「ごめんね」と囁いたその声はくすぐったいほど小さく、彼女は不安そうな顔をしていた。
それに対して「大丈夫だよ」と笑える度量は僕にはなかった。
どんなサプライズがやって来たらこんなことになるのか、とりあえず最悪だ。もう謝ったじゃないか、理央にも、洋にも。
それともまだ粛清が必要なんだろうかと僕は疑って考えた。
ほかの皆が楽しそうでも、僕はちっともこの状況を楽しめなかった。
聡子が握ったままだった指を、僕はするりと抜き取った。彼女の滑らかな指はどこにも引っかかることなく僕の指を逃がしてくれた。
でもその手の持ち主は焦った顔をして僕を見た。
とりあえずメニューを、と聡子がテキパキ二人に進める。「どれにしようか?」と理央が純粋な好奇心でメニュー表を開くと「甘いものがいい」と洋は乱暴にページをめくった。
いつもあんなに横暴だったか?
そんなことはない。いつだって洋は理央に弱くて、とにかくやさしくしてきた。
いつもと違う洋の態度に僕は緊張した。
なのに皆は何事もなかったかのように話を進めていた。
理央が「食べ切れるかな」と中の一つを指さすと、洋は「半分こにすれば?」と理央の顔を覗き込んで言った。理央はほんのり赤くなって、じゃあそれで、と答えた。
いつもしているような、なんでもない学校生活についての話が続いた。
昨日の英語のミニテスト、何組の誰と誰が別れたらしいよ、外部模試の結果はヤバい、コンビニの新しいスイーツ食べてないんだよまだ。
僕は薄まって水になったコーラを恨めしく思った。こういう時こそコーヒーをちびちび飲むふりをすべきなのに。
場は一見、和やかなようで緊張している。
多分、僕のせいだ。
普段からほとんど喋らない僕だけど、やっぱり無言だと皆も都合が悪いらしい。
だけどなにに合わせて話せばいいのかわからない。話のテーマも、この待ち合わせの目的も、僕にはわからないことだらけだった。
その時、向かいに座った理央が僕の目を下から覗き込むように見た。
すっかり気を抜いていた僕は、驚いて体が反り返るところだった。頬が熱くなるのがわかる。
ここに来てまだ理央を好きらしい僕は「バカだな」と思った。本当なら有り得ない。まだ好きなんて有り得ないだろう。
理央はいつも通り真っ黒な瞳をくりっとさせて「奏くん」とまろやかに僕の名を呼んだ。
本当にバカげたことにドキドキが止まらなかった。
ダメだ、ダメだ、ダメだ。
嫌いになんてなれない――!
改めて理央の目をじっくり見ると、彼女は問いかけるような瞳をしていた。
なにを言いたいのか汲み取ろうと試みる。
理央が僕に送ろうとしている信号を、僕は間違えずに受け取ろうと思った。
優秀なキャッチャーみたいに。
······ところが健闘虚しく、ボールはキャッチャーミットからこぼれ落ちてストライクだと思ったその球はファウルボールになった。
「話し合ったんだけど」
身を乗り出したまま理央が話し始めると、続きを洋が話す。
「今まで俺たちと奏が三人でいたみたいに、そこに片品さんが加わってもいいだろう? な?」
『今までとなにひとつ変わらない』というラッピングされたその言葉にどうリアクションしたらいいのか困惑する。
そもそも僕に決定権があるの?
