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 昨日の出来事が頭から離れない。頭の片隅にずっと白雪凛が居座り続ける。顔色を青くさせて去っていった彼女のことが心配で仕方ないが、名前も聞かれなかったし、もう会うことはないだろう。

 身体を張って人助けをしたとしても、彼女が俺のことを知るはずがない。そう断言出来る。自分で言うのは虚しくなるが、俺は存在感がまるでない。クラスで目立つ方ではないし、イケメンなわけではない。いたって普通なのだ。あの短時間の出来事では、印象に残らない薄い顔を覚えていない確率の方が高い。
 彼女は有名人だから、俺が一方的に知っていただけだ。
 学校一の美少女と少しでも関われたことを、高校生活の綺麗な思い出として胸にしまおう。そう思っていた。

 
「あのー、桜木咲弥(さくらぎさくや)くんいますか?」

 教室のドアから控えめに覗き込む凜の姿があった。学校一の美女が現れたので、分かりやすくクラスメイトたちがざわつく。有名人が俺の名前を呼んだことへの驚きの表情を浮かべながら、クラスメイトの好奇の視線が突き刺さる。

「さ、さ、咲弥? な、な、なんで、凜ちゃんが? お前を呼んでるぞ?」

 誰よりも動揺をしていたのは、俺ではなく大地だった。目を見開いて一目散に詰め寄ってくる。目は血走っていて怖い。

「昨日、ちょっとな……」
「ちょっとってなんだよ。……ってそんなことより、早く凜ちゃんのところに行けよ? 俺の女神を待たせるなよ」

 いつからお前の女神になったんだよ。
 そうツッコミを入れる前に、椅子から立ち上がらない俺の腕を引っ張り立ち上がらされたと思うと、途轍もない強さで背中を押してくる。
 
 
「昨日はありがとうございました」

 彼女はクラスメイトの視線にたじろぐことなく頭を下げた。女神が俺に頭を下げたものだから、なにやらひそひそと小言が聞こえてくる。このままでは変な噂を立てられかねない。

「ちょっと、場所変えていいか?」

 突き刺さる視線を背中に受けながら、その場を後にした。
 この学校は屋上が禁止されている。なので、屋上まで上る階段には誰も近づかない。
 屋上階段に上る前のスペースで話すことにした。

「昨日は本当にありがとうございました。命を助けていただいたのに、急に帰ってしまってごめんなさい」

 か細い透き通るような綺麗な声でお礼を言いながら頭を下げた。
 窓からそよりと入り込む柔らかな風が彼女の髪を優しく撫でた。女子に頭を下げられた経験など初めてで、どう対応していいのか分からない。居たたまれなさが込み上げる。
 
「い、命って、おおげさな」
「当たり所が悪ければ人は死にます。思っているよりも、人って簡単に死にます」

 そう告げた彼女の目はどこか遠くを見つめていて、目の奥が黒く冷たくみえた。

「……って、なんでもないです! 本当にありがとうございました」
「いや、お礼はもういいから。充分言ってもらったし。ほら、身体もどこも痛くない」

 嘘だ。本当はお尻も彼女を受け止めた腹部も、筋肉痛のような鈍い痛みがある。彼女があまりにも真剣に謝るので、痛いなんて言えるはずがなかった。

「良かった……」
「ってか、君こそ大丈夫? 顔色悪かったし……」
「わ、私は大丈夫です……」
「それならいいけど。昨日言ってないのに、よく俺の名前分かったな」
「知ってます。3年C組の桜木咲弥くんですよね?」
「あー、知ってたのか」

 俺のことを知っていてくれたことが嬉しくて、口角は上がり顔は緩む。自然とまんざらでもない表情になる。

「クラスの女子が、咲弥くんは告白大魔王って呼んでたのが印象的だったので」
「こ、告白大魔王? お、俺のこと?」
「裏ではみんなそう呼んでます」
 
 まじか。裏でみんなそう呼んでるなんて初耳だ。そんなダサい異名で呼ばれてるなんて知らなかった。出来れば死ぬまで知りたくない情報だった。

「告白大魔王の咲弥くんは、最低な男だとインプットしていましたが、今回助けてもらって最低ではないと思いました」
「そっか、好印象なら……よ、よかった」

 告白大魔王の異名が衝撃的だったが、印象が払拭されたのなら良かった。身体を犠牲にして助けたかいはあった。もしかすると、俺は直接話したほうが好感度上がるタイプなのかもしれない。

