それから、火曜日と木曜日は凛と居残りをする日々が続いた。
 図書室で勉強。中庭のベンチでお喋り。誰もいない教室でたわいもない話。男女で居残りをすると言っても、それは至って健全なものだった。その時間は風のようにいつも走り去ってしまう。
 
 凜の門限が普段より遅い日といっても、普通の高校生の門限よりは早い。
 名残惜しさが日に日に大きくなるのを感じていた。
 
 今現在の凜の印象は、当初と比べると、格段に変わった。
 表情の起伏が少なかったが、最近はとにかくよく笑う。子供のように笑う表情があどけなくて可愛らしくて。何度見ても、つい見惚れてしまう。

 今日は火曜日。
 片手では収まらなくなった何度目かの居残りの日だ。
 今は放課後ではなく昼休みだが、凜は俺の前にいる。
 
「凜ちゃんは咲弥のどこが良かったの?」
「んー。優しいところかな?」
「優しい人なんていっぱいいるよー。俺だって優しいのにー」

 大地はわざとらしく口を尖らせて不貞腐れている。いつの間にか大地と凜は普通に話す仲になっていた。
 火曜日と木曜日の放課後に居残りをする。という約束だったが、昼休みになると毎日のように一緒にお弁当を食べるのが日常に追加された。そのため、俺といつも一緒にいる大地と凜が親しくなるのは必然の出来事だった。
 
 大地は俺と凜が付き合っていると思っている。凜本人が否定もしないので、なんとなくその流れのまま、俺も否定しなかった。俺からすれば、美少女と付き合っていて、羨ましがられる。特に否定する理由もないのだ。

「咲弥に酷いこと言われたり、むかつくことあったら、すぐに俺に言ってよ? 俺が咲弥をしめとくから」
「ふふっ。今のところなさそうだよ」
「凜ちゃんって笑うんだな。こうやって話すようになるまでは、高嶺の花っていうのもあったけど。クールであまり笑わないイメージだったから」
「……」
「あ、ごめん。凜ちゃん、悪く言っているわけじゃなくて、咲弥といると楽しそうだよ。って言いたかったんだ」

 一瞬凜の顔色が曇ったのを見て、大地は相当焦ったようだ。両手を大きく横に振って、弁明に必死な様子が伺える。
 大地の言っていることは頷けた。俺らからしたら高嶺の花で話しかけるなんて、そう思える人物ではなかった。今こうして話すようになって、声を出して笑うので最初の頃はギャップに驚かされた。

「私……笑ってる?」

 きょとんと、首をかしげて不思議そうに問いかける。こんなに毎日笑っているのに、その実感がないとでも言いたげな表情だった。

「凜ちゃん、咲弥の前だとすっごく楽しそうだよ?」
「私、さっくんの前だと笑ってるんだ。へえー。そっか……」

 どこか他人事みたいにぽつりぽつりと呟く彼女に、どこか違和感を覚えた。
 
「咲弥も凜ちゃんと付き合ってから変わったしなー」
「え、そうか? どの辺が?」
「こいつ凜ちゃんにとびきり優しいっしょ? 俺や他の奴らに対しては、こんなに優しくないよ。面倒ごとには絶対首突っこみたくないって性分だったし。人に興味がない癖に、彼女欲しくて誰振りかまわずいけそうな女子に告白するし。友達ながらに最低な奴だと思ってたよ」

 そこまで低評価だったとは初耳だ。悔しいが否定できない。そう。俺は人としてろくでもない奴だと自覚しているからだ。

「確かに。人として最低だけど。今のさっくんは最低じゃないよ。いつも私のお願い聞いてくれるし」
「うん。うん。凜ちゃんありがとう。咲弥を真人間にしてくれて。凜ちゃんのおかげだよ」

 服の袖を目に当てて泣くふりを決め込んだ。大地の言っていることは俺を蹴落としているのに、どうしても憎めない奴だ。
 
「ううん。私の方こそいつもありがとう。さっくん」
「おーい。咲弥はいつもこんなに可愛い天使の微笑みを浴びているのか?」

 羨ましいと言わんばかりの表情を浮かべて俺の肩を小突いた。
 凜は俺たちの様子を見て、また優しく笑った。

 冗談ではなく、本当に天使のように見えた。
 純粋で無垢な彼女の笑顔は俺の心に光を与えてくれる。
 彼女の笑顔を見るだけで俺の心は浄化されるように、あたたかくなるのだ。
 
「毎日天使の笑顔を浴びてたら身体によさそうだ。咲弥、お前の寿命伸びたんじゃないか?」

 大地の一言に空気ががらりとかわった。空気が変わったというよりは、凜から放たれる空気が変わったと言うべきか。それを感じ取ったのは俺だけのようだ。大地は相変わらず「いいなー」と呑気に何度も繰り返し唱えている。凛から発せられている空気は完全に冷たいものに変わっていた。
 凜の影のある悲しげな表情を見て、心臓のあたりにちくっと痛みが走る。

 俺は彼女のことを知れていると思っていた。だけど全然知れていない。
 肝心の凜の心臓のことについては聞けないでいた。
 聞くのが怖かったんだ。心臓について追及したとして、俺なんかが受けきれる自信がなかった。
 

 自分の不甲斐なさを痛感していると、凜は曇っていた表情を一変させ、優しい笑みを浮かべた。
 無理して笑顔を浮かべている。馬鹿な俺にだってわかる。
 もしかしたら、俺が気づかないだけで、たくさん無理をさせてしまっていたのかもしれない。
 そう思うと心臓あたりが痛むんだ。
 いつもなら他人に干渉しない俺は、命に関わる心疾患を持っている奴と関わるなんて、めんどくさいと切り捨てていただろう。

 それなのに。貼り付けた笑顔ではなく、本当の笑顔で笑っていほしいと思っている。そう思っている時点で、大地の言う通り俺は変われたのかもしれない。

 凜は何事もなかったかのように、大地と談笑し始める。俺の過剰な心配だったかと思ってしまうくらい眩しい笑顔を浮かべて話していた。勘ぐりすぎならそれに越したことはない。
 キミにいつまでも笑顔で過ごしてほしいと、ひたすらに願った。

 
「今日は行ってみたい場所があります……」

 お弁当を食べ終えると、少し言いにくそうにもじもじと身体を捻じらせた。そんな姿も可愛らしくて、目的地を聞くまでもなく「よし。行こう」勢いよく返事をした。隣で「俺も行きたい!」と勢いよく手を上げる大地の腕をそっとおろした。そんな俺たちのやり取りを見て凜は嬉しそうに笑うのだった。
 

 こうして天使が加わったことにより、殺伐としていた昼休みのお弁当タイムが、癒しの時間となった。
 目の前で繰り広げられる会話に、凜と本当に付き合っている錯覚に陥る。気分は凄くいい。自然と満ち足りた気持ちになる。