち着いた大人の女性の部屋と言う感じに、介護用の歩行器補助だけが、ぽかりと浮かび上がっていた。
「お邪魔します」
一言断りを入れてから部屋に入り、歩行器補助をガラガラと押して、早足で美月さんの元へと戻る。
[美月さん、大丈夫ですか?]
美月さんは頷くように、ゆっくりと瞬きを一回する。
【ありがとうございます】
と書いた美月さんはペンを手から離す。そして、両手で上半身を起こす。危なっかしくて思わず手を伸ばすが、ダメ。というように、美月さんの唇が動く。
どんな状態であっても触れてはいけないし、触れられたくないのだろう。
美月さんに触れて赤く爛れた個所が、今もズキズキと痛む。
美月さんは傍にあったチェアーを補助にして、フラフラと立ち上がる。僕はUの字になった歩行器補助の空洞部分を、美月さんに向けて手渡した。
<あ・り・が・と・う・ご・ざ・い・ま・す>
とでも言うように、美月さんの唇が動く。
僕は気にすることないよ、とでも言うように、微笑みながら首を左右に振った。
美月さんは歩行器補助に捕まりながら、覚束ない足取りで寝室のベッドに向かう。
こんな近くにいるのにもかかわらず、肩を貸すことも、支えることも出来ない。そのことを悔しく思うが、仕方がない。どうしようもないのだ。と、先程から消えぬ痛みが言ってくるようだった。
[大丈夫そうですか?]
ベッドで横になってホッと一息ついた美月さんに手話で問うと、美月さんはコクリと頷き、そっと微笑んでくれる。
[他に何かして欲しいことありますか? 飲み物とか]
[お水を。グラスはキッチンに]
美月さんの手話に頷き、画像検索したスマホ画面を映す。スマホ画面には、ウォーターサーバーが映っている。先程キッチンに足を踏み入れた時に見かけたものと同じ商品だ。けして盗撮したわけではない。
[はい。いつも、ここから出したお水、飲んでいます]
[分かりました。少し待っていて下さい]
美月さんの返答を理解した僕は、急ぎ足でお水を取りに行った。
「お待たせしました」
高級グラスが多くてどれを使っていいか分からず、マグカップにお水を注いできた僕は、美月さんの傍で膝を折る。
ベッドボードに背を預けていた美月さんは、ペコリと会釈をする。
右手でマグカップを顔の前に合わせ、左手でベッドサイドテーブルを指差す。ここに置いてもいいですか? とでも言うように。
僕のジェスチャーが通じたのか、美月さんはコクリと頷いてくれた。
[何か、お薬とか飲まなくても大丈夫ですか?]
[大丈夫です。お水、ありがとうございます]
と伝える美月さんはそっと微笑み、マグカップを手に取る。半分ちょっと注いだ水が入ったマグカップを持つことさえ辛いのか、両手がフルフルと震えていた。
溢さないか不安を覚え、つい手を出しそうになるが、慌てて引っ込める。きっと、過度なサポートをしてはいけない。それに、また肌に触れてしまっては大変だ。
幼子のようにマグカップを両手で持ち、喉を潤した美月さんは、ホッと小さな息を吐く。
[具合はどうですか?]
僕の手話での問いに対し、美月さんはマグカップを元の位置に戻し、[大丈夫です]と伝えてくれる。
[先程より、ずいぶんと良くなりました]
と微笑む美月さんの瞳は虚ろで、両頬はりんご飴のようだった。
本当に大丈夫なのかと心配になるが、美月さんの言葉を信じるしか出来ない。何故、歩行器補助を必要としているのかも気になる。だが安易に聞くことは出来ないだろう。
[中条さんは、もう少しかかると思います]
[そうですか]
[中条さんが帰宅されるまで、ココにいてもいいですか?]
いつかの日、中条さんが話していた美月さんの過去。
――誰もいないはずの浜辺を歩いていたら、あの子が倒れていたのよ。それも、産まれたままの姿でね。
中条さんの言葉を思い出し、確認を取る。
それを深読みすれば、男性恐怖症、もしくは多人恐怖症となっていても可笑しくはない。
[はい]
[美月さんは、スマホとか持っていますか?]
美月さんは僕の問いに小さく頷く。
[私のスマホは、リビングテーブルの上にあります]
[持ってきてもいいですか?]
[はい。お願いします]
美月さんの返答に笑顔で頷いた僕は、美月さんのスマホを取りに行った。
「美月さん」
と声をかけながら、歩み寄る。僕の声が聞こえているのか定かではないが、美月さんが微笑みを絶やすことはない。
「ここに置いてもいいですか?」
と美月さんの膝の上を指差して確認する。
手渡せたら良いのだが、極力肌に触れあう可能性を無くしたほうが良いはずだ。
コクリと頷く美月さんに微笑む僕は、そっとスマホを置いた。
[私のせいで、ごめんなさい。きっと、凄く痛いですよね?]
「ぇ?」
僕は唐突な謝罪に驚く。
美月さんは僕の炎症を起こしている両掌を指差す。
[私のせい? 触れたのは僕です。だから、僕の方がごめんなさい]
僕はこの謎に踏み込んでいいのか分からず、妥当な言葉を伝える。実際、無遠慮に触れてしまったのは僕なのだ。
[私、人と触れ合えない体質なんです]
「?」
もう少し理解しやすい話しを求めるように小首を傾げる僕に対し、美月さんは手話を続けてくれる。
[私に触れた人は、皆様、こうなってしまいます。だから、私は、誰とも触れ合うことが出来ない。それが、どんなに大切な人でも]
「……」
美月さんの話にどう答えればいいか分からず、僕は刹那の沈黙をしてしまった。美月さんの話に、そんなことがあるのだろうか? と不思議に思うが、僕の掌の赤みや痛みが事実だと物語っていた。
[僕は、大丈夫。見かけに寄らず痛みには強いほうですので]
兎にも角にも、罪悪感を抱えてしまっている美月さんに安心してもらえるように、歯を見せながら笑って見せる。
そんな僕に対し、美月さんは申し訳なさそうに眉根を下げる。
[僕より、美月さんは大丈夫ですか?]
[?]
[痛くないですか?]
そう手話で伝える僕は、美月さんに触れた個所を指差す。美月さんの左腕には、今でも僕の指の跡がくっきりと残っているのが分かる。
[大丈夫です。私は痛くないです]
[それ、跡が残ってしまいますか?]
僕は不安げに問う。故意ではないとはいえ、女性の身体になんらかの傷跡を残してしまいたくない。
[大丈夫です]
と微笑む美月さんの返答に、僕はホッと安堵の息を溢す。
その後、しばし沈黙が流れる。
[……えっと、じゃぁ、僕はリビングにいますので]
美月さんのスマホと共に、リビングから回収してきたノートを一ページ破り、ボールペンで僕の携帯番号を書いたものを、サイドテーブルの上にそっと置いた。
[何かあれば、ココに電話を下さい。飛んできます]
同じ部屋にはいないほうが良いだろう。きっと僕がずっといては、気が休まらないはずだ。心配なので傍にはいたいが、僕が目につかない方がいいかもしれない。
[ありがとうございます]
と伝えてくれる美月さんだが、その表情は少し寂しそうで、ココに居てもいいのかと勘違いしてしまいそうになる。だがきっと、僕が居たら居たらで気を遣わせてしまうはずだ。
[何かあれば、何なりと]
そう手話で伝えた僕は、寝室を後にした。
四十分後――。
カチャ。
ドアノブの動く音が沈黙だった部屋に響く。
「中条さんッ」
僕はドタバタと玄関へと駆け寄った。
「美月は?」
足首に布が巻き付いたような脱ぎにくそうなヒールを、片足立ちになりながら、慣れた手つきで脱ぎながら問うてくる中条さんの肩は、軽く上下していた。走ってきたのだろうか?
「寝室のベッドです。僕はリビングに居たので、今も起きているかは分かりません」
「どうしてリビングに?」
左足のヒールを脱ぐ手を止めた中条さんは、不思議そうに問うてくる。
「僕が同じ部屋にいたら、美月さんの心が休まらないかも知れないと思ったので」
「……そう。ありがとう」
少し意外そうな顔をした中条さんだったが、直ぐ真顔に戻る。ヒールを脱ぎ終えた中条さんは、足早に寝室に向った。僕はついて行くことはせず、玄関で大人しくしていた。
しばらくして、二人は話が終わったのか、中条さんが玄関へと戻ってきた。
「貴方、どうしてまだそこにいるの?」
「いや……聞かれたくないお話も、あるかと思いましたので」
僕は視線をさ迷わせながら答える。
「そう。色々と気を遣わせたわね」
「それで、美月さんの容体は」
「……風邪、のようなものだと思うけれど」
中条さんは拳を口元に当てて、煮え切らない答えを返してくる。
「ようなもの? 病院で診てもらわなくても大丈夫なんですか?」
「あの子を安易には外に出せないわ。それに、病院で診てもらうということは、人の体温に触れるとい
――⁉」
中条さんは話の途中で瞠目する。
「どうしたんですか?」
「それはこっちの台詞よ。貴方、その掌どうしたのよ。赤く腫れあがっているみたい」
「ぁ、これは……」
中条さんの言葉にハッとする僕は、正直に言うべきか分からず、思わず両手を後ろに回す。
「た、ただの、虫刺され、的なものです」
と、少しの迷いをさ迷い、しどろもどろになりながらも、妥当な嘘を付く。
――生きているようだったから、取り合えず警察に通報しようと、バックからスマホを取り出したらあの子が目を覚ましたのよ。話が聞けると安堵したのも束の間、あの子は何かを叫びながら転がるように逃げ回って、本当に大変だったわ。だって服を着ていないんだもの。事情を聞こうにも声が出せないし、砂に文字を書いてもらおうとしたけれど、あの子は文字が書けなかった
中条さんが美月さんを見つけて助けようとしたときの話を思い出す。
中条さんがその後、美月さんの肌に一度も触れていないとしたら、美月さんが体質のことを話していないとしたら、このことは知らないはずだ。知らないのなら、言わない方がいい。美月さんの隠しことならば、美月さんの口から伝えるほうがいい。
「……そう」
しばし怪訝な顔で僕を見ていた中条さんであったが、小さく頷く。納得いってはいないようだが、それ以上は中条さんが深入りしてくることはなかった。
「後のことは私に任せて。貴方はもう帰ってくれても構わないから」
「ぇ?」
「貴方がいてくれてよかったわ。ありがとう。助かったわ」
中条さんはそう言って微笑む。その笑みはいつもの余裕たっぷりのものではなく、安堵したような穏やかなものだった。
「……いえ。僕は何も」
控えめに首を左右に振る。
「何も? 貴方は色々してくれたわ。私に電話をかけ、私の指示通りに動き、美月の安否を確認。美月の話を聞き、それ通り動いていいのかを確認するため、わざわざ私に電話をかけてきた。緊急にも関わらずにね。
その後、歩行器補助を美月に渡し、ベッドにつくまで見守った。初めての家で勝手も分からぬままマグカップに水を注ぎ、美月に渡してくれた。美月への配慮から、電話番号を渡し、リビングで私の帰宅を待っていた――これのどこが”何もしていない”になるのかしら?」
「ッ」
「過度な謙遜は、自分のした行いを否定するも同然よ。それを続けていれば、貴方の心は、自分に否定されているのだと思い、どんどん自信を無くしてゆくわ。もっと堂々としていなさい」
「自信……」
「自信は誰でも身につけられるダイヤモンド。自分を輝かせるモノよ。貴方にはそれがない。もし今後も美月の傍にいることを望むのならば、自信というダイヤモンドを身につけなさい。また私の方から連絡するわ。それまでは、リモートはお休みよ」
「……はい。お邪魔しました」
「忘れ物は?」
「ありません。失礼します」
僕はペコリと会釈をして、静かにその場を後にした――。
†
三日後――。
兄さんの家できんぴらごぼうを作っていた僕の手付きは、いつもよりぎこちない。
あれから赤く爛れた手は赤みが引いてきたものの、まだ痛痒さが残っていた。
「美月さん、無事なんだろうか?」
その呟きに答えるかのように、僕のスマホからショートメール通知音が届く。
「中条さん?」
期待を抱きながらスマホを確認すると、中条さんからショートメールが届いていた。
【こんにちは】
の件名から始まり、今電話しても大丈夫かの確認内容だった。それに対し僕はすぐに二つ返事を送った。
ショートメールの代わりに、すぐにスマホの着信音が鳴り響く。もちろん着信相手は中条さんだ。
「はい。もしもし」
『こんにちは。美月のことで少し話があるの。今は貴方一人?』
「はい。今兄さんの家にいますが、兄さんは不在です」
『そう。色々とちょうどいいわね』
「美月さんの体調はどうですか?」
何に対してちょうどいいのか分かりかねるが、取り合えず、僕が今一番気になっていることを聞くことにする。
『えぇ。一応熱は下がっているから、そこは安心してちょうだい』
「一応?」
『美月はしばらくリモートをしたくないと言っているわ』
「ぇ⁉」
中条さんは僕のモヤモヤを解消させることなく、更なる不安を投下してくる。
『一応言っておくけど、美月が貴方のことを拒絶しているわけじゃないわ。その証拠に、あの子から手紙を預かっているのよ』
中条さんは僕の心の揺れを感じ取ったのか、すかさずフォローをしてくれた。
「それは……良かったです。手紙ですか?」
僕は張り詰めた糸を少し緩め、問いかける。
『えぇ。今日はそれを貴方に渡したくて電話したの。今から、マンションのエントランスに下りてこられる?』
「はい。もちろんです」
『じゃぁ、前回と同じ場所で待っていてちょうだい。後十分程でマンションにつくから』
「分かりました」
『はい。じゃぁ、また後でね』
と言った中条さんは電話を切った。
僕もスマホ画面を元に戻し、マンションのエントランスへと降りた。
†
マンション、プラージュ・零。エントランス。
ブドウを主とした、四台のステンドグラスランプが各端に置かれている。ランプが置かれた中央には、ワイン色のベアロ生地の背もたれ付き椅子が十六脚。その中央には、丸いガラステーブルが四脚。カウンター席が合計四席出来るように、それぞれ設置されている。
時刻は午後二時。
僕の他に右上端の席には、来客が二人いた。スーツ姿をした三十代前後の男性と、シンプルな黒のAラインワンピースを着用した二十代前半の女性が、ガラステーブルを挟み、向かい合いながら座っている。
二人の表情は真剣で、男性はノートパソコンを女性に見せながら何かを確認している。仕事の話だろうか?
僕はその二人から出来るだけ離れるように、左下端の席の椅子へ腰を下ろした。
相も変わらず、座り心地が驚くほどふかふかしている。精神が穏やかであれば、このまま眠りについてしまいそうなほどに心地よい。が、僕の精神は青ざめていた。
リモートをしたくないと言うのは、一体どういうことなのだろう?
