二章 高利貸しで働く
白を基調とした着物を彩るは、濃淡様々な何輪もの朝顔。蔓が大小の花を緻密に結び、それが作る模様は芸術的でもある。藍色の帯には明るい赤紫の朝顔が一輪。
初めて見た時から、佐那は心を奪われてしまった。
(まあ、とっても癪ではあるんだけど)
店へ出る時に着なさい、と幸庵から渡された着物。朝顔の花は、佐那の義賊の象徴でもある花。まるで彼女の好みを読んだかのような意匠で、少しばかり複雑な気分になる。
「はい、佐那様! できました!」
帯を結んでくれていた文福が、佐那の前へ移動すると、感激したように両手を胸の前で合わせた。
「うわぁ……佐那様、なんとお美しい……」
もともとくりっとした文福の瞳は、まるで天女でも崇めるかのようで更に大きく見開かれている。うるうる、と涙すら浮かべているようだ。
「ちょっと、それ、褒めすぎ」
文福から渡された手鏡で、佐那は己の姿を確認する。
きりっとした眉で、見るからに快活そうな自分の顔。それが着物の明るい雰囲気にとてもよく似合っている。夜を舞う蝶のような妖艶な魅力はどこにもないが、はきはきと働く町娘として考えれば、悪くはないだろう。
「このような佐那様のお手伝いをできるとは、この文福、あやかしとしての名をかけて一生懸命にお仕えしますね! だから、あの……昨日みたいに、黙って出て行くことだけはしないでください」
「文福、心配しないで」
不安に揺れる瞳で文福が佐那を見上げている。佐那は少し腰をかがめて同じ目線になると、努めて明るく微笑んだ。
「二度とあんな真似はしないから! この怪我が治るまでは幸庵のお手伝い。それで彼の仕事に納得がいかなければ、あたしは仲間の元に戻る。これは幸庵と約束したのだから、それまでは逃げたりなんか絶対にしない」
文福が大いに心を痛めていたと幸庵から聞いた。
一瞬の油断から眠らされ、佐那に逃げられてしまった。そして、その本人が今度は血まみれで屋敷へ戻された。佐那の方から彼女の好意を裏切ったのに、こうして変わらず声を掛けてくれるのは有難かった。
「ああ……佐那様。本当ですよね!?」
「うん、ほんとほんと! 昨日はほんっとにごめんね!」
文福が相変わらずの、うるうる瞳で迫る。あまりの可愛さに抱きしめてしまいそうだ。ここを去る時は、文福もお持ち帰りしてはいけないだろうか。そんな邪な思いが頭の中を横切る。
「ありがとうございます! では、この文福。幸庵様がどれほど素晴らしい主様であるか、ご理解いただけるよう、佐那様を頑張って説得いたします!」
「え? あ、そ、そうなっちゃうの……?」
力説する文福に戸惑っていると、部屋の引き戸が開いて幸庵が入って来た。
「おはよう。とてもよく似合っているね。やっぱり私の睨んだ通り、活発な印象の君にはとてもよく映える柄だ」
「どういたしまして! だけど、あたしを褒め落とそうたって、そうはいかないんだから!」
回ってごらんと言われ、佐那はその場でくるりと一回転。満足したように幸庵は頷くと、佐那の頭へと手を伸ばした。その手には大きな朝顔の花弁をあしらった簪。
「こうすればもっと可愛く見えるよ」
まとめたばかりの髪へ、すっと簪が刺される。すかさず文福が手鏡を差し出してきて、佐那は苦笑した。主従共々手際のよいことだ。
「物で釣ろうたって、そっちも無駄だし?」
佐那の小さめの頭には少々大きいかと感じたが、意外にも鏡の中では収まって見えた。悪徳商売をしている屋敷で見つけたら、そのままお持ち帰りしているかもしれない。
「ふふふ、この程度で私も落とせるとは考えていないよ。これはお守りだと思っておくといい。悪い虫がつかないためのね」
「これに虫除けの効果があるの?」
佐那の真面目な問いかけに、幸庵が我慢できないといった様子で吹き出した。何のことやら意味が分からない。憮然と立ち尽くしていると、幸庵が真顔に戻る。
「さて、さっそく君に仕事を……と言いたいところだが」
佐那を部屋の外へと誘いながら幸庵は続ける。いつの間にか、幸庵の耳と尻尾が消えていた。
「ついて来なさい。まずは筋を通しておかないといけない相手が来たようだからね」
◆
奥の屋敷から渡り廊下を通って表の屋敷へ行くと、部屋の景色が変わった。綺麗に清められているのは奥屋敷と同様だが、調度品が明らかに人へ魅せるものへと変わっている。豪華な品々は、まさに大金持ちといったところ。
あの壺は何十両、あの掛け軸は何十両、と品定めをしているうちに、客をもてなすための部屋へと到着する。そこで待ち構えていた二人の顔に佐那は驚いた。
佐那と同じ歳くらいの少年が、今にもこちらを見詰めている。
その隣では、黒紙で総髪の長身の男。その鋭い瞳に睨まれれば、何者をもひれ伏さすだろう。『玉楼』の店主であり、かつ、義賊としての佐那の頭領でもある左近だった。
「吉平、左近様!」
無事だったのね、と続けかけて佐那は慌てて口を噤んだ。この二人と自分の関係は、どこまで幸庵に知られているのだろうか。思わず二人の名を呼んでしまったのは不味かったのではないだろうか。
対応に悩んでいると、左近が安心しろというように頷いた。
「お前は幸庵殿の屋敷の前で『倒れていた』そうだな。よくぞ無事でいてくれた」
「左近様……」
ほっ、と佐那は息を吐く。それと同時に、佐那の知らないところで幸庵と左近。二人の間でやり取りがあったのだろうなとも直感した。
お茶を持ってきた文福がみんなの前に出すと、その場には幸庵、佐那、左近、吉平の四人が残される。
茶を一口啜ってから幸庵が口を開いた。
「これはこれは、玉楼の楼主ではありませんか。しがない金貸しの私へ何の御用で?」
「ふん、白々しい。俺の店の者が世話になったそうではないか」
左近は鼻で笑うと、二日前に忍び込んでいるのは棚に上げて、いけしゃあしゃあととぼけた。幸庵は「うふ」と笑い、佐那へちらりと視線を向けた。
「いやぁ、驚きましたよ。私の屋敷にこのような可憐な少女が倒れていたのですから。聞けば『玉楼』の者だと言うではないですか。私も何度か『玉楼』へは足を運んだことがありますからねえ。そこで、左近殿へ使いの者を出したというわけです」
「ほほう。その者が白状したと申すか」
冷やりとするような左近の声音。幸庵がやや慌てたように付け足す。
「私は『玉楼』で彼女の顔を見ていましたからね。確認しただけですよ」
ふうむ、と左近が顎を撫でる。
佐那は唇を噛んで視線を落とした。捕まってしまったのは佐那の責任。おまけに『玉楼』との繋がりもこうしてバレてしまった。左近はどう思っているのだろうか。
そんな佐那を見ていたたまれなくなったのか、吉平が声を上げた。
「左近様! 佐那は『倒れていた』だけなんですから。その佐那を今日は迎えに来たんじゃないですか!」
「そうだな。吉平も心配し過ぎだ」
厳しい表情を左近は崩し、今度は少しばかり皮肉気な笑いを浮かべた。
「名だたる者から金品を巻き上げ、ここまで大きくなった幸庵殿の商売。これを機会に少しでも学んで帰りたいものだ」
「うふ。何を仰いますか」
幸庵は余裕の表情で受けた。
「玉楼といえば、春は売らないという特異な商売で人を惹き付けることに成功した。左近殿の手腕はこの幸庵、まことに感服しておりますよ。この幸庵にも、その秘訣をご教授お願いしたいものです」
ふふふふ――男二人の腹の探り合い。
(ええと……?)
