前の男についての件は、語るべきことはないと聡子は言った。
 僕はすべて知っておきたいような、むしろ知りたくないような複雑な気持ちだった。

 でも聡子がそう言うなら知らなくていいのかもしれない。
 少なくとも彼女から付き合ってほしいと申し出たわけじゃないことはわかっていたし、なにより、信じるなら、彼女は違う中学のバスケ部にいた頃から僕を想ってくれていたと言った。
 もし本当なら、かわいそうなのはその男だ。

 中学の時の理央がその男にどうやって迫ったのか、それは想像できなかった。
 だけど今わかったことは、彼女の追い求めたのはその男ではなく、聡子の幻だったのかもしれない。
 すべてにおいて堂々としている聡子は、生命力に溢れて眩しいくらいなんだろう。
 その眩しさに惹かれる人間と、その光の影になる人間がいる。
 聡子自身はそれに気づいてないんだろうけど。

 僕にとってずっと『片品さん』は枠外だった。
 綺麗な子だなと思ってはいたけど、聡子と知り合う前に理央を好きになっていたし、それに僕みたいな暗い男に彼女は眩しすぎた。
 彼女が僕を見ていたなんて、これっぽっちも気が付かなかった。

 あの日、竹岡にバスケに誘われなければ僕はまだ光の中の影になっていただろう。
 彼女と付き合うなんて分不相応だと、無意識に思うようになっていったに違いない。
 僕は僕のまま、なにかが変わったわけじゃない。中身はそのままだ。

 でもそんな僕を光の中に連れ出してくれたのは間違いなく聡子で、彼女のために打ったスリーポイントシュートがすべてを変えてくれたように思うのは気のせいだろうか?
 いや、そうではないはずだ。
 あの瞬間、僕は彼女の放つ光の中へ一歩、踏み出す勇気を持った。彼女に相応しい男になろうと思ったんだ。
 だから彼女の手を取った。

 まだ本人に言ったことはないけど。
 もしも聡子が日焼けして真っ黒で、くせっ毛の髪を持て余していたとしても、僕は彼女の魅力から離れられないと、そう思ってるんだよ。
 ねぇ、聡子。
 君は外見だけの人じゃない。内側から輝く人なんだ。

 僕と理央があの公園でどんなことをしていたのか、具体的なことは不問にされた。
「考えるのも気持ち悪いし、気分の悪いことに大体の予測はつくじゃない」と彼女はキレ気味にそう言った。もし聞いたって、あったことはなかったことになるわけじゃないと。

 確かにその通りだ。
 僕と理央があの晩、公園でしたことは誰かに話しても、話さなくても変わりはしない。
 ただ悪いことに、あの時触れたささやかな膨らみの触感が、いつまでも手に、記憶に焼き付いている。
 理央の等身大と言えるような、すっぽり収まる大きさが、やわらかさが忘れられずにいる。
 これは聡子には一生言えそうにない。僕だけの秘密だ。

 ――僕たちは仲良く手を繋ぐ。
 平行に並んで。
 どちらも無理することなく、同じ速さで前に進む。

 勿論、身長差があったって構わないんだ。
 もしも聡子が理央と大して変わらない身長だったとしても、僕は彼女の吸引力にいつかは捕まっていただろうし、僕が小さい男でも、彼女は僕を見つけてくれただろう。
 多分、いやきっと。

「なんなの? なんでそんなににこにこ笑ってるわけ? あんたね、なんだかんだ言っても浮気したことに変わりがないんだよ。わたしの前でよく真っ直ぐ前を見られるわね?」
 それでも僕は頬杖をついて、いつもと同じクリームソーダを美味しそうに食べる彼女を見ている。左の口元に真っ白なクリームがついている。
 クリームソーダが好きな女の子ってだけで最高じゃないか。

「反省してんの?  大体、理央みたいに幼児体型の子の体を······」
 そこまで言って聡子は言葉を切った。
 顔を覆って、下を向いた。
 ――泣いているのかと思った。
 いくら強いとはいえ、泣きたい時もある。
 泣かせているのは僕だ。

「聡子、本当に······」
「謝らないで。謝らないでよ、絶対。わたしがなにも話さないでってお願いしたのに、そのことで責めるなんておかしいじゃない。
 奏のこと、考えるとぐるぐるする。嫉妬と、好きって気持ちが洗濯機にかけられてるみたいにぐるぐる回るの。
 わたし、本当に奏のことが好きなの。だから、捨てないで。例えばわたしの体が実は貧相だったりしても!」

 最後の部分は彼女なりの冗談なんだろうと思って、僕は思わず笑いをこぼしてしまった。

 体操服姿の彼女を見たことがある。あれは陸上の授業で。
 まだ五月だというのに熱い日差しの中、彼女は惜しげもなくジャージを脱ぎ捨てて、僕たち男子の目は釘付けだった。
 それだけ彼女の肢体はよく鍛えられて美しかったんだ。均整のとれた美しい体がそこにはあった。
 彼女は美しく完璧なクラウチングスタートを決めた。
 彼女の体が僕を失望させるなんて、そんなことは決してない。
 それより僕たちがそんな仲にたどり着くのか、それの方が僕には大きな問題だった。

「君に触れる時にはできるだけ敬意を払うよ」
「なにそれ? どういう意味?」
「さぁ、僕は君の体のラインくらいは知ってるってことかな? 付き合う前から」

 嘘、やだ、信じられない、いやらしいと、他の客に聞こえるんじゃないかと思うくらいの声で聡子は騒いだ。
 僕はふふっと思わず笑った。
 そんな時が本当に来るのかわからないけど、その時まであの体操服姿の彼女を思って楽しみにしていよう。
 そこにはきっと、まだ僕の知らない君が存在するはずだから。遠慮がちに手を伸ばして、それからぎゅっと抱きしめよう。君を想う気持ちの強さに比例するくらい――。