中条さんは、美月さんが僕のことを拒絶しているわけじゃないと言った。なら、美月さんの体調が優れないことが理由なのだろうか? 熱は下がったと言ったが、“一応”という中条さんの言葉が気がかりだ。美月さんの体調は、本当によくなっているのだろうか?
僕が独り悶々と不安を抱えたまま待ち人を待っていると、ほどなくして黒のパンツスーツスタイルをした中条さんが現れた。
「待たせたわね」
ヒール音を鳴らし、僕の元に歩み寄る中条さんの顔色は少し疲れが見える。
「いえ、そんなに待っていません。大丈夫です。……中条さん、ちゃんと休めていますか?」
僕は立ち上がってそう話す。実際、五分も待っていない。タワーマンションとなると、エレベーターの状況によって、エントランスに下りるまで五分以上かかることもあるのだ。忘れ物をしたらアウトだと、兄さんがよくごちていた。
「ぇ?」
中条さんは僕の問い掛けに、少し間の抜けた顔をする。
「ぁ! すみません。顔色がいつもより優れないようでしたのでつい。余計なお世話をすみません」
「貴方、人のことをよく見ているのね。……ストーカー気質?」
「なっ」
「冗談よ」
中条さんは僕の気を緩めようとしてくれたのか、冗談を繰り出してくれるが、なかなかにブラックで心臓が跳ねる。
「私の方は気にしないで大丈夫よ。ありがとう」
「いえ。……美月さんの具合は如何ですか?」
「何とも言えないわね」
中条さんは溜息交じりに言った。その表情はどこか暗い。
「座っていられないほど調子が悪いってわけではないんですよね?」
「まぁ、そうね。貴方に手紙を綴るくらいには元気があるみたいだけど」
いつもよりも気迫のない声音でそう返答する中条さんは、黒のクラッチバックから一通の手紙を取り出し、僕に差し出してくれる。
「そうですか。ぁ! ありがとうございます」
僕は中条さんから差し出された手紙を、両手でスッと受け取った。その受け取った手紙の封筒は、今まで見たことのないデザインだった。夜空に星屑のような星々を隠すような曇り空と、右斜め上に満月がプリントされたデザインだ。
「ふふふ」
「ぇ」
唐突な中条さんの空気のような笑い声に僕は戸惑い、きょとんとした顔で中条さんを見る。
「笑って悪かったわね。ただ、貴方が私の差し出したものを、こんなにも素直に受け取ったのは初めてだったものだから」
「ぁ! ……すみません」
「どうしてそこで謝るのよ。私は貴方を感心したのに、これでは台無しだわ」
中条さんは微苦笑を浮かべて言う。
「ぁ、つい。すみません」
僕はさらにテンパってしまい、またしても頭を下げてしまう。
「ふふふ。まだまだ貴方のダイヤモンドを磨かないといけないみたいね」
「自信……ですか?」
「そう。自信。自分を信じる力。貴方だけのとびっきりのダイヤモンドを磨きなさい。自信が充分にあれば、他者を受け止めることも、信じることも出来るわ。それと同時に、他者から傷つかされることを恐れなくなる。人生に対しての恐れが軽減する。その分、自分の心に素直に生きられるのよ」
中条さんが真摯に話してくれる言葉達は、僕の心に深く染み込んでいくようだった。
「……心に留めておきます」
「じゃぁ、私はこれで。美月への返事が書けたら、私にショートメッセージを送ってちょうだい」
「はい。分かりました。ありがとうございます」
「じゃぁね」
中条さんはそっと微笑み。マンションを後にする。仕事から帰宅したわけではなかったようだ。
残された僕は手紙を大切に握り、一度兄さんの部屋に戻ることにした。
†
「ふぅ」
僕は背もたれの高い灰色のレザーチェアに腰掛け、黒の太いNに似たうねりで支えている黒のガラス天板テーブルに、両腕を伸ばして突っ伏した。両手には中条さんから受け取った、美月さんからの手紙を握っている。一秒でも早く読みたいと思う反面、読むのが少し怖いとも思う。一体何が書かれているのか不安だ。
「……よっし」
小さな気合いを入れ、余裕たっぷりのレザーチェアの上で体育座りをした僕は、手紙の封を開けた。ありがたいことに、美月さんの手紙は毎回シール一つだけで封がされているため、綺麗に開けやすい。
【白崎 優太 さま】
「さ、様付け再来⁉」
宛名に様がついていることで急に距離感が遠のいたように感じ、僕はガクリと肩を落としつつ、手紙を読み進める。
【こんにちは。
ひさしぶりの、おてがみ。すこし、きんちょう、しています。
先日は、あぶないところを、たすけてくださり、ありがとうございました。おかげさまで、わたしのほうは、たいちょうが元にもどりつつあります。ですが、まだおかおを見せられるほどのものではありませんので、こんかいは、おてがみをかかせてもらいました】
と綴られている文面を読み、僕は余計に不安になってしまう。
体調が元に戻りつつあると書かれているが、顔を見せられるほどの元気はないということだ。それに、文字の筆圧が本当に細くてひょろひょろとしており、この手紙を書くことでさえも精一杯だったのではないか。相当無理をしたんじゃないだろうか? と答えのない予測が僕の不安を煽る。
【そのご、はだのぐあいは、いかがですか? たいちょうとか、くずされていませんか? しんぱいです。
私のたいしつのこと、もっとはやくいっておけばよかったと、こうかいしています。もしたいしつのことをいって、きょぜつされたら、とてもかなしいとかんじ、いえずにいました】
美月さんは罪悪感を拭いきれていないのかも知れない。もしかすると、自身の体質のことで誰とも分かり合えずに、独りで生きていたのかも知れない。今は中条さんが傍にいてくれているが、心の中ではいつも不安と格闘していたのではないだろうか? 美月さんが一番苦しいはずなのに、僕のことを心配してくれる優しさが切ない。僕はなんて無力なのだろう。笑顔になってもらうどころか、美月さんの笑顔を失わさせてしまっているではないか。
【もし、わたしのことを、おそろしいとおもったのなら、このてがみで、おわりにしてくれてかまいません。わたしは、優太さんをこわがらせたくありません。きずつけたくもないです。かなしませたくもないです。わたしはただ、優太さんにわらっていてほしいです。
天海 美月 】
「……美月さん」
手紙を読み終えた僕は、下唇を噛み締める。
きっと、美月さんは自分の気持ちよりも、相手のことを思って生きてきたことがこの手紙で分かる。
美月さんは自分の体質で誰かを傷つかせないため、悲しませないために、自分を鳥籠に閉じ込めてしまったのかも知れない。
誰かと大切な時間を過ごしていても、相手が自分の肌に触れないように細心の注意を払っていただろう。それこそ、おちおち眠っていることさえも出来ないはずだ。
僕は美月さんと出会い、美月さんの体質を知ってから初めて、大切な人と同じ時間を共有できても、大切な人と触れ合えないことは、こんなにも歯がゆいことを知った。
大切な人を抱き起すことも、手を貸すことも、肩を貸すことも出来ない。満足に看病も出来ない。本当に、ただ見守ることしか出来ないのだ。なんて無力なのだろう。
それでも僕は、美月さんの傍に居たいと思うし、これからも同じ時間を共有し続けたいと思う。もっと親しくなりたいと思うし、一番の味方で在りたいと思うし、一番に頼られたいと思う。美月さんの心の支えで在れたらいいのになぁと思うんだ。
「よっし」
落ちた気持に気合を入れなおし、僕は一度アパートに帰宅した。
兄さんの家にレターセットは置いていない。置いていたとしても、気持ちが落ち着かず、ゆっくり手紙を綴ることは出来ない。一度自分のフィールドで気持ちを落ち着け、真摯に手紙を綴りたいと思ったのだ。
†
マンション、プラージュ・零。エントランス。
二十時二十五分。
「中条さん、お疲れ様です」
「何度も呼び出して悪いわね」
「とんでもないです。今回お呼び出ししたのは僕の方ですし」
あの後、手紙を書き終えた僕は、すぐに中条さんにショートメールを送った。中条さんからすぐに返信が届き、この時間にここで会うこととなったのだ。
「早速、返事を書いてくれて助かるわ」
「助かる? ぁ、これ。お願いします」
小首を傾げつつ、中条さんに手紙を渡す。アクアマリン色の封筒に白い羽のシルエットが右下にデザインされたものだ。
「こちらの話よ。私から深く話すつもりはないわ。気になるなら、あの子に聞いてみてちょうだい。手紙、ありがとう。あの子に渡しておくわね」
中条さんはそう言って手紙を受け取り、黒のクラッチバックにしっかりとしまった。
「ぇ⁉」
僕はその中条さんの行動にきょとんとする。中条さんの意味深な言葉よりも、その行動の方が気になることへと移ってしまう。
「どうしたの?」
「手紙の中身を確認しないんですか?」
今回も中条さんに手紙の内容を確認されると思い、レターセットについていた羽根のシールでしか手紙の封を閉じていない。
「えぇ。確認しないわ」
「どうしてですか?」
鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をして、中条さんに問う。
「それだけ貴方を信用しているということよ」
「……」
僕は思わぬ中条さんの言葉に、驚きと喜びで言葉を失う。
「……お間抜けな顔ね」
中条さんは微苦笑を浮かべる。
「ぁ、いや。そんな顔していませんよ。ちょ、ちょっと驚いただけですから」
ハッと我に返った僕は、どもりながら間抜け顔を誤魔化した。
「そう? ならいいけど。また何かあったら連絡するわね」
「はい。待っています」
と頷く僕に微笑む中条さんは、「じゃぁ、また――」と言って、自分の部屋号に戻って行った。
一人残された僕は、大学のこともあるため、兄さんのところへ泊ることなく、自身のアパートに帰宅した。
†
【拝啓 天海 美月 様
こんにちは。
お手紙、ありがとうございます。
美月さんのたいちょうが、かいふくしてきたようで、安心しました。ですが、むりだけは、しないでくださいね。リモートも、また美月さんが元気いっぱいになったとき、お顔をみせてもらえるとうれしいですし、おてがみも、たいちょうがいいときや、気がむいたときにでかまいません。
僕はかわらず元気にしています。はだのぐあいも、しんぱいしなくとも大丈夫ですよ。なので、どうか自分のことを、せめないでください。美月さんは、なにもわるくありません。
それに、僕は美月さんのことを、こわいとはおもっていません。これからも、こわいとはおもいません。
僕は美月さんが僕を思ってくれるように、僕も美月さんのことを思っています。
美月さんをこわがらせたくないです。きずつけたくもないです。かなしませたくもないですし、かなしんでほしくない。僕はただ、美月さんにわらっていてほしい。なので、どうかガマンしないでほしいです。あいてのことをおもって……僕のことをおもって(えんりょして)、美月さんの心をかくしてほしくないです。
僕はこんごも、美月さんのそばにいたいとおもっていますし、これからも同じ時間を、きょうゆう、しつづけたいとおもっています。もっとたくさん、美月さんとお話ししたいです。親しくなりたいとおもっています。美月さんの一番のみかたでありたいと思うし、一番に頼られたいと思っています。もちろん、一番は中条さんなのでしょうけど……それでも僕は、美月さんの心の支えであれたらいいなぁと思うんです。
美月さん、いま、やりたいことはありますか?
行きたいところはありますか?
夢はありますか?
もしあるのなら、僕もいっしょに、叶えたいです。僕では力不足かもしれませんが、美月さんの笑顔の力になりたいです。
もし僕で力になれるのなら、力になるのが僕でいいのなら、また手紙なりリモートなりで、おはなしさせてもらえたらうれしいです。
白崎 優太 】
そう綴った手紙に返答が届いたのは、翌日の夜九時だった。
中条さんから、マンション内にあるレストランへと呼び出された僕は、スマートスーツ着用の元、戦々恐々で訪れた。中条さんからは、武装しすぎだと笑われたのは言うまでもない。だが、中条さんのその笑顔は、すぐに消え、どこか重苦しい空気だけが残る──。
時刻は夜九時を過ぎ。ディナータイムを終えた幾人かの大人達が、お酒を楽しむレストラン。店内にはBGMとして、ショパン曲のピアノ演奏が流れていた。しかも、店内にあるグランドピアノでピアニストが生演奏している。耳にしたことのある曲だとは感じるものの、僕には、さっぱり曲名が分からなかった。
僕と中条さんは、グランドピアノに一番近い二人掛けテーブル席に通されていた。中条さんがそこを指定したのだ。なんでもこのレストランでは、金曜日の夜だけピアノの生演奏と共に、ディナーやお酒を楽しめるようだ。
美月さんと出会う前までの中条さんは、ほぼ毎週金曜日に、ここへ訪れていたようだ。マンション内には、お酒を楽しむバーも設立されているようだが、そこではジャズが流れているため、中条さんの好みには合わなかったらしい。
「貴方も飲む? 二十歳だったら飲めるでしょ? お金のことは気にしないでいいのよ」
赤ワインの入ったワイングラスを流し見しながら問うてくる中条さんの瞳には、いつものように強い光はない。一体なにがあったのだろうか?
