「キャアア! ちょっと光莉!」
 地面に突っ伏したまま動かない光莉を抱き上げたのは、電話を終えて戻ってきた涼子だ。
「涼子! 救急隊は呼べたんだよな?」
「うん。大丈夫だよ。あと一時間くらいで来てくれると思う。けど」
 真人の叫びに応じたあと、「どうしたらいいの?」と涼子が重々しく唇を広げた。
「光莉の体、強張っているし、ガクンガクンと震えてる。ねえ! どうしたらいいの!」
「落ち着いて、涼子。今は君だけが頼りだ。首回りを緩めて楽な状態にしたあと、頭を保護して仰向けに寝かせてあげて」
 発作時の対処法を僕が指南すると、「こう?」と言いながら、光莉が着ているブラウスのボタンを、上から二つ外した。一瞬のためらいののち自分の上着を脱ぐと、頭の下に敷いて光莉の体を横たえる。そのせいで涼子の下着が露わになるが、彼女は羞恥の色を微塵も見せない。
「発作中、もしくは発作後に嘔吐する場合があるから、顔を横に少し傾けて」
「こ、こう?」
 涼子が光莉の顔だけを横に向けた。どうやらすでに意識がない。
「そう、上手だ。吐しゃ物が、のどに詰まってしまうことがあるからね。……あと、意識が回復するまで見守ってあげてくれ」
「わかった」
 呼吸のリズムはそこまで大きく乱れていない。これならたぶん大丈夫だろう。一時的な発作で済むはずだ。
 光莉には、少々刺激の強すぎる話だったということ。医者になるための勉強をしていたことが、最後の最後に役に立ち良かった。
「良かった……。取り敢えず命に別状はなさそうだな。この状況でさらに光莉もだなんて、いくら俺でも心がもたないよ」
 足の負傷をおして立ち上がっていた真人だが、脱力したように尻もちをついた。だが、「あれ? そういえば、夏南さんは?」という涼子の声で、今度は目を丸くした。
「さっきまでそこにいたはずなのに。夏南さん?」
 涼子が視線を右左に走らせる。僕の隣に立っている夏南の体を、涼子の視線が何度も素通りしていく。
「涼子。お前、夏南の姿が見えていないのか?」
 真人の問いに、「え、なんで?」と涼子が驚きで返す。
「私にだけ見えてないの?」
「次のステップに進んだということだよ。神の力を失い始めたことで、みんなに見えるようになったボクだが、今度は存在そのものが消えようとしているんだ」
 あ、と彷徨っていた涼子の視線が一点に定まる。どうやら、声は聞こえるらしい。
「そこ? そこにいるの……?」
「なんだよさっきから。二人同時に存在できないとか、夏南まで消えちまうとか、全然意味わかんねーんだよ! お前神様なんだろ? 都一人の命くらい、どうにかして救ってくれよ」
 自分だけ蚊帳の外と思ったのか、かみつかんばかりの勢いで真人が声を荒げた。
「都を救うこと自体は、確かに可能だ。しかしそれは、一時的なものに留まる」
「それはさっきも聞いた」
「うん。ボクは神として、絶対におかしてはならない罪をおかした。そのため、この世界に存続できなくなっている。禁忌をおかした神に与えられる、処罰みたいなものなんだよ」
「つまり……。夏南は消えてしまうから、夏南の力によって生み出された都も一緒に消えてしまうという、そういう理屈なのか?」
「肯定。理解してくれたようで良かったよ」
「なんで神が消えるんだよ。おかした禁忌ってなんだよ。神の仕事って奴がどんなものか、俺にはわからん。けど、すくなくとも、夏南は何も悪いことなんてしてないだろうが!」
 真人の叫びを否定するものはいなかった。誰の目から見ても、夏南の行動に恥ずべき点などないのだから。
「まあ、理解できないのも無理はないかな。ボクが抱いている感情は、人が、当たり前に抱くものでしかないから」
「なんだそりゃ……さっきから話が抽象的過ぎて、まったく意味がわからないんだよ」
「ごめんね、都」
 いつの間にか、夏南が僕の顔を見降ろしていた。降り注いできた瞳は優しげだ。
「本当はもっと早く、あの日出会った女の子がボクだと伝えたかった。でも、そうできない理由があったんだ。神というのは案外不自由な存在でね。基本的に、傍観者でなくてはならない。特定の誰かに肩入れしてはならないし、すべての人と平等に向き合うことを求められる」
「そりゃあまあ、神だしな」と真人が口を挟んだ。
「それなのに、ボクは特定の誰かに特別な感情を抱いてしまった。それこそが、ボクのおかした罪」
「ああ……」
 すべてを理解した、という顔で真人が天を仰いだ。「だったら」と言いかけて、そのまま口を噤んだ。続けようとした『忘れろ』という台詞が、どれだけ身勝手で残酷なものか気づいたのだろう。ぐっと唇をかんで地面を睨んだ。
 さて。いい加減に語ろうと思う。
 夏南がおかした罪の名は――

