――あれから、何度目の夏になるのだろうか。
気が遠くなるほど高い、紺碧の空を見上げてふと思う。
故郷であるこの島は、漁業を営む人が多い、人口一万五千人ほどの島だ。戻ってきたのは、成人式以来のこととなる。
昨年の冬、籍を入れたばかりの妻と一緒にやって来たのは、振り向けば、遥かに水平線が望める墓地だ。
「こんなに暑かったらさ、仏様も茹で上がっちゃうねえ」
白のブラウスと、ボーダー柄のミニスカートという出で立ちの妻が、墓石に水をかけながら言った。あの当時艶やかな色をしていた御影石は、長年風雪にさらされたことで、じゃっかんくすんだ色になっていた。
墓石を拭きあげている俺を横目に、妻はブラウスの袖を暑そうにまくると、麦わら帽子を被り直してから線香の準備を始めた。
「この炎天下に長袖なんて着てるんだから、お前も大概に変わりもんだよな」
「んー、だってさ、虫に刺されるの嫌なんだもん」
「汗を多くかくと、逆に蚊を引き寄せるらしいぜ。汗に含まれている成分や臭いを嗅ぎわけて、寄って来るんだから」
「汗も滴るいい女ってね。ん? そうなの?」
「そうだぞ。というか、それを言うなら、水も滴る、だ」
そうだっけ? と言いながら、妻が舌を出した。
「ていうかさあ、臭いみたいな言い方やめてよ」
「あれからもう……、十年かあ」
「そうやってまた話を逸らす」と頬を膨らませた妻だったが、次第に神妙な面持ちに変わると、そっと顔を上げて「そうだね」と呟いた。視線は遠く、空の向こうにある懐かしい光景でも見ているようだ。
今思い出してみても、あれは、不思議な出来事だった。
蒼い空。眼下に広がる古くからある街並みと、遠くに望むエメラルドグリーンの海。
うるさいほどに鳴り響く、油蝉の声も、この街の姿も、すべてが当時のままなのに、俺たちだけが歳を取って大人になってしまった。
「不思議なもんだなあ」
何気ないその呟きに、妻が反応した。「何が?」
「アイツのことを覚えているのは、世界で俺らしかいないんだぜ」
「もう一人いるでしょ」
「ああ、そうだっけ?」
「ひどい。あとでチクっておくから」
「それだけは止めて。俺、アイツのこと苦手なんだよ」
「アハハ」
それからさあ、と俺は、滴る額の汗をぬぐった。
「もう一人。いるかもしんないじゃん」
「そうだね」と寂しげな声で妻が言った。「彼女、今でもどこかで見ているのかなあ」
「だと、いいな」
それ以上、会話は続かなかった。
今から十年前。
まだ中学生だった俺たちは、この島で奇妙な体験をした。あの夏の日の出来事は、この島に住んでいるすべての者の記憶から消え、しかし、俺たち四人の心の中には残り続けた。
「せめて、俺らだけでも、忘れないようにしてやろうな」
墓前で手を合わせると、涙を拭いながら妻も倣った。「そうだね」と。
◇
夕空はれて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
木々の枝葉が天井のように重なり合い、その隙間から降り注ぐ夏の日差しが、陽炎のように揺れる。
誰のものかはわからない。絹糸のように細くて優しい歌声が、ぼくをすっぽりと包み込んでいた。
小さな足を動かして、ひたすらに歩みを進めていくうちに、一緒に来ていた母から随分と離れてしまっていた。当時のぼくは、今よりももっと、臆病で物怖じする性格だった。それなのにこの時だけは、不安も恐怖も、微塵も感じていなかったのだ。
引き寄せられた、という表現がしっくりくるだろうか。
じりじりと地面から立ち昇る熱気。
嫌味なほどに、頭上から降ってくる蝉しぐれ。
そんな中でも、透き通った歌声だけは、しっかりとぼくの耳に届いた。まるで頭の中心に、直接伝わってくるかのように。