「いえ、お酒は遠慮しておきます」
と言った僕の前には、ガトーショコラとジンジャエールが置かれている。夕飯はすでに食べてしまっていたため、ガッツリしたメニューは注文できなかった。もちろん、金銭面的にも。一般大学生のお財布事情は中々に厳しいのだ。
「即答で女性の誘いを断るのもどうかと思うけど」
乾いた微笑みを浮かべた中条さんは、真っ白のプレートに乗せられたワンカットケーキのような形をしたブルーチーズを、フォークとナイフで一口サイズにカットし、口に運ぶ。
「……美月さんのことで、何かあったんですか?」
少し戸惑いながらも、単刀直入に問うてみる。もし仕事で何かあったのなら、わざわざ僕を呼び出して愚痴るわけはないだろう。
「貴方、スマートさの欠片もないわね。直球に聞き過ぎじゃないかしら?」
「す、すみません。僕は兄さんじゃないので」
「そりゃそうよね」
中条さんはほんの少し鼻で笑い、納得したように頷く。納得されればされたで、なんだかショックに思えてしまう。
「兄さんのこと、知っているんですか?」
「さぁ、どうかしら?」
中条さんは僕をからかうように笑い、小首を傾げて見せる。
「……僕で遊んでますよね? 酔ってますか?」
「貴方がそう思うならそうなのでしょうね。ちなみに、ワイン一本開けたところで酔わないわよ」
「強っ!」
僕は中条さんの酒豪さに、思わず友人とのノリのような形で本音を溢してしまう。
「ふふふ。褒め言葉として取っておくわ」
「ポジティブですね」
「ポジティブであれたらどんなに楽か……」
中条さんは自嘲気味な笑みを見せながら、独り言のようにそう呟く。
「なにが、あったんですか?」
「……ねぇ」
中条さんは僕の質問には答えず、僕を呼びかける。
「なんでしょう?」
「貴方、美月とどうなりたいの?」
ワイングラスを右手に取った中条さんは、赤ワインが入ったグラスを見つめながら問うてくる。
「どう……とは?」
僕はもう少し深い話しを求めるように、眉根を下げて小首を傾げて見せる。
「友達になりたい。恋人になりたい。結婚したい。もう関わりたくない――とか、色々とあるでしょう?」
グラス内で器用にワインを遊ばせながら問うてくる中条さんの声音はどこか淡々としていて、その心内が読みづらい。
「もう関わりたくないとかは、絶対に思いませんよ。恋人とか結婚とか……おこがましいと言いますか――。僕はただ、美月さんの力になりたいんです。笑っていて欲しい」
「それは、どうして? 美月のことが好きだから? それとも、美月への同情?」
グラスの飲み口からワインを見つめていた中条さんの瞳が僕を捉える。まるで僕の内情を見透かすかのように。
「……すみません。恋愛感情の好きというものが、まだどういうものなのか、深くは理解していないんです。でも、同情なんかじゃないです。絶対に」
「……恋くらい、したことあるでしょ?」
中条さんは、意外な答えが返ってきたとばかりに、控えめな驚きを見せた。
「する暇もない。ということもありますよ。中学の時は、女子が落とした消しゴムを拾ったくらいで、クラスメイトから冷やかされましたし。基本的に、女子からは距離を置かれていました。それが嫌で男子校に行きましたし」
「……そう。じゃぁ、どちらの感情かは、よくよく理解していないのね。好きと同情はよく似て非なるモノ。可哀想だから力になりたい。ひ弱で無力な子だから守ってあげなきゃ。僕が傍になきゃ――という想いを恋だと勘違いしてしまったりしてね」
そう言って口端に弧を描く中条さんは、僕に確認するかのように小首を傾げる。
「――確かに、美月さんの力になりたいし、僕が守れるものなら守りたいと思いますよ。でもそれは、大切な人になら、誰にだって思うことですよね? それがいけないことなんですか? それに、美月さんはひ弱で無力なんですか? 中条さんは美月さんのことをそんな風に思っていたんですか? だから警察にも届けず、自分の傍に置いて守っているんですか? それこそ、同情じゃないんですか?」
「ははっ」
僕の言葉を聞いた中条さんは乾いた笑い声を吐き出す。
「ずいぶんと言うのね」
「先に仕掛けてきたのは、中条さんですよね?」
「仕掛けただなんて失礼ね」
中条さんは手に持っていたワイングラスを、そっと元の位置に戻した。
「……何を推し量っているんですか? 僕は大人な会話を楽しむほどの能力も余裕もないので、単刀直入に言ってもらえると助かります」
本題から遠回りを繰り返すような先程からの会話に対し、ついしびれを切らしてしまった僕は、少し戸惑いながらもそう言った。
「……美月は、貴方を傷つける存在よ。それも、一生忘れられないほどの心の傷を残すわ」
「⁉ どういうことですか?」
僕は中条さんの言葉に目を見開き、深い話しを求める。一体なにを言い出すのだ。美月さんが僕に、一生忘れられないほどの心の傷を残すだなんて、どうしてそんなことが言えるんだ。
「そのままの意味よ」
中条さんは冷静な口調で淡々と答えた。訳がわからない。
「どうして美月さんが僕を傷つけるってわかるんですか? どうして僕が傷つくって勝手に決めつけるんですか?」
「全てがわかっているからよ」
「僕にはわかりません。それに、美月さんが僕を傷つけるだなんて非情なこと、美月さんは絶対にしないと思います」
先程と変わらない口調で返ってくる中条さんの答えは、僕が納得しかねる答えだったもので、思わず反論してしまう。
「そうよ。あの子は誰かを傷つける子じゃない。だけどね、どんなにいい子でも、優しくて温かくても、大切な人を傷つけることがあるのよ」
「……僕は、もう用なしですか? まるで僕を守るかのように仰っていますが、要はこれ以上美月さんとの関りを持つな、と仰っているんですよね?」
「用なしだとは言っていないわ。少なくともの美月にとってはね。手紙も受け取っているし」
中条さんはそう言って、黒色のクラッチバックから一通の手紙を取り出し、自身の顔の前で僕に見せる。
「もらっていいんですか?」
「それは貴方次第」
「どういうことですか?」
怪訝な顔で問うてみる。今日の中条さんは、本当に回りくどい。
「美月への気持ちが同情だと感じるなら、このまま身を引いて。そうすれば、お互いが深く傷つき合うこともないわ。特に貴方がね。だけど、どんなに傷ついてもいいという覚悟があるのなら、痛みさえ受け取る覚悟があるのなら、この手紙を受け取ってくれても構わない。但し、貴方が再起不能になるまで傷ついたとしても、私にはどうすることもできない。外側がどんなに優しい言葉をかけようとも、励まそうとも、最後に立ち上がるのは自分の力だもの。その覚悟がある?」
「……どうして中条さんがそこまで未来に対して不安を覚えるのか、僕を守ろうとするのか、僕にはわかりません。僕はそんなに心配してもらうほど、守ってもらうほど、弱くはないですよ。現に僕は、両親が天国へ旅立とうとも、兄さんと離れ離れになろうとも、どうにかこうにかして、前に進んできたんです。そんなにやわじゃない。人はどんなに強い悲しみを抱えたとしても、また笑うことが出来るのを知っています。だって、生きている者は悲しんで泣いてばかりいることはできない。僕は生きているから。僕に覚悟を求めるのなら、中条さんも覚悟をして下さい」
「……一体、なにを覚悟しろというの?」
「この先、なにが起こったとしても、僕を信じる覚悟を。僕の弱さや美月さんへの想いを、僕の感情を勝手に決めつけないで下さい」
僕は中条さんと真剣に向き合い、真摯にそう伝えた。少しでも僕を信じてもらえるように。
「……そうね。どうやら私は、貴方を甘く見ていたのかもしれないわ。勝手に色々と決めつけて悪かったわね」
「いえ。全ては中条さんが持つ思いやりだと思っています。と同時に、相手にそう思わせてしまうのは、僕の頼りなさが原因だと思いますので。……いつになるかわかりませんが、もっと頼りになる男になりますので、どうか信じてもらえると嬉しいです。今は口先だけにしかなっていませんが」
最後はつい自嘲気味な笑みと共に、そう言ってしまう。本当に今は口先だけにしかなっていないため、説得力の欠片もない。
「いいえ、貴方は私が思っていたよりも、ずっと頼りになるわ。そして、顔に似合わず随分と頑固だったみたい」
「が、頑固……」
まるで頑固おやじのようだと言われているようで、僕は軽くショックを受ける。
「よく言えば、意志が強いという意味よ」
「ほ、褒め言葉として受け取っておきたいと思います」
中条さんからの微妙なフォローで傷を慰める。どうせだったら、最初っからよく言って欲しかった。なぜ最初にネガティブな角度から言われたのだろう?
「えぇ。じゃぁ、これ──」
と言って、僕は手紙を差し出してくれる。暗い真夜中の中で満月だけが輝くようなデザインをした封筒だった。
「ありがとうございます」
僕はお礼を言って、素直に手紙を受け取った。
「あの子、まだ少しリモートは出来そうにないの。また返事が書けたら、私に連絡してきてちょうだい」
「そんなに具合が悪いんですか? はい。中条さんがご迷惑じゃなければ」
いつも仕事で忙しい中条さんに対して、まるで郵便局員にでもなってもらうようなことばかりしてしまっていることに、少々気が引けてきた今日この頃だ。
「元気いっぱい、ではないかもしれないわね。私のことは気にしないで。本当はスマホのメッセージアプリでやり取りできれば、各々が楽なのでしょうけど」
「……そうですか。美月さん、スマホは持っていましたよね? 使えないんですか?」
「使えることは使えるけれど、そんなに長時間は無理よ」
中条さんは静かに首を左右に振りながら言った。
「どうしてですか?」
「熱よ」
「熱?」
意味が分からず、僕はついオウム返しをしながら小首を傾げてしまう。
「あの子は人の体温を嫌う。その理由の一つが、人の体温が持つ熱。それと同様に、スマホには熱が溜まる。メッセージの打ち込みには時間がかかる。とくにあの子はスマホの扱いに慣れていないから、余計に時間がかかってしまうわ。その分、スマホの温度が上がってしまう」
「人の体温だけじゃなく、家電から発生される熱も駄目なんですか?」
「えぇ」
「じゃぁ、温かい食べ物とかは?」
小さく頷く中条さんに、僕はさらに質問を重ねた。
「そこはどうか分からないけれど、あの子が熱い食べ物を食べているところを見たことがないわ。温かいスープをだしても、猫舌だからと飲んではくれないのよ」
「温かいものを食べることは、美月さんにとって危険ことだったりするのでしょうか?」
「さぁ、どうなのかしら? あの子は自分のことを深くは話してくれないから。単に忘れているのか、忘れている振りをしているのか──」
「……そうですか」
僕は中条さんのハッキリしない答えに、つい項垂れてしまう。
「もう逃げたくなった?」
「いいえ。僕がこの先も含め、美月さんから逃げることはないです。逃げたいとも思いません。ただ、美月さんが心配なだけです」
「そう。じゃぁ、あの子をよろしくお願いね――あの子は、貴方に助けてもらいたいようだから」
「ぇ?」
「後、これを」
と言って、中条さんは角形8号の封筒をテーブルの上に置き、僕の前にスッと差し出してくる。
「なんですか?」
「確認すればわかるわよ」
中条さんは一段落を終えたかのように肩の力を抜き、ワイングラスを手に取る。
「?」
僕は不思議そうに首を傾げ、恐る恐る封筒を手に取って中を確認した。
「⁉」
「あの子に必要な資金にしてちょうだい」
何事もないかのようにそう言った中条さんは、ワインを一口飲み、ワインを楽しむ。
「し、資金って──っ」
金銭面にゆとりの欠片もない僕は、どもりながら動揺する。封筒の中には、軽く五十万は入っていた。もう意味が分からない。
「これから美月の願い事を叶えることがあるのなら、それなりの資金が必要になるでしょう?」
「ど、どういうことですか?」
中条さんの言動は、前回僕が美月さんに綴った手紙の内容を知っているかのようだ。
「勘違いしないでね。私は貴方の手紙は見ていないわよ。ただ、美月から相談されたのよ」
中条さんは冷静に答えながら、持っていたワイングラスを元の位置に戻す。
「美月さんに? 一体どんな相談を?」
「変な相談じゃないわよ。貴方に我儘を言ってもいいのか、本当に迷惑にならないのかを聞かれたのよ。きっと貴方に聞いたところで、意味がないと思ったのでしょうね。貴方は優しすぎるから」
「……僕、信用ないんですね。それに、心配されるほど頼りない」
僕は中条さんの話にガクリと両肩を落とす。
「貴方が信用ないとか、頼りないとかじゃないと思うけど。あの子は、大切な人達のお荷物になるのを恐れているのよ。自分のことで迷惑をかけたり、負荷をかけさせたくないだけよ」
「だから、自分を押し殺すような生き方をしているのでしょうか?」
「どうかしらね? あの子は自己価値や自己評価が低いのよ。いつも何かにビクビクと恐れているわ。どんなに励ましても、ファンレターを届けたとしても、あの子が自己価値を上げることはなかった。[私は何をしたとしても、出来損ないには変わりない]と言うのよ。私達が思うよりも、あの子が抱えているものは深いのかもしれないわ」
お酒の力なのか、僕への信頼が増したからかどうなのか分からないが、今日の中条さんは色々なことを話してくれる。
「出来損ない、とはどういう意味なのでしょう?」
「さぁ。あの子に聞いてみなさい」
「中条さんはその意味をご存知なんですか」
「いいえ。残念ながら」
と言いながら、控えめに首を左右に振った。
「そうですか」
「貴方になら、教えるかもしれないわよ?」
「どうしてそう思うんですか?」
「女の感。どっちにしろ、私は二番目にあの子を助けた人だから」
――中条さんは、わたしを、2ばんめに、たすけてくれたひとです。
中条さんの自嘲気味な笑みと共に溢された言葉で、美月さんの一通目の手紙に書かれていた文章が思い起こされる。
「美月さんを一番目に助けた人って、誰なんでしょう? 知っていたりしますか?」
「さぁ、誰なのかしらね。だけど、もし知っていたとしても、言わないわよ。あの子のことを知りたいなら、あの子に聞きなさい。私はあの子のことを知るための検索機じゃないのよ」
「す、すみません」
検索機とは一度も思ったことなどないが、中条さんのどこか苛立ちが隠れた声音に気づき、反射的に頭を下げる。
「今後、私に探りを入れるようなことは止めなさいね。聞きたいことがあれば、本人に聞きなさい。周りから聞いた話を持って本人と話しても、後でボロが出て痛い目をみるだけよ」
「以後、気をつけます」
「よろしい」
中条さんは先生のようにそう言って深く頷き、最後の一口のブルーチーズを食し、ワインを飲む。
「ということで、今日のお話はこれでお終いよ。遅い時間に呼び出して、付き合わせて悪かったわね」
「ぇ? いや、僕は終わっていませんけど?」
「?」
「これですよっ。コレ! 僕、こんなお金もらえませんからっ」
話しを終えてすぐにでも去りかねない中条さんを慌てて引き止めた僕は、中条さんの前に封筒を差し戻す。
「勘違いしないで。何も貴方にあげているわけじゃないわよ。美月への資金よ」
「い、いりません」
僕は首をフルフルと左右に振って断る。兄さんから、金の貸し借りだけはするなと、きつく教えられてきた僕にとって、これは恐怖でしかない。
「失礼だけど、貴方に金銭面のゆとりは?」
「ぁ、ありません」
僕はそう言って俯く。ここで、ありますと。断言できない自分が情けない。
「なら、受け取っても構わないでしょ? ただ受け取るのに引け目を感じるのなら、そのお金は貸しておくから。それとも、お兄様を頼るつもり?」
「それは、ないです。多分」
「多分? 貴方、美月の正体を――っ」
「言ってませんッ! 誰にもっ」
思わぬ勘違いを産みかねないと慌てた僕は、中条さんの言葉を遮るように強く否定した。
「な、ならいいけど。声、抑えなさい。迷惑になるわ」
「す、すみません。つい……」
お叱りを受けた僕は、捨て犬みたいに小さくなる。
「多分ってどういう意味なの?」
中条さんは怪訝な顔で問うてくる。
「大学生に入学して以来、兄さんに金銭的な援助を頼んだことはありません。僕の高校と大学で使ったお金は、ぽちらぽちらと返しています。と言っても、素直に受け取ってはもらえていませんけど」
「どういうこと?」
「兄さんは現在、金銭的なゆとりがあります。だから別に僕がお金を返そうとも、兄さん自ら使ったりしません。ただ、僕の気持ちを汲み取ってくれているだけです。受け取ったお金は僕が結婚とか、もしかの時様に貯金にしておこう――って……」
僕はそうぽつりぽつりと話しながら、はっと気がつく。もし今後、金銭面的な助けが欲しかったら、兄さんに言って、その貯金を下ろしてもらえばいいのではなかろうか。使ってしまった貯金は、また返していけばいい。結婚とかではないが、僕の一大事には変わりないのだから。そうすれば、中条さんから借りることもないし、心配させることもない。
「しっかりしたお兄様だこと。貴方も律儀ね」
「はい! 自慢の兄さんです。兄さんは僕に色々なことを教えてくれました。他人からお金の貸し借りを絶対にするな。というのも、兄さんに教えてもらった学びの一つです」
「だから、受け取らないと?」
「はい!」
「……仕方がないわね。貴方は頑固だから、一度言ったら聞かないでしょうし」
中条さんは溜息交じりにそう言って、首を竦めてみせる。
「が、頑固ではなく、意志が強いの間違いでは?」
僕は控えめに訂正をしてみる。この年で頑固おやじ認定は嫌だ。
「ふふっ。そうね」
中条さんは短く吹き出し、頷いてくれる。
「じゃぁ、その意志の強さに免じ、私からは金銭的な援助はしないでおくわね。その代わり、他に私のサポートが必要なら、遠慮なく連絡してちょうだい。仕事中はすぐに対応出来ないとは思うけれど」
「はい。その時はまた連絡させていただきます」
「了解。じゃぁ、また」
と言って立ち上がった中条さんは伝票を手に、その場を去ろうとする。僕は慌てて追いかけ、自分の注文したものは自分で支払うことに成功した。出来うることならフェアでいたい。子ども扱いもごめんだ。例え今は難しくても、僕は僕なりの、大人の男性として接して欲しいと思うのだ――。
†
「ふぅ」
僕は一息吐きながら、リビングにある黒色の特大L字ソファに浅く腰掛け、黒の本革スクエアショルダーベルトバッグを肩から外して、そっと左隣に置いた。
中条さんとレストランで別れたあと、電車に揺られてアパートに帰る気にはなれなくて、兄さんの家に寄託した。ここ最近、もらった合鍵に頼りっきりだ。
「はぁ~」
緊張の糸が外れたのか、どっと疲労感を感じる。このまま横になれば、すぐにでも夢の中へ落ちてしまいそうだ。このまま眠ってしまっても構わないが、手紙の内容が気になる。
閉口のダブルファスナーを左右に開き、もらった手紙を取り出す。中には、ヴィンテージレザーのバーミリオンオレンジ色をした二つ折り財布。財布と同じブランドと色のキーケースが入っている。スマホは鞄の外側のポケットに入れてある。
メイクをしない僕は、乾燥リップクリームと目薬くらいしか使用しないため、必要最低限の物が入れば充分なのだ。バックは大容量より、軽量と使い勝手の良さに限る。後(あと)長持ちしてコスパが良しだと、なおありがたい。
【白崎優太さま。
白崎優太さま、こんばんは。
おてがみ、ありがとうございました。
優太さんがお元気なようで、あんしんいたしました。はだのぐあい、だいじょうぶなようで、あんしんいたしました。ですが、どうかむりだけはしないでください。
おてがみにかかれていた、ことばたちが、とてもうれしかったです。
私のたいしつのことで、優太さんをこわがらせてしまったと、おもっていました。もしかしたら、きらわれてしまったのではないのかとおもい、ふあんでした。なので、優太さんにおてがみをいただけたこと、かかれていたことばたちが、ほんとうにうれしかったですし、ほっとしました。
私のことをおそれず、うけいれてくださり、ほんとうにありがとうございます。
私のたいちょうも、きにかけて下さり、ありがとうございます。いまではずいぶんと、回復しており、もうすこししたら、リモートもさいかいできるのではないかとおもいます。そのときはまた、私とリモートでおはなししてくれますか?
