「やめてくれ」
ほとんど懇願だった。
僕にとってこれまで彼女は聖なる存在だった。
なのにこんなのは酷すぎる。僕の中を掻き回さないでほしい。
「好きにしていいよ。キスした時と変わらないじゃない。わたしはまた抵抗しないし、むしろ喜んで受け入れるから。······シャツの内側だっていいんだよ。素肌を好きにしてくれていいんだよ」
嫌でも手のひらにその膨らみを感じる。その大きさ、やわらかさ。僕の手にすっかり入ってしまう。
「理央、お願いだから僕をこれ以上、失望させないでよ」
「どうしてそんなこと言うの? 想像したことないの? わたしに触ること。想像より小さかったかもしれないけど······これがわたしだよ。もっと知って。触って。洋くんとはちゃんと別れるから」
理央は弾かれて体勢を崩した。
ジャケットのボタンが一つ、飛んでいった。
そのままベンチから転げ落ちて、地面から僕をキツく見上げた。
見たことのない表情だった。
「なにがいけないの? どうしてダメなの? 両想いなのに!」
「ごめん、もう遅いんだよ。時間が経てば気持ちも変わるんだ。それに、君はもう僕の好きな人じゃないよ。ごめん」
電話のバイブが着信を知らせる。
迷わず速やかにカバンからスマホを取り出す。
深呼吸する。夜の、少し冷たい清らかな空気が肺を満たす。まっさらな光が闇を照らす。
「もしもし、奏? まだ家に帰ってないの?」
まるで母親に叱られた時のようだ。彼女はその勢いでまくし立てる。
「理央が一人になっちゃったから、送ってた。もう帰るところ 」
「············」
「聡子?」
「理央と今どこ?」
「え、僕はよくわからないけど近くの公園だって」
「そこにいなさいよ、すぐに行くから! いい!?」
返事をする間もなく、電話はなにも語らなくなった。それにしても聡子は本当にここに来るつもりなんだろうか? ここがわかるんだろうか?
「聡子ちゃん?」
「うん」
ふらっと立ち上がると理央は弾け飛んだボタンを拾った。制服の裾を正す。
「あーあ、わたし、いつも聡子ちゃんには勝てないんだぁ。それはそうだよね。聡子ちゃん、カッコいいもん。女のわたしから見てもカッコいい」
そこまで言うと理央は口を閉じて、ベンチに再び座った。
僕は怖くて彼女に近づけなかった。スマホを握りしめて、立ち尽くしていた。
「聡子ちゃんにね、誘われてバスケ部に入ったの。背が低いからできないよって言ったら、じゃあマネージャーになればいいじゃんって。どう思う?」
特になにも思わなかった。
その話は既に聞いて知っていたし、その時感じたのは聡子の正義感で、それは好ましいものに見えたし、実に彼女らしいエピソードだと思った。
「奏くんもわかんないか。聡子ちゃんと同じだもんね。わたしさ、我儘なのはわかってるんだけどチームに入れてほしかった。チビで足でまといなのはわかってるけど、試合に出してほしいなんて言わないから」
ああ、この小さい女の子はそんなことを思っていたのか。その時初めて飲み込めた。
言いたいことが言えないまま、ズルズルここまで来ちゃったんだ。
彼女の小さいところがかわいいと思ってきたけれど、本人には悩みでしかなかったんだ。
「小さくてかわいいよ」
ブランコの低い柵に座って、僕はそう口にした。
さっきはあんなに彼女を拒んだのに、もう許そうとしていた。
「知ってる? 中学の時の聡子ちゃんは今とは全然別人で、頭の先から爪先まで体育会系女子だったんだよ。髪の毛だってクセが強くてきつくポニーテールにしてたし、外練で真っ黒に日焼けしてて、背も高くて鍛えた筋肉の持ち主で。笑える、高校デビューとか考えられないよ。
あの頃の聡子ちゃん見ても、奏くんもきっとピンと来ないと思うよ」
そう言うと理央は寂しそうに笑った。
きっと理央は今の聡子より、昔の聡子が好きだったんだ。理央は変わってしまった聡子を受け入れられなかったのかもしれない。
◇
キキーッ、と闇夜を切り裂く音がして、自転車を停めるカタンという音が聞こえた。
そっちを向くと、すごい姿で聡子は走ってきた。どれくらい自転車で走ったのかわからないけど、上下ジャージ姿で髪を振り乱していた。
僕は走ってくる聡子に、押し倒されそうになる。バランスを崩して尻もちをつく。
「奏! 見つかってよかった。なにもされなかった?」
「······どういう意味?」
理央はベンチから立ち上がった。まるでそうしろと命令されたかのように。
聡子の目は相変わらずいつものように輝いていて、理央の薄暗い部分を暴いてしまいそうだった。
どうしたらいいのかわからない。
右手を精一杯大きく振り上げると、渾身の力で聡子は理央を引っぱたいた。
女の子が女の子を殴るのを初めて見た。
衝撃で、動けない。
理央はその場にうずくまって、叩かれた左頬に手を当てていた。なにも言わずに。甘んじてそれを受け入れた。
「あんたね、他人(ひと)の男に何回手を出せば気が済むのよ!」
え?
