八百八町とも呼ばれる江戸の町が、すっかり寝静まった丑三つ時。
 町の中心からは少し外れたとある屋敷の壁際を、音もなく動く三つの人影があった。闇に紛れるは濃紺色の忍び装束姿。
 その中で一番小柄な影は、鉤縄を土塀の上部に引っ掛けると、するする身軽に上り切った。こっそり中庭の様子を伺ってから、下で待っている者達に合図を出す。すぐに鉤縄が二つ投げられ、三人はあっという間に屋敷の中庭へと侵入する。
 広々とした中庭は、その敷地面積を見るだけで、どれほどの財力を持つか分かろうというもの。緩やかに流れる小川が星を映し、大きな池には鯉が悠然と泳ぐ。池を囲うように何本もの植木が影を作り、細く伸びた小道はまるで迷路のよう。それらの小道には、まるで茶店のように白い壁の土蔵が点在していた。
 植木の影を伝うように動いていた影は、一つの蔵を前にして二手に別れた。一番大きな影がさらに奥へと向かい、二つの影は蔵へと忍び寄った。小柄な影が中腰になり錠前を調べる。その背後を守るようにもう一つの影が周囲に視線を光らせた。
佐那(さな)。鍵の具合はどうか?」
「余裕よ。大きいだけで見掛け倒しね」
 小声で囁き返した声は少女のもの。佐那と呼ばれた小柄な影は、腰に結んでいた巾着から太さの異なる針金を取り出した。微かな星明りを頼りに、彼女の手よりも大きな錠前に挑んでいく。
(ここをこうして、こっちはここで押さえて……)
 かちり。
 すぐにバネの外れるような音がして、武骨な錠前は外されていた。佐那は蔵の閂を外してから、少年の背中を叩く。少年は開いた蔵を見て、ひゅう、と小さく口笛を吹いた。
「さっすが! 佐那の手にかかっちゃ、どんな錠前でも一瞬だな!」
「しーっ! 声が大きい! 無駄口叩いてないで、吉平(きっぺい)はさっさと探す!」
 佐那は早口でまくし立てると、吉平の背中を押して蔵の中へと放り込んだ。すぐに別の蔵を目指す。
(隠れるとこいっぱい。これは楽な仕事になりそうね。蔵を庭の風景の一部にしてるのだけが面倒だけど)
 普通は一か所にまとめた場所に蔵を配置するものだと思う。何よりこれだけ庭一杯にばらけていたら、蔵へ運び込むのだけでも一苦労だろう。佐那にはとても理解できない、非機能的な配置だ。
(それにしても静かね)
 時間の経過につれて、少しずつ影の位置を変えていく庭園は、とても幻想的で美しい。こんな時でなければ見惚れてしまいそうだ。しかし、町の一角を占有するほどの広い屋敷にしては、警備が甘すぎる。あまりに仕事が簡単すぎて、逆に心配になってくる。
(ま、いっか)
 佐那は深く考えるのはやめて、自分の仕事に集中することにした。幾つかの蔵の前を通り過ぎてから、一番高価なお宝が入っていそうな蔵を直感で選ぶ。
(さてさて、ここはどんな鍵かな~?)
 武骨で鈍い輝きを放つ和錠。ぱっと見て鍵穴がどこにも見当たらないからくり仕掛け。これは当たりかもしれない、と佐那は心を躍らせた。
(腕が鳴るぅ!)
 佐那は腰の巾着から、今度は複雑な紋様が描かれた細長い紙を取り出した。
「式神よ、お願い」
 その声に応じるように、細長い紙はすぐに白い鼠へと形を変える。
 白鼠を佐那は手の平に乗せ、和錠の前へと近づけた。白鼠が錠前の上で何やら探すようにチョコチョコ動いていると、不思議なことに和錠の方に変化があった。
 表面の幾つかの鋲が勝手に動き、和錠の一部が横へスライド。そこにはさらなるからくりがあるも、白鼠の鼻が触れると別の鋲が動いた。それを何度か繰り返すうちに、鍵は勝手に開いて地面へと落ちていた。
(楽勝楽勝!)
 口笛を吹きたい気持ちを抑え、佐那は蔵の閂を抜いた。
 ぎぎ、と重い扉へ体重をかけて開く。蔵内は外よりも更に暗いが、明り取り用の格子窓からの星明りで、完全なる闇ではない。
 佐那は蔵の入り口で目を慣らしてから行動を開始した。
「これは茶器の一式。これは……あらすごい、虎の掛け軸ね。有名な人のじゃん。あ、こっちは唐物の器かな?」
 布で覆われた多くの茶器に、古ぼけた掛け軸。屏風もある。雑多に置かれた蔵の中は数多くの骨董品があり、その価値もピンからキリまで様々。
 ここで盗んだ小判や物品は、両替をしたり売り払ったりして、お金に困っている者達にバラまく事になっていた。江戸の町を賑わせる義賊――『朝顔』としては、悪徳商人から一両でも高価な物を持ち去って、配れる銭を増やしたい。
「割れ物は……やめとこうかな。この根付けと、掛け軸に……」
 千両箱でもあれば一番簡単なのだが、悲しいかな、小柄な佐那の体格では、それを担いで逃げるのは少々厳しい。なるべく軽くてかさばらず、そして価値がある品物となれば、小物が中心となってくる。
「……ん?」
 風呂敷に包むものを物色していると、ふと首筋を何かが触れたような気がした。慌てて背後を振り返るも何の気配もない。
「……気のせい?」
 ……タ、……カタ
「ん?」
 視界の端で何かが動いたような気がした。手を伸ばしてみると、驚いたことに茶器がぶるぶると小さく震えている。
(付喪神? いや、なりかけなのかな)
 百年の年月を経た道具は精霊の力を得て意思を持ち、自由に動くことが出来る付喪神へと成る。そうそうお目にかかるものではないが、どうやらこの蔵には古い道具が多いらしい。注意して観察すると、他にもあやかしの気配を感じるものがある。佐那は用心深くそれらを避けた。せっかく盗んだとしても、足でも生えて逃げて行ってもらったら困る。
「これはこれは、可愛い泥棒さんだね」
「――っ!?」
 突然背後から聞こえた声に、はっ、と佐那はその場を飛びのいていた。
(うそ……ぜんぜん気が付かなかった)
 蔵の入口から伸びる細長い影。声からすると若い男だろうか。暗がりに自分の身を隠しながら、佐那は内心小さく舌打ちをしていた。これだけの接近を許すとか、付喪神のなりかけに気を取られ過ぎていた。
(どうしよう……)
 入口には男一人しかいないようだった。腰に刀を差しているが、身体の線は細くひょろ長い。正面突破は可能だろうか。
「はて、君は町を騒がしている義賊の泥棒さんかな?」
 ゆっくりと男が蔵内へと足を踏み入れる。佐那が闇へ隠れた先を見ていたのだろう。男の足が真っ直ぐに彼女の方へと向く。佐那は床に伏せるぐらい身体を低くして、そのまま影の中を移動した。幸いなことに、雑多な蔵の中は隠れる場所が山ほどある。
「怖がらなくてもいいから出ておいで」
 そんなことを言われて出る馬鹿はいない。
(使うしかないか)
 佐那はこっそりとお札を取り出した。錠前を開けた時と同じもので、そこに描かれているのは鼠の姿。囁くように言霊を籠めると、それは何匹もの白い鼠へと変化した。
(任せたよ、お願いね)
 佐那が念じると同時に、一匹が勢いよく物陰から飛び出した。
「見つけ……いや、これは……っ!?」
 男が反応するも、すぐに鼠だと気付く。佐那は手元の鼠を、男を翻弄するように次々と繰り出した。
「むむ……これで私の目を誤魔化せると……おおっ!?」
 余裕のあった男の表情が凍り付く。雑貨が所狭しと積まれた棚が、ぐらぐらと揺れていたのだ。
「うわ~~~~っ!」
 ずどどどーんっ!