(美月さん、いま、やりたいことはありますか?
行きたいところはありますか?
夢はありますか?)
そう、きいてくれましたね。
もし、わがままがゆるされるなら、また優太さんとリモートがしたいです。
私の行きたいところと、夢はにているかもしれません。
私は、優太さんとデートがしてみたいです。そして、優太さんいっしょに、かんらんしゃにのってみたいです――なんて、むりだとはわかっています。わかっているとわかっていても、いってみたかったんです。私のきもちがつたわると、うれしいなとおもったんです。
天海 美月】
「デート……か」
僕は美月さんの願いを知り、独り言をぽつりと溢す。
美月さんが僕とデートがしてみたいと思っていてくれていたことが、素直に嬉しかった。と同時に、どうすればその願いを叶えてあげられるのだろうと頭を悩ませる。
美月さんの体調や体質のことはもちろん、meeとしての顔を持つ美月さんが外出するとなると、色々な危険が付きまとう。中条さんがそんなリスクを冒してまで、デートを許してくれるわけがない。僕だって、美月さんを危険に晒すのは嫌だ。
「外出しないでデートをする方法……」
手紙を丁寧に元に戻した僕は、そのままソファに横たわり、どうすれば美月さんとデートが出来るかを思案し続けた。
「観覧車も、どこがいいだろう?」
このマンションから一番近い、お台場の大観覧車は時代の流れにより、なくなってしまった。もし本当に行くとなれば、新たな観覧車スポットを探してみないと。
残念ながら僕は、こういったリア充的情報を持ち合わせていない。兄さんに聞けば水を得た魚のごとく、溢れんばかりの情報を与えてくれそうなものだけど、こんなところまで兄さんに頼ってはいられない。
「と言っても、スマホ検索に頼るんですけどね」
と苦笑いしつつ上半身を起こし、バックの外ポケットからスマホを取り出して検索にかける。
「――へぇ~」
その後、僕はスマホ相手に相槌を打ちながら、しばしネットサーフィンに時間を費やすのだった。
†
翌日、十八時十五分。
マンション、プラージュ・零のエントランス・ホール。
僕は二台のエスカレーターの近くにある太い四角形の柱の背に預け、中条さんの帰りを待っていた。
今朝兄さんと遅めの朝食を取った僕は、一度アパートに戻り、大学に提出するレポートを終わらせ、美月さんに手紙を綴った。
その後、兄さんのリクエストに答えるべく、買い物をすまし、マンションに帰宅した。それが夕方の五時頃だった。僕は少し躊躇しながらも、中条さんに手紙を書けたことをショートメールを送った。十分足らずで変身が届き、十八時二十分頃、マンション、プラージュ・零のエントランス・ホールのエレベータ前で待ち合わせすることになった。
「中条さ~ん。お帰りなさい」
マンションの自動ドアを潜った中条さんが視野に入り、思わず駆け寄った僕は、まるで飼い主の帰りを待っていた犬のようだと思う。
「!」
僕の勢いに少しの驚きを見せた中条さんだったが、すぐに元に戻る。本当に喜怒哀楽が凪のような人だ。大人の女性というものはこういうものなのだろうか?
「ただいま。もう来ていたのね。こっちへ」
と言いながら、中条さんは僕が先程背を預けていた柱の近くに誘導する。確かに、こんなマンションの出入り口で話していては、利用者の邪魔になってしまう。
「エレベーターですんなり下りられたんです」
タワーマンションの上層部となると、エレベーターを使って一階へ下りるまで十分以上かかってしまうことがある。僕も初めて兄さんの部屋に訪れた時は、兄さんの部屋までが随分と遠く感じたものだ。
「なるほど。運が良かったのね。もちろん、手紙は持ってきているわよね?」
「はい」
僕は肩から下げていた鞄から手紙を取り出し、中条さんに手紙を差し出す。
「ありがとう。またあの子に渡しておくわね」
と微笑む中条さんは、雪景色が印象的なデザインをした封筒を手に取った。
「中条さん、ほんの少し、お時間ありますか?」
仕事が立て込んでいそうな中条さんの邪魔をしたくない。
「えぇ。少しなら。どうしたの?」
「中条さんメッセージアプリとか利用していますか」
「えぇ。何? 連絡先が交換がしたいと?」
「はい。やっぱりショートメールじゃ文字数も限られてきますし……」
「そうね。スマホを出してちょうだい」
「ありがとうございます! 画像とか送ってもいいですか? いくつか確認してもらいたいものとか、色々と確認したいことが今後出てくると思うんですけど」
やや声を弾ませながらそう問いつつ、鞄の外ポケットからスマホを取り出し、ロックを解除させる。
「QRコードでいい? 電話以外なら貴方の好きなように。美月と関係なさそうなら放置するけど」
「はい。僕が読み込みますか? ほ、放置は酷いです。僕犬じゃないですよ?」
「えぇ。あら、そうなの?」
中条さんはからかうようにそう言いつつ、自身のQRコード画像を表示させたまま、スマホを僕に見せてくれる。
「そうですよ~。僕は待て! をするだけの犬じゃありませんから」
僕はそう言いつつ、メッセージアプリのQRコードリーダーを使って、中条さんのQRコードを読み込んで友達追加させてもらった。
「確かに、貴方は過去も今も、待てをするだけの犬にはならなかったわよね。ただ、さっきの貴方は少し中型犬に見えたけど」
「はい。……せめて、大型犬にしてくれません?」
「そこまで迫力がないじゃない。かと言って、小型犬程は可愛くないもの」
「うわ~。せめてどっちかになりたい」
「中立は、どっちにも転べるから最高だと思うけど」
「どっちに転べばいいですか?」
「私に聞いてどうするのよ」
どこか能天気に興味のまま問うてみると、中条さんは右手の指先を米神に当てて、呆れたように首を左右に振って見せた。
「すみません」
「謝っているわりには、全く気持ちがこもってないわよ?」
「ぁ、バレました?」
テヘッとばかりに首を竦めて見せた僕に、中条さんは再び頭を抱えた。
「じゃぁ、これで。もう用は済んだでしょ? 悪いけど、私は貴方とじゃれ合っている暇はないのよ」
「用は済んだのですが……。美月さんの具合って、今はどんな感じですか?」
美月さんのことが気がかりで、控えめに問うてしまう。
「さぁ。あの子、私が体調を聞いても気丈に振舞って見せるから。私から見たら空元気に見えるけど」
「そうですか……。やっぱり、外出は難しそうですよね?」
「なに? 美月が外出したいって?」
「が、外出したいとは言っていません」
今まで穏やかだった中条さんの声音や表情がピリッと変わり、僕は慌てて顔の前で両手をバタバタと左右に振った。
「貴方達には悪いけど、例えあの子がそれを望んだとしても、それだけは許可してあげられないわ。危険すぎる」
「で、ですよね。分かっています。少し、聞いてみただけです。他の案も随時考えているので大丈夫です」
「……そう。兎に角、美月には無理させないで。危険に晒すのも駄目よ」
「分かっています」
中条さんにピシッと人差し指を突き出して釘を刺されてしまえば、僕に反論する術はないし、する気もない。
「じゃぁ、私は帰るわね。美月が一人で待っているから。また何かあったら連絡してちょうだい。私もまた用があれば連絡するわね」
「はい。分かりました。お手数をおかけしました」
僕はそう言いながら、ペコリと頭を下げた。
「気にしないで。連絡も好きなだけ送ってきて。単独で考えて行動されては、少し不安だわ」
「……信用ないですか?」
おずおずと頭を上げて問いかけてみる。これでも、随分と信頼感を得られていると思っていたのだが――ただの思い過ごしだったのだろうか?
「信用がなかったら、ここまで個人情報を与えないし、美月とも関わらさせないけれど? 心配や不安は相手が与えてくる信頼感とは別物なのよ。相手を信用するもしないも、自分の心次第。相手がどんな言動で自分が信頼できる者だと示してきても、最終的な判断は他者ではなく、私がするものよ。そうじゃないと、何かあったときに犠牲者意識が生まれてしまうもの」
「……す、すみません。ちょっと、難しいです」
中条さんの言っている言葉の意味が分からず、苦笑い交じりに言った。
「ふふふ。分からないならいいわ。取り合えず、今は貴方のことを大方信頼をしているから、安心なさい。ただ、無茶をしないか心配なだけよ。じゃぁね」
中条さんはそう言って話を切り上げ、その場を後にした。その場に残された僕は、このまま兄さんの部屋へ戻るか、アパートに帰宅するのか、しばし悩むのだった――。
【拝啓 天海 美月 様
こんにちは。
手紙のお返事、ありがとうございます。
またこうして、美月さんとお手紙でおはなしできることがうれしいです。とどうじに、美月さんと初めて出会った日をおもいおこすと、どこかなつかしく思います。
美月さんとはじめて出会った日の僕は、美月さんとこうしておはなしできるようになるとは、夢にも思っていませんでした。だから、今こうしておはなしできることが、とてもうれしいんです。
美月さんのたいちょうがかいふくしたら、ぜひまた、リモートでもおはなししてください。美月さんのたいちょうがかいふくするまで、僕はのんびりまっていますので、どうかあせらずに。
美月さんの夢や行きたい場所がきけて、うれしかったです。
おしえてくださり、ありがとうございます。
美月さんが僕とデートをしてみたいと思ってくれていたこと。思わぬおどろきでしたが、すなおにうれしかったです。
僕でよければ、美月さんのたいちょうがかいふくしたら、デートしましょう。そして、にほんさいだいきゅうの、かんらんしゃを、いっしょにたのしみましょう。
だいじょうぶです。美月さんをキケンにさらしたりしません。みのあんぜんは、かくほしますので、あんしんしてください。
まだいえないですけど、いろいろとかんがえているので、たのしみにしていてください。
白崎 優太 】
僕の綴った手紙に、美月さんの手紙が返ってくることはなかった。
その代わり、中条さんに手紙を預けた二日後に、中条さんからメッセージアプリにメッセージが届いた。
一八時四十分。
僕はアパートで長方形の折り畳み机の上で、ノートパソコンを開き、待ち人を待っていた。
プッツ。
相手との回線が繋がったのか、短い機械音が部屋に響く。
ノートパソコンの画面が通話リクエスト画面から、一人の少女の映像に切り替わった。
胸下辺りまで伸ばされた痛みのない水晶に近い、アクアマリン色をした髪。その色より透明感を増した瞳はどこか不安気に揺らぎながら、こちらを見ていた。
傷一つないきめ細やかな肌は、雪のように白い。抱きしめたら壊れてしまいそうなほど華奢な身体は、ウサギのようにふわふわしたニット生地のオフタートルワンピースで隠されていた。可愛らしい白色のワンピースが美月さんの髪や瞳をより目立たせ、輝かせている。本当に妖精のように可愛らしい。
だがその表情はどこか緊張感を感じ、頬は少しコケていて、左耳には補聴器がついていた。どんなに美しくとも、芸術的でも、美月さんは僕と同じ現実世界の住民なのだ。
僕は両掌を見せながら、暗転するように顔の前で交差させる。これで夜を表すことが出来る。
次に、向い合せた両人差し指達をお辞儀をするように曲げる。これが挨拶。
前者が夜で後者が挨拶=こんばんは。という意味になる。挨拶は僕が一番最初に覚えた手話だった。
[こんばんは]
美月さんも僕と同じ動きをしながら、桜色の唇をパクパクと動かせる。もちろん、その音が僕の耳に届くことはない。機械トラブルなどではない。美月さんが本来出せるはずの音が失われたままなのだ。突然変異で声が出せるようになったのなら奇跡だ。美月さんの声はどんな音をしているのか気になったりもするが、僕らは僕らのコミュニケーションで通じ合えるから、これでも構わない。
[体調はどうですか?]
