学藝祭の時期が終わり、冬が近づいていた。
 演劇部の練習も基礎トレーニングがメインになり、役者の部員たちは実に面倒くさそうな体力トレーニングや発声トレーニングをこなしていた。結生も無事一週間で検査入院を終え、特に問題もなく部活に合流していた。あれからの様子を見る限り、本当に体調が悪くなって入院したわけではないようだった。そんなことをこっそりと戻ってきた結生に言ったら、
「私、秀先輩にはうそつかないって言ったじゃないですか」
 と軽く怒られた。
 確かに思い返してみれば、何度か言われた気がしないでもない。ただ、結生は僕にうそは言わなくても本当のことを言わないことも多いので、僕は軽くスルーしておいた。
 そんな役者たちのトレーニングの傍ら、僕や雪弥の裏方組は役者組の練習サポートをこなしつつ、イベントスケジュールの調整や道具類の整理に補充と、雑務に追われていた。
「ったく、うちの部はほんと人少なすぎだろ。どうにかしてくれよ~秀」
「どうにかするのは部長のお前だ」
「んなこと言ったって、うちの高校の文化部は強すぎるんだよ。吹奏楽やら美術部やら映像部やらにみんなとられちまうし」
「まあ県大会の成績が違いすぎるからな。僕たちは他にアピールできるところでアピールしていくしかないだろ」
「アピールできるところなあ~」
 備品が収納してある小部屋で個数チェックをしつつ、雪弥はウンウン唸っている。少しうるさい。
「まあ手頃なところで言うなら、卒業式の後にある一般開放の卒業生送別会と、新入生にアピールできる新学期の部活動紹介だろうな」
 僕は隣の唸り声を抑えるために、とりあえず思いつく策を提示してみた。
 卒業生送別会というのは、その名前の通り卒業生を送り出すための会だ。ただし、僕たちの学校は学藝祭同様やや特殊で、保護者や地域の人を招き、有志の部でちょっとした演目の催しをやるのだ。もちろんテーマは「卒業」で、例年美術部や吹奏楽部がハイレベルな展示や演奏を披露し、人気を博している。
 そして新学期早々にある部活動紹介は、言わずもがな新入生に直接アピールできる絶好の機会だ。ただし、毎年人気のある部活は後半に回って印象をかっさらってしまうので、正攻法でやっても勝率はかなり低い。
 つまりは、人数不足で例年希望を出していない卒業生送別会に今年は有志として参加し、印象的な演劇を披露して知名度を高めつつ、新学期の部活動紹介で奇をてらったミニ演劇か何かで新入生への印象付けを行うのがベストだろう。
 備品整理の手を動かしながらそんな持論を展開していると、目論見通り雪弥の唸り声が収まった。想定外だったのは、やけににんまりとした笑みを浮かべて僕の方を見ていたことだ。
「なに?」
「いーや、なんでも。ただ小夜から聞いていた通りだなって思っただけ」
「……うるさいな」
 そっぽを向いて作業を続ける僕を見て、雪弥はくつくつと意地悪く笑う。本当に兄妹揃ってなんなんだ。
 しかしそんなおふざけはすぐに終わり、雪弥は何かを決心したようにパンと手を打った。
「よしっ、じゃあ秀もやる気あるみたいだし、部活後のミーティングで提案してみるか」
「は? やる気? ってか何を?」
「決まってるだろ~!」
 より深まった悪戯っぽい笑みに、僕は自分の判断ミスを悟った。
「より盛り上げるための、卒業生送別劇の案をだよ!」


