「手、繋いでみていい?」
「は?」
唐突に投げられた言葉に、思わず情けない声が漏れた。予想していなかった言葉に内心は焦りまくっていた。だって、手を繋いで平気なのだろうか。冷静を装いつつも動揺を隠しきれない。
「だめ?」
「ダメじゃないけど……いや、ダメだろ! 凛の心臓に負担がかかったら……」
「試してみようよ? ドキドキして心臓の鼓動が速くなったら、すぐ離すから」
「でも……」
「意気地なしー」
ふん、と鼻から息を吐きながら、ほっぺを膨らませて典型的な拗ねた表情を浮かべた。
意気地なしにでもなるだろう。
男女が初めて手を繋ぐドキドキよりも、更に命の危険という重い責任も背負うことになるのだから。
「……」
「じゃあ、いいよー。違う子に頼むから」
「そ、それは、ダメだ」
右手を差し出して挑発するように目を細めて笑った。
ごくんと唾を吞む音が自分の体に響く。凛と手を繋ぐ緊張感、凜の心臓に負担をかけてしまわないかという恐怖。様々な感情が交差して俺の心拍数は速くなる。手汗を服で拭って、差し出された透き通ったように白く細い手に近づけた。
「ドキドキしそうになったら、すぐ手離せよ?」
「……うん」
差し出された手のひらに、手を合わせてゆっくり握る。それは大切なものに触れるように、優しくゆっくりと。
手から感じるぬくもりに俺の心臓はドクドクと高鳴り続けた。凛に視線を向けると、いつもと変わらない表情だった。
彼女に感情の起伏が現れて欲しくないような。少しはどきっとして欲しいような。
自分でも分からない感情が混ざり合う。
「はい、おしまーい!」
「びっくりした、」
高らかな声と共に、パッと繋がれていた手が離れた。
凜の手のぬくもりの感触の余韻が残る右手が行き場をなくしてその場に置き去りになる。
「だ、大丈夫か? その……」
「うん、大丈夫だよ」
「そっか。良かった」
凛の心臓に負担がかからなくて嬉しいはずなのに、心は喜べなかった。こんなにドキドキしてたのは俺だけなのか。虚しいという感情が襲ってくる。
「さっくん。怖かった?」
「……少し、な」
「嘘だー。手震えてたよ?」
バレていたのか。正直怖かった。情けないくらい手が震えてしまっていた。
凜に発作が起きてしまったら……。最悪の想定が頭の端っこに浮かんできて、怖くてたまらなった。
「……怖かったんだ」
「殺人犯になるのが? 大丈夫だよー。もし発作が起きても死んだりはしないよ。凄く苦しいけどね」
「違うよ。凜を失うのが怖いんだ」
「……」
「凜、俺さ……」
「やめてよ。もう少しでドキッとしちゃいそうだったじゃん。約束したでしょ? きゅんとしない恋って。だめだよ。ドキドキして発作に繋がったら……終わらないといけなくなる」
凜は目尻を下げて微笑んでいるものの、表情に寂しさの影が見える。
伝えたい言葉はたくさんあるのに、その言葉がこの関係を終わりに導いてしまうかもしれない。そう思うと言えなくなった。
「恋を探したいってことは、今まで誰とも付き合ったことないの?」
「あるよ」
さらりと吹いた風に髪の毛がなびいた。ふわりと心地よい春風に乗せられた言葉がぽつりと届いた。
凜ほどの美人なら、告白だって何回もされているだろうし、付き合ったこともあるだろう。
あれ、でも、恋はしちゃだめと脳が認識してるって言っていたような。
「中学生の頃ね。お母さんの言いうことに反抗したくなっちゃって。ダメだと知りながらも、告白された人と付き合ったんだ。それが最初で最後の反抗期」
「それで恋は知れなかったのか?」
「付き合ってみたけど、お母さんに言われ続けていたから、やっぱり心臓のことが怖くなって。この人になら説明してもいいかなって思ったの。そしたら『殺人犯にされてしまうかも知れないデートなんてしたくないな。もし、本当にデート中に俺が心臓に負担がかかるようなことをして、君が死んでしまったら、両親から殺人犯として訴えられる可能性だってある。そんなリスク背負えない』そうきっぱり言われて、恋を知る前に振られちゃった」
ははっ。と空笑いを浮かべているが、目には透明なものが光って見えた。
その彼が言ったことは正論でもある。正直、心疾患を抱えていると言われて、重いな。と思った。ただ、口に出しては言わないだけだ。高校生の俺でも、身が縮こまりそうになる問題だ。中学生には重すぎる話だろう。
当時、凜も中学生だ。勇気を振絞って病気のことを打ち明けたのに、拒絶されたのは、相当心に傷を負っただろう。当時のことを振り返りながら話す姿が、いつにもまして儚い表情に見えた。
肩がすぼんでいる彼女に思わず手が伸びた。触れる寸前でぴたりと止める。
何をやっているんだ。俺は。
無意識のうちに伸びた手は、細く華奢な肩を抱こうとしていたのだろう。それは下心からではない。凜の華奢な身体があまりにも寂しそうに見えたからだ。
触れずに止まったのは、情けないが怖気づいたんだ。
「殺人犯にされてしまうかも知れないデートなんてしたくない」
凜が当時付き合った彼が言った言葉が頭の中でこだまする。
俺は腹を括ったはずなのに。この場に及んで怖気づくなんて、やっぱり情けないな。
隣に肩を並べて座る。近いはずの距離が遠く感じた。
凜は無表情で空を見上げている。彼女はどういう気持ちで俺と過ごしているのだろう。凜の表情からが感情を汲み取ることができない。
「ねえ、さっくん? 教えて欲しいんだけど、きゅんとするって、具体的にどんな感じなの?」
しばらくの沈黙の後に、唐突に質問が飛んできた。恋愛経験のない俺には難問だった。
「え、っと、きゅんというのは……俺にもよくわからないや」
「私のこの感情はなんだろう。さっくんと話しているとたまに胸の奥が……こうなんていうか、あたたかくなったり、きゅって痛くなったりするの。最初は発作の痛みかと思ったけど、違くて……」
「……」
なんて返せばいいのか分からず、言葉と共に唾をごくんと呑み込んだ。
「これが恋なのかな……?」
上目使いで俺を見上げる。その無垢な瞳に答えることは出来ない。
もしかして、俺を好きになってくれた?
そう思ったけど、口に出すことが出来なかった。
それが恋だと伝えたら、幸せが待っているのだろうか。
それが恋だと伝えたら、終わりが待っているのだろうか。
「いや……それは恋じゃないよ」
「そっかあ」
平然と嘘を吐いた。凜は少し残念そうにため息が漏れた。
答えが分からない2択。俺は後者を恐れて彼女の想いを否定した。なぜなら、彼女と離れたくなかったからだ。
この恋が終わってしまうかもしれないのに、恋だと認めることはできなかった。自分よがりのわがままで否定したのに、俺の胸も押しつぶされたように痛い。
「恋を知れたかと思ったのに……」
「違うよ。恋なんかじゃないよ……」
再度はっきりと繰り返す。本音は心の中の箱に隠した。
本音も気持ちも、全部隠すから。
もう、きゅんとなんてさせないから。もう少し一緒にいてもいいかな。
――凜が自ら恋だと気づくその時まで。