おもえば遠し 故郷のそら
ああ わが父母 いかにおわす
やがてぼくは、何かがおかしいと感じ始める。
季節は夏だった。七月。あるいは八月の炎天下だった。
それなのに、どこかひんやりとした空気が、歌声と一緒になってぼくの周囲にまとわりつき始めたのだ。
なんだろう。
そう感じて視線を上げ前を見据えたとき、子どものぼくの腕では、いや、きっと大人が両手を広げたとしても、抱えきれないほど幹が太い木が見えた。
季節は夏なのに、黄金色に染まった葉を枝いっぱいにつけて。
すみゆく水に 秋萩垂れ
玉なす露は すすきに満つ
「わあ」とあげた感嘆の声と、その歌声とが綺麗に重なる。
視界いっぱいに広がっている、水色の空と瑞々しい緑の山々。
コントラストも鮮やかな光景の中浮かび上がっているのは、季節外れの黄色を纏った大銀杏の木だ。
その巨木が、辺りにある木とは重ねてきた年月から何から違う別格の存在であることは、幼いぼくでも理解できた。
そんな木の根元に、歌声の主はひっそりと佇んでいた。
肩口までの髪を風になびかせ、ひらひらした黄色のワンピースを着た同い年くらいの女の子が、歌を止めてこちらをじっと見つめる。
勝手に歌声を聞いていたという気まずさから顔を背けそうになるが、彼女は意に介していない様子で小首を傾げた。
「わたしが、見えるの?」、とそう呟いた。
これは、僕が小学校にあがるまえの記憶。この日見た光景も、今は追憶の彼方。
このあと、彼女と会うことはなかったし、数年後、島を離れてしまったため、彼女が誰だったのか、顔も名前も今となっては定かではないけれど、もしかしたらこれが――ぼくの初恋だった。
「またここに来る?」
「くるよ。ぜったいに」
その日交わした約束は、いまもまだ、叶えられていない。
◇
引用元
故郷の空 スコットランド民謡 日本語詞:大和田建樹 現在は、著作権切れ
気が遠くなるほど高い、紺碧の空を見上げてふと思う。
故郷であるこの島は、漁業を営む人が多い、人口一万五千人ほどの島だ。戻ってきたのは、成人式以来のこととなる。
昨年の冬、籍を入れたばかりの妻と一緒にやって来たのは、振り向けば、遥かに水平線が望める墓地だ。
「こんなに暑かったらさ、仏様も茹で上がっちゃうねえ」
白のブラウスと、ボーダー柄のミニスカートという出で立ちの妻が、墓石に水をかけながら言った。あの当時艶やかな色をしていた御影石は、長年風雪にさらされたことで、じゃっかんくすんだ色になっていた。
墓石を拭きあげている俺を横目に、妻はブラウスの袖を暑そうにまくると、麦わら帽子を被り直してから線香の準備を始めた。
「この炎天下に長袖なんて着てるんだから、お前も大概に変わりもんだよな」
「んー、だってさ、虫に刺されるの嫌なんだもん」
「汗を多くかくと、逆に蚊を引き寄せるらしいぜ。汗に含まれている成分や臭いを嗅ぎわけて、寄って来るんだから」
「汗も滴るいい女ってね。ん? そうなの?」
「そうだぞ。というか、それを言うなら、水も滴る、だ」
そうだっけ? と言いながら、妻が舌を出した。
「ていうかさあ、臭いみたいな言い方やめてよ」
「あれからもう……、十年かあ」
「そうやってまた話を逸らす」と頬を膨らませた妻だったが、次第に神妙な面持ちに変わると、そっと顔を上げて「そうだね」と呟いた。視線は遠く、空の向こうにある懐かしい光景でも見ているようだ。
今思い出してみても、あれは、不思議な出来事だった。
蒼い空。眼下に広がる古くからある街並みと、遠くに望むエメラルドグリーンの海。
うるさいほどに鳴り響く、油蝉の声も、この街の姿も、すべてが当時のままなのに、俺たちだけが歳を取って大人になってしまった。
「不思議なもんだなあ」
