佐那が二日酔いから復活して数日。相変わらず浅野屋は繁盛していた。右に左へと佐那は引っ張りだこ。
「佐那さぁ~ん。さっきのお客さんの印籠、どこへやりましたのぉ?」
 屋敷の奥から鈴姫の声が聞こえてくる。佐那は帳場机の上に乗せていた印籠を片手に走った。
「ごめんごめん。まだあたしのところで止まってる!」
「ああ、よかった。また付喪神になってしまったのかと焦ってしまいましたわ」
「大丈夫だって! これは正真正銘、ただの印籠だから」
 安心させるように伝えてから、鈴姫の手の上に印籠を置くと、近くからガッシャーンという派手な音が響いた。
「あーっ! 福太っ! またひっくり返してしまいましたね!?」
 文福の悲鳴が上がる。どうした、と鈴姫と一緒にそちらへ向かうと、木箱が横に転がり様々な小物が散乱していた。佐那は慌てて転んでいた福太に駆け寄った。
「大変! ね、怪我はない?」
「お姉さん、ありがとうございますう」
 切れて血の滲んでいた福太の指を、佐那は陰陽師の力で癒してやる。それが終わると、せっせと片付けている文福と鈴姫を手伝った。文福がペコリと頭を下げた。
「佐那様、お忙しいのに、すみません!」
「ううん。大きな怪我がなくてよかった。福太も慌てないように――」
 ――ね、と言いかけたところで、店の方から佐那を呼ぶ声。利康のものだ。
「嬢ちゃ~ん。台帳が無くなってしまってのう。新しい台帳を持ってきてくれんかね」
「あ、あたし、一冊持ってまーす!」
 その場を文福達に任せて店の方へと走る。利康の座る帳場机の前に戻ると、胸元に持っていた一冊を彼の前に差し出す。助かったとばかりに拝まれて、佐那はエヘヘとばかりに頭を掻いた。
 そんなこんなで場立ちのような午前中が終わり、少しだけ客が途切れる時間となる。佐那は利康に頼まれたものを台帳に記帳していた。
(あ~、忙し忙し)
 最後の一行を記帳し終わると、佐那は疲れたとばかりに帳場机の上に突っ伏した。
(はぁ~……あたし、何やってんだろ)
 手が空いた瞬間、我に返る。
 すっかり質屋の仕事に馴染んでしまった気がする。もともと、屋敷のあやかしは佐那に対して好意的であったが、鈴姫との誤解を解いたことで、わずかに反発していたあやかしも全て佐那を迎え入れてしまった。
 そして、佐那は浅野屋の看板娘として、周囲の人間にまで認知されつつあった。本来の目的は、浅野屋に忍び込むための『勉強』をするはずだったのに、これは一体どういうことだろう。
(高利貸しの質屋……か)
 未だに浅野屋の横暴を見つけることは出来ていない。時たま法外な利息を要求するが、それは相手も佐那が『朝顔』として目を付けているような店や人物であり、心の中では「ざまぁみろ」と拍手喝さいを送ってしまう。
(見たくないな……)
 いつしか佐那は、幸庵達が本当に真っ当な商売をしていることを願うようになっていた。世間で噂されているような高利貸しの証拠を見つけたくない。こんなにいい人達――もとい、あやかし達が悪事を働いているとは思いたくなかった。
(あたし、どうしちゃったんだろう)
 そんな自分の気持ちの変化に戸惑っていると、「――もうし」と玄関から声が掛かった。
 はっ、と顔を上げると、中年の男が浅野屋の暖簾をくぐっていた。にこにこと柔和な表情で佐那へ視線を向けている。
「こんにちは! 今日は何の御用でしょうか?」
 はきはきとこたえながらも、佐那の心中は別のことを考えていた。
(この人……大丸屋の人だ)
 佐那が義賊として忍び込んだことのある店である。主に木綿を扱う店で、この近辺では越後屋と並ぶ大店だ。だが、仕入れの値段を買い叩いていたり、お上に賄賂を贈り便宜を図ってもらっていたりという悪い噂が絶えない。
「これはこれは、大丸屋さん。お待ちしておりましたよ」
 佐那が呼びに行く前に、幸庵が奥から姿を現した。大丸屋の旦那が丁寧に頭を下げる。
「幸庵殿、今日は無理を通してもらってすみませんねえ」
「いえいえ、困ったときはお互い様ですから。佐那、文福にお茶を奥の部屋へお持ちするように伝えなさい」
「はい! って、文福?」
 最近は佐那の役目となっていたのに、文福が指名された。佐那が訊き返すと、幸庵は頷いてから続けた。
「あと、大丸屋さんとは大切な話だから、佐那は席を外すように」
「え……」
 一瞬、ポカンと口を開けた佐那に、幸庵の叱責が響く。
「佐那、返事は?」
「あ、はい! すぐに」
 弾かれたように佐那は立ち上がると、文福を呼びに奥へと走った。
(どうして……?)
 今までこんなことは一度も言われたことはなかった。大切なお客も、勉強するといいよ、と一緒に話を聞いていた。あのような幸庵の厳しい表情も初めてだ。それほど佐那に隠したいものがあるのだろうか。
(まさか……)
 高利貸しとして何か企んでいるのだろうか。とうとうその証拠が掴めるのかもしれない。
 文福に声かけた後、佐那はあることを決意していた。

    ◆

(――やっぱり、見て見ぬ振りなんてできない!)
 暗い天井裏。音を立てないよう、そっと羽目板をずらすと、下の様子が見えた。幸庵と大丸屋の二人が座っており、ちょうど文福がお茶を出したところだった。
 あれから、佐那は大急ぎで自室へ戻ると、着物から動きやすい忍び装束へ着替えていた。無為に過ごしていたわけではないので、屋敷の構造は全て把握できている。自室から天井裏に上り、そのまま客室へと移動した。
 あからさまに佐那を外しての密会。義賊としてはこの情報を逃すわけにはいかない。高鳴る心臓を深呼吸で鎮め、下で行われている出来事に耳を傾ける。
「こちらはどうでしょうか」
 大丸屋の旦那が出したのは、見事な白無垢の着物と、唐物と思しき壺や茶碗。どの品物も一目見ただけで、かなりの品だとわかる。
「これは……本当によろしいのですか?」
 着物を手に取った幸庵が、驚いたような声を上げる。こっそり覗いていた佐那も同様に驚いていた。着物の方は祝言をあげたときの衣装だろう。
「はい、よろしいのですよ。これで皆にお給金を払うことができるのであれば。むしろ、前回のお金がまだ返せていない中でのこのお願い。浅野屋さんは受けてくれるだろうか?」
「質草があれば私としては構いませんよ。ですが……このような思い出の品。立ち入ったことを聞くようですが、やはり苦しいのですか?」
「恥ずかしながら、世間を騒がす義賊。彼らに入られてから店の評判が落ちてしまいましてねえ」
 それはもちろん佐那達のことだ。『朝顔』が店や屋敷に忍び込むのは、金目の物を奪うことだけが目的ではない。『朝顔』は少数精鋭。金目の物を全て盗んでいくわけにはいかない。むしろ、狙った者が溜め込んでいる量からすれば、それほど痛くないかもしれない。
 しかし、義賊として確立した『朝顔』の世間からの名声。その義賊から狙われたとなれば、世間からの評判はガタ落ちする。商売をする者にとっては、金品を盗られるよりも痛いはずだ。
「真っ当な商売をしていたつもりなのですが、まさかうちに入られるとは想像もしていませんでした」
 あはは、と弱気に微笑む大丸屋の旦那。
(真っ当な……って、嘘ばっかり。越後屋さんから聞いたんだから!)
 佐那は心の中で憤慨する。あの越後屋のにっくき高安から、貞操の危機まで晒して得た情報なのだ。大丸屋こそ嘘八百を並べようとしているのではないだろうか。
「まあ、この大丸屋も大店として、様々な場所で取引をしている店です。強引な取引も身に覚えがないわけではありません。どこかで不興を買ってしまった輩がいたのでしょう」
 悲し気に目を伏せる大丸屋の旦那に、幸庵は首を横に振った。
「私はそうは思っておりませんよ。最近、うちへ来た娘への着物を幾つか頼みましたが、どれも素晴らしい品でした。そちらも商売が苦しいはずなのに、安い金額でよいと仰ってくださる」
「ああ、噂は聞いておりますよ。『玉楼』から引き取ったのでしたっけ? 利発で可愛らしい娘だとか。先ほど少しだけ拝見しましたが、確かに噂通りだ。新しい門出を祝うのに、高い銭を受け取らないで本当によかった」
(いや、あたし、引き取られたわけじゃないし!)