 崩れ落ちた雑貨の山が見事に男を生き埋めにした。もちろん、足止めにしかならないのだが、逃げるには十分な時間。佐那は男が雑貨の山から脱出する隙に蔵から出ていた。そのまま扉を閉め、外から閂と鍵をかけてしまう。
「これこれ! それはいけないよ。私を早く出しなさい」
 慌てたように男が激しくドンドンと蔵の扉を叩く。その時には、佐那は胸元から呼子笛を取り出していた。大きく息を吸い込んで思いっきり吹く。見つかったからには長居は無用。撤収の合図だ。
「ぞ、賊だ! 賊がいるよーー!」
 屋敷の者だろうか。笛の音を聞いて駆けつけてきた者が佐那の姿を見つける。佐那もそれは計算の上だ。失敗をした分は、自分が囮となって逃げる時間を稼いで取り返す。佐那は式神を何枚も取り出すと、数十匹の鼠を生み出した。それらは散り散りに走り、足音を盛んに立て、樹木を激しく揺らす。
「ぞ、賊の人数は多いのか!?」
 泡を喰ったような悲鳴を背に佐那は屋敷の庭を疾走する。素早い動きでかく乱し、ひたすら広い庭を走り回った。
 しばらくそうして大立ち回りをしていると、佐那がいる場所とは反対の方角から呼子笛が聞こえた。危機は脱したという吉平の笛だ。
(よかった! 後は左近(さこん)様の合図があれば)
 佐那達の頭領である左近。彼が最終的な撤退命令を下す。ところが、物陰に隠れて少し待っていても、その合図は一考にない。もしかして捕まってしまったのだろうかと心配になる。
 左近は佐那よりも奥の蔵を目指していたはず。いま隠れている位置からそれほど遠くはない。佐那は庭の繁みの下を這うようにして移動した。
「うひゃぁっ!」
 繁みを二つほど過ぎると、すぐ右手から悲鳴が上がった。左近のものではないが、あまりに恐怖に怯えた声で気になり、そちらへ方向を変えた。
 繁みを抜けたその先には、ぼうっ、と鈍く光る刀を上段に構えている、男のような背中があった。その足元には、腰を抜かした十二、三歳くらいの子供の姿。刀を持った男の背格好は左近と似ているが、その纏う異様な気配に左近ではないと断定する。
(これは……あやかしの気配っ!?)
 どうしてこんな場所にあやかしがいるのだろうか。いや、それを考えるのは後だ。
「だめぇっ!」
 今にも降り降ろされようとしていた刀に、佐那は反射的に飛び出していた。金品を盗んでも、人の命は奪わない。それを実践しているからこそ、世間では彼女たちを義賊として認めてくれているのだ。どんな理由であっても、犠牲を出すわけにはいかない。
「ぐっ……!」
 振り下ろされようとした太刀を、抜いた小太刀で弾く。その力は強く、佐那は後方へたたらを踏んだ。まともに勝負は出来ない。佐那は最後の式神を取り出した。少しでも時間を稼ごうと目の前のあやかしへ向かわせる。
「お、お姉さんは……」
「早く逃げて!」
 驚いたような声に、自分よりも若い少女なのだと知る。
「あたしが時間を稼いであげる。今のうちに、さあ、早く!」
 少女を蹴とばさんばかりに急かして、屋敷の方へと走らせる。ゆっくりしている暇はない。
(さあ、今度はあのあやかしを止めないと……!?)
 背後に殺気を感じて振り返るも、その時は既に遅かった。刀を水平に構えた男が、佐那の胸を狙っていたのだ。
「このぉっ!」
 繰り出された刃を払おうと小太刀を合わせるも、手から小太刀のほうが弾き飛ばされた。迫る切っ先に反射的に後ろへ飛ぶ。
「げ……ふ……」
 だが、無情にも刃の切っ先は佐那の胸の真ん中を貫いていた。鍔元まで刃が食い込むもその勢いは止まらず、佐那は背後の土蔵の壁へ串刺しにされてしまう。
 焼けつくような胸元の痛みは一瞬。みるみるうちに、流れ落ちる大量の血と共に感じなくなっていく。胸の刀を抜こうと震える腕が上がり……力尽きてだらりと落ちた。
(みんな……ちゃんと、逃げた……かな)
 誰かが遠くで呼んでいるような声がする。
 けれど、もう自分の身体は手遅れでしかなくて。
 佐那の意識は暗い闇に塗り込められていったのだった。

    ◆

 ――チュンチュン。
 元気一杯な小鳥のさえずりが聞こえる。格子窓から伸びてきた朝の光が瞼にかかり、「……ん」と佐那は身じろぎをした。
(暖かい……)
 微かに動かした指先に触れたのは、上質の絹のようなふんわりとした手触り。滑らかでかつ蚕の繭のように心地よい。
「ふぁ……って、ここは?」
 ゆっくりと瞼を開けると見知らぬ天井が見えた。目をこすりながらゆっくりと寝返りを打つと、ふかふかとした布団の上。指で押すと柔らかいながらも強い弾力。ふんだんに木綿が使われているのだろう。それが三つも重ねられているとあれば、吉原の花魁もびっくりしてしまうに違いない。
 人の気配に反対側へ寝返りを打つと、可愛らしいくりっとした瞳の少女が座っていた。
(え……?)
