♢
決意してからの俺の行動力はさらに加速した。周りからヒソヒソと噂話をされようが、冷ややかな視線を受けようが、全然平気だった。凜ともう一度話したい。その目的のためなら、どんな白い目で見られようと平気だった。
「凜! 話があるんだ」
「……」
「どうしても凛と話したいんだ」
「……」
凜からの返答はない。傍から見れば俺が一方的に凜に絡んでいるようにしか見えないだろう。好奇の視線が集まってくる。注目の的になっていることを理解した上で大きく息を吸い込んだ。他人の視線なんて痛くない。凛の抱える心の闇に比べれば、いくら視線が突き刺されようとも痛くなんてない。
「凜! もう一度話したい。悩みがあるなら俺も一緒に悩ませてくれないか?」
大きく息を吸い込んだ分声量が上がる。
張り上げた声に驚いたのだろう。俺の方を一度も見なかった凜と久しぶりに視線が重なった。
「俺は凛と一緒に悩みたい。辛さを分かち合いたい!」
間髪入れずに話し続けると、困惑しながら辺りをきょろきょろと見渡した。さっきの大声のせいで視線が集中している。完全に注目の的になっていることを気にしたのだろう。
「凜! 俺は……」
「ちょ、ちょっと、もう、場所変えよう」
場違いに大きな声で話続ける俺に呆れ顔を向けて、腕を引っ張り歩いていく。人気のいない廊下に辿り着くと、嫌そうな表情を浮かべて俺に視線を向ける。
「さっきの……嫌がらせ?」
「凜は俺のこと迷惑?」
「……」
「俺のこと避けているのは俺が嫌いだから?」
「……」
俺は卑怯だ。優しい凜は人を否定しないことを知っていて質問をしている。
「凜のお母さんに関わるなって言われた?」
「……」
今まで見たことのないような、哀し気に唇をぎゅっと噛んでいた。俺はエスパーじゃない。凛の感情を読み取ることが出来ない。ただ、母親に関わるなと言われての行動であって欲しいと願った。決して凜の意志ではないと知れたら、それだけで俺はなににでも立ち向かっていけると思った。
「俺の独り言だから聞いてもらえる? 俺は凛の笑顔が見たい。笑っていて欲しい。なにが凜を哀しそうな表情にさせるのか知りたい。そしてそれを一緒に悩んでいきたい。俺といたって、悩みは解決しないかもしれない。……だけど、凜が抱えているモノ半分請け負いたいと思っている」
「……っ」
綺麗な顔を歪ませて視線を逸らした。心の中で格闘しているであろう凜に話し続ける。
「俺は凛の味方になりたい。どんなときも、味方であり続けたい」
「み、味方? でも、わたしは……私は……心臓に爆弾を抱えているようなものなんだよ? いつ発作が起きるか分からない」
「心臓疾患のことは正直よくわからない。調べたりしたけど、米粒みたいな知識しかない」
「米粒って……」
「俺は、凛の心からの笑顔を知ってる。派手なケーキを食べてはしゃぐ姿も、屋上で風を感じて喜ぶ姿も知っている。凛の笑顔を知っているのに。笑顔が消えてしまう世界にいる凜を放っておくことなんて出来ない」
俺の言葉を受けて、凜の瞳には涙が滲んで見えた。涙が零れ落ちないように無理して我慢をしているのを感じる。本当は俺の前では、我慢することなく感情を出してほしい。大声が漏れるほど泣いてほしい。
健気に涙を我慢する凜を見て、心がズキンと痛かった。
心の痛みを感じて、改めて感じる。
俺は凛のことが好きだ。と。
後ろを振り向けないほど、恋に落ちていた。
この気持ちはもう引き返せない。握る拳にぎゅっと力を込めた。
「俺は凛と向き合うって決めたから」
「そんな……勝手に」
「そうだ。俺は勝手な人間なんだ。俺の気が済まないから、俺のわがままで凜と、凜の病気と向き合う」
強張ってた顔がやっとほぐれた。凜は呆れ顔で笑った。観念したようにゆっくりと口を開く。
「……私の余命宣告は3歳だったの」
「3歳?!」
凜が意を決して話し出した昔話が衝撃的で、思わず声が漏れてしまう。俺の声にゆっくりと頷くと、再び言葉を紡ぐ。
「そう、心疾患を患い産まれた私は、生後数か月で手術を受けた。……その時言われた余命は三歳。その後も、何度か手術を繰り返して、そのたびに、6歳、15歳。余命は伸びていったの。心臓に爆弾を抱えた私を育てるのは大変だったと思う。今、私がこうして生きていられるのはお母さんのおかげなんだ。さっくんは怒鳴るお母さんを見たから、とんでもない親だと思ってるんでしょ?」
「……」