[こうして、リモートが出来るほど、回復しました]
美月さんは僕の質問に対し、手で表現する言葉を操り、答えを与えてくれた。
[それは、よかったです]
美月さんの顔色や痩せ具合からして、元気いっぱいというわけではないことは僕でも分かる。それでも、またこうしてリモートが出来るまで回復出来ているのなら、喜ばしいことには変わりはない。
手紙ではなく、中条さんから連絡が届いた時は何事かと思い、少々怯えながら通知を開いた今朝のこと。まさか、リモート再開のお知らせだったとは――嬉しいのに変わりないが、美月さんが無事でホッとした。
[お手紙、ありがとうございました。お返事、返せなくてごめんなさい]
と伝える美月さんは、ペコリと頭を下げ、[リモートでお返事できれば、と思ったんです]と、付け足した。
[謝らないで下さい。お手紙でのお返事も嬉しいですが、こうしてリモート出来るのも嬉しいです]
そう伝える今の僕は、温柔の顔になっているだろう。会えなくとも、こうして美月さんの表情を見れるとホッとする。画面越しで会えることが嬉しい。
[私も、またこうして、優太さんとリモートが出来て、とても嬉しいです]
そう伝えながら微笑む美月さんは、やはり美しくて可愛らしい。
[お手紙に、僕で良ければ、私の体調が回復したらデートしましょうと書かれていましたが、私は、優太さんだからデートしてみたいと思うのです]
[……ありがとう]
美月さんの伝えてくれる手からの言葉達に、思わず照れてしまい、反応が遅れてしまった。“僕だから”なんて、特別な感じがして調子に乗ってしまいそうだ。乗らないけど。痛い目見るのはごめんだし、美月さんに嫌われるのもごめんだ。
[観覧車、一緒に行きましょう]
[えっと、私は外出出来ないんです]
[分かっています。中条さんにもそれとなく聞いてみたら、許可出来ないと言われました]
[ですよね]
美月さんはガクリと両肩を落とす。
[でも、大丈夫です]
[?]
[僕達には、僕達なりのデートがあります]
僕はそう伝え、自信ありげに胸を張った。
[私達なりの?]
[はい。中条さんと相談しながら話を進めますから、安心して下さい。美月さんは、体調第一で]
[分かりました。もし本当に優太さんとデートが出来るのなら、とても嬉しいです]
僕が美月さんの可愛らしい笑顔に癒されていると、「ただいま~」と言う、中条さんの声が響く。
[中条さんだ]
[早くご帰宅されて良かったですね。一人は寂しいですもんね]
[はい]
美月さんはコクリと頷く。
[中条さんもご帰宅されたことですし、僕はこれで失礼しますね]
[ぇ⁉ もう?]
僕の手話を読み解いた美月さんは、目を丸くさせる。
[はい。無理しては危険です。マイペースに行きましょう?]
[……はい]
美月さんは、しょんぼり両肩と落とし、困り眉になる。まるで、僕との時間が名残惜しいと思ってもらえているようで、少し嬉しくなってしまう。
[今日は、美月さんの顔が見られて良かったです]
[私も、優太さんの顔が見られて嬉しかったです。また、リモートしてくれますか?]
最初は微笑んでいた美月さんだったが、最後は不安気に問うてくる。僕が美月さんの誘いを断るわけがないのに……。
[美月さんの体調が良ければ、是非]
僕の返答に対し、美月さんはホッと安堵したように胸を撫で下ろし、柔らかな笑みを見せる。そこへ、「美月、ただいま」という中条さんの声が響く。
「あら、リモート中だったのね。邪魔をして悪かったわね」
「中条さん、こんばんは」
「こんばんは」
画面に移り込んだ中条さんは少し口角を上げると、「早速リモートしていたのね」と言った。
「今日からリモートOKだと、今朝連絡頂いたので」
「気が早いこと」
「善は急げと言いますし……。でも、もうリモートを終えようとしていました」
「そうね。無理させては心配だわ」
「はい。分かっています」
と僕達が声で会話をしていると、美月さんの機嫌がどんどん不貞腐れていくように感じた。
「大変。美月が焼いているわ」
中条さんはそんな美月さんをからかうように、クスクスと笑う。
「美月さんをイジメないで下さい」
「どの口が言うのよ」
美月さんは中条さんの黒のコートの裾を握り、パクパクと口を動かせる。今度は、僕が美月さんの言葉を見失う。
[大丈夫よ。変な会話はしていないから。彼がリモートを繋ぐのが想像より早くて、少しからかっていただけよ。私は寝室にいるから、何かあったら電話してちょうだい]
中条さんはそう手話で伝えると、「じゃぁね」と僕に言って、リビングを後にした。
残された僕達に、しばし沈黙が流れる。
[僕は、美月さん一筋ですよ]
なんと伝えればいいか分からず、もはや告白とも取れる言葉を手で伝えてしまう。
美月さんの白い頬は一気に桃色に、耳はリンゴのように染め上がる。それに感化され、僕もさらに照れてしまう。
[じゃ、今日はこれで失礼しますね]
僕は逃げるように、リモートを切り終えようとする。
美月さんも同じ気持ちなのか、両掌を両頬に当てながら、首をコクコクと上下させた。
[じゃぁ、また。失礼します]
と伝え、僕はリモートを切り上げた。美月さんを映していたノートパソコンの画面は一瞬真っ暗になり、その後はサイトのマイページを映す。
「ふわぁ~」
僕は喜びと恥ずかしさから、言葉にならない声を上げながら、お手上げポーズで後ろに倒れる。上昇した体温が、底冷えする畳の冷たさが一気に冷やしていった。
その後、僕はしばし夢心地でニマニマするのだった。
†
一週間後――。
午後二時。
僕は兄さんのマンションのリビングにある黒色の特大L字ソファーに、浅く腰掛けていた。目の前には、最大で六十八cmも伸びる自撮り棒が、三脚の力を借りて一人で立っていた。すでにスマホは設置済みだ。
本日はテストリモートを兼ねて、画面越しに美月さんと会うことになっている。
「よっし! こんな感じかな」
自身が座った位置で、スマホ画面に僕の上半身と顔が移る位置で三脚を固定し、リモートアプリを開く。アパートでテストリモートを試みようと思ったが、流石に三脚まではテストできなかった。ので、兄さんの家をお借りしている。背景が画面に入り込まないように、既存の背景ディスクトップを設定すれば、僕だけしか画面に映らない。便利な世の中である。
コールを掛けると、すぐに相手との回線が繋がったことを示す短い機械音が部屋に響く。
誰も映っていなかったスマホ画面に、いつものように美しくて可憐な美月さんが映し出される。
[こんにちは。僕、ちゃんと映っていますか?]
[こんにちは。はい。背景は星空ですが、優太さんは問題なく映っていますよ]
僕が心配そうに手話で問いかければ、美月さんは柔らかい表情で伝えてくれた。
[時差、とか、ありますか?]
[ん~……特に問題ないように感じます]
[よかったです。ここは兄さんのマンションで、Wi-Fi環境が整っているからかもしれません。外でも、上手くいってくれると良いのですが]
[外でのリモートは難しいのですか?]
[電波環境によるかもしれません。ところで、体調は変わりないですか?]
[はい。日に日に、体力がついてきたように思います]
と手話で伝えてくれる美月さんは、デコルテらへんで両拳を作り、自身の元気さをアピールする。疑っているわけではないが、空元気でないことを祈るばかりである。
[それは良かったです。例の物は届きましたか?]
[はい。今、練習中です]
[楽しみにしています]
[私も、色々なことが楽しみです]
美月さんがワクワクしたような笑顔を見せてくれるため、僕までワクワク度が増してくる。
[いつ行きますか?]
[美月さんの体調が良くて、準備バッチリと思えた日の朝、僕の携帯にコールして下さい]
[メッセージを送らなくていいんですか?]
[はい。中条さんから聞きました。家電の熱も、美月さんにとっては危険なものだと。なので、着信履歴で確認できればと思って]
[……そうでしたか。色々、ご不便をおかけしてしまって、すみません]
美月さんから笑顔が一気に失われ、身体が縮こまってしまう。
[確かに、僕達のやり取りは一般的なものではないかもしれません。ですが――っ]
[……ごめんなさい]
僕の手話を遮るように、美月さんは手話で謝り、頭を下げた。
[どうして謝るんですか?]
[優太さんにご迷惑をかけてしまっているので]
美月さんは眉根を下げ、下唇を噛み締める。
[迷惑かどうかを決めるのも、思うのも、僕ですよね? 僕は一度だって、美月さんとのやり取りを迷惑だとは思ったことはありません。確かに、最初は声でお話が出来ないことって、なんて歯がゆくて難しいのだろうと思いました。だけど今は、僕達だけの手の声でお話し出来ることが嬉しいんです。そもそも、一般的とか普通って何なのでしょう?]
[……]
美月さんは考え込んでいるように、拳を顎に当てた。これは手話ではなく、美月さんが何かを考えているときにする癖だと、リモートのやり取りを介して知ったことだ。
[僕達が思う常識や普通も、国を超えれば非常識や普通ではなくなる。そもそも、普通と言う定義なんてものは、時代や世界や個人により、違ってくると思います。
例えば、大昔はお金というものが存在しなくて、物々交換が普通でした。でも今は、お金を介して物を手にすることが、普通になりました。そのお金だって、貝や布、家畜や石などが、その役割を果たし、物品貨幣が出来ていました。言葉もそうです。
言葉が存在しない時代では、自分の気持ちに似た石を探して相手に贈り、贈られた相手は、その石を握りしめた時の感触で相手の心情を読み取っていたそうです。だから、上手く言えないんですけど――美月さんの普通と、外の世界の普通を一緒にして、傷つくことはないと言いますか……。少なくとも、今の僕にとっては、手話は日常に馴染んで、手話でコミュニケーションをすることが普通になりました]
[……優太さんは、凄く、物知りですね。博士みたい]
[博士なんて……。学校で習っただけです]
思わぬ言葉に、僕は控えめに首を左右に振って自嘲気味な笑みを浮かべる。
[覚えているのが、凄いです]
[ありがとうございます]
[私も。一生懸命、励ましてくれてありがとうございます]
[とんでもないです。上手くフォロー出来ずにごめんなさい]
僕は自分の不甲斐なさに両肩を落とす。こういう時、兄さんならもっと素敵に、女性を笑顔にさせることが出来るのだろうなぁ。僕はまだまだだ。
[いえ。私は、優太さんにご迷惑をかけていないこと、私とのコミュニケーションが普通になっていたことが知れて、嬉しかったです]
[僕は美月さんが声を出せても、出せなくとも、絶対親しくなりたいと思っていましたよ。美月さんだから、お話ししたいって思うんです。もっと知りたいと思うんです。美月さんだからいいんです。その理由は、上手く言葉に出来ないですけど――]
[……優太さんって、時々、凄くストレートに伝えてくれますよね。照れてしまいます]
[ぇっと、すみません。つい……]
[私もいつか、優太さんみたいに素直になりたいです。素直に、色々なことをお話して、打ち明けて、私の気持ちを伝えたいです]
[やっぱり、今の僕では力不足ですか?]
僕は眉根を下げ、小首を傾げてみる。
[とんでもない]
と伝えてくれる美月さんは、顔の前で両手をパタパタと左右に振って否定した。
[……ただ、私の気持ちの整理がついていないだけです。もう少しだけ、優太さんと笑い合える時間を過ごしたいって思ってしまうんです]
そう付け足して伝えてくれる美月さんは、どこか力なく笑う。
[そう、ですか。なんだかよく分かりませんが、美月さんの整理がつくまで僕はずっと待ちます。それまでは、美月さんの傍にいさせて下さい。僕もまだ、美月さんと笑い合える時間を過ごしていたいです]
[私で良ければ]
美月さんはどこか力なく微笑む。僕は美月さんが無邪気に楽しんでくれると良いなぁと思い、デートの予定を一緒に立てるのだった。
†
三日後――。
JR京葉線葛西臨海公園駅より、徒歩三分。東京都江戸川区で有名とされている日本最大級の観覧車がある公園に、僕は一人で訪れていた。といっても、本当に一人と言う訳ではない。
僕の左手には、スマホがセットされた自撮り棒が握られている。平日で来客者が控えめとはいえ、人様のご迷惑にならないように、細心の注意を払う。
スマホ画面には、アイドルみたいな前髪と横の髪があるストレートのセミロングの黒髪に、トゥルーヘーゼルマーブル色の瞳が印象的な美少女が映し出されていた。浮気ではない。……正式に付き合ってもないので、浮気も何もないのだが。
今は僕が選んだウィッグとカラーコンタクトによって、本来の姿を隠してもらってはいるが、スマホ画面に映し出されている美少女は、正真正銘の美月さんだ。外出中のリモートでは、誰かに美月さんの存在が見える可能性が高い。美月さんがmeeだと気がつかれないようにと考えた、僕の防御対策だった。
『美月さん、見えますか?』
僕はスマホのメモ帳アプリに打ち込んだ文字を、自撮り棒にセットされているスマホ画面に見せる。
ちなみに今右手に持っているこのスマホは、僕が昔使っていたものだ。本日最大級に活躍してもらうべく、押し入れから引っ張り出してきた。
[はい。問題なく見えています。文字も]
僕は旧スマホを上下に振って、スマホ画面にキャンセルor取り消すかの選択画面を表示させた。迷わず取り消すをタップさせ、先程入力した文字を全部削除させる。本当に今の僕にとっては、楽ちんな便利な機能である。
真っ新になったメモ帳アプリに、『よかったです』と入力させ、再び旧スマホをスマホ画面に映した。
いつも使っているスマホは現在、美月さんとのリモートに使用しているため、使うことが出来ない。自撮り棒片手で屋外リモートをしていると、手話をすることが出来ない。かといって、右手だけでメモ帳に文字を書けるほど器用ではない。しかも、手書きは時間がかかってしまう。
そこで僕は考えた。片手でパパっと文字を入力できる旧スマホを活用させることで、美月さんとコミュニケーションをはかれるのではないかと。そしてもう一つ僕が考えたアイディアは、リモートデート。それが一番安心安全のデート方法だと思ったのだ。うん。我ながら良いアイディアである。
『時間が迫っているので、少し早歩きになります。スタビライザー付きの自撮り棒なので、大きな画面揺れはしないと思いますが、画面酔いで気持ち悪くなったら合図を下さい』
[はい]
頷く美月さんに笑顔で頷き返した僕は、公園内の5つのエリアを約25分かけ一周するパークトレインの乗車場に向かう。
パークトレインの出発時刻が、十五時二十五分。現在の時刻が十五時二十分程。リモートセットに時間をかけすぎてしまった。次を逃しても、十六時にもパークトレインは出発する。だがしかし、僕等には僕らの予定があるのだ。
乗車場に行くと、すでに五人程が次の出発時刻を待っていた。
『今からこれに乗って、公園内をお散歩します』
メモアプリにそう打ち込んだスマホを美月さんに見せると、美月さんは嬉しそうに頷いてくれる。
それを確認した僕は、自撮り棒をゆっくりと動かし、パークトレインを美月さんに見てもらう。
屋根付き貨物車が三つ繋がり、一番前に運転席がついているパークトレイン。ボディーはピンク色で、所々にお花がポイントデザインされていた。運転席にはトレインの可愛らしい顔がついており、昔遊んでいた機関車の玩具を彷彿とさせる。
一通りパークトレインを映し終えた僕は、『こんな感じのパークトレインでした。見えましたかね? 撮影慣れしてなくてすみません。見たい場所があったら教えて下さい』と文字を打ったスマホを、美月さんに見せる。
人生初のリモートデートを成功させるべく、色々と動画撮影の練習をしてはいたが、リモートとなるとまた少し違ってくる。内カメラで撮りたい景色を撮影していくのは、中々に至難の業だった。
[しっかり見えていますよ。可愛らしいパークトレインですね。ピンクや可愛いものが好きな子達には、たまらないのでは?]
