幸庵の屋敷に来てから、朝の目覚めはいつも小鳥の囀りだ。
大きな庭のおかげで小鳥が集まるのかと考えていたが、ある日観察していると、小鳥にも妖力が宿っていた。さすがあやかし屋敷。自我が芽生えていなくても、本能的に場所を選んでいるのだろう。
ぽかぽかと身体が暖かいのは、背後から幸庵の腕が伸びて佐那の身体を抱いているからだ。彼を起こさないように、もぞもぞと身体を動かして、その腕から抜け出す。
今日は浅野屋の質屋としての営業はお休み。ゆっくり眠っていていいよとは幸庵の言葉だったのだが、いつも通りの時間に目覚めてしまった。
(というか、この体勢でゆっくりできるわけが!)
ふあ~あ、と佐那は布団の上で大きく伸びをしてから、幸庵の寝顔を見詰める。
何もされないと理解していても、隣に男性がいると思えば緊張してしまうというものだ。幸庵が眠ってから佐那は眠るようにしているのだが、毎朝起きるとなぜか彼の腕の中だ。幸庵曰く「私は寝相が悪いからね。許しておくれ」だそうだが、そんな理屈が通るわけがない。
(最近は慣れてきた……いやいやいや)
ぶんぶんと首を左右に振る。それはそれで大問題だ。常に緊張感は抱いていないと、幸庵の理性が崩れた時に、貞操の危機が勃発してしまう。
こそこそと屏風の影に行き、佐那は寝間着から朝顔の花柄の小袖へと着替えた。足音を忍ばせて歩くと、押板床に置かれた自分の身代わり人形を調べる。
「まだまだだなあ……」
首の矢傷に、胸に開いた大穴。少しずつ良くなってきているが、完治には程遠い。
「あたしの代わりに、ありがとね」
髪の部分を撫でてやると、人形の佐那が笑った気がした。こうして毎日語り掛けていると、本当に自分の分身のように思えて、愛しさが芽生えてしまう。
「佐那の様子を見ていると、人形に嫉妬をしてしまいそうだね」
「ひぁっ!?」
背後からの声に、佐那は文字通り飛び上がってしまった。人形に夢中になっている間に幸庵は目を覚ましていたようだ。
「今日は思う存分、君を愛でてから起きる予定だったのだが薄情なものだねえ」
「残念! 早起きは三文の徳なんだから!」
ささっと一歩分の距離を取ってから佐那は胸を反らす。時が経過するにつれて、どんどん物理的な距離が近くなっている気がする。それに比例するように、なぜか心が騒めきを大きくする。きっちり線引きをしておかないと、流されてしまいそうだという危うさを、最近は特に感じている。
「それは本当に残念だ。次からは佐那よりも早く目覚めねば」
幸庵は冗談めかして片目を瞑ると、佐那人形を調べる。彼の手がぼうっと光ったかと思うと、胸元の穴が少しだけ小さくなった気がした。
「これは今朝の分。佐那の生命力を私のものと合わせて増幅しているのだよ。そのためには、なるべく君と触れあっていた方が、力のやり取りが円滑にいくからね」
「ちゃ、ちゃんと理由があったんだ……。あ、ありがと……」
佐那は己の勘違いに、所在なさげに視線を彷徨わせた。幸庵は飄々として本心が掴めないが、その優しさは佐那にしか向いていない。
「まあ、佐那の抱き心地がいいから、というのもあるがね」
「こ、この助平あやかしめ~っ!」
少しでも殊勝な気持ちになってしまって損をした。佐那は両手を振り上げると、幸庵をポカポカと叩いた。
ははは、と笑いながら幸庵は立ち上がる。
「さて、今日はお客相手の質屋は休みだが、質屋としては他の仕事もあってね。佐那も手伝ってみるかい?」
「うん! やる!」
これ以上、怒っていても幸庵には堪えないし、こちらが疲れるだけ。佐那は機嫌を直して頷いた。帳簿を付ける仕事は、そろそろ飽きがきていたところだ。新しい仕事を教えて貰えるのなら、その機会を逃したくはない。
「いい返事だね。私の準備が終わったら文福を寄越すから、しらばくここで待っていてくれないか」
幸庵が部屋の外へ出た後で、何やら他のあやかし達に指示をしている声が聞こえる。佐那はそれを聞きながら、はやる心を抑えて小袖の帯を締め直した。
(って、あれ? あたしって一体……)
外の声が遠ざかり、ふと我に返る。
幸庵の仕事を『勉強』しに来たはずなのに、いつの間にか己もその一員になりたいと思ってはいないだろうか。
(……あたしは義賊、あたしは義賊、あたしは義賊。ここのあやかしたちは高利貸し!)
部屋をぐるぐると歩きながら、念仏のように心の中で唱える。
まだ高利貸しの現場は見つけられていない。それさえ押さえることができれば、自分の気持ちも吹っ切れるはず。佐那は両手で頬を叩いて気合を入れたのだった。
◆
「おーい、佐那や。無理はしなくていいのだよ」
「大丈夫ー!」
埃っぽい屋敷の蔵の中。佐那は梯子から身を乗り出して右手を伸ばしていた。下では文福が梯子を支えてくれており、幸庵が心配そうに佐那を見守っている。
(あと少し……)
佐那の指がお目当ての箱に届いた。そろそろとずらしてから、箱の取っ手を掴む。見た目よりもあった重量にバランスを崩し、文福が悲鳴を上げるも、佐那は軽業師のように体勢を立て直して、足だけで梯子にぶら下がっていた。
「はい、幸庵。これだよね?」
焦った表情で両手を差し出していた幸庵へ、逆さ吊りのまま箱を渡す。
「佐那は私の心臓を止める気かい? 落ちてしまうかと思ったよ」
「あはは、あたしは義賊よ? このくらいは朝飯前なんだから」
梯子を掴んで、くるっと一回転しながら地面へと着地する。
質屋が休みの日は、蔵の点検をしているとのことで、その手伝いをしている。
お客から預かった質草は大切な預かり物。カビが生えたり埃が被ったりしないよう、定期的に掃除をしているのだ。左右を見渡せば、あやかし達が妖力ではたきを操って埃を払っている。力の扱いが未熟なあやかしは、雑巾や箒を持って人力(?)で掃除をしていた。
その中で佐那は、幸庵に渡された書き付けを元に、いくつかの品物を蔵から取り出していた。簪や根付けといった小物から、ちょっとした大きさの壺まで。玉石混合の質草を幸庵へ渡していく。
「これで最後かな?」
もう一度上った梯子をするすると降りてから、壺の入った箱を開けて見せる。
「ふむ……付喪神になる気配はないようだね。それも持って行ってしまおうか」
幸庵は大きな風呂敷を広げると、佐那の運んだ雑貨を丁寧に包んだ。壺は桐の箱に布でくるんで入れる。
「文福や、話は通してくれたかい?」
「はい! 目録は先に送っていたので、それほど時間はかからないかと」
文福が風呂敷包みを荷車に乗せる。そこには既に取り出した質草が所狭しと並んでいた。最後に桐の箱に入れた壺を置けば準備完了のようだった。
「佐那、ちょっとおいで」
幸庵に手招きをされて、何だろうと首を傾げながら幸庵の側へ行くと、頭の上に手を置かれた。不意にそこから流れ込んでくる妖力に驚いて逃げようとするも、「じっとしているんだよ」と肩を掴まれた。
「な、何を……んっ……」
目を閉じて身体が膨れ上がるような感覚に耐えていると、佐那の周囲に透明なシャボン玉のような膜が張られていた。
「屋敷の中ばかりでは佐那も息が詰まってしまうだろう? 今日は外へ連れ出してあげよう」
「でも、あたしの傷って、まだ治ってないんじゃ?」
「いま張ったのが私の結界だよ。一刻くらいは屋敷の中にいるのと同じ状態だ」
なるほど、と佐那は頷いた。膜に手で触れてみると、確かに外の世界と区切られているような力を感じる。
「今からどこかに行くの?」
歩き始めた幸庵の背中を追いながら佐那は訊ねた。
「質流れになったものや買い取ったものを、いつまでも蔵に置いておくわけにはいかないからね。懇意にしている古物商に引き取ってもらうのだよ」
そういえば、選んだのはそのような品物ばかりだった。
裏の木戸を開いて佐那達は屋敷の外へ出る。久しぶりの外の空気に、佐那は大きく両手を伸ばした。幸庵の屋敷が狭いわけではないが、それとは違った解放感がある。
(あ、いたいた)
佐那の視界の端に、一人の少年の姿が映った。髪型を変えて変装はしているが、間違いなく吉平だ。屋敷に異変がないか見張ってくれているのだろう。
(ごめんね、心配かけて)
幸庵と文福の一歩後ろを歩き、気付かれないよう紙片を落とす。
自分の身に危害は加えられていないということや、ここを離れるにはもう少し時間がかかりそうだ、といった近況を書いている。それを吉平が拾ったのを確認して、ほっと息を吐いていると幸庵から声が掛かった。
「君のお仲間は息災かい?」
(ば、バレてる!?)
危うく悲鳴を上げるところだったが、何とかそれを飲み込む。
「な、何のことぉ~?」
白々しく口笛を吹いた佐那を見て、幸庵が声を上げて笑った。
「ふふふ、佐那の気が済むまで私のことを調べるといいよ。私のことを知れば知るほど、最終的に君は、私の虜になっているのだから」
「木乃伊取りが木乃伊になる、なんてことはありませんよーだ」
ぺろっと舌を出して佐那は否定する。本当に自分のことをよく見ている。捕らえた盗賊であるから当然と言えば当然だが、手のひらの上で泳がされているだけではないかと、不安にもなってくる。
「あ、そろそろ着きますよ! 今井屋さんです!」
文福の指した先には、浅野屋ほどではないが大店があった。
今井屋は佐那も名前を聞いたことがある。ただし、義賊の対象としては認識していないので、真っ当な商売をしているということなのだろうか。
「――これはこれは、幸庵さん。お待ちしておりました」
出迎えてくれたのは六十歳を超えているだろうか。白髪で小柄。顔に多くの皺が刻まれたお爺さんだった。
(え、これって……)
佐那はお爺さんを見てしばし驚く。陰陽師の力を持つ佐那には直感で理解した。彼があやかしの化けた姿であることを。
「おお、この娘さんが、有名な新入りさんですな。儂のことは白夜(びゃくや)と呼んでくだされ」
「は、はあ……佐那です」
あやかしである幸庵が質屋を営んでいるのだ。他にあやかしで人間の世界に溶け込んでいる者がいてもおかしくはない。それでも、こんなに身近にいたとは驚きだ。
「緊張しなくてもよいのじゃよ。義賊の噂は儂も知っておるからのう。いつ娘さんに儂の店も忍び込まれるかと、夜も心配で眠れませなんだなあ。ふぉっふぉっふぉ」
「真っ当な商売をしているお店は、あたしの専門外ですから」
唇を尖らし、佐那は小さく肩をすくめた。その姿がツボに入ったのか、ますます白夜が愉快そうに笑う。文福まで笑いに参加してしまって、とうとう佐那は頬を膨らました。
「さて、時間も惜しいですからね」
幸庵が荷車から荷物を下ろしながら言った。
「先に商談といきましょう。文福、下ろすのを手伝っておくれ」
「わわ、すみません! 幸庵様、すぐに!」
佐那も二人を手伝い、荷物をせっせと白夜の前に並べた。
「ふむふむ。どれもよい品じゃな。付喪神になって足が生えたりもしなさそうじゃのう」
(確かに、妖力は感じない……)
佐那も身を乗り出して、陰陽師としての視点で品物を観察する。どれも年季が入って古い物だが、幸庵が高値で買い取った徳利のような妖力は感じない。白夜は次から次へと、手際よく品物を確認する。
「古ければみな付喪神になるわけではないからの。むしろ、こうして何十年経過しても、妖力を持たない物のほうが多い。その代わり、それらは骨董品として人間達の間ではよい価値になる」
「あー、なるほど」
その言葉に佐那は納得して頷いた。
いくら骨董的価値があったとしても、付喪神になってしまえば、人間からは恐れの対象でしかない。付喪神の全てが完全な人型を取るわけでもないし、手と足が生えて、どこかへ行ってしまっても困るだろう。付喪神が人間と共存の道を選びたくても、品物としての価値は無きに等しくなりそうだ。
「娘さんは鑑定をする間、ゆっくりしていきなさい」
座敷へ上げてもらい、佐那はありがたく腰を下ろした。蔵で大掃除の如く動き回ったのと、久しぶりに外を歩いたので、少々くたびれてしまった。
(なまっちゃってるなあ)
ふくらはぎを自分で揉んでいると、奥からカタカタとからくり人形が出てきた。手にはお茶と羊羹を乗せたお盆を持っている。
「わあ、可愛い……って、ひょえぇっ!」
頭をなでなですると、からくり人形が佐那へ笑いかけてきた。どうやら、これは付喪神になりかけらしい。
「あー、びっくりしたあ」
油断してたとはいえ心臓に悪い。あやかしが経営する古物商なのだから、これくらいは当然だろう。
「うふ。娘さんはあやかしを怖がらないのじゃのう」
「え、ま、まあ……これでも陰陽師の卵だったから。あああ、でも!」
幸庵は気にしていないようだが、白夜までどうかは分からない。佐那は慌てて付け足した。
「落ちこぼれだったから! あやかし退治とかしたことないから!」
「そうかのう。娘さんは、あやかし相手でも分け隔てなく接していたと聞いているがのう? 落ちこぼれとかは関係ないのではないか?」
「……ど、どこからそれを」
佐那の表情が暗く沈んだ。落ちこぼれと称された一番の理由。それは、陰陽師としての力を、あやかし相手に行使出来なかったからだ。佐那自身、忘れようとしていた過去を、どうしてこの白夜は知っているのだろうか。
「ふぉっふぉっふぉ。儂がまだ浅野屋の主をしていた頃かのう」
「え? 白夜さんは、浅野屋の主をしていたの?」
初めて聞く情報に、佐那は目を瞬かせた。
「うむり。もう四、五年くらい前のことじゃがの。幸庵が独り立ちしたのに合わせて、店を譲ったのじゃよ。それまで幸庵は、外で付喪神になりそうなあやかしを探し回っていたのじゃが、面白い娘さんがいると、それはそれは心配しておったのじゃよ。幸庵よ、間に合ってよかったの」
「え……あたしを心配? 間に合ってよかった? どういうこと?」
首を捻って戸惑っていると、幸庵が慌てたように割り込んで来た。
「昔話もよいが、そろそろ鑑定結果は出ているのではないかな? 私も忙しい身でねえ。早く戻らないと鈴姫に怒られてしまいそうだ。佐那も疲れただろう?」
問答無用の幸庵の声は、この話題はここでおしまいと言っている。
「そうじゃの。これはこれで、こっちは……このくらいでどうじゃろうか。娘さんもいるから、弾んでおいたぞ」
紙に書かれた金額を見て、幸庵は満足そうに頷いた。
「これだけあれば、佐那をもっと甘やかして、お給金も十分に出せそうだね」
「これ以上甘やかされたら溶けちゃいそうなんだけど……って、お給金!?」
「もちろんだとも。佐那はうちの店でよく働いてくれているからね」
驚いて声を裏返らせた佐那へ、銭を入れた巾着を幸庵が渡してくる。これはお前のだよ、と文福にも同じように渡す。
「あやかしも人間の世界で暮らすなら、人間の世界の銭がいるからね。わたしを頼ってきた者に貧乏な思いはさせたくない。だから、質屋で稼ぐところは稼いでいるし、お灸を据えたほうがいい客に対しては高い利息を取っているのだよ」
幸庵の話を聞きながら、佐那は『玉楼』での暮らしを思い出す。
吉原の中にありながら、春を売らないと強気の営業をしている『玉楼』だったが、それほど台所事情が豊かなわけではなかった。
ほとんどの妓楼では、華やかな生活を送れる女はごく一部のみ。それに対して『玉楼』では、ひもじく惨めな思いをする者がいないよう、下の者にもきちんとした給金を支払っていたからだ。義賊として盗んだ金は全て町にバラまいている。表向きは華やかでも、裏では赤字続きのことすらあった。そんな時佐那は、せめてもの助けにと自分の給金は受け取らずにいた。
(幸庵は食事をタダで食べさせてくれる。あたしだけいい生活をするわけにはいかない)
囚われの身とはいえ、不自由のない暮らしを提供してもらっている。そんな中で、これ以上を貰うのは罰が当たるというものだ。
「もしかして、『玉楼』へとか考えているのかい?」
図星を突かれ、佐那は反射的に巾着を胸に抱きかかえていた。
「あ、あたしがもらったものなら、あたしの好きにしていいでしょ!」
「いやはや。君の自己犠牲精神は度を逸しているねえ」
珍しく幸庵の声の調子が落ちた。
「ふうむ。それがそなたの悩みの種か。人の世は簡単にはいかぬものじゃのう」
白夜はどこか面白がるかのように佐那と幸庵を交互に見る。幸庵は渋い表情で、受け取った残り銭を数え終わると、壺を入れてきた桐の箱へと納めた。
「これは私の問題ですからねえ。私のほうで何とかしますよ」
「そうかそうか。朗報を待っておるぞ」
気まずい雰囲気のまま、佐那は幸庵の背中を追って店を出た。
帰り道は見事に会話がなかった。文福が気を使ってくれて会話をしようとするも空振りばかり。佐那も何と言えばいいかわからない。
(だって……!)
