「あー、かったるい! 国語は全般苦手なんだよ」
「苦手なのが国語だけで良かったじゃないか」
「そういうわけにもいかないよ。なにしろ国立、期待されてるからさ。どの教科もそこそこ取れるようにしないと」
 竹岡はふっと目を逸らした。

 なぜならそここそが彼のウィークポイントだからだ。勉強に振り回される自分、親の期待に応えたい自分、そういったものに彼はいつも苦しめられている。
 そうやって苦悩する姿の彼もまた、片品のように美しい造形だと思わせた。

 芸術科目の移動教室は選択が竹岡とは別なので、途中で分かれるとこになる。「じゃあな」と彼は手を振って音楽室の方向に歩いていった。

 僕の選択は美術だった。
 授業でやってることはさっぱりその意味するところがわからなかったけれど、言われた通りに作業をこなした。作業をすること自体は嫌いじゃない。

 今やっているのは自画像。
 自分の写真を拡大してキャンパスに下描きし、派手な色でパーツごとに塗り潰す。ポップアート、即ちアンディ・ウォーホルと言ったところか。

 それが芸術なのかと言われたら、心のこもってない作業にすぎない気がするが、アンディ・ウォーホルと言われたら芸術に昇格するのだから不思議だ。
 今日もアクリル絵の具と格闘だ。



 竹岡と分かれて廊下を曲がると、そこには道具を抱えた理央が、隠れるように立っていた。
「わっ」と大きな声を出されたら驚いて仰け反るところだった。
 それくらい彼女は存在感を消して、小さく、こじんまりと角に収まっていた。

「あの」
「なにしてんの? 始まっちゃうよ」
 確か美術を取ってる子の中には理央の友だちもいたと思う。
「待ってたの。あの、言いたいことがあって」
「別にこんなところじゃなくたって」
「······二人きりで話す機会、なかなかないから」

 言われてみればそれはそうだ。
 そんな機会がたくさんあったら、洋が爆発するだろう。



「あのね」
「うん」
「昨日のLINE、意地悪だったよね、ごめん」
「······」
 心の中がまっさらになった。急に心を占めていたあれやこれがなくなって、あとには理央の言葉しか残ってなかった。

「別に片品さんに特別な感情があるわけじゃないの。わたしとあの人ではあまりに差があるし。だけど······奏くんには、とても、とても似合うと思う。意地悪じゃなくて」

 僕は更に言葉を失った。
 それは僕を突き放すような言葉だ。理央はそれを自覚して言っているんだろうか?
「理央、この間は本当にごめん。まだ怒ってても仕方がないと思うけど、嫌わないでほしい」
「そうじゃないの、そういうことじゃないの!」
 思ったより大きな声が出てしまったことに自分で驚いたように、理央は肩を竦めた。

「······そうじゃないの。奏くんに悪気がなかったことは、その······わかってるつもり。でもわたしなんかより、片品さんみたいな人の方がずっと似合うと思うの。だってわたしはこんなだし」

 理央は下を向いてしまった。なにかフォローする言葉をすぐに口にしなければならないと焦った時、僕の後ろの方から教師の靴音が聞こえてきた。
 教室に慌てて滑り込む。
 なにも言えなかったまま。

 絵筆で彩色する間、頭の中はさっきの出来事でいっぱいだった。
 俯いてしまった理央のつむじ、その身長差が僕と理央の距離を感じさせる。
 理央もまた静かに、口を噤んでアクリル絵の具をまだらにならないよう注意して塗っているようだった。

 理央のアンディー・ウォーホルは青のグラデーションを意識したトーンで、教師になにかを言われていた。色の選び方がどうの、と理央の絵の一部を指差して、教師は次の絵に移った。

 理央は物憂げな顔をして、筆を休めた。
 あんな顔は似合わない。
 いつもリスのようにくりくりした瞳で次々に表情を変え、生き生きした小さな生き物、それが理央だ。

 その理央から快活な部分を奪ってしまったのがあの出来事だとしたら、どうやって責任を取ったらいいのかわからない。
 僕はすっかり身を引いて、二人の姿を遠くから見ているようにすればいいのか?

 わからない。

 理央に笑顔を取り戻したい一方、もう一人の僕は彼女をなにがあっても独占したい。そう、例えば彼女が少し悲しく思っても。

 そんな考え方はおかしいと思った。好きな人のしあわせを願うのが正しい恋で、好きな人が多少不幸を感じてもそばにいてほしいと思うのは誤った道を歩くことだ。
 僕はなにを望んでいるのか?

 ――そう、洋の立場に自分がなりたいんだ。あの立ち位置に自分が立ちたいんだ。
 目を見て話して、笑って、手を繋いで歩いて……。
「藤沢、手が止まってる」
 すみません、と言葉が反射的に口をつく。
 すみません、絵を描くより大切な問題に突き当たってるんです。

 僕は漱石の『先生』のように、黙って身を引きたくなかった。誰かのために道を譲る。黙って洋の放ったシュートがゴールを決めるのをただ立ち尽くして見ているように。

 腕を精一杯伸ばしてシュートをカットすることが、僕にはできるはずだった。そのための反復練習は、心の中でも何度もしてきたはずだ。
 ただ一歩、サイドステップを踏んで相手の前に出て、腕を伸ばす。イメージする。
 理央という名のボールが緩い回転をかけながらゴールポストへ向かっていく。

 そして僕の腕は。
 果たしてボールに届くだろうか?