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病院特有の消毒液のようなつんとした匂いが鼻につく。
健康児な俺は滅多に病院に来ない。数年ぶりに嗅ぐであろう病院の匂いは、少し居心地が悪い。
颯太くんに言われた病棟にたどり着くと、じっと見つめてくる視線を感じる。その視線の持ち主は凄い勢いで近づいてくる。
「キミ! 桜木咲弥くん?」
看護師さんは勢いよく俺を名指しで指を刺している。
それにしても、なぜ名前が分かったんだ?もしかしたら、俺がお見舞いに来ることを見越して、凜の母親が制服の男が来たら通報するように言ったのかもしれない。ぐるりと振り返り、来た道を戻った。
「あー、待って。違うの 颯太先生! 颯太先生に言われてたの」
「そ、颯太くんですか?」
「そう。紺色のブレザーを着た175cmくらいのすらりとした高校生。顔は少し情けなくて、頼りがいがなさそうな……。って、やっぱり、キミだよね?」
後半は、もはや悪口な気がする。しかし、颯太くんのぴったりな人物像のおかげで看護師さんは、ピンときたようだ。
「咲弥くんがきたら、凜ちゃんと会わせてやってほしいって」
「……ありがとうございます」
「うん。颯太先生のお願いだからさ。今日は凜ちゃんのお母さん来てないし、グットタイミングだよ」
「俺、凜の母親から出入り禁止にされてます?」
「そうだね。看護師の間では、凜ちゃんのお見舞いは母親のみって共有されてるね」
「……いいんすか?」
「よくないけど……。颯太先生が連絡先教えてくれるっていうからさ。あ、咲弥くんの方からも、宜しく言っておいてよ。颯太先生、研修医の先生の中でも群を抜いてイケメンだから競争率半端ないのよ。その点、これで一歩リード♪」
凜の病室に案内してくれるのは有難いのだが、この看護師に任せて大丈夫なのかと不安もよぎる。
「さっくん……」
「凜、」
壁や天井は真っ白で無機質な空間が広がる。病室のベッドに凜は座っていた。ドラマで見るようなたくさんの機械に囲まれている彼女を想像していたので、自力で座っていたことに、まず安堵した。
ベッドの脇には点滴スタンドが1つ。凛の真っ白な細い腕には大きな青あざがあった。思わず凝視してしまう。
「あ、これは点滴の跡だから。私の血管が細いみたいで、漏れることよくあるんだ」
俺の視線を感じた凛は、腕を上げて説明してくれた。細い腕に似合わないアザが痛々しくて、胸が痛む。
「そっか……」
「発作の時は、見っともないところ見せちゃってごめんね」
「いや、俺の方こそ……」
「さっくんは謝らないで? お願い」
思わず凜の胸元に視線を向けてしまう。やましい気持ちからではない。凜の心臓が鼓動しているのを確認したかった。
動いている。
上下に小さく動いているのを目視で確認すると、安堵で涙が込み上げてくる。発作が起きた時の映像が頭でフラッシュバックしては怖くて仕方なかったんだ。
「私、お母さんにスマホ没収されちゃって連絡できなかったんだ。検査で一週間以上は、入院しないといけないの」
「……」
顔色が少し悪い気がするけれど、凜が話している。ただそれだけのことが、とてつもなく嬉しい。気持ちが高ぶった俺は、あれほど会いたいと願っていたはずの彼女が目の前にいるのに、上手く言葉が出てこない。言葉の代わりに目の奥が熱くなる。泣きたくなくて、ぐっと目に力を入れた。
「場所を変えて話さない?」
凜は二人部屋だった。隣のベットはカーテンで区切られていたので見ることは出来ない。ベッドから降りてゆっくりとした足取りで進むので、俺はついていくしか出来なかった。
病棟内にある談話室。自販機と長椅子が置いてある。誰もいない空間に二人きり。凜の言葉を待つと、言葉より先に、ため息が耳に届く。今からされる話が良い話ではないことを暗示しているようだった。
「さっくん。私ね、嘘ついてた」
「うそ?」
「本気で好きになったら、その人との未来を望んでしまうなんて知らなかったの。私、嘘ついてた。私ね、恋してた。さっくんに。ずっと前から。好きだよ。さっくん」
思いがけない告白に、心臓が跳ねた。心拍数が跳ねあがる。「好き」たった二文字の言葉は真っすぐに心に届いた。ずっと押し殺していた彼女への想いが溢れてしまう。零れ落ちる寸前、ぴたりと止まった。何故なら、凜は頬に涙を伝わせて顔を小さく横に振っていたからだ。次に彼女から発せられる言葉は聞きたくない。本能でそう感じた。
「好きだから……終わりにしよう」
視界が滲んでいく。気づけば俺も涙を流している。
「な、なんで……俺も……」
声が震える。情けないくらい弱々しい声で、たった二文字が出てこない。
今、頭の中では凜との10年後の未来を考えている。
ずっと背負い続ける心臓疾患。結婚。命がけの出産。子供が出来て、もし……凜が先に死んでしまったら。
最悪の未来が、なぜか鮮明に頭の中に流れ込む。
たくさん考えた。
俺は凛のすべてを受け入れられるのか?
普通の高校生なら、考えなくていいはずのことまで考えなければならない。
凜と付き合うということは、そういうことだと思った。
「好きだ」そう迷うことなく言える勇気がなかった。病院のパジャマに身を包む彼女の姿を目の当たりにしたら、現実味が帯びて一気に不安が襲ってきた。凜の抱えているモノを迷うことなく全部背負える覚悟がなかった。
そんな自分が情けなくて、ぎゅっと拳を握りしめた。
「大丈夫だよ。さっくんがたくさん考えてくれたことは分かってるから。それだけで十分だよ」
涙を伝わせながら笑顔を浮かべた。
なんで、彼女に無理させてんだよ。
何ダサいことしてんだよ。
言葉は出ないくせに、涙が止めどなく溢れてくる。俺に泣く権利なんてないのに。
「恋を知れてよかった。ありがとう」
「お、おれ……」
「さっくん。ばいばい」
凜はいつのまにか涙を拭っていた。変わらず泣き続けているのは俺だけだ。そして、声が震えていなかった。最後の別れの言葉は、しっかりと耳に届いた。
凜は前に進みだした。終わりだ。俺たちの関係は本当に終わりだ。