ごめん、と小さな声で呟いて、ポケットティッシュで理央は顔を拭いた。
それでもまだ涙が止まらないようで、しばらく目からティッシュを離せないでいた。
なにも言えなかった。
そんなんじゃいけないのはわかってる。
でも、なんにも。
僕は理央のすすり泣く声を聞きながら、一人、考えていた。
僕の好きな女の子が、僕を好きでいてくれている。
こんなにしあわせなことはない。
······ないはずだった。
なぜか頭の中に片品が出てきて、そんな僕に悲しげに微笑んだ。同情だろうか? 多分、そんな感じ。
理央の気持ちを聞いたところで、僕が気持ちを伝えたところで、なんの進展もない。
そこには越えなければならない壁があって、その壁を壊したいとは到底僕には思えなかった。
それを壊すくらいなら、僕は自分の想いだけを抱えて生きていってもいいんじゃないかと思った。
そうだろう?
かけがいのないものは人それぞれ違う。
僕が失いたくないものリストのトップいくつかに、あいつがいた。······悲しむ顔は見たくない。
理央はまだ肩を震わせて泣いている。
こういう時、どうしてあげたらいいのか、そういう知恵を僕は持たない。
なにもせず、木偶の坊のようにただベンチに座っていた。
相変わらず、あるはずのない蝉時雨が耳の奥で僕の心を揺する。
なにを期待していたんだろう、僕は。
理央が僕を好きだったら、両想いだったらハッピーエンドになると、そう思っていたんだろうか?
おめでたすぎるだろう⋯⋯。
「このことは、洋くんには言わないでおいて」
びっくりして言葉を失った。
「知られたくないの、本当の気持ち。でもね、洋くんが嫌いなわけじゃないんだよ、本当に。洋くんの好きなところ、いっぱいある。毎日少しずつ知っていく。だから、これからも付き合ってくつもり。
洋くんがどういうつもりで奏くんとわたしを二人きりにしたのか、わかるようでわからないけど、洋くんの考える『最悪の結果』にはしないで。
奏くん、お願い。我儘なのはわかってるけど」
理央にはわかるその答えは僕には見つけられなかった。
洋を傷付けたくないという気持ちは僕にもあるけど、だからと言って嘘をつき続けるのはどうなのか、それは良くないことのようにしか思えなかった。
洋の知りたいのはそういうことじゃない、そう伝えたかった。
背筋をすっと伸ばして、泣き止んだ理央は前を見ていた。まるでなにかの教本に出ている『座り方の例』のようだ。
彼女は泣くのをやめて、多分、洋の彼女に戻った。
その証拠に立ち上がって荷物を持つと「じゃあね」と言って立ち去っていった。しっかりした歩みだった。
僕は追いかけなかった。手さえ伸ばさなかった······。
◇
その晩、ベッドでいつもと変わらない天井を見るではなく見ていると、乾いた空気の中にチリンとよく知った音が今日も鳴った。
なんていうかせっかちなやつだよな、と思ってニューバランスを避けて出しっぱなしだった夏物のサンダルを履く。
それは間抜けな姿だったけど、今はこれが一番お似合いのような気がした。
「よお」
「おう」
男同士っていうのはどうも愛想に欠ける。あっても仕方ないけど。お互いの顔を、まるで久しぶりに会った人のように見合う。
先に目を逸らしたのは洋の方だった。
引きずる自転車のスポークの音が夜の隙間にカラカラ回る。なにも言わずに歩き出す。
「俺さぁ、フラれてもいいかなって思えるようになってきた」
「……なんでだよ」
「いや、だってさ、好きな子の一番じゃないなんて厳しくない? 俺には厳しい気がする。そんなんで毎日顔を合わせて、どんな顔しろって言うんだよ」
まさかそんなことを言い出すとは思わなかった。
想定外。
なんて言っていいのか、わからなくなる。言葉はいつだって迷路の中だ。
洋はなにがあっても理央の手を離さないと思っていた。
カラカラ……という音が言葉の続きを綴る。
僕は空っぽになったような気がして、無意識に足を動かしていた。
どうしたらいいんだろう? 一番いい選択は?
