「寒いよぉ……」
 夢の中で十歳ほどの佐那は、真っ暗な蔵の中に倒れ込んでいた。
 外は雪が降ってきたのか、空気がとても冷たい。床から伝わってくる冷気は、その上に転がった佐那をそのまま氷漬けにしてしまいそうなほどだ。
「……うぅ……お腹空いた……」
 もう何日も飲まず食わずで指一本動かすことも叶わない。少し前までは寒くてガタガタ震えていたのだが、もうそれすらなくなってきた。
(あたし、死ぬのかな)
 意識も朦朧としてきた。強烈な睡魔が佐那を襲う。
 このまま眠れば二度と目覚めない――そんな予感がする。それに抗えるだけの体力はもう残っていない。
(痛い思いをしないのなら……いいのかな)
 落ちこぼれの陰陽師として、あやかしを逃がしたとして体罰を受けなくて済む。厳しい鍛錬から逃れられる。弱気は現実逃避となり、幼い佐那の心を簡単にへし折っていく。あと何日どころか、数刻も経たないうちに命の灯火は消えてしまうだろう。
「……え?」
 うつらうつら、と意識が落ちかけたところで、不意に自分の身体がポカポカと暖かくなっていることに気付いた。睡魔に抗って何とか目を開けると、そこには眩しいばかりの黄金の光。
「え? え?」
 すでに極楽に行ってしまったのだろうか。慌てて顔を上げると、そこには金色色をした獣の姿。ゆっくりと顔をこちらへ向けて来て、この獣が狐であることを知る。
「妖……狐?」
 陰陽師の卵としての直感が、ただの狐ではないと囁く。あやかしは人に害を成す存在だと教え込まれてきた。妖狐ともなる上級のあやかしとなれば、人間の魂を喰らってしまうらしい。佐那自身、これほどの妖力は感じたことがない。
(あたしを食べに来たのかな……)
 恐怖を感じる一方で、この美しい妖狐に食べられるなら仕方がないとも思った。最後にこうして、凍えた身体を暖めてくれたのだから。
 妖狐の脇腹に頬を埋め、再び眠りに落ちようとした佐那へ、妖狐の美しい顔が近づいた。せめて痛くないよう、食べるなら一瞬で終わらせて欲しい……そんなことをぼんやりと考えていると、彼女のすぐ横に、ぱさり、と何かが落とされた。
「これは……?」
 笹の葉に何かが包まれている。妖狐の促されるような視線に中を開けると、そこには握り飯が三つほど。
「これをあたしに?」
 妖狐が頷いたような気がする。佐那は恐る恐る握り飯を口にした。口の中で米粒がほどけ、程よい塩味が食欲を刺激する。ゆっくりと飲み込むと、身体の奥から力が沸いてくるような気がした。
 数日振りの食事は、弱り切っていた佐那の身体を蘇らせていく。一つ目のおにぎりはあっという間になくなり、二つ目、三つ目へと手が伸びた。
「おいしかった……でも、どうして……ふぁ」
 全てを食べ終わり、妖狐に問いかけようとするも、大きな欠伸が出てしまった。お腹が膨れてしまって、今度こそ抗いようのない睡魔がやってくる。力尽きたように妖狐の脇腹に倒れ込むと、ふさふさの尻尾が彼女を包み込むように覆った。
(ああ、なんて暖かいんだろう)
 助けてくれた理由とか、どうして陰陽師の屋敷にいるのだとか、色々と聞きたいことは山ほどある。
 けれど、幼い佐那にはその時はどうでもよくて――妖狐の暖かさが心から有難かった。

    ◆

 まだ、誰も起きていない早朝の店。佐那は井戸で水を桶に汲んでいた。
 ばしゃばしゃ、と顔を洗うと、冷たい水が火照った頭と頬を冷やしてくれる。手拭いで顔を拭いてから、もう一度井戸から水を汲んだ。それを持って、よいしょっと廊下を歩き、通りに面した店の表へと持って行く。
 広間の端に桶を置いてから、雑巾を水に浸して固く絞ると、膝をついてせっせと床を拭いていく。『玉楼』でも店へ出ない日は、こうして掃除をしていた。質屋と妓楼。店は異なっても清潔にしておくという部分では変わらないはずだ。
 尤も、佐那がこんなことをしているのは、別の意味もあった。
(あー、びっくりしたぁ……)
 目覚めた時のことを思い出して、頬に手を当てる。汲みたての水で洗ったのにまだとても暖かい……いや、熱いくらいな気がする。
 今朝は、起きるなり悲鳴を上げてしまった。何しろ目を開けると、眼前に幸庵の寝顔があったからだ。どうして同じ布団で一緒に眠っているのか。あわあわと腰を抜かしていると幸庵も目覚めて、「昨夜のことを覚えていないのかい?」と、問いかけられた。
 そこで怒涛後の如く蘇るは昨夜の記憶。
 すっと身体に入って来るお酒に、思わず盃を重ねてしまった。質屋という慣れない仕事をした後ということもあって、思ったよりも疲れてしまっていたようだ。その中でのお酒は、容赦なく佐那の思考を奪い、幸庵の理性を試すようなことを色々としてしまった。お酒のせいで記憶が……なんてことは全くなく、ばっちり覚えているものだから始末に負えない。
 からかってくる幸庵を部屋の外へ追い出し、佐那はさっさと着替えると、こうして朝の掃除をしているわけだ。下っ端なら掃除をして当然、と自分に言い聞かせながらも、身体を動かして忘れないとやってられないという面も否めない。
(は、恥ずかしすぎる……)
 穴があったら入りたい。それが墓穴だとしても喜んで飛び込もう。昨日の記憶を消せるなら、あやかしにだって魂を売ってしまいそうだ。
(だけど……)
 ひとしきり掃除も終わり、佐那は雑巾を桶につけて一息ついた。
 完全に無防備な状態で寝落ちをしてしまった。己の容姿が特別優れているとは思っていないが、襲ってくださいと言わんばかりの姿だったに違いない。これが『玉楼』だったら……と、そんなことを考えて、佐那は背筋が寒くなった。
 ところが、幸庵は佐那に手を出さなかった。目覚めは確かに幸庵の腕の中だったが、彼女の素肌には指一本触れていない。
(本気……なのかな)
 本当に自分のことを大切にしようとしてくれているのだろうか。屋敷へ盗みに入った娘なのに。
(もしかして、それほどの魅力がないってこと!?)