 その少女の姿に佐那は目を丸くする。なぜなら、頭にはひょこっと丸い耳があり、腰のあたりには先端の太い、まるで狸のような尻尾があったからだ。
「あー! お目覚めになりましたね! よかったですー!」
 部屋の障子がビリビリと震えるような勢いで、その狸少女が叫んだ。
「そのまま待っていてくださいねー!」
 佐那の意識が追いつかないままに立ち上がると、部屋の板戸を開けてあっという間にどこかへ行ってしまった。
「ええっと……」
 一人残された佐那は、首を捻りつつ身体を起こした。途中、ずきん、と胸の真ん中が痛んで胸を押さえた。
(あたし、何してたんだっけ?)
 記憶が散乱している。佐那は眉間に皺を寄せて一つ一つ整理していった。
 吉原にありながら、春を売らない特異な商売で有名な『玉楼』。その裏の顔は、悪い噂のある金持ちばかりを狙い、江戸の町を賑わす義賊の『朝顔』。
 昨夜も『玉楼』の女として忙しく働いた後で、『朝顔』の仕事の準備をした。その日は、世間で悪い噂の絶えない高利貸しの屋敷が標的だった。いつものように忍び入り、仲間のために蔵の鍵を開けた。佐那も自分の担当の蔵に入り、金目の物を探していた。そこで屋敷の者に見つかってしまい逃げることになったのだが、途中で禍々しい気配のあやかしに刃で貫かれて……。
「うっ……!」
 もう一度、ずきん、と胸に痛みが走り、佐那は恐る恐る白い寝間着の前をはだけて中を見た。
「何もなってない……」
 刺されたと思った胸元は、傷一つなく滑らかだった。
 確かにあの時、胸のど真ん中を突かれた感触が残っている。それだけでは済まず、蔵へ串刺しにされるほどの勢いだったはずだ。認めたくはないが致命傷だったに違いない。それなのに、今指で触れてみても、そのような痕跡は一つもなかった。
(どうして……?)
 夢中になって考えていたからだろう。佐那は板戸が開き、若い男が入って来たことに気が付かなかった。
「おやおや、いきなりそのようなあられもない姿を見せてくれるとは。私も目の保養になるねえ」
「ぎゃーっ!」
 佐那にとっては突然かけられた声に、断末魔のような悲鳴を上げてしまった。両手で素早く前を閉じて後ずさる。
「あ、あなたは……!?」
 口をパクパクと開閉させるも、それ以降の言葉が続かない。
 入って来た男は、どきり、とするほど整った顔立ちだった。やや面長で切れ長の目元は、ともすれば冷たく感じてしまうはずなのに、穏やかな口元がそれを打ち消している。背丈は六尺あろうかという長身。佐那とは頭一つ分以上違う。特徴的な黄金色の瞳は、春の陽光のような暖かさが感じられる。
(……って! こっちも、あやかし!?)
 頭部に見える尖った獣の耳は黄金色で、雪のように白い毛が縁どっていた。さらに腰の後ろからも同色の尻尾が見えるではないか。先端が九つに分かれており、尻尾の先端もまた、染み一つない白。
 そして、佐那には感じ取れる――強い妖力。
「よ、妖狐……」
 道具に魂が宿った付喪神ではない。生まれながらにして生粋のあやかし。腕のいい陰陽師が何人も命を賭けて追い払うような存在だ。
「それだけ元気なら、術は成功したようだね。魂が半分口から抜けかけていて、もう無理かと思っていたのだが」
 今のショックで頭が正常に働き始めたのか、昨夜の残りの記憶が、怒涛のように蘇ってくる。目の前の妖狐の声には聞き覚えがあった。
 妖狐は何の遠慮もなく布団へ上がると、ぐいっと佐那の手を引いた。
「私は幸庵(こうあん)という。この屋敷の主人だ。尤も君には――」
 悪戯っぽく妖狐――いや、幸庵が笑った。
「悪名高き高利貸し、浅野屋の主といったほうが通りが良いかな?」
「ひっ……」
 さああああ――佐那の顔から音を立てて血の気が引いていく。
 浅野屋とは、佐那が忍び込んだ店の屋敷である。
 質屋を経営していて、悪徳高利貸しもしていると悪い噂が絶えない。その店の者に捕まったとなれば、この状況はとてつもなくまずい。回れ右をして逃げようとするも、腰が抜けていたのか膝から崩れ落ちてしまった。そのまま顔面から畳に落ちようとしたところで、背後から手が伸びてきて、佐那の寝間着の襟を掴んだ。
「君は子猫のように敏捷だね。あのような重傷を負っていたというのに、もうそれほどまでに動けるとは」
 そのまま幸庵の腕の中に引き込まれ、佐那は逃れようと身をよじった。
「い、いやっ! 離して!」
「あまり暴れないでくれないかい。せっかく塞がっている傷が開いてしまうよ」
 激しく動くとまたもや胸元に鈍い痛みが走り、その場にうずくまる羽目となってしまう。胸元を押さえながら、佐那は何とか顔を上げた。
「ど、どうして、あたしを助けたの? 何が目的なの? ってか、何であやかしが高利貸しなんかしてるの~っ!?」
 痛む胸のことも忘れて佐那は叫んでいた。佐那が忍び込んだ屋敷は高利貸しのはず。決してあやしき屋敷などではない……はずだ。それも、人型を取れるほど上級のあやかし。
「まず君に必要なのは落ち着くことだね」
 幸庵が手を叩くと、お盆をもって控えていた先ほどの狸少女のあやかしが、布団の脇にお盆を置いた。幸庵はその上に乗っていた急須を取り、手の平の大きさの湯呑みに、湯気の出るお茶を注いだ。
「飲みなさい。人間に効果のある薬湯を入れているからね。元気が出ると思うよ」
「…………」
 はい、そうですか。二つ返事で頷くわけにはいかない。それでも喉の渇きを覚えていたのは事実。幸庵は毒が入っていないのを示そうとしたのか、自分にも一杯入れて、ぐいっと煽った。佐那は湯呑を手に取ると、恐る恐る口を付けた。
(うわぁ……これ、美味しい!)