「してやられた……」
 結生との居残り練後の帰り道、僕は軽い頭痛を覚えていた。
 もちろん、暑さや熱にやられたわけではない。十一月に入って日も随分と短くなっており、辺りはほとんど夜だ。道の脇に立ち並ぶ街灯が行く手を照らし、名前も知らない虫がどこかで鳴いている。
 頭痛の原因は、雪弥だ。あろうことか、今日の部活後ミーティングで議論されたのは、「既に部員全員から賛同を得られている卒業生送別会においてどんな演目をやるか」という内容だった。まだ確定はしていないが、今のところミュージカルとかいうとんでもない案も出ている。勘弁してほしい。
「いや~秀先輩も変わったね~。私としては嬉しい限りだけどっ」
 隣を歩く後輩の影が、ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねた。
「ちなみに結生はいつ言われたんだ?」
「昨日だよ。もちろん、二つ返事でオーケーした!」
「だろうな」
 演劇部の知名度を上げるために新しく演劇をするなんてこと、結生が反対するはずもない。むしろ全力で周囲を巻き込んで策を練りに練って、卒業生全員を感涙の渦に巻き込むにはどうすればいいか、くらいの勢いがあってもおかしくない。事実、今日のミーティングでも一番発言していた。
「ほんとは私から先輩を説得しようとしたんだけどね。雪弥先輩が、『今の秀なら俺でも落とせるから問題ないっ!』って張り切っちゃって」
「あのやろ」
 これは明日にでも絞めておかないといけないな。
 僕が幾ばくかの悲壮な決意を固めていると、少し前を歩く彼女が不意に振り返った。
「そういえば、明日の朝は大丈夫そう?」
 言われて思い出す。明日は演技力向上練習の日だ。
「ああ、大丈夫。今日帰って続き書いたら、多分ちょうどいいくらいだし」
「おーそっか! 明日も楽しみだ~」
 スキップを再開して制服を翻す後ろ姿は、至って普通……もとい、ちょっと変な女子高生だ。風邪をひいているわけでもなければ、怪我をしているわけでもない。健康そのもの……に見えるのに、その実、体内には風邪や怪我よりも厄介な病が巣食っている。
「なあ、結生。あれから体調は大丈夫なのか?」
 僕の問いかけに結生はスキップを止めた。そして勢いはそのままに、くるりと再度反転する。
「問題なしっ。体調は万全、検査結果も好調、と絶好調だよ」
「そっか。そりゃなによりだ」
 僕は内心で胸をなでおろす。といっても、何か特別不安なことがあったわけではない。結生は約束通り一週間で退院したし、その後も特に体調不良で休んだり早退したりといったこともなかった。
 結生が退院してから、既に二週間強。
 彼女は、健康そのもののようだった。
「まっ、私のことはおいといて。そろそろ先輩の小説のラストを飾る聖地も決めちゃお!」
「ああ……聖地、ね」
 どうにも、ここ最近の僕は振り子以上に振り回されている気がしてならなかった。

     ***

 ルーナは前世で聖女として世界中を行脚し、治療の呪いで多くの人を救った。だが、それを良く思わない者たちから身に覚えのない罪を擦り付けられ、大切な人たちを人質にとられ、挙句には死の呪いによって殺されてしまう。「瑠奈」として転生したルーナは、今度は自分の幸せを第一として生きようと決意し、自らのために学び、多くの友達を作って遊び、楽しい毎日を過ごしていた。
 そして高校生となった瑠奈は、初めて恋を経験する。相手は親友である奏の幼馴染、友樹で、奏も友樹のことが好きだった。お互いの気持ちに気づいた瑠奈と奏は、恨みっこなしで想い競うことを誓う。切なくも楽しい三人での日々がしばらく流れたが、ある日、瑠奈は病気で倒れてしまう。しかもその病は、前世に受け、魂にまで刻み込まれた死の呪いが原因のようだった。悲しみに沈む瑠奈だったが、せめて残りの命は親友のためにと、病気のことは伏せ、全力で友樹にアプローチするふりをしつつ、要所では奏に譲るようになる。
 しかし、友樹の気持ちが次第に自分に傾いていることを知ってからは、今度は自身が嫌われるために、奏に嫌がらせをするようになる。前世で散々苦しめられた謀略を参考に、綿密かつ陰湿に、そして最後には自分が主犯とわかるように仕組むことで、目論見通り次第に奏や友樹の不信感を集めていく。病状も進行する中、遂に瑠奈は、三人の思い出の品を盗み壊すことで決着を付けようとする。前世に続き、結局は他人のために命を散らす自分に苦笑しつつ迎えた最期の場所で、瑠奈が下した決断とは。そして三人の絆の結末やいかに――。