「奏が嫌だったらいいの、断って。ほんとに。無理にってわけじゃないから······」
いつもは強気な聡子が俯きがちにしょぼしょぼ話した。言葉じりがすぼんで消え入る。
「どうして?」
「わたしが言ったの。奏くんと聡子ちゃんも仲良くなったし、これから四人で仲良くできたらいいなと思って。その······奏くんのいないところで話し合ったのは悪いことをしたと思うんだけど」
理央のシュンとした顔を見るとなにも言えなくなった。僕の方が申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
理央と聡子の顔には『黙っててごめん』と同じ紙が貼ってあった。剥がすことはできなそうだった。
「まぁ、大体今まで通りじゃん?」
頭の後ろで手を組んで、目線上目に洋が言う。
そう、確かに、大体。
でも、本当に、大体でしかなかった。
僕と理央、そして洋、更に聡子。
夏が過ぎて秋の足音が聞こえるようになった、たったそれだけの時間でそれぞれの関係は微妙なカーブを描いて変化し続けていたのに。
心が揺れる。
小さな痛みが走る。
「いいよ」
僕はそう言った。
◇
「女ってなに考えてるかマジでわかんねぇよな」
夜道をヤロー同士で歩きながら、静かな住宅街の舗道の上で洋はそう言った。
「洋にわかんないなら、僕にはもっとわからないよ」
しばらく沈黙が続き、洋の引きずるような足音が夜の中を追いかけてくる。
あ、目の前に見えるあの明るい星は惑星かもしれないなんて思ってる。木星か、金星か。そんなに詳しくはない。
はぁーっと夜の空気が吹き飛ぶような深いため息を洋は吐いて、こっちを向いた。
いつもと同じ顔、してる。
「悪い。理央はやれないわ」
「······そういう話題は繰り返すもんじゃないだろう?」
「そうかもしんないけど。俺にも悩んだり迷ったりすることあるんだよ」
僕よりずいぶん背が低いくせにいつも態度はデカい洋。僕は洋が嫌いではない。
嫌いではないから、言うまでもなく複雑なんだ。
「まぁ、少しあいつらに付き合ってみてよ」
「······なんだよ、女子の味方なのか」
「女子の敵にはなれねぇよ」
闇に散らばるように洋が笑った。
本当のところ、洋はいつもと変わらないようで僕は相当安心した。
僕たちの過ごしてきた長い時間はまだ繋がっている。
未来がどうなるのか、それはちっともわからなかった。
でも今、ここにあるものは確かだということ、それは僕にもわかったし、深い安心感を感じた。それはすごく刹那的なものかもしれないけれど。
それに対して「大丈夫だよ」と笑える度量は僕にはなかった。
どんなサプライズがやって来たらこんなことになるのか、とりあえず最悪だ。もう謝ったじゃないか、理央にも、洋にも。
それともまだ粛清が必要なんだろうかと僕は疑って考えた。
ほかの皆が楽しそうでも、僕はちっともこの状況を楽しめなかった。
聡子が握ったままだった指を、僕はするりと抜き取った。彼女の滑らかな指はどこにも引っかかることなく僕の指を逃がしてくれた。
でもその手の持ち主は焦った顔をして僕を見た。
とりあえずメニューを、と聡子がテキパキ二人に進める。「どれにしようか?」と理央が純粋な好奇心でメニュー表を開くと「甘いものがいい」と洋は乱暴にページをめくった。
いつもあんなに横暴だったか?
そんなことはない。いつだって洋は理央に弱くて、とにかくやさしくしてきた。
いつもと違う洋の態度に僕は緊張した。
なのに皆は何事もなかったかのように話を進めていた。
理央が「食べ切れるかな」と中の一つを指さすと、洋は「半分こにすれば?」と理央の顔を覗き込んで言った。理央はほんのり赤くなって、じゃあそれで、と答えた。
いつもしているような、なんでもない学校生活についての話が続いた。
昨日の英語のミニテスト、何組の誰と誰が別れたらしいよ、外部模試の結果はヤバい、コンビニの新しいスイーツ食べてないんだよまだ。
僕は薄まって水になったコーラを恨めしく思った。こういう時こそコーヒーをちびちび飲むふりをすべきなのに。
場は一見、和やかなようで緊張している。
多分、僕のせいだ。
普段からほとんど喋らない僕だけど、やっぱり無言だと皆も都合が悪いらしい。
だけどなにに合わせて話せばいいのかわからない。話のテーマも、この待ち合わせの目的も、僕にはわからないことだらけだった。
その時、向かいに座った理央が僕の目を下から覗き込むように見た。
すっかり気を抜いていた僕は、驚いて体が反り返るところだった。頬が熱くなるのがわかる。
ここに来てまだ理央を好きらしい僕は「バカだな」と思った。本当なら有り得ない。まだ好きなんて有り得ないだろう。
理央はいつも通り真っ黒な瞳をくりっとさせて「奏くん」とまろやかに僕の名を呼んだ。
本当にバカげたことにドキドキが止まらなかった。
ダメだ、ダメだ、ダメだ。
嫌いになんてなれない――!