「確かに心配性で、子供の頃から遊びやご飯。生活のすべてを制限されてた。友達なんて作れなかった。作ったとしてもね、お母さんがその子の親に『うちの子と遊ばないで』って怒鳴り込みに行くの……」
「……」
「服装もね、自分の好きなものは着られないの。スカートを着るだけで男を誘惑しちゃうんだって。だからスカートは履けないんだ」
「……」
「でも、それは、全部私のためにしてくれたことだから。心臓の負担にならないように。だから平気なの。ここまで生きてこられたのはお母さんのおかげだから……。お母さんがいなかったら、私はこうしていられなかった」
目尻を下げて無理に笑うと同時に、潤んでいた瞳から涙が一筋頬を伝う。凜の白い肌を伝う涙が、あまりにも綺麗で目が離せなくなった。
「……だったら、なんで泣いてんだよ」
「え、」
涙をため込んだ瞳がより一層大きく見開いた。そしてまた一筋陶器のような白い頬を一筋伝う。どうやら、自分が泣いていることに気づいてなかったらしい。細い指で頬に触れて「私、泣いてたんだ」そう呟いた。
「哀しい時は哀しいって言っていいんだよ。スカートを履きたければ履けばいい。凛の人生は、お母さんのモノじゃない。凛の人生は、凜のモノなんだよ。凜だけのモノなんだよ」
「……っ、うっ」
俺の言葉を聞くと、凜の中の何かが崩れ落ちたように、声を上げて泣き出した。
「わ、私、最近はお母さんと……離れたいと思っちゃうの。他の子のように自分の好きなことして、縛られずに生きたいって」
「うん」
「でも、ここまで育ててもらったのに。ここまで生きてこられたのはお母さんのおかげなのに。裏切るなんて……」
「それは裏切りじゃないよ。凛とお母さんは、共依存にも近いと思う。少し離れた方がいい。親は親。子供は子供の人生があるんだよ」
「……うん。でもね、お母さんは私の自由を聞いてくれないんだ。私が居残りすると、心臓に負担が掛かるんだって。男の人と話すと、心臓に負担が掛かって発作が起きるんだって……」
「そんな、現に俺と話していても、発作なんて起きてないだろ」
「だって! お母さんがそう言うんだもん。子供の頃から、お母さんの言うことが全部正しいって言われ続けてきたんだよ?」
「実は颯太くんと話したんだ」
「え、颯太くんと? さっくんと颯太くんがなんで?」
「たまたま会ってさ……少し話したんだ」
凜の家のあたりをウロウロ徘徊した挙句、ストーカーだと間違えられたとは、口が裂けても言えない。一文字に口を結んだ。
「颯太くんも、その……凛のことを心配してたんだよ」
「そっか……颯太くんは昔から優しかった。今も変わらないね」
ここ最近ずっと凛の表情は強張っていた。笑顔を浮かべなくなっていた。いた目の前にいる凛は少し表情がほぐれたような気がして、安堵のため息が漏れる。俺の願いは凛が幸せでいてくてくれること。それだけだ。
「凛、あのさ。親と子供は別々の人間なんだから、分かり合えなくたっていいんだよ、分かり合えないこともあるのが普通なんだよ。今まで分かり合えていたと錯覚しているならば、それは凛が我慢して合わせたからだ。離れろって言ってるわけでもない。親が大切だと思う気持ちは尊重したい。ただ、俺もいることを。俺は凛の味方だと忘れないで。凛にはお母さんの他にも味方がいること。忘れないで?」
「うん……ありがとう。さっくん」
正直、母という存在に敵うわけがない。17年間、赤子の頃から育て上げた凜の母の愛情に、親しくなって数週間の俺が敵うはずもないのだ。そう分かっていても……。母という存在の偉大さをわかった上で、間違いだらけの愛情ならば、手を差し出したいんだ。
♢
その夜、凜の颯太くんに凜と話せたこと。話した内容。凛の様子。メールで説明をした。
俺一人の力では凜を救うことは出来ない。だから颯太くんの力が必要だった。
♪~
着信音が鳴り響く。画面を見ると颯太くんだった。
「もしもし……」
「咲弥くん、ありがとう。凜ちゃんと話してくれて。凜ちゃんの口から母親と離れたいと言うなんて思わなかった」
「凜は、俺の母ちゃんと会ったことあるんです。俺が母ちゃんに対して『うざい』とか言っていることにびっくりしている様子でした」
「そっか。凜ちゃんは咲弥くんと過ごすうちに、外の世界を知って行ったんだな」
「外の世界?」
「そう。凜ちゃんは母親の鳥かごの中で育てられたようなものだ。外の景色を見たくても鳥かごから出ることが出来なかった。でも咲弥くんと過ごすうちに、外の世界を自然と知れて、母親の異常さに気づき始めたのかもしれない」