 噂に変な尾ひれがついてしまっている。小声でツッコミを入れながらも、佐那はどこか違和感を覚えていた。
 大丸屋の旦那には、裏でこそこそするような人間特有の、どこか後ろ暗い影を背負っているような雰囲気がない。それどころか、常に柔らかい表情を崩さず、腰の低い男だという印象がある。それは店の暖簾をくぐった時から感じていた。越後屋の旦那の顔も佐那は知っているが、働く先を選べるのであれば、大丸屋の方を選んでしまいそうだ。
 幸庵は煎餅を大丸屋の旦那に勧めると、自分も一つ取った。苦々し気に口元を歪めながら、ばりっとかじる。
「実際のところ、私は越後屋さんが大丸屋さんを陥れたのではと思っておりますよ」
「ほほう。いつもは温厚な幸庵殿が、そのような顔をするとは」
「何しろ引き取った娘……佐那を、化け物扱いにするような噂を流してですねえ。私の商売の邪魔でもするつもりだったのでしょうか」
「その噂はこちらも聞きましたな。さすがに荒唐無稽すぎて、信じる者は誰もおりませんでしたが」
 くすくす、と笑う大丸屋の旦那。そのおかげで高安ときっぱり縁が切れたので、佐那としては複雑なところだ。
 大丸屋の旦那は穏やかに幸庵の意見を窘めた。
「商売敵を陥れるのは常套手段とはいえ、証拠がありませんでしょう」
「証拠ですか……」
 幸庵は飲もうとした湯呑みをお盆に置いた。何やら迷っているようだったが、袂から書状のようなものを取り出すと、大丸屋の旦那の前に広げた。
「どうやら、町奉行も目を付けているらしい。越後屋は勘定奉行に賄賂を配り、運上金や冥加金を安く済ませているようだよ」
 大丸屋の旦那はしばらくその書状を穴の開くほど見詰めていたが、信じられないといった様子で顔を上げた。
「これは……本当なのでしょうか」
「やはり、大丸屋さんには回っていませんでしたか。越後屋に関する情報を集めていると、町奉行から密かに頼まれたのですよ。私の店も越後屋さんと取引がありますからねぇ」
「こちらの店に回って来ないのは、理解はできるのですが……」
 強く握りしめた大丸屋の旦那の拳が小さく震える。
「他の店を悪くは言いたくない……ですが、これはわたしも薄々感じていた通りだ……。どうしてこの店に『朝顔』は入らなかったのか……いえ、いけませんね。わたしとしたことが、恨むような発言をしてしまった」
「大丸屋さんの気持ちは、私もよくわかっ……」
 ――がたん。
 手元で鳴った音に、佐那は反射的に羽目板の隙間を戻していた。はっ、と息を呑んだ拍子に、潜んでいた彼女の手元で音が鳴ってしまったのだ。
「誰かいるのですか?」
 しまったと思う間もなく幸庵の声が聞こえた。それから逃げるようにして佐那はその場を素早く立ち去る。幸いにも人を呼ばれる気配はなく、「鼠でもいたのですかね」と、遠くで声がした気がした。
(そんな……っ)
 佐那は自室へ逃げ込むなり、ペタンとその場に座り込んでいた。口元を覆い、悲鳴を上げそうになるのを何とか耐える。
 そんなことはない、絶対にない、と必死に自分を納得させようとする。間違っていたなんてあり得ない。
(でも……)
 越後屋と大丸屋は同じ木綿問屋であり商売敵でもある。越後屋の方が老舗だが、大丸屋は飛ぶ鳥を落とすかの如き勢いで成長してきた。佐那達が大丸屋へ忍び込む直前は、越後屋の方の売り上げが落ちていたという話も聞いていた。
 もしも――もしも、越後屋が自らの売り上げを守り、ライバルを蹴落とすために、大丸屋が悪事を働いているという悪い噂を流していたのだとしたら。あのお調子者の若旦那は、佐那が積極的に情報を流してくれると考え、彼女へちょっかいをかけていたのだとしたら……。
 もちろん、情報を鵜呑みにすることはなく、裏取りはしていたつもりだった。大丸屋に対しても情報収集をしたつもりだったが、片方の言い分だけに偏っていた面はなかっただろうか。
(もしかして、間違っていた?)
 だとしたら自分の責任だ。自分が情報に踊らされてしまった。自分のせいで罪のない人に苦労を背負わせる羽目になってしまった。
「……うえぇっ……」
 嫌なものが喉をせりあがって来て、佐那はその場に突っ伏した。
 そんなはずはないと否定するも、大丸屋の印象や、幸庵が見せた書状、奉行所が密かに調べている……状況証拠は、佐那の方こそ間違っていたと断罪する。
(そんな、そんな……っ!)
 色んな感情がごちゃ混ぜになって、流れる何かで顔がぐちゃぐちゃになっていく。罪の意識で頭がどうにかなってしまいそうだ。
 佐那は部屋に一人伏せ、嗚咽を漏らし続けた。

    ◆

 ――どれほどの時間、一人でそうしていただろうか。
 ふと人の気配に顔を上げると、いつの間にか幸庵が目の前に立っていた。悲し気に目を伏せて痛恨の極み、といった表情。
「あれほど来てはいけないと伝えたのに。聞いてしまったのだね」
「……ひっ!」
 喉の奥から悲鳴が漏れた。反射的に後ずさる。
 今は触れられたくない。こんな無様な自分を見せたくない。
 だが、逃げようとした佐那は、あっさりと腕を掴まれていた。
「やだぁっ! 離してえっ!」
「いいや、離さないよ」
 この世の終わりといったような悲鳴を上げて暴れるも、問答無用で引き寄せられた。
「あたし……あたしっ……うああああっ……!」
 一旦決壊すると、堰を切ったように何かが転がり落ちて行った。我を失い無茶苦茶に暴れているうちに、ひゅぅひゅぅ、とおかしな呼吸が口から漏れた。過呼吸のようになり、苦しくて涙を流しながら喉を掻きむしった。
「落ち着くのだよ、佐那。ゆっくり息を吸って、吐いて……ほうら、いい子だ」
 幸庵に導かれるように何度も深呼吸をして、それが落ち着いたころ、佐那には虚しさしか残っていなかった。
「あたし……間違っていたのね……」
 ぽつり、と全ての感情が抜け落ちたような声で佐那は呟いた。
 悪徳商人に天罰を下していい気になっていた。己のしていることが正しいとは決して思っていない。お上からしてみればただの盗賊だ。けれど、お上が手を出せないことを佐那達はしている。それこそが誇りだったのに。
「大丸屋さんも強引で、それこそ眉をひそめるような商売をしていた時期もあったからね。それを佐那が勘違いしても仕方がなかった」
「でも、でもっ!」
 佐那は既に答えにたどり着いていた。どうして幸庵達が高利貸しと呼ばれていたかを。
「あたしは幸庵が悪いことをしてると思ってた! だけど、それも嘘だったのね。全てはあたし達をおびき寄せるための嘘。あたし、ここでもまた間違った!」
「……そこは気付かないままでよかったのだがね」
 幸庵は敢えて己に不利になるような噂を佐那達に流していたのだ。まさか自作自演とは夢にも思わず、こちらも乗せられてしまった。
「あたし達が間違いかけているって、幸庵には見えていたのね。どうしてあたしにそこまでしてくれるの? そのままお上に突き出せばいいのに!」
「それは最初に伝えただろう? 佐那には危ない仕事から、きっぱりと足を洗ってもらいたかったからだよ」
「……納得できない」
「ふふ。そうだね。少し昔話をしようか。私が人型になる直前。尻尾が分かれかけていたときのことだよ」
 拗ねたように唇を歪める佐那に、幸庵は苦笑した。佐那を横抱きにして胡坐をかいた上に乗せ、肩に添えた手は拍子を取るようにゆっくりと動く。
 一体何を話そうというのだろうか。佐那は大人しく続きを待った。
「もうすぐ完全な人型に化けられるようになる私は、他よりも妖力が強かったのもあって、人間の世で生活に迷うあやかしたちを助けていたのだ。具体的には、この浅野屋の前の店主、白夜の元へ連れて行くことでね」
 佐那は小さく頷く。その話は、古物商でそれとなく白夜から聞いていた。途中でうやむやになってしまったが、その続きをしてくれるようだ。
「いろいろと大変だったよ。妖力が強いといっても狐の姿だからね。堂々と町中に姿を現すわけにはいかない。妖術で目くらましをしたり、夜に行動したり、それこそ盗賊のように屋敷へ忍び込んだり……ふふふ、佐那もびっくりだったかもしれないよ」
 当時の日々を思い出したのか、幸庵の身体が愉快そうに揺れた。
「そこで、私は一人の少女を見つけた。面白い子でね。陰陽師の娘なのに、あやかしが好きだときたものだ。だからだろうね。いつも修行ではあやかしを逃がしてしまい、おかげで蔵に閉じ込められていた。凍えそうな日もお構いなしにね。ある日、本当に死んでしまいそうで、私はとうとう少女に手を差し伸べてしまった」
(え……これって、もしかして……?)
