「……とんだ甘ちゃんだな。こんな茶番にひっかかるなんて。元極道の女が聞いて呆れる。カタギになって、色々鈍っちまったんじゃないのか?」

 傷を負った脇腹を抑えながら、男が銃を構えていた。
 騙し打ちとは卑怯な奴だ。銃を持っている可能性に、もっと早く気づけていればと悔やまれる。

「貴様……! 迂闊だったね。私としたことが」

 首だけを男の側に向け、肩口から母が悪態をついた。
 僕の体にしがみついていた手から力が抜ける。ごろんと仰向けになった母は、「はっ、はあっ……」と苦しそうな呻きを漏らしており呼吸も荒い。
 背中の方から、じわじわと着ているブラウスの表面が赤黒く染まっていく。出血がかなり酷い。このままじゃ、母さんは助からない……!

「光莉」
「う、うん」

 救急車、呼んでくれないか、と本当は言いたかった。だが、「おっと、動くんじゃねえぞ」と男に銃を向けられては、黙るほかない。やっぱりそんなに甘くはないか。

「救急車も、警察も、呼ばせるわけにゃいかないんだよ。こちとらもう、後戻りはできないんでね。……なあに、素直に言うことを聞けば、命だけは助けてやる」

 どうだかね。表情を崩さずに、思考だけを働かせて対策を練る。
 いま、男らに視認されているのは、僕、真人、光莉の三人だ。物陰に隠れている涼子が電話のある場所まで行ければ。そう思ったのも束の間。「おい、出てこい四人目」と男が叫んだことで、描いていた青写真は脆くも崩れた。

「髪の長い女がもう一人いるよな? 出てこい。出てこなかったら、この二人を今すぐ殺す」

 これには歯噛みしてしまう。やはり、人数を把握されていたのか。
 どうしよう、と光莉が視線を泳がせるなか、観念したように涼子が建物の陰から姿を現した。

「よーし。いい子だ」

 男が舌なめずりをする。僕らの命運は、完全に向こうの手の内だ。
 頼みの綱である母も身じろぎするのが精一杯だし、全員が姿を晒してしまった以上、こっちにはもう切れるカードがない。
 ――万事休す。
 絶望が頭を支配したその時、ここまで黙り込んでいた真人が口を開いた。

「これで打つ手なしとでも思ったか?」
「なに?」
「これで勝ったとでも思ったか?」
「さっきからなんだ。頭がオカしくなって自棄でも起こしたか?」

 気がつくと、倒れていた他の男三人も立ち上がっていた。状況がさらに悪化しているのに、いったいぜんたい真人はどうする気だ?

「俺たちはなあ、全部で五人いるんだぜ? お前らが一人ずつ止めたとしても、最後の一人が電話のある場所までたどり着く、かもよ?」

これは無論ハッタリだ。しかし、逸らされることのない真人の瞳と気迫に、男の表情が風に煽られた水面のごとく揺れる。

「はあ? お前、今の状況がわかってんのか? 人数が多いといっても、一人は虫の息じゃねぇか。そもそも、テメエみたいなガキにいったい何ができる?」
「ああ、たいしたことはできないだろうな。けど、足掻くくらいのことはできる……ぜッ!!」
「おい、よせ!」

 真人の覚悟を察して制止の声を上げるのと、真人の右手が一閃されるのは同時だった。
 いつの間に握っていたのか。真人の手から放たれた砂が銃を持った男の顔を襲う。手をかざし、男が一瞬目を閉じた。

「このガキ!」
「おおお!」

 隙を逃さず、雄たけびを上げて真人が突進する。
 距離はおおよそ五メートル。
 タックルを決め、銃を奪うことができればあるいは、という状況だが、直後に響いた銃声が僕らの希望を打ち砕く。

「ぐあっ……!」

 当てずっぽうに撃った弾は、しかし、真人の太ももに命中した。真人が男の前で激しく転倒する。運まで僕らの味方をしてくれない。神様がいないとこんなものか。
「おい、手筈と違うだろ!」と別の男が叫んだ。手筈ときたもんだ。語るに落ちるとはこのことだな。
 ところが、銃を構えた男の視線は、僕を素通りして背後に向けられていた。
 疑心を感じて振り向くと、建物の裏口を目指して駆けだす光莉の背中が見えた。

「あの女!」

 男が銃を構える。
 ダメだ。光莉が死角に入るまで間に合わない。そう悟った瞬間、弾かれるように僕の体が動いた。
 光莉を庇うため射線に躍り出ると同時に、『パン』という乾いた銃声が鼓膜を叩いた。
 銃口から発射された鉛玉が迫って来る様子が、不思議なほどスローモーションに見えた。
 ああ、僕死ぬんだな、と走馬灯を見かけたその時、鉛玉が空中で静止する。
 いや、止まっているのは、拳銃の弾だけじゃなかった。
 まるで時間が凍り付いたみたい――。
 この感覚に、ひどく心当たりがあった。
 直後。ふわりと眼前に舞い降りてきたのは赤い巫女装束の少女。
 濡れ羽色の髪がひるがえって、夏南は僕の顔を真っすぐ見た。

