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 インクと紙の匂いが鼻を刺激する。シンと静まり返る図書室の空間に開けられた窓からそよりと風が舞い込む。窓の外から部活動に励む生徒の声が遠くから聞こえてくる。図書室を利用するのは俺たちの他にもぽつりぽつりと数人いた。

「なんか、緊張しちゃうね」

 誰も座っていない長机に教科書とノートを広げた。口元に両手を当てて向かい合って座った俺に小声でゆっくり話しかける。ヒソヒソ声も図書室内に響き渡りそうなほどの静寂が広がっていた。涙袋をぷくりと膨らませて微笑むと、視線を教科書に移した。カリカリとシャープペンを走らせて真剣に勉強に取り組んでいるようだった。

 勉強によほど集中しているのか、俺がいくら見つめ続けても気づく様子はない。美少女を堂々と見つめられる正面に座る俺は、きっと誰もが羨むだろう。

 俺はというと、勉強する気はさらさらない。ただ、凜と一緒過ごしたかった。過ごせるのなら普段は近寄らない図書室だって。静寂が広がり居心地の悪さを感じようとも、どこでも構わなかった。

 冷静になって考えると、学校一の美少女と図書室で勉強をするなんて考えられない。
 全部夢なのではないかと思ってしまう。図書室の長テーブルの上に教科書を並べてみるが、開きもしないで物思いにふけっていた。
 
 コンコン。
 机を軽くたたく音に反応して顔を上げると、にんまりと笑ってノートをスッと差し出してきた。

『勉強しないの?』

 ノートの端に書かれた小さくて女の子らしい可愛らしい字。図書室の静まり返る空間を気にして筆談にしたのだろう。凜が書いた字の下に雑な字で返事を書いた。

『おれ、勉強きらいだった(笑)』
『居残りした意味ないね(笑)』
『図書室にいるだけで頭良くなった気分になれるから、意味はある』
『意味わからない(笑)』

 時折「ふふっ」っと小さな含み笑いが零れだす。ハッとして両手で口元を抑えて周囲の様子を見渡すのが、小動物みたいで可愛かった。そしてまた真剣な顔で教科書に視線を戻した。俯き気味に見えるまつ毛が長くて、瞬きをするたびに揺れていた。窓からそよりと舞い込んだ風が凜の髪の毛をさらりとなびかせる。と同時に鼻を刺激する甘い香り。シャンプーの匂いだろうか。甘くフルーティーな香りに胸の奥が熱くなるのを感じた。

 ブーブー……
 凜のスマホのバイブレーションが鳴った。
 
「あ、時間だ」

 画面を確認して、小さい声を上げた。

「門限破ったら困るから、アラームしといたんだ」

 不思議そうにしている俺に説明してくれた。
 アラームは居残り終了の合図ということらしい。寂しさを覚えながらも、静かに図書室を後にした。
 昇降口まで肩を並べて歩いた。


「あのさ、なんで火曜日と木曜日だけ門限が遅いの? なんか理由あったりすんの?」
「火曜日と木曜日は……塾に行くことになってる」
「行くことになってるって……。それって……」
「うん! 塾は行ってるふりだよ!」
「親にバレるんじゃないのか?」

 俺の質問に一瞬足がピタリと止まった。俺に背中を向ける彼女の表情は見えない。小さく息を吐くと人懐っこい笑みを浮かべて振り返った。

「……そうだね。いつかバレる。そしたらこの関係もお終い。バレるのは一ヵ月後かも知れないし、一週間後かも知れない。早ければ、明日かも知れない」
「……」
「だから本当に期間限定の恋探しなの」

 表情を見せないように深く俯いた。凜が悲しいのか、なんとも思っていないのか。顔が見えないせいで、感情を組み取ることが出来ない。情けないことに言葉に詰まって言葉が出てこない。
 
「……」
「ってことで、今日はバイバイ! また……木曜日によろしくね!」

 凜は俺の返答を待つことなく俯いた顔を上げた。表情をぱっと明るくさせて手を振っている。その笑顔が無理して笑っているように見えて、上手い返しが出てこなかった。遠くなる背中を追いかけて追及する勇気もない。力なく手を振って去り行く背中を見送るしか出来なかった。