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火曜日と木曜日の居残りの時間は消滅した。塾に行っていないことがバレたので仕方ないことではあった。凛と過ごせる貴重な時間が消えて、寂しさが募る。その代わり、お弁当を一緒に食べる日課は続いていた。少しずつ凜の表情にも笑顔が戻ってきた。
変わったことが1つある。
門限の厳しさや、日常の制限を撤廃してもらえるように、母親と話し合いをしているらしい。
それは、凛が勇気を振り絞って変えた日常だった。
あの母親と話し合うことなどできるのかと、不安がよぎったが。説明してくれた凜の表情が、その不安をかき消してくれた。今まで見た瞳の中で一番強く、綺麗だったからだ。
凜は踏み出していた。
自分の自由を掴む一歩を。
今まで踏み出せなかった一歩は、俺が無理に引っ張り出さずとも、自分の足で進めた。
俺は応援することしか出来ない。ただ、つまずいたときは真っ先に手を差し伸べる。
未来に向けて歩んでいく彼女の背中を、一番近くで見守りたいと思った。
どんよりとした曇り空が広がる。今にも雨が降り出しそうな、そんな天気の日だった。
いつも通り登校して昇降口で上履きに履き替えていた時だった。待っていたかのように一目散に凜がやってきた。
「さっくん、お願いがあるの」
「え、お、おはよう。朝からどうした?」
前のめりな気迫に驚いて声がどもってしまう。朝一番にお願いをされるのは初めてのことだ。
「今日学校抜け出さない?」
「……何言ってるんだよ。正気か?」
「うん。完全正気!」
笑顔で何を言うのかと思えば、唐突もないことを言ってのけた。
「いや、でも……」
「今ならその手に持っている外靴に履き替えれば、すぐに抜け出せるよ?」
「確かにそうだけど……でも……」
下駄箱にしまう寸前で声を掛けられたので、外靴は手に持ったままだ。しかし、そういうことじゃない。俺が躊躇しているのは、凜の心臓のことだった。
「怖いの? 意気地なーし」
挑発するように向けられた言葉は、聞き覚えのある言葉だった。
「ちょ、それ言ったら、俺が乗ると思ったのか? 手を繋ぐとはリスクが違うだろ……」
「あれ、乗らなかった? この言葉を言えばさっくんは何でも言うこと聞いてくれる魔法の言葉かと思ったのに」
「意気地なし」が魔法の言葉なわけあるか。屋上で「意気地なし」と言われたときは、つい手を繋いでしまったけど。男が言われたくない言葉の1つだぞ。
「ちなみに……。学校さぼってどこに行きたいんだよ? あ、まだ行くって決めてないからな? 」
「わかんない。時間に縛られないところなら、どこへでも」
「なにかあったのか?」
「……このまま消えちゃいたい」
聞き取れるギリギリの音量で呟いた。彼女の表情は、儚くて危なっかしくて。決意が固まる瞬間だった。
「発作が起きそうになったら、すぐに中止。異変があったらすぐに言うこと」
「え、いいの?」
良くない。良いわけがないんだ。
俺は学校をさぼったことは一度もない。心臓に疾患を抱えている彼女と長時間出かけるなんて良いわけがない。
今までは1時間前後の短い時間だけだった。過ごす時間が増えるほど、リスクは上がる。
思わず了承してしまったが、冷静になって考えると一気に不安が押し寄せてきた。
今なら引き返せる。断った方がいい。下手すれば、凜の母親に殺人犯扱いされかねない。
怖気づいた俺は断ろうと顔を上げた。視界に飛び込んできたのは、嬉しそうに目を細めて笑う凜だった。
彼女の笑顔を見た瞬間。俺の気持ちはコロリと変った。
後で怒鳴られたってかまわない。
後で罵られても構わない。
目の前で凜が俺を必要としてくれるならば、その願いに答えたいと思った。
凜の病気を治すことは出来ない。
今すぐ誰も知らないところに逃避行する財力もない。
そんな俺にも出来ること。出来ることなら、なんでも凜の願いを叶えたい。