 それはそれで悲しすぎる。では、手を出してくれていたらよかったのかといえば、それもまた違う。そうなれば、首を吊っているか、返り討ち覚悟で幸庵を滅さんと戦いを挑んでいただろう。
(あああ……、あたしどうかしてる!)
 悶々と一人、頭を抱えていると、奥から冷たい声が聞こえてきた。
「あぁら? 新入りがこんなところで何をしているのかしら?」
 鍵のついた輪っかを、指先でくるくると回しながら、奥屋敷から鈴姫が歩いてくるところだった。
「こそこそと音がしますから泥棒かと思いましたら、本当に泥棒娘ではありませんか。そんなところに金目のものはありませんことよ、間抜けな泥棒娘さん? ぜーんぶわたしがしっかりと管理していますもの」
 隠そうともしない敵対心に佐那は顔をしかめた。自分の正体を考えればこの反応が当然だと思う一方で、佐那個人に恨みでもあるかのような様子に戸惑いも覚えてしまう。
 佐那は雑巾を桶の水に浸しながら主張した。
「今はこの店に雇われた身だから、このくらい当然よ」
「ふん。そうやって幸庵様に媚びを売って、取り入ろうって魂胆ですの? この鈴姫が絶対に許しませんわ」
「そ、そんなことないし!」
 がたん!
 あ、と気付いた時には、鈴姫が水の入った桶を蹴り倒していた。その水がもろに佐那へとかかる。
「嘘をおっしゃい。幸庵様がお前の部屋に泊ったのを知っているのだから。卑しい遊郭の女。一体、どんな手を使って幸庵様をたぶらかしたのか。義賊などと正義ぶってみせても、しょせんただの泥棒ですわ」
 ――ただの泥棒。
 鈴姫の一方的な物言いが、佐那の心にグサリときた。水を被った姿のまま立ち上がる。
「うっさい! あんたたちこそ高利貸しで私腹を肥やしてるくせに。あたしだってちゃんと調べてるんだから! あんたたちのせいで困っている人がたくさんいるんだから!」
「はあ? 何を言っているのかしら? 幸庵様は……」
「――おやおや。朝から二人とも仲の良いことだねえ」
 のんびりとした声に、はっ、としたように鈴姫が口を閉ざした。幸庵が表玄関の広間の入り口に腕を組んで立っていた。
「鈴姫や。これはどういうことかね?」
「……っ……」
 悔しそうに鈴姫は唇を歪めると、無言で踵を返す。幸庵がその背中に呼び掛けた。
「あ、これ。ここを片付けて……いやはや、困った子だねえ。佐那は怪我はないかい?」
「……いえ」
 佐那は立ち上がると、濡れた服の裾を桶の上で絞った。ぽたぽたと雫が落ちる。
「片付けるのを私もてつだ……」
「いいえ! これはあたしの仕事!」
 手を出そうとした幸庵へ、佐那はきっぱりと宣言した。袖で顔を拭ってから振り返る。
「所詮、泥棒なんてこんなもの。それが捕まってしまったんだから、このくらいの仕打ちはいくらでも覚悟してる。もっと酷い立場で使ってくれたって問題ないんだから!」
 幸庵や文福から優しく扱われて忘れてしまうところだった。本来なら鈴姫の反応こそが正しい。『玉楼』に拾われたばかりの頃もそうだったではないか。泥棒など、本来は忌み嫌われる存在でしかないのだ。
「ふむ……」
 上げかけていた手を、幸庵がゆっくりと下ろす。
「本当に佐那はそう思っているのかい? もしもそうなのだとしたら、君には罰を与えないといけないね」
 幸庵の言っている意味がわからなかったが、罰を与えるというのなら、喜んで受けてみせる。佐那は下から見上げるようにして睨み付けた。
 しばらく幸庵は考えている風情だったが、やがて諦めたかのように首を振った。立ち去りながら佐那に告げる。
「今日のところは気の済むようにするといいよ。だけど、次回からそんな自分を卑下するようなことは許さないからね」
 一人残された佐那は、袖で目元をゴシゴシと拭ったのだった。

    ◆

「嬢ちゃん。これを書いてもらえるかの」
「は~い!」
 それから数日。佐那は利康の手伝いをしていた。
 浅野屋は繁盛しており、客が途切れることはない。台帳の付け方は、コツさえ覚えればすぐに慣れた。数日もすると台帳管理はほぼ任され、利康は質に入れられる品物を蔵から持ってきたり、小者に渡したりすることに専念出来ている。
 それよりも問題は幸庵だった。
(う~……なんかだかなぁ……)
 あれから幸庵がよそよそしい、というわけではなかった。むしろ、夜は佐那を篭絡しようと、美味しい食事がたんまりと出され、耳元で甘く囁かれる。それを冷たくあしらうのが日課となりつつある。
 一番の問題はそこではない。鈴姫に苛められないように見張っているつもりなのか、毎朝掃除をしている佐那を、柱の影からずーっと無言で見続けているのだ。その瞳はなぜか悲し気で、やりづらいことこの上ない。
 鈴姫の方はといえば、さすがに幸庵がいる前では何もしてこない。とはいえ、幸庵も四六時中、佐那に張り付いているわけではない。ちょっとした隙に、廊下に土をバラまかれたり、庭へ突き落されたりと、単純な嫌がらせは受けている。
(ほんと、腹立つ……)
 佐那に対する鈴姫の『泥棒』という単語は間違っていない。この屋敷に忍び込んで損害を与えようとしたのだから。いくら悪徳商人しか狙わないといっても、やっていることは泥棒と同じ。だから、自分に幸せになる権利などはない。いつか捕縛され、三条瓦あたりに晒されるのが当然の結末。
 それでも、佐那は己の裏の仕事に誇りを持っていた……持とうと努力していた。自分は『義賊』であり『泥棒』ではない。『義賊』になってから、己の欲望のために盗みを働いたことなど、ただの一度もないのだから。
(……ん?)
