紺の制服をしっかり着込んだ理央は闇夜に溶けそうで、なんだか危うい気がした。
僕のセーターの裾を掴んだまま、離そうとしない。
動揺する。
理央は僕を離さない。
その小さな手で、僕らは繋がっていた。
電話なんかより、しっかり。僕は宵闇の中、彼女の質感を確かに感じていた。
「ねぇ、理央。僕は君にキスしたこともあるけど、でも今は聡子と付き合ってるんだ。軽はずみなことはしたくないよ。誤解されたくないんだ」
まだ手は離れない。
彼女は細いため息をついた。
「聡子ちゃんが好きなの?」
「······うん、多分だけど。かなり惹かれてる」
「そうだよね、聡子ちゃんだもんね」
理央の手はそっと、彼女の膝の上に戻った。
なにか言いたげで、言葉は出てこない。
僕らは膠着状態だった。
僕と聡子の間にも、理央たちみたいな約束があれば、僕は飛んで帰るのに、と今更なことを思う。
僕はベンチに座ったままだ。いつだって自由に立ち上がることができるのに。
僕の電話はこれっぽっちも僕を呼び出してはくれそうになかった。そういう習慣がなかったんだから、期待しても仕方ない。
聡子が、クリームソーダをカラカラとかき回す音が懐かしくなる。
「ねぇ、キスしようよ」
え、と思った。冷や汗をかく。心臓が戸惑って大きな音を立てる。
「なんでそうなるの? 僕のしたことをまだ怒ってるから? それとも洋と上手くいってないの?」
理央はそのつぶらな瞳に、常夜灯の光を映して僕を見た。そうして僕の手を持ち上げると、その手の甲にやわらかい唇を押し付けた。
ダメだ。
避けられない。
この手を振り払うことができない。
ここより先に進んだら、すべてがダメになってしまう。僕らは同じ線上にいながら、まるでサーカスの綱渡りのようにいつも危険なバランスで成り立っていたんだ。
洋が、聡子が、目の裏にちらつく。
「奏くんがキスしてくれた時、奏くんの気持ちに素直に応えればよかったって、ずっと後悔してたの······」
「理央、でもそれは」
「わかってる、皆を傷つけるってこと。でも時には他人を傷つけても手に入れたいものがあるんだよ」
情けないことに動けなかった。
理央の唇が僕の荒い手の甲に触れるまで、見ていることしかできなかった。
欲望、期待、衝動。それらのものが僕に満ちる。
彼女が唇をつけた左手の甲が熱い。火傷したみたいだ。
体中が心臓になったみたいに早鐘を打つ。
唇を奪いたい。貪るように、何も考えずに。
理央はつぶらな瞳に常夜灯を照らして、少し潤んだ目で僕を見つめている。
「わたし、まだ洋くんとはキスしたことないの」
それは僕の知っている彼女ではなかった。
いつもの幼い笑顔で僕たちをホッとさせる彼女ではなかった。
そこにいるのは一人の女性だった。
「ね、いろんなこと、やり直そうよ。今ならまだ、奏くんも戻れるんじゃない?」
「······なにを? 僕は聡子を大切に思い始めてる。もう遅いよ。誰も傷つけたくないんだ」
「でもわたしのこと、好きだって言ったじゃない。無理にキスもしたじゃない。
ほんのこの間のことだよ? 心変わり、早くない? 思い出して、無理にキスするほど好きだった気持ち」
「ねぇ、落ち着いてよ。どうしたんだよ、いきなり。いつもの理央らしくないよ」
そこまで言うと理央は僕にぶつかるように抱きついてきた。反動でひっくり返らなくてよかった。
彼女が傷つかないよう、しっかり抱き留めた。
「――誰にもあげない」
ひっく、ひっく······と理央の泣き声は尾を引いて公園に響く。舗道を歩く足音もなく、どこまでも二人きりだった。
あんなに好きだった彼女が今、腕の中にいる。
ごく近いところで僕を求めている。
今の彼女は洋のものじゃない。ただの理央だ。
理央は白い手をそっと伸ばすと、僕の首筋に手をやった。ひんやりしている。外気で冷えたに違いない。こんなところにずっといるわけにいかない。
その冷たい腕は僕の首の後ろまで回され、彼女は腰を浮かせて、耳元に軽くキスした。温かい吐息。少し震えていた。
動けなかった。抱き留めていることしか。あんなに好きだった女の子が腕の中にいるのに、僕を求めているのに、なんにも。
「洋くんが告白してくれた時、本当は奏くんじゃなくてすごくがっかりしたの。
でも洋くんは悪い人じゃないし、それに······やっぱりわたしには奏くんは手が届かないんだって。仕方ないんだって思って。高望みしたって仕方ないじゃない?