聡子の言葉が上手く飲み込めない。
「······ごめんなさい」
「ごめんなさいで済むことと済まないことがあるのよ! 奏はダメだよ。わたしが初めて自分から好きになった男なんだから」
その言葉は僕の心を強く打った。
僕はその言葉に相応しくないことを、自分自身が一番よく知っている。
さっきまで、揺れていたのは僕なんだ。
「理央だけのせいじゃないよ」
聡子は僕の前まで歩いてくると、よいしょ、と立ち上がらせた。
そして僕の目を見た。
彼女はとても傷ついた顔をしていた。
彼女の瞳に映る僕は、その潤んだ景色の中で歪んでいた。
「僕も殴られるべきだ」
「ううん、殴らない。その代わり今の心の痛みを一生、そのまま胸の奥に抱いていて」
「······聡子、体育会系でも好きだよ。君が僕を嫌いになったとしても」
彼女はわかってるという顔で微笑んだ。
ジャージ姿はとても勇ましかった。
ほとんど懇願だった。
僕にとってこれまで彼女は聖なる存在だった。
なのにこんなのは酷すぎる。僕の中を掻き回さないでほしい。
「好きにしていいよ。キスした時と変わらないじゃない。わたしはまた抵抗しないし、むしろ喜んで受け入れるから。······シャツの内側だっていいんだよ。素肌を好きにしてくれていいんだよ」
嫌でも手のひらにその膨らみを感じる。その大きさ、やわらかさ。僕の手にすっかり入ってしまう。
「理央、お願いだから僕をこれ以上、失望させないでよ」
「どうしてそんなこと言うの? 想像したことないの? わたしに触ること。想像より小さかったかもしれないけど······これがわたしだよ。もっと知って。触って。洋くんとはちゃんと別れるから」
理央は弾かれて体勢を崩した。
ジャケットのボタンが一つ、飛んでいった。
そのままベンチから転げ落ちて、地面から僕をキツく見上げた。
見たことのない表情だった。
「なにがいけないの? どうしてダメなの? 両想いなのに!」
「ごめん、もう遅いんだよ。時間が経てば気持ちも変わるんだ。それに、君はもう僕の好きな人じゃないよ。ごめん」
電話のバイブが着信を知らせる。
迷わず速やかにカバンからスマホを取り出す。
深呼吸する。夜の、少し冷たい清らかな空気が肺を満たす。まっさらな光が闇を照らす。
「もしもし、奏? まだ家に帰ってないの?」
まるで母親に叱られた時のようだ。彼女はその勢いでまくし立てる。
「理央が一人になっちゃったから、送ってた。もう帰るところ 」
「············」
「聡子?」
「理央と今どこ?」
「え、僕はよくわからないけど近くの公園だって」
「そこにいなさいよ、すぐに行くから! いい!?」
返事をする間もなく、電話はなにも語らなくなった。それにしても聡子は本当にここに来るつもりなんだろうか? ここがわかるんだろうか?