『人間に恋をしたこと』だ。

 夏南がこの場所に現れたのは、思い出を胸に抱き、僕と一緒に消える道を選ぶためだ。
 させないよ。お前はこの島の守り神なんだから、僕一人のために消えたりしちゃダメなんだ。
 ここで消えるのは、僕一人で充分。死ぬことを選んだ僕の覚悟を、無駄にしないでくれ。
「都と最初に会ったあの日、ボクは初めて人間の子どもと触れ合うことができた。あの日の感動は、今でも全然忘れてなんかいないよ」
 傍目には平然として見えるが、黒曜石の瞳は静かに揺れていた。それだけで、冥途の土産としては充分かな、なんて思う。
「子は親の知らないところで成長するというが、本当なんだね。鼻をたらしていたクソガキが、いっちょ前に恋をするようになったなんてなあ」
 昔を懐かしむように、しんみりとした声音で母が言う。
「ありがとよ、夏南さんとやら。もう一度都に会わせてくれて」
「ボクは、感謝されるようなことは何もしていません。一番最初に、都を救えてもいませんし」
 自虐めいたその声は、謙遜というわけでもないのだろう。
「いいんだよ、そんなことは。紛い物だかなんだか知らんが、都は都だろ」
 それ以上、言葉にはならなかった。元極道の女が、声を殺して静かに泣いた。
「神たるもの、偶像崇拝の対象でなくてはならない。神聖にして侵すべからず、ということで、その崇高さは保たれるのだから、自らが恋愛感情を抱くなどもってのほか。神としての価値は下落し、神聖さを失ってしまう。それなのに、ボクは罪をおかした」
 滔々と、夏南が語り始める。
「光莉に、ボクの姿が見えていた時点でそのことには気づいていたし、彼女にした提案だって、ボクの私欲にまみれたものだ。さらなる罪を重ねた以上、ボクは都のもとから身を引き、気持ちを断ち切らねばならなかった。そうすれば、都はもう少しだけ生きられたのだから。たとえそれが、かりそめの体であったとしても、ね。――でも、無理だったんだよ。忘れることができなかった。木が枯れ始めている現実を直視してなお」
 助けてほしいのはこっちだよ、と最後にもらした声が、おそらく夏南のホントの本音だった。
 選択肢はふたつしかないんだ。夏南が僕のことを忘れるか。僕がこの世界から消えるか。真綿で首を絞められるような八方塞がり感に、神様ってほんとに残酷だな、と思う。
 いや、お前が神様なのか。なんともややこしい状況だ。
「なあ、夏南」
「なんだい?」
「僕の願い事って、まだ叶うかな?」
「ボクの目が黒いうちなら、叶うね」
「わかった」
 涼子に介抱されながら、額に玉のような汗を滲ませている光莉に目を向ける。彼女の意識はまだ戻らない。
 次第に感じなくなってきた左胸の痛み。この調子じゃ、再び光莉と会話をする機会はないだろうな。
「光莉の心臓の病を、治してやってくれないか」
『都……!』
 驚いたみんなの声がそろって、そんなに意外だったかな、と思う。本音を言うと、これから先の人生で、一杯勉強をして医者になって、自分の手で光莉の病気を治してやりたかった。治せなかったとしても、彼女が生きやすくなる道を提示してあげたかった。それができず、こんな方法に頼ってしまう現状を不本意だと思う今の気持ちは、ある意味僕らしくないのかもしれない。
 ならやはり、意外なのかもな。
 愛には様々なかたちがある。誰かを想う一途な愛も。親が子に向ける無性の愛も。生きとし生けるものすべてに向ける、全能の愛も。それらは等しく愛のかたちだ。
 これまで愛を受け取ることは、とても難しいことだと考えてきた。今は、その考えが間違いだったとわかる。涼子が僕を愛してくれて、真人が僕を認めてくれて、母がこうして見守ってくれていて、身分違いの恋ですらきっと――。ならば、最後に僕が贈るこの愛も、打算のない無償の愛でやはりあるべきだ。
「その願いに、どうやら他意はなさそうだ。なら、お安いご用だよ」
 契約完了の言葉とともに、単音節の呪文が夏南の口から紡がれて、辺りの大気が一瞬だけ緊張した。
 時が止まったような感覚。大気が弛緩した直後、「あ」と涼子が声をあげた。
「光莉の呼吸が少し穏やかになったかも。これでもう、大丈夫なのかな」
「保証するよ。だってボクは」

