「凛! どこに行こうとしてるの?! 学校は?!」

 目の先に駅が見えた瞬間。
 甲高い怒鳴り声が、彼女の名前を呼んだ。

 叫び声を受けて、俺より先に凛の表情が強張った。

「……なんで? さっくん、ごめん。ばれちゃった」

 呟いた声は儚いほど小さくて、道行く人の波に掻き消されていく。
 鬼の血相で近づいてくるのは凛の母親だ。人ごみをかき分けて近づいてくる。

 バレた。学校をさぼったことも。凜を連れ出したことも。
 凜の母親の血相にビビった俺は、情けないが足が少し震えていた。

 情けない俺の服を掴んだ細い指は震えているように見えた。俺は躊躇なく震える手を握った。少しでも不安を拭ってやりたくて、ぎゅっと強く握った。手を握られるとは思っていなかったのか、目を見開いて俺を見上げた。大きな瞳に涙が潤んでいる。

 
「大丈夫だから」

 いや、大丈夫ではないな。確実に怒鳴られるし、学校にも報告されるだろう。
 凜の母親の捉え方によっては、警察沙汰もありえる。怖くて心臓の鼓動はうるさくなるばかりだった。しかし、凜に俺の不安を見せたくなかった。小さな身体を震わせて怯える彼女に、少しでも安心して欲しくて。冷静を装い続けた。


「凜! どういうこと? 説明しなさい!」

 俺たちの目の前に辿り着いた凜の母親は怒鳴り散らした。周囲の目なんて関係ないかのように、怒鳴る声を止めようとはしない。凜のお母さんは止まれない暴走機関車のように怒鳴り続けていた。道行く人は何事かと、ちらちら見物している。
 
 今回ばかりは言い返せない。怒鳴りつけられようと、罵声を浴びせられようと言い返す権利がないのだ。
 凜と繋がれた手は、見つからないように背中に持っていく。このぬくもりのおかげて逃げ出したい状況も、受け入れることが出来た。


「あなた! この前の子よね? うちの凜をたぶらかしてどういうつもり? 凜に発作が起きたら、命の責任取れるの?」
「お母さん、違うの……」
「申し訳ありませんでした」

 凜が必死に弁明する声を遮って、頭を下げた。学校を抜け出すことが悪いことを知っている。心臓に疾患を抱えている凜を連れ出すリスクをわかってた。それでも決断したのは俺だ。謝るしか選択肢がない。

「俺が連れ出しました。ただ、たぶらかしているつもりはありません。病気のことを軽く見ているわけではありません。何を言っても言い訳にしかならないのも分かっています。申し訳ございませんでした」

 もう一度深く頭を下げた。人に頭を下げるなんて人生で初めてだ。こんなに深く頭を下げて謝罪をしたことがなかった。凜のためなら何度だって頭を下げられる。

「頭を下げたところで何になるの? あなたの謝罪にはどれだけの価値があるのよ」
「……」

 言い返せない。強い言葉は俺の心にぐさりと刺さった。
 
「お母さん、違うの。私がさっくんに頼んだの。本当は私の身体のことを心配して、さっくんは断ったの。引き下がらずお願いしたのは私なの」

 凜はしっかりと母親の目を見つめて淡々と述べた。

「お母さん、私。もっと自由がほしい。本当は友達と遊びに行きたいし、放課後に居残りをしてお喋りもしたい。門限も早すぎる。もちろん、発作が起きないようには気を付ける。走ったりはしないし、無茶な行動もしない。だから、恋だってしたい」
「……なっ。恋はダメだって言ったでしょ?」
「なんでダメなの?」
「そ、それは……凜の心臓は恋が出来ないから……」
「妊娠出産をしたら、寿命が縮むからでしょ?」
「なんで、それを……」

 凜の母親は目を見開いて固まっていた。寿命が縮む? どういうことだ。二人の会話の流れについていけない。
 凜の母親の生気を失ったように立ち尽くす姿を見て、それが真実だということが分かった。と同時に言葉の意味を理解したくなかった。理解してしまえば、明るい未来が消えてしまうような気がして。

「私、知ってたんだよ……」

 握っていたぬくもりが消えた。繋いでいた手が離されたのだ。

「中学生の時に受けた手術。詳しく教えてくれなかったよね? 気になって看護師さんに探りを入れたりして知った。私は……50歳まで生きられる可能性は格段に低い。20代、30代と生きられる保証もない。それに……妊娠出産は健常者の妊婦より、母子死亡のリスクが遥かに高い」
「なんで……」
「なんで手術のこと教えてくれないんだろうって不思議だった。教えてくれないからこそ、なにかあるんじゃないかって……」
「そ、それは。凜がまだ中学生だったから」
「私、本当のこと知りたい。自分の身体のことだもん。自分が知らないなんて、いやだよ」
「……」
「私は長く生きられないの? 寿命が短いの? ねえ? 教えてよ!」

 それは凛の悲痛の叫びだった。震えた拳をぎゅっと握って、振り絞った勇気を言葉に込めたんだ。声を張り上げた反動で、華奢な身体がよろりと傾いた。彼女の心も体も限界だった。俺は慌てて駆け寄る。

 凜は膝から崩れ落ちた。息を苦しそうに吐いている。
 
「っ。……う、はあ。……っ」

 苦しそうな声が耳に届いた。慌てて凜の震える身体を支えた。明らかに凜の様子がおかしい。ぐっと胸元を抑えて苦しそうに俯いた。医療知識がない俺にもすぐに分かった。
 
 ――これは、発作だ。