「ただいまー」
緊張しながら自宅の玄関ドアを開けるのは初めてのことだった。
心臓が嫌な音を立てて鳴りだす。
「おかえりー」
いつものようにリビングから、だらけきった声が飛んでくる。
「お、お邪魔します……」
緊張しているのだろうか。いつも以上にか細い声で、不安そうな声で挨拶をした。
――ガタッ。凛の声に反応して、家具とフローリングがぶつかる音が鳴り響く。ガタガタと音を立てて、慌てた様子の母が玄関に顔を出した。驚きのあまり顔が強張っていて少し怖い。俺が女子を連れてくるのがそんなに驚くことなのか。
「お邪魔します。えっと……」
「せ、赤飯っ! 赤飯炊かなきゃ!」
母の暴走が始まった。うちでは祖母がいたころから、お祝い事には必ず晩御飯に赤飯が出てくる風習がある。どうやら、俺が女子を連れてきたことが、母の中でお祝い事に認定されたらしい。
「母ちゃん、ちょっとまてよ」
「あー、ごめんなさいね。玄関で。どうぞ入って? リビングで話す? あー、咲弥の部屋に行くわよね。ごめんなさいね。咲弥が女の子連れてくるなんて初めてだから、私も分からなくて」
ほらな。余計なことをすぐいう。口が軽いところは母の短所だ。
「あー、もう……うざいって。俺の部屋で話すよ。後で説明するから。あー、そういうんじゃないからな?」
「ほほっ、そうなのね。彼女さん、ゆっくりしていってね。夜ご飯は赤飯以外もあるからね」
「だーかーらー、赤飯食べるようなことじゃないって。もういいや」
今の母に何を言っても、耳に入らないだろう。終始ニヤニヤしている。
男親って、息子が彼女を連れてきたらこんなに歓迎するものなのか?
まあ、彼女じゃないけど。
母の大歓迎にため息を吐いた横で、凜の表情に困惑の色が見えた。母は変な圧があって、恐縮させてしまったのかもしれない。
俺の部屋に入り、母がいなくなっても尚、凜の顔から緊張感は抜けなかった。
「大丈夫か? ごめんな。一癖あってびっくりしただろ?」
「え、いや……違うの……。さっくんのお母さんは『うざい』とか言われても怒らないの?」
思っていた答えと違って、俺の方が困惑してしまう。
「あー。いや、男だったらこれくらい普通じゃないかな? 喧嘩した時とか、必要以上に言葉遣い悪くならないようには気をつけてるけど」
「喧嘩……?」
「え、あー。喧嘩ぐらいするよ? 俺って喧嘩しないように見える? 優しいってこと?」
冗談交じりで言った言葉は届いていないようだった。呆然とした様子で珍しく怪訝そうな表情を浮かべている。初めて見る凜の表情に俺の方が困惑してしまう。困惑すると同時に心配でたまらなくなった。
「凜……? どうした?」
「私、お母さんと喧嘩したことないんだ……」
「え、一度も?!」
思わず声のボリュームが上がった。凜が優しいことは知っていたが、親と喧嘩したことがないなんて。凛の親だからよっぽど優しいのだろうか。
「さっくん。私、さっくんのお母さんと話みたいな」
「母ちゃんと?!」
「うん。だめかなあ?」
「そんな、だめなはずないけど。そろそろご飯だから、リビングに降りようか」
リビングに降りると食欲をそそる匂いが嗅覚を刺激する。
テーブルには、俺の好物でよく食卓に並ぶ胸肉のから揚げ。いつもよりきれいに飾られたポテトサラダ。そして、綺麗なあずき色に染められた赤飯。香ばしい香りをかいだ途端に空腹を感じてお腹も鳴る。
「赤飯。本当に炊いたのかよ。ってか、赤飯って時間かかるんじゃねーの?」
「圧力鍋で作ると時短になるのよ? 主婦の力舐めないでちょうだい。どうぞどうぞ。好きなところに座って? 今日お父さんは帰りが遅いから、先に食べちゃいましょう。あら、やだ。私ったらお名前聞いてなかったわね」
母の口は止まることなくマシンガントークを繰り広げる。凜は少したじたじになりながらも口を開いた。
「……白雪凜、です」
「あらー、とっても綺麗で素敵な名前ね」
「あ、ありがとうございます」
「さっきは慌てていたから気づかなかったけど、凜ちゃん美少女すぎない? こんな美少女が咲弥と付き合ってるの?」
俺と凜の顔を交互に見ながら、不思議そうに首をかしげている。
「あの……さっくんとは、付き合ってはいなくて……」
「さっくん?!」
凜が俺のことを「さっくん」と呼んだことに大袈裟に反応を見せる。わざとらしく大口を開けたまま、俺に視線を向けた。
いや、言いたいことは分かる。息子が「さっくん」と呼ばれていることを、からかいたくて仕方がないのだろう。母の視線から、うずうずと我慢しているのが伝わってくる。
「あ、あの、ごめんなさい。大事な息子さんを『さっくん』だなんて呼んで」
「いいのよ! 凜ちゃんが謝ることなんて一切ないのよ? 少し面白くてね。ねえ? さっくん?」
そう言って悪戯に笑いながら、再びじとっと俺に視線を向けてきた。
完全に母のペースだった。俺はわざとらしく「はあ」と大きなため息を吐く。