 爽やかな香りが口の中に広がった。僅かながら甘味があり、荒れていた心を静めてくれる。夢中で一杯飲み干すと、お代わりを幸庵が注いでくれた。
「さて、落ちついてくれたところで、君のことを教えてもらおうか」
 穏やかながらも有無を言わせぬ口調。佐那は顔をしかめて俯いた。
 この店の人間――もとい、あやかしにとって佐那は泥棒。単純に考えればこの後、奉行所に引き渡されるはず。下手に情報を与えてボロを出してもいけない。佐那は沈黙を守ることにした。
「ふむ。仕方がない。私が当ててやろう」
 だんまりを決め込んだ佐那の前にお茶菓子を置きながら幸庵が続けた。
「町を騒がしている盗賊の一団がいるらしいね。悪い代官や悪徳商人から金品を盗み、貧乏な者に施しを与える。町では義賊として崇められている。たしか『朝顔』とか名乗っていたね」
 佐那は是とも否とも言わない。だが、彼女の正体に確信があるのだろうとは思う。なぜなら、着ていた忍び装束には朝顔の刺繡が入っているからだ。そして、今の佐那は白い寝間着姿。脱がされた忍び装束は手元にはない。
「それに、君の姿は『玉楼』で見かけたことがある」
「……っ……」
 声を上げそうになったのを、危ういところで耐える。『玉楼』での佐那の地位は低く、客の前に出る場面は少ない。それなのに『玉楼』での佐那と同一人物であると見抜くとは、最初から狙われていたとしか思えない。
「あ、あたしは単独犯よ。仲間はいない」
 口にしてから、白々しい嘘にしまったと思う。それほど、自分から『玉楼』への繋がりを見破られるのを恐れていた。
「ふふ……君は仲間想いなのだね。私の質問に答えてくれたら信じてあげてもいいよ。まずは名前からだ」
 下から物凄い視線で睨んでも幸庵は全く動じない。佐那はそのままの姿勢で呟くように言った。
「佐那。あたしの名前は佐那よ」
「佐那か。可愛らしいよい響きだ」
「答えたから、あなたも答えて。どうしてあたしを助けたの?」
「それは簡単なことだよ」
 幸庵はにっこりと微笑みを浮かべた。
「君を生捕りにしておけば、きっとお仲間が助けに来るだろうからね。そこで一網打尽にしてしまえばよいとは思わないかい?」
「だから、あたしは単独犯!」
 無駄な主張と思いつつも、力強く告げる。
 やっぱり睨んだ通りだった。佐那は仲間を捕らえるための囮でしかない。用が済めばそのまま奉行所に引き渡されるだろうし、助けに来なかったとしても運命が変わることはないだろう。
「とはいえ、これほど可愛い娘が盗賊をしているとは思わなかったからね。私へ一生を捧げるというのであれば、君の命だけは助けてあげてもよいのだが」
「舐めないで。三条河原に晒されるのは、あたしの首一つで十分よ!」
 我が身可愛さに命乞いをするほど落ちぶれてはいない。義賊になってから――いや、それよりも前から、いつかこうなる覚悟は出来ている。
「――と、まあ、悪徳高利貸しならば言うところなのだろうが」
 ところが、佐那の態度に幸庵は怒ることもなく、微笑みを苦笑に変えた。
「わたしは君に、危険な仕事からは足を洗ってほしいと思っているのだよ」
「……は?」
 困惑して佐那は眉をひそめた。忍び込んだ家の者に、どうしてそんな心配をされるのだろうか。
「君は私の配下の命を救ってくれたらしいからね。その恩返しはしたいところだ」
「昨夜は、ありがとうございました! わたし、文福と申します!」
 はきはきと、布団の側に座っていた狸少女の声が聞こえた。ぺこりと頭を下げて、ボテッとした尻尾がひょこひょこ揺れる。
「あっ、あなたは……無事だったのね」
 その声で、謎のあやかしに襲われていた少女は文福だったと理解する。彼女もあやかしだとは思わなかった。謎のあやかしに気を取られていて気が付かなかったのだろう。
「それで、その代わりにあたしの傷を治してくれたってこと?」
「正確にはまだ治療の真っ最中だがね」
 幸庵が指さした押板床の上には、等身大のほぼ半分ほどのサイズの人形が置かれていた。佐那の外見そっくりの人形で、その胸の真ん中にはぽっかりと大きな穴が開いており、不気味な赤い染みを作っていた。
「あの人形に傷を移したのだよ。君の体力が回復する度に人形の傷が治っていく。あまり人形から離れると、人形から生命力の供給が途絶えてしまうからね。君もしばらくは逃げようとは思わないことだ」
 佐那は胸元を押さえてその人形を見詰める。それほど強くはないながらも、陰陽師の術を扱える彼女には、幸庵の言葉が嘘ではないことが理解できる。
「……本当に、それだけ?」
 全く信じられない。そもそも、盗みに入っただけで大問題のはずだ。それを不問にするだけではなく、小者を救ったお礼とはいえ傷の治療までしてもらえる。
「もちろん、それだけではないよ。さっきも話した通り、君にはこれで危険な仕事からは足を洗ってくれるのが条件だ」
「そして、悪徳高利貸しはますます栄えるってことね」
 佐那は、ふん、と鼻を鳴らした。ここで屈したら、義賊としての今までの己を否定するようなものだ。
「悪党の手助けのために屈するくらいなら、このまま奉行所に差し出されたほうがまだましよ! あなたの思うとおりになんて絶対になってやらないんだから!」
「うーん……そうか」
 頑なな様子の佐那を見て、幸庵は鼻の横を掻いた。ぴんと尖っていた耳が横に倒れたのは、困ったという感情が表に出ているのか。
「ふむ、よいことを思いついた」
 幸庵がぽんと、拳で手の平を打った。佐那には嫌な予感しかしない。あやかしの「よいこと」は、人間にとって非常識なことが多い。
「いきなり義賊を辞めろと言われても、困ってしまうのは当然だ。生活もあるし将来も不安だろう。だから、こうしよう。佐那は私の嫁になりなさい」
「……………………はい?」
 たっぷりの沈黙の後、佐那の間の抜けた声が響いた。幸庵は腕を組むと、これは名案だとばかりに何度も頷いている。
「そうすれば、わたしの商売を理解もしてくれるだろうし、佐那も生活に困らない。うんうん、これ以上はない名案だ。傷が治り次第、祝言をあげることにしよう」
「待って待って! 待ちなさいってば! どーしてそうなるの!? あたしを無理やり嫁にとか、やっぱり悪徳高利貸しじゃないのーっ!」
 佐那の悲鳴を聞いて、心外だとばかりに幸庵が首を傾げた。
「もちろん、私は同意の上で祝言をあげるつもりだよ。せっかくの新婚生活。楽しく可笑しく始めたいじゃないか」
「いやいやいやいや」
 死んでも同意しない自信がある。ぶんぶん、と激しく首を横に振っていると、狸のあやかしとは別のあやかしが部屋へと入ってきた。
「幸庵様。そろそろお仕事のお時間ですが」
「おや、もうそんな時間かね。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうから困るねえ」
「あたしはぜんっぜん楽しくなかった!」
 笑いかけてくる幸庵へ肩を怒らせてみせるも、暖簾に腕押し。全く効果を感じられない。それどころか幸庵は、立ち上がりながら追加の爆弾発言を置いて行った。
「今夜、そなたを甘やかすのが待ち遠しくなってきたな。祝言を受け入れてくれるよう、身も心も極楽浄土へ連れて行ってあげる故、楽しみに待っておくがいいよ」
「そんなこと頼んでないし!?」
 佐那の抗議の声も何のその。幸庵は足取りも軽く部屋を立ち去った。

    ◆

(これはまずい、ひじょーにまずい!)