「それは、俺も役に立ったってことですか?」
「凜ちゃんも母親の異常さに薄々気づいていたのかもしれないな。声を上げるきっかけを作ったのは咲弥くん。キミだから」
颯太くんとの通話を終えると、喉に渇きを感じた。
渇きを潤すために、キッチンへと向かう。リビングのソファにはドラマを真剣に見ている母の姿があった。何の変哲もない日常風景だ。
冷蔵庫から、麦茶のポットを取り出してコップ注ぐ。
潤いを欲している喉に勢いよく流しこんだ。ごくりと喉を鳴らす。コップ一杯の麦茶を流し込むと、俺を見つめる母と目が合った。
「なに?」
「あのさ、この間きた彼女のことだけど」
「だから、彼女じゃないって」
「凄くいい子だったね。美人だし、礼儀正しいし。咲弥と釣り合ってなかったわ」
身内だとずけずけと傷つくことを平気で言いのける。
「良い子だよ。ほんとう」
「きっと、親御さんの育て方が良かったのねー」
再びテレビに意識を向けながら言った言葉が妙に引っかかる。母は何気なく言ったつもりだろうけど。何故かその言葉が俺の頭を支配していた。
「育て方って……」
「えー? だって、あの子。『いただきます』って言う時も、きちんと両手を合わせていたし。話してくうちに感じたのよね。なんていうか、育ち良いだろうなー。って」
確かに凜は礼儀正しい。母の前だから猫を被っていたわけではない。
お弁当を食べるときも挨拶を欠かさないし、普段から礼儀正しいのだ。
この時感じた違和感の正体に気づくことが出来なかった。コップに注いだ麦茶と一緒に、感じた小さな違和感を呑み込んでしまった。
♢
火曜日と木曜日の居残りの時間は消滅した。塾に行っていないことがバレたので仕方ないことではあった。凛と過ごせる貴重な時間が消えて、寂しさが募る。その代わり、お弁当を一緒に食べる日課は続いていた。少しずつ凜の表情にも笑顔が戻ってきた。
変わったことが1つある。
門限の厳しさや、日常の制限を撤廃してもらえるように、母親と話し合いをしているらしい。
それは、凛が勇気を振り絞って変えた日常だった。
あの母親と話し合うことなどできるのかと、不安がよぎったが。説明してくれた凜の表情が、その不安をかき消してくれた。今まで見た瞳の中で一番強く、綺麗だったからだ。
凜は踏み出していた。
自分の自由を掴む一歩を。
今まで踏み出せなかった一歩は、俺が無理に引っ張り出さずとも、自分の足で進めた。
俺は応援することしか出来ない。ただ、つまずいたときは真っ先に手を差し伸べる。
未来に向けて歩んでいく彼女の背中を、一番近くで見守りたいと思った。
どんよりとした曇り空が広がる。今にも雨が降り出しそうな、そんな天気の日だった。
いつも通り登校して昇降口で上履きに履き替えていた時だった。待っていたかのように一目散に凜がやってきた。
「さっくん、お願いがあるの」
「え、お、おはよう。朝からどうした?」
前のめりな気迫に驚いて声がどもってしまう。朝一番にお願いをされるのは初めてのことだ。
「今日学校抜け出さない?」
「……何言ってるんだよ。正気か?」
「うん。完全正気!」
笑顔で何を言うのかと思えば、唐突もないことを言ってのけた。
「いや、でも……」
「今ならその手に持っている外靴に履き替えれば、すぐに抜け出せるよ?」
「確かにそうだけど……でも……」
下駄箱にしまう寸前で声を掛けられたので、外靴は手に持ったままだ。しかし、そういうことじゃない。俺が躊躇しているのは、凜の心臓のことだった。
「怖いの? 意気地なーし」
挑発するように向けられた言葉は、聞き覚えのある言葉だった。
「ちょ、それ言ったら、俺が乗ると思ったのか? 手を繋ぐとはリスクが違うだろ……」
「あれ、乗らなかった? この言葉を言えばさっくんは何でも言うこと聞いてくれる魔法の言葉かと思ったのに」
「意気地なし」が魔法の言葉なわけあるか。屋上で「意気地なし」と言われたときは、つい手を繋いでしまったけど。男が言われたくない言葉の1つだぞ。
「ちなみに……。学校さぼってどこに行きたいんだよ? あ、まだ行くって決めてないからな? 」
「わかんない。時間に縛られないところなら、どこへでも」
「なにかあったのか?」
「……このまま消えちゃいたい」
聞き取れるギリギリの音量で呟いた。彼女の表情は、儚くて危なっかしくて。決意が固まる瞬間だった。
「発作が起きそうになったら、すぐに中止。異変があったらすぐに言うこと」