凜は言われるがまま静かに椅子に腰を下ろした。いつもの見慣れた我が家の空間に、緊張してがちがちの凜が座っている。そして一緒にご飯を食べている。嬉しいような、気恥ずかしいような変な気持ちだ。
「……美味しいです」
「よかったわー」
母特製のから揚げを口にいれると、表情がぱあっと明るくなった。母の作るから揚げは、お弁当屋さんのから揚げ並みに美味しいのだ。凛の顔に笑顔が現れて、緊張がほぐれようでホッとした。
母はずかずかと根掘り葉掘り、凜に質問攻めをする。凛の負担になっていないか心配で視線を送るも、返ってくるのは笑顔だった。よほど心配が表情に出ていたのだろう。「大丈夫だよ? 心配しないで?」小声で零した。
お皿の中が綺麗になるにつれて、凜と母の仲も深まったようだ。
最初は俺中心だった話が、今では俺は蚊帳の外。二人で楽しそうに話している。
「今日って咲弥から誘ったのよね? まだ正式にお付き合いしていない娘さんを自宅に連れてくるなんて。ごめんなさいね?」
「今日は……私からお願いしたんです」
「あら、そうなの?」
「はい。さっくんのお母さんとお話してみたかったんです」
俺自身も、なぜ我が家に来ることを了承したのか、理由を聞いてなかった。
母と話をしてみたかったとは。思いもしない答えで驚いた。
「そんなこと言ってもらえて嬉しいわ。私も凜ちゃんとお話出来て嬉しかったわ」
「ありがとうございます……」
ブーブー……。
凜のポケットからスマホの振動の音が聞こえてくる。
目線をうようよと泳がせて動揺が見て取れる。凛の様子から、母親からの連絡だと悟る。
「凜……大丈夫? 電話きてるんじゃないのか?」
「だ、大丈夫」
「あら、凜ちゃんのお母さん心配しているのかしら。大人の私から説明しようか?」
「いえ! 本当大丈夫です。……そろそろ帰りますね。ご飯ご馳走様でした。から揚げ凄くおいしかったです」
丁寧にお礼意を言うと荷物を持って玄関に向かった。送っていくべきか迷っていると「なにしてんの! 送っていきなさいよ!」と母からの圧が強くて凜の後を追いかけた。
送っていくと言っても、何度も「大丈夫だから」と断られた。頑なに拒否する凜に禁じ手を使った。
「……母ちゃんが送っていけってうるさいんだよ」
「そう、なんだ……じゃあ、家の近くまでなら」
納得いかないような顔をして、渋々了承してくれた。こう言えば折れてくれると分かっていた。心配だから送りたいは建前で、本当は暗い顔を見せる凜のことが心配だったんだ。
空は真っ黒な闇に包まれていた。見上げても星なんて見えなくて。ただひたすらに黒い闇が広がっていた。
凜と肩を並べて歩くことの幸せを噛み締めて、ゆっくり歩いていた。
「凜、俺の母ちゃんに会ってみたかったの? 初耳だったんだけど」
「うん。母親ってどんな感じか知りたくて」
「それって、どういう意味?」
「私、きっとお母さんに愛されてないんだ。さっくんのお母さんを見て思ったよ。うちのお母さんは怒るばかりであまり笑わないの。私が心臓に疾患を抱えて産まれちゃったから……なのかな?」
「それは関係ないだろ。凜は何も悪くないだろ」
「私、生きていていいのかな? これから先いいことあるかな?」
頬触れた夜風がひんやりと冷たい。街灯に照らされた凜の顔は、儚く今にも消えてしまいそうだった。
「あるよ! ないなら作ればいいよ! 俺と!」
胸を張って言い切った言葉に、へらりと笑った。しかし、それは無理して笑っているのが分かった。今にもどこか消えてしまいそうな儚く笑う表情に目が離せなかった。
「さっくん、ありがとね。行きたいところに連れてってくれたり。今日はわがまま言ってごめんね」
「ああ。……ちなみに他に行ってみたい場所はある?」
「うーんとね。いっぱいありすぎる! みんなが普通に行くところでも、私は行けない場所だからさ……」
「主治医の先生はなんて言ってんの?」
「え?」
「主治医の先生も出掛けること制限してんの? 恋もしちゃだめって言ってんのか?」
それはずっと気になっていたことだった。
本当に凛は恋ができないのか。希望を滲ませて言葉を待つ。
「主治医の先生は、発作が起きなければ日常生活には問題ないって。もちろん、走ったり激しい運動はだめだけど……」
「それだったらさ……」
「あ、もう家に着いちゃう。じゃあ! ここで。これ以上家に近づくとお母さんにバレちゃうから。あっ、さっくん何か言いかけてた?」
住宅が立ち並ぶ曲がり角で足を止めると、早口で捲し上げた。
「ああ、さっきの話の続きだけど――」
「ん?」
「いや。……なんでもない」
追求しようとしてやめた。「主治医の先生が、日常生活に問題ない」って言ってるのなら、恋できるんじゃないのか?そう聞こうと喉まで出かかった。
その言葉には俺の希望も含まれているからだ。
希望と期待が含まれた、浮かび上がった仮説を掻き消すように頭を左右に振った。
本当は家まで送るつもりだったが、お母さんにバレてしまうのは、確かにまずい。別れようと手を振って笑い合っていた。次の瞬間。