 部屋に残された佐那は焦っていた。
 差し迫った問題の中に、命の危機はないようだ。しかし、何を血迷ったのかあやかしに気に入られてしまい、今度は貞操の危機に陥っているような気がする。
 人ならぬ力を持つあやかし。彼らが人間の世に関わり合いを持つことは多くはないが、人間の常識が通用しない存在であるのも事実。それらから人間を守るために陰陽師なるものがあるのだ。
(力づくでは何もしないって……)
 弱いながらも陰陽師の才がある佐那は、彼女を治療したという人形に掛けられた術が、かなり高度なものであることを読み取っていた。瀕死の人間を救うだけの力があるあやかし。今は機嫌がいいものの、その機嫌を損ねれば一体どうなってしまうのか。
「やっぱり、どうにかして逃げるしかない」
「え? 佐那様? 何か仰られましたか?」
「おっと……な、何でもない!」
 隣に狸のあやかし――文福が残っているのを忘れていた。佐那は慌てて笑顔で取り繕う。このあやかしは人型だが、それほど力を持っているわけではない。そう見定めながら佐那は問いかける。
「ねえねえ、あたしって、ずっとこの部屋の中にいないと駄目なの?」
「いいえ。屋敷の中なら自由に歩けますよ。その時はわたしが案内するように申し付けられています!」
 ふうん、と佐那は顎に指を当てて考える。
 逃がさないつもりならこの部屋に缶詰めかと思いきや、自由は与えられているらしい。逃げるにしても屋敷の内部構造を目にしておくのは役に立つはず。そう考えた佐那は、案内してもらうよう頼むことにした。
「ならよかった。えっと、文福だっけ? 案内お願いね!」
「いえ! 佐那様はわたしの命を救ってくれた恩人なのです! なんでもお申し付けくださいね!」
 小気味よい文福の返事に、佐那は少しだけ胸が痛んだ。逃げるための偵察、とは露ほども文福は思っていないようだ。
(こう、真っ直ぐな子だと……やりにくいなぁ)
 くりっとした真ん丸瞳は、とても可愛らしい。むしろ、悪徳高利貸しの元から救い出してやらないといけない気すらしてくる。
(助ける……か)
 吉平に左近。二人とも無事に逃げられただろうか。
 不意に黙り込んだ佐那を不審に思ったのか、文福が心配そうに問いかけてきた。
「どうかしました?」
「昨日の襲われたときのことを考えてたの」
 文福がその時を思い出したのか、ぶるりと肩を震わせた。
「物音がしたので何があるのかと蔵へ行ったのですが、あんなおっかない人間が出て来るなんて思ってもみませんでした」
「え? 人間? あたしには、黒いもやもやをした、あやかしにしか見えなかったんだけど」
 そんな馬鹿な、と佐那は首を傾げる。あやかしが、あやかしを見間違えることがあるのだろうか。
「あ、あやかしだったのですか? う~、わたしは怖くて腰が抜けちゃって、あまりよく見てなかったのですよね……」
「あれは絶対にあやかしだったから!」
 きっぱりと佐那は言い切った。
 あれは絶対にあやかしの気配だった。それに忍び込んだ仲間が屋敷の者を襲うわけがないし、何より佐那に斬りかかってくるわけもない。
「そうですかぁ、あやかしだったのですねぇ……同じあやかしとして、腰を抜かすとか情けない。でも、幸庵様はすごいですよねぇ。心の臓を貫かれた佐那様を、こうして何事もなく復活させたのですから」
「あは、あははは……そ、そうね」
 頬を引きつらせて佐那は何とか平静を保った。傷の位置とその深さ。あまり考えないようにしていたのだが、面と向かって指摘されると笑うしかない。即死していて同然の傷だったのだ。
「とにかく! 早く屋敷の中を案内してほしいな!」
「はい! 疲れたらすぐに教えてくださいね?」
 文福が引き戸を開けて佐那は外へ出る。
「おお……」
 青々と茂る庭木の数々。流れる小川はまるで自然のようであり、庭の奥側に見える池には何匹もの鯉だけでなく、他の小魚も泳いでいるようだ。何処からか鹿威しの音が響くと、木に止まっていた鳥が、ぱっと空へと飛び立つ。ところどころに立つ蔵は、見事に周囲に溶け込んでおり、まるで打ち捨てられた廃屋のように趣がある。
 まるで大名屋敷のような庭園は、夜に忍び込んだ時とは全く違った様子に感じられて、見る者の目を楽しませ、佐那ですら感動してしまったほどだ。
「素晴らしい眺めでしょう! このお庭は幸庵様の自信作なのですよ。わたしも毎日お手入れを手伝っているのです」
 えっへん、とばかりに隣で文福が胸を反らした。
「この広さだと管理が大変じゃない?」
「お庭はそうでもないですよ。毎日お手入れをしなくても、植物のほうが幸庵様に気に入られようと思っているのか、ほどよく伸びてくれるので。お屋敷の掃除のほうが大変ですね。毎日やらないといけないのと……」
 がっちゃーん!