「あ、あの、確かに助けていただいたのは感謝しています。ただ……好印象ではないです。普通です」

 申し訳なさげに眉を下げながらも、しっかり訂正してきた。そこは律儀に訂正せずに好印象でいいところだろ。身体の節々を痛めているのに、心まで痛めつけられるとは。


「告白大魔王の咲弥くんは……」
「ちょ、まて。その告白大魔王はやめてくれ。恥ずかしくて……心がえぐられる」
「では……ただの咲弥くん、」
「いや、『ただの』っていらない。その言葉は使い方によって人を傷つけるから覚えておいて?」

 彼女の言葉に俺の心は乱されていた。表情は硬いままに言い放つので、ふざけているわけではないらしい。冗談のつもりではなく、大真面目に言っているのだ。

 予想を遥かに超えてくる彼女の発言になんだか調子が狂う。
 
 その情けない表情はきっと顔に出てしまっただろう。心配そうな表情で俺の顔を覗き込んでくる。

「おっふっ!」

 綺麗な顔が急に至近距離に現れたので、自分でも驚くほど変な声が出てしまった。
 変な声を上げたうえに、身体を捻じらせて後ずさりした。至近距離の美少女の目を見つめ返せるはずがない。告白大魔王という異名をつけられているが、告白をたくさんしてきただけで、女の免疫力は皆無なのだ。
 
「ふふっ、」

 初めてだった。彼女の笑い声が鼓膜を刺激する。よほど俺の反応がおかしかったのだろう。目の前の彼女は口元を手で押さえて、控えめに笑みを浮かべている。
 その控えめな笑みを、笑顔と呼んでいいのか分からないが、彼女の違う一面を見れてどくん、と心臓が跳ねた。見惚れているうちに、崩れた表情はまた無表情に戻っていた。
 
 真顔だと綺麗で美人な顔が、笑うと幼く見えて可愛くなる。美人と可愛いを兼ね備えているなんて、無双状態だ。

「……君は、白雪凛さん。だよな?」
「知ってたんですか?」
「君は有名だからね」
「咲弥くんも有名ですよ? 今朝も……」
「だー! 俺の話はいいから! 有名って言っても告白大魔王って言われているだけだろ?」
「そうですね」

 目元を下げて、また少しだけふんわりと笑った。その笑顔を引き出せるなら告白大魔王と呼ばれてもいいかもしれない。本気でそう思った。
 


「命を助けていただいた代わりに、なにかお礼がしたいのですが……」
「お礼なんて……」

「お礼なんていらない」そういうはずが言葉を止めた。俺の頭の中には邪な考えが浮かんでいた。
 
「なんでも、いいので言ってください。何かお礼がしたいんです」

 真剣な瞳で見つめてくる。無垢な瞳を向けられて、俺の最低な目論見を言うのが申し訳ない気持ちが込み上げる。しかし「やらない後悔より、やる後悔」と言うだろ。下心しかない俺の願いを口にする。

 
「じゃあ、俺と付き合ってください」

 告白大魔王という異名を持つ俺が告白するのは何度目だろう。正直覚えていない。数えきれないほど告白してきたのに、今までで一番心臓の高鳴りが激しかった。白雪凛は高嶺の花すぎて、彼女に告白をする人はほとんどいなかった。それほど人並外れて美人なのだ。いくら告白大魔法の俺だって、こんなチャンスがない限り、高嶺の花に告白なんてしなかった。

「それはできません」
「あ、あー」

 きっぱりと振られた。答えを聞くまでの間は0.1秒。俺の告白への返事は、考える時間さえいらなかったらしい。どうやら俺は柄にもなく、かなりショックを受けているようだ。その証拠に、笑顔が引きつってうまく笑えない。