「え、いいの?」
良くない。良いわけがないんだ。
俺は学校をさぼったことは一度もない。心臓に疾患を抱えている彼女と長時間出かけるなんて良いわけがない。
今までは1時間前後の短い時間だけだった。過ごす時間が増えるほど、リスクは上がる。
思わず了承してしまったが、冷静になって考えると一気に不安が押し寄せてきた。
今なら引き返せる。断った方がいい。下手すれば、凜の母親に殺人犯扱いされかねない。
怖気づいた俺は断ろうと顔を上げた。視界に飛び込んできたのは、嬉しそうに目を細めて笑う凜だった。
彼女の笑顔を見た瞬間。俺の気持ちはコロリと変った。
後で怒鳴られたってかまわない。
後で罵られても構わない。
目の前で凜が俺を必要としてくれるならば、その願いに答えたいと思った。
凜の病気を治すことは出来ない。
今すぐ誰も知らないところに逃避行する財力もない。
そんな俺にも出来ること。出来ることなら、なんでも凜の願いを叶えたい。
キーンコーンカーンコーン。
予鈴のチャイムを背中に受けて、見つからないように学校から出た。
心臓はドクドクと鼓動の音が速くなるばかりだ。
悪いことをしているようで、心が落ち着かない。
深呼吸をして、なんとか心を落ち着かせる。時間をおいて学校に欠席の連絡をするため電話をした。
呼び出し音が鳴る。無機質な音が余計に緊張感を掻き立てた。
「はい」
「3年C組の桜木咲弥です。……えっと、その。今日は体調が悪いので、お休みします……」
「分かりましたー。担任の先生に伝えておきます。お大事にしてください」
緊張で手は震えていたのに、呆気なく了承された。有難いことに少しも疑われることはなかった。今まで休むことなく真面目に通っていたおかげだろう。
ホッと一息ついていると、凜から一枚のメモ紙を渡される。俺が不思議そうにメモ紙に見入っていると、凜が説明してくれた。
「これは緊急連絡先。私に発作が起きたとか、なにかあったときに。病院の名前と電話番号。担当医の名前。後はお母さんのスマホの番号」
メモ紙を掴む指に自然と力が入る。ごくんと生唾をのんだ。凜は非常事態があった時のために準備をしていた。健康な人間ならする必要のない気遣いだ。
命の責任を背負うなんて、大それたことは言えないけど。
今日、こうして凜と出かけることにはそれなりの覚悟をしてきた。だけど、俺の覚悟なんて小さすぎた。
改めて責任感が心に重くのしかかる。引き返したほうがいいのかもしれない。そう思っている自分がいることも確かだ。
だけど、凜の願いを叶えたかった。この選択が正しいのかは分からない。どちらかと言えば正しくないだろう。真実を受け入れる判断力もある。それでも、この道を選んだ。
決意と共に足を一歩踏み出した。
今日が一番の思い出になるように。
そう願いながら。
電車に乗って隣町まで行く。その後はノープランだ。
凜は見たことのない景色を見たいと言った。その願いを兼ねるために駅へと向かう。
まるで子供が遠足に行くように、俺たちの足取りは軽かった。
始まったばかりの逃避行。
いや、始まってもいなかった。
視界に駅が見えた。どちらからともなく顔を見合わせて微笑み合う。
楽しい未来へと一歩踏み出したはずなのに。
――終わりはあっけなく訪れる。
「凛! どこに行こうとしてるの?! 学校は?!」
目の先に駅が見えた瞬間。
甲高い怒鳴り声が、彼女の名前を呼んだ。
叫び声を受けて、俺より先に凛の表情が強張った。
「……なんで? さっくん、ごめん。ばれちゃった」
呟いた声は儚いほど小さくて、道行く人の波に掻き消されていく。
鬼の血相で近づいてくるのは凛の母親だ。人ごみをかき分けて近づいてくる。
バレた。学校をさぼったことも。凜を連れ出したことも。
凜の母親の血相にビビった俺は、情けないが足が少し震えていた。
情けない俺の服を掴んだ細い指は震えているように見えた。俺は躊躇なく震える手を握った。少しでも不安を拭ってやりたくて、ぎゅっと強く握った。手を握られるとは思っていなかったのか、目を見開いて俺を見上げた。大きな瞳に涙が潤んでいる。
「大丈夫だから」
いや、大丈夫ではないな。確実に怒鳴られるし、学校にも報告されるだろう。
凜の母親の捉え方によっては、警察沙汰もありえる。怖くて心臓の鼓動はうるさくなるばかりだった。しかし、凜に俺の不安を見せたくなかった。小さな身体を震わせて怯える彼女に、少しでも安心して欲しくて。冷静を装い続けた。