 そんな馬鹿な、という思いが心を横切る。それと同時に、捕まってから今日までの幸庵の言動が、頭の中でぐるぐると回る。
「その少女は寂しかったのだろうね。私によく懐いてしまった。陰陽師の屋敷に捕まったあやかしもたくさん教えてくれた。いつしか私も、彼女に会いに行くのが楽しみになってしまったのだよ」
「こ、幸庵……」
「だけどね」
 口を開きかけた佐那を遮るように幸庵は言った。苦々しい過去を振り返るかのように口元が歪む。
「ある日、私は失敗をして陰陽師の罠に嵌ってしまった。忍んでいても噂が広がり始めていたようでね。どうやら予め待ち構えていたらしい。何とか捕まることは避けられたものの、私は大怪我を負ってしまった。もう駄目かと観念していると、少女が私を助けてくれてね。あやかしを癒す力があるのは知っていたが、己の命を絞り出すかのように頑張って、私の傷を癒してくれた」
 ここまで来れば、佐那は話の続きがどうなるか見当がついていた。
「尤も、私の傷は本当に深かったからね。動けるようにはなったが、白夜の元でしばらく眠りにつく必要があった。起きたら真っ先にお礼をしなければと思いながら、ね」
「そしたら、あたしは『玉楼』の女で、義賊になっていた」
 幸庵の後を引き取り、佐那は自ら継いだ。毛並みと同じ黄金色の瞳が、慈しむような視線を彼女へ向ける。
 いつしか幸庵の頭の上には、雪のような純白で縁どられた耳が立っていた。腰から伸びる尻尾は九つに分かれ、ゆらゆらと揺れている。何よりこの溢れ出る妖力は、陰陽師として落ちこぼれの佐那ですら間違えようがない。
「どうして……」
 幸庵は昔助けた狐のあやかしで、今目の前にいる人型の妖狐と同一なのだ。信じられないといった面持ちで佐那は唇を震わせた。
「どうして、幸庵。最初に教えてくれなかったの」
「嬉しいね。やっと気が付いてもらえたのか」
 幸庵はその質問に答える代わりに、佐那を強く強く抱きしめた。
 あの狐のあやかしが佐那に教えてくれた術。閉じ込められた蔵から出るための錠前破り。この術は、間違いなく今日まで佐那の命を繋いでくれた。
「こ、幸庵、痛い……!」
「おお、すまないね。嬉しくてつい力が入ってしまった」
 骨が軋むほどの力に悲鳴を上げると、幸庵が力を緩めた。佐那は右手で肩をさすりながらもう一度問うた。
「もっと早くに教えてくれればよかったのに」
「浅野屋の高利貸しの噂が、佐那に効きすぎてしまったようだったからね。怖くて正体を明かせなかったのだよ。せめて、私が真っ当な商売をしていると認めてくれるまでは」
「う~……」
 それを理由にされると佐那も言い返せない。
 これまでの商売を見てきたからこそ素直に信じられたが、初対面で果たして冷静に判断できただろうか。己の陰陽師としての力が弱いのもまた事実。こうして幸庵が場を設けてくれたからこそ、佐那にもその力を判別できた。
「私のほうこそ佐那の仕事を……表と裏の仕事を知って肝が冷えたのだよ。万が一捕まれば、極刑は免れないからね」
 佐那は顔を背けて静かに目を伏せた。幸庵は――この妖狐は、あの時の恩を返そうと、ずっと探し続けてくれたのだろう。
 けれど、時が経過して、成長した自分はどうなのだろうか。
 一人になってから、様々なことをして生活をしてきた。生きるためには、殺しと誘拐以外のことは何でもやった気がする。特に『玉楼』に入る直前は、正真正銘のゴロツキ集団だった。幸庵から教えて貰った鍵開けの術を駆使して、盗みを働く毎日。彼はそんなつもりはなかっただろうに、いかに自分は卑しい行為をしていたのだろう。
 それは、『玉楼』に拾われてからも変わらない。盗む先は昔の佐那のような、どうしようもない連中のみになったとはいえ、やっていることは同じだ。世間からは義賊だともてはやされていても、表の世界は歩けない。
 ――そして、ここでも過ちを犯してしまった。
「あたしは……幸庵に助けられる資格なんてないの。あのときの純粋なあたしはもういない。怒られるようなことをたくさんしてきちゃった」
「だが、それは生きるためだったのだろう?」
「だからって、あたしの行為が正しくなんてなるわけがない。幸庵だってそのために錠前破りの術を教えたつもりではなかったでしょ? 清らかな魂でいるつもりなら、一人になったときに飢え死にでもしておくべきだったの。ああ、そうだ……」
 ふと、思いつき、佐那は顔を幸庵へと向けた。どこか達観したような表情で告げる。
「ねえ、幸庵。あたしを奉行所に連れて行ってよ。幸庵になら納得できる。ううん、幸庵が、いい」
「何を言っているのだい。今の佐那は義賊に誇りを持っていたのではないのかい? 『玉楼』の仲間たちはただのコソ泥ではあるまいに」
 口調こそ穏やかなものの、幸庵が怒っているのが感じられる。背後に陽炎のように揺れるのは彼の抑えきれない妖力だろうか。
「だって……」
 その強い視線から逃れるように、佐那は袖で自分の顔を隠した。消え入るような声で呟く。
「幸庵に、こんな汚れたあたしを見られたくない……」
「佐那……」
 絶句したような気配。次の瞬間、佐那は隠した顔ごと、幸庵の腕に包み込まれていた。先ほどの力強い抱擁とはまた違う。触れてはいけないものに触れてしまうような、そんな躊躇いを感じる。
 長い長い時間、ひたすら佐那は幸庵の腕の中にいた。幸庵の胸元で目の前は真っ暗。その中で、彼の身体が小さく震えているような気がした。首筋に、ぴしゃん、と冷たい水のようなものが落ちて、佐那は小さく首をすくめた。
「幸庵、どうした……の!?」
 恐る恐る顔を上げると、今度は佐那の方が絶句する羽目になった。
 信じられない光景を前に、すぐに次の言葉が見つからない。なぜなら、幸庵の両の瞳からは大粒の涙が零れていたからだ。
「いまの幸庵が泣くとこあった!?」
 完全なる不意打ちに泡を食った佐那は、そんなことを口走ってしまう。一体全体、どうして幸庵が涙を流す必要があるのだろうか。
「私は佐那が不憫だ」
「わふっ!?」
 今度は荒々しく抱き寄せられて佐那は悲鳴を上げた。幸庵の胸に鼻と口を押し付けられたようになって息苦しい。バタバタと手足を動かす佐那に気付かぬ様子で幸庵は嘆いた。
「家族からは冷たく扱われていただけでなく、己が生活するために意に染まぬこともやってしまった。義賊の中にあっても、佐那は常に自分を責めていたのだね。君は私の傷を癒してくれたというのに、私は佐那の心の傷を癒すことは出来ないのだろうか。どれほど甘やかしても、どれほど贅沢を凝らした食事を用意しても届かない。一体どうすれば佐那は……」
 そこで、感極まったように言葉が詰まり嗚咽する。
(えーっと、もしかして……)
 もぞもぞと幸庵の腕の中から、なんとか頭を脱出させながら、佐那はピンと閃くものがあった。
 自分自身も気付かない間に心を覆っていた闇。真っ当な道を歩んではいないという罪悪感。幸庵はずっとそれを癒そうとしてくれていた。佐那が立ち直るきっかけを与えようとしてくれていたのだ。
 けれど、それが溺愛になるだなんて――不器用にもほどがある。どこをどうしたら、そんな発想になるのだろうか。
「ふふ……」
「ど、どうしたのだい?」
「ふふふっ……あははっ……!」
 不意に笑い出した佐那を見て、きょとんと驚いたような表情になる幸庵。それがまた可笑しくて、とうとう大声を上げて笑ってしまった。先ほどの全てを諦めた決意の反動だろうか。しばらく止まりそうにない。
「佐那こそ、今の私のどこが可笑しかったのかね」
「あはは……だって、だって!」
 憮然とする幸庵へ目の端を拭いながら謝る。
「ごめんなさい! でも、真面目な顔して何を言うのかと思えば、あたしを甘やかしてたのってそういうことだったの!? てっきり落とすためだと思ってた!」
「……他にどうすればよかったのだい」
 拗ねたように幸庵が唇を尖らせる。初めて見るような子供っぽい姿に、どこか遠くに感じていた幸庵の姿が、急に身近になった気がした。佐那の手が勝手に幸庵の頭へと手が伸び、気が付いた時にはいい子いい子とばかりに、艶やかな獣の耳を撫でていた。
「ありがと、幸庵。なんだかちょっと元気が出てきた」
「な、ならばいいのだが……?」
 釈然としない様子の幸庵だったが、いつもの調子に佐那が戻ったのを見て取ったのだろう。どこか、ほっとした様子で佐那に撫でられるがままになっている。
「もう、さっきみたいなことは言わないと、約束してくれるね」
「……うん」
「本当かい?」
 幸庵の両手が佐那の頬を左右から挟んだ。そのまま顔を近づけて来て、コツンと額同士を当てる。
「佐那には前科があるからね」
「え……?」
「この屋敷から逃げようとしただろう?」
 ああ、と佐那は頷いた。確かに自分には前科がある。どうしたら信じてもらえるだろう。考えながらゆっくりと口を開く。
「安心して、幸庵。たしかにもう二度と、あたしは陽のあたる場所では生きられないかもしれない。だけど、この自分を否定したら、仲間まで否定しちゃうことになる。ううん。裏の顔を知らない『玉楼』の他の人たちまで。それはできないし、やっちゃいけないこと。だって、みんな一生懸命生きてるんだから!」
「うーん。口だけでは何とでも言えるからねぇ」
「え~……」
 渾身の説明をしたつもりなのに、受け入れられなかった。首を傾げて幸庵の瞳を覗き込む。