 屋敷の縁側を歩いていると、派手な音が幾つか部屋をまたいだ向こう側から響いた。なんだなんだと文福が走り出す。その後を付いて行くと、部屋を三つ挟んだ奥の部屋の縁側で、倒れた手桶が水をぶちまけていた。その側には、文福よりもさらに若い、七、八歳ほどの男の子の姿。彼にも丸い耳とぼてっとした尻尾がある。
「あら、大変!」
 文福が動くよりも先に佐那は身体が動いていた。手桶の側に駆け寄ると、落ちていた雑巾を拾い、畳にも侵入していた水を手早く追い出していく。
「お、お姉さん!?」
 驚いたような男の子の声。すぐに文福の叱責が飛んだ。
「こら、福太っ! ま~たやってしまいましたね!」
「ひぃ~、文福お姉ェ、ごめんなさいい~~」
 微笑ましいやり取りではあるが雑巾が足りない。佐那は雑巾を力いっぱい絞りながら指示を出す。
「文福、もっと雑巾ないかな?」
「あ、はい。今お持ちします! っていうか、わたしたちが片付けるので、佐那様はお構いなく~!」
 だだだ、と足音が遠ざかり、いくらも経たないうちに戻って来た。
 文福の両手に十枚以上雑巾が抱えられている。佐那はそれを受け取ると、部屋の内側から外側へと水を押し出すようにして拭いた。彼女の真似をするように文福も、福太も手伝ってくれる。結構な大惨事ではあったが、三人で協力したおかげで思ったよりも早く拭き終わった。
「さすが、佐那様。的確な指示をいただき、ありがとうございます! おかげで助かりました。ほら、福太もきちんと礼をする!」
「えへへ、ありがとうお姉さん!」
 ぺこり、と頭を下げてくる福太が可愛らしい。だが、佐那はひらひらと手を振りながらも、心の中では頭を抱えていた。
(しまった。どうしてあたしはこんなことを~~っ!)
『玉楼』での癖で、つい身体が動いてしまった。義賊の仕事もあるため、あまり客を取らない佐那は、『玉楼』では裏方仕事が多かったのだ。
「このような感じで、うちの屋敷にはまだ若いあやかしが多いのです。いまも手桶を妖術で操り損ねちゃいましたね。正式な人型に化けられる者は店に出ていますが、そうでない者はこうして屋敷や庭の維持をしています」
 へえ、と佐那は縁側を歩きながら屋敷の部屋を覗いていく。たしかに掃除をしている者は若そうに見えるあやかしばかりだ。人型への変化も怪しい。ふと、隣を歩く文福を見ると、いつの間にか耳と尻尾が隠されていた。彼女は店へ出るあやかしなのだろう。
「このお屋敷って人間はいないの……って、いるわけないか」
 質問しかけて、自分でそれを否定する。くすくすと文福が笑った。
「付喪神になりたてや、あやかしとして人型が取れるようになった者ばかりを幸庵様が集めていますからね。人間の世の常識を知らないと、あっという間に陰陽師に討たれてしまいますから」
「ふうん……」
 高利貸しの割には、やっていることは人助け――もとい、あやかし助けのようだ。あやかしの悪戯は人間の世では、当然の如く好まれない。それが行われる前に防いでいるとすれば、少しは見直してもいいのかもしれない。
(いやいや、そんなことないし!)
 ぶんぶん、と佐那は首を横に振って否定する。集めてきた情報では、ここのために身ぐるみ剥がされた者が多いということだったではないか。
「――あら? その娘が昨日の賊かしら?」
 背後から敵意を感じ取り佐那は振り返った。佐那よりも少し背が高く、花魁もかくやというほどの美しい顔立ちの女性。黄色を基調とした格子柄の着物の上からでも、身体の凹凸がわかる。耳に下げている和錠のような耳飾りが目を引いた。
「鈴姫(すずひめ)様、おはようございます! 佐那様、こちらがこのお店の蔵の管理をしている鈴姫様です」
「はあ。おはようござい……っ!?」
 文福に紹介されるも、最後まで挨拶をする前に、佐那の身体が強烈な力で上から押さえつけられた。たまらず膝をつき、そのまま土下座をするような格好になる。
(こ、これは、妖力っ……!)
 必死に抗おうとするもどうにもならない。
「人様の家に泥棒に入っておいて、いけない娘ですわ」
 目の前にしゃがみ込んで来た鈴姫が、佐那の顎をぐいっと掴むと顔を上に上げさせた。
「申し訳ありません、わたくしたちの奴隷として一生を捧げます、くらい言えないものなのかしら? 躾けのなっていない人間は嫌いですわ」
「す、鈴姫様! お待ちください!」
 文福が慌てたように鈴姫の耳元で何かを囁いた。「はあ?」と眉間に皺を寄せて、刺すような視線が佐那へと向けられる。そのまま殺気だけで殺されてしまいそうな雰囲気。
 やがて、鈴姫がパチンと指を鳴らすと、佐那の身体は後方へ弾き飛ばされ、一間ほど縁側をゴロゴロと転がった。
「幸庵様が仰るならしかたがないですわ。命拾いをしましたわね」
 腰を打って、イタタ、とさすっている佐那をしり目に、鈴姫は屋敷の表の方へと立ち去った。
「お怪我はないですか、佐那様!」
「……なに、あいつ!」
 泥棒に入ったのは事実だが、なぜかそれ以上に恨まれている気がする。
「鈴姫様は責任感が強いお方ですからね。お屋敷の警備も任されていますから。佐那様に出し抜かれてしまって面白くないのだと思います」
「あー、あのあやかしが警備もしてるのね」
 その説明に納得もする。鈴姫の顔に見事に泥を塗ったのだから。
(まあ……捕まったあたしが悪いんだけど)
「佐那様、どうされましたか? もしや風邪でも……」
 大きなため息をついていると、文福が気遣ってくれる。佐那は猫のように、うんっ、と大きく身体を伸ばした。
「うーん、ちょっと疲れちゃったかも」
「それはいけませんね! お部屋に戻りましょう!」
 うんうん、と頷きながら回れ右をして部屋へと向かう。
 ここまでのやり取りで、脱出経路は頭の中に完成した。あとは頃合いを待って実行に移すだけだ。
(左近様、吉平……心配してるだろうな)
 佐那は縁側で一瞬だけ立ち止まり、庭のはるか向こう側にある白壁を見る。
 みんなのためにも絶対に脱出しなければ。

    ◆

「……佐那様ぁ、むにゃむにゃ……」