しかも友だちがわたしを好きだからって橋渡ししてくれる人になんの希望もないじゃない? だから諦めようと思ったの。そしたら奏くんの近くにもいられる。
洋くんはすごくやさしくて、わたしにとっても良くしてくれる。でもさ、洋くんはやっぱり奏くんじゃないんだよ。
聡子ちゃんと付き合うって聞いて、すごく悔しかったし、後悔した。後から出てきて持っていかれちゃう気がしたし、わたしは聡子ちゃんにはどうしても勝てないし」
抱きしめたままの姿勢で耳元に熱い吐息を幾度なく感じる。そこから体中が熱を帯びて、おかしくなりそうだ。
前に好きだったとはいえ、洋の彼女だ。これ以上、一ミリも進んだらいけない。
なのに体はいつまでも言うことを聞かずにやわらかいその体を抱きしめていたいと、そう言った。
やわらかくて、石鹸の匂いのする、小さな彼女。力を入れたら壊れてしまいそうだ。
「聡子ちゃんがそんなに好き? やり直そうよ、毎日が変わったあの日から。わたしはそうしたいの。奏くんは、そうは思わない? わたしたち、両想いだってわかったんだもの、修正したい······」
白いペンキをぶちまけたら、ここ最近起こったすべてのことが変わるのかな?
掃除当番や、バスケットボール、あの子のために打ったスリーポイントシュートも。
全部なくなって、過去、理央が好きだった自分に戻るのか。悩ましい思いを抱えて、背を丸めて歩いていたあの頃に。
そろそろと理央は顔を上げると、首を少し傾けてそっと僕に近づいてきた。
立場は逆だけど、あの日の再現のように。
親友の恋人を盗ってしまおうかと思うほど好きだったのに、あの気持ちはどこに消えてしまったんだろう。
答えは本当はわかっていた。
この心の中に――。
「やめようよ。もう終わったんだよ」
僕は理央の両肩をそっと押した。ほんの少しの勇気が僕の心の奥の方から顔をのぞかせた。
理央は驚いた顔をしていた。信じられない、というように大きく目を見開いていた。
そして僕の手首を握ると、強引に自分のジャケットの内側に誘い込んだ。
セーターの内側になにがあるのか、知らないわけはなかった。そこにはささやかな膨らみがあるはずだ。
手を振り払おうとした。
こんなことをしていいはずがない。すべてが本当に崩れて、元通りにならなくなるから――。
僕のセーターの裾を掴んだまま、離そうとしない。
動揺する。
理央は僕を離さない。
その小さな手で、僕らは繋がっていた。
電話なんかより、しっかり。僕は宵闇の中、彼女の質感を確かに感じていた。
「ねぇ、理央。僕は君にキスしたこともあるけど、でも今は聡子と付き合ってるんだ。軽はずみなことはしたくないよ。誤解されたくないんだ」
まだ手は離れない。
彼女は細いため息をついた。
「聡子ちゃんが好きなの?」
「······うん、多分だけど。かなり惹かれてる」
「そうだよね、聡子ちゃんだもんね」
理央の手はそっと、彼女の膝の上に戻った。
なにか言いたげで、言葉は出てこない。
僕らは膠着状態だった。
僕と聡子の間にも、理央たちみたいな約束があれば、僕は飛んで帰るのに、と今更なことを思う。
僕はベンチに座ったままだ。いつだって自由に立ち上がることができるのに。
僕の電話はこれっぽっちも僕を呼び出してはくれそうになかった。そういう習慣がなかったんだから、期待しても仕方ない。
聡子が、クリームソーダをカラカラとかき回す音が懐かしくなる。
「ねぇ、キスしようよ」
え、と思った。冷や汗をかく。心臓が戸惑って大きな音を立てる。
「なんでそうなるの? 僕のしたことをまだ怒ってるから? それとも洋と上手くいってないの?」
理央はそのつぶらな瞳に、常夜灯の光を映して僕を見た。そうして僕の手を持ち上げると、その手の甲にやわらかい唇を押し付けた。
ダメだ。
避けられない。
この手を振り払うことができない。
ここより先に進んだら、すべてがダメになってしまう。僕らは同じ線上にいながら、まるでサーカスの綱渡りのようにいつも危険なバランスで成り立っていたんだ。
洋が、聡子が、目の裏にちらつく。
「奏くんがキスしてくれた時、奏くんの気持ちに素直に応えればよかったって、ずっと後悔してたの······」
「理央、でもそれは」
「わかってる、皆を傷つけるってこと。でも時には他人を傷つけても手に入れたいものがあるんだよ」
情けないことに動けなかった。
理央の唇が僕の荒い手の甲に触れるまで、見ていることしかできなかった。
