十年後。――島根県、神無し島。

 妻と二人で、墓石に手を合わせていると、「おーい」という声が背中側から響いた。
 誰だろう? と振り向くと、俺らがいる墓地を目指し、坂道を登ってくる女性の姿が見えた。
 白のトップスに合わせたガウチョパンツはシックな黒。当時より少し伸びた艶のある黒髪を風になびかせやって来たのは、二十四歳になった涼子だ。木漏れ日が落ちた端正な顔は、見た目通りに涼し気だ。

「噂をすれば、なんとやら、だな」
「真人がさ、涼子ちゃんのこと苦手なんだって」
「やめろよ光莉! マジでチクるやつがあるか!」

 真顔でそんなことを言って退ける光莉(つま)に苦情を述べるが、涼子はまったく意に介していない。
「光莉! 久しぶりー!」と喚声を上げ二人で正面から抱き合った。

 高校進学後、島を出た俺たちはみんなバラバラになってしまった。こうして顔を揃えるのは、成人式以来だろうか?

「それにしても驚いた。涼子が弁護士になっているなんてね」
「いやあ、大変でしたよ。弁護士になるための予備試験を突破するために、在学期間中の四年間をすべて使いました」

 明白な目標を胸に、高校進学時から資格取得のため勉学に励んだ涼子は、大学四年生時に無事、弁護士資格を取得。松江市(まつえし)で、一般民事を扱っている法律事務所に勤務している。
 元々、優秀な人材を輩出してきた家柄。それほど驚く要素もなかった。政治家の道に進まなかったことを、両親は不満に感じてもいるらしいが、これだけの成果を見せられたら、不満があっても口にはできんだろう。

「私の力で、ひとつでも多く冤罪事件を減らしたいからね」

 涼子が自分から口にしたことはないが、たぶん、あの夏の日の記憶があるからなんだ。

「うんうん」
「で、も、凄いのは光莉だって同じでしょ?」
「でしょー? と言っても、医師免許をようやく取ったばかりで、まだ研修医の段階なんだけどね」

 光莉は、考えられうるほぼ最短のルートで医者になった。
 医学部のある大学を卒業し、医師国家試験を受験して、医師免許を取得した。その後、研修医として出雲市(いずもし)にある外科病棟に勤務している。

「それでも凄いよ」
「えへへ」と光莉がドヤ顔になる。「なんていうかさ、彼の意思を継ぐの、私しかいないじゃんって、そう思ったの。真人の頭じゃ無理だし」
「だよなあ。俺の頭じゃ医師なんて到底無理……じゃなくて。そこでナチュラルにディスってくるのやめて。そんなんわかっちゃいるけどさ」
「アハハ。ほんと、二人は仲いいね。二人が仲いいのに安堵しているの、きっと私だけじゃないね」

 溌剌な顔をして涼子が笑う。
 都がいなくなったあと、しばらくの間暗い顔で塞ぎこんでいた涼子だが、今はこうして笑えるようになった。
 それでも、完全に吹っ切れていないことを俺は知っている。
 高校進学後、涼子にも何度か男の噂があったが、どれもこれも長続きしなかった。ここ数年は、男の影がまったくない。
 勉強が忙しかったから、だけではきっとないのだろう。

「そうだなあ」

 漏れた呟きと一緒に、俺の視線はごく自然に墓石のほうに向いた。
『高橋家』と刻まれた墓石の脇には、確かに都の名前がある。

「なんかさ、私、思うんだよね。あの時、私たちのうちの誰が欠けていたとしても、この幸せな未来にはたどり着かなかったんじゃないかなって」

 涼子の声に、「だなあ」と俺は頷いた。都が光莉のことを願い、光莉が都のことを願い、みんなが自分意外の誰かのことを(あん)ずることで、あの奇跡にたどり着いたのだ。

「相槌ばっかり」
「だって、他に言うことねーもん」
「アハハ」
「この十年。忘れたことは一度もなかった。忘れられるはずもなかった」

 光莉の、しんみりとした声が蝉の鳴き声と重なると、自然と俺らの背筋も伸びた。

「都くんとこの島で過ごした夏って、私たちの人生で見るとほんの一部でしかないんだよね。でも」

 麦わら帽子の陰から覗いた妻の瞳は、ちょっとだけ潤んで見えた。

「都くんと過ごしたほんの数年の記憶が、私の背中を押してくれている。彼がいなければ、今も私は目的もなくこの島で暮らしていたかもしれない。もしかしたら、もう、生きていなかったのかも」
「だなあ」

 結局、俺はまた相槌を打った。
 今度は涼子も茶化さなかった。
 今となっては朧げな記憶でしかないあの夏の日々も、こうして目を閉じれば確かに思い出すことができる。
 あと二秒、届かなかった背中も。端正な横顔も。はにかんだように、笑う仕草も。十四歳の、あの姿のままで。
 彼が願った、奇跡と一緒に。

 ――あの日、救急搬送されたあと、光莉の心臓の病は嘘のように消えてなくなった。きつねにつままれた気分だったが、それが現実だったんだ。

「都がもし、生きていたなら、どんな大人になっていたかなあ」
「少なくとも、俺のような、普通の会社員なんてつまんない奴じゃないのは確かだ」

 涼子の問いかけに、俺はそう答えた。

「いいじゃない、つまんない会社員。ちゃんと稼いでるんだしさ」

 私の半分、とボソッと光莉が付け加えた。

「本当にお前は一言多いな! それなりに気にしてるのにぃぃ!」
「アハハ」と涼子が笑う。「で? 結局家の仕事は継がなくてよくなったの?」
「うーん、それなんだけどなあ……。今は、好き勝手やらせてもらっているわけなんだけど、いずれ、継ぐことを考える日が来るのかもな」
「なんか、他人事みたいだね?」
「いや、なんつーか。悠久の木が万が一枯れたりとかまたしたらさ、この島で診ることができんの、いずれ俺だけになるんじゃねーのかなって。そんな気がしてな」
「なるほど、使命感、ね」