     ***

「うーん……」
 翌日の放課後。
 僕は自分の書いた小説のあらすじを読みつつ、正門前で結生を待っていた。
 今日は部活がオフで、普通ならさっさと帰るところだが、ここ最近は結生と出かけることが多かった。目的は昨日も言っていた、聖地探しだ。
 聖地というと大げさだが、いわば小説を書くためのモデルとなる場所のことだ。結生の協力のおかげで小説も随分と書き進んだのだが、後半がどうにも煮詰まっていた。そんなことを結生に相談したら、「じゃあ聖地とか決めてみたらどうかな!」とやたら嬉しそうに提案されたのだ。
「聖地、聖地ねえ……」
 生徒でごった返す正面玄関の隅で、僕はもう一度自身の小説を見返す。
 聖地探し、といっても行き先はまるで決まっていない。小説の展開に見合った、情景的にも見栄えしそうな場所を、その日の気分で適当に訪れ見ているだけだ。今日だってまだどこに行くかは決まっておらず、とりあえず授業中に考えた候補から結生の意見を聞こうと思っている。
 今日の候補は三つ。
 海に臨む崖と、街が一望できる高台と、近所の小さな公園だ。それぞれに理由はあるが、さてどうしたものか。
「せーんぱいっ! 待った?」
 僕がウンウン唸っていると、唐突に明るい声が割り込んできた。そして破顔した顔がにゅっと視界の端に現れる。
「おう結生。少しだけな」
「ちょっと、こういう時は『全然待ってないよ』とか『今来たとこだよ』って言うんだよ!」
「チャイム鳴ってから二十分だぞ。同じ学校の、それも遠慮する必要のない後輩に気を遣ったうそなんて言う必要ない」
「もうっ」
 やや不貞腐れ気味に頬を膨らませる結生だが、こういう時は実はあんまり怒っていない。本当に怒っている時は、やたらと怖い笑顔を浮かべるか無表情になるので、表情豊かなときはまだまだ大丈夫だ。
「それより今日行くとこの候補だけど、スマホに送ったの見た?」
「見た見た。おかげで数学の時間に当てられたのに答えられなかったんだよ」
「知るか」
 とんだとばっちりだ。授業中に見るなと言いたい。
「えーっと、候補は崖と高台と公園だよね。公園は裏門からちょっと行ったとこで、崖ってもしかしてこの前の聖地巡りで行けなかったとこ?」
 結生の問いに僕は頷く。
 前回の聖地巡りではそれなりに遠出をしたが、調べてみると意外と近くにもモデルとなった場所があるようだった。提案した崖は、聖地的に言えば『区切りの崖』や『約束の崖』と呼ばれているらしい。映画では、結局離れ離れになる主人公とヒロインが、この崖でお互いの想いを伝え合い、再会を約束した場所だ。そしてエピローグでは約束を果たし、学生時代の区切りと別離の時間の区切りを示す場所として聖地になっているとのことだった。
「そっか! 確かに『区切りの崖』もいいかもね! パロディ的に書けたりもするし。あと高台って言うのは?」
「ああ、ここはバスで少し行ったところに丘陵公園があって、そこから街が一望できるんだよ。物語的には、思い出を振り返るシーンとしていいかなって思って」
「おぉ、いいじゃん! 今日はそこ行ってみよ!」
「ほいほい」
 いつも通りその場のノリで決まった場所へ向かうべく、僕と結生は人が減った正面玄関を後にした。


 僕たちが乗り込んだバスは思いのほかかなり空いていた。
 車内には数人程度がいるばかりで、座席は選び放題。結生は乗るや否やさっさと後ろの二人掛け席の窓際を陣取り、ひらひらと手を振って僕を隣に招いた。下校時刻直後だったら、溢れかえる生徒たちでこうはいかなかっただろうが、結生がやや遅れ気味に来たために混雑する時間帯からは外れたようだった。
「ふふん、どうどう? 私の計画的な遅刻の成果は」
「たまたまだろ」
 隣で調子に乗る結生に肩をすくめる。ここまでの道すがら、遅れたのは時間を忘れて友達と話し込んでいたからだと聞いたばかりだ。僕の記憶力は、さすがに数分前の会話を忘れるほど落ちてはいない。
「もう素っ気ないなあ。あ、もしかして卒業生送別会のことでまだ怒ってる?」
 結生の言葉に思い出したくもない記憶が脳裏をかすめた。
「いや、それはもういい。先行きは不安だらけだけどな」
「大丈夫だよ。今日のお昼のミーティングで方向性はほぼ決まったんだし!」
「その方向性が問題なんだよ。テーマが『卒業』で、ミュージカル要素の入った脚本なんて書いたことないよ」
 昼ミーティングは本当に地獄だった。知名度を上げるために奇抜なことをやろうと、やたらミュージカルにこだわる雪弥を筆頭に、卒業生や在校生へのメッセージ性を主張する小夜と結生、衣装や練習時間といった細部にこだわる副部長や響などとにかく議論は白熱した。そして、ミュージカルなんて書いたこともなければ、『卒業』をテーマにこれだけの少人数で上手く演じられる内容を探すのも大変だと僕も主張した結果、最終的には顧問の江波先生がそれぞれの意向をバランス良く組み込んだ折衷案を提示して落ち着いた。一応は。
「まあまあ、今回は私たちも積極的に参考になる脚本とかミュージカル作品探すし、みんなでできるところまで作ってみようよ!」
「もちろんそのつもりだし、腹もくくったけど、大スベリしそうな気しかしない」
「秀先輩、そこは考え方次第だよ。今まで書いたことのないジャンルを書けば、間違いなく糧になるんだから。大スベリしてもレベルアップするというまたとないチャンスだよ!」
「……そういう前向きさは、ほんと結生のいいところだよな」
 ニマニマとややイラつく笑みを浮かべる結生に、僕は苦笑で応じた。
 そうこうしているうちに、僕たちを乗せたバスは坂道に差し掛かった。つづら折りになっている道を進むにつれて、車窓の景色はみるみる高くなっていく。時刻は既に午後五時を過ぎており、僕たちが先ほどまで勉強していた校舎も、いつも使っている駅も、そこに立ち並ぶ住宅の数々も、すっかり街の色は橙色に染まっていた。
「わぁ~、きれいだね!」
 ほどなくして着いたバス停で降りると、結生は一目散に展望路へと駆けて行った。山の中腹に広がる丘陵公園には街を一望できる展望台があるが、その道中にあたる展望路と呼ばれる回遊路からの景色もなかなかのものだ。
「小学生くらいの時に一度来たことがあって、なんとなく景色がすごかったことだけは覚えてたから候補に入れたんだけど、これは本当に見事だな」
「ね。もうここでいいんじゃない?」
「またそんな適当に」
 投げやり気味に言う結生の表情は悪戯っぽい笑みで満ちている。どう見てもわざとだ。
「おやおや~やっぱり決められないですか~? 私の演技を見ないとっ」
「……そんなことはない。けど、判断材料は大いに越したことはないから」
「もう~。素直じゃないなあ~」
 茜色の空を背景に咲く笑顔に向けて、僕はスマホのカメラを向ける。すると、からかうような笑顔は一瞬で消えて、次の瞬間には儚げな表情がそこには浮かんでいた。
『奏に、友樹も……。来ちゃったんだね』
 こうしてまた、僕たちの物語は完成に一歩近づいた。