佐那は自分の考えが、幸庵の意図からは外れてしまったのだろうという気はしている。それでも、幸庵の屋敷に捕まってからの待遇は、罪人ではなく完全に客人……どころか新婚のそれである。心配してくれている仲間に対して、申し訳ないという罪悪感で一杯なのだ。
「――佐那や」
考え込んでいるうちに浅野屋に到着していたようだ。入る前にくるりと幸庵がこちらを向いた。
「私の想いがまだ届かない。これは私の不徳の致すところなのだろうね。これは君を責めても仕方がない。だけどね、その一方で君の自己犠牲精神には怒りすら覚えるのだよ。よって、今夜は罰を与えようと思う」
「罰……」
一体何をされるというのだろうか。佐那は警戒して、やや上目遣い。拷問くらいなら覚悟している。とうとう、罪人としての扱いをされるのだ。どんな酷いことをされたって、きっと耐えてみせる。
「まず、今夜は盛大な宴を開くことにしよう」
「……へっ……?」
予想外の展開に、間抜けな声が漏れた。幸庵は悪徳商人のような笑みを浮かべながら、その内容は全く違う事を嬉々として告げてきた。
「佐那の誕生日にはまだ少し早いが前祝いだ。美しい着物と素晴らしい贈り物を用意して、ぱーっと祝おうではないか。浅野屋をあげた大宴会だ。もちろん主役は佐那だよ」
「待って待って! どうしてそうなるの!?」
「簡単なことだよ」
ふふふ、と幸庵は相変わらず不気味な笑みを浮かべる。
「佐那に拷問など出来るわけがない。豪華な暮らしが君の気に病むというのなら、これを使わない手はない。私にとっては君を好きに甘やかせるし、君にとってはそれが拷問となる。こんな一石二鳥の手はないと思わないかい?」
「なるほど、たしかに……いやいやいや」
納得しかけ、佐那は勢いよく首を横に振った。正しいようで何かが間違っている。絶対に間違っている。
「抵抗する手段はただ一つ。私の宴を心から楽しんで、その身を私に預けて存分に甘やかされればいい。そうすれば、君に対する罰という私の目的は達成できなくなる」
思わずその場でコケそうになるような幸庵の論理。容赦なく佐那はツッコミを入れていた。
「待って! それ、幸庵しか得してなくない!?」
「ふふふ。本来、あやかしとはそういうものだよ。さあ、佐那。今夜は私を怒らせた罰を受け入れるといいよ」
「勝手に決めないでー!?」
店へと入った幸庵の後に続き、佐那はなおも抗議の声を上げようとしたが、それは別の者によって遮られることになった。
がらら――がっしゃーん!
不意に頭上から聞こえたけたたましい音。気が付けば佐那は、降って来た鉄の檻の中に閉じ込められていた。その目の前には、肩を怒らせた鈴姫の姿。
「やっと捕まえましたわ、泥棒娘!」
「……これは、一体どういうことだい、鈴姫?」
幸庵の厳しい視線が、店の玄関の上で腕を組んで仁王立ちの鈴姫へと向けられる。突然の出来事に佐那は目をぱちくりとするしかない。鈴姫はびしっと佐那へ指を突き付けた。
「屋敷から徳利が無くなりましたの。この泥棒娘の仕業に他なりませんわ!」
どうやら泥棒に入られたらしい。
あやかし達のざわめきが、佐那の心に突き刺さったのだった。
◆
――要するに、話はこうだった。
鈴姫は蔵の管理を一手に引き受けているあやかしだ。質草を整理し、お客が引き取りに来た時には、利康と協力してすぐに出せる状態にしておく。
質屋が休みの日は、蔵の掃除だけでなく棚卸も同時に行っていた。鈴姫は利康と協力して蔵の総点検を行い、帳簿と内容が合致することにほっと一安心していたらしい。
だが、事件は幸庵達が白夜の元に出かけた後に起きた。
いつもは台所に置いていた徳利が、いつの間にか無くなっていたというのだ。幸庵や佐那が夕餉で使っている、あの徳利だ。
「――その娘が盗んだ違いありませんわ!」
決めつけるような鈴姫に、佐那はむっと唇を曲げた。幸庵のおかげで檻からは出されたものの、鈴姫の逃がしては困るという強い意見で、後ろ手に鈴姫特性の手錠を掛けられていた。
「隠せるような大きさの徳利じゃないし。どうやって持って出たっていうのよ!」
「陰陽師の術でも使って、幸庵様を騙したに違いありませんわ!」
「無理よ無理! そんな都合のいい術はないし!」
鈴姫の主張に、佐那は激しく反論する。
佐那が得意としているのは錠前破りと、もう一つはここでは使っていないが、とてもあやかし討伐には向いていない術だ。戦闘では鼠の式神程度しか使えないし、そんな目くらましの術が使えるならば、落ちこぼれなんて呼ばれなかった。
「ふうむ、鈴姫や」
腕を組んで話を聞いていた幸庵が問いかける。
「私たちが出るまでは、台所にあったのは間違いないのだね?」
「利康も見ていましたから間違いありませんわ!」
話を振られた利康は、どちらかというと鈴姫の剣幕に弱り顔。
「じゃがのう……嬢ちゃんを台所では見なかったからの。それで疑うというのは難しかろうて。幸庵様も嬢ちゃんの側にいたことだしのう」
「で、でも! 仲間が忍び込んで……!」
どうやら鈴姫は、どうしても佐那を犯人に仕立て上げたいらしい。義賊とそこら辺のコソ泥を一緒にしてもらっては困る。いい加減腹が立ってきた佐那は、ぼそりと呟いた。
「鈴姫こそ、何かの手違いで割っちゃったとかじゃないの? それをあたしのせいにしようとして……アイタタタッ!」
ぎりぎり、と鈴姫が操るあやかしの手錠が手首に食い込んで、佐那は悲鳴を上げた。苦しむ彼女の前で、鈴姫が腰に両手を当てて見下ろしてた。
「幸庵様に忠誠を捧げているわたくしに何ということを。その両手、使い物にならなくして差し上げますわ!」
「やめなさい、鈴姫。佐那も今の発言はいけないね。二人とも、謝りなさい」
折られるかと思ったところで、幸庵の手が手錠に触れると、一瞬にして痛みが引いていった。
「誰がこんな泥棒娘に謝るものですか!」
屋敷が揺れんばかりに、鈴姫は強く足を踏み鳴らして不満を露にする。
佐那はすっと剃刀のように目を細めて、鈴姫をねめつけた。やってもいないことを認めるわけにはいかない。
一歩も引かない様子の二人を見て、諦めたように幸庵はため息を吐いた。
「この件は、一旦私が預かることとしよう。幸いにも骨董品としてそれほど価値のある徳利ではなかったしね」
「そんな! これはわたくしの問題。わたくしの不始末は、わたくしが解決すべきですわ! こんな泥棒娘など、締め上げれば一発で……」
悲鳴のような声を上げて鈴姫が幸庵にすがりつく。そんな彼女を落ち着けようと幸庵は軽く背中を叩いた。
「冷静になりなさい、鈴姫。佐那はそんな甘い娘ではないよ。己の仕事に責任と誇りを持っているからね。それを守るためなら、進んで命を投げ出す覚悟のある娘だ」
幸庵は、言外に佐那に何かしたら許さないと告げている。それに気付いたのだろう。悔しそうに鈴姫は更に地団太を踏んだ。
「覚えてなさいまし。いつか絶対に正体を暴いて差し上げますわ!」
どしどし、と足音高く、鈴姫が奥の部屋へと下がっていく。
「あ、これ、佐那の手錠を……いやはや」
幸庵が背後で妖力を籠めると、パキンという音と共に佐那の両手が自由になった。
「なに、あのあやかし!」
佐那は痛む手をさすりながら毒づいた。
「敵対心を向けられるのは仕方がないね。佐那は初日に鈴姫の誇りを傷つけてしまったのだから」
「屋敷の警備担当だから……?」
「それだけではないよ。気付いていないのかい? 蔵の鍵は全て鈴姫が作ってくれているのだよ。高安の時はわざと簡単なものにしていたが、君は鈴姫自慢の錠前を破ってしまったからねえ」
「ああ……」
鈴姫の耳に下がる和錠の耳飾りを思い出す。彼女は鍵の付喪神なのだろう。それを、ただの人間である佐那に破られたとなれば、それは怒りたくもなるだろう。幸庵からの信頼も損ねてしまったと考えるに違いない。
尤も、それで「はい、そうですか」と佐那も納得は出来ない。誰に何と責められようが、自分はやっていない。
「ねえ、幸庵」
不意に心配になって佐那は訊いた。
「もしかして、あたしのこと疑ってる?」
「安心しなさい。私は佐那の味方だよ」
不安で見上げると、幸庵の右手が佐那の頭に伸びた。首をすくめたところに、よしよし、と大きな手が優しく彼女の頭を撫でた。
「そもそも、君には動機がない。あの徳利を盗んだところで、何もならないしね。それに、何かあれば真っ先に君が疑われるような状況で、騒ぎを起こすようなことはしないだろう? 周りは敵だらけ。下手をすればあっという間に三途の川を渡ってしまうよ」
論理的に筋道を立てて説明されて、佐那はほっと安堵の息をついた。
(あれ、あたし……幸庵に信じてもらえて、ほっとしてる?)
幸庵だけには疑われたくないと思っていた。彼に疑われていたら、精神的に崩れていたかもしれない。それを自覚して、自分の気持ちに戸惑ってしまう。
いつの間にか幸庵の小袖の袖を強く握りしめていた。慌ててその手を離し、一歩距離を取る。興味深そうな幸庵の視線から逃げるように顔を背けた。なぜか頬が熱い。
「ほう。これはよい傾向だね」
何がよい傾向なのだ。そんな目で見ないでほしい。心の中で憤慨していると、幸庵の表情が引き締まった。
「どちらにしても、早くこの事件は解決しないといけないね。私が何とかするから、佐那は気にする必要はないよ」
その口調で、どうやら幸庵にも心当たりはないようだと知る。再び不安な思いに包まれ、佐那は少しだけ視線を落としたのだった。
◆
「う~ん……ないなあ」
蔵の中で埃だらけになりながら、佐那は探し物をしていた。もちろん、どこかへ消えてしまった徳利だ。
幸庵にはいい顔をされなかったものの、疑われているのは自分である。そのまま何もしないのは性に合わない。
屋敷のあやかしが、知らずにどこかの蔵へ収納してしまったのではないか。佐那はそのように考えた。屋敷の敷地には大きな蔵が幾つもある。一度紛れてしまえば、紛失したと思われても仕方がないだろう。
「ふふん。あるわけがありませんわ!」
背後でその行動を見張っているのは鈴姫だ。
疑っている佐那を一人で蔵に入れるわけにはいかないと、ずっとついて回っている。鬱陶しいことこの上ない。幸庵からきつく言われているのか、佐那へ危害を与えるような素振りがないのが救いだ。
佐那は蔵から出ると、うんしょ、と梯子を肩に担いだ。腕を組んでいる鈴姫の横を無言で通り過ぎ、次の蔵へと向かう。
「あ、待つのですわ! 何か言い返しなさい。ああ、もう、張り合いのない!」
背後からギャーギャー声が追いかけてくるが、佐那はきっぱりと無視をした。頭から疑ってくる者を相手にするだけ時間の無駄だし疲れてしまう。次の蔵の前に到着して、一言だけ発する。
「開けて」
「キーッ! 何ですの、その偉そうな物言いは! そこに這いつくばって頼み込むのが筋ではなくって!?」
(あー、あー、もー、めんどくさーい)
心の中でぼやきながら、佐那はその場に膝を落とした。地面に両手を突いて躊躇いもなく土下座した。微妙に棒読み口調でお願いする。
「鈴姫様。どうかそのとても立派な錠前を開けて、蔵へ入らせてください。お願いいたしますー」
「り、立派な錠前……そ、そう? そこまで仰るのなら仕方がないですわ」
騒いでいた鈴姫が、立派な錠前、という単語に反応する。なぜか心持ち頬を赤らめて、そそくさと袂から鍵を取り出した。
(ほえ……実は扱いやすい性格だったり?)
予想外の展開。口元が緩んでしまいそうなのを必死に耐えた。
頭を踏まれて地面に顔を押し付けられるくらいは覚悟していた。それなのに、佐那のお世辞を真に受けて、簡単に舞い上がってしまった。
鈴姫は錠前だと閂を外してくれただけでなく、重い扉を開くのまで協力してくれる。
「……あれ?」
開けてもらった蔵に入るなり、呆然と立ち尽くす。その隣で鈴姫も同じような表情をしていた。
「そんな……昨日は間違いなく確認しましたわ」
鈴姫の視線の先には、探している徳利が蔵のど真ん中に鎮座していた。灰色で素朴な見た目は間違いない。
(鈴姫のこの反応は嘘じゃない。だったら、どうして?)
こんなにわかりやすい場所を見落とすわけがない。鈴姫の確認が終わった後に運び込まれた、と思うのが自然だろう。誰が、何の目的で。
「お前……」
ぞうっとするような声が隣から聞こえて、佐那はギクリと振り返った。そこには暗い光を瞳に宿した鈴姫の姿。
「わたくしを貶めるために、このようなことをしましたのね?」
「ち、違う……!」
まるで殺さんばかりの形相に、本能的に危険を察知して後ずさる。これは完全に誤解をされてしまった。
「鈴姫も見てたよね? あたしじゃないから!」
「嘘ですわ。陰陽師の術でわたくしを嵌めたのでしょう。幸庵様のさらなる恩寵を得るために。いいえ、言い訳など聞きません。絶対に許しませんわよ」
「待って待って! 鈴姫、あなたもずっと隣にいたでしょ!」
鈴姫の耳飾りが外れて宙に浮かぶと、あっという間に和錠のついた縄へと変化。佐那は逃げる暇もなく、鈴姫の妖力でがんじがらめにされていた。
「く、苦しいっ……! やめて、鈴姫っ……ぐぅっ!」
ぎりぎりと強烈な力で全身を締め付けられ、佐那はたまらず倒れ込んだ。
鈴姫は怒りで我を忘れてしまったようで、残虐な笑みを浮かべて佐那を見下ろしている。身代わり人形がどこまで傷を引き受けてくれるかは分からないが、このままバラバラにされてしまったら、さすがに死んでしまうのではないだろうか。
「い、いやっ……幸庵、助けて……むぐっ!」
口が鍵でも掛けられたかのように勝手に閉じられた。助けを呼べない。息すらできない。このままでは死んでしまう。それでも、何とか鈴姫の妖力から抜けようともがいていると、不意に何かが動いた気配がした。
(え……)
痛みも一瞬忘れて、佐那は驚きで目を見張る。倒れた視線の先は蔵の天上。そこに徳利が大きな口を開いて浮いているではないか。
「こ、これは……?」
鈴姫もその気配に気付いたようで、頭上を仰ぎ見てポカンと口を開ける。
いつしか徳利は人のサイズよりも巨大化していた。こちらへ向けられる口は真っ暗で、全てを吸い込んでしまいそう。
(付喪神になっていたんだ!)