「夏南!」

 ギリギリのタイミングで時間を止めたのは、約一日ぶりに姿を現した『神』だった。

「お前が時間を止めてくれたのか?」
「うん。ですが、ついにその時が来たのです。これで、チェックメイト」
「……そりゃまた、どういう意味だよ?」

 夏南の声が極端に沈んでいることに、強い違和感を覚える。

「夏南! お前どこ行ってたんだよ。散々心配させやがって」

 顔だけを上げて――というか、時間が止まっているので動けないのだが――真人が夏南に声をかけた。
「ほんとよ、いったいどこに行ってたの?」と涼子の声も響く。というか。

「涼子。お前、夏南の姿が見えるのか?」
「あれ、ほんとだ。イチと夏南さんが手を繋いでいないのに、どうして見えるのかな?」
「簡単な理屈だよ。ボクが神としての力を失い始めたことで、神と人との境目が不明瞭になっている。そのため、都と(えにし)の強い人物から、ボクの姿が見えるようになっているのさ」
「待ってくれ」と僕は夏南に問い返した。「どうして、夏南が神の力を失うんだよ。根本から話が見えない。……それと、なぜ僕は動くことができない? いつもなら、時間が止まっている中でも僕だけは動けたのに」
「は? 都、お前時間が止まってる中でも動けるのかよ? そっちのほうが俺には意味不明なんだけど」

 真人の問いに、「動ける」と僕は返した。

「なんでだ? って聞かれても、正直答えようがないんだけどな」
「いま動けないのは、君の運命が確定したからだよ。決まった運命(さだめ)からは逃れられない。変えられるとしたら、干渉できる第三者のみ。……まあ、そもそもの話。君が動けたという『これまで』のほうがおかしいんだ」
「と、いうと?」
「あれはね。君の存在そのものが、ボクに近いからなんだ」
「夏南に近い……?」

 どういうことだ、と首を傾げた僕の頭の中で、三つの単語が並んで浮かんだ。

『誰かに肩入れをしてはいけない』
『枯れ始めた悠久の木』
『チェックメイト』

「そういう、ことなのか?」 

 点在していた情報が、段々線となって繋がり始める。
 この推論が間違っていなければ、ここで消えるべきなのは僕だ。
 それこそが、一度死んだ人間がたどる末路として本来正しい。

「なあ、夏南。俺が銃弾を逸らしてくれ、と願ったら、それは叶うか?」と真人が言った。
「叶う」

「なら」と言いかけた真人を、「その必要はない」と遮った。

「どのみち、僕は消える運命なんだよ。そうだろう? 夏南?」

 唇をかみしめて夏南が頷いた。後悔が滲んだその顔に、予測は正しいんだと確信する。

「どうしてだよ? なんで二人して諦めようとしてんだよ!」

 真人の声が、苛立ち含みになる。

「この場所に来るまでの道中、この中に、死んだあとなんらかの力で復活し、紛れ込んだ人物がいるんじゃないかとずっと疑ってきた」

 全員が、薄々そう感じていたのだろう。息を呑む音が人数分聞こえた。

「そしてそれは、光莉なんじゃないかとすら、思っていたんだ」
「……!」

 時間が止まっている中でさえ、光莉の表情が固くなったのがわかる。

「でも、そうじゃなかったんだな。それってさ、僕だったんだな。この世界に紛れ込んだ異物である僕が死に瀕した今、奇跡が終わってすべてが元通りになるときがきたのさ」

 眼前に浮かんでいる鉛玉を、真っすぐ指さした。夏南は何も答えない。

「夏南に会えたら、今度こそ聞こうって覚悟を決めていたんだ。なあ、教えてくれ! 光莉がこの山に向かった六月のあの日、いったい何があったんだ?」
「私が、山に向かった? なんの、はなし?」

 素っ頓狂な声を光莉が上げて、「そうだね」と夏南が伏し目がちに呟いた。

「ここで僕の願いを叶えてくれ! 真実を、教えてくれ!」
「そこまでわかっているのなら、ここで願い事を使うまでもないよ。いい加減に語ってあげよう。これからボクがする話で、すべての謎が解けるはず」

 夏南の顔に憂愁の影が差す。顔をこちらに向けて、「――あの日」と続けた。

「光莉は確かに時越山を目指していた。そんな彼女には、一人だけ同行者がいたんだ」

「都、君だ」の声に涼子が瞳をまんまるくし、光莉が慄いた声を上げた。

「あ、ああ……。思い出した。どうして私、あの日のことを忘れていたんだろう」――と。