「凜! どういうこと? 説明しなさい!」
俺たちの目の前に辿り着いた凜の母親は怒鳴り散らした。周囲の目なんて関係ないかのように、怒鳴る声を止めようとはしない。凜のお母さんは止まれない暴走機関車のように怒鳴り続けていた。道行く人は何事かと、ちらちら見物している。
今回ばかりは言い返せない。怒鳴りつけられようと、罵声を浴びせられようと言い返す権利がないのだ。
凜と繋がれた手は、見つからないように背中に持っていく。このぬくもりのおかげて逃げ出したい状況も、受け入れることが出来た。
「あなた! この前の子よね? うちの凜をたぶらかしてどういうつもり? 凜に発作が起きたら、命の責任取れるの?」
「お母さん、違うの……」
「申し訳ありませんでした」
凜が必死に弁明する声を遮って、頭を下げた。学校を抜け出すことが悪いことを知っている。心臓に疾患を抱えている凜を連れ出すリスクをわかってた。それでも決断したのは俺だ。謝るしか選択肢がない。
「俺が連れ出しました。ただ、たぶらかしているつもりはありません。病気のことを軽く見ているわけではありません。何を言っても言い訳にしかならないのも分かっています。申し訳ございませんでした」
もう一度深く頭を下げた。人に頭を下げるなんて人生で初めてだ。こんなに深く頭を下げて謝罪をしたことがなかった。凜のためなら何度だって頭を下げられる。
「頭を下げたところで何になるの? あなたの謝罪にはどれだけの価値があるのよ」
「……」
言い返せない。強い言葉は俺の心にぐさりと刺さった。
「お母さん、違うの。私がさっくんに頼んだの。本当は私の身体のことを心配して、さっくんは断ったの。引き下がらずお願いしたのは私なの」
凜はしっかりと母親の目を見つめて淡々と述べた。
「お母さん、私。もっと自由がほしい。本当は友達と遊びに行きたいし、放課後に居残りをしてお喋りもしたい。門限も早すぎる。もちろん、発作が起きないようには気を付ける。走ったりはしないし、無茶な行動もしない。だから、恋だってしたい」
「……なっ。恋はダメだって言ったでしょ?」
「なんでダメなの?」
「そ、それは……凜の心臓は恋が出来ないから……」
「妊娠出産をしたら、寿命が縮むからでしょ?」
「なんで、それを……」
凜の母親は目を見開いて固まっていた。寿命が縮む? どういうことだ。二人の会話の流れについていけない。
凜の母親の生気を失ったように立ち尽くす姿を見て、それが真実だということが分かった。と同時に言葉の意味を理解したくなかった。理解してしまえば、明るい未来が消えてしまうような気がして。
「私、知ってたんだよ……」
握っていたぬくもりが消えた。繋いでいた手が離されたのだ。
「中学生の時に受けた手術。詳しく教えてくれなかったよね? 気になって看護師さんに探りを入れたりして知った。私は……50歳まで生きられる可能性は格段に低い。20代、30代と生きられる保証もない。それに……妊娠出産は健常者の妊婦より、母子死亡のリスクが遥かに高い」
「なんで……」
「なんで手術のこと教えてくれないんだろうって不思議だった。教えてくれないからこそ、なにかあるんじゃないかって……」
「そ、それは。凜がまだ中学生だったから」
「私、本当のこと知りたい。自分の身体のことだもん。自分が知らないなんて、いやだよ」
「……」
「私は長く生きられないの? 寿命が短いの? ねえ? 教えてよ!」
それは凛の悲痛の叫びだった。震えた拳をぎゅっと握って、振り絞った勇気を言葉に込めたんだ。声を張り上げた反動で、華奢な身体がよろりと傾いた。彼女の心も体も限界だった。俺は慌てて駆け寄る。
凜は膝から崩れ落ちた。息を苦しそうに吐いている。
「っ。……う、はあ。……っ」
苦しそうな声が耳に届いた。慌てて凜の震える身体を支えた。明らかに凜の様子がおかしい。ぐっと胸元を抑えて苦しそうに俯いた。医療知識がない俺にもすぐに分かった。
――これは、発作だ。
「凜、大丈夫か? 発作か?」
「う、っうん。……さっくん。ごめ、ま、っ巻き込んじゃって」
「いいから! そんなことは……えっと、どうしたら。きゅ、救急車」
震える手でスマホを操作した。救急車を呼ばないと。急がないと。そう思えば思うほど、震える手のせいでスマホの操作が遅くなる。凜が発作で苦しんでいる中、放心状態の凜の母親は立ち尽くしたままだ。横目で確認して、すぐに凜に視線を戻した。