理央の決意を無駄にしないために、どうしたらいいんだろう?
こんな時、隣に片品がいたらなんて言うんだろう? やっぱり悲しそうな微笑みを浮かべるんだろうか?
いや、そんなことはしないか。彼女は僕に同情しない。
「ごめん、洋。僕がフラれたから。殴ってもいいよ」
すらすらと嘘は口から滑り落ちた。
銀色に光る滑り台より余程、優秀だった。
僕の口がこんな風に上手く動くとは思ったことがなかった。
洋は黙ったまま、雄弁なのは今、自転車だけだ。
闇に吸い込まれるようにカラカラと回り続ける。
考えている。僕が理央を好きだと、思ったことはなかったんだろうか?
キュッと小さくブレーキ音が鳴った。
公園前だった。
洋は自転車のスタンドを立てると、僕の方を向いた。そして腕を振り上げ、そのまま……ぴたりと僕の顔の前で拳を止めた。
防ごうか、それとも殴られた方がいいのか、焦った。でもそれ以上、腕は伸びてこなかった。
「自分より身長あるやつ、殴る気しねぇ」
洋はそのまま自販機に向かうと、コーラを二本買ってきた。そして一本を僕に渡した。
「財布持ってきてないよ」
「別にいいよ。失恋したバカな男を励ましてやろうっていう、なんつーかやさしさってやつ?」
「いらんわ、そんなやさしさ」
いいからもらっとけ、と洋は白い光の中でボトルをプシュッと開けた。続けて僕もキャップを捻る。同じ音がして、蓋が開いた。
どちらから言うまでもなく、あの極彩色の真新しいベンチに腰を下ろす。
なぜかこんな夜にはコーラが似合う気がした。
温かいコーヒーより。例え肌寒くても。
それでもまだ涙が止まらないようで、しばらく目からティッシュを離せないでいた。
なにも言えなかった。
そんなんじゃいけないのはわかってる。
でも、なんにも。
僕は理央のすすり泣く声を聞きながら、一人、考えていた。
僕の好きな女の子が、僕を好きでいてくれている。
こんなにしあわせなことはない。
······ないはずだった。
なぜか頭の中に片品が出てきて、そんな僕に悲しげに微笑んだ。同情だろうか? 多分、そんな感じ。
理央の気持ちを聞いたところで、僕が気持ちを伝えたところで、なんの進展もない。
そこには越えなければならない壁があって、その壁を壊したいとは到底僕には思えなかった。
それを壊すくらいなら、僕は自分の想いだけを抱えて生きていってもいいんじゃないかと思った。
そうだろう?
かけがいのないものは人それぞれ違う。
僕が失いたくないものリストのトップいくつかに、あいつがいた。······悲しむ顔は見たくない。
理央はまだ肩を震わせて泣いている。
こういう時、どうしてあげたらいいのか、そういう知恵を僕は持たない。
なにもせず、木偶の坊のようにただベンチに座っていた。
相変わらず、あるはずのない蝉時雨が耳の奥で僕の心を揺する。
なにを期待していたんだろう、僕は。
理央が僕を好きだったら、両想いだったらハッピーエンドになると、そう思っていたんだろうか?