 次のオフの日は、残った候補である『区切りの崖』に向かった。
「海だーーっ!」
 水飛沫が上がる切り立った岩先で結生は歓声を上げた。すっかり夕日は水平線の彼方に落ち、群青色の空とほぼ黒に近い海ばかりの景色だったが、そんなことお構いなしに彼女は笑う。
「滑って転んで吹っ飛んでそのまま海に落ちるなよ」
「落ちないよ! ってかそんな曲芸みたいなことになるわけないじゃん!」
「だといいんだが」
 今日に限っては全くないとは言い切れない。というのも、結生の大好きな映画の聖地ということもあってか、道中はずっと語りっぱなしで興奮度合いが引くレベルだったから。
「まあいいや、今は機嫌がいいから許してあげる。そんなことより、もうここは聖地として外せないポイントだよねっ! 映画のラストシーンは本当に、ほんっとうに感動したの! 進路の関係で二人が離ればなれになって、それから五年くらい会えなくなって、大学生活と社会人生活を過ごす中でもやっぱりどこか心の中に解消されないしこりが見えて、それでそれで」
「あーわかったわかった。それはまた帰りの電車でな。これ以上暗くなると動画撮れなくなる」
 それでも熱弁を続けようとする結生に、僕は秘技「撮影」を繰り出してどうにか演技を収める。カメラを向けられると舞台に立ったような感覚がしてスイッチが切り替わると前に言っていたので、それを利用したら上手くいった。もっとも、結生にはなぜか怒られた。
 そして翌日の昼休みにはこっそりと校舎の敷地から抜け出し、公園に向かった。猫の額のような小さな公園は、学生生活の一コマを切り取るにはいい場所のように思えた。今もこうして二つしかないベンチに並んで腰掛け、ミルクティーを飲んでいる様子なんかがそうだろう。ただ、ここを最後に据えるにはやはり思い出の描写を足したり前後のやり取りを工夫したりといったことが必要になりそうだった。ミルクティーブレイクの後に結生の演技を見てもその考えは変わらず、結生も同意見だったのでここは一旦保留になった。
「ほかにさ、こことかもどうかな?」
 そして公園から学校に戻る道中、結生はさらに候補地を追加してきた。彼女が見せてきたメモには、さらに候補地が四つも並んでいる。
「おい。ちょうどついさっき候補を全部見終えたばかりだぞ」
「だからこそ、だよ。やっぱり妥協はしたくないじゃない。見れるところは見て回ろう! それにまだ春まで時間もあることだし」
「やめろやめろ。フラグを立てるんじゃない。それ物語的には時間なくなるパターンだろ」
「あははっ、確かに」
 結局、僕らは翌週からさらにその候補地を回ることになった。ひとつは学校の屋上で昼休みに昼食がてら向かい、ひとつは僕らが普段使う駅前にある憩いの広場だったので放課後に見て回った。どちらも何度か来たり通ったりしているが、改めて見て回ると意外にも活かせそうだった。そんな発見に驚く僕を見て、結生はしたり顔で笑っていた。
 残りの二つは、さらにその翌週の休日に見に行くことになった。というのも、場所がなんと結生の通う病院と、その裏手にある花畑だった。
「やっぱり病気がちな『瑠奈』にまつわるラストなら、病院は外せないでしょ」
 そんなやや心配になるような一言を事もなげに言い、彼女は僕を誘ってきた。僕は何か言おうと思ったが言葉は出てこず、無難な軽口しか言えなかった。
「結生が言うと説得力が違うな」
「でしょ。あ、もしかして心配になってる?」
 もっとも、僕の考えはどこまでもお見通しのようで。
「……なるよ」
「ふふっ、ありがと。でも心配しないで。余命宣告とかされてるわけじゃないし、見ての通り今は体調もいいし、治る確率は確かに低いけどあくまで今のままだったらの話だから。それに先輩のおかげで、頑張れそうだから」
 そんなことを柔らかに言って、彼女は僕を安心させた。
 それから結生は、楽しそうに病院の裏手にある花畑について教えてくれた。つい最近候補として思いついたようで、理由を聞くとそこに咲いていた花の花言葉がピッタリだったらしい。十二月になったばかりでどんな花が咲いているのか聞くと、結生は悪戯っぽい笑みを浮かべて言ってきた。
「集合場所はその花畑にしよ! 私は午前中に定期検査があるから、集合は午後一時ね! 待ってる間に花言葉、ぜひ調べてみてっ」
 楽しそうに、嬉しそうに、彼女は心から笑っていた。
 だから僕はあえてそれ以上は聞かず、ただ素直に頷いておいた。
 彼女は、結生は――この時は本当に、心の底から笑っていたんだ。