 ぬか喜びさせるのも悪いので、親父にはまだ言ってないけどな。
 時が来たら、いつかな。

 ちょうどその時「おーい」という女性の声がまたひとつ聞こえた。
 坂道を登ってくるのは、スーツ姿の中年女性だ。

「数年ぶりに見たけど、全然変わっていないというか、あの頃からまったく変わってなくね?」
「ほんとだね。当時からバケモノみたいな人だったけど、ほんとにバケモノだったのかな?」

 首を傾げた俺の声に、光莉が同意した。

「やめなって、殺されるよ。殺されても弁護できないよ」
「聞こえてるんだよ、クソガキどもが」

 眼前までやって来た円さんが、視界を遮るみたいに仁王立ちした。
 魔法をかけているかのように美しいことから、四十代になっても若々しい女性を美魔女と呼ぶそうだが、都の母親、円さんはまさにその名に恥じぬ存在だ。
 五十路近い年齢のはずだが、その美貌はいまだ衰えを知らない。

 あの夏の日。山を慌てて降りたヤクザの男たちは、夏南の言う通り登ってきた警官たちと鉢合わせて身柄を確保された。集会所のところで起こした発砲事件を認め、余罪までを自供したところで、都に関する記憶が消失した。そこから取り乱して一部の罪を否認したらしいが後の祭り。
 のちの調べで、バックにいた真犯人までが特定された。もっともこの男、元々警察の捜査線上には浮かんでいたらしいのだが。
 この話を、救急搬送された先の病院で、円さんは聞いたらしい。
 容疑が完全に晴れたことで、残されたのは借金のみ。元々あった三百万なにがしと、車両盗難の罪で科せられた五十万。
 決して安い金額ではないが、心を入れ替えた彼女はそこから真面目に働き、数年前に完済した。それから、いや、それまでも、こうしてたびたび島を訪れているらしい。
 目的はもちろん、都に会うためだ。

 光莉が線香に火を点けた。みんなで目を閉じて手を合わせた。

「みんな大人になったよ、都。お前のおかげさね」

 墓石に向かって、円さんが語りかけた。
 目元を拭った円さんの瞼が、かすかに赤くなっていたのは見なかったことにした。

「一人だけ、ババアになったけどな、って思っただろう?」
「思ってませんって! 言いがかりは止めてください!」
「おや? 誰が、とも言ってないのに、なんで反応するんさね? さては本当に思っただろ真人?」
「うーわー……、ズルいっすよそういうフリ……!」

 あはは、とみんなでひとしきり笑ったあと、「んじゃ、行こうか」という円さんの音頭で俺たちは墓地をあとにする。
 これから、円さんの車で時越山の頂上を目指すのだ。
 この暑さのなか山登りなんて大変だな、と思うが、むしろこの暑さが心地よい。
 あの夏の日々を、思い出すようで――。
 足を止めて、俺は一度だけ振り向いた。
 青く透明に晴れた夏空を仰ぎ、ありし日の出来事に思いをはせた。
 いい加減にさ、お前を超える男が誰か現れて、幸せにしてやってくんないかなあ。涼子とさ、ついでにアイツも。
 バーロー。一人で勝手に死にやがって。
 お前のせいで、二人の女がずっと心を縛られてんだよ。
 なあ、都。今度は五人そろって、ゆっくり酒でも飲みたいなって、そんなことを時々思うんだ。それが、ありもしない妄想だと知っていても。



  夕空はれて あきかぜふき
  つきかげ落ちて 鈴虫なく

 瑞々しいまでの緑に縁どられた山の稜線。
 淡い水色の空。
 見上げた視界の先に広がっているのは、枝いっぱいに茂る黄金色の葉だ。
 このうえなく幻想的な、豪奢な銀杏の木の下で。ただ、空を見上げているボクの頬を、吹き抜ける風がそっと撫でた。

  おもえば遠し 故郷のそら
  ああ わが父母 いかにおわす

 あの日、君と再会したことで、止まっていたはずの時計の針がもう一度動いた。
 ああ。これ以上近づいてはいけないと。恋をしてはならないと、確かにそう知っていたはずなのに、君の存在がボクを捕まえて放さなくなった。

  すみゆく水に 秋萩垂れ
  玉なす露は すすきに満つ

 神という職業は、常に孤独で、寂しさと隣り合わせでした。
 超越した存在になったという、そこまでの自覚はありませんが、今はそれほど寂しくなんかありません。
 ボクに会いにきてくれる、仲間たちがいるから。
 君と過ごした、あの夏の記憶があるから。

  思えば似たり 故郷ののべ
  ああ わが兄弟(はらから) たれと遊ぶ

『僕のことはいいから、彼女を。光莉を助けてやってくれないか! それが、僕の願い事だ』

 あの日。溺れていた君が願ったのは、自分ではなく光莉の生存だった。共依存性なんかじゃない。君のそれは、正真正銘、無償の愛だったよ。
 今さらこんなことを思い出すなんてね、と涙を拭って空を見上げる。

 君はもう、この世界にいないから、好きなだけボクはこう言えるんだ。君のそういうところが――。

「大好きだったよ。(いち)」と。




「僕たちの中から一人『消えた』、あの夏の日」 ~END~