佐那がその事実に気付くも既に遅かった。ひょおおおお、という音ともに周囲の土埃が吸い込まれていく。吸引する徳利の意識が佐那と鈴姫に向いたと思うと、二人の身体は宙に浮いていた。
「ひああああっ!?」
予想外の展開に鈴姫は手足をバタバタさせるが、宙に浮いてしまった身体はどうにもならない。情けない悲鳴が蔵に響いた。
「あ~れ~、そんな馬鹿なぁ~~~!」
(それはこっちの台詞~っ!)
鈴姫の術で自由を奪われている佐那も無力だ。二人は仲良く、付喪神となった徳利へ吸い込まれていったのだった。
☆
今日も今日とて、佐那は蔵に閉じ込められていた。少しだけ成長して十歳ほどの姿になっている。
相変わらずあやかしを討伐することは出来ず、陰陽師としての才能を両親に示せていない。どんなに折檻されても、蔵に閉じ込められたとしても、何も悪さをしていないあやかしを討伐するなんて無理だ。
それに、この年になった佐那には、現状を悲観せずともよい術が身についていた。
「そろそろ頃合いかな?」
虫籠窓から入る光が、十分に暗くなったのを確かめてから行動を開始。佐那は蔵の扉の前に立つと、袖から一枚のお札を取り出した。
「今日もお願い!」
力を籠めるとお札は鼠へと変化し、扉の間をするりとすり抜けて蔵の外へ。しばらくガチャガチャという音が聞こえていたが、少しすると重い蔵の扉が微かに開いた。その隙間から鼠が戻って来て、佐那の胸元へと収まる。
「ふふ、ありがとね」
鼠の頭を指で撫でてから、佐那は音を立てないように扉を開けて外へ出た。
(今日は来ないのかな)
佐那の脳裏に浮かぶは、この術を教えてくれた黄金色の狐。
去年の冬、蔵の中で飢えと寒さで死ぬ寸前だった彼女を助けてくれた。それだけではなく、錠前を中から開ける術も教えてくれたのだ。この術のおかげで、蔵に閉じ込められてもこっそり抜け出してから、屋敷で食事の残りを頂くことができていた。
黄金色の狐がどうして助けてくれたのかはわからない。もしかすると、日ごろの訓練を何処かから見ていて、佐那があやかしに好意を抱いているのを知っていたのかもしれない。その狐は、捕らえられて屋敷に運ばれてくるあやかしを逃がそうとしていたのだから。佐那は助けられたお礼にと、狐が来るたびにあやかしが捕まっている場所を教えた。
両親はいつも首を傾げていた。厳重に管理していたはずなのに、いつもあやかしに逃げられていたのだから。
佐那は己のやっていることを理解している。これが見つかれば、折檻どころではない。我が子であろうと容赦なく斬り捨てられるだろう。それでも、罪のないあやかしを討伐するのは反対だったし、何より佐那を大切にしてくれる唯一の存在――黄金色の狐に対して恩を返したかった。
(今日も捕まってたあやかしがいたよね)
中庭へと移動して、屋敷の気配を確かめる。今日はまだ時間が早かったのか、障子越しに蝋燭の灯りが見えた。これでは台所へ残り物を失敬しに行くわけにはいかない。
――ピィィィ!
少し待とうと庭の植木の影にしゃがみ込んだ瞬間、聞こえてきたけたたましい笛の音に、佐那はぎょっと飛び上がった。
(な、なに!?)
蔵を抜け出しているのがバレてしまったのだろうか。
心臓がバクバクと鳴り、胸元をきゅっと掴む。あちこちの障子が開き、方々から「見つけたぞ、井戸の方だ!」などと声が聞こえた。
(どうしよう……)
屋敷の者に見つからないように、中庭から蔵へ下がりながら考える。
この様子では、台所に忍び込むのは諦めた方がよいかもしれない。何があったかは気になるが、下手に動くと墓穴を掘ってしまいそうだ。
素直に蔵へ戻ってしまうべき。そう考えて退却しようとしていると、蔵へ戻る小道に何かが飛び出してきた。
「わっ! ……って、どうしたの!?」
ばったりと倒れるように出てきたのは、待ち焦がれていた黄金色の狐だった。何とか立ち上がろうとするも、足元が定まらない様子。
「ひ、酷い傷……」
血だらけの姿に慄くも、佐那の決断は早かった。己が血にまみれるのも厭わず、狐を下から支えるようにして歩く手助けをする。地面へと落ちる血は、佐那の胸元から降りた鼠が消していく。
「蔵へ!」
十歳の童女には重たい狐の身体。よたよたしながらも、何とか蔵に到着すると、がらくたが転がっている奥の方に狐を寝かせた。その後すぐに、蔵の扉を渾身の力で引いて閉めた。外に置いた鼠に呼び掛ける。
「お願い、閉めて!」
チュウ、という返事を聞く間も惜しくて、佐那は狐の元へと戻った。力なくぐったりと倒れた狐は、口から荒い息を吐いている。捕まったあやかしを助けようとして、今日は屋敷の者に見つかってしまったのだろうか。
今こそもらった恩を返すべき時だ。佐那の唇がきゅっと引き結ばれた。
「待っててね。あたし、本当はこれが一番得意なの」
ぼう、と佐那の手の平に現れたのは癒しの光。春の陽光のように暖かく、吹き出す生命の力強い息吹。それを息も絶え絶えの狐へと流し込んでいく。
「お願いだから、死なないで!」
佐那の額に汗の玉が浮き、すぐに息が上がった。
得意といっても、陰陽師としてはまだ半人前ですらない。一歩間違えれば術が暴走して己の生命力を使い果たし、妖狐も救えなくなってしまう。
佐那は額を流れる汗を袖で拭ってから、もう一度精神を集中する。
――助ける。絶対に!
何度も何度も、そう自分に言い聞かせながら。
◆
「あううぅ~……幸庵様ぁ」
情けない寝言のような声で佐那は目を覚ました。
「お、重い……って、声が出せる?」
自分の喉に手を当てる。縛められていた手足も自由になっていた。それなのに、潰されたように重い理由は簡単だった。
「ちょっと、鈴姫! 起きて! 重いんだって!」
元が和錠のあやかし。鉄の塊で作られていたのだろうか。背格好は佐那より少し高い程度なのに、幸庵よりも重く感じてしまう。佐那は苦労してその下から脱出した。
「いやですぅ、幸庵様、見捨てないでくださいましぃ」
「だからあ、目を覚ましてってば!」
鈴姫の手が佐那の腰へと伸びてくる。再び押し倒されてはかなわない。佐那は実力行使とばかりに、眠っている鈴姫の頬をつまむと、ぶに~んと横へ広げた。
「はっ……わひゃひはひったひ……」
ぱちくり、と目を覚ました鈴姫は何度か瞬きをする。佐那は頬から手を離すと周囲を見回した。
「二人とも徳利の中に吸い込まれちゃったみたい」
「のええええっ!?」
半身を起こしていた鈴姫は、そのまま腰砕けになったようにへたり込んだ。
二人の周囲は薄暗い空間が広がっていた。微かにきらきらとした反射があるおかげで、お互いの姿が確認できる程度には光源がある。だが、上も見えなければ、行きつく先のような壁も見えない。
「犯人は付喪神だったのねえ」
誰かに盗まれたわけでも、鈴姫が誤って記憶していたわけでもなかった。徳利自身の力で移動していただけなのだ。あの徳利は、この店に引き取った時から強い妖力を持っていた。おまけに毎晩、幸庵のような妖力の強いあやかしに使われていたのだから、早いうちに付喪神へ変化してもおかしくはない。
「はううぅ……そうだったの。これでは、幸庵様に捨てられてしまいますわ……」
地面に顔を伏せ、おいおいと泣き始める鈴姫。その姿は世も末といった感じで、身に纏う妖力が外へ流れ出してしまっている。このままでは、あやかしの力を失くしてただの錠前に戻ってしまいそうだ。
佐那は慌てて側にかがみ込むと、鈴姫の背中――妖力が流れ出している場所に手を当てた。
「そんなに落ち込まないでよ! ちょっと失敗しただけじゃない。幸庵は優しいから、このくらいのことじゃきっと怒らないって!」
「お前に何がわかるというのですの」
着物の袖に顔を埋めたまま鈴姫はすすり泣いた。
「何度も盗賊に破られ、見た目だけと称されたわたくしが、なぜか付喪神になってしまいました。それを幸庵様に拾っていただき、あまつさえ大事な蔵の管理もまかされたのですわ。それなのに、ここでもお前に錠前を破られ、挙句の果てに勘違いで付喪神に吸い込まれてしまった。これが役立たずと言わずして、何と言うのでしょう」
「鈴姫……」
あやかしを狩れない陰陽師。鍵の用を成さない錠前。
佐那にもその気持ちは理解できる。最も肝心なところで役に立たない。期待をされている場所で無能を晒してしまう。それが認めて欲しい人の前であれば、余計に堪えることだろう。
「ごめんなさい。あたし、鈴姫のこと勘違いしてた」
流れていく妖力を何とか繋ぎ止めながら、鈴姫の頭を自分の胸元に引き寄せる。
「あたしはね、陰陽師の家の娘だったの。だけど、どうしてもあやかしを狩ることが出来なくて、ずーっと落ちこぼれだって認めてもらえなかった。陰陽師の卵なのに、あやかしのことが好きだったの。だから、鈴姫の気持ちもわかる。一番望まれていることで役に立てないのは辛いよね」
「ええい、うるさいですわ!」
鈴姫は顔を上げると、佐那の手を振り払った。今にも壊れそうな危うい気配を纏ったまま、佐那から距離を取ろうとする。
「泥棒娘などの同情は受けませんわ! わたくしは……あうっ!」
立ち上がりかけた鈴姫は、悲鳴を上げるとその場に崩れ落ちてしまった。右足を押さえて痛そうに顔を歪めている。
「うっわ、酷い傷」
鈴姫の元にしゃがみ込んで佐那は顔をしかめた。落下した時に痛めたのか、それとも徳利の妖力にやられたのか、足首が真っ黒に黒ずんでいる。
「少しじっとしててね。すぐに治してあげるから」
佐那が精神を集中すると、その右手に淡い光が灯る。何を勘違いしたのか、鈴姫の顔が恐怖に引き攣った。
「お、陰陽師……わたくしを滅そうというの!?」
相変わらず鈴姫の妖力は流れ出している。これ以上は本当に錠前に戻ってしまう。四つん這いになって逃げようとする鈴姫の足首を掴むと、強引に己の力を流し込んだ。
「いいから、黙って受け入れる!」
「ひいぃぃ、滅されてしまいますうぅ……って、これは?」
断末魔の悲鳴……とはならなかった鈴姫は、呆気に取られた様子で佐那の手元を見詰める。あやかしを滅するための力ではなく、癒すための力だと理解したのだろう。信じられないといった表情へと変わっていく。
「……こんなわたくしに、優しくしてくれるというの……? あなたにとって、わたくしは敵ではないのかしら……?」
「そりゃあ、無駄に苛められてるって感じてたけど、今の話を聞いたら助けないわけにはいかないじゃない。それに、あたしにとって、あやかしは敵じゃないから」
足首の治療が進むにつれ、鈴姫の顔が今度は別の意味で歪んだ。滝の如き涙がその頬に流れ始めた。
「ああ、佐那さん! わたくしも間違っておりましたわ。幸庵様の恩寵を受ける姿を見て、嫉妬をしておりましたの。このような優しいお方は、幸庵様に認められて当たり前ですわ。どうか、わたくしのことを許してくださいませ!」
「げふうっ……だーかーら、重いってばああ!」
縋り付かれた佐那は再び押し倒された。その重量に辟易しながらも、やはり鈴姫は操縦しやすい性格だと再認識する。鈴姫に告げた内容は本心であることは間違いないのだが、これほど簡単に和解できるとは思っていなかった。
「さて、原因もわかったことだし、あとはここをどうやって脱出するかなんだけど」
鈴姫が落ち着いた頃合いを見計らって、佐那は立ち上がった。鈴姫の身体から流れ出す妖力も止まっていて安心する。
「あやかしのことはよく分からないんだけど、こういう場合って頼んだら出してもらえるものなの?」
「どうなのかしら……この徳利は付喪神になったばかりで、力の制御が上手くいっていないように見えましたわ。明確な意識もまだ形成されていないようでしたし……」
「それって、待ってても出してもらえないってこと?」
嫌な予感が佐那を襲う。だが、鈴姫は余裕の表情だった。
「安心くださいませ。ここまで来れば、遅くとも数か月後には、ちゃんと付喪神としての意識も形成されるはず。そこで頼めばきっと出してもらえると思いますわ!」
「……数か月って。あたし、出る頃には骸骨になってそう……」
出口を探して歩きながら、くらりと眩暈を感じてしまう。あやかしである鈴姫は平気なのかもしれないが、人間である佐那は飲まず食わずで、数か月もは生きられない。
「そ、それは大変ですわ! あ、こちらに何かありますわよ」
「え? 何も見えないんだけど」
「妖力が集まっている場所がありますわ」
小走りになって鈴姫が先導する。しばらくその背中を追っていると、佐那にも妖力を感じられるようになった。
「ほら、やはり。これでお水は確保できましてよ!」
徳利の壁なのだろうか。崖のようになった上の方から、ちょろちょろと透明な液体が流れ落ち、泉のようなものが形成されていた。
「うーん。お水だけで数か月はやっぱりむ……ぶへっ!」
佐那は両手にすくって一口飲みかけ――反射的に吐き出していた。
「こ、これお酒なんだけど!」
どれどれ、と鈴姫も同じように口に含み、「あら、美味しいですわ」と感心していたりする。
「そっかぁ、徳利のあやかしだからなー」
いつもお酒を入れられていた徳利だ。付喪神と化してお酒を生み出すとなれば、それは納得もできるというもの。
「さ、佐那さん! 人間はお酒では生きられないのですの!? ほら、お酒ばかり飲んで恰幅のいい人間もいるではないですか!」
「あはは。あれはお酒もだけど、肴も一緒にたくさん食べるからだね。お水みたいにお酒を飲んでたら、別の病で死んじゃうよ」
「そ、そんなぁ……」
心底落胆した様子で、がっくりと鈴姫の肩が落ちた。
「せっかく仲が良くなれたと思いましたのに、こんなにすぐお別れとか嫌ですわ……」
「ちょっとちょっと、さっさと殺さないで欲しいんだけど! あたしはまだ諦めてないし!」
鈴姫がこのお酒の泉を教えてくれたことで、佐那には希望が湧いていた。あやかしといえど、無から有を作り出すことは出来ない。全ては妖力が必要だし、この泉にも妖力を感じる。この先を辿れば、外部への脱出経路を見つけられるかもしれない。
「この流れてるお酒、どこからなんだろうね」
佐那の問いかけに鈴姫が視線を上げた。お酒の流れている先は見えないが、きっと脱出に繋がる鍵があるはず。
「これをたどれば、どこか外部へ繋がっているかもしれませんわ。でも、どうやって?」
「それをこれから考えるの。式神の一つでもあればなー」
まさかこんなことになるとは想像もしておらず、陰陽師が扱う小道具は手持ちにない。
「これは使えませんですこと?」
鈴姫が耳飾りを外して妖力を籠めると、それは形を崩して何間もの長さのある細長い紐へと変じた。徳利の外で佐那を縛ったものと同じだ。
「縄だけじゃな~……」
佐那は鈴姫の反対側の耳に注目した。
「その耳飾りも使えないかな?」
「ええ? これでは長さが足りないと?」
「ううん。引っ掛ける先がないと縄だけあっても登れないでしょう?」
「なるほど! さすが佐那さん。これぞ盗賊の知恵というものなのかしら」
今までの蔑むような視線はどこへやら。感嘆したような視線が向けられる。清々しいくらいの手の平返しだ。
(どっちの意味でも、真っ直ぐな性格なんだろうなあ)
佐那は苦笑しながらも、空中に指で熊手のような形を描いた。
「小さくていいんだけど、こんな形って作れないかな? 縄も一直線じゃなくて、結び目を一定間隔に」
「ふむふむ。わたくしの手に掛かればお安いごようですわ!」
錠前のあやかしの範疇外かと心配したが、すぐに鈴姫は熊手のような形に髪飾りを変えた。縄の方も注文通りに結び目が作られる。佐那は柄の部分を縄できつく縛ると、思いっきり上空へと投げた。だが、縄が半分もいかないうちに落下してくる。
「むー……けっこう高い」
「わたくしにお任せくださいな」
鈴姫はぐるぐると頭の上で熊手を回し、「そぉれ」という掛け声とともに頭上へ投げる。しばらくして「かつん」という音がした。
「ちゃんと天井があるみたいですわ」
ぐっ、と鈴姫が力を籠めると、縄がピンと張った。
「すっごおい!」
「こ、このくらい、わたくし程度のあやかしならば当然のことですわ」
照れたように頬を染める鈴姫。佐那も自分は単純だと思っているが、鈴姫はそれに輪をかけて単純なようだ。もしかして、この素直な部分が、鍵のあやかしとしてマイナスに働いていたのでは……そんなことも考えてしまう。
「出口があるか分からないけど、とりあえず登ってみよ!」
佐那は縄へ飛びつくと、縄の結び目を使いながら、身軽に上へ上へと手足を動かした。義賊の仕事で、このような縄を登るのは慣れている。
「さ、佐那さん。待ってくださいぃ」
しばらく登っていると、遙か下から声が聞こえてくる。気が付けば鈴姫を大きく引き離してしまっていた。
「ごめんごめん。ゆっくりでいいから、落ちないようにねー!」
縄の結び目に足の指をひっかけ、楽な体勢を取る。目の前の壁には、ちょろちょろと相変わらず流れ落ちているお酒。
(ん~……あれ?)