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「浅野屋は高利貸しで悪いあやかしだからね。悪い者らしく、君の大切なものを貰おうじゃないか」
「悪いって何を……はむ……っ!?」
 不意に唇を塞がれ、佐那はそれ以上を続けることが出来なかった。密着するほど目の前に幸庵の顔がある。口元には柔らかい感触。
 唇同士が触れている――これは口づけだ――と認識した時、佐那は頬から首元まで真っ赤に染まっていた。
「おやおや、『玉楼』の店の者だというのに、初心なことだねえ」
 やがて、幸庵が唇を離し、にやにやと佐那の顔を覗き込む。
「なっ、なっ、なっ……」
 口をパクパクと開閉するだけで、佐那の口から意味のある言葉は出てこない。何が何だか、頭の中が絶賛大混乱中だ。でも――
「嫌だったかい?」
 微笑みかけてくる幸庵へ、首をふるふると横に振る。
「それはよかった」
 満足そうに幸庵は頷き、佐那の顎に手を添えた。自然と顔が上がり、唇が幸庵の正面へと向く。
(もう一度される)
 こういう時は目を閉じるものだと『玉楼』の女達から聞いたことがある。さっきは突然のことで反応できなかったが、今度はそのしきたりに従うべきだろう。幸庵の腕の中で力を抜き、佐那はゆっくりと両目を閉じた。
「――幸庵さまーっ! 急ぎのお客さんで……あっ」
 二人の距離があと一寸……といったところで、激しい勢いで部屋の引き戸が開かれた。はっ、と我に返ると、引き戸の外には瞳が零れ落ちんばかりに、真ん丸に開いた文福の姿。
「し、失礼いたしましたーっ! 心ゆくまでお楽しみくださーい!」
「あ、違うの、文福っ! まってえええっ!」
 全く説得力のない体勢のまま、佐那の悲鳴が虚しく響いたのだった。

    ◆

 客室で座っている短髪の少年の姿。佐那は廊下から大きく手を振った。
「吉平! 久しぶり!」
「佐那こそ元気だったか!」
 吉平は立ち上がると、待ちきれないといった様子で客室から廊下を歩いていた佐那へと駆け寄ってきた。彼女の手を握り、ぶんぶんと上下に振る。文福が呼びに来たお客というのは、『玉楼』の見世番であり、義賊でもある吉平だった。
「よかった……って、なんか目元が赤くないか? 風邪でも引いたか?」
「き、気のせいじゃない?」
 あはは、と朝顔の花柄模様の着物に着替えた佐那は笑って誤魔化す。ついさっきまで死にそうなほど落ち込んだり、笑ったりと忙しかった。涙も流れた。化粧で隠せばよかったのだろうが、火急の用事ということで、準備もそこそこに出てきたのだ。
「いや、絶対赤い……はっ、もしかして!」
 吉平の視線が、佐那の背後に立っていた幸庵へと向いた。怒りを孕んだ声で問い詰める。
「佐那に何をしたんだ。許さないぞ?」
「私のせいにされるとは心外だねえ。『玉楼』に私の潔白を示すために預かっているのだよ。丁重に扱っているに決まっているではないか」
「……信じられないな。佐那、本当か!?」
 佐那の肩を掴んでぐらぐらと揺さぶってくる。その力は痛いぐらいだ。
 こんなにも仲間に心配されている。佐那は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「痛いって! あたしは大丈夫だから。お店の人はみんな親切だし、幸庵も指一本……その、あたしが嫌がるようなことはしない」
 指一本触れてない、と言いかけて直前のことを思い出して口籠ってしまった。冷静でいようとしても、頬が赤くなってしまった気がする。
「佐那……?」
 吉平の視線が余計疑惑にまみれてしまった。慌てて佐那は断言する。
「本当だってば!」
「そんな赤い顔して説得力ないんだけど! って、もしや……幸庵に手籠めにされたのか? 幸庵、許さねえ……」
「ちーがーうーっ!」
 盛大なる勘違いに佐那の悲鳴が屋敷に響き渡る。まあ、文福が来なければ危なかったが、そんな事実は心の中の蔵へと放り込んだ。
「あたしがそんなタマじゃないの知ってるでしょ!? はぁ……でも、ちょうどよかった。あたしからも話があるの。だから、さっさと部屋に戻る!」
 吉平に回れ右をさせて、その背中を押して客室へ入る。三人座り、文福がお茶を持ってきたところで、佐那は切り出した。
「それで、用事って何……」
「まずは佐那のほうから。本当に無事だって信じさせてくれ」
 頑なな表情を見て、佐那は小さく息を吐いた。
 だが、これは先に話した方がいいかもしれないと思い直す。己の貞操の証明よりも、もっと大切な話だ。幸庵へ視線を向けると、問題ないよ、といったように彼が頷いた。
「あのね、吉平。驚かずに聞いて欲しい」
 佐那は一つ間をおいてから、ゆっくりと話し始めた。
 この屋敷の主である幸庵はあやかしであること。高利貸しの噂は嘘で、それだけでなく高安から聞いた情報も嘘であったこと。そのおかげで大丸屋が苦境に陥っている……等々。佐那は今日までに知り得た情報を、包み隠さず――自分が幸庵に命を救われたのも含めて――吉平へと話した。
「そんな馬鹿な……」
 ショックを受けたように吉平は呟く。特に大丸屋の件は、越後屋が流した偽情報だというのが信じられないようだ。
「あたしも信じられなかったけど、この目で見た大丸屋さんは、あくどい商売をするようには見えなかった。それに、奉行所から越後屋が目を付けてるのも事実みたい」
 佐那は姿勢を正すと、畳に両手をついた。額を畳にこすり付けるようにして懺悔の言葉を口にする。
「ごめんなさい。あたしのせいで……間違った情報で『朝顔』を動かしてしまった。罰はいくらでも受ける」
「ば、馬鹿っ! 佐那だけのせいじゃないだろ」
 慌てて吉平が近寄り、佐那の肩を掴んで顔を上げさせた。
「そもそも、越後屋のあの失礼な高安にそんな知恵があるわけがない。きっと背後で旦那あたりが操ってたんだ。騙されたのは佐那だけじゃない。オレも間違って……」
「だからこそ、もっと慎重に精査すべきだったと思う」
 少し俯き加減に佐那は唇を噛んだ。
「たしかに高安……越後屋の若旦那に、あたしは不愉快な目に遭わされた。だけど、だからといって情報の精査を疎かにしちゃいけなかったの。あと一歩、あたしが冷静だったら……左近様から『朝顔』を追い出されても文句は言えないよ」
 悔しくて、またもや目から涙が溢れ出そうになる。吉平がそんな佐那の目元を、袂から取り出した手ぬぐいで拭った。
「――まあ、私としては」
 のんびりとお茶を啜りながら、二人の姿を眺めていた幸庵が口を開く。
「佐那が『玉楼』から暇を出されてくれたほうがいいのだがねえ」
「オレたちは家族なんだ! 左近様はそんなことはしない!」
 吉平がきっ、とばかりに幸庵を睨む……が、すぐにその声が小さくしぼんでしまった。
「しない……はず……」
「ど、どうしたの、吉平?」
 意外にも弱々しい反論に佐那は眉をひそめた。これは涙を見せている場合ではないと気を引き締める。
 吉平は唇を曲げてしばらく黙り込んでいたが、やがて意を決したように居住まいを正すと、今度は彼が幸庵と佐那へ頭を下げ訴えかけてきた。
「こんなこと、頼めた義理じゃないのは分かってるけど、オレたちを……左近様を助けてはくれないか!」
「えええっ……!」
 まさかの展開に、さすがの幸庵も驚いて目を丸くしている。これはよほどのことが起きている。
「……吉平でしたね。話してみなさい」
 一番最初に立ち直ったのは幸庵だった。のろのろと上がった視線が佐那と幸庵を交互に見るも、すぐに畳へと落ちた。そのままポツリポツリと話してくる。
「ここのところ、左近様が無茶ばかりするんだ」
「無茶なこと?」
 佐那の問いかけに吉平が頷く。
「ああ。金庫を力づくで壊そうとしたり、警備の厳しい大店に狙いを定めたり……前も本当に危なかったんだ。仲間があとちょっとで捕まるところで、見回りの同心が間抜けだったから助かったけど」
「たしかに左近様らしくはないけど、でも、いつも予定通りにことが運ぶわけじゃないよね? 想定外の出来事ってよくあるし……」
「それだけじゃないんだ!」
 冷静な佐那の指摘に被せるようにして吉平が語気を強めた。
「夜、左近様の部屋から不気味な音がするって、『玉楼』の女達が噂しててな。気になってオレもこっそり覗きにいったんだよ。そしたら、左近様は一人で畳の上に正座して、ぶつぶつ怖い顔で呟いてるんだ。恨みを晴らすとか、許せないとか、力を取り戻したら覚えていろ……とか。何かに憑りつかれてるんじゃないかと思ったんだ」
「……それで、あたしのところに来たのね」
 佐那は『朝顔』の中で唯一、陰陽師としての力を持っている。左近の様子を見て欲しいということだろう。『玉楼』の女達だけならば勘違いということもあるだろうが、吉平の目撃情報は明らかに尋常ではない。
 腕を組んでどうしようかと考えていると、吉平が「これ……」と二人の前にべっ甲の櫛を置いた。
「これは前に忍び込んだときに、左近様が盗んだ櫛なんだ」
「おやおや、これは。やはりそちらにあったのだね」
 今まで黙って話を聞いていた幸庵が初めて反応を示した。
「何度か左近様を注意して見ていたんだけど、ぶつぶつ呟いているときは、決まってこの櫛を膝の上に置いていたんだ。何か秘密があるんだろ?」
 佐那は櫛を手に取ってつぶさに調べた。すぐにあることに気付く。
「……一本欠けてる?」
