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無機質な病室から窓の外を眺めた。果てしなく続いていく鮮やかな青。吸い込まれるように見入っていた。
今日は一時外出が許された日。精密検査が思ったより長引きそうで、わがままを言って実現した。
どこに行くかは決めていない。この無機質な病室から離れたかった。以前はそう思っても、口にすることはなかった。彼と出会ってからの私はわがままになっているかもしれない。
そろそろお母さんが来ることだ。私服に着替え身支度を整えて、また窓の外に視線を戻す。
空を見ていると思い出すのは、彼だった。
せっかくお見舞いに来てくれる彼に、冷たい態度をとって嫌われただろうか。だけど、どうしても病気という壁が邪魔をする。彼の希望溢れる未来を奪ってしまわないかと、後ろめたさが消えない。
彼には幸せになってほしいんだ。それは心から願うことで、嘘偽りはない。
ただ、私が普通の女の子だったのなら、隣にいれたのだろうか。そう考えてしまう。想うくらいなら許されるだろうか。
「会いたいな……さっくんに、」
ぽつりと呟いた声は誰にも届かない。
足音が近づいてくる音がした。時計を確認するともうすぐ10時。外出許可の時刻だ。
この足音はお母さんだと思った。予想通りに近づいてきた足音は、ベッドを囲ったカーテンの前で立ち止まる。
カーテンレールを引く音と共に現れたのは、そこにいるはずのない人物。会いたいと切に願っていた人だった。
「え、なんで。さっくん? 学校は? 今日は平日だよ?」
「今日は学校が記念日で休みなんだ」
記念日ってなに。今月はそんな休日はないはずだ。
「なんの記念日?! 絶対嘘だ。創立記念日でもないし。来てくれたところ悪いけど、今日は外出許可出てて、これから……」
「これから、出かけるんだろ? 俺と」
「え、でも……」
「凜のお母さんが、提案してくれたんだ」
なにそれ。聞いてない。目の奥が熱くなるのが分かった。
お母さんが企んだことだと知ったからだ。
さっくんに会えた嬉しさと、お母さんが提案してくれた嬉しさで、涙が込み上げる。零れ落ちないように唇をぎゅっと噛んだ。
楽しい時間に涙は似合わないと思ったから。
自然と手を繋いで歩いていく。今までは躊躇していたくせに、今日は気にもしていないような顔をして手を繋いきたので、私の心は乱された。
行き先を教えてはくれなかった。手を引かれるがまま着いていく。
平日だからか、電車に乗る人は少ない。一駅分電車に揺られて、目的地の駅へとたどり着く。
駅から歩いて5分。大きめな公園がある。今日の目的地だ。
さらりと肌をなでる風が心地よい。風に甘い香りが乗せられてやってくる。
「藤の花――」
紫色の藤の花が咲き誇り、回廊を幻想的に彩っていた。吹き抜ける風に揺れて、淡い青みがかった上品な紫色がしだれ咲いている。そよりと風が吹くたびに、揺れて舞い散る花びらは幻想的だった。
「きれい――」
太陽の光も、しだれ咲く藤の花の影も。全て合わさり幻想的な空間を作ってくれる。
紫に包まれた回廊の中に喜んで飛び込んだ。見上げると一面に幻想的な空間が広がっている。視覚も、匂いも。全て愛おしいほどに。
「凜、来年もここに来ようか」
「それは……」
普通の人なら、迷いなく頷けることでも、私の頭は振れなかった。来年も生きている保障がないから。
「俺はこれから先、凜とずっと一緒にいたい」
「私といたら……きっと。しんどくなる時が来ると思う。心臓に疾患があることを、重荷に感じる日が絶対来る。そして、私がさっくんがいなくては生きていけなくなった頃、離れて行くんだよ……何もわざわざ心臓に疾患を抱えている私を選ぶ必要なんてないでしょ」
可愛くない返事をしたと自分でも思う。
だけど、そうするしか選択肢がなかった。
私はなんでこんなに胸が苦しいんだろう。自分で言った言葉に、私自身が傷ついている。
さっくんと出会って変われた気がした。
一歩踏み出す勇気を教えてもらった。
だけど、やっぱり。病気を理由にして、ここぞと時に一歩が踏み出せない
「違うんだよなー」
「え、」
風に揺れて花びらが舞い散る中、彼の瞳は優しく真っすぐだった。
「凜を助けたい。そう言い続けてたけど、違うんだ。俺が、凜と一緒にいたいだけなんだ。凜に俺が必要なんじゃなくて……俺に凜が必要なんだ」
「……」
彼の言葉が心のど真ん中に突き刺さる。
「だから、俺と一緒にいてくれませんか?」
藤の花の花びらが風に乗せられて舞い込む。
風と共に言葉が届いた。
ずっと隠していた想い。
私の心臓は恋ができない。私には恋する資格なんてない。
そう自分に言い続けて、消し去ろうともがいた気持ちが溢れてくる。