 台帳を付けていると、佐那の耳は店の外で大きな籠のようなものが止まるのを捉えていた。がやがやと騒々しい声がして、すぐに浅野屋の暖簾が動いた。
「幸庵はいるか?」
 暖簾をくぐって入って来たのは、二十代前半ぐらいだろうか。涼しい目元の優男。護衛なのか牢人風の男を数人引き連れている。
「私が幸庵ですよ。ものものしい雰囲気ですねえ」
 対応する幸庵の声を聞きながら、優男の顔をどこかで見たことがある、と佐那は首を捻っていた。
(げっ、思い出した! あの男は……)
「越後屋の高安と申す」
 尊大な態度で名乗った男は、町でも一、二を争う大店、越後屋の長男だった。春を売らない『玉楼』で無理を押し通そうと暴れたあげく、出入り禁止になった男だ。
(それだけじゃないんだよね~……)
 これは不味い……とばかりに、台帳へ記入する振りをして顔を隠していると、幸庵に声を掛けられた。
「佐那、大事なお客様だ。奥の部屋で応対するからお茶を持って来なさい」
 いつになく真剣な表情の幸庵に、佐那も背筋が伸びた。
「はい。すぐに」
 腰を上げたところで、高安に呼び止められた。
「おい、そこの女」
 ぎぎぎ、とぎこちなく佐那は振り返る。少し……どころではなく非常に嫌な予感がする。
「『玉楼』の佐那だな? やはり、ここにいたか。やっと見つけたぞ」
「き、気のせいだと思います!」
 視線が追いすがってくる気配がしたが、佐那はくるりと振り返ると、いそいそと店の奥へと移動した。
(うへえ……こんなとこに来るなんて)
 冷や汗が首筋を流れる。
 義賊として活動するための情報を集めるために、佐那も『玉楼』で客の前に出る機会もあった。そこで色々な話を教えてくれたのが高安だった。佐那も調子に乗って、気を持たせるような素振りを見せたのがまずかったのだろう。
 最終的には、あろうことか佐那を押し倒そうとしたところで、『玉楼』を出入り禁止になって解決した……と、佐那は思っていたのだが、まさかここまで追いかけて来るとは思わなかった。
 正直、顔もみたくない。さっさとお茶を出してずらかるべきだろう。
「佐那もそこに控えておきなさい」
 ところが、奥の部屋でお茶を出し、逃げるように退散しようとすると、幸庵に呼び止められてしまった。渋々ながら幸庵の斜め後ろに隠れるように座ると、商談が始まった。
「高安様。越後屋の若旦那が私のような店をご利用とは、これは如何した次第でございましょうか」
「幸庵。詮索は身のためではないぞ」
「これはこれは、私としたことが。申し訳ありません」
 丁寧に幸庵が頭を下げる。高安の隣で細長い布包みを持っていた者が、二人の中央でその包みを開いた。中から出てきたのは見事な黄金の拵えの脇差だった。まるで将軍が大名に下賜するような見栄えである。
「これを質草として千両用立ててくれ」
「ほほお。千両とはなかなかの大金。元金が大きければ利子も大きくなるというもの。この品物も名のあるものに見受けられますが、返す当てはあるので?」
「失礼な口を慎め!」
 用心棒がいきり立つも、高安が右手を上げて制した。
「幸庵の心配は尤もなこと。お主が懸念している通り、これは越後屋でも由緒ある大切な脇差。決して質流れになってよいものではない。近日中に大きな取引がある。それが済めば千両など二倍にしても安いもの」
「ほほう……。念のためにお訊ねしたいのですが、それは間違いないのですね?」
「それこそ、これ以上は幸庵が知る必要はないな」
 にべもない回答に、幸庵は「ふむ」と小さく呟いた。脇差を持ってしばらく吟味していたが、やがて佐那の前にそれを置いた。
「佐那」
 査定しなさい、ということだろう。このようなものを女である自分が手に触れていいのだろうか。おそるおそる手を伸ばし、着物の袖越しに直接触れないようにして確認する。
「幸庵はその女を『玉楼』で買ったのか?」
 高安の言葉に、佐那の肩がびくりと反応した。いつの間にか、高安が舐め回すような視線を向けていた。気持ち悪くて背筋がもぞもぞしてしまう。
(どこから漏れたのやら……)
 遊び過ぎて金の尽きた者が質入れに来ることもある。もしかすると、その足で吉原に繰り出しているのかもしれない。佐那も顔を隠しているわけではないので、噂が立ったとしたらその辺りからだろう。
「まあ、そのようなところです」
 穏やかに幸庵はこたえると、そっと佐那の背中に手を触れた。
「利発で非常に頭の回転も早い娘でしてね。『玉楼』の遊女としておくには惜しい。聞けばまだ『玉楼』でも身分が低く、身請けにも手ごろな金額。誰かのものになる前にと、私が千両で買ったのですよ」
「ほう。千両」
 高安の唇が皮肉気に歪んだ。
「そのような金額をポンと出せるとは。さすが、浅野屋さんは景気がいいことですなあ」
「なあに。先行投資だと思えば安いもの。ここの仕事も覚えるのが早い。玉楼で良い品を目にしてきたからか、彼女の目利きは正確でね。それに、閨の中でも私を十分に満足させてくれております」
 これ見よがしに、ぐいっと腰を引き寄せられ、佐那は危うく悲鳴を上げるところだった。
(嘘よ、嘘! 何もされてないから!)