おめでたすぎるだろう⋯⋯。
「このことは、洋くんには言わないでおいて」
びっくりして言葉を失った。
「知られたくないの、本当の気持ち。でもね、洋くんが嫌いなわけじゃないんだよ、本当に。洋くんの好きなところ、いっぱいある。毎日少しずつ知っていく。だから、これからも付き合ってくつもり。
洋くんがどういうつもりで奏くんとわたしを二人きりにしたのか、わかるようでわからないけど、洋くんの考える『最悪の結果』にはしないで。
奏くん、お願い。我儘なのはわかってるけど」
理央にはわかるその答えは僕には見つけられなかった。
洋を傷付けたくないという気持ちは僕にもあるけど、だからと言って嘘をつき続けるのはどうなのか、それは良くないことのようにしか思えなかった。
洋の知りたいのはそういうことじゃない、そう伝えたかった。
背筋をすっと伸ばして、泣き止んだ理央は前を見ていた。まるでなにかの教本に出ている『座り方の例』のようだ。
彼女は泣くのをやめて、多分、洋の彼女に戻った。
その証拠に立ち上がって荷物を持つと「じゃあね」と言って立ち去っていった。しっかりした歩みだった。
僕は追いかけなかった。手さえ伸ばさなかった······。
◇
その晩、ベッドでいつもと変わらない天井を見るではなく見ていると、乾いた空気の中にチリンとよく知った音が今日も鳴った。
なんていうかせっかちなやつだよな、と思ってニューバランスを避けて出しっぱなしだった夏物のサンダルを履く。
それは間抜けな姿だったけど、今はこれが一番お似合いのような気がした。
「よお」
「おう」
男同士っていうのはどうも愛想に欠ける。あっても仕方ないけど。お互いの顔を、まるで久しぶりに会った人のように見合う。
先に目を逸らしたのは洋の方だった。
引きずる自転車のスポークの音が夜の隙間にカラカラ回る。なにも言わずに歩き出す。
「俺さぁ、フラれてもいいかなって思えるようになってきた」
「……なんでだよ」
「いや、だってさ、好きな子の一番じゃないなんて厳しくない? 俺には厳しい気がする。そんなんで毎日顔を合わせて、どんな顔しろって言うんだよ」
まさかそんなことを言い出すとは思わなかった。
想定外。
なんて言っていいのか、わからなくなる。言葉はいつだって迷路の中だ。
洋はなにがあっても理央の手を離さないと思っていた。
カラカラ……という音が言葉の続きを綴る。
僕は空っぽになったような気がして、無意識に足を動かしていた。
どうしたらいいんだろう? 一番いい選択は?
理央の決意を無駄にしないために、どうしたらいいんだろう?
こんな時、隣に片品がいたらなんて言うんだろう? やっぱり悲しそうな微笑みを浮かべるんだろうか?
いや、そんなことはしないか。彼女は僕に同情しない。
「ごめん、洋。僕がフラれたから。殴ってもいいよ」
すらすらと嘘は口から滑り落ちた。
銀色に光る滑り台より余程、優秀だった。
僕の口がこんな風に上手く動くとは思ったことがなかった。
洋は黙ったまま、雄弁なのは今、自転車だけだ。
闇に吸い込まれるようにカラカラと回り続ける。
考えている。僕が理央を好きだと、思ったことはなかったんだろうか?
キュッと小さくブレーキ音が鳴った。
公園前だった。
洋は自転車のスタンドを立てると、僕の方を向いた。そして腕を振り上げ、そのまま……ぴたりと僕の顔の前で拳を止めた。
防ごうか、それとも殴られた方がいいのか、焦った。でもそれ以上、腕は伸びてこなかった。
「自分より身長あるやつ、殴る気しねぇ」
洋はそのまま自販機に向かうと、コーラを二本買ってきた。そして一本を僕に渡した。
「財布持ってきてないよ」
「別にいいよ。失恋したバカな男を励ましてやろうっていう、なんつーかやさしさってやつ?」
「いらんわ、そんなやさしさ」
いいからもらっとけ、と洋は白い光の中でボトルをプシュッと開けた。続けて僕もキャップを捻る。同じ音がして、蓋が開いた。
どちらから言うまでもなく、あの極彩色の真新しいベンチに腰を下ろす。
なぜかこんな夜にはコーラが似合う気がした。
温かいコーヒーより。例え肌寒くても。