 三段に重ねた布団の端で、夢の中へと落ちた文福が幸せそうな表情で呟いている。佐那はそのぷにぷにの頬をつついた。目覚める気配はない。
「うふふ、可愛い。ごめんね~」
 佐那の右手には呪符が一枚。陰陽師の術を掛けたのだ。自分の力が通じるか自信がなかったのだが、文福も油断していたのだろう。あっさりと佐那の術にかかった。
 文福がしばらく起きそうにないのを確認してから、佐那はそっと立ち上がった。ぐずぐずしている暇はない。文福から聞き出した話だと、今は夕飯の直前。みんなが銭湯へと出かけ、一日の汗を流している時間帯だ。ここを逃すと、一気に脱出が難しくなってしまう。
 幸いにも自分の忍び装束は、きちんと畳まれて枕元に置かれていた。佐那は寝間着から手早く着替える。
「これも忘れないように持って行かないと」
 佐那は己の身代わりに傷を受けている人形を手に取った。幸庵の強い妖力を感じる。傷が治り切っていないのは事実だろうから、この人形を置いていくわけにはいかない。
(たしかに命を救ってはもらったけど……だからって高利貸しの嫁になるわけにはいかないし。あたしは『朝顔』の佐那だし)
 少しだけ罪悪感を覚えながらも、佐那は人形を背負うようにして紐で括りつけた。
 僅かに引き戸を開き外の様子を確認する。今は誰もいない。佐那は決心すると、部屋から外へ出て、素早く縁の下へと駆け込む。直後、近くから声が聞こえ、何人かのあやかしが頭上を通り過ぎていって冷や汗をかいた。
(あ、危なかった……)
 あと一瞬遅かったら、見つかって大立ち回りをする羽目になっていただろう。
 地面に耳を付けて屋敷の気配を探りながら、佐那は縁の下の柱を縫うように移動した。あまり時間をかけると、佐那が部屋にいないのがバレてしまう。その前に屋敷の外へ出てしまいたかった。
(もう少し……)
 縁の下から蔵の物陰へと飛び移り、じりじりと通りに面する白壁へ近寄っていると、不意に背後の方が騒がしくなった。佐那、という単語も聞こえる。どうやら部屋にいないのが露見してしまったらしい。
 しかし、ここまでくればもう逃げられる、と佐那は確信していた。
 背中で人形を縛っていた紐の一部を解く。数間の長さになり先端には鉤爪がついている。それを頭上でぐるぐると回し、勢いをつけて白壁の上端を狙って投げた。ぐっ、と引っ張ると鉤爪が塀にかかった感触。
 ぐいっ、と縄を引っ張り、佐那は壁に足を掛けた。そのままバランスを取りつつ登り、あっという間に壁の上端へ。高さを見定めて塀の外へと身を躍らせる。たんっ、と身軽な音と共に佐那は脱出に成功していた。
「よし、さすがあたし、完璧! あとは逃げるだ……!?」
 走り出そうとしたところで、胸が強烈な痛みに襲われ、佐那はがっくりと膝を落としていた。
「なん……で……」
 突然の出来事で頭の中が混乱する。ぽたり、ぽたり、と赤い雫が忍び装束を伝って地面に染みを作った。やっとのことで背中の人形を下ろして確認すると、ぽっかりと空いた胸の穴がさらに広がっている気がした。
(もしかして……幸庵が抑えていた?)
 術の種はこの人形だと考えていた。人形を屋敷に置くことで、佐那の取れる選択肢を狭めているのだと思っていた。
 だが、更に幸庵が何かしらの術を掛けていたとしたら……。屋敷の外は、幸庵の力の範囲外なのかもしれない。だから逃げないように忠告されていた。そこから外れた今、人形に移されていた佐那の傷は、致命傷となって彼女に襲い掛かっていた。
「ごふっ……」
 おびただしい血の塊を吐き出し、佐那はたまらずその場に倒れ伏した。流れ出す血がるみるうちに広がっていく。
(ごめん、みんな……もうダメだぁ……)
 虚ろになった瞳がゆっくりと閉じられていく――

    ☆

「――お前はどうしてこんなに出来が悪いのだろうねえ」
 十歳に少し足りない少女の前には、何枚もの紙のお札が散らばっていた。少女が発動できなかった式神や術式の残骸。陰陽師の卵であればだれでも扱えるような簡単なものばかり。それをことごとく失敗した少女は父親から厳しく叱責されていた。
(ああ……いつもの夢だ)
 うなだれている少女を何処からか見下ろしながら、佐那はぼんやりとそんなことを考えていた。幼い頃の記憶だ。自分がまだ陰陽師を目指していた時期の。
「あまつさえ……!」
 父親は忌々し気に舌打ちをした。その理由も少女――佐那には分かっている。
 陰陽師は人間に害を成すあやかしを退治する存在。それなのに、佐那はあやかしを逃がしてしまったのだ。
「だって……だって!」
 嗚咽を漏らしながら佐那は袖で涙を拭いた。
 修行のために連れてこられた一匹のあやかし。手の平に乗るほどの大きさで、つぶらな瞳をした小鬼。ぶるぶると震えている姿は、とても人間に害を及ぼすとは思えなくて、むしろ可哀そうに思ってしまったのだ。滅する事なんてとても無理だ。
 元々、陰陽師としての才能を見せられないではいたけれど、これでは成功する要素は一片たりともなかった。
「無能な娘だとは思っていたが、あやかしの味方をするほど物分かりが悪いとは」
 襟首を掴まれるようにして立たされ、佐那は喉の奥で「ひぃ」と悲鳴を上げた。
「来なさい」
「やだっ、いやだぁ!」
 また一人、暗い蔵に押し込められてしまう。そう察して泣き叫ぶ。
「今回の件は陰陽師としてとても看過できん行為だな。きつく仕置きをせねば」
「いやぁぁっ!」
 暗い蔵に何日も閉じ込められ、飢えと渇きで死にそうになったところで出される。前回は意識が朦朧としてきたところで何とか許された。
「お願い、お父様! あたしもっとちゃんと頑張るから! だから許してっ!」
 大きな蔵の扉が佐那の目の前で、重々しい音を立てて閉まった。
 いくら泣いても喚いても結果は変わらない。何度叩いても出してもらえる気配はないし、扉もびくとも動かない。
「うぅ……」
 真っ暗な蔵の中で佐那のすすり泣きだけが聞こえるのだった。

    ◆

「――う……ぁ……」