見た目とは裏腹の、張り詰めた雰囲気に、佐那は背筋に冷や汗が流れるのを感じた。下手に自分が口を挟まないほうがよさそうだ。
「幸庵殿も、朝の時間は忙しかろうから、話を早くに済ませよう」
薄い笑いを引っ込めると、左近が本題に入った。
「『倒れていた』佐那を返してもらいたい。しかし、こちらもせっかく連絡を頂いたのに、手ぶらというわけにはいかないだろう」
話をする左近の隣で、吉平が風呂敷包みを開いた。そこから出てきたのは切り餅が四つほど。
「幸庵殿にとってははした金かもしれぬが、これでどうだろうか? 足りぬというのであれば、追加を持ってこさせるが?」
「おやおや、これはご丁寧なことだ」
百両という金額に、佐那はくらりと眩暈を感じてしまった。自分のためにこれだけのお金を使わせてしまうのを申し訳なく思う。
(だけど、あたし……しばらく動けないんだよね)
自分の負った胸の傷の件がある。幸庵が取引に応じたとしても、その治療が終わるまでは頷かないだろう。左近も吉平も陰陽師的な力は持っておらず、幸庵があやかしというのは夢にも思っていないに違いない。
幸庵の様子は飄々としており、何を考えているのか全く掴めない。だが、佐那の裏事情を知らないと、左近には不利である。どうやってそれを伝えるか悩んでいると、おもむろに幸庵の腕が彼女へ伸びて来た。ひょい、と持ち上げられて幸庵の膝の上へ。
「ほえ……?」
突然の出来事に、間の抜けた声を上げるしかできない佐那の頭を、幸庵の手が優しく触れた。
「せっかくの左近殿の申し出ですが、私はこの佐那を気に入ってしまいましてねえ。こうして『倒れていた』のを拾ったのも何かの縁。手放したくないのですよ……ああ、もちろん、ただとは申しませんよ」
口を開きかけた左近を遮るかのように幸庵が続けた。
「五百両出しましょう。これでお互い手を打ちませんか?」
うわあ……と、心の中で佐那は悲鳴を上げた。
幸庵は佐那に義賊を辞めさせたいと言っていた。そのための一手とするならば、これは有効な手段だ。左近からすれば、佐那一人で全ての秘密が守られる。彼女の感情や立場を抜きにすれば、お互いにとってこれほどよい取引はない。
「ほほう、幸庵殿もそのような小娘を欲するとは奇特な趣味ですな。残念ながら『玉楼』の商売に、女は入っていないのだが」
左近が渋い表情で肩をすくめ、売るつもりはないと告げる。幸庵は穏やかな表情のまま食い下がった。
「人の好みはそれぞれですからねえ。五百両で足りないとなれば、千両とかどうです。それとも、二千両かな? お金だけは捨てるほどありますから、そちらの言い値をお支払いいたしますよ?」
負けじと金額が上積みされていく。
千両など遊女でも最高位である、花魁が身請けする時の金額だ。玉楼では下っ端扱いの自分にかけられる金額ではない。
(ま、まさか、売られたりはしないよね!?)
ふむ、と腕を組んで考え込む左近を見て佐那は焦った。その隣に座る吉平も不安そうな顔をしている。助けに来てくれたと思ったら、売られるのが確定しました……なんてことになったら、心身ともに立ち直れなくなってしまう。
「……安いな」
腕を組んだ姿勢のまま呟いたのは左近だった。
「うちの店の女が千や二千両程度で買えるとは安く見られたものだ。そんなに欲しいのであれば、最低でも一万両は持ってきてもらわねばな」
「一万両ですか」
完全に吹っ掛けられた値段。幸庵はふわりと笑みを浮かべた。
「それで買えるとあれば……」
「ま、残念ながら、その娘は売り物ではないのだが」
まるで返答を予想していたかのように、左近が幸庵を遮った。
「ゆくゆくは俺を支える者として育てようと考えている娘だ。身請けなどといった話は受け付けておらぬのでな。さっさと返してもらおうか」
有無を言わせぬ気配に、佐那はほっと安堵の息を漏らす。心配するまでもなかった。やはり左近は、自分のことをかけがえのない仲間だと思ってくれている。
「それは残念です」
幸庵も想定内の反応だったのだろう。大して残念な様子も見せずに頷いたが、すぐに後を続けた。
「ですが、こちらも『倒れていた』彼女を助けた身なのでね。その恩を返してもらうまでは手放すわけにはいきませんねぇ」
「ふむ。確かにそちらの懐具合を考えると、百両ではとても足りませんでしたな。こちらも恥ずかしい金額を提示してしまった」
「いえいえ。お金の問題ではないのですよ」
ほう、と左近の眉が上がった。駆け引きの連続で、佐那は口を挟む暇がない。幸庵の手は相変わらず佐那の頭を撫でている。
「どうやらこの娘は、私の店に対して偏見を持っている様子。それでは私も面白くないのですよねえ。ひと月ほど、私がこの娘を拝借するということでどうでしょう? 片腕として育てるおつもりなら、別の店の仕組みを覚えるのもきっと役に立つはず」
ひと月。佐那はそれが自分の傷が治るまでの期間だと悟った。どちらにしろ、それまではここを離れられない。幸庵の腕の中から身体を起こして逃れると、佐那は畳に両手をついて頭を下げた。
「左近様、あたしも『お勉強』のためにここへとどまりたいです。どうか、お願いいたします」
この『お勉強』とは、佐那が店の事情を詳しく探るという意味だ。最初の忍び込みは失敗してしまったが、ここで佐那が状況提供者になることで、次回は確実かつ安全に金目の物を盗み出す。
「成程、このあたりが手の打ちどころか」
深掘りされて困るのは左近のほうだ。佐那だけなら御用聞きあたりに引き渡すのも可能なのだから。立場的なところを考えると、ここで引くべきだと決断したようだ。
「では、幸庵殿。ひと月ほど預ける」
吉平に荷物をまとめるよう指示し、左近は立ち上がった。去り際に佐那へと視線を向ける。
「佐那。よく学んでくるのだぞ。期待している」
その背中を追いかけようとしていた吉平だったが、どうしても心配だったのか、佐那の前にいそいそと戻って来ると手を握ってきた。
「苦しかったらいつでも手紙を寄越せよ。オレがすぐに助けに来てやるからな!」
「はいはい。威勢のいい少年はお帰り」
ひょい、と横から手が伸びてきたかと思うと、佐那から吉平は引き剥がされた。幸庵はちょっぴり不満そうに唇を曲げて、吉平の背中を押していく。
(あれ? 実は幸庵って子供っぽい?)
少しだけ笑いそうになった佐那なのだった。
◆
「――ということで、今日からこの店で働くことになった佐那だ」
「ひと月ほどお世話になります。よろしくお願いします!」
佐那の前には、人型へと化けた何匹ものあやかしの姿。文福と鈴姫の姿もある。「これは美味そうな人間のおなご」などと、一部物騒な声が聞こえた気もしたが、おおむね好意的に受け入れられているようだ。その中で唯一、隠そうともしない敵意を向けて来るのが鈴姫だった。
「幸庵様。本当にその娘を店に置くのですか? 何をしでかすかわからないのに……昨日だって大騒ぎをしましたのよ。わたくしは今すぐ叩き出してやりたいですわ!」
物凄い剣幕で幸庵に詰め寄る鈴姫。
佐那はむっとするも、同じ立場なら似たような行動をするだろうなと理解もできる。自分でもよくもまあ、まだこの首が繋がっていると思っているくらいなのだから。
「まあまあ、そんなに怒っていては、妖力の無駄遣いというものじゃのう」
ふぉっふぉっふぉ、と大らかな声で鈴姫を諫めたのは、老人のような喋り方にも関わらず、見た目は二十代前半くらいの青年姿のあやかしだった。鈴姫が鋭い視線をそちらへ向ける。
「いいえ、いくら利康様といえど、これはわたくしも黙ってはいられませんわ!」
「お主が怒り狂うのもわからぬでもないがのう。しかし、己の力不足をその嬢ちゃんにぶつけるのはお門違いじゃろうて」
