掃除用具を片付けて、手を洗いに行っている間、片品は同じ壁に背を預けてなにも言わなかった。
 何人かのクラスメイトは彼女と僕の顔を交互に見て行った。僕たちの短い会話を聞いていたんだろう。

 僕だってあんな会話を聞いたら誤解する。なにかあるんだな、と思う。
 でも僕は当人だから知っている。そこにはなんにもないことを。

 制服の、長袖をまくり直して、廊下に置き去りにしていたスポーツブランドの大きめのリュックを勢いをつけて背負う。
 片品はまだ、なにも言わずに待っている。
 予測のつかないことに動揺せずにいられない。

「藤沢くんて丁寧だよね」
 ん、と僕は彼女の顔を思わず覗き込んだ。
「例えば掃除とか、そういうののこと」
 ああ、そういうことか。
 丁寧かどうかはわからないけど、納得のいかないことは嫌いだ。
「みんな気付いてないけど、そういうとこ、すごいなって思ってる」
「そうかな? 自分がやりたいようにやってるだけだけど」
「やりたいようにやり通すのが、たぶん、普通の人には難しいんだと思うよ」

 歩き出した僕に、そっと片品は追いついた。

 下駄箱から靴を出す。
 さっき、彼女が一生懸命にほかの人には気付かれないようにキレイにしていたと思うと、その古い下駄箱はいつもよりずっとキレイな気がした。
 そうしてその流れでじっと彼女の目を見てしまった。

「あ、さっきひょっとして見てた? ここ掃除してたの」
「うん」
 ほこり嫌いなの、と気のせいか赤い顔をして、彼女は黒くツヤのあるローファーにするりと足を入れた。なんとなく、それを待っていた。

 僕たちはどうしてか並んで昇降口を出た。
 それはなにか不思議な感じがした。
 いつもと同じ人じゃないからかもしれない。

 僕の隣にいるのは、あの子より背の高いスレンダーな、余計なところなどどこにもないタイプの女の子だ。周りの男たちは僕のことを羨むかもしれない。

 こういう時、なにか気の利いたことをするべきなのかもしれないという考えが頭を過ぎったが、彗星のようにその考えは消え去っていった。
 僕よりも早く、彼女が口を開いたからだ。

「本当は」
 そこで彼女は一度、言葉を切った。
「本当はこうしてみたいとずっと思ってたんだけど、迷惑だった? 断りにくかったりした?」

 断るもなにもこういうことになるとは予測していなかったので、どちらかと言えば混乱していた。
 僕たちの間にいる女の子はいつも理央で、それ以外のことを想定したことはなかったからだ。

「いや、別に迷惑じゃないよ。どうせひとりだし」
「そうだよね、だから思い切って待ってたの。掃除当番の日は理央たちと一緒に帰らないでしょう?」
「うん」
「だから、今日こそは、と思って」

 また言葉が途切れてしまう。なにを言ったらいいのかさっぱり言葉が浮かばなかったから。
 それより彼女が理央とどうやら親しいことがわかって、ぼんやりと後暗い気持ちになった。

 秋空と言えるかどうかといった具合の中途半端な空に、僕らの会話は吸い込まれていったように思えた。
 言葉が、秋風に乗って散逸する。だから彼女の言葉を捕まえるのが難しい。

「藤沢くんてさ、中学の時、バスケやってたでしょう?」
「うん。でも背が高いから入部を勧められただけで、まったく上手くならなかったよ」

 くすくす、と彼女はその時初めてくだけた表情を見せた。彼女だって緊張してたんだということに、そこに来て初めて気が付いた。

「ねぇ、他校の、しかも女子のことなんか知らないだろうけど、わたしもバスケ部だったんだ」
「え、あ、そうだったの?」
「そうだったの。藤沢くんて特に背が高いから、自覚はなかったかもしれないけど目立ってたんだよ」

 へえ、とありきたりな間抜けな返事をしてしまう。実感が伴わない。誰かの話を聞いているようだ。

「やっぱり自覚なしだったんだね。元バスケ部の子は、男子も女子も少なからず藤沢くんのこと、知ってるよ。有名人」
「僕?」
「そう」

 片品は少しすっきりした表情を見せて、真っ直ぐ前を向いて歩いていた。まるで鼻歌でも歌い出しそうな顔をして。

「藤沢くんさ、あのさ」
「うん」

 シュシュは手首にあって、彼女の滑るような真っ直ぐな髪が揺れて、彼女は立ち止まると僕を見上げた。

「······よかったら付き合ってほしいんだ。友だちからでも全然いいし。だってわたしのこと、全然知らないでしょう? フラれるなら知ってもらってからフラれたい」

 その瞳の中に吸い込まれそうになる。理央の黒目がちな目と違って、彼女の瞳には光があった。