『そうですね。三歳くらいの女の子が、かわいい~♡ って大はしゃぎしていましたよ。本当は青色が良かったのですが……。時間帯と運が……。面目ない』
青色が好きな美月さんには、青色のパークトレインを! と思っていたのだが、乗車場にはピンクのトレインしかいなかった。一体どこに隠れているのだろう?
[その女の子も可愛い。そんなそんな。むしろ、青色が好きなことを覚えてもらえていたことが嬉しいです]
『美月さんとお話した内容は、いっぱい覚えていますよ。大切な美月さん情報ですから』
[な、なるほど。ストーカーさんというやつですね]
『え⁉ ち、違いますよっ』
何故か思わぬ誤解を与えてしまった僕は、俊足で文字を打ち込んで美月さんに見せる。中条さんにストーカー呼ばわりされてもなんてことないが、美月さんにそう思われては終わりだ。
[じょ、冗談ですよ。からかってしまいました。ごめんなさい]
地団太を踏み出しかねないほどに焦る僕に、美月さんもまた焦ったように返答してくれる。
『ぁ、からかわれていただけなんですね。びっくりしたぁ』
僕は心底安堵する。普段冗談を言わない美月さんから繰り出される冗談は、本物か偽りか見分けがつけにくい。本気で焦った。
[すみません。少しおふざけが過ぎましたね]
『いえ。ある種貴重でした』
[……?]
美月さんは僕の言葉の真意を汲み取ろうとしてくれたものの、困惑したような笑みを浮かべる。
『えっと、すみません。変な発言をしたら、ヲタクかしら? 変なモノでも食べたのかしら? とでも思って、スルーして下さい』
[ど、努力します]
『努力が必要なんですね』
僕はクスクスと笑う。美月さんもつられたように微笑む。
穏やかな空気を感じていると、♪チリリリーンッ♪という発車時刻を知らせるチャイムが辺りに響き渡る。
『ぁ! 出発の時間なので、トレインに乗り込みますね。画像が景色に変わったら、例の作戦? でお願いします』
[は~い]
と間延びしたような声が聞こえてきそうな口元の動きを見せる美月さんは、ご機嫌に右手を上げた。美月さんが笑顔だと僕まで嬉しくなる。
僕は他の乗客が少ない、第三車両の一番後ろに乗り込み、スマホ画面を自撮り棒の先端を半回転させ、外側に向けた。こうなると、美月さんを見ることが出来ないため、手話が読み解けずコミュニケーションが図れない。
そこで僕が考えたのは、美月さんに楽器で合図をだしてもらうことだった。
カスタネットを一回=北。カスタネットを二回=東。カスタネットを三回=南。カスタネットを四回=西。カスタネットを左右に振って鳴らすのが緊急音。薬指→中指→人差し指を順番に、手招きのように素早く鳴らす音が、《ねぇねぇ》や《聞いて、聞いて》など、カメラ位置を戻して関心を向けて欲しいときの合図にしている。
楽器経験のない美月さんでも使える楽器で、音感がよろしくない僕でも理解出来る楽器音を通じ合わせるのはどうするか、ということを二人で考えた案が、カスタネットだった。
そしてもう一つの合図は拍手。
拍手一回が《はい》や《うん》などの返答。拍手二回が《いいえ》や《嫌》などの返答に決めている。僕達だけにしか分からない合図が、なんだか僕には嬉しかった。
その合図を聞き逃さないために、スマホにさしているイヤフォンを左耳に装着させ、音量を上げる。
♪ポッポー♪
乗客を全て乗り込んだことを確認した運転手は発車ベルを鳴らし、パークトレインを動かし始めた。
『走り出しました。一度西側から反時計回りに動かしてみますね』
人気のなかった第三車両の内番後ろの東側に腰を下ろした僕は、美月さんにそう伝えると、美月さんは早くも拍手一回で合図を送ってくれる。
公園サービスセンターから出発したトレインの景色は、陽の光に照らされた冬の芝生と、幾人かの来場者と従業員。まだ目を引くものはない。ただ、自転車ほどのスピードで揺られるトレインは心地よく、撮影向きでありがたかった。
半周してスマホを半回転させて元に戻すと、ニコニコ笑顔が可愛らしい美少女と目が合う。いつもと違う美月さんへの耐久性がまだついてなく、ドキッとしてしまった。
[天気がいいですね]
『はい。美月さん、太陽の女神様ですか?』
[ん~どうでしょう?]
と小首を傾げる美月さんは今日も可愛らしい。
『ぁ! お花畑エリアに入るみたいですよ。外に向けますね』
先程と同じように、自撮り棒の先端部分を半回転させ、スマホ画面を外側に向け、南西程に向け、エリア全体を見渡せるように心がける。椅子が左右にしか設置されていないため、先端部分で自撮りが出来ないのが少々不便である。
自転車並みのスピードでの走行のため、どんな体制でも自撮りは出来そうだが、「うわぁ~。おはなばたきぇ、きれぇい」とはしゃぐ女の子を差し置き、いいポジションを占領するわけにはいかないだろう。
薬指→中指→人差し指を順番に、手招きのように素早く鳴らす音が左耳に響く。
『どうしましたか? ちゃんと映せていませんでしたか?』
美月さんの合図に、僕は慌てて自撮りに戻す。
[ちゃんと映っていましたよ。さっき、右側の遠方で黄色のパークトレインがはしっていました]
『え?』
美月さんから見て右側と言うと、僕から見ると、南西くらいの方角だろう。花畑と来場者。花の周りを飛び回る蝶々は見えるが、黄色のパークトレインは見受けられなかった。
『み、見逃したもようです』
[残念。まだどこかにいるかもです]
ガクリと両肩を落とす僕を励ましてくれる美月さんの優しさが癒しだ。
『そうですね。走行スピードもゆっくりですし』
[パークトレインってたくさんいるんですね]
『赤色や黒色もあるらしいですよ。レアキャラ? として、虹色のパークトレインもいるみたいです』
[わぁ~。色々な子達がいますね]
『ですね。やっぱり赤色やピンク色だけだと、せんにゅうかんで、男の子のトレイン・女の子のトレインと言う風に、くべつしてほしくなかったのかもしれませんね』
と入力した文字を美月さんに見せる。先入観と区別という漢字をひらがなにした。正直、美月さんがどこまで文字を読み書き出来るのかが分かっていない。それを聞くのも気が引けるし、一つ一つ確認していては、毎回のリモートやお手紙がお勉強会になってしまう。そのため、難しい漢字は極力使わないように心掛けている。
[優しくて広い世界ですね]
『そうですね~。ぁ! 次のエリアに入るみたいです。どこ見ましょう?]
[優太さんが映っているエリアならどこでも]
『ふふっ。僕エリア』
美月さんの返答に思わず短く吹き出してしまう。
[優太さんが見せてくれる景色も素敵ですが、一人で生放送のテレビを見ているようで、少し寂しいです]
『分かりました。では、僕と共に色々とお届けしていきますね』
[はい]
美月さんは満面の笑顔で頷く。
その後、僕達は蓮の池エリアやアクアラインエリアなど、合計五つのエリアの景色達を、リゾート気分で楽しむのだった。
†
†
地上一一七ⅿの上空から周囲を見渡すと、レインボーブリッジやアクアラインの海ほたる。都庁や東京タワー、東京スカイツリーや東京ゲートブリッジ。房総半島から富士山に至るまで、関東の有名観光名所を一望できる葛西臨海公園にそびえ立つ、日本最大級の観覧車。六人まで乗車できる大観覧車が六十八台あり、約十七分の空中散歩を楽しむことができる。
土日祝日ならば二十時まで運航しているため、夜の有名観光所が一望できる。夜の夜景が見られるのも素敵なのだが、本日は平日。十九時で運行が終了される。遅くからリモートを開始するのも、リモートに付き合ってもらうのは、美月さんの体調が心配になる。
そこで僕は、美月さんと綺麗な夕日が見られればいいなぁと思い、二時からのリモートデートを選んだのだ。
パークトレインや、大観覧車までの道を歩きながらお話しをしたり、大観覧車の乗車までの待ち時間や、リモートの説明などに時間が過ぎ去り、現時刻は十六時十五分。ネット調べによると、東京の十二月の日入りが十六時二十九分。大観覧車が一周十七分。半周する天辺に行くまでは十四分かかる。中々にいい頃合いなのではないだろうか?
「では、素敵な空中散歩をお楽しみ下さい」
従業員は笑顔でそう言いながら、大観覧車に僕を乗車させると、静かに大観覧車の扉と鍵を閉めた。
大観覧車はすでに緩やかに動いている。
僕は急ピッチで美月さんにリモートを繋げながら、自撮り棒を三脚型に変形させて自立させる。ただ、大観覧車の揺れで三脚が倒れかねないので、足を延ばして座り、自分の足で三脚を固定させた。
そうこうしているうちに、美月さんとリモートが繋がる。
[み・つ・き・さ~ん]
僕は大きく口を開けて空言葉を出しながら、スマホ画面に映し出される美月さんに手を振る。
[はーい。優太さ~ん]
美月さんは笑顔で手を振り返してくれる。
[見えていますか?]
[はい。問題なく見えていますよ]
美月さんはそう笑顔で伝えると、両腕で大きな丸を頭上で作る。
[大観覧車の中が広かったので、三脚を自立させました。なので、少しだけ、手話でお話しさせて下さい]
[はい。やっぱり、向き合ってお話し出来ると嬉しいです]
[多分、観覧車が頂点に行くと日入りなので、一緒に見ましょう]
[はい]
美月さんはニコニコ笑顔で頷いてくれる。今日は美月さんの笑顔がたくさん見られて幸せだ。
[本当は、ゲームセンターがあったり、観覧車の下にもう一つアトラクションがあったりしたんですが、二人で楽しむのは厳しそうで……。もう少し遊べたら良かったのですが]
自撮りをしながらモグラたたきゲームをしたり、バスケゲームをしたところで、美月さんと一緒に楽しめるとは思えなかった。せめて可愛い景品が入ったクレーンゲームでもあったらよかったのだが、一人でリモートデートの下見に来た時にピンとくるものがなく、今日はゲームセンターを素通りした。
大観覧車の下にコンパクトな水上系アトラクションがあるのだが、もしかの場合があるため、乗車しながらの撮影は禁止された。そうなればもう、パークトレインと大観覧車しかなくなってしまう。
[そうだったんですね。私、今日凄く楽しかったですよ。 優太さんと同じ時間を過ごし、お話し出来るだけで本当に嬉しいんです。しかも今日は一緒にお出かけ? でしたし。今は念願の大観覧車ですし]
[美月さんが楽しかったのなら、僕はとても嬉しいです。そういえば、どうして観覧車が乗りたかったんですか?]
[……憧れ、だったんです]
[その憧れの乗り物を一緒に乗ったのが、僕で良かったんですか?]
[もちろんです!]
美月さんは大きく頷いて見せる。
[美月さん、ありがとう。本当に、色々と。……次は、画面の中の美月さんとではなく、美月さんと一緒にココにこられたらいいなぁ]
僕はどこか独り言のように気持ちを吐露する。
[もしそんなことが出来たら素敵ですけど……今の私には厳しそうです]
美月さんは頼りなげに微笑み、首を竦めて見せた。
[やっぱり、まだ体調が優れませんか?]
[それもですけど、やっぱり体質がネックになっています。一歩外に出ると、誰かと触れ合ってしまう可能性があります。故意に触れなくとも、誰かとぶつかってしまったりする可能性もあります。それに、人の体温だけではなく、そこかしこに熱があるかもしれません……]
[僕が守りますよ――なんて、勝手なことは言えませんよね。僕じゃ頼りなさすぎる。僕と一緒に外出なんて危険です]
[そうですね]
[ぇ⁉]
想像していなかった即答振りに、さすがの僕も堪えてしまう。
[だって、優太さんと本当にお出かけをしたら、私は優太さんと並んで歩きたくなってしまう。触れ合ってみたくなってしまう。手を繋いで歩いてみたくなってしまう――それは、危険です]
美月さんは眉根を下げて微笑む。
「……それは、反則だと思います」
美月さんの思わぬ言葉にノックダウンした僕は、両手で顔を覆って項垂れ、白旗を上げる。
「えぇ? なにが反則なんですか?」
美月さんは先程の発言に対しての破壊力に気がついていない様子で、頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。
[僕と並んで歩きたくなるとか、触れ合ってみたくなるとか、手を繋いで歩いてみたくなるとか、もはや、告白……?]
[!]
美月さんはハッとしたように目を見開いた後、顔をリンゴのように赤らめる。
[すみません。少し意地悪でしたね]
[……いえ。その、優太さんが嫌じゃなければ……。ご迷惑じゃなければ、告白と受け取ってくれるのなら、嬉しいです]
[!]