 なぜか殺気の籠った高安の視線がこちらへ向けられている。それに気付いていないのか、幸庵の手は優しく佐那の肩を撫でる。これでは新婚がイチャイチャしているようにしか見えないではないか。
「佐那、終わったかい?」
 逃げ出すべきか本気で迷っていると、幸庵が催促してきた。いつの間にか仕事をする時の、柔らかいながらも厳しい視線に戻っている。
「君の見立てを聞かせてもらおうか」
 佐那はどう回答するべきか迷った。
 見事な拵えで刃の波紋も芸術的な美しさ。しかし、この一振りに千両の価値があるとは佐那には思えなかった。高安の表情を見ると、自信満々ではあるが、どこかそわそわしているようにも見える。
(そもそも、大店の若旦那が、質屋に来てまで千両も必要な理由ってなんだろう?)
「女。早く結果を聞かせよ」
 苛々と高安が言ってくる。その背後では用心棒が睨みを利かせてくる。この場の雰囲気にそぐわぬ回答をすれば、刃傷沙汰になってしまうかもしれない。佐那は両手を畳につき深々と頭を下げた。
「千両。びた一文まかることはないかと」
「おお、佐那もそう判じたのかね。私と同じ意見だ」
 よしよし、とばかりに下げた頭を撫でられる。高安の緊張が解けたのを佐那は感じた。
「そ、その脇差は千両でも安いくらいであるからな。浅野屋よ、心して預かっておくがいい」
「この幸庵の名に懸けて、虫一匹近づけないように保管しておきましょう」
「言葉だけでは安心できんからな。保管する場所も見せてもらおうじゃないか」
「おお、たしかにその通りですね。高安様にご安心頂くためにも、蔵の場所へご案内いたしましょう」
(それは、ちょっと……)
 不用心ではないのだろうか。佐那が忠告しようとするも、「もう下がっていいよ」と告げられ機会を無くしてしまう。奥の部屋から表へ戻ると、幸庵が利康と鈴姫を連れて、蔵の方へ行ってしまったので、一人で店の番をする羽目になった。
 幸いにもお客が来ることもなく、手持ち無沙汰にしていると幸庵が戻って来た。高安を送り出してから佐那に声を掛ける。
「ありがとう、佐那。お疲れだったね」
「ねえ、一体何を考えているの? わざわざ保管場所を教えるとか。泥棒に入って下さいって宣言しているようなものなんだけど?」
「ふふふ。一番の凄腕は私の元にいるからね。心配はないはずなのだが」
 うぐっ、と佐那は口をへの字に曲げた。一番の凄腕というのは、佐那にとって賞賛ではあるのだが、皮肉もなしに言われると何だかこそばゆい。
「そりゃあ、あたしほどの錠前破りの腕を持ってる人はそういないはずだけど……でも、絶対あの人たちあやしくない?」
 佐那の『玉楼』で培った直感がそう告げる。必ず裏で何かを企んでいる。義賊として忍び込む家の者はみんなそんな感じだ。何かしらやましい雰囲気を抱えている。
「いいねえ、いいねえ」
 ところが幸庵は、佐那の懸念に動じることもなく、嬉しそうに唇を綻ばせた。
「佐那が浅野屋を心配くれるとは、私もとても嬉しいよ。だんだん店の一員になってきたのだね」
「そ、そういうのじゃないし!」
 しまった、とばかりに佐那は視線を逸らした。相手は高利貸し。彼らを助けるつもりではなかった。何かよからぬ問題が起きてしまいそう……そんな純粋な思いから忠告してしまった。
 盗まれてしまえばいいのに失敗した、と落ち込んでいると幸庵が訊ねてきた。
「佐那は気付かなかったのかい?」
「気付くって、何を?」
「あの男の目的は佐那だよ」
「へっ……あたし?」
 思わず自分の顔を指すと幸庵は頷いた。
「君の『玉楼』での武勇伝は聞いているからねぇ。お客を吹っ飛ばしたのだって?」
「ど、どうしてそのことを!?」
 赤くなってしどろもどろになる佐那。
「実は私もその日、ちょうど『玉楼』にいたのだよ。騒ぎが起きて、何事かと後で話を聞いたら、手を出されそうになった遊女が暴れたとね」
「し、仕方がないじゃない! あのお店は、そういう約束のお店なんだから!」
 吉原の中にありながら、春は売らないという特異な『玉楼』という店。
 高安に押し倒されかけた佐那は、義賊で鍛えた身のこなしでするりと逃げると、庭先へ蹴り飛ばしたのだ。高安はあのような男故、ちょっとした……むしろかなりの騒ぎになったのだが、左近が強気で押し通してくれたので助かった。まさか、その時のことを幸庵も知っていたとは。
「よほど佐那は気に入られているようだねえ。ここまで追いかけてくるのだから」
 ふふふ、と愉快そうに笑う幸庵。佐那は盛大に顔をしかめた。全くもって面白くない。
「最悪な気分。でも、どうするつもりなのかな?」
「きっと私のやることにケチを付けて、その落とし前で佐那を要求したいのだろうよ。女遊びで金がないのも事実かもしれないがね。君を手に入れて、ここでの借金も踏み倒せれば、あの男にとっては万々歳だとは思わないかい?」
「まさか、本当に盗みに入ってくる……?」
「それはどうだろうねえ。餌は撒いたのだが」
 幸庵の台詞に、わざと蔵の様子を見せたのだと佐那は悟る。
「あなた……策士ね」
「それは、もちろん」
 これぞ高利貸し。そんな、極上で、極悪の笑みを幸庵は浮かべた。
「佐那についた悪い虫は退治しないとね。問題はあの男が、屋敷に忍び込んでくれるほどの勇気があればいいのだが」
 怒らせたら怖い種類の人――もとい、あやかしかもしれない。初めて佐那はそんなことを思ったのだった。

    ◆

 その数日後の夜。厠へ立った佐那は、井戸の水で手を洗っていた。
(月が綺麗)
 幸庵の屋敷へ忍び込んだ日は新月だった。それから時は過ぎ、今日は上弦の月といったところか。雲一つない夜空からの星明りもあって、十分に庭を青白く彩っている。幻想的な雰囲気はいつまで見ていても飽きない。
(まさか、ここまで追いかけてくるなんて)
 そんなお金の取れそうな景色を眺めながらも、佐那の頭の中は高安のことで占められていた。こんなに執念深い男なら、もっとギャフンと言わせて、二度とお目にかかりたくないと思うくらい痛めつけてやればよかった。
(だけど……)
 すっかり佐那の役目となった、台帳への記帳内容を思い出しながら佐那は腕を組む。ここ数日、記帳していて分かってきたことがある。
 それは、幸庵が世間の噂ほど、高利を貪っているわけではないということだ。たまに目の玉の飛び出るような利息を要求する時もあるが、それは相手も悪名高い者だったり、賄賂で重罪人を逃がすような役人だったりと、佐那の義賊としての相手となるような者ばかりだった。一般人への商売は、むしろ薄利である。
(本当は悪い人じゃない……?)