佐那は目を細めてもう一度見返す。なんだか水量が多くなっている気がする。
(気のせいかな……?)
考え込んでいると鈴姫が追いついてきた。ぜーはー、と息を荒げている。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫ですわ。あやかしが体力で人間に負けるなどありませんわ!」
まったく大丈夫そうには見えないが、ここは頑張ってもらうしかない。佐那は少しだけ休憩してから、ゆっくりと上を目指した。
「――あー、上は行き止まり……」
やがて、熊手が引か掛かった場所へとたどり着く。少し出っ張りがあるも、出口らしきものは見つからない。
「えええ、ここまで来ましたのに……」
「あ、でも、何かあるよ!」
佐那は出っ張りに足をかけて身体を引き上げると鈴姫を呼んだ。がっくりとうな垂れていた鈴姫だが、佐那の真似をして同じ位置に上がる。
「これは……妖力の源ですわね」
川の源泉のように、お酒が流れ出している裂け目があった。人間一人がかろうじて通れるかといった狭い空間。この奥に外への手がかりがあるかもしれない。
「あたし見てくるね! 鈴姫はそこで休憩してて」
鈴姫の心配そうな視線を背中に、佐那は身軽に裂け目へ指をかけた。狭い空間に、自分の身をねじ込むようにして進んでいく。
(外に繋がってたらいいんだけど……って、んん?)
ごごごごご。
突如として聞こえてきた地鳴りに、佐那は耳をすませた。嫌な予感がする……と思う間もなく、目の前から大量の水――もとい、お酒が佐那を押し流さんと襲い掛かった。
「わぷっ! きゃああああっ!」
逃げ場もなくもろに浴びた佐那は、手足が滑り裂け目の外へと放り出される。
「佐那さんっ!」
鈴姫の悲鳴が聞こえ、伸びてきた縄が佐那の身体をしっかりと絡み取った。そのまま鈴姫の位置まで引き上げられる。
「あー、びっくりした! ありがと!」
「わたくしも驚きましたわ……」
熊手から伸びる紐の位置まで降りて、二人は呆然と裂け目を見上げた。どばどばと勢いよく吹き出す大量のお酒。裂け目は次第に大きくなっていき、とうとう滝のような酒が二人にも降りかかった。
「うわっぷ……これ、どういうことっ!」
「わかりませんわ! もしかしたら、付喪神が暴走してしまったのかもしれませんわ」
「暴走!?」
「珍しい話ではありませんわ。付喪神になりかけの時が一番不安定な瞬間。もし成り損ねてしまった場合は、せっかく集まった力が崩壊してしまいますの」
崩壊……と聞いて、佐那の顔が青ざめる。
「……あたしたち、どうなっちゃうの?」
「永久にこの空間に閉じ込められるしかありませんわ……」
佐那が視線を落とすと、空間内に溜まった大量の酒が、みるみる水位を上げて迫ってきていた。
「その前に水死してしまいそうね……」
いや、酒死とでもいうのだろうか。それを見た鈴姫が、がしっ、とばかりに抱き付いて来た。
「佐那さん、わたくしのせいですわ。せめて寂しくないよう、一人で逝かせはしませんわ!」
「だからあ、さっきから諦めるのが早い!」
ジタバタと暴れているうちにも水位は上がり、二人の身体は酒の中に浮いてしまう。天井が迫り、このままでは幾らもしないうちに溺れてしまうだろう。
「幸庵様たちが気付いて、暴走を収めることができればいいのですけど……」
「暴走、暴走……か」
絶望したように呟く鈴姫の言葉に、佐那はピンと脳裏に閃いたものがあった。
「あたし、やってみる。暴走を収められるかもしれない」
「ええ!? そのようなことできますの?」
「わかんない!」
佐那は正直に事実を言った。半信半疑の鈴姫にしっかりと告げる。
「だけど、何もしないまま死ぬのなんて嫌! 鈴姫とだってせっかく和解できたのに。出来るだけのことはやってみるから、鈴姫はあたしが溺れないように支えていて」
佐那の決意に鈴姫も心を動かされたのだろう。佐那の腰に手を回し、抱きかかえるようにして泳ぐ。
(お願い……今こそ役に立って、あたしの力!)
精神を集中する佐那の全身が、ぼうっと光を帯びた。空間を満たしていく春の陽光のような暖かい力に、鈴姫の目が見開かれる。
あやかしを倒すのは得意でなくても、癒すのは昔から得意だった。家族には見せるわけにはいかなかった能力。ここで役立てなければ、どこで役立てればいいのだろうか。
(まだ強く……まだ強く……!)
力を放出しているうちにも水位は上がり、完全に徳利の中の空間を満たしてしまった。ぶくぶく……と息を止めて耐えるも、すぐに続かなくなる。
(もう……だめ……)
耐えきれなくなったその時、不意に呼吸が出来るようになった。鈴姫が空間に鍵をかけて、酒の中に一人分の水泡を作ってくれたのだ。酒の中で微笑んだ鈴姫が、ごぽりと大きな泡を吐き出し、白目を剥いて佐那の腕の中で力を失くす。
(鈴姫っ!)
佐那を信じてくれて、最後の力を託してくれた。
(ありがとう……絶対に、絶対に助ける!)
陰陽師としての力を絞り出すようにして集中すると、佐那の全身がさらに強く光り輝いた。鈴姫の身体を足にしっかりと絡め、壁の出っ張りを使いながら、酒の出る裂け目へと向かうと、彼女を迎え入れるように開いてくれた。それに力を得て前へ前へと進む。
(あとちょっと……あと少し前に……!)
鈴姫の作ってくれた泡もなくなり、佐那は息を止めて手足を動かす。今度こそ息が続かなくなったところで、不意に遠くから明るい光が差し込んできた。
(開いたっ!?)
そう感じた次の瞬間、今度は水流の動きが逆になった。中へ中へ、となっていたのが、外へ外へと変わる。その急激な変化に佐那は追いつけず揉みくちゃにされた。ぐるぐると上下に視界が回り、しこたま酒を飲んでしまう。
意識を失いかけたところで、身体が空中へと放り出されるような感覚。直後に大きな衝撃。
「……っ! 佐那!」
幸庵の声が聞こえたような気がした――と思う間もなく、口の中に指を突っ込まれ、佐那は思い切り胃の中の液体を吐き出していた。
(た、助かった……?)
よく知った暖かさを感じる。薄目を開けた先には焦ったような幸庵の姿。
「こうあ……あふぅ……」
脱出できたという安堵で、佐那の意識はそのまま闇へと落ちていった。
◆
「――うう~……頭が痛い……」
佐那は布団の上で二日酔いに苦しんでいた。胸のあたりがむかむかして、何度も吐きそうになる。彼女の背中をさすりながら、鈴姫が丸薬と湯呑みを差し出してくる。
「佐那さん。袖の梅をお持ちしましたわ」
「あ、ありがと……」
袖の梅とは、『玉楼』でもよく使われていた酔い覚ましだ。夜の店を生業とする者達にとっては御用達だが、まさか自分がお世話になるとは思ってもみなかった。
佐那と鈴姫が、徳利に飲み込まれてからの経緯は幸庵に聞いていた。
どうやら、幸庵も異変に気付いていたらしい。徳利が付喪神になりかけているのを発見し、佐那達の気配がその中にあるのも気付いた。二人を救い出すために、幸庵は外から様々な術を掛けていた。
更には、佐那が徳利の中で解放した己の力。癒しの力自体に効果はなかったらしいが、無意識のうちに錠前破りの方の力が働いていたらしい。それと、外からの幸庵の術が効いたのもあって、徳利の蓋が開いたのだった。時間的には間一髪で、佐那の決意が遅ければ、息が続かずにそのまま酒の底に沈んでいただろう。
外へ吐き出された時の佐那はたらふく酒を飲んでしまっており、酒に溺れたような状態となっていた。おかげで今日は、死んだほうがマシだと思えるほどの、強烈な二日酔いに悩まされている。
「う~……死ぬぅ……おぅえっ……」
胃の中の物を吐き出しそうになり、慌てて桶が前に差し出される。目覚めた時からずとこうで、もう吐き出すものもなくなってしまった。
「鈴姫は……あれだけ飲んだのに、どうもないの?」
何とか桶から顔を上げて佐那は訊ねる。どう考えても鈴姫のほうが飲んだ量は多いはずなのに、彼女はケロリとしている。
「あやかしはお酒に強いのですわ。わたくしでも一樽くらい余裕ですから」
「一樽……」
規格外の量に目が回りそうになる。同時に、あやかしと同じようには飲むまいと決意する。幾らもしないうちに酔い潰されてしまうのは目に見えている。
「――二人とも、気分はどうかい?」
桶を抱えて悶えていると、幸庵が部屋へ入って来た。二人の姿を見て微笑みを浮かべる。
「これはこれは、まるで姉妹のようじゃないか。騒動は大きかったが、二人の仲が良くなったのであれば、これは僥倖と捉えるべきだろうね」
「わたくしは、佐那さんを誤解していましたわ。それなのに身を呈してわたしを助けてくれましたの。この鈴姫、佐那さんに一生お仕えいたしますわ!」
「そんな、大袈裟よ」
酷い顔してるだろうなあ、と思いながらも佐那は何とか桶から顔を上げた。
「あたしだって鈴姫がそんな想いをしてただなんて知らなかったし。だから、お相子ってこと」
「おお、佐那さん。なんとお優しい」
よよよ、としなだれかかられ、哀れ佐那はそのまま布団の上に押し潰されてしまった。やはり鍵のあやかし。元が鉄だからかとても重い。
「鈴姫や。そのくらいにしておかないと、佐那が目を回してしまうよ」
ぐえええ、となりかけたところで、助け舟を出してくれたのは幸庵だった。はっ、となった鈴姫は、えづく佐那の背中をさする。
「あとは私が面倒を見ておくよ。鈴姫も疲れているだろうに。今日は下がって休みなさい」
「はい、幸庵様」
鈴姫は素直に下がり、部屋の引き戸を開けるたところで礼をする。
「それでは佐那さん。幸庵様とゆっくりお過ごしくださいませ」
余計な一言である。固まった佐那の身体を、幸庵が膝の上に抱き上げた。
「おやおや、顔が真っ赤だね。熱でもあるのかい?」
「ふ、二日酔いだからよ」
水に濡らした手拭いを額に当てられ、うひゃっ、とばかりに小さく首をすくめた。
今日だけは幸庵の腕の中から逃げる気力がない。彼の身体から発せられる妖力は佐那の身体に染みわたる。どうやら徳利の酒も妖力を持っていたようで、その効果を打ち消してくれているのだ。袖の梅よりもよっぽど効く。気分がどんどん軽くなっていくのが実感できる。
「本当に、佐那は頑張ったね」
慈しむように言われ、佐那は小さく肩をすくめた。
「幸庵こそ心配し過ぎよ……あたしなんかのために」
「君は自分を過小評価し過ぎだよ。君の力がなければ、鈴姫を救うことは出来なかっただろうし、君自身も助からなかったかもしれない」
「そんなことない。ただ……ただ、あたしは必死で」
あれ、どうしてだろう?
佐那は目の前の景色が歪んでいくのを戸惑っていた。何度目を擦っても歪んでしまう。二日酔いとはこんなものなのだろうか。
「鈴姫も、あの徳利も。救ってくれてありがとう。この屋敷のあやかしを代表して私が礼を言うよ」
「そんなこと……うっ……ふぐぅっ……」
どうして涙が出てくるのだろう。泣くところなんてどこにもないはずなのに。幸庵の大きな胸に自分の顔を押し付けるようにして、佐那は嗚咽を漏らした。
「怖かっただろう。恐ろしかっただろう? 恥じることはないのだよ。佐那はとてもよく頑張ったのだ。今はしっかりと泣くがいい」
幸庵の大きな手が背中に回り、何度も何度も優しく撫でてくれる。
(ああ……)
そこで佐那は、今日までどれだけ自分が気を張り詰めていたのかを自覚した。
周囲は見知らぬあやかしばかり。慣れぬ仕事に、敵対してくる者もいる。その中で未知の現象に巻き込まれ、何とか生還することが出来た。自分の精神状態はギリギリで、些細なことでぽっきりと折れそうになっていたのだ。
「幸庵……ずるい」
いや、折れてしまったのだと思う。幸庵の無条件の優しさの前に、いろいろな物がガラガラと崩れ落ちてしまった気がする。
「ふふふ。あやかしとは狡いものなのだよ。知らなかったのかい? 弱ったところへ、ここぞとばかりに襲い掛かる」
幸庵の両腕が佐那の背中に回り引き寄せられる。だが、言葉の内容とは裏腹に、彼の行動はまるで卵を扱うかの如き繊細さで、佐那の全てを包み込んでいく。
「言っておくけど……」
その中で顔を伏せたまま佐那は唇を噛んだ。
「あたし、まだ落ちてないから!」
それは、己に対する宣言のようなもの。
「分かっているよ。佐那は強い。この程度のことで、自分を見失ったりはしないよ」
全てを見透かしたかのような口ぶりに、佐那は拳で幸庵の胸を叩いた。
「あたしをものにしようなんて、百年早いんだから!」
「わかったわかった。私は百年でも待つから」
まるで赤子をあやすかのような優しさに包まれて、佐那は唇をきつく噛んで自分を律しようとする。
どうしようもなく大きくなってしまった、己の感情に戸惑いながら――
大きな庭のおかげで小鳥が集まるのかと考えていたが、ある日観察していると、小鳥にも妖力が宿っていた。さすがあやかし屋敷。自我が芽生えていなくても、本能的に場所を選んでいるのだろう。
ぽかぽかと身体が暖かいのは、背後から幸庵の腕が伸びて佐那の身体を抱いているからだ。彼を起こさないように、もぞもぞと身体を動かして、その腕から抜け出す。
今日は浅野屋の質屋としての営業はお休み。ゆっくり眠っていていいよとは幸庵の言葉だったのだが、いつも通りの時間に目覚めてしまった。
(というか、この体勢でゆっくりできるわけが!)