利康の言葉に、鈴姫が悔しそうに顔を歪める。腰の横で強く握った拳がぶるぶると揺れていた。
「ええい、うるさいわ! とにかく、わたくしはお前のことは認めませんからね!」
びしっ、と佐那に人差し指を突き付けて宣戦布告をすると、足音も大きく奥屋敷の方へと消えていく。そんな鈴姫の姿に、やれやれとため息もつくも、幸庵は大きく両手を叩いて気合を入れた。
「さあ、もう店も始まる時間だ。みんなは持ち場に着くように」
へーい、と声もそれぞれに、人型へ化けたあやかし達が動く。表屋敷に出るあやかしはみんな完全な人型を取っており、それは幸庵も例外ではなかった。奥屋敷で見せる耳と尻尾はすっかり隠されている。
「さて、佐那には何をしてもらおうかね。読み書きはできるかい?」
幸庵の問いかけに、佐那は胸を張った。
「馬鹿にしないで! 読み書きだけじゃなくて、算盤もばっちりよ」
表の顔である『玉楼』で裏方仕事の多い佐那は、店の掃除などの雑用だけでなく、忙しい時は帳簿の手伝いもしていた。
「それは心強いね。まずは利康にいろいろと教えてもらうといい」
「嬢ちゃん、こっちじゃ」
店の表玄関を上がったところ。左の方にある帳場机に座った利康が手招きをする。
「台帳の見方はわかるかのう?」
ぱらら、と広げられた台帳に、佐那の見たことのない文章や数字が羅列してある。未知のものにわくわくしながら、佐那は利康の隣に座った。
「うちはお客から物を預かり、その価値に応じて金を貸しているのじゃ」
「要するに質屋さんってことね」
高利貸しの悪い噂が立っているが、表向きには質屋という情報も佐那は調べていた。
「うむり。ま、商売はそれだけではないがの。とにかく、この台帳は貸した金額や、預かった質草を記録したものじゃ。これが借りた者の名前で、こっちが質草。これは貸した金額じゃの。そして……」
ふむふむと説明を聞いていると、さっそく一人の若い男が店を訪れた。暖簾をくぐって聞こえるは威勢のよい声が響く。
「ようっ! 幸庵の旦那!」
「おお、次郎じゃないか。今日は何の用かい?」
幸庵の座る位置は店の中央。そこからにこやかに対応する。
「そりゃあ、今日が質流れの日だからな。忘れずに取り戻しておかねえと。お、そっちの可愛らしいお嬢さんは新顔か? 幸庵の旦那も隅に置けねえなあ。あ~、もしかして、質入れされちまったのか? そいつあ可哀そうだ。金があればオイラが買い取ってやりたいくらいだ」
ポンポン飛んでくる軽口に、佐那は微笑をもって応じた。この程度の輩は『玉楼』でいくらでも慣れている。
「いいえ~、これからひと月、ここで修業させてもらうんです。次郎さん……でしたっけ、この佐那を是非に御贔屓に!」
「おう、いい返事だ! 幸庵の旦那もいい嫁さんをもらったもんだ」
「残念! あたしは嫁じゃありません~!」
そんなやり取りをしているうちに、いつの間に席を外していたのか、利康が奥の部屋から布に包まれた品物を持ってやってきた。幸庵に「おいで」と手招きされ、佐那もその隣へと移動する。
「次郎様、こちらですかな」
利康が丁寧に包んでいた布を解くと、中から出てきたのは金槌やノミなどの大工道具。どう見ても仕事道具にしか見えない。
「佐那ちゃんだっけか。いまオイラのこと、仕事道具を質草にする、どうしようもねえやつって思ったろ?」
「い、いいえ~、そんなことは……!」
図星を突かれ視線が泳ぐ。うははは、と次郎は声を上げて笑った。
「いいんだぜ、オイラは甲斐性のねぇ男だからな。こうして仕事道具の一部を質入れしとかなきゃ、働こうって気にならねえんだ」
次郎は腰の巾着を外すと、じゃららと銭を畳へとバラまいた。ひの、ふの、と数えてから幸庵へと渡す。
「これで二分と八百文あるはずだ」
「佐那、確認しなさい」
銅銭の山を押し付けられ、めんどくさ、と思いながらも佐那は数える。四文銭も混じっているため、間違えないように山を分けながら数えていく。
「おお、初めてにしちゃ手際がいいねえ。まるで熟練の技みてえだ」
佐那の手元を見詰めながら次郎が感嘆の声を上げる。『玉楼』でお金も扱っていた佐那にとってはお手のものである。いくらもしないうちに全ての銅銭を数え終わった。
「ええっと……十六文足りない……」
ぼそっと呟くと、次郎の肩がびくっと震えた。幸庵は面と向かって責めるわけでもなく、にこにこと次郎を見詰めるのみ。
「ちぇー、佐那ちゃん、少しくらい間違えてくれてもいいんだぜ?」
次郎はおどけて見せると、観念した様子で足りない十六文を佐那の前に足した。
「はい! これでぴったりですね。ありがとうございます!」
「うおう……いいねえ、その笑顔。勢いで追加の銭を置いていっちまいそうだ」
「私の店としては多い分には全く問題ないのだがねえ」
幸庵の口ぶりがおかしかったのか、次郎が、うははと大声で笑う。
次郎は取り戻した大工道具を風呂敷に包むと、別の包みを差し出してきた。それを幸庵が開けると、中身はお猪口や徳利といった酒器の一式。
「しばらく酒断ちをするつもりなんだ。だが、これが家にあっちゃ飲むなってほうが無理ってもんだ。しばらく預かってくれねえかい」
「それは殊勝な心掛けだねえ。何かあったのかい?」
訊ねる幸庵に次郎ははにかんだような笑みを見せた。
「うちの嫁さんがね、そろそろなんだ」
お腹をさするような仕草で、子供が産まれるのだと佐那は察する。幸庵もそれを理解したようで、営業用の愛想笑いから、本当の微笑みへと表情が変わった。
「それはおめでたいね。これを機に、真っ当に仕事を頑張ろうってことかね」
「ま、そんなところさぁ。それより、そいつはいくらだ?」
ふぅむ、と幸庵は徳利と猪口を品定め。
(大したものじゃないんだけど、どうするつもりだろ)
義賊として活動したおかげで、佐那もある程度の目利きはできる。薄い灰色をした徳利は悪い品物ではないが、それほど特別な値段はつかないはずだ。
「そうだねえ、この品はうちで買い取ってしまいたいところだ。二両といったところでどうだい?」
「おおっ! 幸庵の旦那、太っ腹だな。助かるぜ!」
驚いて目を丸くする佐那の隣で、利康が小判を二枚用意して次郎へと渡す。
「じゃ、また気が向いたら立ち寄るぜえ!」
次郎にとっても想像以上の金額だったのだろう。口笛を吹きながら、意気揚々と店を出て行く。
「ねえ、これどういうつもり?」
佐那は次郎の姿が見えなくなるなり幸庵へと向き直った。酒器を指さして問い詰める。
「そんな価値ないよね? もしかして、高い値段を提示して、あたしにいい顔しようって思ってる? だとしたら、あたしをバカにするのも大概にして!」
「ほほう。では、佐那。君の見立てではいくらくらいかね」
逆に問い返され、佐那は眉間に皺を寄せた。徳利を手に取って、再度確認する。
「……二分ってところかな。どんなに頑張っても一両はいかない」
佐那の言葉に幸庵の右手が上がる。目利きが間違っていて、ぶたれるのかと身を硬くしていると、よしよしとばかりに頭を撫でられてしまった。
「素晴らしい目利きだ。佐那はまるで私の店へ嫁ぐために生まれてきたような娘だね。ますます欲しくなったよ」
褒められている……のだが、なんだか全然嬉しくない。佐那はぶるる、と頭を振って手を払いのけた。
「じゃあ、どうしてあんな値段を?」
相場を無視した高額な値段での買い取り。高利貸しとしての悪い印象を消そうとしたとしか考えらえない。だとしたら、佐那にとっては逆に幻滅でしかない。
「安心するがいいよ。君にあんな誤魔化しは通用しない。こうして逆に怒って来るのは当然だろう。私がこれだけの値段をつけたのは別に理由がある」