 櫛の歯が一本だけ短くなっていた。根元からではなく、先端がほんの少しだけ。だが、それを見逃すような佐那ではない。
「私にも見せてごらん」
 差し出してきた手に櫛を乗せる。幸庵は櫛を何度か裏返して、他に傷がないか確かめてから言った。
「鈴姫からもこの櫛の話は聞いていたのだけどね。大方、予想通りの場所にあったということだ。ううむ、しかしこれは……」
「もしかして……あたしたちが壊しちゃった?」
 嫌な予感がして佐那は訊ねるも、幸庵は「そうではないよ」と首を横に振った。
「これは初めから欠けていたのだよ。前の持ち主が乱暴に扱ったみたいでね。可哀そうに、付喪神へ成る直前に欠けてしまった。そこから力が流れ出てしまって成れなくてね。だから、これは人間に恨みを持っていたのだよ。左近殿に憑りついてしまった可能性が高いね」
「どうしてそんな危険なもんを置いてるんだよ!」
 佐那の話から、ここがあやかし屋敷だと聞いた吉平が詰め寄った。
「付喪神になりかけていたからこそだよ。これが力を溜め直して付喪神になれば、まず最初に襲うのは人間に決まっている。それを止めるのは私たちの役目だからね」
「だったら、それを先に教えてくれよ!」
「吉平、落ち着いて!」
 食ってかかる吉平を佐那は宥めた。頭に血が上り過ぎていて冷静に物事を捉えられていない。
「それは、ほら……あたしたちも忍び込んだ側だし」
「むぐぐっ……」
 吉平は唇を歪めてぐうの音も出ない。佐那は幸庵へ向き直った。
「間違って屋敷に忍び込んだあたしたちに、お灸を据えるために、今日まで放っておいたってこと?」
「いや、それは少し違う。さすがにそのような危険な真似はしないよ」
 幸庵は首を横に振って佐那の疑念を否定する。もう一度、櫛に妖力が残っていないのを確かめてから自分の膝の上に置く。
「実はね、佐那に怪我を負わせたのは、左近殿に憑りついたであろう、この櫛のあやかしなのだよ。あのときも、左近殿を操っていた」
「え……」
 無意識に佐那は、己の胸に手を当てた。傷は塞がっているが、今も身代わりになってくれている人形の胸の穴は消えていない。
「そのときに、私は滅したつもりだったのだが……これはしくじったようだ。確認もそこそこに、瀕死の佐那のほうを優先したからね。ああ、佐那はそんな顔をするのではないよ。何よりも君が優先すべき私の目的だったのだから」
 佐那の脳裏にあの夜の情景がありありと蘇る。
 背格好は左近に似ているように思えた。だが、ただの人間があのようなあやかしの気配を纏うわけがない。そう考えてあやかしだと断定していた。しかし、付喪神になりかけのあやかしが憑りついたとなれば話は変わってくる。
「そういえば、あの夜の左近様からは血の臭いがしたんだ」
 小さく肩を震わせながら吉平が呟いた。
「戻ってこない佐那を、見たことがないくらいに焦って心配してた。いや、何だか恐れているようだった。翌朝、幸庵から手紙が来たときは、ものすごく安心してて……。それは、佐那が無事だとわかったからだと思ってたんだけど」
 あやかしに憑りつかれながらも、意識のどこかで佐那を手にかけてしまったのを感じていたとしたら。それが、幸庵の手紙で、己の妄想だったということからの安心感だったとしたら……。
「そう……だったのね」
 佐那の中で、様々なことが一本の線に繋がった。それと同時に、左近に憑りついたあやかしを何とかしないと、いずれ左近だけでなく『玉楼』全体の問題になってしまうことも、容易に想像がついた。
「幸庵、どうしたらいいのかな? あたし、左近様を助けたい」
 佐那の問いかけに、ふぅむ、と幸庵は顎を撫でた。
「左近殿がここを訪れたときは、あやかしの気配はなかった。ということは、相手もかなり用心しているということだね。簡単には尻尾を出してくれないだろう」
 左近に憑りつきつつも、普段は用心深く身を隠しているということだ。正面突破では失敗してしまう可能性が高い。
「吉平や。左近殿は外で無茶をすることがあるという話だったね。きっとそれは、妖力の強いものを探して、失った妖力を取り戻そうとしているのだよ。どこか、次に義賊の仕事をする予定はないかい? そのときに罠をかければいけるかもしれない」
「いくらなんでもそれは……」
 渋面を浮かべる吉平だったが、別の何かを思い出したように手を打った。
「そうだ! 左近様が越後屋の宴に招かれてるんだ。オレと『玉楼』の女達も同行するんだけど、そのときとかはどうかな?」
「ちょっと、待って吉平。越後屋さんに呼ばれたの? どうして?」
 反射的に佐那は口を挟んでいた。左近一人が赴くならまだ理解できる。『玉楼』の女達まで連れて行くなんて話、今までに聞いたこともない。
「……そういや、そうだな」
 佐那は嫌な予感しかしない。『玉楼』と『朝顔』。この二つは注意深く切り分けていた。『玉楼』でも佐那達の裏の仕事を知らない者もいるくらいだ。
「高安……なのかもしれない」
「何かあったのか?」
 吉平からの問いに、佐那はこの屋敷であった高安とのいざこざについて説明した。あれから佐那が化け物だという噂が近隣で流れたが、もしかすると越後屋の主人は高安の言い分を信じたのかもしれない。
「あたしが『玉楼』にいたのは隠しようもない事実だし。あたしに大丸屋の情報を流した後に、大丸屋は襲撃された。何か勘付いているのかも? そうじゃないとしても、あたしは高安に恨まれてる。それを種にして『玉楼』の評判を落とそうとしているのかも」
「それは、考え過ぎじゃないか? ……いや、しかし」
 佐那を気遣ってようとしたのか、吉平は笑い飛ばそうとするも、腕を組んで眉間に皺を寄せてしまった。何かしら『玉楼』にとってよくないことが起きようとしている。それだけは確信したようだ。
「越後屋ねえ……しかし、越後屋か」
 幸庵も難しい顔で呟いた。
「このべっ甲の櫛はね、元を辿れば越後屋にあった櫛なのだよね。『玉楼』に越後屋の気配が残っていたのなら、むしろ左近殿に憑りついたあやかしが、そのように仕向けたのかもしれないよ」
「それは……もう、決まりじゃない?」
 櫛のあやかしは左近を通して、越後屋に復讐を遂げようとしている。それならば、左近のおかしな行動にも説明がつく。
「証拠はないのだがね。動く価値はあるね」
 幸庵の言葉に佐那は力強く頷いた。
「吉平。その日はいつなのかな? 今から左近様と『玉楼』を救うために準備しよう。いいよね、幸庵」
「もちろんだとも。佐那のお願いを私が断れるわけがない。それに、これは私の犯した失策でもあるからね」
 いつになく真剣な瞳で幸庵も同意する。
「佐那も、幸庵も……すまねえ」
 吉平はありがたいとばかりに、もう一度深々と頭を下げた。

    ◆

 夜も更けて、満月が空に上がった時間帯。夕飯も終わり、夜更かしをするのでなければ、そろそろ寝静まる頃合いだろう。
「……うわぁ、なんだかそれらしくなってきたぁ」
 町角の影に身を潜めながら佐那は不敵に笑みを浮かべる。
 越後屋のような大店で、その財力を誇示するような人間であれば、店の奥にある屋敷も相応のものとなる。城郭のように土壁で囲われた土地は、まるで位の高い武家屋敷のようだ。土壁の向こう側からは、笛や太鼓の音に、人々の笑い声も聞こえてくる。
 屋敷の中では、左近と吉平が『玉楼』の女を連れて宴を開いているはずだ。
 今日のために、佐那と吉平は密かに連絡を取り合い、入念な打ち合わせをしていた。越後屋に連れて行った女の中にも、佐那と同じように義賊の心得がある者がいる。さらにはあやかしが出たときを考えて、鈴姫にも『玉楼』の女として混じってもらった。
 ところが、その周囲を覆い始めた暗い気配に、佐那はひたすら嫌な感じを覚えていた。あやかしの気配がするわけではない。言うなれば、陰陽師の直感のようなものだ。
「――私も結界を張ってきたよ」
 微かな足音とともに、幸庵が背後へ降り立つ。浅野屋の店から、あやかしを何匹か連れて来てくれた。万が一にでも、左近に憑りついた付喪神を逃がさないようにするためだ。
「ありがと」
 佐那は幸庵を見上げて頷く。月の位置を見上げて、己の影が地面に伸びないよう位置を調整する。
 本当は佐那も『玉楼』の女達に混じって中へ入りたかった。その方がわざわざ外から忍び込む手間が省ける。だが、佐那には胸の傷の件があった。
 幸庵の手が佐那の頭に伸び、彼女の身体を覆う結界を維持してくれる。「ありがとう」ともう一度礼をすると、幸庵の指が、つつっと背筋をなぞり、佐那は小さく悲鳴を上げてしまった。
「着物もいいが、忍び装束姿も凛々しくてよい眺めだねえ。むしろ、こちらのほうが似合っているかな?」
「あ、あのね……!」
 こんな時に何を言っているのだろうと佐那は憤慨する。
 白を基調として薄紫色の朝顔の花に彩られた忍び装束は、幸庵からの贈り物だ。色的には目立つことこの上ないのだが、幸庵が特別な術を掛けてくれて、普通の人間には認識しにくいようになっているらしい。
「今度からその格好で店にも立ってもらおうか。ますます人気が出るかもしれないねえ。眠るときは……どうしようか。私の理性は果たして耐えられるのだろうか……? 襲ってしまっても許してもらえるかい?」
「どっちも、まっぴらよ! 幸庵、趣味がおかしすぎ……むぐぅ!?」
「しー、静かに。あまり騒ぐとバレてしまうよ」
(誰がそうさせてるのよっ!)