 ――神なのだから。

 夏南の宣言が、寂しげな温度をまとっていたのは、はたして僕の考えすぎか――
「夏南。もういいから、僕のことは忘れてどっか行っちまえ。僕が消えさえすれば、全部が丸く収まるのだから」
「……」
 これで僕の役目は終わりだ。あえて冷たく突き放す。
 夏南は何も答えない。臍をかむように、ただ俯いている。
「いいんだ、僕のことは。一度光莉に救われた身なのだし。……お願いだ。これ以上僕のために苦しまないでくれ」
 神らしくもなく、どうしていいのかわからないという顔でうろたえる夏南。彼女を横目に、ずっと黙り込んでいた真人だが、打開策でも見つかったのか、決然とした表情で顔を上げた。
「なあ、夏南」
 無言のまま、夏南が真人を見た。
「都の奇跡が解けたら、俺は今日のことを忘れてしまうか?」
「忘れる」
「そっか。だよな。あの老婦人の一件と同じなんだな」ここで数秒、間を置いた。「じゃあさ、今日あった出来事を、ここにいるみんなが忘れないようにしてくれよ。都のことも、夏南のことも、忘れないようにしてくれよ。それが俺の願い事だ。それだったら、できんじゃねーのか?」
 難色を示すように、夏南が表情を曇らせた。
「そうだね……ひとつたとえ話をしよう。重い病気を患い、余命いくばくもない人がいたとする。いや、実際のところ、余命宣告をされた人なんて、この地球上にいくらでもいる。けれど君たちは、彼ら一人一人に深く感情移入することはない。可哀そうだとは思うものの、他人事だと内心では割り切れるはずだ」
「冷たい物言いかもしれないが、確かにそうだ」と真人が同意した。
「でも、それが自分の家族や友人だとしたらどうだろう? これ以上ないほどに、心をかき乱されるはずなんだ」
「そうだろうな」と再び真人。
「人の心というものは、案外そんなもの。すべての不幸と向き合っていては身がもたない。忘れてしまったほうがいいことも、知らずにいれば幸せでいられるという案件も、それこそゴマンとあるんだよ」
 今度は真人、何も言わない。
「都の話も、これと同じだとボクは思う。絶対に、忘れてしまったほうが、お互いのためなんだ」
 いかにもそれは、神である夏南らしいドライな割り切り方だなと感じた。特定の誰かに肩入れしてはならないという神の不文律と、どこか繋がる部分がありそうだ。
 しかし、これで真人が納得するだろうか。ところが意外にも、憤りの声を上げたのは涼子だった。
「そんなの嫌だ!」と顔中を涙でぐしゃぐしゃにして彼女は叫んだ。
「私は、イチのことが好きなの! イチがいない世界でなんて、生きていけないよ……!」
「ありがとう、涼子。それと、夏南も。二人とも、こんな僕のことを好きになってくれてありがとう。ごめんな、涼子。僕が涼子のことを好きになれていたなら、もっと違った結末があったかもしれないのに」
 首を横に振るだけの涼子に代わり、「心配はいりません」と夏南が答えた。
「都が消えたあと、彼に関する記憶だけが綺麗に抜け落ちますから。今日の記憶もそうです。山には三人で来たことになるし、都は最初からいなかったことになる。記憶の中では、ね。だから、悲しみなんてひとつも生まれませんから」
「そいつは嘘だな。だったら、どうして夏南は泣いているんだ?」
 真人の声に、ハッとした顔で夏南が自分の目元を拭った。頬を伝い落ちる涙に、自分でも気がついていなかったらしい。
「違うんだ。これは……違うんだよ」
「悲しみなら、すでに夏南が抱えているじゃねえか。それと同じ悲しみを、俺たちにも抱えさせてくれよ? 仲間外れにしないでくれよ? ……確かに、悲しみを抱えて生きていくのは辛い。でもよ、悲しみを乗り越えた先でしか見えない世界があると思うんだ。残された者同士が、今日という日のことを懐かしく語り合う場が欲しいと切に願うんだよ俺は!」