「……もしかして、ご祝儀?」
生まれてくる子供のためなのだろうか。それにしても奮発し過ぎな気がする。
「それもあるが、他にも理由があるのだよ」
「他にも……?」
「おっと、考えるのは後だね。先ほどの分を台帳に記録しておかないといけないからね。利康に教えてもらいなさい」
佐那を帳場机の前に座らせると、幸庵は次の客に応対すべく店の前へと出て行く。
(何なのだろう……)
もやもやと疑問が残るも、佐那に考えている猶予はなかった。利康に帳簿の付け方など、多くのことを教わって、それを覚えるのに精いっぱいになってしまったからだ。
◆
(あ~、疲れたぁ……)
質屋での初日が終わり、佐那は自室の布団の上でぐったりとしていた。慣れないことの連続で、体力的なところよりも気疲れをしてしまった。
あれから浅野屋は大繁盛で、次から次へとひっきりなしに客がやってきた。金勘定に帳簿への記帳と、時々間違えながらも利康のおかげで、何とか乗り切ることが出来た。どうやら幸庵は、相手の様子によって利息や質流れまでの日を変えているようで、それを覚えるまでは苦労しそうだ。
(何が違うんだろう……)
幸庵の言葉は、仕事をしている間もずっと心に引っかかっていた。
目利き的なところの違いではないことは確かだ。あれから何度か幸庵に目利きを試されたが、その度に佐那の伝えた値段通りで品物を質に入れていった。
「わっかんないなぁ~……」
布団の上に大の字に転がって佐那は呟く。感覚的なところで何かが掴めそうなのだが、そのあとちょっとがわからなくて、ずーっともやもやしている。
引き戸の外。廊下を歩く音が近づいてきて、佐那は慌てて起き上がった。乱れていた浴衣の胸元を直したところで扉が開く。
「やあ。今日は頑張ったね。お疲れ様」
群青色に金色の稲穂を模した浴衣姿の幸庵が入って来る。その後ろには、膳を持った文福の姿があった。
「お風呂はちゃんと入れたかい?」
「うん。いいお湯だった。ありがと」
屋敷から出られない佐那は銭湯に行けない。その代わりということで、庭の隅に大きな桶を用意してくれたのだ。四方も板で囲ってくれて、お湯はあやかしが用意してくれて、更には柚子まで浮かべられて、と至れり尽くせり。
「髪を下ろした姿も可愛いねえ。着物姿とは違って柔らかな魅力がある。その浴衣もとてもよく似合っているよ。私の理性は果たして持ってくれるのだろうか」
佐那は自分の姿を見下ろして小さく肩をすくめた。着物と同じ朝顔の花柄模様の浴衣。幸庵に乗せられている気しかしないが、この趣味は佐那も嫌いではない。
「『玉楼』には及ばないかもしれませんけど、台所のあやかしが丹精込めて作りましたからね。きっとお口に合うはずです!」
てきぱきと、二人の前に膳を準備しているのは文福だ。白米に吸い物。鯛の焼き物に鯉のなます、野菜の煮物、酒の肴になりそうな小鉢の数々。最後に徳利と猪口を二つ置いた。
「それでは、ごゆっくりお過ごしください。何かあったら呼んでくださいね!」
引き戸の前で礼をしてから、文福が部屋から出る。
「で、これは、どういうこと?」
並べられた二人分の食事を眺めながら佐那は眉をひそめた。
「もちろん夕餉だよ? 夫婦は一緒にするものだと相場が決まっているじゃないか」
「いや、あたしは認めてない……し!?」
そこまで言ってから、佐那はさっと青ざめた。
このまま初夜までしようと企んでいるのではないだろうか。佐那に着せた浴衣といい、この部屋の雰囲気といい、逃げ場がなさすぎる。
「君が何を考えているのかは知らないが」
幸庵は膳から徳利を取ると、手づから二つの盃に注いだ。
「私は本気で佐那を嫁にしようと思っているのだよ。それまで、君に嫌われるようなことはしないと信じて欲しいのだけどねえ」
自分の肩を抱いて警戒心も露な佐那の前に猪口が差し出される。その瞳は、少しばかり傷ついているようにも見えた。
「…………ごめんなさい」
佐那は素直に頭を下げた。幸庵の瞳や態度からも嘘は見えない。『玉楼』では男に騙されて、無理やり押し倒されそうになったこともある。だが、目の前の幸庵からは、その時の男ような、媚びるような色はどこにもない。
「佐那は素直なよい子だね。これは仲直りの一杯だ」
こくり、と頷き佐那は猪口を受け取る。幸庵は自分の猪口を取ると、一気に煽った。佐那もちびり、と舐めるようにして飲む。
「……美味しい」
まるで水のような口当たりに、感嘆のため息が漏れる。『玉楼』でも当然酒は出るが、これほどのものは最上級の部類だ。
佐那は前に用意された料理へと箸をつける。どの料理も薄めの上品な味付け。素材が良くなければ出来ない調理法だ。味だけではなく見た目も楽しませる料理に、疲れてお腹が空いていたこともあり、佐那は夢中になってしまった。
「酔い潰してどうこうなどは考えていないから、佐那は安心して酔い潰れるとよいよ」
空になった猪口に、何杯目かのお代わりが注がれたところで、はっ、と佐那は我に返った。
「待って、あたしがする!」
この屋敷の主人は幸庵だ。今の佐那は彼に雇われの身。主人を差し置いて自分だけが黙々と飲み食いするなどあり得ない。佐那は箸を置くと、幸庵の手から徳利をひったくるようにして奪った。
「おやおや。佐那は気にする必要はないのだよ。ここで私は、佐那をしっかり餌付けしないといけないのだからね」
茶化したような物言いに、佐那はケラケラと声を上げて笑った。少しお酒が入ったからか、ふわふわと気持ちが愉快な気分になっている。
「あら、あたしは『玉楼』の女よ。お客を楽しませるのに、お酌くらいはして当然!」
佐那は膝立ちで身体を進めると、幸庵の隣へと座る。
「さあ、さあ! 幸庵は幸せ者ね。『玉楼』のおもてなしが無料で受けられちゃうの! それとも、あたしのお酌が呑めないっていうの!?」
ずずい、と迫ると、戸惑ったように幸庵が猪口を差し出してくる。佐那は幸庵の肩に身体を寄せながら、とくとく、と酒を注いだ。
「むむ……佐那は呑んだら性格が変わる娘かな?」
「あははは、なぁにを言っているの? あたしはいつもこの通りよ!」
佐那はやや上気した頬でますます身体を近づけてご機嫌だ。幸庵の置いていた箸を持ち、野菜の小鉢を手に取った。
「はい、お口開けて~、あ~ん」
「あ、あ~ん……?」
目を白黒させる幸庵が面白い。いつの間にか佐那は幸庵の膝の上に座ると、お代わりのお酌をしたり、自分でも肴を食べたりしていた。
「ほんと、このお酒美味しい……」
自分の盃にも注いで、うっとりと透明な液体を眺める。
「まったく、佐那は私の理性を試そうとしているのかな? よもや自分から進んで酔い潰れに走るとは思わなかったよ。今日はこのくらいにしておきなさい」
「え~……」
背中越しに伸びてきた幸庵の手が、持っていた徳利と猪口を奪い、佐那は不満だとばかりに唇を尖らせた。
「……あ、それって、もしかして」
膳の上に置かれた徳利を見て、佐那は小さく声を上げた。
「おや、今ごろ気付いたのかい?」
幸庵の膝から乗り出すと、ぐるりと視界が回って佐那はバランスを崩しかけた。それを幸庵が背後から抱くようにして支える。
「今朝の徳利だぁ!」
「うんうん、そうだね。でもね、佐那、それだけかい? 他に何も気が付かないかい?」
「えぇ~……? なんらろう~?」
少々呂律の怪しくなってきた佐那だが、その頭で必死に考える。お客から出されたなぞなぞは、場を盛り上げる大きな材料だ。
「ははは、目に見えるものだけが真実ではないよ」
徳利に穴でも開けるかのごとく見詰めている佐那を見て幸庵が笑った。
(目に見えるものだけが真実ではない……?)