「あ、あの。発作が。心臓に疾患を抱えていて。えっと、車もないし。どうしていいか分からなくて。苦しそうなんです。意識はありますか? って? 分からないっすよ! とにかく苦しそうなんです!」
自分でも何を話したのか覚えていない。無我夢中で救急隊に連絡した。この場合に救急車を呼ぶのが正解なのかもわからない。救急車が来るのをひたすらに待った。
その間も凜の顔色は次第に悪くなっていく。知らないって怖い。医療知識の欠片もない自分をこの時は心底責めた。知らないと正しい選択肢が出来ないのだ。
凛の異変に気づいた周囲の人が集まってくる。好奇の目にさらされる。俺は必死で凜の身体を抱き寄せた。
怖い。凜がこのまま死んでしまうのではないかと、怖くてたまらなかった。
「大丈夫か? 僕のカバンを枕代わりにして横に寝せよう」
放心状態の俺に、年配の男性が声を掛けてきた。その声は落ち着いていて、不信感を感じることはない。
「僕は医師です。救急車呼んだんだね。咄嗟の判断で偉いよ」
「……は、はい」
震える声で返事をした。医師だと名乗る男性が現れて、やっと少し落ち着きを取り戻した。俺は無我夢中で発作が起きた凜を抱きかかえていたらしい。
間違いだらけの介抱を怒ることなく、淡々と凜の状況を聞かれた。
できれば怒ってほしかった。好きな人を助けることができない無力な俺を。誰かが怒ってくれないと、やり場のない怒りで頭がおかしくなりそうだ。
ピーポーピーポー。
サイレンの音が次第に大きく聞こえてくる。近づいてくることへの安心感が募る。サイレンの音に安堵感を覚えたのは、今日が初めてだ。
「ご家族の方は……」
「……」
「凜のお母さん! おばさん! 救急隊の人が呼んでますよ!」
救急隊の人の声に反応を見せない凜の母親に投げかけた。俺の声が届くと、ハッとしたようにぼーっとしていた顔を上げた。救急隊の人に促されて救急車に乗り込んでいく。
救急隊に促されて、やっと正気を取り戻した凜の母は救急車に乗り込む。さっきまでの暴走はなかったかのように、娘を心配する良い母の仮面をつけていた。
俺は走り去る救急車の背後を見送るしかできない。
遠くなっていくのを見つめながらも、手と足の震えが止まらない。震えを抑え込もうと強く握りしめても、止まってはくれない。あのまま凜の心臓が止まってしまうのではないかと恐怖で心が崩壊しそうだった。
ここにいる誰より心配をしていても。ここにいる誰よりも想っていても。俺は救急車に乗る資格はない。家族ではなく他人だからだ。なんだかやるせなくて、悔しくて、唇をぎゅっと噛んだ。血の味が口の中に広がっていく。
ひたすらに、無事であってくれ。そう願うことしか出来ない。
なんて無力なんだ。
苦しむ凜を目の前に、俺はなにも出来なかった。
凜のために俺はなにができる?
恋がこんなに辛いなんて聞いてねーよ。
誰だよ。恋をしたら人生が色鮮やかに見えます。なんて言ったのは。
こんなに胸が痛くて、苦しいなんて聞いてない。
俺は、胸が苦しくて、痛くて、その場に立っているのがやっとだった。
不甲斐なさを悔いた後は、心に不安という負荷がずんとのしかかる。
頭の中で発作に苦しむ凜の姿がフラッシュバックする。そして、また不安を掻き立てるのだ。
発作に苦しむ凜の映像が鮮明に脳の中に流れ込む。立っているのがやっとだったが、俺の心にも限界が訪れた。身体がふらつくと同時に、膝から崩れ落ちた。冷たく無機質なアスファルトに手を着いた。アスファルトに雫の跡が一滴。二滴と模様を作っていく。俺の涙だ。
俺のせいで、凜は――。
途轍もない恐怖が全身を支配している。手や足。全身の震えが止まらない。
発作が起きるなんて、ドラマの世界でしか見たことがなかった。
「私はみんなよりも少しだけ『死』に近い」
そう言って儚く笑った凜の姿が浮かび上がる。
だめだ。どうしても最悪のシナリオが頭に浮かんでしまう。発作で苦しむ凜と「死」が結びついてしまうんだ。
なにも出来なくて苦しい。
助けられなくて悔しい。
地べたにしゃがみ込んで立ち上がれない俺は、道行く人をただ見つめた。
どうしてこんなに人がいるのに、凜なんだ?
どうして真っ当に生きている凜なんだ?
誰も知るはずのない答えを探して、青く広がる空を見上げた。
力なく歩いてやっと自宅へと帰ってきた。凄く疲れたような気もするが、凜のことが心配で食欲もなにも湧かなかった。
発作が起きる前に凜が言っていた言葉が脳裏の片隅に居座ってる。
凜は妊娠出産をすると寿命が縮む……?