 なあ、都、と真人がこちらを見た。横になったまま、顔の向きだけで応える。
「この間水泳で競争したときさ、やっぱり手加減してただろ?」
 していた。とは言えなかった。
 真人の気持ちを思うと、最後の最後にこんなことを告げるべきではない。
 それなのに、「ごめん」という謝罪が口をついてでた。
 ははは、と真人が笑う。
「元を正せば俺が意気地なしだから、そうやって背中押そうとしてくれてたんだよな。いや、なんかすまん。……まったくよう。おめーといい夏南といい、不器用な奴ばっかりだ。気持ちはちゃんと言葉にしないと、相手に伝わんねーだろうが。俺含めて、な」
 でもよ、とここで真人は一度言葉を切った。
「お前のこと、正直心のどこかで嫌っていたし、疎ましくも感じてた。けど同時に、手が届かない相手として尊敬もしていたし、そんなお前が俺のことライバル視してくれてたの嬉しいって思うし、不器用だけど気遣いのできる優しいお前のことが、やっぱり大好きだったんだよ。だからさ、そんなお前のことを、ずっと心の中に刻み込みたい。今日あった出来事も、夏南のことも含めて全部。そうだろ? みんな?」
 涼子が静かに頷いた。泣きはらした目は赤く、顔を上げるのもままならない。
 母が、慈愛に満ちた顔で、僕の左手をそっと握った。
 光莉の意識はまだ戻らないけれど、きっと彼女も笑顔で頷いてくれるのだろうか。
「いいじゃねえか、神様が涙を流したって。いいじゃねえか、神様が誰かを好きになったって。自分の口から『好きだ』と告げることが神の法を侵すというのなら、変わりに俺が言ってやる。夏南、お前はそんだけ、都のことを愛してるってことなんだよ。いいなあ、お前幸せもんだよ」
 みんなの反応を見届けたのち、目尻の涙を夏南が指で拭った。彼女の瞳から、迷いの色がこの瞬間消え失せた。
 隠すことなく感情をあらわにする夏南を見て、一人の神であると同時に、一人の女の子でもあるんだなと、そんなことをふと思う。
 ありがとう夏南。僕のために泣いてくれて。
 段々と意識が遠くなってきて、もう、声とも息ともつかぬ何かしか出せないけれど、それでも僕は、何度でも言うよ。
 ありがとう、と。
「わかったよ。やってみる」
 辺りの音を、全て持ち去られたかのように静かになったあと、本日二度目となる夏南の詠唱の声が紡がれる。静寂を裂くように旋律が走り、一瞬の閃光が瞬いたあと、白い花が咲いたように光の粒子が眩しく散らばった。
 何が起こったのか、すぐに体感できることは無いけれど、なんらかの奇跡が起こったのだという厳かさはあった。
 見上げていた空の青が、絵の具が溶け出すみたいに滲んでいく。
 視界が段々ボヤけてくるのを認識し、そうか、ついにお迎えが来たんだなって思う。そんな中でも、傍らに膝をついた夏南の姿はよく見える。
 アイツだって、姿がもう薄くなっているはずなのに。いや、僕はここで消えるから、もう大丈夫なんだよな?
 夏南がひざまずく。僕の頭を膝の上に載せて、というか、載らないんだけど。
 見下ろしていた夏南の瞳が、ゆっくりと閉じながら下りてくる。
 意図を察して目を閉じると、二人の唇が静かに重なった。というか、重ならないんだけど。
 それでも僕らは、確かにいまキスをした。
 触れないことが、こんなにもどかしいのは初めてだ。
 夏南の瞳から涙が零れる。僕の頬には当たらない。
 左手を母がギュっと握っていた。
「都!」
 四人分の、悲鳴じみた声が聞こえる。

 ――わたしが、見えるの?

 懐かしい、夏南の声が聞こえる。
 最後に伝える言葉。やっぱりこれしかないよなと、自分の想いを言葉に乗せた。

「夏南。ずっと前から好きでした」と。


 
 これが、イチの残した最後の言葉となった。
 パッと光が瞬いて、目を一瞬閉じる間に、彼の姿はかき消えた。
 激しい慟哭が聞こえる。
 私の、声だ。
 高橋都、永眠。享年、十四歳。