両手で徳利を抱えるようにして、佐那はもう一度徳利を観察した。徳利の口の中は真っ暗で、まるで深淵の中を覗き込むかのよう。いくらでもお酒が出てきそうな錯覚すら受ける。
(あ、もしかして)
佐那はそのまま両の瞳を閉じた。視覚を切って、陰陽師としての感覚を研ぎ澄ます。やがて、ぼう、と淡い生命力のようなものを感じてきた。
「わかったー!」
子供のようにはしゃいで叫ぶ。
「これ、付喪神になりかけなんだー!」
「御名答。よくわかったね、佐那。とっても偉いぞ」
いい子いい子、とばかりに頭を撫でられ、佐那は気持ち良くなって目を細めた。幸庵に背中を預けながら、ふぁ~あ、と欠伸を一つ。
「だからかぁ。買取の価格がこんなに高かったのは」
眠くなってきた頭で文福が教えてくれた事を思い出す。この屋敷には幸庵が引き取ったあやかしがいるのだ、と。
質に入れられるような品物は高価だけでなく、年季が入った品物も多い。付喪神間近の品物を、相場以上のお金を払って積極的に買い取っているのだろう。
「幸庵って、あやかしのことを考えているのねえ……」
うとうと、と舟を漕ぎながら佐那は呟く。
「ふふふ。私は妖狐だからね。頼って来る者は守ってやらないといけないのだよ。少しは見直してくれたかい……って?」
ぐらり、と佐那の首から力が抜ける。幸庵は慌ててその身体を支えた。
「佐那……佐那? もしかして、眠ってしまったのかい?」
あどけない寝顔は完全に無防備で、幸庵の腕の中で安心しきっているかのよう。
やれやれ、とばかりに幸庵は眉尻を下げた。頬にかかっている髪を払ってやりながらぼやく。
「私を信用してくれているのはいいのだけどねぇ。この寝顔は、私以外には絶対に見せてはいけないよ? あっという間に食べられてしまいそうだ」
白を基調とした着物を彩るは、濃淡様々な何輪もの朝顔。蔓が大小の花を緻密に結び、それが作る模様は芸術的でもある。藍色の帯には明るい赤紫の朝顔が一輪。
初めて見た時から、佐那は心を奪われてしまった。
(まあ、とっても癪ではあるんだけど)
店へ出る時に着なさい、と幸庵から渡された着物。朝顔の花は、佐那の義賊の象徴でもある花。まるで彼女の好みを読んだかのような意匠で、少しばかり複雑な気分になる。
「はい、佐那様! できました!」
帯を結んでくれていた文福が、佐那の前へ移動すると、感激したように両手を胸の前で合わせた。
「うわぁ……佐那様、なんとお美しい……」
もともとくりっとした文福の瞳は、まるで天女でも崇めるかのようで更に大きく見開かれている。うるうる、と涙すら浮かべているようだ。
「ちょっと、それ、褒めすぎ」
文福から渡された手鏡で、佐那は己の姿を確認する。
きりっとした眉で、見るからに快活そうな自分の顔。それが着物の明るい雰囲気にとてもよく似合っている。夜を舞う蝶のような妖艶な魅力はどこにもないが、はきはきと働く町娘として考えれば、悪くはないだろう。
「このような佐那様のお手伝いをできるとは、この文福、あやかしとしての名をかけて一生懸命にお仕えしますね! だから、あの……昨日みたいに、黙って出て行くことだけはしないでください」
「文福、心配しないで」
不安に揺れる瞳で文福が佐那を見上げている。佐那は少し腰をかがめて同じ目線になると、努めて明るく微笑んだ。
「二度とあんな真似はしないから! この怪我が治るまでは幸庵のお手伝い。それで彼の仕事に納得がいかなければ、あたしは仲間の元に戻る。これは幸庵と約束したのだから、それまでは逃げたりなんか絶対にしない」
文福が大いに心を痛めていたと幸庵から聞いた。
一瞬の油断から眠らされ、佐那に逃げられてしまった。そして、その本人が今度は血まみれで屋敷へ戻された。佐那の方から彼女の好意を裏切ったのに、こうして変わらず声を掛けてくれるのは有難かった。
「ああ……佐那様。本当ですよね!?」
「うん、ほんとほんと! 昨日はほんっとにごめんね!」
文福が相変わらずの、うるうる瞳で迫る。あまりの可愛さに抱きしめてしまいそうだ。ここを去る時は、文福もお持ち帰りしてはいけないだろうか。そんな邪な思いが頭の中を横切る。
「ありがとうございます! では、この文福。幸庵様がどれほど素晴らしい主様であるか、ご理解いただけるよう、佐那様を頑張って説得いたします!」
「え? あ、そ、そうなっちゃうの……?」
力説する文福に戸惑っていると、部屋の引き戸が開いて幸庵が入って来た。
「おはよう。とてもよく似合っているね。やっぱり私の睨んだ通り、活発な印象の君にはとてもよく映える柄だ」
「どういたしまして! だけど、あたしを褒め落とそうたって、そうはいかないんだから!」
回ってごらんと言われ、佐那はその場でくるりと一回転。満足したように幸庵は頷くと、佐那の頭へと手を伸ばした。その手には大きな朝顔の花弁をあしらった簪。
「こうすればもっと可愛く見えるよ」
まとめたばかりの髪へ、すっと簪が刺される。すかさず文福が手鏡を差し出してきて、佐那は苦笑した。主従共々手際のよいことだ。
「物で釣ろうたって、そっちも無駄だし?」
佐那の小さめの頭には少々大きいかと感じたが、意外にも鏡の中では収まって見えた。悪徳商売をしている屋敷で見つけたら、そのままお持ち帰りしているかもしれない。
「ふふふ、この程度で私も落とせるとは考えていないよ。これはお守りだと思っておくといい。悪い虫がつかないためのね」
「これに虫除けの効果があるの?」
佐那の真面目な問いかけに、幸庵が我慢できないといった様子で吹き出した。何のことやら意味が分からない。憮然と立ち尽くしていると、幸庵が真顔に戻る。
「さて、さっそく君に仕事を……と言いたいところだが」
佐那を部屋の外へと誘いながら幸庵は続ける。いつの間にか、幸庵の耳と尻尾が消えていた。
「ついて来なさい。まずは筋を通しておかないといけない相手が来たようだからね」
◆
奥の屋敷から渡り廊下を通って表の屋敷へ行くと、部屋の景色が変わった。綺麗に清められているのは奥屋敷と同様だが、調度品が明らかに人へ魅せるものへと変わっている。豪華な品々は、まさに大金持ちといったところ。
あの壺は何十両、あの掛け軸は何十両、と品定めをしているうちに、客をもてなすための部屋へと到着する。そこで待ち構えていた二人の顔に佐那は驚いた。
佐那と同じ歳くらいの少年が、今にもこちらを見詰めている。
その隣では、黒紙で総髪の長身の男。その鋭い瞳に睨まれれば、何者をもひれ伏さすだろう。『玉楼』の店主であり、かつ、義賊としての佐那の頭領でもある左近だった。
「吉平、左近様!」
無事だったのね、と続けかけて佐那は慌てて口を噤んだ。この二人と自分の関係は、どこまで幸庵に知られているのだろうか。思わず二人の名を呼んでしまったのは不味かったのではないだろうか。
対応に悩んでいると、左近が安心しろというように頷いた。
「お前は幸庵殿の屋敷の前で『倒れていた』そうだな。よくぞ無事でいてくれた」
「左近様……」
ほっ、と佐那は息を吐く。それと同時に、佐那の知らないところで幸庵と左近。二人の間でやり取りがあったのだろうなとも直感した。
お茶を持ってきた文福がみんなの前に出すと、その場には幸庵、佐那、左近、吉平の四人が残される。
茶を一口啜ってから幸庵が口を開いた。
「これはこれは、玉楼の楼主ではありませんか。しがない金貸しの私へ何の御用で?」
「ふん、白々しい。俺の店の者が世話になったそうではないか」
左近は鼻で笑うと、二日前に忍び込んでいるのは棚に上げて、いけしゃあしゃあととぼけた。幸庵は「うふ」と笑い、佐那へちらりと視線を向けた。
「いやぁ、驚きましたよ。私の屋敷にこのような可憐な少女が倒れていたのですから。聞けば『玉楼』の者だと言うではないですか。私も何度か『玉楼』へは足を運んだことがありますからねえ。そこで、左近殿へ使いの者を出したというわけです」
「ほほう。その者が白状したと申すか」
冷やりとするような左近の声音。幸庵がやや慌てたように付け足す。
「私は『玉楼』で彼女の顔を見ていましたからね。確認しただけですよ」
ふうむ、と左近が顎を撫でる。
佐那は唇を噛んで視線を落とした。捕まってしまったのは佐那の責任。おまけに『玉楼』との繋がりもこうしてバレてしまった。左近はどう思っているのだろうか。
そんな佐那を見ていたたまれなくなったのか、吉平が声を上げた。
「左近様! 佐那は『倒れていた』だけなんですから。その佐那を今日は迎えに来たんじゃないですか!」
「そうだな。吉平も心配し過ぎだ」
厳しい表情を左近は崩し、今度は少しばかり皮肉気な笑いを浮かべた。
「名だたる者から金品を巻き上げ、ここまで大きくなった幸庵殿の商売。これを機会に少しでも学んで帰りたいものだ」
「うふ。何を仰いますか」
幸庵は余裕の表情で受けた。
「玉楼といえば、春は売らないという特異な商売で人を惹き付けることに成功した。左近殿の手腕はこの幸庵、まことに感服しておりますよ。この幸庵にも、その秘訣をご教授お願いしたいものです」
ふふふふ――男二人の腹の探り合い。
(ええと……?)