「咲弥くんが悪いのではなくて、私の心臓は恋ができないんです」
「え?」

 ――私の心臓は恋できない。
 その言葉は初めて聞いた言葉で、人生で聞いたことのない言葉だった。
 

「生まれつき心臓に疾患があって。昨日みたいに、ドキドキすると発作に繋がることがあるんだ。……少しでも心臓に負担のかかることはしたくなくて……恋はしないと決めています。命が大事なので」
「……そっか。分かった。命は大事だからな」

 俺の返事を聞くと、一瞬目を見開いて驚いた表情をしたかと思えば、次の瞬間には柔らかい笑顔を浮かべた。

「初めてだ。ため息吐かれたり、嫌味を言われなかったのは」
「え?」
「心臓のことを告げると、いつもドン引きされるか嫌味を言われてばかりだったから」
「……」

 ドン引きまではしなくても、反応に困るのは確かだ。
 病気と言われたらなんて返せばいいのか、人生経験が未熟な高校生男子には難しいだろう。
 
「でも、お礼はしたいです。他に何かないですか?」
「お礼は、本当にいらないから。あの、その、俺も変なこと言って悪かったな」

 本当は期待していた。もしかして付き合えるかもしれないと淡い幻想を抱いていた。この場にいるのが居たたまれなくて、彼女に背中を向けて去ろうとした。

「……あの!」
「いや、本当にもういいからさ」

 彼女の優しさに付け込もうとした自分が恥ずかしい。綺麗な無垢な瞳を見られなくて、背中を向けて歩きだした。こんな美少女と至近距離で話せたことを、心の思い出ポケットにしまおう。こんな俺にとってはそれだけで有難い話だ。

「きゅんとしない恋なら、してもいいですよ」

 彼女の言葉を背中で受けて、光の速さで素早く反応する。勢いよく振り返った。瞳に期待を潤ませて見つめる。

「え、だって、心臓に負担がかかるんじゃ?」
「心臓に負担がかからない、冷めた恋なら出来ると思います。きゅんとしたりドキドキしなければ大丈夫です」
「なんだよ。それ」
「あなたとなら、きゅんとしない恋できそうです」
「恋って、ドキドキしたり、きゅんとするものだろ?」
「その点は大丈夫です。頬を染めながら告白されても、今あなたが少し悲しそうに話していても、全くきゅんとしないし、心に響きません。なので、あなたとなら恋できるかもしれません」
「え、っと」

 彼女の瞳は真っすぐだった。キラキラした光まで見えてくる。彼女の悪気のない素直な言葉は容赦なく俺の心に土足で踏み込んでくる。「恋できるかもしれません」と言われて嬉しいはずなのに、素直に喜ぶことが出来ない。
 
「心臓に何かあったら……怖いな」
「大丈夫だと思います! あなたにはきゅんとする気配が微塵もありません」
「あー。うん、うん」

 弾むような口調で言い切った。心はしっかり傷ついた。棘しかない言葉は俺の心をえぐる。容赦ない言葉は冗談でもウケ狙いでもなく、本音なのだということが伝わる。彼女の瞳は無垢そのものだった。

「もし、きゅんとしてしまったら、その時は恋をやめます」
「……」
「どうでしょうか?」

 普通はなに言ってんだ。って躊躇するだろう。きっと、彼女のことを考えたら、これ以上深追いしないほうがいいのかもしれない。そう思うのに、俺の心は彼女の提案を受け入れようとしている。
 
「えっと……」

 俺は考えるふりをしてけど、考える必要もないくらい答えは決まっていた。
 恋じゃなくていい。きゅんとしなくていい。俺のことを好きにならなくていい。ただ、君のそばにいたいと思ってしまった。今までさんざん告白をしてきたが、こんな気持ちになるのは初めてだった。


 彼女は心臓に疾患を抱えている。
 心臓に負担を与えてはいけない。
 それなら、男と関わらない方がいい。そのくらい俺だってわかる。

 理解しているはずなのに、目の前にいる白雪凛のことをもっと知りたいと思った。


「……好きになられないように頑張るから、俺ときゅんとしない恋してください」
「はい、よろしくお願いします」
 
 その時の俺は浅はかだった。彼女が抱えているモノの怖さを知るはずもなかった。