ふあ~あ、と佐那は布団の上で大きく伸びをしてから、幸庵の寝顔を見詰める。
何もされないと理解していても、隣に男性がいると思えば緊張してしまうというものだ。幸庵が眠ってから佐那は眠るようにしているのだが、毎朝起きるとなぜか彼の腕の中だ。幸庵曰く「私は寝相が悪いからね。許しておくれ」だそうだが、そんな理屈が通るわけがない。
(最近は慣れてきた……いやいやいや)
ぶんぶんと首を左右に振る。それはそれで大問題だ。常に緊張感は抱いていないと、幸庵の理性が崩れた時に、貞操の危機が勃発してしまう。
こそこそと屏風の影に行き、佐那は寝間着から朝顔の花柄の小袖へと着替えた。足音を忍ばせて歩くと、押板床に置かれた自分の身代わり人形を調べる。
「まだまだだなあ……」
首の矢傷に、胸に開いた大穴。少しずつ良くなってきているが、完治には程遠い。
「あたしの代わりに、ありがとね」
髪の部分を撫でてやると、人形の佐那が笑った気がした。こうして毎日語り掛けていると、本当に自分の分身のように思えて、愛しさが芽生えてしまう。
「佐那の様子を見ていると、人形に嫉妬をしてしまいそうだね」
「ひぁっ!?」
背後からの声に、佐那は文字通り飛び上がってしまった。人形に夢中になっている間に幸庵は目を覚ましていたようだ。
「今日は思う存分、君を愛でてから起きる予定だったのだが薄情なものだねえ」
「残念! 早起きは三文の徳なんだから!」
ささっと一歩分の距離を取ってから佐那は胸を反らす。時が経過するにつれて、どんどん物理的な距離が近くなっている気がする。それに比例するように、なぜか心が騒めきを大きくする。きっちり線引きをしておかないと、流されてしまいそうだという危うさを、最近は特に感じている。
「それは本当に残念だ。次からは佐那よりも早く目覚めねば」
幸庵は冗談めかして片目を瞑ると、佐那人形を調べる。彼の手がぼうっと光ったかと思うと、胸元の穴が少しだけ小さくなった気がした。
「これは今朝の分。佐那の生命力を私のものと合わせて増幅しているのだよ。そのためには、なるべく君と触れあっていた方が、力のやり取りが円滑にいくからね」
「ちゃ、ちゃんと理由があったんだ……。あ、ありがと……」
佐那は己の勘違いに、所在なさげに視線を彷徨わせた。幸庵は飄々として本心が掴めないが、その優しさは佐那にしか向いていない。
「まあ、佐那の抱き心地がいいから、というのもあるがね」
「こ、この助平あやかしめ~っ!」
少しでも殊勝な気持ちになってしまって損をした。佐那は両手を振り上げると、幸庵をポカポカと叩いた。
ははは、と笑いながら幸庵は立ち上がる。
「さて、今日はお客相手の質屋は休みだが、質屋としては他の仕事もあってね。佐那も手伝ってみるかい?」
「うん! やる!」
これ以上、怒っていても幸庵には堪えないし、こちらが疲れるだけ。佐那は機嫌を直して頷いた。帳簿を付ける仕事は、そろそろ飽きがきていたところだ。新しい仕事を教えて貰えるのなら、その機会を逃したくはない。
「いい返事だね。私の準備が終わったら文福を寄越すから、しらばくここで待っていてくれないか」
幸庵が部屋の外へ出た後で、何やら他のあやかし達に指示をしている声が聞こえる。佐那はそれを聞きながら、はやる心を抑えて小袖の帯を締め直した。
(って、あれ? あたしって一体……)
外の声が遠ざかり、ふと我に返る。
幸庵の仕事を『勉強』しに来たはずなのに、いつの間にか己もその一員になりたいと思ってはいないだろうか。
(……あたしは義賊、あたしは義賊、あたしは義賊。ここのあやかしたちは高利貸し!)
部屋をぐるぐると歩きながら、念仏のように心の中で唱える。
まだ高利貸しの現場は見つけられていない。それさえ押さえることができれば、自分の気持ちも吹っ切れるはず。佐那は両手で頬を叩いて気合を入れたのだった。
◆
「おーい、佐那や。無理はしなくていいのだよ」
「大丈夫ー!」
埃っぽい屋敷の蔵の中。佐那は梯子から身を乗り出して右手を伸ばしていた。下では文福が梯子を支えてくれており、幸庵が心配そうに佐那を見守っている。
(あと少し……)
佐那の指がお目当ての箱に届いた。そろそろとずらしてから、箱の取っ手を掴む。見た目よりもあった重量にバランスを崩し、文福が悲鳴を上げるも、佐那は軽業師のように体勢を立て直して、足だけで梯子にぶら下がっていた。
「はい、幸庵。これだよね?」
焦った表情で両手を差し出していた幸庵へ、逆さ吊りのまま箱を渡す。
「佐那は私の心臓を止める気かい? 落ちてしまうかと思ったよ」
「あはは、あたしは義賊よ? このくらいは朝飯前なんだから」
梯子を掴んで、くるっと一回転しながら地面へと着地する。
質屋が休みの日は、蔵の点検をしているとのことで、その手伝いをしている。
お客から預かった質草は大切な預かり物。カビが生えたり埃が被ったりしないよう、定期的に掃除をしているのだ。左右を見渡せば、あやかし達が妖力ではたきを操って埃を払っている。力の扱いが未熟なあやかしは、雑巾や箒を持って人力(?)で掃除をしていた。
その中で佐那は、幸庵に渡された書き付けを元に、いくつかの品物を蔵から取り出していた。簪や根付けといった小物から、ちょっとした大きさの壺まで。玉石混合の質草を幸庵へ渡していく。
「これで最後かな?」
もう一度上った梯子をするすると降りてから、壺の入った箱を開けて見せる。
「ふむ……付喪神になる気配はないようだね。それも持って行ってしまおうか」
幸庵は大きな風呂敷を広げると、佐那の運んだ雑貨を丁寧に包んだ。壺は桐の箱に布でくるんで入れる。
「文福や、話は通してくれたかい?」
「はい! 目録は先に送っていたので、それほど時間はかからないかと」
文福が風呂敷包みを荷車に乗せる。そこには既に取り出した質草が所狭しと並んでいた。最後に桐の箱に入れた壺を置けば準備完了のようだった。
「佐那、ちょっとおいで」
幸庵に手招きをされて、何だろうと首を傾げながら幸庵の側へ行くと、頭の上に手を置かれた。不意にそこから流れ込んでくる妖力に驚いて逃げようとするも、「じっとしているんだよ」と肩を掴まれた。
「な、何を……んっ……」
目を閉じて身体が膨れ上がるような感覚に耐えていると、佐那の周囲に透明なシャボン玉のような膜が張られていた。
「屋敷の中ばかりでは佐那も息が詰まってしまうだろう? 今日は外へ連れ出してあげよう」
「でも、あたしの傷って、まだ治ってないんじゃ?」
「いま張ったのが私の結界だよ。一刻くらいは屋敷の中にいるのと同じ状態だ」
なるほど、と佐那は頷いた。膜に手で触れてみると、確かに外の世界と区切られているような力を感じる。
「今からどこかに行くの?」
歩き始めた幸庵の背中を追いながら佐那は訊ねた。
「質流れになったものや買い取ったものを、いつまでも蔵に置いておくわけにはいかないからね。懇意にしている古物商に引き取ってもらうのだよ」
そういえば、選んだのはそのような品物ばかりだった。
裏の木戸を開いて佐那達は屋敷の外へ出る。久しぶりの外の空気に、佐那は大きく両手を伸ばした。幸庵の屋敷が狭いわけではないが、それとは違った解放感がある。
(あ、いたいた)
佐那の視界の端に、一人の少年の姿が映った。髪型を変えて変装はしているが、間違いなく吉平だ。屋敷に異変がないか見張ってくれているのだろう。
(ごめんね、心配かけて)
幸庵と文福の一歩後ろを歩き、気付かれないよう紙片を落とす。
自分の身に危害は加えられていないということや、ここを離れるにはもう少し時間がかかりそうだ、といった近況を書いている。それを吉平が拾ったのを確認して、ほっと息を吐いていると幸庵から声が掛かった。
「君のお仲間は息災かい?」
(ば、バレてる!?)
危うく悲鳴を上げるところだったが、何とかそれを飲み込む。
「な、何のことぉ~?」
白々しく口笛を吹いた佐那を見て、幸庵が声を上げて笑った。
「ふふふ、佐那の気が済むまで私のことを調べるといいよ。私のことを知れば知るほど、最終的に君は、私の虜になっているのだから」
「木乃伊取りが木乃伊になる、なんてことはありませんよーだ」
ぺろっと舌を出して佐那は否定する。本当に自分のことをよく見ている。捕らえた盗賊であるから当然と言えば当然だが、手のひらの上で泳がされているだけではないかと、不安にもなってくる。
「あ、そろそろ着きますよ! 今井屋さんです!」
文福の指した先には、浅野屋ほどではないが大店があった。
今井屋は佐那も名前を聞いたことがある。ただし、義賊の対象としては認識していないので、真っ当な商売をしているということなのだろうか。
「――これはこれは、幸庵さん。お待ちしておりました」
出迎えてくれたのは六十歳を超えているだろうか。白髪で小柄。顔に多くの皺が刻まれたお爺さんだった。
(え、これって……)
佐那はお爺さんを見てしばし驚く。陰陽師の力を持つ佐那には直感で理解した。彼があやかしの化けた姿であることを。
「おお、この娘さんが、有名な新入りさんですな。儂のことは白夜(びゃくや)と呼んでくだされ」
「は、はあ……佐那です」
あやかしである幸庵が質屋を営んでいるのだ。他にあやかしで人間の世界に溶け込んでいる者がいてもおかしくはない。それでも、こんなに身近にいたとは驚きだ。
「緊張しなくてもよいのじゃよ。義賊の噂は儂も知っておるからのう。いつ娘さんに儂の店も忍び込まれるかと、夜も心配で眠れませなんだなあ。ふぉっふぉっふぉ」
「真っ当な商売をしているお店は、あたしの専門外ですから」
唇を尖らし、佐那は小さく肩をすくめた。その姿がツボに入ったのか、ますます白夜が愉快そうに笑う。文福まで笑いに参加してしまって、とうとう佐那は頬を膨らました。
「さて、時間も惜しいですからね」
幸庵が荷車から荷物を下ろしながら言った。
「先に商談といきましょう。文福、下ろすのを手伝っておくれ」
「わわ、すみません! 幸庵様、すぐに!」
佐那も二人を手伝い、荷物をせっせと白夜の前に並べた。
「ふむふむ。どれもよい品じゃな。付喪神になって足が生えたりもしなさそうじゃのう」
(確かに、妖力は感じない……)
佐那も身を乗り出して、陰陽師としての視点で品物を観察する。どれも年季が入って古い物だが、幸庵が高値で買い取った徳利のような妖力は感じない。白夜は次から次へと、手際よく品物を確認する。
「古ければみな付喪神になるわけではないからの。むしろ、こうして何十年経過しても、妖力を持たない物のほうが多い。その代わり、それらは骨董品として人間達の間ではよい価値になる」
「あー、なるほど」
その言葉に佐那は納得して頷いた。
いくら骨董的価値があったとしても、付喪神になってしまえば、人間からは恐れの対象でしかない。付喪神の全てが完全な人型を取るわけでもないし、手と足が生えて、どこかへ行ってしまっても困るだろう。付喪神が人間と共存の道を選びたくても、品物としての価値は無きに等しくなりそうだ。
「娘さんは鑑定をする間、ゆっくりしていきなさい」
座敷へ上げてもらい、佐那はありがたく腰を下ろした。蔵で大掃除の如く動き回ったのと、久しぶりに外を歩いたので、少々くたびれてしまった。
(なまっちゃってるなあ)
ふくらはぎを自分で揉んでいると、奥からカタカタとからくり人形が出てきた。手にはお茶と羊羹を乗せたお盆を持っている。
「わあ、可愛い……って、ひょえぇっ!」
頭をなでなですると、からくり人形が佐那へ笑いかけてきた。どうやら、これは付喪神になりかけらしい。
「あー、びっくりしたあ」
油断してたとはいえ心臓に悪い。あやかしが経営する古物商なのだから、これくらいは当然だろう。
「うふ。娘さんはあやかしを怖がらないのじゃのう」
「え、ま、まあ……これでも陰陽師の卵だったから。あああ、でも!」
幸庵は気にしていないようだが、白夜までどうかは分からない。佐那は慌てて付け足した。
「落ちこぼれだったから! あやかし退治とかしたことないから!」
「そうかのう。娘さんは、あやかし相手でも分け隔てなく接していたと聞いているがのう? 落ちこぼれとかは関係ないのではないか?」
「……ど、どこからそれを」
佐那の表情が暗く沈んだ。落ちこぼれと称された一番の理由。それは、陰陽師としての力を、あやかし相手に行使出来なかったからだ。佐那自身、忘れようとしていた過去を、どうしてこの白夜は知っているのだろうか。
「ふぉっふぉっふぉ。儂がまだ浅野屋の主をしていた頃かのう」
「え? 白夜さんは、浅野屋の主をしていたの?」
初めて聞く情報に、佐那は目を瞬かせた。
「うむり。もう四、五年くらい前のことじゃがの。幸庵が独り立ちしたのに合わせて、店を譲ったのじゃよ。それまで幸庵は、外で付喪神になりそうなあやかしを探し回っていたのじゃが、面白い娘さんがいると、それはそれは心配しておったのじゃよ。幸庵よ、間に合ってよかったの」
「え……あたしを心配? 間に合ってよかった? どういうこと?」
首を捻って戸惑っていると、幸庵が慌てたように割り込んで来た。
「昔話もよいが、そろそろ鑑定結果は出ているのではないかな? 私も忙しい身でねえ。早く戻らないと鈴姫に怒られてしまいそうだ。佐那も疲れただろう?」
問答無用の幸庵の声は、この話題はここでおしまいと言っている。
「そうじゃの。これはこれで、こっちは……このくらいでどうじゃろうか。娘さんもいるから、弾んでおいたぞ」
紙に書かれた金額を見て、幸庵は満足そうに頷いた。
「これだけあれば、佐那をもっと甘やかして、お給金も十分に出せそうだね」
「これ以上甘やかされたら溶けちゃいそうなんだけど……って、お給金!?」
「もちろんだとも。佐那はうちの店でよく働いてくれているからね」
驚いて声を裏返らせた佐那へ、銭を入れた巾着を幸庵が渡してくる。これはお前のだよ、と文福にも同じように渡す。
「あやかしも人間の世界で暮らすなら、人間の世界の銭がいるからね。わたしを頼ってきた者に貧乏な思いはさせたくない。だから、質屋で稼ぐところは稼いでいるし、お灸を据えたほうがいい客に対しては高い利息を取っているのだよ」
幸庵の話を聞きながら、佐那は『玉楼』での暮らしを思い出す。
吉原の中にありながら、春を売らないと強気の営業をしている『玉楼』だったが、それほど台所事情が豊かなわけではなかった。
ほとんどの妓楼では、華やかな生活を送れる女はごく一部のみ。それに対して『玉楼』では、ひもじく惨めな思いをする者がいないよう、下の者にもきちんとした給金を支払っていたからだ。義賊として盗んだ金は全て町にバラまいている。表向きは華やかでも、裏では赤字続きのことすらあった。そんな時佐那は、せめてもの助けにと自分の給金は受け取らずにいた。
(幸庵は食事をタダで食べさせてくれる。あたしだけいい生活をするわけにはいかない)
囚われの身とはいえ、不自由のない暮らしを提供してもらっている。そんな中で、これ以上を貰うのは罰が当たるというものだ。
「もしかして、『玉楼』へとか考えているのかい?」
図星を突かれ、佐那は反射的に巾着を胸に抱きかかえていた。
「あ、あたしがもらったものなら、あたしの好きにしていいでしょ!」
「いやはや。君の自己犠牲精神は度を逸しているねえ」
珍しく幸庵の声の調子が落ちた。
「ふうむ。それがそなたの悩みの種か。人の世は簡単にはいかぬものじゃのう」
白夜はどこか面白がるかのように佐那と幸庵を交互に見る。幸庵は渋い表情で、受け取った残り銭を数え終わると、壺を入れてきた桐の箱へと納めた。
「これは私の問題ですからねえ。私のほうで何とかしますよ」
「そうかそうか。朗報を待っておるぞ」
気まずい雰囲気のまま、佐那は幸庵の背中を追って店を出た。
帰り道は見事に会話がなかった。文福が気を使ってくれて会話をしようとするも空振りばかり。佐那も何と言えばいいかわからない。
(だって……!)