見た目とは裏腹の、張り詰めた雰囲気に、佐那は背筋に冷や汗が流れるのを感じた。下手に自分が口を挟まないほうがよさそうだ。
「幸庵殿も、朝の時間は忙しかろうから、話を早くに済ませよう」
薄い笑いを引っ込めると、左近が本題に入った。
「『倒れていた』佐那を返してもらいたい。しかし、こちらもせっかく連絡を頂いたのに、手ぶらというわけにはいかないだろう」
話をする左近の隣で、吉平が風呂敷包みを開いた。そこから出てきたのは切り餅が四つほど。
「幸庵殿にとってははした金かもしれぬが、これでどうだろうか? 足りぬというのであれば、追加を持ってこさせるが?」
「おやおや、これはご丁寧なことだ」
百両という金額に、佐那はくらりと眩暈を感じてしまった。自分のためにこれだけのお金を使わせてしまうのを申し訳なく思う。
(だけど、あたし……しばらく動けないんだよね)
自分の負った胸の傷の件がある。幸庵が取引に応じたとしても、その治療が終わるまでは頷かないだろう。左近も吉平も陰陽師的な力は持っておらず、幸庵があやかしというのは夢にも思っていないに違いない。
幸庵の様子は飄々としており、何を考えているのか全く掴めない。だが、佐那の裏事情を知らないと、左近には不利である。どうやってそれを伝えるか悩んでいると、おもむろに幸庵の腕が彼女へ伸びて来た。ひょい、と持ち上げられて幸庵の膝の上へ。
「ほえ……?」
突然の出来事に、間の抜けた声を上げるしかできない佐那の頭を、幸庵の手が優しく触れた。
「せっかくの左近殿の申し出ですが、私はこの佐那を気に入ってしまいましてねえ。こうして『倒れていた』のを拾ったのも何かの縁。手放したくないのですよ……ああ、もちろん、ただとは申しませんよ」
口を開きかけた左近を遮るかのように幸庵が続けた。
「五百両出しましょう。これでお互い手を打ちませんか?」
うわあ……と、心の中で佐那は悲鳴を上げた。
幸庵は佐那に義賊を辞めさせたいと言っていた。そのための一手とするならば、これは有効な手段だ。左近からすれば、佐那一人で全ての秘密が守られる。彼女の感情や立場を抜きにすれば、お互いにとってこれほどよい取引はない。
「ほほう、幸庵殿もそのような小娘を欲するとは奇特な趣味ですな。残念ながら『玉楼』の商売に、女は入っていないのだが」
左近が渋い表情で肩をすくめ、売るつもりはないと告げる。幸庵は穏やかな表情のまま食い下がった。
「人の好みはそれぞれですからねえ。五百両で足りないとなれば、千両とかどうです。それとも、二千両かな? お金だけは捨てるほどありますから、そちらの言い値をお支払いいたしますよ?」
負けじと金額が上積みされていく。
千両など遊女でも最高位である、花魁が身請けする時の金額だ。玉楼では下っ端扱いの自分にかけられる金額ではない。
(ま、まさか、売られたりはしないよね!?)
ふむ、と腕を組んで考え込む左近を見て佐那は焦った。その隣に座る吉平も不安そうな顔をしている。助けに来てくれたと思ったら、売られるのが確定しました……なんてことになったら、心身ともに立ち直れなくなってしまう。
「……安いな」
腕を組んだ姿勢のまま呟いたのは左近だった。
「うちの店の女が千や二千両程度で買えるとは安く見られたものだ。そんなに欲しいのであれば、最低でも一万両は持ってきてもらわねばな」
「一万両ですか」
完全に吹っ掛けられた値段。幸庵はふわりと笑みを浮かべた。
「それで買えるとあれば……」
「ま、残念ながら、その娘は売り物ではないのだが」
まるで返答を予想していたかのように、左近が幸庵を遮った。
「ゆくゆくは俺を支える者として育てようと考えている娘だ。身請けなどといった話は受け付けておらぬのでな。さっさと返してもらおうか」
有無を言わせぬ気配に、佐那はほっと安堵の息を漏らす。心配するまでもなかった。やはり左近は、自分のことをかけがえのない仲間だと思ってくれている。
「それは残念です」
幸庵も想定内の反応だったのだろう。大して残念な様子も見せずに頷いたが、すぐに後を続けた。
「ですが、こちらも『倒れていた』彼女を助けた身なのでね。その恩を返してもらうまでは手放すわけにはいきませんねぇ」
「ふむ。確かにそちらの懐具合を考えると、百両ではとても足りませんでしたな。こちらも恥ずかしい金額を提示してしまった」
「いえいえ。お金の問題ではないのですよ」
ほう、と左近の眉が上がった。駆け引きの連続で、佐那は口を挟む暇がない。幸庵の手は相変わらず佐那の頭を撫でている。
「どうやらこの娘は、私の店に対して偏見を持っている様子。それでは私も面白くないのですよねえ。ひと月ほど、私がこの娘を拝借するということでどうでしょう? 片腕として育てるおつもりなら、別の店の仕組みを覚えるのもきっと役に立つはず」
ひと月。佐那はそれが自分の傷が治るまでの期間だと悟った。どちらにしろ、それまではここを離れられない。幸庵の腕の中から身体を起こして逃れると、佐那は畳に両手をついて頭を下げた。
「左近様、あたしも『お勉強』のためにここへとどまりたいです。どうか、お願いいたします」
この『お勉強』とは、佐那が店の事情を詳しく探るという意味だ。最初の忍び込みは失敗してしまったが、ここで佐那が状況提供者になることで、次回は確実かつ安全に金目の物を盗み出す。
「成程、このあたりが手の打ちどころか」
深掘りされて困るのは左近のほうだ。佐那だけなら御用聞きあたりに引き渡すのも可能なのだから。立場的なところを考えると、ここで引くべきだと決断したようだ。
「では、幸庵殿。ひと月ほど預ける」
吉平に荷物をまとめるよう指示し、左近は立ち上がった。去り際に佐那へと視線を向ける。
「佐那。よく学んでくるのだぞ。期待している」
その背中を追いかけようとしていた吉平だったが、どうしても心配だったのか、佐那の前にいそいそと戻って来ると手を握ってきた。
「苦しかったらいつでも手紙を寄越せよ。オレがすぐに助けに来てやるからな!」
「はいはい。威勢のいい少年はお帰り」
ひょい、と横から手が伸びてきたかと思うと、佐那から吉平は引き剥がされた。幸庵はちょっぴり不満そうに唇を曲げて、吉平の背中を押していく。
(あれ? 実は幸庵って子供っぽい?)
少しだけ笑いそうになった佐那なのだった。
◆
「――ということで、今日からこの店で働くことになった佐那だ」
「ひと月ほどお世話になります。よろしくお願いします!」
佐那の前には、人型へと化けた何匹ものあやかしの姿。文福と鈴姫の姿もある。「これは美味そうな人間のおなご」などと、一部物騒な声が聞こえた気もしたが、おおむね好意的に受け入れられているようだ。その中で唯一、隠そうともしない敵意を向けて来るのが鈴姫だった。
「幸庵様。本当にその娘を店に置くのですか? 何をしでかすかわからないのに……昨日だって大騒ぎをしましたのよ。わたくしは今すぐ叩き出してやりたいですわ!」
物凄い剣幕で幸庵に詰め寄る鈴姫。
佐那はむっとするも、同じ立場なら似たような行動をするだろうなと理解もできる。自分でもよくもまあ、まだこの首が繋がっていると思っているくらいなのだから。
「まあまあ、そんなに怒っていては、妖力の無駄遣いというものじゃのう」
ふぉっふぉっふぉ、と大らかな声で鈴姫を諫めたのは、老人のような喋り方にも関わらず、見た目は二十代前半くらいの青年姿のあやかしだった。鈴姫が鋭い視線をそちらへ向ける。
「いいえ、いくら利康様といえど、これはわたくしも黙ってはいられませんわ!」
「お主が怒り狂うのもわからぬでもないがのう。しかし、己の力不足をその嬢ちゃんにぶつけるのはお門違いじゃろうて」
利康の言葉に、鈴姫が悔しそうに顔を歪める。腰の横で強く握った拳がぶるぶると揺れていた。
「ええい、うるさいわ! とにかく、わたくしはお前のことは認めませんからね!」
びしっ、と佐那に人差し指を突き付けて宣戦布告をすると、足音も大きく奥屋敷の方へと消えていく。そんな鈴姫の姿に、やれやれとため息もつくも、幸庵は大きく両手を叩いて気合を入れた。
「さあ、もう店も始まる時間だ。みんなは持ち場に着くように」