 弱々しく右手が虚空に上がる。まるで見えない何かを追いかけるように。
 その震える手を、大きな手が優しく包み込んだ。華奢な少女の手はぴくっと震えるも、そのまま委ねるように力が抜けた。
「目が覚めたかね?」
 凍えた心を溶かすような優しい声音に、佐那は固く瞑っていた瞼を開いた。ぱちくり、と何度か瞬きを繰り返して、やっと夢から現実に戻って来た気分になる。
「……生きてる?」
 虚空を彷徨っていた視線がある一点で止まった。心配そうに見詰めてきている幸庵。
「どうして……」
 術が己と人形だけで完結していると思い込んでいた。幸庵の力も常に注ぎ込まれていると考えが至らなかったのは、浅はかと詰られても仕方がない。
 いや、それは些細なことなのかもしれなかった。逃げようとした事実は、見捨てられていてもおかしくなかったはずなのだから。
「説明が足りずに怖い思いをさせてしまったね」
 布団の上で幸庵に膝枕をされている。佐那はぼんやりと幸庵が説明するのを聞いた。
「この屋敷には外の人間、特に陰陽師から見咎められないよう、私の結界がかかっているからね。この人形は私の力が及ぶ範囲で効果を発揮する。だから、屋敷の外へ出た瞬間、術が崩壊してしまった。もっときちんと注意をしておくべきだった」
 佐那の予想通りの説明。だが、彼女が聞きたかったのはそんなことではない。
「あたし、逃げようとしたのに……」
「ふふ、あやかしの嫁にされると聞いて、慌てない娘のほうが少ないだろうねえ」
 幸庵の右手が伸びて来て、佐那の頬にかかっていた髪を払った。そのまま身体を持ち上げられ、幸庵の膝の上で横抱きにされる。もう逃げることは敵わない。これから何をされるのだろうか。
 あやかしが密かに人間を攫っていく噂は事欠かない。それは神隠しとされ、攫われた先でどのような目に遭っているかは誰も知らない。
 佐那は観念して目を閉じた。全身が緊張で強張る。
 ところが、そこから先は何もされることもなく、佐那の頭が優しく撫でられるばかり。
「勘違いしないで欲しいが、私はその場の雰囲気で佐那を嫁にすると宣言したわけではないのだよ。実はずっと君を探していたのだ」
「探していた? あたし、あやかしに知り合いなんていないはずなんだけど?」
 勇気をもって佐那は目を開いた。見下ろしてくる幸庵の表情に邪な気配はなく、本当に彼女の身体を心配しているかのようだ。
「佐那が覚えていないのは残念だが……。私はそのような顔をした君が欲しいわけではないのだよ。忍び込んで来たときのほうが生き生きとしていた。またあのような表情を見せてくれないかい?」
 諦めたというのを見抜かれた。佐那は不貞腐れて頬を膨らました。
「生殺与奪を握られてるのに、あたしにどうしろと……。これから何をされたってあたしは抵抗できないんだよ?」
「死んでもおかしくない傷を負っていたのだから、そこは許しておくれ。だがね、傷が癒えたら、この術は必ず解く。それだけは信じてほしい」
 見下ろしてくる幸庵の瞳は真摯で、とても嘘をついているようには見えない。佐那を一時的に誤魔化したいだけで、これだけの瞳が出来るだろうか。
「……だからって、あたしがなびくとは限らないんだけど? 傷が治って術も解かれたら、さっさとおさらばしちゃうかも」
 挑むような瞳を佐那は向ける。このあやかしは、なぜか自分に執着をしている。素直に解放してもらえるとは、とても思えなかった。
「それは確かに困ってしまうね」
 心底弱ったような幸庵の表情。上級のあやかしがそんな表情をするのがおかしくて、佐那はうっかり小さく吹き出してしまった。
「あはは、どうしてかは知らないけど、あたし如きのためにそこまで困るとか、幸庵って変なあやかし!」
「君はそれだけのことを私やあやかしにしてくれたのだがねえ。思い出さないかい?」
 佐那はふるふると首を横に振った。これほど立派な妖狐の目に留まるとか、そちらの方が驚きだ。
「ふむ……」
 苦虫を嚙み潰したように唇を歪めていた幸庵だったが、ゆっくりと確かめるように口を開いた。
「佐那が私を嫌う理由の一つは、私が悪徳高利貸しだからかな?」
「うーん……まあ、それは一つある」
 ここで下手な返答をしたら機嫌を損ねてしまうかもしれない。佐那は注意深く考えてから回答する。
 初対面なのにとか、あやかし相手にとか、それ以前の問題もあるのだが、嫁にすると宣言されて、最も拒否感があるのはその部分で間違いない。
「なるほど、やはり仕掛けが効き過ぎてしまったというわけだ」
「仕掛け?」
 佐那は首を捻るも、幸庵は一人で納得したように何度も頷いていた。
「明日から傷が治るまで、私の仕事を手伝ってもらおう。それで私の誤解が解ければ、佐那の心も変わるかもしれないというもの」
「どうして高利貸しの手伝いなんか……」
「傷が治っても君の気持ちが変わらなければ、嫁にするというのは諦める。もちろん、屋敷へ忍び込んだことも咎めない。無罪放免。仲間の元に戻してあげることを誓うよ」
「え……?」
 驚きで佐那は目を見張った。まさか幸庵の口からそのような申し出があるとは。
 何しろ相手は冷酷非情な高利貸し、と世間では噂されている。今の佐那にいくら甘い顔をしていようとも、彼女がなびかないとなれば、強硬手段に出るだろうと思っていたからだ。
「その言葉、信じていいのね?」
「もちろんだとも。この幸庵の名にかけよう」
 相変わらず佐那を見詰める幸庵の瞳はまっすぐで、その奥に偽りの気配はない。
 それに、と佐那は別のことを考える。幸庵の仕事を手伝う過程で、悪徳高利貸しの犠牲になる者を救う機会があるかもしれない。義賊を名乗る佐那にとっても、実のある約束になりそうだ。
「わかった。その条件、呑んであげる」
 佐那が頷くのを見て、幸庵の唇が綻んだ。わしゃわしゃと頭を撫でられる。
「やっと生き返ったような、よい顔になってきたね。それでこそ私の嫁。私の佐那だ」
「まだあなたのものになるとは決まってませんーっ!」
 いーっだ、とばかりに佐那は舌を出して見せたのだった。