掃除当番のない日も、気がつくと片品といることが多くなって、今日も彼女の乗るバス停まで一緒に歩いている。噂話がどんどん一人歩きする。

 彼女の白い長袖のシャツは二つ、三つにまくられ、その白い手首には彼女のお気に入りらしいパールホワイトのシュシュが巻かれていた。
 彼女はそれを使って髪を結ぶ。掃除の時や、数学の証明問題を解く時。
 僕は少しずつ、彼女のことを知っていった。

「あのさぁ、わたしが言うのもなんなんだけど、どうなってんの?」
 今は結ばれてない細い髪が、秋の風に揺れる。彼女はそっともつれた髪に指を通した。
「どうってなにも? 片品が知ってる以上のことはないと思うけど?」
 片品は言うべきことかどうか迷ってるようだった。口元が今にも言葉を押し出しそうに見えた。

 相変わらず僕はなにを言うこともできず、彼女の隣を歩いていた。
「理央、おかしくない?」
「······ああ」
 ああ、そうだね、と言いたかったけど、口から出たのは中途半端なため息のようなものだった。
 それは相槌だったのか、ため息だったのか、微妙なものだった。

「藤沢くんのことは置いておいて、あの小さい子、なんだっけ、C組の三枝くん」
 洋の名前が出て、軽く動揺する。
 僕よりきっと勘のいい片品が言い出すことが、それを待つ一瞬の間が怖かった。

「疲れてる? 顔色悪くない?」
「そんなことないよ」
「······わからなくもないけど」

 二人、無言になった。
 なにをわかってるのか聞いてみたいけど、それが怖い。なにか冗談めいたことの一つでも言って、話の方向を変えたいと思ったけれど、空っぽの脳みそではなにも思い浮かばなかった。

「あのさ、わたしの前で無理しなくていいよ」
「?」
「だからさ、確かにわたしは藤沢くんのことを好きだって言ったけどさ、そういうの抜きにして、なんでも相談してほしい。『友だちからで』って約束したじゃない? だから、悩んでることがあるなら遠慮しないで愚痴でもいいから、なんでも言っていいよ。むしろ、なんでも知りたいよ」

 彼女のバス停が目に入ると、いつもと違って「じゃあね」と手を振って走っていってしまった。
 いつも一緒にあのバス停に並んでいたと思うと、なんだか手持ち無沙汰だった。
 僕はしばらく彼女の凛とした立ち姿を見ていたけど、彼女は振り向きもしなかった。
 ただ、一度だけ腕時計を見た。
 左手の手首の内側にある文字盤。今どき珍しい皮のバンドだから目を引いた。
 バスが出るのを彼女は確認していた。



 こうなってくるといよいよ事態は複雑になって、僕は誰の味方になればいいのかわからない。
 それが、どんなにバカげたことかはわかってる。
 でも単純に『理央』のことだけを考えているのは違うと思うようになってきた。
 僕自身のためにも守りたいものがあるような気がしたけど、それはなんなのか、本当に大切なのはなんなのか、わかりかねている。

 今まではそんなことはなかった。
 大切なのは理央への想いだけで、ほかはどうでもいいと心から思っていた。

 でもそれが勘違いってやつで、僕には周りが見えてなかったんだ。くもり硝子の向こう側になにがあるのか、それを見ようとは思いもしなかったんだ。
 目の前にあるすべてだけが自分の世界だった。
 それまで閉じていた自分と世界を隔てる扉が、そこには本当はあった。

 その時、チリンと軽やかな金属音が夜の空に響いた。聞き慣れた、洋の自転車のベルだとすぐに気づいた。
 SNSでいつでも繋がれるようになって、こんなのは久しぶりだ。
 でも、会って目を見て話したいことがある。
 僕は放ってあった白いオクスフォードのシャツを羽織って外に出た。急いでいたので、ニューバランスの気に入って買ったスニーカーの踵を踏んでしまう。
 危ないバランスでドアから飛び出した。

「お前なに焦ってんの?」
「いきなり来るからだろう?」
「あ、片品さんと電話でもしてた? それは俺が悪かった」
「してねぇよ」
 自転車を軽く蹴飛ばす。洋が転びかけたふりをして笑う。なんだよもう、と思いつつ、僕も笑った。

 僕たちは整然とした街並みの緩やかな坂道を、洋の自転車を引きずりながら歩いた。
 特にこれといった用事もなかったので、コンビニでコーヒーを買い、ついでにポテトを買う。
 その間に洋はコーラのボトルと一緒に、カゴの中に弁当とおにぎりと小さいイチゴサンドクラッカーを放った。

 夕食を食べずに抜け出してきたんだなと思った。
 まったく洋の家といったら、勉強させることには熱心なのに、それ以外の息子の素行にあまり興味がない。
 僕が紙袋にポテトを詰めてもらう間、コンビニの電子レンジのターンテーブルはマイペースにゆっくり回る。
 コーヒーはアイスで、そろそろホットでもよかったかもしれないと夜の街に出る。夜気が頬を撫でる。

 自転車特有のジャリジャリ言うタイヤの音を聞きながら、一言も話さない。
 この先にキレイに整備された子供向けの公園がある。この辺はまだ整備されたばかりの新しい区画だ。
 僕たちは公園に着くとまだ真新しい赤と黄色で塗られたベンチに座り込んだ。
 洋が弁当を出して、歯で片方を噛んで割り箸をわった。

「奏、食ったの? おにぎりやろうか?」
「僕は食べたよ。一生懸命食えよ」
 海苔の貼り付いた白米、チクワの磯辺揚げ、白身魚のフライ。そういったものがひとつの箱に詰まっていた。
 洋が食べてる間、ポテトを齧る。サクサクとは言い難いものでも温かい。

「二人きりでゆっくりすんの、久しぶりじゃね?」
「かもしれないなぁ。洋はそもそも塾で忙しいし、理央と付き合い始めたから」
「······そうだな」
 タルタルソースが白身魚からぼてっと剥がれるようにダイブする。衣ごと剥がれたようだ。

「なぁ、戻れるかな、俺たち」
「どんな風に?」
「バカ、昔みたいにだよ。一緒にいて楽しかった頃」
「理央はどうするんだよ」
「今は置いておいてさ」

 公園の周りにはぐるりと街灯が立っていて、空は明るく、見える星は二つ、三つだった。
「確かに理央は洋の管轄だけど、除け者にはできないだろう?」
「······」
 箸はチクワを持ち上げたところで止まった。
「理央と付き合ったのは間違いだったかな? 俺、運命感じたんだけど」
 今度は僕が黙る番だった。――どこまで黙っているかが問題だった。