何気ないその呟きに、妻が反応した。「何が?」
「アイツのことを覚えているのは、世界で俺らしかいないんだぜ」
「もう一人いるでしょ」
「ああ、そうだっけ?」
「ひどい。あとでチクっておくから」
「それだけは止めて。俺、アイツのこと苦手なんだよ」
「アハハ」
それからさあ、と俺は、滴る額の汗をぬぐった。
「もう一人。いるかもしんないじゃん」
「そうだね」と寂しげな声で妻が言った。「彼女、今でもどこかで見ているのかなあ」
「だと、いいな」
それ以上、会話は続かなかった。
今から十年前。
まだ中学生だった俺たちは、この島で奇妙な体験をした。あの夏の日の出来事は、この島に住んでいるすべての者の記憶から消え、しかし、俺たち四人の心の中には残り続けた。
「せめて、俺らだけでも、忘れないようにしてやろうな」
墓前で手を合わせると、涙を拭いながら妻も倣った。「そうだね」と。
◇
夕空はれて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
木々の枝葉が天井のように重なり合い、その隙間から降り注ぐ夏の日差しが、陽炎のように揺れる。
誰のものかはわからない。絹糸のように細くて優しい歌声が、ぼくをすっぽりと包み込んでいた。
小さな足を動かして、ひたすらに歩みを進めていくうちに、一緒に来ていた母から随分と離れてしまっていた。当時のぼくは、今よりももっと、臆病で物怖じする性格だった。それなのにこの時だけは、不安も恐怖も、微塵も感じていなかったのだ。
引き寄せられた、という表現がしっくりくるだろうか。
じりじりと地面から立ち昇る熱気。
嫌味なほどに、頭上から降ってくる蝉しぐれ。
そんな中でも、透き通った歌声だけは、しっかりとぼくの耳に届いた。まるで頭の中心に、直接伝わってくるかのように。
おもえば遠し 故郷のそら
ああ わが父母 いかにおわす
やがてぼくは、何かがおかしいと感じ始める。
季節は夏だった。七月。あるいは八月の炎天下だった。
それなのに、どこかひんやりとした空気が、歌声と一緒になってぼくの周囲にまとわりつき始めたのだ。
なんだろう。
そう感じて視線を上げ前を見据えたとき、子どものぼくの腕では、いや、きっと大人が両手を広げたとしても、抱えきれないほど幹が太い木が見えた。
季節は夏なのに、黄金色に染まった葉を枝いっぱいにつけて。
すみゆく水に 秋萩垂れ
玉なす露は すすきに満つ
「わあ」とあげた感嘆の声と、その歌声とが綺麗に重なる。
視界いっぱいに広がっている、水色の空と瑞々しい緑の山々。
コントラストも鮮やかな光景の中浮かび上がっているのは、季節外れの黄色を纏った大銀杏の木だ。
その巨木が、辺りにある木とは重ねてきた年月から何から違う別格の存在であることは、幼いぼくでも理解できた。
そんな木の根元に、歌声の主はひっそりと佇んでいた。
肩口までの髪を風になびかせ、ひらひらした黄色のワンピースを着た同い年くらいの女の子が、歌を止めてこちらをじっと見つめる。
勝手に歌声を聞いていたという気まずさから顔を背けそうになるが、彼女は意に介していない様子で小首を傾げた。
「わたしが、見えるの?」、とそう呟いた。
これは、僕が小学校にあがるまえの記憶。この日見た光景も、今は追憶の彼方。
このあと、彼女と会うことはなかったし、数年後、島を離れてしまったため、彼女が誰だったのか、顔も名前も今となっては定かではないけれど、もしかしたらこれが――ぼくの初恋だった。
「またここに来る?」
「くるよ。ぜったいに」
その日交わした約束は、いまもまだ、叶えられていない。
◇
引用元
故郷の空 スコットランド民謡 日本語詞:大和田建樹 現在は、著作権切れ