へーい、と声もそれぞれに、人型へ化けたあやかし達が動く。表屋敷に出るあやかしはみんな完全な人型を取っており、それは幸庵も例外ではなかった。奥屋敷で見せる耳と尻尾はすっかり隠されている。
「さて、佐那には何をしてもらおうかね。読み書きはできるかい?」
幸庵の問いかけに、佐那は胸を張った。
「馬鹿にしないで! 読み書きだけじゃなくて、算盤もばっちりよ」
表の顔である『玉楼』で裏方仕事の多い佐那は、店の掃除などの雑用だけでなく、忙しい時は帳簿の手伝いもしていた。
「それは心強いね。まずは利康にいろいろと教えてもらうといい」
「嬢ちゃん、こっちじゃ」
店の表玄関を上がったところ。左の方にある帳場机に座った利康が手招きをする。
「台帳の見方はわかるかのう?」
ぱらら、と広げられた台帳に、佐那の見たことのない文章や数字が羅列してある。未知のものにわくわくしながら、佐那は利康の隣に座った。
「うちはお客から物を預かり、その価値に応じて金を貸しているのじゃ」
「要するに質屋さんってことね」
高利貸しの悪い噂が立っているが、表向きには質屋という情報も佐那は調べていた。
「うむり。ま、商売はそれだけではないがの。とにかく、この台帳は貸した金額や、預かった質草を記録したものじゃ。これが借りた者の名前で、こっちが質草。これは貸した金額じゃの。そして……」
ふむふむと説明を聞いていると、さっそく一人の若い男が店を訪れた。暖簾をくぐって聞こえるは威勢のよい声が響く。
「ようっ! 幸庵の旦那!」
「おお、次郎じゃないか。今日は何の用かい?」
幸庵の座る位置は店の中央。そこからにこやかに対応する。
「そりゃあ、今日が質流れの日だからな。忘れずに取り戻しておかねえと。お、そっちの可愛らしいお嬢さんは新顔か? 幸庵の旦那も隅に置けねえなあ。あ~、もしかして、質入れされちまったのか? そいつあ可哀そうだ。金があればオイラが買い取ってやりたいくらいだ」
ポンポン飛んでくる軽口に、佐那は微笑をもって応じた。この程度の輩は『玉楼』でいくらでも慣れている。
「いいえ~、これからひと月、ここで修業させてもらうんです。次郎さん……でしたっけ、この佐那を是非に御贔屓に!」
「おう、いい返事だ! 幸庵の旦那もいい嫁さんをもらったもんだ」
「残念! あたしは嫁じゃありません~!」
そんなやり取りをしているうちに、いつの間に席を外していたのか、利康が奥の部屋から布に包まれた品物を持ってやってきた。幸庵に「おいで」と手招きされ、佐那もその隣へと移動する。
「次郎様、こちらですかな」
利康が丁寧に包んでいた布を解くと、中から出てきたのは金槌やノミなどの大工道具。どう見ても仕事道具にしか見えない。
「佐那ちゃんだっけか。いまオイラのこと、仕事道具を質草にする、どうしようもねえやつって思ったろ?」
「い、いいえ~、そんなことは……!」
図星を突かれ視線が泳ぐ。うははは、と次郎は声を上げて笑った。
「いいんだぜ、オイラは甲斐性のねぇ男だからな。こうして仕事道具の一部を質入れしとかなきゃ、働こうって気にならねえんだ」
次郎は腰の巾着を外すと、じゃららと銭を畳へとバラまいた。ひの、ふの、と数えてから幸庵へと渡す。
「これで二分と八百文あるはずだ」
「佐那、確認しなさい」
銅銭の山を押し付けられ、めんどくさ、と思いながらも佐那は数える。四文銭も混じっているため、間違えないように山を分けながら数えていく。
「おお、初めてにしちゃ手際がいいねえ。まるで熟練の技みてえだ」
佐那の手元を見詰めながら次郎が感嘆の声を上げる。『玉楼』でお金も扱っていた佐那にとってはお手のものである。いくらもしないうちに全ての銅銭を数え終わった。
「ええっと……十六文足りない……」
ぼそっと呟くと、次郎の肩がびくっと震えた。幸庵は面と向かって責めるわけでもなく、にこにこと次郎を見詰めるのみ。
「ちぇー、佐那ちゃん、少しくらい間違えてくれてもいいんだぜ?」
次郎はおどけて見せると、観念した様子で足りない十六文を佐那の前に足した。
「はい! これでぴったりですね。ありがとうございます!」
「うおう……いいねえ、その笑顔。勢いで追加の銭を置いていっちまいそうだ」
「私の店としては多い分には全く問題ないのだがねえ」
幸庵の口ぶりがおかしかったのか、次郎が、うははと大声で笑う。
次郎は取り戻した大工道具を風呂敷に包むと、別の包みを差し出してきた。それを幸庵が開けると、中身はお猪口や徳利といった酒器の一式。
「しばらく酒断ちをするつもりなんだ。だが、これが家にあっちゃ飲むなってほうが無理ってもんだ。しばらく預かってくれねえかい」
「それは殊勝な心掛けだねえ。何かあったのかい?」
訊ねる幸庵に次郎ははにかんだような笑みを見せた。
「うちの嫁さんがね、そろそろなんだ」
お腹をさするような仕草で、子供が産まれるのだと佐那は察する。幸庵もそれを理解したようで、営業用の愛想笑いから、本当の微笑みへと表情が変わった。
「それはおめでたいね。これを機に、真っ当に仕事を頑張ろうってことかね」
「ま、そんなところさぁ。それより、そいつはいくらだ?」
ふぅむ、と幸庵は徳利と猪口を品定め。
(大したものじゃないんだけど、どうするつもりだろ)
義賊として活動したおかげで、佐那もある程度の目利きはできる。薄い灰色をした徳利は悪い品物ではないが、それほど特別な値段はつかないはずだ。
「そうだねえ、この品はうちで買い取ってしまいたいところだ。二両といったところでどうだい?」
「おおっ! 幸庵の旦那、太っ腹だな。助かるぜ!」
驚いて目を丸くする佐那の隣で、利康が小判を二枚用意して次郎へと渡す。
「じゃ、また気が向いたら立ち寄るぜえ!」
次郎にとっても想像以上の金額だったのだろう。口笛を吹きながら、意気揚々と店を出て行く。
「ねえ、これどういうつもり?」
佐那は次郎の姿が見えなくなるなり幸庵へと向き直った。酒器を指さして問い詰める。
「そんな価値ないよね? もしかして、高い値段を提示して、あたしにいい顔しようって思ってる? だとしたら、あたしをバカにするのも大概にして!」
「ほほう。では、佐那。君の見立てではいくらくらいかね」
逆に問い返され、佐那は眉間に皺を寄せた。徳利を手に取って、再度確認する。
「……二分ってところかな。どんなに頑張っても一両はいかない」
佐那の言葉に幸庵の右手が上がる。目利きが間違っていて、ぶたれるのかと身を硬くしていると、よしよしとばかりに頭を撫でられてしまった。
「素晴らしい目利きだ。佐那はまるで私の店へ嫁ぐために生まれてきたような娘だね。ますます欲しくなったよ」
褒められている……のだが、なんだか全然嬉しくない。佐那はぶるる、と頭を振って手を払いのけた。
「じゃあ、どうしてあんな値段を?」
相場を無視した高額な値段での買い取り。高利貸しとしての悪い印象を消そうとしたとしか考えらえない。だとしたら、佐那にとっては逆に幻滅でしかない。
「安心するがいいよ。君にあんな誤魔化しは通用しない。こうして逆に怒って来るのは当然だろう。私がこれだけの値段をつけたのは別に理由がある」
「……もしかして、ご祝儀?」
生まれてくる子供のためなのだろうか。それにしても奮発し過ぎな気がする。
「それもあるが、他にも理由があるのだよ」
「他にも……?」
「おっと、考えるのは後だね。先ほどの分を台帳に記録しておかないといけないからね。利康に教えてもらいなさい」
佐那を帳場机の前に座らせると、幸庵は次の客に応対すべく店の前へと出て行く。
(何なのだろう……)
もやもやと疑問が残るも、佐那に考えている猶予はなかった。利康に帳簿の付け方など、多くのことを教わって、それを覚えるのに精いっぱいになってしまったからだ。
◆
(あ~、疲れたぁ……)
質屋での初日が終わり、佐那は自室の布団の上でぐったりとしていた。慣れないことの連続で、体力的なところよりも気疲れをしてしまった。
あれから浅野屋は大繁盛で、次から次へとひっきりなしに客がやってきた。金勘定に帳簿への記帳と、時々間違えながらも利康のおかげで、何とか乗り切ることが出来た。どうやら幸庵は、相手の様子によって利息や質流れまでの日を変えているようで、それを覚えるまでは苦労しそうだ。
(何が違うんだろう……)