佐那は自分の考えが、幸庵の意図からは外れてしまったのだろうという気はしている。それでも、幸庵の屋敷に捕まってからの待遇は、罪人ではなく完全に客人……どころか新婚のそれである。心配してくれている仲間に対して、申し訳ないという罪悪感で一杯なのだ。
「――佐那や」
考え込んでいるうちに浅野屋に到着していたようだ。入る前にくるりと幸庵がこちらを向いた。
「私の想いがまだ届かない。これは私の不徳の致すところなのだろうね。これは君を責めても仕方がない。だけどね、その一方で君の自己犠牲精神には怒りすら覚えるのだよ。よって、今夜は罰を与えようと思う」
「罰……」
一体何をされるというのだろうか。佐那は警戒して、やや上目遣い。拷問くらいなら覚悟している。とうとう、罪人としての扱いをされるのだ。どんな酷いことをされたって、きっと耐えてみせる。
「まず、今夜は盛大な宴を開くことにしよう」
「……へっ……?」
予想外の展開に、間抜けな声が漏れた。幸庵は悪徳商人のような笑みを浮かべながら、その内容は全く違う事を嬉々として告げてきた。
「佐那の誕生日にはまだ少し早いが前祝いだ。美しい着物と素晴らしい贈り物を用意して、ぱーっと祝おうではないか。浅野屋をあげた大宴会だ。もちろん主役は佐那だよ」
「待って待って! どうしてそうなるの!?」
「簡単なことだよ」
ふふふ、と幸庵は相変わらず不気味な笑みを浮かべる。
「佐那に拷問など出来るわけがない。豪華な暮らしが君の気に病むというのなら、これを使わない手はない。私にとっては君を好きに甘やかせるし、君にとってはそれが拷問となる。こんな一石二鳥の手はないと思わないかい?」
「なるほど、たしかに……いやいやいや」
納得しかけ、佐那は勢いよく首を横に振った。正しいようで何かが間違っている。絶対に間違っている。
「抵抗する手段はただ一つ。私の宴を心から楽しんで、その身を私に預けて存分に甘やかされればいい。そうすれば、君に対する罰という私の目的は達成できなくなる」
思わずその場でコケそうになるような幸庵の論理。容赦なく佐那はツッコミを入れていた。
「待って! それ、幸庵しか得してなくない!?」
「ふふふ。本来、あやかしとはそういうものだよ。さあ、佐那。今夜は私を怒らせた罰を受け入れるといいよ」
「勝手に決めないでー!?」
店へと入った幸庵の後に続き、佐那はなおも抗議の声を上げようとしたが、それは別の者によって遮られることになった。
がらら――がっしゃーん!
不意に頭上から聞こえたけたたましい音。気が付けば佐那は、降って来た鉄の檻の中に閉じ込められていた。その目の前には、肩を怒らせた鈴姫の姿。
「やっと捕まえましたわ、泥棒娘!」
「……これは、一体どういうことだい、鈴姫?」
幸庵の厳しい視線が、店の玄関の上で腕を組んで仁王立ちの鈴姫へと向けられる。突然の出来事に佐那は目をぱちくりとするしかない。鈴姫はびしっと佐那へ指を突き付けた。
「屋敷から徳利が無くなりましたの。この泥棒娘の仕業に他なりませんわ!」
どうやら泥棒に入られたらしい。
あやかし達のざわめきが、佐那の心に突き刺さったのだった。
◆
――要するに、話はこうだった。
鈴姫は蔵の管理を一手に引き受けているあやかしだ。質草を整理し、お客が引き取りに来た時には、利康と協力してすぐに出せる状態にしておく。
質屋が休みの日は、蔵の掃除だけでなく棚卸も同時に行っていた。鈴姫は利康と協力して蔵の総点検を行い、帳簿と内容が合致することにほっと一安心していたらしい。
だが、事件は幸庵達が白夜の元に出かけた後に起きた。
いつもは台所に置いていた徳利が、いつの間にか無くなっていたというのだ。幸庵や佐那が夕餉で使っている、あの徳利だ。
「――その娘が盗んだ違いありませんわ!」
決めつけるような鈴姫に、佐那はむっと唇を曲げた。幸庵のおかげで檻からは出されたものの、鈴姫の逃がしては困るという強い意見で、後ろ手に鈴姫特性の手錠を掛けられていた。
「隠せるような大きさの徳利じゃないし。どうやって持って出たっていうのよ!」
「陰陽師の術でも使って、幸庵様を騙したに違いありませんわ!」
「無理よ無理! そんな都合のいい術はないし!」
鈴姫の主張に、佐那は激しく反論する。
佐那が得意としているのは錠前破りと、もう一つはここでは使っていないが、とてもあやかし討伐には向いていない術だ。戦闘では鼠の式神程度しか使えないし、そんな目くらましの術が使えるならば、落ちこぼれなんて呼ばれなかった。
「ふうむ、鈴姫や」
腕を組んで話を聞いていた幸庵が問いかける。
「私たちが出るまでは、台所にあったのは間違いないのだね?」
「利康も見ていましたから間違いありませんわ!」
話を振られた利康は、どちらかというと鈴姫の剣幕に弱り顔。
「じゃがのう……嬢ちゃんを台所では見なかったからの。それで疑うというのは難しかろうて。幸庵様も嬢ちゃんの側にいたことだしのう」
「で、でも! 仲間が忍び込んで……!」
どうやら鈴姫は、どうしても佐那を犯人に仕立て上げたいらしい。義賊とそこら辺のコソ泥を一緒にしてもらっては困る。いい加減腹が立ってきた佐那は、ぼそりと呟いた。
「鈴姫こそ、何かの手違いで割っちゃったとかじゃないの? それをあたしのせいにしようとして……アイタタタッ!」
ぎりぎり、と鈴姫が操るあやかしの手錠が手首に食い込んで、佐那は悲鳴を上げた。苦しむ彼女の前で、鈴姫が腰に両手を当てて見下ろしてた。
「幸庵様に忠誠を捧げているわたくしに何ということを。その両手、使い物にならなくして差し上げますわ!」
「やめなさい、鈴姫。佐那も今の発言はいけないね。二人とも、謝りなさい」
折られるかと思ったところで、幸庵の手が手錠に触れると、一瞬にして痛みが引いていった。
「誰がこんな泥棒娘に謝るものですか!」
屋敷が揺れんばかりに、鈴姫は強く足を踏み鳴らして不満を露にする。
佐那はすっと剃刀のように目を細めて、鈴姫をねめつけた。やってもいないことを認めるわけにはいかない。
一歩も引かない様子の二人を見て、諦めたように幸庵はため息を吐いた。
「この件は、一旦私が預かることとしよう。幸いにも骨董品としてそれほど価値のある徳利ではなかったしね」
「そんな! これはわたくしの問題。わたくしの不始末は、わたくしが解決すべきですわ! こんな泥棒娘など、締め上げれば一発で……」
悲鳴のような声を上げて鈴姫が幸庵にすがりつく。そんな彼女を落ち着けようと幸庵は軽く背中を叩いた。
「冷静になりなさい、鈴姫。佐那はそんな甘い娘ではないよ。己の仕事に責任と誇りを持っているからね。それを守るためなら、進んで命を投げ出す覚悟のある娘だ」
幸庵は、言外に佐那に何かしたら許さないと告げている。それに気付いたのだろう。悔しそうに鈴姫は更に地団太を踏んだ。
「覚えてなさいまし。いつか絶対に正体を暴いて差し上げますわ!」
どしどし、と足音高く、鈴姫が奥の部屋へと下がっていく。
「あ、これ、佐那の手錠を……いやはや」
幸庵が背後で妖力を籠めると、パキンという音と共に佐那の両手が自由になった。
「なに、あのあやかし!」
佐那は痛む手をさすりながら毒づいた。
「敵対心を向けられるのは仕方がないね。佐那は初日に鈴姫の誇りを傷つけてしまったのだから」
「屋敷の警備担当だから……?」
「それだけではないよ。気付いていないのかい? 蔵の鍵は全て鈴姫が作ってくれているのだよ。高安の時はわざと簡単なものにしていたが、君は鈴姫自慢の錠前を破ってしまったからねえ」
「ああ……」
鈴姫の耳に下がる和錠の耳飾りを思い出す。彼女は鍵の付喪神なのだろう。それを、ただの人間である佐那に破られたとなれば、それは怒りたくもなるだろう。幸庵からの信頼も損ねてしまったと考えるに違いない。
尤も、それで「はい、そうですか」と佐那も納得は出来ない。誰に何と責められようが、自分はやっていない。
「ねえ、幸庵」
不意に心配になって佐那は訊いた。
「もしかして、あたしのこと疑ってる?」
「安心しなさい。私は佐那の味方だよ」
不安で見上げると、幸庵の右手が佐那の頭に伸びた。首をすくめたところに、よしよし、と大きな手が優しく彼女の頭を撫でた。
「そもそも、君には動機がない。あの徳利を盗んだところで、何もならないしね。それに、何かあれば真っ先に君が疑われるような状況で、騒ぎを起こすようなことはしないだろう? 周りは敵だらけ。下手をすればあっという間に三途の川を渡ってしまうよ」
論理的に筋道を立てて説明されて、佐那はほっと安堵の息をついた。
(あれ、あたし……幸庵に信じてもらえて、ほっとしてる?)
幸庵だけには疑われたくないと思っていた。彼に疑われていたら、精神的に崩れていたかもしれない。それを自覚して、自分の気持ちに戸惑ってしまう。
いつの間にか幸庵の小袖の袖を強く握りしめていた。慌ててその手を離し、一歩距離を取る。興味深そうな幸庵の視線から逃げるように顔を背けた。なぜか頬が熱い。
「ほう。これはよい傾向だね」
何がよい傾向なのだ。そんな目で見ないでほしい。心の中で憤慨していると、幸庵の表情が引き締まった。
「どちらにしても、早くこの事件は解決しないといけないね。私が何とかするから、佐那は気にする必要はないよ」
その口調で、どうやら幸庵にも心当たりはないようだと知る。再び不安な思いに包まれ、佐那は少しだけ視線を落としたのだった。
◆
「う~ん……ないなあ」
蔵の中で埃だらけになりながら、佐那は探し物をしていた。もちろん、どこかへ消えてしまった徳利だ。
幸庵にはいい顔をされなかったものの、疑われているのは自分である。そのまま何もしないのは性に合わない。
屋敷のあやかしが、知らずにどこかの蔵へ収納してしまったのではないか。佐那はそのように考えた。屋敷の敷地には大きな蔵が幾つもある。一度紛れてしまえば、紛失したと思われても仕方がないだろう。
「ふふん。あるわけがありませんわ!」
背後でその行動を見張っているのは鈴姫だ。
疑っている佐那を一人で蔵に入れるわけにはいかないと、ずっとついて回っている。鬱陶しいことこの上ない。幸庵からきつく言われているのか、佐那へ危害を与えるような素振りがないのが救いだ。
佐那は蔵から出ると、うんしょ、と梯子を肩に担いだ。腕を組んでいる鈴姫の横を無言で通り過ぎ、次の蔵へと向かう。
「あ、待つのですわ! 何か言い返しなさい。ああ、もう、張り合いのない!」
背後からギャーギャー声が追いかけてくるが、佐那はきっぱりと無視をした。頭から疑ってくる者を相手にするだけ時間の無駄だし疲れてしまう。次の蔵の前に到着して、一言だけ発する。
「開けて」
「キーッ! 何ですの、その偉そうな物言いは! そこに這いつくばって頼み込むのが筋ではなくって!?」
(あー、あー、もー、めんどくさーい)
心の中でぼやきながら、佐那はその場に膝を落とした。地面に両手を突いて躊躇いもなく土下座した。微妙に棒読み口調でお願いする。
「鈴姫様。どうかそのとても立派な錠前を開けて、蔵へ入らせてください。お願いいたしますー」
「り、立派な錠前……そ、そう? そこまで仰るのなら仕方がないですわ」
騒いでいた鈴姫が、立派な錠前、という単語に反応する。なぜか心持ち頬を赤らめて、そそくさと袂から鍵を取り出した。
(ほえ……実は扱いやすい性格だったり?)
予想外の展開。口元が緩んでしまいそうなのを必死に耐えた。
頭を踏まれて地面に顔を押し付けられるくらいは覚悟していた。それなのに、佐那のお世辞を真に受けて、簡単に舞い上がってしまった。
鈴姫は錠前だと閂を外してくれただけでなく、重い扉を開くのまで協力してくれる。
「……あれ?」
開けてもらった蔵に入るなり、呆然と立ち尽くす。その隣で鈴姫も同じような表情をしていた。
「そんな……昨日は間違いなく確認しましたわ」
鈴姫の視線の先には、探している徳利が蔵のど真ん中に鎮座していた。灰色で素朴な見た目は間違いない。
(鈴姫のこの反応は嘘じゃない。だったら、どうして?)
こんなにわかりやすい場所を見落とすわけがない。鈴姫の確認が終わった後に運び込まれた、と思うのが自然だろう。誰が、何の目的で。
「お前……」
ぞうっとするような声が隣から聞こえて、佐那はギクリと振り返った。そこには暗い光を瞳に宿した鈴姫の姿。
「わたくしを貶めるために、このようなことをしましたのね?」
「ち、違う……!」
まるで殺さんばかりの形相に、本能的に危険を察知して後ずさる。これは完全に誤解をされてしまった。
「鈴姫も見てたよね? あたしじゃないから!」
「嘘ですわ。陰陽師の術でわたくしを嵌めたのでしょう。幸庵様のさらなる恩寵を得るために。いいえ、言い訳など聞きません。絶対に許しませんわよ」
「待って待って! 鈴姫、あなたもずっと隣にいたでしょ!」
鈴姫の耳飾りが外れて宙に浮かぶと、あっという間に和錠のついた縄へと変化。佐那は逃げる暇もなく、鈴姫の妖力でがんじがらめにされていた。
「く、苦しいっ……! やめて、鈴姫っ……ぐぅっ!」
ぎりぎりと強烈な力で全身を締め付けられ、佐那はたまらず倒れ込んだ。
鈴姫は怒りで我を忘れてしまったようで、残虐な笑みを浮かべて佐那を見下ろしている。身代わり人形がどこまで傷を引き受けてくれるかは分からないが、このままバラバラにされてしまったら、さすがに死んでしまうのではないだろうか。
「い、いやっ……幸庵、助けて……むぐっ!」
口が鍵でも掛けられたかのように勝手に閉じられた。助けを呼べない。息すらできない。このままでは死んでしまう。それでも、何とか鈴姫の妖力から抜けようともがいていると、不意に何かが動いた気配がした。
(え……)
痛みも一瞬忘れて、佐那は驚きで目を見張る。倒れた視線の先は蔵の天上。そこに徳利が大きな口を開いて浮いているではないか。
「こ、これは……?」
鈴姫もその気配に気付いたようで、頭上を仰ぎ見てポカンと口を開ける。
いつしか徳利は人のサイズよりも巨大化していた。こちらへ向けられる口は真っ暗で、全てを吸い込んでしまいそう。
(付喪神になっていたんだ!)
