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 決意してからの俺の行動力はさらに加速した。周りからヒソヒソと噂話をされようが、冷ややかな視線を受けようが、全然平気だった。凜ともう一度話したい。その目的のためなら、どんな白い目で見られようと平気だった。

 
「凜! 話があるんだ」
「……」
「どうしても凛と話したいんだ」
「……」

 凜からの返答はない。傍から見れば俺が一方的に凜に絡んでいるようにしか見えないだろう。好奇の視線が集まってくる。注目の的になっていることを理解した上で大きく息を吸い込んだ。他人の視線なんて痛くない。凛の抱える心の闇に比べれば、いくら視線が突き刺されようとも痛くなんてない。
 
「凜! もう一度話したい。悩みがあるなら俺も一緒に悩ませてくれないか?」

 大きく息を吸い込んだ分声量が上がる。
 張り上げた声に驚いたのだろう。俺の方を一度も見なかった凜と久しぶりに視線が重なった。

「俺は凛と一緒に悩みたい。辛さを分かち合いたい!」

 間髪入れずに話し続けると、困惑しながら辺りをきょろきょろと見渡した。さっきの大声のせいで視線が集中している。完全に注目の的になっていることを気にしたのだろう。

「凜! 俺は……」
「ちょ、ちょっと、もう、場所変えよう」

 場違いに大きな声で話続ける俺に呆れ顔を向けて、腕を引っ張り歩いていく。人気のいない廊下に辿り着くと、嫌そうな表情を浮かべて俺に視線を向ける。

「さっきの……嫌がらせ?」
「凜は俺のこと迷惑?」
「……」
「俺のこと避けているのは俺が嫌いだから?」
「……」

 俺は卑怯だ。優しい凜は人を否定しないことを知っていて質問をしている。

「凜のお母さんに関わるなって言われた?」
「……」

 今まで見たことのないような、哀し気に唇をぎゅっと噛んでいた。俺はエスパーじゃない。凛の感情を読み取ることが出来ない。ただ、母親に関わるなと言われての行動であって欲しいと願った。決して凜の意志ではないと知れたら、それだけで俺はなににでも立ち向かっていけると思った。

「俺の独り言だから聞いてもらえる? 俺は凛の笑顔が見たい。笑っていて欲しい。なにが凜を哀しそうな表情にさせるのか知りたい。そしてそれを一緒に悩んでいきたい。俺といたって、悩みは解決しないかもしれない。……だけど、凜が抱えているモノ半分請け負いたいと思っている」
「……っ」

 綺麗な顔を歪ませて視線を逸らした。心の中で格闘しているであろう凜に話し続ける。

「俺は凛の味方になりたい。どんなときも、味方であり続けたい」
「み、味方? でも、わたしは……私は……心臓に爆弾を抱えているようなものなんだよ? いつ発作が起きるか分からない」
「心臓疾患のことは正直よくわからない。調べたりしたけど、米粒みたいな知識しかない」
「米粒って……」
「俺は、凛の心からの笑顔を知ってる。派手なケーキを食べてはしゃぐ姿も、屋上で風を感じて喜ぶ姿も知っている。凛の笑顔を知っているのに。笑顔が消えてしまう世界にいる凜を放っておくことなんて出来ない」

 俺の言葉を受けて、凜の瞳には涙が滲んで見えた。涙が零れ落ちないように無理して我慢をしているのを感じる。本当は俺の前では、我慢することなく感情を出してほしい。大声が漏れるほど泣いてほしい。
 健気に涙を我慢する凜を見て、心がズキンと痛かった。