欲望、期待、衝動。それらのものが僕に満ちる。
彼女が唇をつけた左手の甲が熱い。火傷したみたいだ。
体中が心臓になったみたいに早鐘を打つ。
唇を奪いたい。貪るように、何も考えずに。
理央はつぶらな瞳に常夜灯を照らして、少し潤んだ目で僕を見つめている。
「わたし、まだ洋くんとはキスしたことないの」
それは僕の知っている彼女ではなかった。
いつもの幼い笑顔で僕たちをホッとさせる彼女ではなかった。
そこにいるのは一人の女性だった。
「ね、いろんなこと、やり直そうよ。今ならまだ、奏くんも戻れるんじゃない?」
「······なにを? 僕は聡子を大切に思い始めてる。もう遅いよ。誰も傷つけたくないんだ」
「でもわたしのこと、好きだって言ったじゃない。無理にキスもしたじゃない。
ほんのこの間のことだよ? 心変わり、早くない? 思い出して、無理にキスするほど好きだった気持ち」
「ねぇ、落ち着いてよ。どうしたんだよ、いきなり。いつもの理央らしくないよ」
そこまで言うと理央は僕にぶつかるように抱きついてきた。反動でひっくり返らなくてよかった。
彼女が傷つかないよう、しっかり抱き留めた。
「――誰にもあげない」
ひっく、ひっく······と理央の泣き声は尾を引いて公園に響く。舗道を歩く足音もなく、どこまでも二人きりだった。
あんなに好きだった彼女が今、腕の中にいる。
ごく近いところで僕を求めている。
今の彼女は洋のものじゃない。ただの理央だ。
理央は白い手をそっと伸ばすと、僕の首筋に手をやった。ひんやりしている。外気で冷えたに違いない。こんなところにずっといるわけにいかない。
その冷たい腕は僕の首の後ろまで回され、彼女は腰を浮かせて、耳元に軽くキスした。温かい吐息。少し震えていた。
動けなかった。抱き留めていることしか。あんなに好きだった女の子が腕の中にいるのに、僕を求めているのに、なんにも。
「洋くんが告白してくれた時、本当は奏くんじゃなくてすごくがっかりしたの。
でも洋くんは悪い人じゃないし、それに······やっぱりわたしには奏くんは手が届かないんだって。仕方ないんだって思って。高望みしたって仕方ないじゃない?
しかも友だちがわたしを好きだからって橋渡ししてくれる人になんの希望もないじゃない? だから諦めようと思ったの。そしたら奏くんの近くにもいられる。
洋くんはすごくやさしくて、わたしにとっても良くしてくれる。でもさ、洋くんはやっぱり奏くんじゃないんだよ。
聡子ちゃんと付き合うって聞いて、すごく悔しかったし、後悔した。後から出てきて持っていかれちゃう気がしたし、わたしは聡子ちゃんにはどうしても勝てないし」
抱きしめたままの姿勢で耳元に熱い吐息を幾度なく感じる。そこから体中が熱を帯びて、おかしくなりそうだ。
前に好きだったとはいえ、洋の彼女だ。これ以上、一ミリも進んだらいけない。
なのに体はいつまでも言うことを聞かずにやわらかいその体を抱きしめていたいと、そう言った。
やわらかくて、石鹸の匂いのする、小さな彼女。力を入れたら壊れてしまいそうだ。
「聡子ちゃんがそんなに好き? やり直そうよ、毎日が変わったあの日から。わたしはそうしたいの。奏くんは、そうは思わない? わたしたち、両想いだってわかったんだもの、修正したい······」
白いペンキをぶちまけたら、ここ最近起こったすべてのことが変わるのかな?
掃除当番や、バスケットボール、あの子のために打ったスリーポイントシュートも。
全部なくなって、過去、理央が好きだった自分に戻るのか。悩ましい思いを抱えて、背を丸めて歩いていたあの頃に。
そろそろと理央は顔を上げると、首を少し傾けてそっと僕に近づいてきた。
立場は逆だけど、あの日の再現のように。
親友の恋人を盗ってしまおうかと思うほど好きだったのに、あの気持ちはどこに消えてしまったんだろう。
答えは本当はわかっていた。
この心の中に――。
「やめようよ。もう終わったんだよ」
僕は理央の両肩をそっと押した。ほんの少しの勇気が僕の心の奥の方から顔をのぞかせた。
理央は驚いた顔をしていた。信じられない、というように大きく目を見開いていた。
そして僕の手首を握ると、強引に自分のジャケットの内側に誘い込んだ。
セーターの内側になにがあるのか、知らないわけはなかった。そこにはささやかな膨らみがあるはずだ。
手を振り払おうとした。
こんなことをしていいはずがない。すべてが本当に崩れて、元通りにならなくなるから――。