佐那がその事実に気付くも既に遅かった。ひょおおおお、という音ともに周囲の土埃が吸い込まれていく。吸引する徳利の意識が佐那と鈴姫に向いたと思うと、二人の身体は宙に浮いていた。
「ひああああっ!?」
予想外の展開に鈴姫は手足をバタバタさせるが、宙に浮いてしまった身体はどうにもならない。情けない悲鳴が蔵に響いた。
「あ~れ~、そんな馬鹿なぁ~~~!」
(それはこっちの台詞~っ!)
鈴姫の術で自由を奪われている佐那も無力だ。二人は仲良く、付喪神となった徳利へ吸い込まれていったのだった。
☆
今日も今日とて、佐那は蔵に閉じ込められていた。少しだけ成長して十歳ほどの姿になっている。
相変わらずあやかしを討伐することは出来ず、陰陽師としての才能を両親に示せていない。どんなに折檻されても、蔵に閉じ込められたとしても、何も悪さをしていないあやかしを討伐するなんて無理だ。
それに、この年になった佐那には、現状を悲観せずともよい術が身についていた。
「そろそろ頃合いかな?」
虫籠窓から入る光が、十分に暗くなったのを確かめてから行動を開始。佐那は蔵の扉の前に立つと、袖から一枚のお札を取り出した。
「今日もお願い!」
力を籠めるとお札は鼠へと変化し、扉の間をするりとすり抜けて蔵の外へ。しばらくガチャガチャという音が聞こえていたが、少しすると重い蔵の扉が微かに開いた。その隙間から鼠が戻って来て、佐那の胸元へと収まる。
「ふふ、ありがとね」
鼠の頭を指で撫でてから、佐那は音を立てないように扉を開けて外へ出た。
(今日は来ないのかな)
佐那の脳裏に浮かぶは、この術を教えてくれた黄金色の狐。
去年の冬、蔵の中で飢えと寒さで死ぬ寸前だった彼女を助けてくれた。それだけではなく、錠前を中から開ける術も教えてくれたのだ。この術のおかげで、蔵に閉じ込められてもこっそり抜け出してから、屋敷で食事の残りを頂くことができていた。
黄金色の狐がどうして助けてくれたのかはわからない。もしかすると、日ごろの訓練を何処かから見ていて、佐那があやかしに好意を抱いているのを知っていたのかもしれない。その狐は、捕らえられて屋敷に運ばれてくるあやかしを逃がそうとしていたのだから。佐那は助けられたお礼にと、狐が来るたびにあやかしが捕まっている場所を教えた。
両親はいつも首を傾げていた。厳重に管理していたはずなのに、いつもあやかしに逃げられていたのだから。
佐那は己のやっていることを理解している。これが見つかれば、折檻どころではない。我が子であろうと容赦なく斬り捨てられるだろう。それでも、罪のないあやかしを討伐するのは反対だったし、何より佐那を大切にしてくれる唯一の存在――黄金色の狐に対して恩を返したかった。
(今日も捕まってたあやかしがいたよね)
中庭へと移動して、屋敷の気配を確かめる。今日はまだ時間が早かったのか、障子越しに蝋燭の灯りが見えた。これでは台所へ残り物を失敬しに行くわけにはいかない。
――ピィィィ!
少し待とうと庭の植木の影にしゃがみ込んだ瞬間、聞こえてきたけたたましい笛の音に、佐那はぎょっと飛び上がった。
(な、なに!?)
蔵を抜け出しているのがバレてしまったのだろうか。
心臓がバクバクと鳴り、胸元をきゅっと掴む。あちこちの障子が開き、方々から「見つけたぞ、井戸の方だ!」などと声が聞こえた。
(どうしよう……)
屋敷の者に見つからないように、中庭から蔵へ下がりながら考える。
この様子では、台所に忍び込むのは諦めた方がよいかもしれない。何があったかは気になるが、下手に動くと墓穴を掘ってしまいそうだ。
素直に蔵へ戻ってしまうべき。そう考えて退却しようとしていると、蔵へ戻る小道に何かが飛び出してきた。
「わっ! ……って、どうしたの!?」
ばったりと倒れるように出てきたのは、待ち焦がれていた黄金色の狐だった。何とか立ち上がろうとするも、足元が定まらない様子。
「ひ、酷い傷……」
血だらけの姿に慄くも、佐那の決断は早かった。己が血にまみれるのも厭わず、狐を下から支えるようにして歩く手助けをする。地面へと落ちる血は、佐那の胸元から降りた鼠が消していく。
「蔵へ!」
十歳の童女には重たい狐の身体。よたよたしながらも、何とか蔵に到着すると、がらくたが転がっている奥の方に狐を寝かせた。その後すぐに、蔵の扉を渾身の力で引いて閉めた。外に置いた鼠に呼び掛ける。
「お願い、閉めて!」
チュウ、という返事を聞く間も惜しくて、佐那は狐の元へと戻った。力なくぐったりと倒れた狐は、口から荒い息を吐いている。捕まったあやかしを助けようとして、今日は屋敷の者に見つかってしまったのだろうか。
今こそもらった恩を返すべき時だ。佐那の唇がきゅっと引き結ばれた。
「待っててね。あたし、本当はこれが一番得意なの」
ぼう、と佐那の手の平に現れたのは癒しの光。春の陽光のように暖かく、吹き出す生命の力強い息吹。それを息も絶え絶えの狐へと流し込んでいく。
「お願いだから、死なないで!」
佐那の額に汗の玉が浮き、すぐに息が上がった。
得意といっても、陰陽師としてはまだ半人前ですらない。一歩間違えれば術が暴走して己の生命力を使い果たし、妖狐も救えなくなってしまう。
佐那は額を流れる汗を袖で拭ってから、もう一度精神を集中する。
――助ける。絶対に!
何度も何度も、そう自分に言い聞かせながら。
◆
「あううぅ~……幸庵様ぁ」
情けない寝言のような声で佐那は目を覚ました。
「お、重い……って、声が出せる?」
自分の喉に手を当てる。縛められていた手足も自由になっていた。それなのに、潰されたように重い理由は簡単だった。
「ちょっと、鈴姫! 起きて! 重いんだって!」
元が和錠のあやかし。鉄の塊で作られていたのだろうか。背格好は佐那より少し高い程度なのに、幸庵よりも重く感じてしまう。佐那は苦労してその下から脱出した。
「いやですぅ、幸庵様、見捨てないでくださいましぃ」
「だからあ、目を覚ましてってば!」
鈴姫の手が佐那の腰へと伸びてくる。再び押し倒されてはかなわない。佐那は実力行使とばかりに、眠っている鈴姫の頬をつまむと、ぶに~んと横へ広げた。
「はっ……わひゃひはひったひ……」
ぱちくり、と目を覚ました鈴姫は何度か瞬きをする。佐那は頬から手を離すと周囲を見回した。
「二人とも徳利の中に吸い込まれちゃったみたい」
「のええええっ!?」
半身を起こしていた鈴姫は、そのまま腰砕けになったようにへたり込んだ。
二人の周囲は薄暗い空間が広がっていた。微かにきらきらとした反射があるおかげで、お互いの姿が確認できる程度には光源がある。だが、上も見えなければ、行きつく先のような壁も見えない。
「犯人は付喪神だったのねえ」
誰かに盗まれたわけでも、鈴姫が誤って記憶していたわけでもなかった。徳利自身の力で移動していただけなのだ。あの徳利は、この店に引き取った時から強い妖力を持っていた。おまけに毎晩、幸庵のような妖力の強いあやかしに使われていたのだから、早いうちに付喪神へ変化してもおかしくはない。
「はううぅ……そうだったの。これでは、幸庵様に捨てられてしまいますわ……」
地面に顔を伏せ、おいおいと泣き始める鈴姫。その姿は世も末といった感じで、身に纏う妖力が外へ流れ出してしまっている。このままでは、あやかしの力を失くしてただの錠前に戻ってしまいそうだ。
佐那は慌てて側にかがみ込むと、鈴姫の背中――妖力が流れ出している場所に手を当てた。
「そんなに落ち込まないでよ! ちょっと失敗しただけじゃない。幸庵は優しいから、このくらいのことじゃきっと怒らないって!」
「お前に何がわかるというのですの」
着物の袖に顔を埋めたまま鈴姫はすすり泣いた。
「何度も盗賊に破られ、見た目だけと称されたわたくしが、なぜか付喪神になってしまいました。それを幸庵様に拾っていただき、あまつさえ大事な蔵の管理もまかされたのですわ。それなのに、ここでもお前に錠前を破られ、挙句の果てに勘違いで付喪神に吸い込まれてしまった。これが役立たずと言わずして、何と言うのでしょう」
「鈴姫……」
あやかしを狩れない陰陽師。鍵の用を成さない錠前。
佐那にもその気持ちは理解できる。最も肝心なところで役に立たない。期待をされている場所で無能を晒してしまう。それが認めて欲しい人の前であれば、余計に堪えることだろう。
「ごめんなさい。あたし、鈴姫のこと勘違いしてた」
流れていく妖力を何とか繋ぎ止めながら、鈴姫の頭を自分の胸元に引き寄せる。
「あたしはね、陰陽師の家の娘だったの。だけど、どうしてもあやかしを狩ることが出来なくて、ずーっと落ちこぼれだって認めてもらえなかった。陰陽師の卵なのに、あやかしのことが好きだったの。だから、鈴姫の気持ちもわかる。一番望まれていることで役に立てないのは辛いよね」
「ええい、うるさいですわ!」
鈴姫は顔を上げると、佐那の手を振り払った。今にも壊れそうな危うい気配を纏ったまま、佐那から距離を取ろうとする。
「泥棒娘などの同情は受けませんわ! わたくしは……あうっ!」
立ち上がりかけた鈴姫は、悲鳴を上げるとその場に崩れ落ちてしまった。右足を押さえて痛そうに顔を歪めている。
「うっわ、酷い傷」
鈴姫の元にしゃがみ込んで佐那は顔をしかめた。落下した時に痛めたのか、それとも徳利の妖力にやられたのか、足首が真っ黒に黒ずんでいる。
「少しじっとしててね。すぐに治してあげるから」
佐那が精神を集中すると、その右手に淡い光が灯る。何を勘違いしたのか、鈴姫の顔が恐怖に引き攣った。
「お、陰陽師……わたくしを滅そうというの!?」
相変わらず鈴姫の妖力は流れ出している。これ以上は本当に錠前に戻ってしまう。四つん這いになって逃げようとする鈴姫の足首を掴むと、強引に己の力を流し込んだ。
「いいから、黙って受け入れる!」
「ひいぃぃ、滅されてしまいますうぅ……って、これは?」
断末魔の悲鳴……とはならなかった鈴姫は、呆気に取られた様子で佐那の手元を見詰める。あやかしを滅するための力ではなく、癒すための力だと理解したのだろう。信じられないといった表情へと変わっていく。
「……こんなわたくしに、優しくしてくれるというの……? あなたにとって、わたくしは敵ではないのかしら……?」
「そりゃあ、無駄に苛められてるって感じてたけど、今の話を聞いたら助けないわけにはいかないじゃない。それに、あたしにとって、あやかしは敵じゃないから」
足首の治療が進むにつれ、鈴姫の顔が今度は別の意味で歪んだ。滝の如き涙がその頬に流れ始めた。
「ああ、佐那さん! わたくしも間違っておりましたわ。幸庵様の恩寵を受ける姿を見て、嫉妬をしておりましたの。このような優しいお方は、幸庵様に認められて当たり前ですわ。どうか、わたくしのことを許してくださいませ!」
「げふうっ……だーかーら、重いってばああ!」
縋り付かれた佐那は再び押し倒された。その重量に辟易しながらも、やはり鈴姫は操縦しやすい性格だと再認識する。鈴姫に告げた内容は本心であることは間違いないのだが、これほど簡単に和解できるとは思っていなかった。
「さて、原因もわかったことだし、あとはここをどうやって脱出するかなんだけど」
鈴姫が落ち着いた頃合いを見計らって、佐那は立ち上がった。鈴姫の身体から流れ出す妖力も止まっていて安心する。
「あやかしのことはよく分からないんだけど、こういう場合って頼んだら出してもらえるものなの?」
「どうなのかしら……この徳利は付喪神になったばかりで、力の制御が上手くいっていないように見えましたわ。明確な意識もまだ形成されていないようでしたし……」
「それって、待ってても出してもらえないってこと?」
嫌な予感が佐那を襲う。だが、鈴姫は余裕の表情だった。
「安心くださいませ。ここまで来れば、遅くとも数か月後には、ちゃんと付喪神としての意識も形成されるはず。そこで頼めばきっと出してもらえると思いますわ!」
「……数か月って。あたし、出る頃には骸骨になってそう……」
出口を探して歩きながら、くらりと眩暈を感じてしまう。あやかしである鈴姫は平気なのかもしれないが、人間である佐那は飲まず食わずで、数か月もは生きられない。
「そ、それは大変ですわ! あ、こちらに何かありますわよ」
「え? 何も見えないんだけど」
「妖力が集まっている場所がありますわ」
小走りになって鈴姫が先導する。しばらくその背中を追っていると、佐那にも妖力を感じられるようになった。
「ほら、やはり。これでお水は確保できましてよ!」
徳利の壁なのだろうか。崖のようになった上の方から、ちょろちょろと透明な液体が流れ落ち、泉のようなものが形成されていた。
「うーん。お水だけで数か月はやっぱりむ……ぶへっ!」
佐那は両手にすくって一口飲みかけ――反射的に吐き出していた。
「こ、これお酒なんだけど!」
どれどれ、と鈴姫も同じように口に含み、「あら、美味しいですわ」と感心していたりする。
「そっかぁ、徳利のあやかしだからなー」
いつもお酒を入れられていた徳利だ。付喪神と化してお酒を生み出すとなれば、それは納得もできるというもの。
「さ、佐那さん! 人間はお酒では生きられないのですの!? ほら、お酒ばかり飲んで恰幅のいい人間もいるではないですか!」
「あはは。あれはお酒もだけど、肴も一緒にたくさん食べるからだね。お水みたいにお酒を飲んでたら、別の病で死んじゃうよ」
「そ、そんなぁ……」
心底落胆した様子で、がっくりと鈴姫の肩が落ちた。
「せっかく仲が良くなれたと思いましたのに、こんなにすぐお別れとか嫌ですわ……」
「ちょっとちょっと、さっさと殺さないで欲しいんだけど! あたしはまだ諦めてないし!」
鈴姫がこのお酒の泉を教えてくれたことで、佐那には希望が湧いていた。あやかしといえど、無から有を作り出すことは出来ない。全ては妖力が必要だし、この泉にも妖力を感じる。この先を辿れば、外部への脱出経路を見つけられるかもしれない。
「この流れてるお酒、どこからなんだろうね」
佐那の問いかけに鈴姫が視線を上げた。お酒の流れている先は見えないが、きっと脱出に繋がる鍵があるはず。
「これをたどれば、どこか外部へ繋がっているかもしれませんわ。でも、どうやって?」
「それをこれから考えるの。式神の一つでもあればなー」
まさかこんなことになるとは想像もしておらず、陰陽師が扱う小道具は手持ちにない。
「これは使えませんですこと?」
鈴姫が耳飾りを外して妖力を籠めると、それは形を崩して何間もの長さのある細長い紐へと変じた。徳利の外で佐那を縛ったものと同じだ。
「縄だけじゃな~……」
佐那は鈴姫の反対側の耳に注目した。
「その耳飾りも使えないかな?」
「ええ? これでは長さが足りないと?」
「ううん。引っ掛ける先がないと縄だけあっても登れないでしょう?」
「なるほど! さすが佐那さん。これぞ盗賊の知恵というものなのかしら」
今までの蔑むような視線はどこへやら。感嘆したような視線が向けられる。清々しいくらいの手の平返しだ。
(どっちの意味でも、真っ直ぐな性格なんだろうなあ)
佐那は苦笑しながらも、空中に指で熊手のような形を描いた。
「小さくていいんだけど、こんな形って作れないかな? 縄も一直線じゃなくて、結び目を一定間隔に」
「ふむふむ。わたくしの手に掛かればお安いごようですわ!」
錠前のあやかしの範疇外かと心配したが、すぐに鈴姫は熊手のような形に髪飾りを変えた。縄の方も注文通りに結び目が作られる。佐那は柄の部分を縄できつく縛ると、思いっきり上空へと投げた。だが、縄が半分もいかないうちに落下してくる。
「むー……けっこう高い」
「わたくしにお任せくださいな」
鈴姫はぐるぐると頭の上で熊手を回し、「そぉれ」という掛け声とともに頭上へ投げる。しばらくして「かつん」という音がした。
「ちゃんと天井があるみたいですわ」
ぐっ、と鈴姫が力を籠めると、縄がピンと張った。
「すっごおい!」
「こ、このくらい、わたくし程度のあやかしならば当然のことですわ」
照れたように頬を染める鈴姫。佐那も自分は単純だと思っているが、鈴姫はそれに輪をかけて単純なようだ。もしかして、この素直な部分が、鍵のあやかしとしてマイナスに働いていたのでは……そんなことも考えてしまう。
「出口があるか分からないけど、とりあえず登ってみよ!」
佐那は縄へ飛びつくと、縄の結び目を使いながら、身軽に上へ上へと手足を動かした。義賊の仕事で、このような縄を登るのは慣れている。
「さ、佐那さん。待ってくださいぃ」
しばらく登っていると、遙か下から声が聞こえてくる。気が付けば鈴姫を大きく引き離してしまっていた。
「ごめんごめん。ゆっくりでいいから、落ちないようにねー!」
縄の結び目に足の指をひっかけ、楽な体勢を取る。目の前の壁には、ちょろちょろと相変わらず流れ落ちているお酒。
(ん~……あれ?)