「聡子ちゃん?」
「うん」
ふらっと立ち上がると理央は弾け飛んだボタンを拾った。制服の裾を正す。
「あーあ、わたし、いつも聡子ちゃんには勝てないんだぁ。それはそうだよね。聡子ちゃん、カッコいいもん。女のわたしから見てもカッコいい」
そこまで言うと理央は口を閉じて、ベンチに再び座った。
僕は怖くて彼女に近づけなかった。スマホを握りしめて、立ち尽くしていた。
「聡子ちゃんにね、誘われてバスケ部に入ったの。背が低いからできないよって言ったら、じゃあマネージャーになればいいじゃんって。どう思う?」
特になにも思わなかった。
その話は既に聞いて知っていたし、その時感じたのは聡子の正義感で、それは好ましいものに見えたし、実に彼女らしいエピソードだと思った。
「奏くんもわかんないか。聡子ちゃんと同じだもんね。わたしさ、我儘なのはわかってるんだけどチームに入れてほしかった。チビで足でまといなのはわかってるけど、試合に出してほしいなんて言わないから」
ああ、この小さい女の子はそんなことを思っていたのか。その時初めて飲み込めた。
言いたいことが言えないまま、ズルズルここまで来ちゃったんだ。
彼女の小さいところがかわいいと思ってきたけれど、本人には悩みでしかなかったんだ。
「小さくてかわいいよ」
ブランコの低い柵に座って、僕はそう口にした。
さっきはあんなに彼女を拒んだのに、もう許そうとしていた。
「知ってる? 中学の時の聡子ちゃんは今とは全然別人で、頭の先から爪先まで体育会系女子だったんだよ。髪の毛だってクセが強くてきつくポニーテールにしてたし、外練で真っ黒に日焼けしてて、背も高くて鍛えた筋肉の持ち主で。笑える、高校デビューとか考えられないよ。
あの頃の聡子ちゃん見ても、奏くんもきっとピンと来ないと思うよ」
そう言うと理央は寂しそうに笑った。
きっと理央は今の聡子より、昔の聡子が好きだったんだ。理央は変わってしまった聡子を受け入れられなかったのかもしれない。
◇
キキーッ、と闇夜を切り裂く音がして、自転車を停めるカタンという音が聞こえた。
そっちを向くと、すごい姿で聡子は走ってきた。どれくらい自転車で走ったのかわからないけど、上下ジャージ姿で髪を振り乱していた。
僕は走ってくる聡子に、押し倒されそうになる。バランスを崩して尻もちをつく。
「奏! 見つかってよかった。なにもされなかった?」
「······どういう意味?」
理央はベンチから立ち上がった。まるでそうしろと命令されたかのように。
聡子の目は相変わらずいつものように輝いていて、理央の薄暗い部分を暴いてしまいそうだった。
どうしたらいいのかわからない。
右手を精一杯大きく振り上げると、渾身の力で聡子は理央を引っぱたいた。
女の子が女の子を殴るのを初めて見た。
衝撃で、動けない。
理央はその場にうずくまって、叩かれた左頬に手を当てていた。なにも言わずに。甘んじてそれを受け入れた。
「あんたね、他人(ひと)の男に何回手を出せば気が済むのよ!」
え?
聡子の言葉が上手く飲み込めない。
「······ごめんなさい」
「ごめんなさいで済むことと済まないことがあるのよ! 奏はダメだよ。わたしが初めて自分から好きになった男なんだから」
その言葉は僕の心を強く打った。
僕はその言葉に相応しくないことを、自分自身が一番よく知っている。
さっきまで、揺れていたのは僕なんだ。
「理央だけのせいじゃないよ」
聡子は僕の前まで歩いてくると、よいしょ、と立ち上がらせた。
そして僕の目を見た。
彼女はとても傷ついた顔をしていた。
彼女の瞳に映る僕は、その潤んだ景色の中で歪んでいた。
「僕も殴られるべきだ」
「ううん、殴らない。その代わり今の心の痛みを一生、そのまま胸の奥に抱いていて」
「······聡子、体育会系でも好きだよ。君が僕を嫌いになったとしても」
彼女はわかってるという顔で微笑んだ。
ジャージ姿はとても勇ましかった。