ガラス一枚隔てた外の空気は相変わらずのようだった。
 僕たちは水槽の中のような店内で、体を冷ました。
 片品はなにを特に話すというわけでなく、メニューを広げて「これ美味しそうだよねー」とか「うわ、高い!」とかそんなたわいのないことを口にした。

 長いまつ毛は伏せ、サラサラの髪はすぐ彼女の肩を音もなく滑り落ちて、その度に彼女は髪を耳脇にかけた。
 その仕草は理央を思い出させ、僕は少し悲しい気持ちになった。

 メニューを指さすのが不意に止まり、パタンと彼女はメニューを閉め、キレイに整頓してメニュー表をテーブル脇に立てかけた。

 そしてぐいっと体を前に出したように見えた。
「楽しくない?」
 さっきまでとは違ったすごく真剣な目で彼女は僕を見た。圧を感じなかったと言ったら嘘だ。

 そして、はぁーっと今日、何度目かのため息をついた。
「男の子はデザートメニュー見ても楽しくないか」
 肩を落として、彼女は明らかにガッカリしていた。まるで試験で大失敗をした時のようだった。

 僕はともかくなにか彼女に伝わる言葉を見つけなくちゃ、と言葉を探した。そう、なにか話が繋がることを――。

「洋は甘いものが好きだよ。よくメニュー見て悩んでるし。だから······」
「理央の彼氏なんてどうでもいいの。わたしは藤沢くんのことを知りたいの。なにが好きで、苦手はなにで、どんなことに興味があるのか」

 僕は膝の上に置いていた手を軽く握った。
 先手を取られた気分だった。後手に回った僕は、どうしたらいいのかまったくわからなかった。

 砂時計が一筋の砂を滞りなく落としていくように、僕らの間にも時間は少しずつ過ぎていった。
 上手い言葉が見つからない。
 気が付くと顔は下を向いていた。それはまずいと思い、さっと顔を上げる。

 彼女は頬杖をついて、僕を見ていた。
「別に楽しくなくてもいいんだよ」

 は?

 言われた言葉の意味がわからない。不自然なフレーズが耳の奥で反響する。
「楽しくなくちゃいけないってことはないんだよ。そうでしょう?」
 彼女は手指を組んで、腕を前方にぐんと伸ばした。彼女も緊張していたのかもしれない。

「わたしだって、わたしが誰にでも好かれるなんて傲慢なことは思ってないし」
 確かに彼女には人を惹きつける魅力がある。理央のことがなければ、僕は今頃ここでぼーっと、自分に降ってきた幸運に浮かれていたかもしれない。

 でも、残念なことに今を幸運と捉えることができない。
 申し訳ないけど、僕が好きなのは理央ひとりで、ほかに席はない。
 彼女には別の席に座ってもらうしかない。

「申し訳なさそうな顔、しないで」
「いや、そんな」
「藤沢くんは無表情のように見えて考えてることがよくわかるタイプ」
「そうなの?」
「少なくとも、わたしには」
 ふふっ、と微笑む彼女は少し大人めいて見えた。

「わたしはね、藤沢くんがわたしを今好きじゃないことは百も承知なの。だから、こういう風に少しずつ知れればいいんだよ。一緒にいてくれたら一層うれしいし、わたしをついででも知ろうとしてくれたらもっとうれしい」

 紙製のストローでアイスコーヒーが掻き回される。氷はカラカラと涼し気な音を立て、その中の液体はゆらりと揺れた。

 僕が今日、彼女について知ったことは、今まで知っていたことの何倍もあるだろう。
 それだけでも彼女にはうれしいことなのかもしれない。おこがましいのを承知して言うならば。

 いつも教室の真ん中で、皆の中心で笑っている彼女より、僕の目の前でため息をついたり、微笑んだりしている方がずっと好ましかった。

 ずっと自然で、生き生きとしていた。
 くるくる変わる表情は女の子特有なのかもしれない。理央の専売特許ではなかったようだ。

 少しずつ。
 ストローで氷を掻き混ぜながら、少しずつ、と彼女は言った。

 穏やかに、春風のような柔らかさで。
「付き合ってくれなんてすぐに言わない。少しずつわたしを知って」
「······そうだね、僕は君のことをよく知らないみたいだ」

「そうだよ、学校にいる時の聡子は、あれは作り物だから」
「作り物?」
「だって誰だって皆に好かれたいじゃん。だから好かれるわたしを作ってるの。でもわたしは我儘だから、藤沢くんには本当のわたしを知ってほしいの。······藤沢くんだけだよ」

 ドキッとした。
 よく知らない女の子にそんな気持ちになるなんて、正直戸惑った。なんだか危険な気がした。
 そうなんだ、と僕は気のなさそうな返事をした。