 心の痛みを感じて、改めて感じる。
 俺は凛のことが好きだ。と。

 
 後ろを振り向けないほど、恋に落ちていた。
 この気持ちはもう引き返せない。握る拳にぎゅっと力を込めた。

「俺は凛と向き合うって決めたから」
「そんな……勝手に」
「そうだ。俺は勝手な人間なんだ。俺の気が済まないから、俺のわがままで凜と、凜の病気と向き合う」
 
 強張ってた顔がやっとほぐれた。凜は呆れ顔で笑った。観念したようにゆっくりと口を開く。
 
「……私の余命宣告は3歳だったの」
「3歳?!」

 凜が意を決して話し出した昔話が衝撃的で、思わず声が漏れてしまう。俺の声にゆっくりと頷くと、再び言葉を紡ぐ。

「そう、心疾患を患い産まれた私は、生後数か月で手術を受けた。……その時言われた余命は三歳。その後も、何度か手術を繰り返して、そのたびに、6歳、15歳。余命は伸びていったの。心臓に爆弾を抱えた私を育てるのは大変だったと思う。今、私がこうして生きていられるのはお母さんのおかげなんだ。さっくんは怒鳴るお母さんを見たから、とんでもない親だと思ってるんでしょ?」
「……」
「確かに心配性で、子供の頃から遊びやご飯。生活のすべてを制限されてた。友達なんて作れなかった。作ったとしてもね、お母さんがその子の親に『うちの子と遊ばないで』って怒鳴り込みに行くの……」
「……」
「服装もね、自分の好きなものは着られないの。スカートを着るだけで男を誘惑しちゃうんだって。だからスカートは履けないんだ」
「……」
「でも、それは、全部私のためにしてくれたことだから。心臓の負担にならないように。だから平気なの。ここまで生きてこられたのはお母さんのおかげだから……。お母さんがいなかったら、私はこうしていられなかった」

 目尻を下げて無理に笑うと同時に、潤んでいた瞳から涙が一筋頬を伝う。凜の白い肌を伝う涙が、あまりにも綺麗で目が離せなくなった。
 
「……だったら、なんで泣いてんだよ」
「え、」

 涙をため込んだ瞳がより一層大きく見開いた。そしてまた一筋陶器のような白い頬を一筋伝う。どうやら、自分が泣いていることに気づいてなかったらしい。細い指で頬に触れて「私、泣いてたんだ」そう呟いた。

「哀しい時は哀しいって言っていいんだよ。スカートを履きたければ履けばいい。凛の人生は、お母さんのモノじゃない。凛の人生は、凜のモノなんだよ。凜だけのモノなんだよ」
「……っ、うっ」

 俺の言葉を聞くと、凜の中の何かが崩れ落ちたように、声を上げて泣き出した。

「わ、私、最近はお母さんと……離れたいと思っちゃうの。他の子のように自分の好きなことして、縛られずに生きたいって」
「うん」
「でも、ここまで育ててもらったのに。ここまで生きてこられたのはお母さんのおかげなのに。裏切るなんて……」
「それは裏切りじゃないよ。凛とお母さんは、共依存にも近いと思う。少し離れた方がいい。親は親。子供は子供の人生があるんだよ」
「……うん。でもね、お母さんは私の自由を聞いてくれないんだ。私が居残りすると、心臓に負担が掛かるんだって。男の人と話すと、心臓に負担が掛かって発作が起きるんだって……」
「そんな、現に俺と話していても、発作なんて起きてないだろ」
「だって! お母さんがそう言うんだもん。子供の頃から、お母さんの言うことが全部正しいって言われ続けてきたんだよ?」
「実は颯太くんと話したんだ」
「え、颯太くんと? さっくんと颯太くんがなんで?」
「たまたま会ってさ……少し話したんだ」

 凜の家のあたりをウロウロ徘徊した挙句、ストーカーだと間違えられたとは、口が裂けても言えない。一文字に口を結んだ。
 
「颯太くんも、その……凛のことを心配してたんだよ」
「そっか……颯太くんは昔から優しかった。今も変わらないね」

 ここ最近ずっと凛の表情は強張っていた。笑顔を浮かべなくなっていた。いた目の前にいる凛は少し表情がほぐれたような気がして、安堵のため息が漏れる。俺の願いは凛が幸せでいてくてくれること。それだけだ。


「凛、あのさ。親と子供は別々の人間なんだから、分かり合えなくたっていいんだよ、分かり合えないこともあるのが普通なんだよ。今まで分かり合えていたと錯覚しているならば、それは凛が我慢して合わせたからだ。離れろって言ってるわけでもない。親が大切だと思う気持ちは尊重したい。ただ、俺もいることを。俺は凛の味方だと忘れないで。凛にはお母さんの他にも味方がいること。忘れないで?」
「うん……ありがとう。さっくん」


 正直、母という存在に敵うわけがない。17年間、赤子の頃から育て上げた凜の母の愛情に、親しくなって数週間の俺が敵うはずもないのだ。そう分かっていても……。母という存在の偉大さをわかった上で、間違いだらけの愛情ならば、手を差し出したいんだ。