 だとしたら、その噂はどこから出たのだろうか。
(火のないところに煙は立たない、って)
 佐那は首を振って疑念を追い払った。まだこの質屋の仕事を全て把握したわけではない。幸庵にとって都合の悪い事実が隠されているかもしれないではないか。
「あー、今日も離してくれないんだろうなー……」
 ぐったりと肩を落としながら佐那はとぼとぼと廊下を歩く。
 一つの布団で寝ながらも、幸庵は決して佐那を辱めるようなことはしない。赤子をあやすかのような扱いは、むしろ心地よいとすら思ってしまう自分に戸惑う。
(……ん?)
 視界の端。黒い影が動いたような気がして佐那は足を止めた。反射的に身体が動いて、縁の下に身を潜めたのは、義賊の本能のようなものだっただろう。
(誰かいる!)
 緊張で胸元をぎゅっと掴む。その中には、幸庵からもらった朝顔の簪。お守りとして常に持ち歩くように言われていた。
 庭を凝視していると、池を挟んだ向こう側の茂みから、ゆるゆると人の動き出す気配がした。注意深く身を潜めているつもりだろうが、時折り影が庭へと伸びてしまっている。
(警備ってものがなってないよねー)
 足音を立てないように気を付けながら、佐那は人の気配を追った。
 屋敷の者は寝静まっているのか、どこからも反応がない。屋敷を覆う壁こそ高いものの、内部へ入ってしまえば、庭の植木に多くの蔵。身を潜める場所には困らない。
 忍び込んだ賊の目的地は決まっているようだ。物陰に身を隠し、少々遠回りをしつつも足取りに迷いがない。
(これは、もしかして……)
 立派な拵えの脇差を思い浮かべる。賊の一人がある蔵の前で足を止めたことで、佐那の直感は確信に変わった。
「何をしているの!?」
 潜んでいた物陰から飛び出して佐那は叫んだ。ぎょっ、としたように賊の視線がこちらへ向いた。数は四人。そのうちの一人は高安ではないだろうか。
「このまま立ち去るなら見逃してあげるけど、そうじゃないな……っ!?」
 不意に背後から羽交い絞めにされ口を塞がれる。
(しまった!)
 別行動を取っていた者がいたようだ。四人に注意を向けていた佐那はそれに気が付かなかった。力任せに暴れるも掴まれてしまうと男の力には敵わない。あっという間に地面に押し付けられ、手首と足を縄で縛られた。声を出せないように口に布も突っ込まれる。
「まさか本人が登場するとはなあ」
 ぐふふ、と下卑た声が覆面の奥から漏れる。佐那の予想通り、それは高安のものだった。彼女の目の前で蔵の閂が外され、男が一人中へ入ったかと思うと、すぐに昼に質入れした脇差を持って出てきた。
「この脇差の管理不行き届きで、お前をもらおうと考えていたが、ここで捕らえることができるとは俺も運がいい。おいお前ら、見つかる前にずらかるぞ」
(や、屋敷の外に出たら……っ!)
 それは非常にまずい。恐怖で心が凍り付く。
 胸の傷はまだ癒えていない。この屋敷から出れば幸庵の術が切れ、佐那の身体には致命傷が刻まれて絶命してしまう。そして、そのことを賊は知らない。目的の場所――きっと高安の屋敷――に到着した時には、佐那は死体となっているだろう。
 必死にもがくも、芋虫のように身をくねらせることしか出来ない。賊達が頷き、佐那の身体は物でも抱えるかのように持ち上げられた。
(誰か、助けて……幸庵っ!)
 その直後、佐那の身体は意に反して大きくのけ反っていた。ぼわわん、と胸元から何かが飛び出した感触。
「うわあっ!?」
 同時に聞こえた男達の悲鳴。投げ出された佐那は、受け身も取れずに地面に落下する。
(いったぁ……な、なにが!)
 ゴロゴロと転がり、何とか顔だけを上げた。
「もが……」
 布を詰められた口から驚きの声が漏れる。佐那の目の前では大きく開いた花――朝顔だろうか――が、盗賊の一人の頭を、まるで噛みつくかのように、ばっくりと覆っていたからだ。
(あやかしだ!)
