俺は浅はかだった。正義のヒーローのフリをして、毒親から助け出そうと思っていたなんて。
 目の前のことに囚われすぎて、凛の母の気持ちを一度も考えたことがなかった。なぜ、そこまで制限するのかを。俺のしたことは手助けでもなんでもない。ただのヒーローごっごだった。

「凜のことを心配して、制限をしていたんですよね? 凜の将来が心配で……」

 おかしいな。声が震えてくる。
 胸も苦しい。これ以上言葉を綴れない。
 母親の偉大な愛を目の当たりにして、俺が言葉を発したところで、どれも安っぽいと思った。
 
 俺の言葉なんて響かない。だって、17年間の愛に比べたら。俺の存在なんてちっぽけ過ぎた。

 その場に固まることしか出来ない俺の元に、凜の母親は歩み寄ってきた。記憶に残るのは高圧的な口調だったが、柔らかな声で言葉を零した。
 
「咲弥くんは……自分の命より大切なものってある?」
「えっと、」
「凜は……やっとできた子でね。それはもう可愛くて。子供ってね、赤ちゃんの頃は本当に何も出来なくてさ。母親がいないと生きられないんだよ。ミルクあげて、オムツ交換して。全部母親がやってあげるんだよ。少し大きくなって自分で出来ることが増えても、全力で母親を求めてくるんだよ。キラキラした瞳からは大好きだと伝わってくる。無償の愛ってさ、子供がくれるんだよ」
「……」
「私は凛のためなら、今すぐこの命を喜んで捧げられる。凛が生きてくれるなら、悪者にだってなれる。ただ、あの子に1日でも長く生きて欲しいんだ」
「……」
「凜は子供の頃から自分より小さい子に優しくてね。小学一年生の時に凜が学校で発表した将来の夢。『お母さんのような優しいお母さんになりたい』だったの。その言葉が嬉しくてずっと心に残っていた。中学の頃、凛は手術を受けた。その時、主治医の先生に言われたの『この手術は予後も良好が増えているし。寿命も年々増えています。ただ、私の主観ではありますが、凜さんの場合、妊娠出産は難しいかもしれません。同じ手術を受けた方が妊娠出産を経験している方が増えてきています。しかし、健常者と比べてリスクが大きすぎます。』その言葉が私の脳を支配しているのよ」
「……」
「ねえ、教えて頂戴。大切な我が子が命のリスクを背負ってまで出産することに。賛成できる親なんているの? 寿命が縮んでしまうかもしれない。車いす生活になるかもしれない。そんなリスクを背負わせたい親がいたら……教えて」

 心からの悲痛の叫びに、何も言えない。言えるはずがなかった。
 言葉は出てこない。言葉の代わりに涙が止めどなく出てくる。
 情けない顔を見られたくなくて。少しでも頼りがいのある男だとみて欲しいのに、溢れ出る涙が止まってはくれない。必死の抵抗で唇をギっと噛んだ。痛みと止まらない嗚咽で顔が歪んでいく。

 
 
「凛が受けた手術。赤ちゃんを産むことで寿命が縮む。車椅子生活になる恐れもある。それなのに、結婚して欲しいって。思えないのよ。だったら、子供の頃から恋愛させないように洗脳すればいいと思ったの。確信犯よ。『心臓に負担がかかるから恋はしてはいけない』そう言い続けたら、恋をしないでくれるかなって。だって、恋をして望まない妊娠をしてしまったら? その可能性だってゼロじゃない。傷つくのも全部凛の身体なのよ。……恋をしなければ、その心配をすることもない。一日でも長く生きてくれさえすれば、それで良かったの」

 男の俺はなにも言えなかった。その通りだと思った。大人じゃなくても、子供同士の付き合いでも、望まない妊娠をしてしまう可能性がある。男女が付き合うということは、その問題からは目を逸らせない。凜の母は、そこまで考えていたんだ。

「分かってるのよ。間違いだらけの愛だって。だけど、それでもただ生きていてほしいの。軽蔑するわよね。こんな母親で……」
「正直、毒親じゃん。って思ってました。娘を自分の所有物だと思っているんじゃないかって。だけど……本当のことを聞いたら、軽蔑出来るわけないじゃないですか……」

 俺の声は消え入りそうだった。目の前で偉大な母の愛を感じて、俺なんかが意見できないと思った。
 確かに、行き過ぎていたり、間違いだらけかもしれない。ただ凜のためだと知った今は、彼女を責める気など湧いてこなかった。

 凜の母親の愛は、間違いだらけの愛じゃない。
 娘のことを心から想う、嘘偽りのない愛だ。
 
「蠟燭の長さが違えば、火が消えるまでの時間も違うでしょ? これから先の咲弥くんの人生は長い。環境も変われば、恋の価値観だって変わる。凜のことだって、いつかは思い出に変わる」
「そんな! 思い出になんて……」
「じゃあ、凜と付き合ったとして。結婚は? 子供は? 凜がいなくなった後、一人で育てられる自信はあるの?」
「そんな先のこと……」
「凛と付き合うなら……。凛と向き合うのはそういうことだよ」

 何も言えなかった。高校生の俺に未来のことを背負える器がなかった。

「即答できないのなら、凜と恋をしないで……」
「……っ」
「私からあの子を奪わないで」
 
 こんなに娘を愛している母親の愛を拒否できる人がいるのだろうか。
 凜と恋することを認めて欲しくて、この場にいるのに。伝えるまでもなく、その願いは打ち砕かれた。

 敵わない。俺が凜のことを本気で好きだろうと、どれだけ愛していようと。
 目の前で泣き崩れている母の愛には敵わないと悟った。

 俺だって、凜に長生きしてほしい。
 凜と恋をすることで、彼女の寿命に関わってくるなら、身を引く以外の選択肢が見当たらない。

 いやだ。本当はいやだ。
 だけど、無理じゃんか。

 気づくとゆっくり頷いていた。

「ありがとうね。今まで凜と普通に接してくれて……」

 その言葉は、もう来るな。そう釘を打たれたようだった。
 ゆっくりと立ち上がると、背中を向けて歩いていく。

 終わりの言葉はもう関わらないでくれ。という牽制だと分かった。
 そう。分かってる。もう踏み込んでくるなと言われていることくらい分かってる。分かっているのに、心が納得してくれないんだ。