思いもしていなかった美月さんからの告白に対し、次は僕が硬直してしまう。身体が熱い。
[ぁ、えっと……やっぱり、今のは忘れて下さい]
[ぇ?]
嬉しい言葉をすぐに撤回してしまう美月さんに戸惑う。
[……ごめんなさい。無理です。忘れられません。だって、凄く嬉しかったから。僕だって美月さんと同じ気持ちだから。今日、幾人かのカップルを見ました。その度に、美月さんと並んで歩きたくなったし、美月さんと触れ合ってみたくなってしまいました。ぁ! 変な意味ではなく、美月さんと手を繋いで歩いてみたくなったんです。外の世界には、もっと色々なものがあります。楽しいものもたくさんあります。リモートデートだけでは伝えきれない、楽しい世界やもの達に溢れています。だから僕は、いつか美月さんと外の世界でデートをしてみたいです。それが、僕の夢です]
[その言葉だけで、私は嬉しいです。優太さんの夢は私と同じですね。いつか二人で叶えることが出来たらいいのに……]
美月さんは諦めの境地に居るのか、力のない笑みを口元に浮かべる。僕達の間に、どこかしんみりとした空気に溢れてしまう。僕は[ちょっと、画面揺れます]と断りを入れてから、三脚にしていた自撮り棒を左手で持てるように、コンパクトにさせた。
僕は空気感を一度替えようと自撮り棒を持ち、観覧車の中を一周する。
『美月さん、見えますか?』
僕はコミュニケーション方法を手話から、メモアプリに切り替える。
美月さんと話しているうちに、観覧車がちょうど天辺近くまで来ていた。おかげで日入りしていて、色々とありがたい。
[はい。夕日も綺麗ですね]
『どこ見ましょう? 今日はいい感じに晴れていたので、東京タワーや富士山も綺麗に見えていますね』
[西なぎさが見たいです]
『西なぎさ?』
思わぬリクエストにきょとんとしながらも、僕は美月さんのリクエストに答える。
『美月さんも、思入れがあったりするんですか?』
[はい。とても思い入れ深いことがありました]
どこかうっとりと懐かしそうにそう答える美月さんは、そっとはにかむ。その姿は、家族に向けるようなものには感じられなくて、少し焼いてしまいそうだ。
『そう、なんですね。僕も、懐かしい思入れがありますよ』
[それは、聞いてもいいですか?]
『聞いてもつまらないと思いますよ? 小さい頃にバーベキューをした思い出なんて』
僕はどこか自嘲気味に答えてしまう。これではいけないと、自分を律する。危うく、大切な時間を訳の分からない焼きもちなどに食べられてしまうところだった。
[大きくなってからは、バーベキューしていないんですか?]
『ん~、今年かな? 兄さんとバーベキューしたことあります。同じ、西なぎさで。そう言えば、西なぎさから、この観覧車が見えるんですよ』
僕は今僕と過ごしてくれる美月さんと、この時間を大切にしようと、笑顔を取り戻して答える。
[本当に兄弟仲がいいんですね。知っています。西なぎさからこの観覧車を見て、ずっと憧れていました]
『ん~、兄弟仲はいい方だと思いますけど……ひょっとしたら、ブラコンかも。美月さんも憧れていたんですね。僕も、この観覧車憧れでしたよ。いつか、大切な人と乗ってみたいなぁ~と思っていました。……夢を叶えて下さり、ありがとうございます』
[ブラコン? そんな。お礼を言わなきゃいけないのは私の方です]
『ブラコンについては、スルーして下さい』
[わかりました。じゃぁ、ブラコンについては、また隠れて調べてみます]
『調べないで~』
僕はクスクス笑いながら、文字打ちした旧スマホを画面越しの美月さんに見せる。
[残念]
美月さんは首を竦め、クスクスと笑う。
その後、僕達は他愛のない会話を交わし合いながら、しばしの空中散歩とリモートデートを楽しむのだった。
リモートデートから三日間、僕達のやり取りはストップしていた。
美月さんに無理をさせてしまったのではないかと、中条さんに連絡を取ってみたものの、どこか誤魔化されているような返答しか与えてくれなかった。
「はぁ」
物思いにふけてしまう僕の口から、重い溜息が零れ落ちる。
兄さんの家で鯛の煮つけを作っていた僕の手付きは、いつもよりぎこちない。
「美月さん、無事なんだろうか?」
その呟きに答えるかのように、僕のスマホからメッセージアプリの通知音が届く。
「中条さん?」
期待を抱きながらスマホを確認すると、中条さんから一通のメッセージが届いていた。
【こんにちは】
そのメッセージに既読をつかせると、すぐに二通目のメッセージが届く。
【いま、電話しても大丈夫かしら?】
それに対し僕はすぐに二つ返事を送った。
メッセージの代わりに、スマホから着信音が鳴り響く。もちろん着信相手は中条さんだ。
「はい。もしもし」
『はい、こんにちは。急な電話で悪いわね。美月のことで少し話しがあったのよ。今は貴方一人?』
「はい。今は兄さんの家にいますが、兄さんは不在です。三時間は帰ってこないかと」
『そう。ちょうどいいわ』
「あの~、美月さんの体調はどうですか? あれから、悪化とかしていませんよね?」
中条さんが話しを切り出す前に、僕が今一番気になっていることを問うてみる。
『……貴方の今日と明日の予定は?』
中条さんは僕の問いに答えを与えることなく、新たな質問を投げかけてくる。
「今日は兄さんの家で家事をしたりしています。明日は大学です」
『そう。じゃぁ、今日はお兄様のマンションには泊まらないのね』
「どうしたんですか?」
質問内容もそうなのだが、先程からいつもより落ちた声のトーンが気にかかる。
『美月が貴方に会いたがっているのよ』
「じゃぁ、リモートを……」
『画面越しじゃない貴方に会いたがっているのよ。だからリモートでは意味がないの』
「ぇ、じゃぁ……会わせてもらえるんですか?」
『……』
「中条さん?」
無言になってしまった中条さんを呼びかける。
『……会わせてあげたいけれど、会わせてあげていいものなのか、分かりかねているわ』
少し間を置いて返ってきた返答は煮え切らない。
「どういうことですか? 何が気がかりなんですか? 僕、美月さんのことは誰にも言っていませんし、今後も言うつもりはありません。美月さんが嫌がることはしません」
『そこを疑っているわけじゃないわ。貴方を傷つけることになるのが分かっているからよ』
「傷つける? ……もしかして!」
『?』
「中条さん、美月さんの秘密を知っていたんですか?」
『ぇ?』
中条さんは素っ頓狂な声を上げる。寝耳に水だったのかもしれない。
「いつから知っていたんですか?」
『いや、待ってちょうだい。それはこちらの台詞よ。貴方、いつから知っていたの?』
「僕は美月さんが倒れた日に」
『……そう。もし美月の秘密を知っているのなら、西なぎさまで来てちょうだい』
「今からですか?」
『いいえ。今日の深夜二時に一人できてちょうだい。誰にも言わないでね』
「分かりました」
『じゃぁ、また――』
と言って中条さんは電話を切った。耳元で流れる機械音がやけに耳奥に響く。
また画面というガラス越しじゃない美月さんと会える喜びと、なにが起きるか分からない不安が同時に襲ってくる。美月さんは体調が日に日に良くなっていると言っていたが、中条さんの声音は暗かったし、いつものように力強いオーラは感じなかった。かなり傷心しているように感じた。美月さんは本当に大丈夫なのだろうか?
僕は喜びと共に不安を抱えながら、その時が来るのを待った――。
†
深夜二時。
車どころか、車の免許すら持たない僕は、終電を使い、西なぎさに足を運んだ。
冬季の平日真夜中。人っ子一人いない。
「誰もいない。……中条さん達はまだ来ていないのかな?」
♪プルルー、プルルー♪
僕の不安を掻き消すかのように、着信音が辺りに響く。着信相手は中条さんだった。
「はい」
『今、どこにいるの?』
「もう西なぎさにいますよ。中条さん達はどこにいますか?」
『美月は一人、大木に座らせているの。その背後には、赤い車が一台停まっているから、すぐにわかると思うわ。テールランプをつけておいてあげたいけれど、極力目立たないようにしたいのよ。誰の目があるか分からない』
「分かりました。探してみます」
『ありがとう。じゃぁ――』
と、中条さんは電話を切った。
僕も元の画面に戻したスマホを尻ポケットにしまい、しばしのあいだ美月さんの姿を探す。僕が今まで歩いてきた道には、車が一台も停まっていなかった。ということは、このまま前に足を踏み出して行けば、美月さんと会えるはずだ。
「ぁ!」
一分程走った僕は、無事に美月さんの姿を見つけることが出来た。
美月さんの背後に視線を移せば、確かに一台の車が止まっていた。きっと車内で中条さんが見守っているのだろう。
「美月さん」
と呼びかけながら歩み寄る。きっと美月さんの耳に僕の声は届ききっていないのだろう。美月さんは俯き、膝の上に置いた両掌で遊んでいた。
「美月さん」
と美月さんの正面に回り、しゃがみ込む。
《⁉》
視界に僕の足元が映ったのか、ビクリと肩を震わせた美月さんは勢いよく顔を上げた。
月明かりに照らされた美月さんは、相変わらず美しかった。だが、三日前に画面越しで会った美月さんとは違った。ウィッグやカラーコンタクトをつけていないだけの話ではない。驚くほど痩せていて、顔の血色も悪く、目の下にはクマが出来ていたのだ。
[優太さん]
指文字で僕の名前を呼ぶ美月さんはふらふらと立ち上がる。
思わず支えようとする自分を慌てて律した。美月さんが左掌を突き出して制止してきたからだ。触らないで。とでも言うように。
[会いに来てくれて、ありがとうございます]
[いえ。また会えて嬉しいです]
[私も、最後に会うことが出来て嬉しいです]
美月さんは独り言のようにそう伝え、目を細める。
[最後? それって、どういうことですか?]
[ぇ?]
怪訝な顔をする僕とは対照的に、美月さんはきょとんと目を丸くさせる。
[いや、今、最後と言いましたよね? 引っ越しとかですか?]
[もしかして、知らないんですか? 中条さんは、優太さんはもう分かっているから、と仰っていましたけど……]
美月さんは戸惑いの色を見せる。もう訳が分からない。
[確かに、美月さんの肌のことについては知っていますが]
[そのことではありません]
美月さんは首を左右に振る。
[じゃぁ、どのことを言っているんですか?]
美月さんは何を伝えることもなく、フラフラと海へと足を向ける。
裸足の美月さんの足に砂がサラサラとかかる。美月さんはそれを気に留める様子もない。
僕は慌てて美月さんの後を歩いた。
[裸足で大丈夫ですか?]
[靴を履いているほうが熱で溶けてしまうので]
「熱で溶ける?」
美月さんの意味不明な言葉に首を傾げる。僕の声は美月さんに届いていたいため、その答えが返ってくることはない。
美月さんは海に濡れることを気に留める様子もなく、ちゃぷちゃぷと海水に入っていってしまう。僕もそれに続くが、スニーカーと靴下が海水につかり不快感が否めない。
[美月さん? どうされたんですか?]
あまりの海水の冷たさに、身震いを起こす。それでも、なんとか手話で問いかける。
「帰るんです」
「えっ⁉」
初めて声を発した美月さんに驚愕する。驚きで次の言葉が出てこない。
「もう、手話は、大丈夫ですよ」
「ぇ? え! えぇー⁉」
僕は拳を口元に当て、オロオロと視線を右往左往させる。ついには、両手で頭を抱えてパニックを起こす。ありえない。何がどうなっているのか訳が分からなかった。
「驚かせてごめんなさい」
美月さんは申し訳なさそうに頭を下げる。身体中がかじかむ海水の中でも、美月さんはスムーズに言葉を発してゆく。
「ど、どどっ、どーうして、いきなり声が?」
僕は驚きと海水の冷たさで、身体と声を震わせながら問う。
「ココが私の居場所であり、魔法が解ける時間だから」
「すみません。本当に、意味が、分からないです……」
「全て、お話しします。どうか、怖がらないで」
美月さんは懇願するように僕を見つめる。親に捨てられることを怯える子供のような瞳をしていた。
「大丈夫です。さっきは、驚いただけです。大丈夫。僕は美月さんを怖がらないし、拒絶しない。約束します。だから、聞かせて欲しいです。貴方のことを」
僕の言葉に安堵したのか、美月さんはホッと小さな息を吐く。
「何からお話ししたらいいのか分かりませんが――まず、私は……」
美月さんはそこで一度言い止まってしまう。僕は何も言わずに微笑み頷いて見せる。大丈夫だよ、とでも言うように。
「単刀直入に言いますと、私は、人間ではありません」
「……はい?」
どんな言葉も受け入れようとしていた僕であったが、思わぬ発言に驚きを隠せない。無意識で怪訝な顔をしてしまった。
人間ではない。とは一体どういうことなのだろう?
「驚きますし、疑いますよね。だけど、これが真実なんです」
微苦笑を浮かべた美月さんは眉根を下げる。
「人間じゃないとしたら、なんだと言うんですか?」
「優太さん、私の肌に触れた個所、炎症起こしましたよね? そして、その炎症は長らく続いたはずです」
「……」
「その痛み。炎症。身に覚えがありませんか? 半年前の夏。この場所で」
「……半年前?」
僕は記憶を呼び起こす。
半年前の夏。僕は二度、この場所に訪れたことがある。
一度目は、兄さんとバーベキューをしたとき。
二度目は買い物をするお店が開くまでの時間を潰すため、一人で訪れたことがある。
「えっと、昼間ですか? 朝のことですか?」
「朝です。朝、私は本来の姿で優太さんと出会いました。そして、命を助けてもらいました」
「助けたって……どういうことですか?」
僕は戸惑い、視線をさ迷わせる。あの時この浜辺には誰もいなかったはずだ。ましてや美月さんみたいな人がいたなら、絶対に覚えているはずだし、忘れるわけがない。
――私は、人間ではありません。
――その痛み。炎症。身に覚えがありませんか?