 胸元に仕込んでいた冷たい簪の感触がない。あの朝顔の化け物は、その簪が変化したものに違いない。簪は使いようによっては護身用の武器にもなる。佐那に持たせることによって、彼女からの信頼を得ようとしているのかと思っていたが、まさかこんなからくりが仕込んであったとは。
「な、何だこいつは、やめろおおおっ!」
 盗賊達は混乱の真っただ中となっていた。脇差や短剣。それぞれの得物を抜いて、朝顔のあやかしに立ち向かっていくも、陰陽師の気の籠っていない武器では傷をつけられない。ぱくっとかぶりつかれたり、放り投げられたりと散々である。
「――おやおや、これは騒がしいことですねえ」
 ぜえぜえ、と盗賊達の息が上がってきたあたりで、背後から静かな声が聞こえた。佐那が顔を上げようとすると、縛られた縄を解かれる気配。口の中の布も取り出された次の瞬間、佐那は安堵のあまり、自分よりも一回り大きな身体に抱き付いていた。
「幸庵っ!」
「いつもこのくらい素直だったら私も嬉しいのだが」
 耳元でからかうように囁かれ、はっと気づいて慌てて両腕を離す。
「まったく、どうして先に私を呼ばないのかねえ。後でたっぷりとお仕置きをしてあげないといけない。覚悟しておくがいいよ」
 不満そうな……実に不満そうな幸庵の表情。ある意味、盗賊に連れ去られそうになった時よりも怖い。「ひょえええ」と心の中で悲鳴を上げていると、幸庵の視線が目の前の盗賊達へと向かった。
「さて、どうやら見覚えのあるお人もいるようですが、これは気のせいでしょうか」
 武器を抜いたまま、盗賊達がじりじりと下がる。
 朝顔のあやかしは力を使い果たしたのか簪の姿に戻ると、佐那の元に戻ってきた。それに勇気を得たのだろうか。相手は五人、こちらは二人。今度は逆にじりじりと距離を詰めてくる。
「やっちまえ!」
 高安が覆面越しに叫ぶのと同時に、盗賊達が襲い掛かって来た。
「ふむ。これはこちらにお仕置きをして差し上げるのが先のようですね」
 佐那を庇うように前に出ると、幸庵は半身になって腰を落とした。
 盗賊の一人が突き出してきた短剣をひょいと避け、その勢いを使って投げ飛ばす。背後からの脇差は身をかがめて躱し、足払いで転ばせた。
(す、すごい……)
 幸庵はあやかしとしての力は使っていない。体術だけで盗賊達を手玉に取っていた。
「くそっ、仕方ねえ。ずらかるぞ!」
 敵わないと悟ったのか、ぴいぃっ、と高安が口笛を吹いた。それが合図なのだろう。盗賊達が一斉に退却の準備を始める。
「私の領域を侵したのですから、少しばかり脅かせてもらいますよ」
 幸庵がすっと右手を上げると、ぱっと昼間のように周囲が明るく照らされた。
(文福! 利康、鈴姫も……?)
 そこに現れたのは浅野屋の者達。茶釜に手足が生えていたり、火を吐く白い犬であったり、和鍵を竜の頭のようにしてじゃらじゃらと鎖が空を飛んでいたり。他にも鬼火や、手毬が一人でポンポンと跳ねたりと、奇怪な現象のオンパレード。陰陽師の力のある佐那だからこそ、全て浅野屋の者達だと見抜けたが、盗賊達にとってはただのあやかしでしかないだろう。
「あ、あやかし屋敷……」
 呆然と呟いたのは高安だったか。
「お前たち、懲らしめてやりなさい」
「うぎゃあああああ!」
 幸庵の掛け声を合図に、あやかし達が一斉に盗賊達へと襲い掛かる。悲鳴を上げて逃げ回る高安と他の盗賊達。それを追いかけるあやかし。最初から戦いにすらならず、一方的な展開だった。
 一番、臆病に逃げ回っているのは高安だ。屋敷から脱出することすらも頭から抜けているようで、すっかり腰を抜かしている。その取り巻きの盗賊達はもう少し冷静だった。高安を守るようにしながらも、退路を確保しようと奮闘している。
(男達の狙いは何だろう)
 まだ彼等は諦めていない。嫌な予感がして佐那は右へ左へと視線を巡らせた。切り札をまだ隠しているはず……と、ふと、屋敷の塀の上で何かが動いた。夜目の効く佐那は、それが弓を構えた男の姿だと察した。やはり、逃げるための手段を残していた。狙う先は――幸庵。
「だめぇっ!」
 頭で考えるよりも先に身体が動いた。体当たりで幸庵を突き飛ばすと同時、男の手から矢が放たれた。体勢を崩している佐那は避けられない。そのまま矢は、吸い込まれるように彼女の胸を貫いた。
(これ、死んだ……って、あれ?)
