帰ろう、と聡子は僕の手を引いた。
 僕は理央のことがまだ気になって、立ち尽くす理央を見た。さっきまでの強引さの欠片もない彼女は、魂が抜けたようにぼやけて見えた。
 キィーッとゆっくり自転車の停まる音がして、驚くべきことに洋がやって来た。ゆっくり、こっちに向かって歩いてくる。
 いつもの洋とは違う静かな姿に戸惑う。

「理央」
 洋は迷わず理央のところへ行って、棒立ちの彼女をぎゅっと抱きしめた。
 洋と理央はやっぱりその身長差がベストなカップルで、洋の肩から理央の虚ろな瞳がこっちを見ていた。洋が壁になって、理央の目を塞いでしまうことはない。
 洋の理央を想う気持ちが目に見える気がした。

 洋は一度、理央を離すと、理央の制服の肩や腰の辺りの砂を叩き始めた。それでも理央は拒絶することなく、お礼を言うこともなかった。
 洋が理央のスカートの裾まで叩き終わった時、こっちを向いて洋は頭を思いっきり下げた。

「二人とも、ごめん!」
 僕も聡子も驚いて飛び上がるところだった。
 なにが起きたのかわからない。
 そこには頭を深く下げた洋がいて、理央が洋を止めるべきか迷っているようだった。

「俺が理央をきちんと捕まえてなかったからこんなことになったんだ」
「それはないよ、理央のやったことの責任を三枝くんが取るのはお門違いじゃない? 理央のやったことは理央が謝るべきなんだよ」
 正々堂々と胸を張って主張する聡子の顔も見ず、洋は頭を下げ続けた。
「奏、ごめん」

 なぜか急に悲しい気持ちになった。
 悪い事をしたのは結果的にとはいえ僕の方なのに、あのプライドの高い洋が僕に頭を下げるなんて、あったらいけないことだ。
 僕は洋にはいつも通りでいてほしかった。例え多少、我儘でも、意地っ張りで見栄っ張りでも。
 それが長年連れ添った僕の相棒だ。

 聡子は洋と理央、二人に向かって歩いて行くと、お互いの手を取って、握らせた。
 そして無理やりそれを上下に振って「仲直り」と一言いった。山ほどある問題を、たった一言で終わらせるとは僕の彼女はやっぱり只者じゃない。
 体育会系だったからこそ、気質がサッパリしているんだろう。
 これで理央のことも許すと言ったら、本当に驚きだ。

「三枝くんに免じて今回のことはなかったことにしてあげる。三枝くんにいつまでも感謝しな。でも、もしまた奏に手を出したら今度は絶対に許さないから。引っぱたくだけじゃ済まないからね」
 んじゃ、と軽く手を挙げて彼女は僕を引きずっていった。



 僕は走っていって迷子になったところをママに助けてもらった子供みたいだった。
 とても惨めで仕方なかった。
 聡子の顔は見られない。したことはしたんだ。言い訳はできない。

 自転車を引いた彼女の横顔は、住宅街の暖かい明かりに照らされて、いつもより繊細に見えた。
 自慢の髪は、いつの間にか一つに結い上げられ、よく見ると靴下を履かず、古いスニーカーの踵を踏んでサンダルのように引きずって歩いていた。
 そしてぽつりと、こう言った。

「理央が好きだった? ······邪魔してごめん。でもわたしも奏が好きなんだもん。代わりはいないから」
 胸の中が後悔でいっぱいになる。
 全部、ため息にして吐き出してしまえたらどんなに楽になれるだろう?
 でも今の僕には、彼女になにかをしてあげられる権利がない。

 僕のリュックは聡子の自転車のカゴに乗せられていた。聡子はそれをなんでもないという顔をして、歩いている。
 そんなことはない。彼女は歯を食いしばっている。
 僕は自転車のハンドルに手をかけると「代わるよ」と言った。
 聡子は予想通り「いいよ」と言ったけど、僕が離さないのを見ると、ハンドルを譲った。

 だからと言ってなにかが劇的に改善されるはずもなく、ただ二人の足音と、古い自転車のカタカタいう音が、無機質な家々の間に響いた。

「なにも訊かないの?」
 恐る恐る、僕は訊ねた。
「奏こそなにも訊かないの?」
 聡子はうなだれてそう言った。
「······始めは単なる一言で、別になんも親切とか、逆に言いにくいことなんじゃないかとか、考えなかったの。頭、バカだから」
 悲しそうに笑う。僕の知る彼女はクラスでも上から指何本の成績の良さだ。
 バカなんてことは決してない。

「なんつーの? ほら、脳筋。あれなんだよね、わたし。多分、ぜーんぶ、脳を経由しないで行動してるの。ほら、生物でやる反射? あれだね。さっきも見たでしょう? 見た目取り繕っても変わらないんだよ」
 僕が相槌を打たないので、彼女はきっかけを見計らって話を続けた。

「思ったまんまだったの。別に背の低い子がバスケ部にいたっていいじゃん、て。
 オリンピック目指してるわけじゃないし、小さい大会でも第一試合に勝てたらバンザイなんだもん。楽しめればいいじゃない?
 だから理央に入部を勧めたんだけど。でもあの子、背が低いって気にしてるみたいだったから、マネージャーを勧めたの。正直、弱小部にマネージャーなんて立派なものはいらなかったんだけど。
 だけどマネージャーだったら入部してみるって言ったんだよ。だからわたし、良かったなって、ほんとにただそう思ったの。
 理央も毎日、楽しそうだったし、小さなあの子が背の高い子たちの間をくるくる回って仕事をするのはかわいくもあったし。
 まさか理央がそんな風に思ってるとは思わなくて」

「不幸なすれ違いだよ」
「ほんとにね」

 なんて慰めてあげるのが適切なのか考えあぐねた。
 僕の前では威勢よく振る舞っているけど、彼女は海の底に住む深海魚のようにじっと耐えている。
 沈んでいる、静かで暗い海の底に。
 見ているだけで胸が痛んだ。
 抱きしめてあげたい気持ちでいっぱいになる。
 胸の奥が、ぎゅーっとなる。
 悪いのは僕だ。

 そう思って堪えていた気持ちがこぼれてくる。
 自転車は停めた。
 聡子は不思議そうな顔をした。
 僕は彼女を正面から見据えて、そして、抱きしめた。君が好きだ、と呟いた。
 なんて都合のいい言葉だろう。煌々と光る半月が、僕を軽蔑して凍るように見つめている。

「君が好きだよ」
「うん」
「聡子が好きだ。もう間違ったり迷ったりしないから」

 うん、うんと聡子は胸の中で頷いた。
 むせび泣く彼女の背中をそっと擦る。
 それ以上の追求も、言い訳も「好きだ」という言葉の重さを超えることはなかった。