 口を大きな手で塞がれた佐那は、心の中で思いっきり喚いた。
 この忍び装束、強い妖力で守られている気はするが、どう考えても幸庵の趣味にしか思えない。二の腕は剥き出しだし、裾は短くて大胆な長さで切られており、ひらひらした布からは白い腿がちらちらとのぞく。潜むよりもむしろ積極的に人へ魅せる装い。忍び装束というものを勘違いしているのではないだろうか。
「こ、この助平あやかしめっ!」
 佐那、渾身の嫌味を、幸庵は笑顔で受け流した。
「おや、知らなかったのかね? 私は常に佐那の姿を愛でていたのだよ。特に夜は、私のようなあやかしは眠る必要がないからね。君の寝顔を私は毎晩堪能していたよ。いつ起きるかと思っていたが、気持ちよさそうにわたしの指や手を握ってきてねえ。私を誘っているのかと、理性を保つのが大変であった」
「ええぇ……」
 佐那は思わずその場に崩れ落ちていた。眠るときは幸庵よりも後。起きるのは幸庵の先。それを万事徹底――たまに油断するときもあったが――して、己の貞操を守っていたつもりだった。それが全て無駄な努力だったと知らされると、さすがにショックである。
「ああう……あたし、もうお嫁にいけない……」
「私の嫁になるのだから、問題はどこにもないだろう?」
 そういう問題ではない。
「おっと、佐那をからかうのはここまでのようだね」
 幸庵の顔が引き締まったものになる。へたり込んでいた佐那が見上げると、壁の向こう側の屋敷の一角で、小さな提灯の灯りが見えた。越後屋の警備が薄くなる時間になったという、吉平からの合図だ。
「よし、始めるよ!」
 佐那は両手で自分の頬を叩いて気合を入れた。その背中に幸庵の大きな手がそっと添えられる。
「万が一のときは、必ず私を呼ぶのだよ。佐那を守るその結界は、それほど頑丈なものではないのだから。絶対に意地など張るのではないよ?」
 幸庵の忠告に佐那はしっかりと頷いた。白夜の元に行った時と同じ結界をかけてもらっている。このおかげで、佐那も自由に動けるのだ。
 佐那は鉤縄出すと合図をする。
「幸庵、お願い!」
 幸庵の妖力が佐那を包み込み、それに忍び装束が反応して彼女の姿を、その場の景色へ同化させる。佐那は鉤縄を頭の上でぐるぐると回し、越後屋を囲う土壁へと投げた。それは見事に上部に掛かり、ぐっと引っ張ると縄がピンと張った。
 佐那は足に力を籠めると、一気に壁の上部まで到達した。こっそり壁の向こう側――屋敷の裏庭を除くと、吉平の知らせ通り見張りがいない。
「佐那」
 背後から小さく声が掛かり振り返る。
「いってらっしゃい」
「うん。いってくる!」
 短い幸庵の激励が心強く感じる。佐那は壁の上部に足を掛けると、一気に庭へと身を躍らせた。
 庭の植木の影を利用して、少しずつ屋敷へと近づいていく。裏庭こそ見張りがいなかったが、屋敷へ近づいていくにつれて、体格のよい男の姿が視界に入る。装束のおかげで周囲の景色と同化しているとはいえ、足音を消せるわけではないし、物理的な衝突を避けられるわけでもない。警備の死角に身を隠し、佐那は腰から鉤縄を取り出す。
(あたしは義賊)
 義賊は義賊らしい場所から忍び込むべきだろう。
 身に纏った装束から幸庵の気配を感じる。それに励まされるようにして、佐那は鉤縄を登ると、屋根を這うようにして移動した。
 幸庵からは、彼が全てを片付けようと提案があるも、それを断固として断ったのは佐那だ。これは自分達が蒔いてしまった種。それを誰かに片付けさせるのはあり得ない。特に越後屋の情報を持ってきたのは自分だ。その汚名は自らの手でそそぐ。幸庵には悪いが、そのためにはここで倒れてもいいとすら考えていた。
「たしかこのあたり……あったあった」
 吉平からもらった屋敷の見取り図。それを元に移動すると、天上裏へ忍び込む場所を見つけた。屋根瓦を取り外し、腰にぶら下げていた小型のノコギリを当てる。その部分だけ腐っていたのか、簡単に切り取ることができた。
「さすが吉平。情報通り!」
 今日のために危険を冒して調べてくれていた。それに感謝しながら、切り取った狭い空間に、己の身体をねじ込むようにして天井裏へと降り立った。
 音を立てないように細心の注意を払い、左近達が宴を開いている大広間の天上へと移動する。僅かに羽目板を外すと、配下では酔っぱらって畳の上に、大の字になっている男の姿が何人も見えた。障子を開けた中庭の方では、見張りらしき男も伸びていた。
 一人、また一人と女達が酒をもって部屋の外へ出て行く。これは残りの見張りにも酒を飲ませようというのだろう。今日の酒は、幸庵の屋敷で付喪神に成ろうとしている、あの徳利から持ってきた酒だ。とてもよく効くに違いない。
(左近様……)
 部屋の上座で盃を傾けているのは、左近と初老で白髪の男――越後屋の旦那だった。
 左近の見た目は普段と変わらない。いや、少し見ない間に痩せてしまったように見える。これも憑りつかれてしまった付喪神の影響なのだろうか。
 二人の横では、可愛らしく裾の長い着物を着た女性と、その膝の上ですっかり寝落ちしている高安。『玉楼』の女性に似せているものの、彼女は鈴姫だ。吉平が事情を話して上手くやってくれたようだ。何しろ相手は怨念を溜めた付喪神。何かあった時、すぐに対処できるのが佐那だけでは心許ない。
「いや、愉快愉快」
 上機嫌に越後屋の旦那が、鈴姫の酌をもらう。
「さすが『玉楼』のおなごたちじゃのう。これで春を売らぬとはなんともったいない」
「ふふふ……売らぬ秘密があるからこそ、人々は惹かれ、さらにその秘密を知りたいと足繫く通うようになる。全てをつまびらかにしてしまえば、秘密は残らず、人々はあっという間に飽きてしまうでしょう」
 答える左近の様子に、佐那は「おや」と眉を上げた。声こそいつも通りだが、抑揚がない。まるで何かに操られているよう。
 しかし、それが越後屋の旦那には逆に神秘的に映ったのだろう。「わはは」と笑いながら手を叩く。
「さすが左近殿。『玉楼』を取り仕切る楼主だ。ですがな、今日ここに呼んだ理由は分かっておろうのう?」
 好色そうな顔に、佐那はぞぞぞっと背筋が寒くなった。年老いてなお盛んというか、子が高安ならば、この親ありといったところ。
 こんな奴に『玉楼』の女達を犠牲にするわけにはいかない。後先考えず飛び出してしまいそうになるも、佐那は必死に自分を止めた。今はまだ時期ではない。ここで飛び出したら、全てがおじゃんになってしまう。
「その通りです。ここは『玉楼』ではないですから」
 思いもかけない左近の言葉に、佐那は絶句する。左近は何よりも『玉楼』の女達を大切に考えていたはずなのに……。やはりこれも、あやかしに憑りつかれた影響なのだろうか。
「ですが、我々もこれは商売ですからなあ。越後屋さんには頼んでいたものを用意して頂けましたかな?」
 左近の言葉に、もちろんですとも、と越後屋の旦那が頷いた。パチン、と指を弾くと、女が一人、赤い漆塗りの三方を掲げて広間へ入って来た。それを左近の前に置き、白い布を取り払う。
 その上に置かれていた物に、はっと息を呑む。
 それは、べっ甲の笄(こうがい)だった。明らかに佐那の店に持ち込まれた櫛と、対になるような意匠。
 驚いたのはそれだけではない。べっ甲の笄にもまた、あやかしの気配が漂っていたからだ。黒く不気味で、それでいて、今にも暴発してしまいそうな。
(左近様に憑りついているあやかしだけじゃなかった……いや、もしかして、これを探していた?)