 ポカンと佐那は己の胸に刺さった矢を見詰めた。背中へ手を伸ばすと、確かに矢じりが貫通している。それなのに意識ははっきりしているし、死にそうな気配もない。
「え、え……どういうこと」
 右手で矢を掴んでぐいっと引き抜く。痛くもないし血も出ていない。
 ひょぉう、という風切り音。今度は喉元を矢が貫く。衝撃で少しよろめいたものの、これもまた同じ。倒れる様子もない佐那を見て、慄いた悲鳴が聞こえた。
「ば、化け物……お前もあやかしだったのか!」
「誰があやかしよっ! あたしは人間だから!」
 かっ、と頭に血が上った佐那は、喉に刺さった矢を抜くと、化け物呼ばわりした高安へと投げつけた。
「ひいいい、や、やめてくれ。オレが悪かった。祟らないでくれえええええ!」
「幽霊とも一緒にしないで!?」
「ひぎいいいいっ!」
 とうとう口から泡を吹いて失神してしまう高安。
 他の盗賊達も、佐那の不死身ぶりに恐れをなしたようで、主人であるはずの高安を置き去りにして、さっさと塀をよじ登って逃げてしまった。
「おやおや、忘れ物だよ」
 幸庵はやれやれと首をすくめると、高安の襟首を掴んで空中へ放り投げた。塀の外でどさりという音がする。その衝撃で目が覚めたのか、「ひいいいい」と悲鳴を上げながら逃げていったようだ。
 盗賊達がいなくなると、庭は嘘のように静かになった。他に賊の気配がないのを確かめてから佐那の元へと幸庵が戻って来た。
「佐那も無茶をするねえ。大丈夫かい?」
「……こ、幸庵」
 静けさとともに、佐那の頭も冷静さを取り戻してきた。二回ぐらい死んだはずなのに、なぜかピンピンしている自分の身体。こんなの人間ではない。
「あ、あたしどうなっちゃったの!? まさか幸庵……知らない間に、あたしをあやかしにしちゃったの!?」
「ああ、てっきり気付いているものだと思っていたのだが」
 慌てふためき、我を忘れそうになる佐那を宥めながら、幸庵は種明かしをする。
「佐那に掛けた術を忘れたかい? 君の負った怪我は、人形が引き受けてくれている」
「あっ……」
 それで佐那はピンときた。胸と喉に刺さった矢傷は、あの人形が引き受けてくれたのだ。
「少しばかり人形が酷いことになってしまったかもしれないがね。君の身体には傷一つついていないはずだよ」
 乱れた寝間着姿の佐那を見て、幸庵は上掛けを脱いでくるんでくれる。
「それって、実は……」
 あやかしになったわけではなかった。その事実に安堵したところで、ふと別のことに思い当たる。
「新しい傷のおかげで、あたしの完治が遅れるとか、そんなのはないの?」
「それはその通りだねえ。私はあやかしだから、あの程度の矢では傷すらつかないというに……。でも、とても嬉しかったよ。ありがとう」
 そうだった。幸庵はあやかしで、それも妖狐。陰陽師でもない盗賊如きに、傷を付けられるような相手ではない。
(要するにこれって……)
 単に佐那は己の傷を増やしただけ。
 その事実に気付き、がっくりとその場に膝から崩れ落ちたのだった。

    ◆

 ――浅野屋の新入りはあやかしらしい。なんでも、斬っても突いても死なないようだ。
 そんな根も葉もない噂が流れ始めたのは、賊が忍び込んだ翌日からだった。
 もちろん、佐那には噂の出所の見当はついている。命からがら逃げだした高安達に決まっている。
 質入れした脇差の代金を彼等が払いに来たのは、それから五日後だった。ただし、訪れたのは高安ではなく全く別の人間だった。さすがに本人が訪れるだけの度胸はなかったようである。
「ひとまずは一件落着だね」
 その夜。二人で夕餉を前にして、幸庵は上機嫌な様子で酒を煽っていた。
「あたしは……すごく複雑」
 二度と高安に付きまとわれなくなった代償に、自分の治療の時間が長くなるのは想定外だ。身代わりになってくれた人形はといえば、首に矢傷が増えていたし、塞がりかけていた胸には再び大穴が開いて、向こう側の壁が見えんばかりだ。
「そんなに卑下するものではないよ。佐那は自分の身を代償に、私を助けようとしてくれたのだから。これほど人のために動ける娘を私は知らないよ」
「…………そんなんじゃない」
 居心地悪く佐那は座り直した。
 確かに幸庵を助けようとしたのは事実。それが結果として無駄な行為だったとしても。だが、相手が幸庵でなくとも、佐那は同じことをしただろう。
「そうだね。佐那は私を助けようとしたのではない」
 見抜かれていた。その事実に、佐那はますます小さくなった。幸庵は手酌で盃を満たすと、彼女に言い聞かすように告げてきた。
「あのようなことは、もう二度とするのではないよ」
 いつになく厳しい口調に、はっと佐那は顔を上げた。幸庵の視線は射抜くかのようで、どんな矢に射られるよりも痛く感じた。
「ここ数日の君を見ていたがね、己を痛めつけても誰も褒めてはくれない。自分の気持ちは楽になるかもしれないが。それで得られるのは自己満足だけだ」
「そんなこと……」
「いいや、そうなのだよ。君は囚われの身になる元凶となった私を助けるために、何のためらいのもなく身を危険に晒した。これが何よりの証拠だ」
 きっぱりと言い切られ、佐那は言葉に詰まった。
 そうなのだろうか。義賊として誰かのためになれるよう働いてきた。日々の生活もその延長のつもりだった。困っている人を助け、掃除のような下働きは率先する。自分でも意識していなかったが、もしかしてそれらのことは、己のためにやっていたのだろうか。
「……そんなこと」
 口に出そうとすると嘘に思えてくるから不思議なものだ。
「……ないし」
 何とかそれだけを呟いて、こっそりと幸庵の表情を窺う。幸庵はそんな佐那をしばらく観察するように見詰めていたが、これ以上は無駄だと思ったのか、小さく嘆息した。
「今日のところはこれくらいにしておいてあげよう。あまり追い詰めて、将来のお嫁さんに嫌われたくはないからね」
「だからあ、あなたの嫁にはなりませんーっ!」