幸庵の言葉は、仕事をしている間もずっと心に引っかかっていた。
目利き的なところの違いではないことは確かだ。あれから何度か幸庵に目利きを試されたが、その度に佐那の伝えた値段通りで品物を質に入れていった。
「わっかんないなぁ~……」
布団の上に大の字に転がって佐那は呟く。感覚的なところで何かが掴めそうなのだが、そのあとちょっとがわからなくて、ずーっともやもやしている。
引き戸の外。廊下を歩く音が近づいてきて、佐那は慌てて起き上がった。乱れていた浴衣の胸元を直したところで扉が開く。
「やあ。今日は頑張ったね。お疲れ様」
群青色に金色の稲穂を模した浴衣姿の幸庵が入って来る。その後ろには、膳を持った文福の姿があった。
「お風呂はちゃんと入れたかい?」
「うん。いいお湯だった。ありがと」
屋敷から出られない佐那は銭湯に行けない。その代わりということで、庭の隅に大きな桶を用意してくれたのだ。四方も板で囲ってくれて、お湯はあやかしが用意してくれて、更には柚子まで浮かべられて、と至れり尽くせり。
「髪を下ろした姿も可愛いねえ。着物姿とは違って柔らかな魅力がある。その浴衣もとてもよく似合っているよ。私の理性は果たして持ってくれるのだろうか」
佐那は自分の姿を見下ろして小さく肩をすくめた。着物と同じ朝顔の花柄模様の浴衣。幸庵に乗せられている気しかしないが、この趣味は佐那も嫌いではない。
「『玉楼』には及ばないかもしれませんけど、台所のあやかしが丹精込めて作りましたからね。きっとお口に合うはずです!」
てきぱきと、二人の前に膳を準備しているのは文福だ。白米に吸い物。鯛の焼き物に鯉のなます、野菜の煮物、酒の肴になりそうな小鉢の数々。最後に徳利と猪口を二つ置いた。
「それでは、ごゆっくりお過ごしください。何かあったら呼んでくださいね!」
引き戸の前で礼をしてから、文福が部屋から出る。
「で、これは、どういうこと?」
並べられた二人分の食事を眺めながら佐那は眉をひそめた。
「もちろん夕餉だよ? 夫婦は一緒にするものだと相場が決まっているじゃないか」
「いや、あたしは認めてない……し!?」
そこまで言ってから、佐那はさっと青ざめた。
このまま初夜までしようと企んでいるのではないだろうか。佐那に着せた浴衣といい、この部屋の雰囲気といい、逃げ場がなさすぎる。
「君が何を考えているのかは知らないが」
幸庵は膳から徳利を取ると、手づから二つの盃に注いだ。
「私は本気で佐那を嫁にしようと思っているのだよ。それまで、君に嫌われるようなことはしないと信じて欲しいのだけどねえ」
自分の肩を抱いて警戒心も露な佐那の前に猪口が差し出される。その瞳は、少しばかり傷ついているようにも見えた。
「…………ごめんなさい」
佐那は素直に頭を下げた。幸庵の瞳や態度からも嘘は見えない。『玉楼』では男に騙されて、無理やり押し倒されそうになったこともある。だが、目の前の幸庵からは、その時の男ような、媚びるような色はどこにもない。
「佐那は素直なよい子だね。これは仲直りの一杯だ」
こくり、と頷き佐那は猪口を受け取る。幸庵は自分の猪口を取ると、一気に煽った。佐那もちびり、と舐めるようにして飲む。
「……美味しい」
まるで水のような口当たりに、感嘆のため息が漏れる。『玉楼』でも当然酒は出るが、これほどのものは最上級の部類だ。
佐那は前に用意された料理へと箸をつける。どの料理も薄めの上品な味付け。素材が良くなければ出来ない調理法だ。味だけではなく見た目も楽しませる料理に、疲れてお腹が空いていたこともあり、佐那は夢中になってしまった。
「酔い潰してどうこうなどは考えていないから、佐那は安心して酔い潰れるとよいよ」
空になった猪口に、何杯目かのお代わりが注がれたところで、はっ、と佐那は我に返った。
「待って、あたしがする!」
この屋敷の主人は幸庵だ。今の佐那は彼に雇われの身。主人を差し置いて自分だけが黙々と飲み食いするなどあり得ない。佐那は箸を置くと、幸庵の手から徳利をひったくるようにして奪った。
「おやおや。佐那は気にする必要はないのだよ。ここで私は、佐那をしっかり餌付けしないといけないのだからね」
茶化したような物言いに、佐那はケラケラと声を上げて笑った。少しお酒が入ったからか、ふわふわと気持ちが愉快な気分になっている。
「あら、あたしは『玉楼』の女よ。お客を楽しませるのに、お酌くらいはして当然!」
佐那は膝立ちで身体を進めると、幸庵の隣へと座る。
「さあ、さあ! 幸庵は幸せ者ね。『玉楼』のおもてなしが無料で受けられちゃうの! それとも、あたしのお酌が呑めないっていうの!?」
ずずい、と迫ると、戸惑ったように幸庵が猪口を差し出してくる。佐那は幸庵の肩に身体を寄せながら、とくとく、と酒を注いだ。
「むむ……佐那は呑んだら性格が変わる娘かな?」
「あははは、なぁにを言っているの? あたしはいつもこの通りよ!」
佐那はやや上気した頬でますます身体を近づけてご機嫌だ。幸庵の置いていた箸を持ち、野菜の小鉢を手に取った。
「はい、お口開けて~、あ~ん」
「あ、あ~ん……?」
目を白黒させる幸庵が面白い。いつの間にか佐那は幸庵の膝の上に座ると、お代わりのお酌をしたり、自分でも肴を食べたりしていた。
「ほんと、このお酒美味しい……」
自分の盃にも注いで、うっとりと透明な液体を眺める。
「まったく、佐那は私の理性を試そうとしているのかな? よもや自分から進んで酔い潰れに走るとは思わなかったよ。今日はこのくらいにしておきなさい」
「え~……」
背中越しに伸びてきた幸庵の手が、持っていた徳利と猪口を奪い、佐那は不満だとばかりに唇を尖らせた。
「……あ、それって、もしかして」
膳の上に置かれた徳利を見て、佐那は小さく声を上げた。
「おや、今ごろ気付いたのかい?」
幸庵の膝から乗り出すと、ぐるりと視界が回って佐那はバランスを崩しかけた。それを幸庵が背後から抱くようにして支える。
「今朝の徳利だぁ!」
「うんうん、そうだね。でもね、佐那、それだけかい? 他に何も気が付かないかい?」
「えぇ~……? なんらろう~?」
少々呂律の怪しくなってきた佐那だが、その頭で必死に考える。お客から出されたなぞなぞは、場を盛り上げる大きな材料だ。
「ははは、目に見えるものだけが真実ではないよ」
徳利に穴でも開けるかのごとく見詰めている佐那を見て幸庵が笑った。
(目に見えるものだけが真実ではない……?)
両手で徳利を抱えるようにして、佐那はもう一度徳利を観察した。徳利の口の中は真っ暗で、まるで深淵の中を覗き込むかのよう。いくらでもお酒が出てきそうな錯覚すら受ける。
(あ、もしかして)
佐那はそのまま両の瞳を閉じた。視覚を切って、陰陽師としての感覚を研ぎ澄ます。やがて、ぼう、と淡い生命力のようなものを感じてきた。
「わかったー!」
子供のようにはしゃいで叫ぶ。
「これ、付喪神になりかけなんだー!」
「御名答。よくわかったね、佐那。とっても偉いぞ」
いい子いい子、とばかりに頭を撫でられ、佐那は気持ち良くなって目を細めた。幸庵に背中を預けながら、ふぁ~あ、と欠伸を一つ。
「だからかぁ。買取の価格がこんなに高かったのは」
眠くなってきた頭で文福が教えてくれた事を思い出す。この屋敷には幸庵が引き取ったあやかしがいるのだ、と。
質に入れられるような品物は高価だけでなく、年季が入った品物も多い。付喪神間近の品物を、相場以上のお金を払って積極的に買い取っているのだろう。
「幸庵って、あやかしのことを考えているのねえ……」
うとうと、と舟を漕ぎながら佐那は呟く。
「ふふふ。私は妖狐だからね。頼って来る者は守ってやらないといけないのだよ。少しは見直してくれたかい……って?」
ぐらり、と佐那の首から力が抜ける。幸庵は慌ててその身体を支えた。
「佐那……佐那? もしかして、眠ってしまったのかい?」
あどけない寝顔は完全に無防備で、幸庵の腕の中で安心しきっているかのよう。
やれやれ、とばかりに幸庵は眉尻を下げた。頬にかかっている髪を払ってやりながらぼやく。
「私を信用してくれているのはいいのだけどねぇ。この寝顔は、私以外には絶対に見せてはいけないよ? あっという間に食べられてしまいそうだ」