先程言っていた美月さんの言葉が、僕の鼓膜でフラッシュバックする。
あの炎症の仕方、強い痛み、時間の経過と共にます痒み。それら全てを、僕は一度経験したことがあった。
僕は、今ではほぼ赤みと痛痒さが完治した掌をじっと見つめる。
「でも、これって――」
僕は言い淀む。僕の予想が当たっていたとしたなら……。
「美月さんは、本当に、人間じゃない?」
僕は独り言のように問う。
いけないとは分かっていても、声が無意識に振るえてしまう。この声の震えは、寒さから来るものだと言わせて欲しい。
美月さんは眉根を下げて微笑み、そっと頷いて見せる。
「ま、まさか、あの時の……?」
震える声で問いかける僕に、美月さんは静かに深く頷く。
「⁉」
僕は衝撃で言葉を失った。
僕は半年前、波打ち際で亡くなりかけていた海月と出会ったことがあった。
僕がその海月を海に返すと、海月は緩やかに元気を取り戻し、自分の世界へと帰って行ったのだ。僕に残ったのは、海月に刺された時に起きる炎症と痛み。その炎症と痛みは、今回のモノと全く同じだった。
「あの時は、命を助けて下さったのに、優太さんを傷つけてしまってごめんなさい。外敵から身を守るための機能を自分ではどうすることも出来ませんでした」
美月さんは深々と頭を下げた。サラサラの髪が海水に浸かる。
「ほ、本当に……海月、なの?」
「はい。私達は熱に弱いです。体温の高い人間の熱に触れれば溶けてしまう」
「! だから、人と触れ合うことを避けていたと?」
「はい。私達海月は、熱に触れるとこうなってしまうから」
美月さんは白のワンピースの上に羽織っていた、フード付きコートを脱ぐ。ワンピースから出ている二の腕には、ガラスのような透明感のある個所がある。それは僕が触れた場所だった。そこは今だに、僕の指の後がくっきり残っていた。
「! 美月さん、やっぱり跡が……。ごめんなさい」
苦し気に伝える僕は、勢いよく頭を下げる。
「謝らないで下さい。むしろ私は、この跡が残って、嬉しいと思っています」
「?」
僕は美月さんの真意が分からず、小首を傾げる。女性は肌に跡がつくこと、シミやしわが出来ることを嫌がるモノではないのか? 跡が残って嬉しいという女性に出会ったことがない。
不思議そうな顔をしている僕に微笑む美月さんは、すぐに答えを伝えてくれる。
「二人が触れ合った場所についている痕跡。そう思うと、少しこの跡が愛おしくなります。思い出になります。もちろん、その痕跡を残されて嬉しいだなんて思うのは、優太さんだけになんですけど」
そう言ってはにかむ美月さんは話を続ける。
「私はこうして、触れた人を傷つけてしまう。それを避けるため、今まで人との接触を避け続けて生きていました」
「海月だとしたら、どうして今、人の姿になっているんですか? それに中条さんは、美月さんには過去の記憶がないと仰っていました。浜辺で産まれたままの姿で倒れていたとも仰っていました」
分らないことが多すぎて、つい質問攻めにしてしまう。
「人の姿になれているのは、本来生きられるはずだった残りの寿命と引き換えに、人の姿へと変えてもらったからです。海月から人の姿になったので、”洋服”というものを持ち合わせていませんでした」
「誰に人間に変身させてもらったんですか?」
「詳しくは言えません。海の中の世界のことを、人の世界へと持ち出すことは禁忌とされています」
「……」
僕はいまいち納得ができず、不貞腐れたように口つぐむ。
「すみません。それと、私に過去の記憶がないと言うのは、真っ赤な嘘です。現に、私は優太さんに助けてもらった記憶があります。ここから大観覧車を見て憧れていた記憶も残っています」
美月さんは不貞腐れる僕を流すかのように微笑みを浮かべながら、そう話す。きっと、これ以上深く聞いたとしても、答えてはくれないだろう。
僕は美月さんが向けた視線と同じ方角に視線を向けた。
三日前。美月さんとリモートデートをしたときに乗った大観覧車が見えていた。今は真夜中ということもあり、満月と星明りに照らされた姿でしか見えないが、イルミネーションで光る時間はとても目立つだろうし、美しいだろう。
「この場所から、ずっとあの観覧車を見ていました。いつか乗ってみたいと思っていたんです。優太さんに助けてもらった日からは、優太さんに思いを馳せながら見ていました」
「……そう、だったんですね」
僕はホッと胸を撫で下ろす。三日前に感じた焼きもちやモヤモヤした気持ちが、すっと浄化されていくようだった。
「ところで、どうして嘘を?」
「ココにいる必要があったんです」
――あの子の探している人が見つかるかもしれない。
中条さんが話していた言葉が、ふと脳裏に思い起こされる。
「探している人を見つけるために?」
「そうです。……私は、ずっと貴方を探していました」
美月さんは真摯に僕を見つめながら、ハッキリとした口調で言った。
「!」
「モデルというものになり、より多くの人の目に触れたら、貴方が見つけてくれると思っていました。だけどまさか、あんな唐突に出会えるだなんて」
唐突の出会い。それは、僕が兄さんのマンションで、気まぐれにプールへと足を運んでみたときのことだろう。
「運命だと思いました。奇跡だと思いました。だけど、私の気持ちを伝えることは出来なかった」
最初は声を弾ませて話していた美月さんだったが、最後は笑顔の花をしぼませる。
「声が出せなかった……から?」
「はい。私達海の生物は、一度契約を交わせば、人の姿としてこの世界で生きることが可能です。ですが、海ではない場所では私達は声を失う。正確に言えば、人の姿になっているのなら、人の言語をお話しすることは可能なんです。だけどそれは海上だけの話であって、人間として地上へ下りてしまえば、声を失い、人と分かり合うことが難しくなるんですよ」
「だから今まで声が聞き取れなかったと? そして、今は海水の中にいるから、僕達はこうして話が出来ているということですか?」
僕の問いにコクリと頷く美月さんは、再び口を開く。
「だから私は、手話と言語を身につけることにしました。いつか貴方とお話し出来ることを夢見て」
「……」
「その夢は、貴方のおかげで叶えることが出来ました。ありがとうございます」
「そんなっ」
僕は慌ててがぶりを振る。
「僕も、美月さんとお話ししたかったんです。仲良くなりたかったんです。だから、美月さんと分かり合える言語を覚えることが出来たんですよ」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
美月さんは嬉しそうにはにかむ。
「さっき、寿命と引き換えに人の姿に変えてもらったから。と仰っていましたよね?」
「はい」
「……もしかして、命の終わりが近いんですか?」
そう問いかける僕の声は驚くほどか細く、震えていた。
美月さんは肯定の言葉も、否定の言葉も話さず、ただゆっくりと瞼を閉じる。それは、肯定を意味しているということだ。
「ッ」
僕の瞳に涙が滲む。それを溢さぬように、握り拳に力をいれた。
「貴方に二度と会えずに旅立つより、もう一度貴方に会いたかったんです。会ってお礼がしたかった。あの時は、助けて下さり、本当にありがとうございました」
「こんなの助けたとは言えません。僕が命を削ったも同然じゃないですか」
僕はぶんぶんと首を左右に振る。
「いいえ。本来なら私はあの時、天国へと旅立っていました。貴方が私の命を伸ばしてくれたんですよ」
「伸ばされた命なら、どうして?」
少しの苛立ちが声音に交じる。
「貴方に会いたかったから。シンプルに、もう一度貴方に会いたかった。お礼を伝えたかった。貴方のことが好き、だったんです」
「⁉」
頬を赤く染めながらも、僕を見つめて真摯にそう伝えてくれる美月さんの言葉に目を見開く僕の瞳から、雨雫のように涙がつたう。
僕だって美月さんともう一度会いたかった。会ってお話がしたかった。もっと親しくなりたかった。同じ時間を共有したかった。気がつかぬふりをし続けていたが、やっぱり好きなんだ。美月さんのことが。あの時から。
天海美月という少女と出会ったあの瞬間からずっと。一目惚れだったんだ。
その美貌に囚われているだけなのではないか? とも思っていたが、文通やリモートでやり取りを重ねるほどに、思いは募るばかりだった。
「いっぱい傷つけてごめんなさい。手話と言う言語で、たくさんお話しができて嬉しかったです。とても素敵な時間でした。大好きな時間でした。私を見つけてくれて、出会ってくれてありがとうございました」
「ッ⁉」
涙を溢しながらそう伝えてくる美月さんの背丈が、徐々に縮んでゆくことに気がつく僕は言葉を失う。
「あぁ。始まりましたね」
美月さんは自嘲気味な笑みを溢す。
「⁉ な、何が始まったと、言うんですか?」
「私が海へと帰る時間が始まったんですy」
焦って問う僕に対し、美月さんは落ち着いた口調で答えてくれる。
「……それは、海月の姿へと戻る時間ですか?」
その問いに対し、美月さんはフルフルと首を左右に振る。
「じゃぁ……」
「私の全てが溶けてしまう時間ですよ」
「それって……ッ」
深く聞く前に理解する。だが、そうではないとあって欲しいと願う僕がいた。
「えぇ。そうです。私の全てが溶ける時間。つまり、私が天国へと旅立つ時間」
美月さんはすでに全てを受け入れているのだろう。驚くほど冷静な口調と温顔だった。
「美月さんの身長が縮んでいるのは、足から溶けてしまっているということですか?」
僕の問いに対し、美月さんは無言のままコクリと頷く。
「全て溶けてしまったら、いったいどう、なってしまうんですか?」
「どうにもなりません。私達水海月は約九〇%水でなりたっています。だから、命を失うとほとんどが溶けて海水と一体化になります。何も残らない」
可愛らしくもか細い声でそう言った美月さんは、視線を海水へと落とした。
「何も、残らない?」
僕は言われた言葉を理解できず、オウム返しをしてしまう。否、意味は理解できる。だが、それを受けとめることが出来ないのだ。
「はい。何も」
美月さんは微苦笑を浮かべ、コクリと頷いて見せる。僕は一瞬言葉を失い、自然と瞳が潤み始める。
「……。だったら……だったら! 抱きしめてもいいですか?」
「ぇ⁉」
美月さんは僕の申し出に驚きの色を見せる。
「私に触れるということは、また貴方を傷つけるということですよ。駄目です」
「だからです。何も残らないのなら、”残して下さい”僕に、貴方がココにいたという証を。僕の腕の中にいたのだという証を、僕の身体に残して下さい」
「そ、そんなこと出来ませ――ッ」
がぶりを振る美月さんの言葉を最後まで聞かず、僕は美月さんを抱きしめた。
「ゔっ」
美月さんの肌に触れた個所が一気に熱を帯び、ブツブツが浮かび上がる。激しい痛みが僕を襲う。海水で冷え切っていた身体の体温が、一気に上昇していくように感じた。
「ダメ! 毒がッ」
美月さんは慌てて僕の腕の中から離れようともがく。もがいて僕から離れる美月さんの肌は、すでに透明となっていた。僕のこの行為は、美月さんの寿命を縮めているということだ。
「死なないですよ。ココは海水。海月に刺されたら毒を抜き海水で洗えばいいと聞きました。それより、ごめんなさい」
「どう……して? どうして貴方が謝るんですかっ?」
「僕が抱きしめることで、美月さんの命が削られてしまう。だけど、ただただ目の前で溶けてゆく美月さんを見守ることは出来ないんです」
僕は苦痛に顔を歪めながら、ポロポロと涙を溢す。
「優太さん……」
美月さんはそんな僕に呆れたのか、観念したのか、僕の背中にそっと手を回してくれた。微かに触れる肌が痛む。全身がいたくて熱い。
美月さんの身体はどんどん透明になってゆく。いっそのこと、このまま二人で溶けあえればいいのに。そうすれば、二人で海水として生きられるだろうに。
もちろん、そんな僕の願いは叶う訳もない。
海の住民と地の住民。こうしていることがまずありえない奇跡なのだ。一緒になることなど不可能。
「僕、美月さんのことをずっと忘れません」
「私も、忘れません。ずっと、見守っています」
「はい。ずっと見守っていて下さい。また会いに来ますから。ココへ」
僕は約束だとばかりに、小指を美月さんに見せる。
僕の糸を汲み取ってくれた美月さんは、右手の小指を出す。それはもう人間という物質ではなく、濁りのない水が人の手の形を維持しているようなものだった。
「待っています」
と泣き笑いをする美月さんは僕の小指に自身の指を絡ませる。そこに体温はなく、水に浸かっているという感覚だった。
「約束ですよ」
そう言って微笑んだ美月さんお身体は、水しぶきを上げるように、勢いよく弾け飛び落ちてしまう。いくつかのゼリー状の個体物も、程なくして海水に溶けきってしまった。
そこが僕の最後の記憶。
次に僕が目を覚ました時は、病院のベッドの上だった――。
二ヵ月後――。
退院して肌もほぼ元に戻った僕は、西なぎさへ訪れていた。
「美月さん、来ましたよ」
平日の深夜一時。浜辺に人はいない。もちろん、美月さんもいない。
美月さんとの最後の別れから意識を手放した僕を救ってくれたのは、事の真相を見守っていた中条さんだった。
中条さんは美月さんが海月であることと、寿命のことを知っていたようだ。
――中条さん、美月さんの秘密を知っていたんですか?
という僕の言葉を、美月さんの正体や寿命のことを指していると勘違いをした中条さんに対し、僕は美月さんの肌に触れたら炎症起こすことを話していると勘違いしていた。やはり言語を上手く扱ってゆくのは難しい。
meeというモデルは電撃引退という形となり、モデルや広告業界が荒れたようだ。だがその荒れた波も今では落ち着き始めていた。
世間はいつだって足早に過ぎ去ってゆく。meeの存在も、あと数年も経てば、深く関わり合いを持った者にしか、心や記憶に残らないのかもしれない。
多くの大衆が忘れ去ってしまっても、僕はmeeというモデルの存在を、天海美月という女性を、その正体が海月であったことを、一生忘れることはないだろう。忘れられるはずがないのだ。
美月さんと過ごしたあの優しい時間を。美月さんの笑顔を。美月さんの儚くて可愛らしい声を。あの全身を走る痛みを――。
初恋は儚い。初恋は苦い。初恋は甘酸っぱい。色々な表現を聞いたことがあるが、僕の初恋は……儚い海の魔法と激痛――と言ったところだろうか。
「一生、忘れられない初恋だな」
僕は微苦笑を浮かべる。
僕に今までの日常が戻ってくる。だが今まで通りじゃないものがある。
肌に残る赤みは消えてしまうが、美月さんは僕に”手話”というモノを残してくれた。
僕はこれからもっともっと手話を勉強し、手話通訳士の道を歩むことにした。兄さんにそれを話したら、凄く応援してくれた。
兄さんは兄さんで独立をして、自分の店をオープンさせるようだ。
自分のお店に対し、目をキラキラ輝かせて話していた兄さんを見て、これが兄さんの天職なのだと感じた。ある種兄さんは、天職に導かれるためのレールを歩んでいたのかもしれない。
僕も同じ。悲しみと共に新たなステージへと、天職へと導かれているように思う。
「美月さん、ありがとう」
僕の声が美月さんに届いていることを祈りながら、そっと呟く。そんな僕に答えてくれるかのように、波音が響いた。
その後、僕はしばしのあいだ、穏やかな波音を立てる海を、静かに眺め続けるのだった――。