 ここ数日、繰り返されているやり取りに、やっと佐那は警戒心を解いた。焼き魚にお刺身に卵焼きと、今日も豪勢な夕餉をちまちまとつつく。幸庵はむっつりと黙り込み、どうやら機嫌がよろしくない様子。どう考えても自分が原因とあれば、美味しいはずの食事もパサパサしてしまって味気ない。
(でもな~……)
 佐那は諦めて箸を置いた。このもやもやを解決しなければ、食欲が戻らない。
「ねえ、幸庵。あなたはどうして、あたしにここまでよくしてくれるの? この店にとって、あたしはただの泥棒娘でしょうに」
「私にとっては嫁でしかないのだが?」
「茶化さないでよ!」
 はぐらかされそうになり佐那は声を大きくした。
「ふふふ。君が自分に対して優しくなったら教えてあげるよ」
 微笑みながら幸庵は盃に口を付けた。その姿は、これ以上は答えるつもりはないと告げている。
「佐那こそ、どうして義賊をしているのだい? 君ほど手先が器用で目端が利く娘ならば、他の道だってあると思うのだがねえ」
「そ、それは……」
『玉楼』で働き始める……いや、『玉楼』で捕まる前、遠い記憶の奥底に封じていた記憶が蘇りそうになり、佐那は慌てて首を振った。今は佐那。表は『玉楼』の少女。裏は義賊で弱き者を救う。
「ど、どうだっていいじゃない! 幸庵は答えなくて、あたしは答えないといけないって、不公平じゃない?」
「ふふふ、佐那は自分の立場というものがわかっていないようだねえ。はてはて、今夜はどんな目に遭わせてやろうか」
 幸庵は邪悪な笑みを浮かべているつもりなのだろうが、どこか滑稽に見えて、佐那は笑いそうになるのを必死に耐えた。
 とはいえ、逃がしてはくれなさそうな雰囲気も同時に伝わってくる。困って俯いていると、空の猪口へこぼれんばかりに透明な液体が注がれた。
「お酒は便利な飲み物だ。話したくないことも、この一瞬だけだと考えると口が滑らかになる。人によっては都合の悪いことはみんな忘れてしまう」
「あたしは記憶を失ったりはしないんだけど」
 促されるままに飲み干すと、胸の奥が焼けるように熱くなった。さらに注がれそうになり、佐那は手で猪口に蓋をした。この前のような過ちは起こさないように日々抑えている。幸庵の理性をいつまでも当てにするわけにはいかない。
「……あたしね」
 その代わり、少しだけ自分のことを話してもいいかなと思った。これが酔った勢いというのであれば、それに乗せられてみようではないか。
「実は陰陽師の娘なの。だから、本来は泥棒娘どころか、あなた達あやかしの敵」
「うんうん、私は知っていたよ」
 幸庵は驚く様子もなく頷いた。完全な人型を取れる上級のあやかし――それも妖狐なら、佐那の力は一目瞭然だったのだろう。それに励まされるようにして佐那は続ける。
「家は一流の陰陽師の家系だったのに、あたしは落ちこぼれで、いくら教わっても親の期待には応えられなかったの。毎回、罰として蔵に閉じ込められて怖かったぁ……」
 当時の記憶は今でもこびりついている。定期的に夢を見てしまうくらいには。
「だけどね、わたしの親は悪いことをしていたの。ぼったくりのような報酬を受け取ったり、あやかしがいないのにいるような事件を起こして、それで討伐料をせしめたりしてたの。それで、ある日、怒ったお侍さんに家ごと襲われてね」
 その日、佐那はちょうど蔵に閉じ込められていて難を逃れた。だが、蔵から出て目にした光景は、そこら中が血の海となっていて、生きている者は誰もいなかった。その時から、佐那は一人になった。
「あたしに行く当てなんかなくて野垂れ死にしかけたけど、手先が器用だったのと、式神を使った錠前破りの特技おかげで、盗賊集団に拾われたの」
「それが『玉楼』なのかい?」
 問いかけに、ううん、と佐那は首を横に振る。
「それは本当にゴロツキ集団。そこで悪いことを一杯して、たっくさん盗んで、最終的に『玉楼』に忍び込んだ時、左近様に捕まっちゃったの。ああ、ここであたしは死ぬんだー、って本気で思った」
 その時の佐那は十三歳。仲間を逃がすため、囮になったことで捕まってしまった。全てを投げ出したかのような佐那へ、義賊として生まれ変わらないか、と誘ってくれたのが左近だった。
「『玉楼』に拾われてから、あたしは心を入れ替えて働くことにしたの。今まで犯した罪を償わないといけない……ううん、それだけじゃない。陰陽師として悪事を働いた親の分まで返さないといけない。だけど、真っ当に生きるにはあたしはもう遅すぎる。この義賊って仕事は、まさにあたしのためにあるような仕事」
 生きるためとはいえ、人様には言えない罪を背負った。この両手は既に真っ黒に染まっている。今さら表の世界では生きられない。
「いっぱい償って、いっぱい返して……もしも償い終わる時があるのなら、その時に捕まりたい。それで三条河原にでも晒されるのなら本望かな。だから、幸庵――」
 くすり、と佐那は悪戯っぽく笑った。
「あたしはお嫁さんには向いてないの。白無垢なんて裸足で逃げ出しちゃうくらい黒いんだから。さっさと諦めて他の人を探して?」
「……ふむ。君の自己犠牲精神は、そこから来ているのか。やはりあの時、無理にでも連れて行くべきだった」
 苦し気に言った幸庵の言葉を、酔いの回り始めた佐那は聞き逃した。
「じこ……なんて?」
「君は苦しみ過ぎだということだよ」
 幸庵は両腕を佐那に伸ばすと、そのまま己の胸にかき抱いた。骨が軋むほどに強く、強く抱きしめられる。
「ちょ、幸庵……痛い」
「すまない。もっと早くに迎えに行くべきだった」
「え? え? どういうこと?」
 迎えに、とは何を意味しているのだろうか。
「あたし、幸庵に会ったことあるっけ?」
「ふふふ。『玉楼』から身請けすればよかったってことだよ」
 ――かわされた。
 そう直感するも、いつもよりも強い酒だったのか、すっかり酔いが回ってしまった佐那は思考がまとまらない。それどころか、幸庵の腕の中で眠気の限界が訪れる。
(ああ……なんだかここ、とっても安心しちゃうのよね)
 また幸庵の理性を試してしまうかも。そんなことを思いながら、佐那は深い眠りへと落ちていった。