 屋敷が不気味な雰囲気に包まれていた理由を悟る。左近に憑りついていた付喪神と、この付喪神になりかけのべっ甲の笄が呼応していたのだ。元は対になるものだったからこそ、お互いをこうして求めていた。
「このようなものが欲しいとは、左近殿も珍しい。しかし、これだけではさすがに越後屋としても、申し訳がありませんからな。小判も用意させてもらいましたぞ」
 続けて運び込まれた三方には切り餅が幾つも乗せられている。
 それを眼下にしながら、佐那は別の部分でほっと安心していた。越後屋は佐那達の裏の仕事は疑っていないようだ。越後屋に黙っていて欲しいのならば、お金を払うのは左近の方だ。
 ならば、この場を切り抜ければ全ては解決する。
「ふふふ……」
 左近は切り餅には目もくれず、べっ甲の笄へと手を伸ばしていた。それを掲げて哄笑する。
「ふははっ! とうとう手に入れたぞ」
「さ、左近殿?」
 そこで、やっと左近の異変に気が付いたのだろう。越後屋の主人が戸惑った表情を浮かべて後ずさる。
「長く時間がかかってしまったが、やっとだ」
 これは不味い、と佐那が飛び出す瞬間を見計らっていると、左近の身体から黒い靄のようなものが出てきた。浅野屋の蔵で対峙した時と同じだ。それは、陰陽師の力がある佐那だけではなく、他の者にも見えるほどに膨れ上がっていたのだろう。酒を飲んでいた何人かが悲鳴を上げた。
「我が片割れよ探したぞ。やっとだ……やっと我らは一つになる」
 部屋の中に突風が吹き荒れ、料理を乗せた皿が宙を舞い、酒器が倒れて割れた。障子や襖はガタガタと震え、次々と敷居を外れ倒れていく。酔い潰れて眠っていた者も目を覚まし、そこかしこで悲鳴が続いた。
(いけない!)
 このままでは怪我人が出てしまう。佐那は天上の羽目板を外すと、躊躇いもなく広間へと降り立った。
 突然現れた忍び装束の少女に越後屋の旦那が驚くも、佐那は蹴りを一発入れて豪快に広間の外へと吹き飛ばした。騙された恨みも籠めたが、この広間にいること自体に命の危険がある。瘴気のような悪意のある黒い靄が屋敷に瞬く間に広がり、次々と越後屋の人間を昏倒させていたのだ。
「みんな、下がれ!」
 何とか冷静さを保っていた吉平が叫んだ。鈴姫が張った結界の中へ『玉楼』の者を入れていく。佐那はその前に庇うようにして立った。
「ここはもう危ないから逃げて! みんなも知っての通り、あたしは陰陽師の力がある。ここは時間を稼ぐから。鈴姫、みんなをお願い!」
「わかりましたわ! 幸庵様も呼んできます。佐那さんも無理をしてはいけませんよ?」
 同じあやかしだけあって、危険性を理解していたのだろう。鈴姫は素直に『玉楼』の者達を外へと誘導する。
「いや、佐那も逃げるんだ!」
 吉平が腕を掴もうとしてきたのを、佐那はひらりと躱した。
「ここはあたしが何とかするよ! だから、吉平も逃げて!」
「吉平さん! 佐那さんの邪魔になってしまいますわ」
 音を立てて飛んできた徳利を、鈴姫が張った結界が防いだ。下がりながら、早く早くと鈴姫は急かした。
「だ、だけど!」
「怖がってる『玉楼』のみんなを落ち着けてあげて。もしも、越後屋の見張りが残っていたら、そっちがおかしな真似をするかもしれない。それを守れるのは吉平だけだよ!」
「くっ……」
 佐那の背後で悔しそうに歯ぎしりをする音が聞こえた。それでも、彼女の案が最善だと納得したのだろう。徐々に気配が離れていく。
「佐那……左近様を頼んだ!」
 だっ、と吉平の立ち去る足音が聞こえるのと、付喪神に憑りつかれた左近が襲ってきたのは同時だった。
「し、式神よ、お願いっ!」
 白い毛皮を持つ美しい鼠が十匹ほど。佐那を血祭りにあげんと右腕を上げた左近――に憑りついたあやかしへと殺到し、素早い動きで翻弄せんと動き回る。
(お願い、あたしの式神!)
 佐那は付喪神の話を聞いたときから、陰陽師としての力が必要になるだろうと思っていた。幸庵に頼んで道具を揃えてもらい、対付喪神用の式神を作って今回の作戦に臨んだのだった。
「むお、小癪な!」
 邪悪な気配を振りまく靄にまとわりつき、それをゲジゲジと齧っていく白鼠。あやかしの妖力を削るのと同様の行為だ。
 相手のあやかしは暴れまわり、一匹、また一匹と靄に飲み込んでいく。佐那はその度に追加の式神を発動した。
「ぬおおおお!」
 あやかしが力任せに妖力を放出する。部屋を竜巻のような突風が吹くと、白鼠は全て吹き飛ばされてしまった。
「くっ!」
 佐那は畳をゴロゴロと転がって難を逃れ、すぐに受け身を取って起き上がった。そこに、目の前には闇を纏った左近の右腕が迫る。
「式神……くぁっ!?」
 あっという間に押し倒され、喉を強烈な締め付けが襲う。窒息する前に首の骨が折れてしまいそうな力。ぎりぎり発動していた式神が左近の腕に齧りつき、その隙に佐那は脱出に成功した。直後、また突風が吹いて、佐那は屋敷の柱に背中から叩きつけられる。
(く、悔しい……っ!)
 後頭部をもろに打ち付け、意識が朦朧としながらも、佐那はよろよろと立ち上がる。
 全く自分の力では歯が立たない。徳利の時は役に立ったのに、どうして戦いには向いていないのだろうか。
(左近様を助けたいだけなのにっ!)
 佐那の願いも虚しく、左近に憑りついたあやかしの一撃で、彼女の身体は中庭へと放り出された。
 何とか顔を上げたところに、黒々とした足の裏が見える。禍々しい付喪神の力は、そのまま佐那の頭を踏み潰してしまうかもしれない。さすがに身代わり人形も耐えられないだろうな――そんなことをぼんやりと思った。
「――やれやれ。だから、早くに呼びなさいと言っただろう?」
 足に踏み付けられようとした寸前、急に目の前の景色が回転した。背中に添えられた力強い手に佐那の声が弾む。
「幸庵っ!」
 傷ついた佐那の結界を補強しながら、幸庵は左近の身体を操る暴走した付喪神へ右手を掲げた。
「出て行くがよいよ。お前はもう付喪神にはなれない」
 幸庵の身体が黄金色に光ったと思うと、放出した妖力が左近の身体を同じ色に包み込む。まばゆい光は中庭を昼間のように強く照らした。
「ぐああああぁぁぁぁっ……!」
 左近が苦し気に頭を抱えて中庭を転がり回る。やがて、仰向けに倒れた口から、黒い靄が次々に吐き出されていく。
「さ、左近様っ!」
 佐那は慌てて立ち上がると、倒れた左近の元へと走った。吐き出される黒い靄は霧散し、顔色こそ青白いものの、あやかしの気配はどこに感じない。恐る恐る胸へ耳を当てると、微かに上下に動き、心臓の力強い鼓動も聞こえた。
「あぁ……よかった……」
「私としては全くよくないのだがね」
 背後から咎めるような視線を感じ、佐那は「うっ」と小さく呻いた。
 どうしても自分の力で何とかしたかった。それが逆に己の無力を知らされる羽目になってしまった。左近が解放されたのは嬉しいはずなのに、なぜか落ち込んでしまう。
「……ごめんなさい」
「まあ、佐那の気持ちもわかるから、ギリギリまで手は出さなかったのだが」
 怒られるかと思いきや、幸庵は寛大だった。いっそ厳しく叱ってくれたほうが気が楽なのに。ますます落ち込んでいると、背後から走って来る音。
「佐那っ! 左近様も、無事か!」
 大きな声は吉平のもの。『玉楼』の女達はこの屋敷からの脱出に成功したのだろう。心配して戻って来てくれたのだ。
「うん。あたしは大丈夫。左近様に憑りついていたあやかしも、幸庵が祓ってくれた」
「よかった……」
 倒れた左近が息をしているのを確認して、吉平は大きく安堵の息を吐く。自分よりも大きな左近を、うんしょ、と背負いながら吉平は既に次を考えていた。
「さあ、後片付けをして、早く帰らないとな。外までドンパチが聞こえたから、グズグズしてるとお上が来てしまう」
 佐那は屋敷の方へ視線を向けた。暴走した付喪神の瘴気に当てられて、男達はみんな目を回して倒れており、しばらく目を覚まさないだろう。これなら、佐那が実行しようとしている『後始末』も念入りにできるだろう。
「うん。任せて! あたしたちを騙してくれたお礼はしないとね!」
 気を取り直して、佐那は広間の方へ足を向けた。
 襖や障子は、付喪神のあやかしが暴れてくれたおかげで、無残な姿になっている。畳の上に金色色の屏風が転がっており、こちらは難を逃れたようだ。少々もったいないが、だからこそ、自分達の存在を知らしめるにはちょうどいい。
 佐那は懐から矢立を取り出した。
「派手に『朝顔参上!』って書いてあげないとね。ほんと、大変だったんだから。恨みつらみを籠めて、今まで一番のを……って?」
 すぅ~、と風が動いた気配に、佐那は縁側に足を掛けた姿勢で視線を巡らせた。キョロキョロと、最後に空を見上げるも、そこには雲一つない真っ黒な夜の空。
(いや、違うっ!)