忘れようとした時は、なかなか離れてくれなくて。いくら苦労しても消えてくれないのに。
彼の一言でこんなにも簡単に、気持ちが溢れてしまう。
「藤の花の花言葉って知ってる?」
藤の花の花言葉。
なんだろう。分からないや。
脈絡のない返答に戸惑う。重い話を変えられたのだろうか。
「え、なんだろう? 待って。今調べるから」
調べようと急いでカバンからスマホを探し出す。その右手をぐいっと掴んで制止させられた。突然のことに驚いて、顔を上げると、真剣な眼差しの彼と視線が重なる。
「決して離れない」
「へ?」
どくん。心臓が跳ねた。ドクドクと高鳴り続ける。至近距離で思いがけない言葉を受けて、落ち着かせようとしても、心臓の高鳴りが止まってはくれない。
「藤の花の花言葉。『決して離れない』」
「な、なんだ。びっくりした」
なんだ。花言葉か。さっくん自身の言葉かと思って、ドキッとしてしまった。
あれ。私、ドキッと心臓が跳ねたよね。これが、きゅん。なのかな。
「それが怖いって思う人もいるんだって。藤の花の花言葉」
「捉え方によっては、怖い……かもね。少し」
怖いと思う人がいるんだ。
最初は花言葉を教えてくれたとは思わなくて、さっくん自身の言葉だと錯覚してしまった。素直に嬉しかった。
私にとっては怖くない。嬉しいだけの言葉だ。
考え込んでいると一瞬視界が暗くなった。何が起きたのか分からない。
ツンと香る花の匂いとは別な甘い香りを近くで感じる。身体全体を包むあたたかなぬくもり。数秒後に抱きしめられたのだと理解した。
抱きしめられた腕の中、ぎゅっと力が込められるたびに、心臓辺りに負荷がかかる。
だけど、不思議と不安はない。
「決して離れない。……離さない。離したくないんだ」
「……」
強く抱きしめられる力が心地よい。
「離したら。またふらりと、どこかに行きそうで怖い」
「またって……」
「だから、離れないで。一緒に生きて行こう? 凛が抱えている重いモノを半分ちょうだい」
「……」
「2人なら……。きっと、軽くなるから」
「……うん」
抱きしめたまま話すので、耳元に吐息を感じる。恥ずかしいけど、このぬくもりを離したくなくて。ぎゅっと抱きしめ返した。
「私は障害が多すぎる。さっくんより早く死ぬことは確実だし。他に健常者の女の子といた方が幸せに……」
「俺は、明日死ぬかもしれない!」
「な、なに言って……。そんなわけないでしょ」
「分からないよ? 俺が明日も生きている保障なんてどこにもない」
「……」
「明日事故に遭って死ぬかもしれない。明後日、命に関わる病気が発覚するかもしれない。俺にだって分からない。凛と同じ」
「お、同じなわけない……よ」
「5年後、10年後。未来のことは分からない。無責任に感じるかもしれないけど、精一杯考えて出た答えだ。未来のことはわからないけど、今の自分の気持ちは分かる。凜が好き――」
ずっと聞きたかった言葉。
ずっと言いたかった言葉。
たった二文字なのに、ずっと隠してた言葉だ。
「最初から、恋だったと思う」
「最初から?
「凜が階段から落ちてきた時から……恋に落ちていた。」
「私の心臓は恋ができない」
その言葉は幼いころから言われ続けて、鎖のように絡みついていた。
その言葉のせいで、ずっと恋ができなかった。だけど。
その言葉のおかげで、こうして今、とびきりの幸せを感じている。
誰かがそばにいてくれることは、なんて心地よいのだろう。彼のおかげで、長年絡みついていた鎖は消えたように心が軽い。
「凛の心臓は、恋できるんだよ。恋していいんだよ」
「――知ってた」
知ってたよ。
だって、ずっと恋してたから。
ずっと、あなたに恋してたから。
「私も好き。すごく。すごく好き」
好きな人が自分を好きだと言ってくれる。
好きだと、自分の思いを伝えることが出来る。
それは簡単なようで難しいことだ。
ずっと言いたくて、ずっと聞きたかった言葉は心に真っ直ぐに浸透する。
抱きしめた彼の胸元からは心臓の鼓動が小さく感じた。
一生懸命に命を繋ぐ心臓。
私の心臓も同じリズムで刻まれていく。
ドクドクと鼓動が鳴り続ける。規則的に。
確かに私の心臓は動いている。
未来のことを考えると怖くてたまらない。時折不安に押しつぶされそうになる。
だけど、彼は広い世界を教えてくれた。
恋を一緒に探してくれた。
ゆっくり歩んでいくと言ってくれた。
まだ先のことは分からない。だけど、私も一歩踏み出したいと思えた。
ゆっくり。あなたと一緒なら。
一歩を踏み出せる。
私は何歳まで生きられるか分からない。
死ぬのは5年後かも知れないし、50年後かも知れない。
分からないことばかりの中で、確信を持てることがある。
私は恋をしている。
そして、私の心臓は今も元気に鼓動している。
【完】