改めて理央の目をじっくり見ると、彼女は問いかけるような瞳をしていた。
なにを言いたいのか汲み取ろうと試みる。
理央が僕に送ろうとしている信号を、僕は間違えずに受け取ろうと思った。
優秀なキャッチャーみたいに。
······ところが健闘虚しく、ボールはキャッチャーミットからこぼれ落ちてストライクだと思ったその球はファウルボールになった。
「話し合ったんだけど」
身を乗り出したまま理央が話し始めると、続きを洋が話す。
「今まで俺たちと奏が三人でいたみたいに、そこに片品さんが加わってもいいだろう? な?」
『今までとなにひとつ変わらない』というラッピングされたその言葉にどうリアクションしたらいいのか困惑する。
そもそも僕に決定権があるの?
「奏が嫌だったらいいの、断って。ほんとに。無理にってわけじゃないから······」
いつもは強気な聡子が俯きがちにしょぼしょぼ話した。言葉じりがすぼんで消え入る。
「どうして?」
「わたしが言ったの。奏くんと聡子ちゃんも仲良くなったし、これから四人で仲良くできたらいいなと思って。その······奏くんのいないところで話し合ったのは悪いことをしたと思うんだけど」
理央のシュンとした顔を見るとなにも言えなくなった。僕の方が申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
理央と聡子の顔には『黙っててごめん』と同じ紙が貼ってあった。剥がすことはできなそうだった。
「まぁ、大体今まで通りじゃん?」
頭の後ろで手を組んで、目線上目に洋が言う。
そう、確かに、大体。
でも、本当に、大体でしかなかった。
僕と理央、そして洋、更に聡子。
夏が過ぎて秋の足音が聞こえるようになった、たったそれだけの時間でそれぞれの関係は微妙なカーブを描いて変化し続けていたのに。
心が揺れる。
小さな痛みが走る。
「いいよ」
僕はそう言った。
◇
「女ってなに考えてるかマジでわかんねぇよな」
夜道をヤロー同士で歩きながら、静かな住宅街の舗道の上で洋はそう言った。
「洋にわかんないなら、僕にはもっとわからないよ」
しばらく沈黙が続き、洋の引きずるような足音が夜の中を追いかけてくる。
あ、目の前に見えるあの明るい星は惑星かもしれないなんて思ってる。木星か、金星か。そんなに詳しくはない。
はぁーっと夜の空気が吹き飛ぶような深いため息を洋は吐いて、こっちを向いた。
いつもと同じ顔、してる。
「悪い。理央はやれないわ」
「······そういう話題は繰り返すもんじゃないだろう?」
「そうかもしんないけど。俺にも悩んだり迷ったりすることあるんだよ」
僕よりずいぶん背が低いくせにいつも態度はデカい洋。僕は洋が嫌いではない。
嫌いではないから、言うまでもなく複雑なんだ。
「まぁ、少しあいつらに付き合ってみてよ」
「······なんだよ、女子の味方なのか」
「女子の敵にはなれねぇよ」
闇に散らばるように洋が笑った。
本当のところ、洋はいつもと変わらないようで僕は相当安心した。
僕たちの過ごしてきた長い時間はまだ繋がっている。
未来がどうなるのか、それはちっともわからなかった。
でも今、ここにあるものは確かだということ、それは僕にもわかったし、深い安心感を感じた。それはすごく刹那的なものかもしれないけれど。