佐那は目を細めてもう一度見返す。なんだか水量が多くなっている気がする。
(気のせいかな……?)
考え込んでいると鈴姫が追いついてきた。ぜーはー、と息を荒げている。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫ですわ。あやかしが体力で人間に負けるなどありませんわ!」
まったく大丈夫そうには見えないが、ここは頑張ってもらうしかない。佐那は少しだけ休憩してから、ゆっくりと上を目指した。
「――あー、上は行き止まり……」
やがて、熊手が引か掛かった場所へとたどり着く。少し出っ張りがあるも、出口らしきものは見つからない。
「えええ、ここまで来ましたのに……」
「あ、でも、何かあるよ!」
佐那は出っ張りに足をかけて身体を引き上げると鈴姫を呼んだ。がっくりとうな垂れていた鈴姫だが、佐那の真似をして同じ位置に上がる。
「これは……妖力の源ですわね」
川の源泉のように、お酒が流れ出している裂け目があった。人間一人がかろうじて通れるかといった狭い空間。この奥に外への手がかりがあるかもしれない。
「あたし見てくるね! 鈴姫はそこで休憩してて」
鈴姫の心配そうな視線を背中に、佐那は身軽に裂け目へ指をかけた。狭い空間に、自分の身をねじ込むようにして進んでいく。
(外に繋がってたらいいんだけど……って、んん?)
ごごごごご。
突如として聞こえてきた地鳴りに、佐那は耳をすませた。嫌な予感がする……と思う間もなく、目の前から大量の水――もとい、お酒が佐那を押し流さんと襲い掛かった。
「わぷっ! きゃああああっ!」
逃げ場もなくもろに浴びた佐那は、手足が滑り裂け目の外へと放り出される。
「佐那さんっ!」
鈴姫の悲鳴が聞こえ、伸びてきた縄が佐那の身体をしっかりと絡み取った。そのまま鈴姫の位置まで引き上げられる。
「あー、びっくりした! ありがと!」
「わたくしも驚きましたわ……」
熊手から伸びる紐の位置まで降りて、二人は呆然と裂け目を見上げた。どばどばと勢いよく吹き出す大量のお酒。裂け目は次第に大きくなっていき、とうとう滝のような酒が二人にも降りかかった。
「うわっぷ……これ、どういうことっ!」
「わかりませんわ! もしかしたら、付喪神が暴走してしまったのかもしれませんわ」
「暴走!?」
「珍しい話ではありませんわ。付喪神になりかけの時が一番不安定な瞬間。もし成り損ねてしまった場合は、せっかく集まった力が崩壊してしまいますの」
崩壊……と聞いて、佐那の顔が青ざめる。
「……あたしたち、どうなっちゃうの?」
「永久にこの空間に閉じ込められるしかありませんわ……」
佐那が視線を落とすと、空間内に溜まった大量の酒が、みるみる水位を上げて迫ってきていた。
「その前に水死してしまいそうね……」
いや、酒死とでもいうのだろうか。それを見た鈴姫が、がしっ、とばかりに抱き付いて来た。
「佐那さん、わたくしのせいですわ。せめて寂しくないよう、一人で逝かせはしませんわ!」
「だからあ、さっきから諦めるのが早い!」
ジタバタと暴れているうちにも水位は上がり、二人の身体は酒の中に浮いてしまう。天井が迫り、このままでは幾らもしないうちに溺れてしまうだろう。
「幸庵様たちが気付いて、暴走を収めることができればいいのですけど……」
「暴走、暴走……か」
絶望したように呟く鈴姫の言葉に、佐那はピンと脳裏に閃いたものがあった。
「あたし、やってみる。暴走を収められるかもしれない」
「ええ!? そのようなことできますの?」
「わかんない!」
佐那は正直に事実を言った。半信半疑の鈴姫にしっかりと告げる。
「だけど、何もしないまま死ぬのなんて嫌! 鈴姫とだってせっかく和解できたのに。出来るだけのことはやってみるから、鈴姫はあたしが溺れないように支えていて」
佐那の決意に鈴姫も心を動かされたのだろう。佐那の腰に手を回し、抱きかかえるようにして泳ぐ。
(お願い……今こそ役に立って、あたしの力!)
精神を集中する佐那の全身が、ぼうっと光を帯びた。空間を満たしていく春の陽光のような暖かい力に、鈴姫の目が見開かれる。
あやかしを倒すのは得意でなくても、癒すのは昔から得意だった。家族には見せるわけにはいかなかった能力。ここで役立てなければ、どこで役立てればいいのだろうか。
(まだ強く……まだ強く……!)
力を放出しているうちにも水位は上がり、完全に徳利の中の空間を満たしてしまった。ぶくぶく……と息を止めて耐えるも、すぐに続かなくなる。
(もう……だめ……)
耐えきれなくなったその時、不意に呼吸が出来るようになった。鈴姫が空間に鍵をかけて、酒の中に一人分の水泡を作ってくれたのだ。酒の中で微笑んだ鈴姫が、ごぽりと大きな泡を吐き出し、白目を剥いて佐那の腕の中で力を失くす。
(鈴姫っ!)
佐那を信じてくれて、最後の力を託してくれた。
(ありがとう……絶対に、絶対に助ける!)
陰陽師としての力を絞り出すようにして集中すると、佐那の全身がさらに強く光り輝いた。鈴姫の身体を足にしっかりと絡め、壁の出っ張りを使いながら、酒の出る裂け目へと向かうと、彼女を迎え入れるように開いてくれた。それに力を得て前へ前へと進む。
(あとちょっと……あと少し前に……!)
鈴姫の作ってくれた泡もなくなり、佐那は息を止めて手足を動かす。今度こそ息が続かなくなったところで、不意に遠くから明るい光が差し込んできた。
(開いたっ!?)
そう感じた次の瞬間、今度は水流の動きが逆になった。中へ中へ、となっていたのが、外へ外へと変わる。その急激な変化に佐那は追いつけず揉みくちゃにされた。ぐるぐると上下に視界が回り、しこたま酒を飲んでしまう。
意識を失いかけたところで、身体が空中へと放り出されるような感覚。直後に大きな衝撃。
「……っ! 佐那!」
幸庵の声が聞こえたような気がした――と思う間もなく、口の中に指を突っ込まれ、佐那は思い切り胃の中の液体を吐き出していた。
(た、助かった……?)
よく知った暖かさを感じる。薄目を開けた先には焦ったような幸庵の姿。
「こうあ……あふぅ……」
脱出できたという安堵で、佐那の意識はそのまま闇へと落ちていった。
◆
「――うう~……頭が痛い……」
佐那は布団の上で二日酔いに苦しんでいた。胸のあたりがむかむかして、何度も吐きそうになる。彼女の背中をさすりながら、鈴姫が丸薬と湯呑みを差し出してくる。
「佐那さん。袖の梅をお持ちしましたわ」
「あ、ありがと……」
袖の梅とは、『玉楼』でもよく使われていた酔い覚ましだ。夜の店を生業とする者達にとっては御用達だが、まさか自分がお世話になるとは思ってもみなかった。
佐那と鈴姫が、徳利に飲み込まれてからの経緯は幸庵に聞いていた。
どうやら、幸庵も異変に気付いていたらしい。徳利が付喪神になりかけているのを発見し、佐那達の気配がその中にあるのも気付いた。二人を救い出すために、幸庵は外から様々な術を掛けていた。
更には、佐那が徳利の中で解放した己の力。癒しの力自体に効果はなかったらしいが、無意識のうちに錠前破りの方の力が働いていたらしい。それと、外からの幸庵の術が効いたのもあって、徳利の蓋が開いたのだった。時間的には間一髪で、佐那の決意が遅ければ、息が続かずにそのまま酒の底に沈んでいただろう。
外へ吐き出された時の佐那はたらふく酒を飲んでしまっており、酒に溺れたような状態となっていた。おかげで今日は、死んだほうがマシだと思えるほどの、強烈な二日酔いに悩まされている。
「う~……死ぬぅ……おぅえっ……」
胃の中の物を吐き出しそうになり、慌てて桶が前に差し出される。目覚めた時からずとこうで、もう吐き出すものもなくなってしまった。
「鈴姫は……あれだけ飲んだのに、どうもないの?」
何とか桶から顔を上げて佐那は訊ねる。どう考えても鈴姫のほうが飲んだ量は多いはずなのに、彼女はケロリとしている。
「あやかしはお酒に強いのですわ。わたくしでも一樽くらい余裕ですから」
「一樽……」
規格外の量に目が回りそうになる。同時に、あやかしと同じようには飲むまいと決意する。幾らもしないうちに酔い潰されてしまうのは目に見えている。
「――二人とも、気分はどうかい?」
桶を抱えて悶えていると、幸庵が部屋へ入って来た。二人の姿を見て微笑みを浮かべる。
「これはこれは、まるで姉妹のようじゃないか。騒動は大きかったが、二人の仲が良くなったのであれば、これは僥倖と捉えるべきだろうね」
「わたくしは、佐那さんを誤解していましたわ。それなのに身を呈してわたしを助けてくれましたの。この鈴姫、佐那さんに一生お仕えいたしますわ!」
「そんな、大袈裟よ」
酷い顔してるだろうなあ、と思いながらも佐那は何とか桶から顔を上げた。
「あたしだって鈴姫がそんな想いをしてただなんて知らなかったし。だから、お相子ってこと」
「おお、佐那さん。なんとお優しい」
よよよ、としなだれかかられ、哀れ佐那はそのまま布団の上に押し潰されてしまった。やはり鍵のあやかし。元が鉄だからかとても重い。
「鈴姫や。そのくらいにしておかないと、佐那が目を回してしまうよ」
ぐえええ、となりかけたところで、助け舟を出してくれたのは幸庵だった。はっ、となった鈴姫は、えづく佐那の背中をさする。
「あとは私が面倒を見ておくよ。鈴姫も疲れているだろうに。今日は下がって休みなさい」
「はい、幸庵様」
鈴姫は素直に下がり、部屋の引き戸を開けるたところで礼をする。
「それでは佐那さん。幸庵様とゆっくりお過ごしくださいませ」
余計な一言である。固まった佐那の身体を、幸庵が膝の上に抱き上げた。
「おやおや、顔が真っ赤だね。熱でもあるのかい?」
「ふ、二日酔いだからよ」
水に濡らした手拭いを額に当てられ、うひゃっ、とばかりに小さく首をすくめた。
今日だけは幸庵の腕の中から逃げる気力がない。彼の身体から発せられる妖力は佐那の身体に染みわたる。どうやら徳利の酒も妖力を持っていたようで、その効果を打ち消してくれているのだ。袖の梅よりもよっぽど効く。気分がどんどん軽くなっていくのが実感できる。
「本当に、佐那は頑張ったね」
慈しむように言われ、佐那は小さく肩をすくめた。
「幸庵こそ心配し過ぎよ……あたしなんかのために」
「君は自分を過小評価し過ぎだよ。君の力がなければ、鈴姫を救うことは出来なかっただろうし、君自身も助からなかったかもしれない」
「そんなことない。ただ……ただ、あたしは必死で」
あれ、どうしてだろう?
佐那は目の前の景色が歪んでいくのを戸惑っていた。何度目を擦っても歪んでしまう。二日酔いとはこんなものなのだろうか。
「鈴姫も、あの徳利も。救ってくれてありがとう。この屋敷のあやかしを代表して私が礼を言うよ」
「そんなこと……うっ……ふぐぅっ……」
どうして涙が出てくるのだろう。泣くところなんてどこにもないはずなのに。幸庵の大きな胸に自分の顔を押し付けるようにして、佐那は嗚咽を漏らした。
「怖かっただろう。恐ろしかっただろう? 恥じることはないのだよ。佐那はとてもよく頑張ったのだ。今はしっかりと泣くがいい」
幸庵の大きな手が背中に回り、何度も何度も優しく撫でてくれる。
(ああ……)
そこで佐那は、今日までどれだけ自分が気を張り詰めていたのかを自覚した。
周囲は見知らぬあやかしばかり。慣れぬ仕事に、敵対してくる者もいる。その中で未知の現象に巻き込まれ、何とか生還することが出来た。自分の精神状態はギリギリで、些細なことでぽっきりと折れそうになっていたのだ。
「幸庵……ずるい」
いや、折れてしまったのだと思う。幸庵の無条件の優しさの前に、いろいろな物がガラガラと崩れ落ちてしまった気がする。
「ふふふ。あやかしとは狡いものなのだよ。知らなかったのかい? 弱ったところへ、ここぞとばかりに襲い掛かる」
幸庵の両腕が佐那の背中に回り引き寄せられる。だが、言葉の内容とは裏腹に、彼の行動はまるで卵を扱うかの如き繊細さで、佐那の全てを包み込んでいく。
「言っておくけど……」
その中で顔を伏せたまま佐那は唇を噛んだ。
「あたし、まだ落ちてないから!」
それは、己に対する宣言のようなもの。
「分かっているよ。佐那は強い。この程度のことで、自分を見失ったりはしないよ」
全てを見透かしたかのような口ぶりに、佐那は拳で幸庵の胸を叩いた。
「あたしをものにしようなんて、百年早いんだから!」
「わかったわかった。私は百年でも待つから」
まるで赤子をあやすかのような優しさに包まれて、佐那は唇をきつく噛んで自分を律しようとする。
どうしようもなく大きくなってしまった、己の感情に戸惑いながら――