急いでネットで調べた。凜が受けた手術の名前は分からない。だから、心疾患にまつわる情報を片っ端から読んだ。調べていくうちに、凜の言っていた手術かと思われる内容が出てきた。記事を読んではみたが理解が全く出来ない。考えることを頭が拒否してしまうんだ。
字を読むのを身体が拒否しだすと、猛烈に頭が痒くなった。完全に俺の頭脳ではキャパオーバーだ。身体の拒否反応がその証拠だ。頭をポリポリ搔きながら、画面から視線を外した。
手術の詳細を一度読んだだけでは、到底理解できない。そんな難しい手術を、凜はあの小さな身体で受けたのか。健康のはずの心臓に痛みが走る。大きな息を吐いて、もう一度情報と向き合った。
おれは凛のことを知りたい。俺の不能な頭脳は、これ以上難しい情報を受け入れようとしない。だけど、負けじと気合でねじ込んだ。一度では理解できないなら、理解できるまで繰り返し読めばいい。10回、20回。何度でも読めばいい。
俺の役立たずな頭脳で理解したこと。
凜と同じ手術を受けて、無事に出産をされた方もいた。しかし、妊娠出産は母体にも胎児にも大きな危険を伴うということだった。
「俺、知らないからって……凜の前でなんて残酷なことを言ったのだろう」
ある記憶を思い出した。俺は凜に将来の夢を聞かれて「そこそこの会社に入って、結婚して。子供は好きだから3人欲しいな。男の子だったらキャッチボール。女の子だったら、パパと結婚するって言われたい。ありきたりな夢だよな。な。普通だろ? 俺の夢は」確かにそう言った。
何が普通だよ。どこが普通だよ。
凜はどんな気持ちで聞いていたのだろう。あの時の俺は、普通に出来ることだと。疑うこともなかった。
俺は凜に、どんなに酷いことを言ってしまったのだろう。あの時の凜の表情が頭にこびりついて離れない。
「凜。……ごめん」
月明かりに照らされた部屋で伝えることのできない謝罪を吐いた。
誰か俺をぶん殴ってくれ。行き場のない怒りが心を支配していた。
♢
あの日から、凜は一度も学校に来なかった。
颯太くんから、凜の母親があの場に現れた理由を聞いた。どうやら、門限を破った日から凜のスマホにGPS機能を付けていたらしい。学校から抜け出したことが、母親に筒抜けだったのだ。
一週間が過ぎようとしていた。
凜が学校に来なくなって、最初は心配の声も聞こえた。しかし数日もたてば気にする声が聞こえてくることはなくなった。笑い声が響き渡っている。
病気と闘って辛い思いをしているのに。
大変な思いをしているのに。人ってこんなに他人に無関心なのだと改めて知った。
教室には笑い声が充満している。居心地が悪くなって教室を勢いよく飛び出た。
凜は入院しているのだろうか。様子が気になり、颯太くんに何度も訪ねた。返ってくる返事は「命に別状はない」そればかりだった。
図書室。中庭のベンチ。凜のクラス。
彼女の面影を探してみたけど、見つけることはできない。
凜が入院している病院を知っている。しかし、病院まで行く勇気がどうしても出なかった。
発作が起きて苦しそうにする凜の姿が脳裏にこびり付いて離れない。
凜を危険な目に合わせて、どの面下げて会えばいいんだ?
わからない。分からなかった。
校内を探し回っても、凜の面影がちらついてしまう。思い出が取り残されているからだ。
大きなため息を吐いた。後悔の念を吐き出すようにゆっくりと。
ため息を吐いて、息を吸ったら。凜に会いたくなった。
足が地面を蹴り上げる前に、スマホを取り出す。今のままだと病院に全速力で向かってしまう。凜に会いたい気持ちを押し殺して、颯太くんに電話を掛けた。
ここは冷静にならなければいけない。今全速力で病院に向かっても、凜の母親に見つかっては門前払いされてしまう。今後さらに、会えなくなってしまうかもしれない。深呼吸して昂る気持ちを落ち着かせる。
「もしもし! 咲弥くん?」
「颯太くん、お願いがあります。凛に会いたいです」
「……凜ちゃん、会いたがっていたよ」
「凜に会ったんですか? 身体は?! 心臓は?! 大丈夫なんですか?」
「凜ちゃんの心臓は大丈夫。ただ、発作が起きたから、精密検査をするから。そのための入院だな」
「よかった。良かったです」
通話越しでもわかる落ち着いた声。興奮する俺を宥めるように、優しい声だった。
病院で凛の母に会ったら、門前払いされることだろう。それは颯太くんも危惧していたことだった。研修医という立場を使って、病棟の看護師さんと話をつけてくれたらしい。颯太くんのおかげで、凛と会えることになった。
♢
病院特有の消毒液のようなつんとした匂いが鼻につく。
健康児な俺は滅多に病院に来ない。数年ぶりに嗅ぐであろう病院の匂いは、少し居心地が悪い。
颯太くんに言われた病棟にたどり着くと、じっと見つめてくる視線を感じる。その視線の持ち主は凄い勢いで近づいてくる。
「キミ! 桜木咲弥くん?」
看護師さんは勢いよく俺を名指しで指を刺している。
それにしても、なぜ名前が分かったんだ?もしかしたら、俺がお見舞いに来ることを見越して、凜の母親が制服の男が来たら通報するように言ったのかもしれない。ぐるりと振り返り、来た道を戻った。
「あー、待って。違うの 颯太先生! 颯太先生に言われてたの」