 どこか違和感を覚え……佐那はすぐに気が付いた。煌めく星々はどこに消えたのだろうか。忍び込むには向いていない満月も見えない。
「佐那! そこを離れなさい! 笄がまだ力を持っている!」
 異変に気付いた幸庵が鋭い声を発するも、それは僅かに遅かった。
「うそっ……いやあぁぁっ!」
 いつの間にか佐那の周囲を取り囲んだ黒い靄は、その内側へと彼女を飲み込んでいったのだった。

    ◆

(油断したっ!)
 あやかしの操る靄の取り込まれた佐那は必死に抗っていた。
 周囲は完全なる闇。ふわふわと浮いているようで、足を踏み出しても地面を感じないし、手を伸ばしでもねっとりとした肌触りがあるだけで、他には何も手ごたえがない。
 左近の身体から追い出された付喪神。幸庵の力のおかげで、そのまま消滅したと思い込んでいた。
 しかし、その片割れである笄の妖力は健在だった。もしかすると、笄の中へ逃げ込んで一つになったのかもしれない。そして、他の者達の警戒が緩む瞬間を待っていたのだろう。陰陽師の力を持つ佐那に狙いを定めたのは、彼女の身体を乗っ取れば、この場で一番力の強い幸庵にも対抗できると考えたのだろう。
「くっ……落ち着きなさいってば!」
 憎い、忌々しい、嫌い、怖い、恐ろしい……様々な負の感情が渦巻く付喪神の空間。
 これだけで、人間からどのような仕打ちを受けて来たかわかるというものだ。
『あと一歩で命を得られたものを』
 冷やりとした付喪神の怨念の塊が頭上に現れたかと思うと、佐那の身体へ入らんと無数の腕を伸ばしてきた。
「いやっ! やめっ……あああっ!」
 式神を抜いて対抗しようとするも、あっさりと掴まれ背中へ捻じ曲げられた。それを機に、次々と佐那の身体へ腕が絡みついた。
『ああ……恨めしや、口惜しや』
 気が狂いそうなほどの怨念の塊。左近の時とは比べ物にならない。気を抜けば一瞬で意識を持って行かれそうだ。そうなれば佐那の精神は崩壊し、永遠に付喪神の操り人形になってしまうかもしれない。
(そんなの、いやっ……!)
 幸庵が外から何とかしようと奮闘しているようだが、怨念の奔流に飲み込まれている佐那は、それまで耐えられるだろうか。
(ううん……今度こそ、自分の力でっ!)
 遠のきかけた意識を何とか引き寄せる。
 思えば幸庵には、屋敷に忍び込んでから助けられてばかりだ。いつの間にか頼ってしまっている自分が怖かった。今回だって自分で何とかすると決意しておきながら、心のどこかでは、危機に陥れば救ってもらえると甘えていなかっただろうか。
 情けない姿ばかり見せるわけにはいかない。幸庵に救ってもらった幼少の時から、少しでも成長した姿を示したい。
「あなたの恨みはわかる……」
 粗雑に扱われてきた物の恨み。それで壊されたとなれば、その恨みはなおさらだろう。佐那だって力がないばかりに家では冷や飯を食わされ、生きて行くために世間では悪の道に足を踏み入れてしまった。
「だけど……だけど、これを見て!」
 必死に腕を振りほどき、佐那は懐からべっ甲の櫛を取り出した。
『ああ……我が……我の姿が』
 今までで最も濃い瘴気が佐那の右手にまとわりつく、腕ごと持って行かれそうになり、佐那は悲鳴を上げた。
『いや、この姿……この形は……!?』
「そうよ、わかる?」
 痛みに耐えながら佐那は問いかける。
 べっ甲の櫛の欠けた歯は、元通りの姿になっていた。綺麗に磨かれ、むしろ新品同様の姿だ。
 そのからくりは、佐那の身代わりになってくれている人形だ。幸庵に頼み込んで、櫛の欠けを人形に移してもらったのだ。その後で、佐那は陰陽師としての癒しの力を使いながら、心を籠めて丁寧に磨いた。自分の想いが届けとばかりに。
「人間がみんな悪い人じゃない。こうして大切にしたいと思う人だっているの。あたしは壊れたからって無下にはしたくないの!」
 佐那の右手に淡く癒しの光が灯った。それは徐々に空間へ満ちていき、佐那を包み込んでいた禍々しい力と拮抗する。
「これがあたしの力。あやかしを倒すことは出来なくても、あなたを癒すことは出来るはず。陰陽師としては不要な力かもしれないけど、あなたにとっては必要な力のはず! お願い、受け取って!」
 真っ白な光が、真っ暗な闇を払っていく。佐那を恐れるように闇が遠ざかったその向こう側で、黄金色の光が一筋見えた。それが幸庵のものだと確信し、佐那は最後の力を振り絞った。
「佐那っ!」
「幸庵っ!」
 伸ばされた手に向け、自分も必死に伸ばす。これ以上は無理だと思ったところで、がっしりと手首を掴まれ、勢いよく付喪神の空間から引き抜かれた。
「佐那、佐那! しっかりするのだ。死ぬのではないよ!」
「こ、幸庵……大丈夫だからっ!」
 がくがくと激しく肩を揺らされ、ぐわんぐわん、と頭の中身まで回ってしまう。あやかしの馬鹿力は人間には辛い。
「あの付喪神はっ!?」
 佐那の問いかけに、幸庵が無言で広間を指した。
 そこには、白い光に包まれた櫛へ吸い込まれていく黒い靄。まるで自ら飛び込むように、みるみるうちにその姿を消していく。最後には美しい飴色の輝きを放つべっ甲の櫛と笄が残された。その二つは、ふわりと浮かぶと、佐那が伸ばした両手へと飛んで来る。
「よかったぁ……あたしを信じてくれたんだ」
 邪悪なあやかしの気配はどこにもない。すっかり落ち着いた様子で、佐那の手の中に収まっている。
「佐那はすごいね。私ですら滅するのに時間がかかると思っていた付喪神を、この短時間で鎮めてしまうのだから」
「もう、あたし、夢中で……」
 緊張の糸が解けた佐那は、腰砕けのようになって幸庵の腕に抱えられた。
「本当によく頑張った。佐那は私たちあやかしの恩人だね」
「恩人だなんて、大袈裟な」
 陰陽師として力を使い果たしてしまい、小さな欠伸が出る。もう指一本動かすのすら億劫だ。
(義賊としての『後始末』をしなきゃいけないのに)
 瞼が閉じていくのを止められない。どう足掻いても起きていられない。幸庵の大きな手が、佐那の目元を覆った。
「『後始末』とやらは私に任せて、ゆっくりおやすみ」
(幸庵ってば、何をしないといけないかわかってるのかな)
 まあ、吉平もいるから大丈夫だろう。打ち合わせもしていたから、これまでの義賊で一番の『朝顔』を書いてくれるに違いない。
 明日の江戸の町は、きっと大騒ぎ。どんな瓦版が飛ぶか見ものだ。
(ふふ……明日が楽しみ……)
 胸に櫛と笄を押し抱き、幸庵の暖かさを感じながら、佐那は微睡みへと落ちていくのだった。