「そ、颯太くんですか?」
「そう。紺色のブレザーを着た175cmくらいのすらりとした高校生。顔は少し情けなくて、頼りがいがなさそうな……。って、やっぱり、キミだよね?」
後半は、もはや悪口な気がする。しかし、颯太くんのぴったりな人物像のおかげで看護師さんは、ピンときたようだ。
「咲弥くんがきたら、凜ちゃんと会わせてやってほしいって」
「……ありがとうございます」
「うん。颯太先生のお願いだからさ。今日は凜ちゃんのお母さん来てないし、グットタイミングだよ」
「俺、凜の母親から出入り禁止にされてます?」
「そうだね。看護師の間では、凜ちゃんのお見舞いは母親のみって共有されてるね」
「……いいんすか?」
「よくないけど……。颯太先生が連絡先教えてくれるっていうからさ。あ、咲弥くんの方からも、宜しく言っておいてよ。颯太先生、研修医の先生の中でも群を抜いてイケメンだから競争率半端ないのよ。その点、これで一歩リード♪」
凜の病室に案内してくれるのは有難いのだが、この看護師に任せて大丈夫なのかと不安もよぎる。
「さっくん……」
「凜、」
壁や天井は真っ白で無機質な空間が広がる。病室のベッドに凜は座っていた。ドラマで見るようなたくさんの機械に囲まれている彼女を想像していたので、自力で座っていたことに、まず安堵した。
ベッドの脇には点滴スタンドが1つ。凛の真っ白な細い腕には大きな青あざがあった。思わず凝視してしまう。
「あ、これは点滴の跡だから。私の血管が細いみたいで、漏れることよくあるんだ」
俺の視線を感じた凛は、腕を上げて説明してくれた。細い腕に似合わないアザが痛々しくて、胸が痛む。
「そっか……」
「発作の時は、見っともないところ見せちゃってごめんね」
「いや、俺の方こそ……」
「さっくんは謝らないで? お願い」
思わず凜の胸元に視線を向けてしまう。やましい気持ちからではない。凜の心臓が鼓動しているのを確認したかった。
動いている。
上下に小さく動いているのを目視で確認すると、安堵で涙が込み上げてくる。発作が起きた時の映像が頭でフラッシュバックしては怖くて仕方なかったんだ。
「私、お母さんにスマホ没収されちゃって連絡できなかったんだ。検査で一週間以上は、入院しないといけないの」
「……」
顔色が少し悪い気がするけれど、凜が話している。ただそれだけのことが、とてつもなく嬉しい。気持ちが高ぶった俺は、あれほど会いたいと願っていたはずの彼女が目の前にいるのに、上手く言葉が出てこない。言葉の代わりに目の奥が熱くなる。泣きたくなくて、ぐっと目に力を入れた。
「場所を変えて話さない?」
凜は二人部屋だった。隣のベットはカーテンで区切られていたので見ることは出来ない。ベッドから降りてゆっくりとした足取りで進むので、俺はついていくしか出来なかった。
病棟内にある談話室。自販機と長椅子が置いてある。誰もいない空間に二人きり。凜の言葉を待つと、言葉より先に、ため息が耳に届く。今からされる話が良い話ではないことを暗示しているようだった。
「さっくん。私ね、嘘ついてた」
「うそ?」
「本気で好きになったら、その人との未来を望んでしまうなんて知らなかったの。私、嘘ついてた。私ね、恋してた。さっくんに。ずっと前から。好きだよ。さっくん」
思いがけない告白に、心臓が跳ねた。心拍数が跳ねあがる。「好き」たった二文字の言葉は真っすぐに心に届いた。ずっと押し殺していた彼女への想いが溢れてしまう。零れ落ちる寸前、ぴたりと止まった。何故なら、凜は頬に涙を伝わせて顔を小さく横に振っていたからだ。次に彼女から発せられる言葉は聞きたくない。本能でそう感じた。
「好きだから……終わりにしよう」
視界が滲んでいく。気づけば俺も涙を流している。
「な、なんで……俺も……」
声が震える。情けないくらい弱々しい声で、たった二文字が出てこない。
今、頭の中では凜との10年後の未来を考えている。
ずっと背負い続ける心臓疾患。結婚。命がけの出産。子供が出来て、もし……凜が先に死んでしまったら。
最悪の未来が、なぜか鮮明に頭の中に流れ込む。
たくさん考えた。
俺は凛のすべてを受け入れられるのか?
普通の高校生なら、考えなくていいはずのことまで考えなければならない。
凜と付き合うということは、そういうことだと思った。
「好きだ」そう迷うことなく言える勇気がなかった。病院のパジャマに身を包む彼女の姿を目の当たりにしたら、現実味が帯びて一気に不安が襲ってきた。凜の抱えているモノを迷うことなく全部背負える覚悟がなかった。
そんな自分が情けなくて、ぎゅっと拳を握りしめた。
「大丈夫だよ。さっくんがたくさん考えてくれたことは分かってるから。それだけで十分だよ」
涙を伝わせながら笑顔を浮かべた。
なんで、彼女に無理させてんだよ。
何ダサいことしてんだよ。
言葉は出ないくせに、涙が止めどなく溢れてくる。俺に泣く権利なんてないのに。
「恋を知れてよかった。ありがとう」
「お、おれ……」
「さっくん。ばいばい」
凜はいつのまにか涙を拭っていた。変わらず泣き続けているのは俺だけだ。そして、声が震えていなかった。最後の別れの言葉は、しっかりと耳に届いた。
凜は前に進みだした。終わりだ。俺たちの関係は本当に終わりだ。