     *

 よく晴れた土曜日の早朝。
 僕はここ最近で一番機嫌悪く家を出た。
 理由は、深夜だろうと時間構わず口論を重ねる両親だ。昨日の夜は、また偶然にも両親の帰宅時間が重なり、顔を合わせるなり早速言い合いが始まった。最初はいつも通り家事分担やら日々の不満なんかをぶつけていたが、やがて時期も時期だからか僕の進路に飛び火していった。最難関国立か評判重視の私立か。その先の就職は大企業かベンチャー企業か。留学はした方がいい、いやしない方がいい、文系だがプログラミング言語や資格は習得しておいた方がいい、いやそんなことはせずに人脈づくりや大学生活を楽しむことが人格形成には重要だうんたらかんたらと、深夜三時だか四時まで激論を交わしていた。
 正直うんざりだった。自分の進路は自分で決めるし、僕は親のために進学するわけでも就職するわけでもない。学費や生活費を出してくれていることに感謝はするけれど、それでもって子どもを自分の思い通りにしたいというのはどうかと思う。そんなことを考えていると、やっぱり大人なんてロクなもんじゃない、なりたくないという気持ちが強くなってきて、やがてなんで僕は毎日を生きているんだろうなどという、やや哲学的な疑問が沸き上がってくるのだ。
 駅に着き、学校とは反対方向の電車に乗ってからも、悶々とした思考は続いていた。寝不足も相まって、気分は最悪だった。
「ん?」
 澄み渡った青空を車窓からぼんやり眺めていると、スマホが振動した。一瞬、親からの電話かと思ったが違った。
 ≫おはよー!
 ≫病院裏の花畑に一時集合だからね!
 ≫遅れないでよ! 遅れたらジュース奢りだから!
 早朝からフルパワーで連続メッセージを送ってきたのは、大病を患った後輩だった。
「ははっ、朝から相変わらず元気だな」
 病気になっているとはとても思えない。学藝祭後のやりとりや聖地巡りでの出来事がなかったら、きっと今でもわからなかっただろう。僕は「そっちこそ遅れるなよ」とだけ返信してから、そっと瞼を閉じた。
 気がつくと、目的の駅名を告げるアナウンスが車内に響いていた。


 病院の最寄り駅で降りると、僕は近くにあったファストフード店で朝食を済ませ、早めに花畑へと向かった。結生に聞いてどの辺りにあるのかは大まかに把握していたが、やはり実際に行ってみないとわからないこともある。もし道に迷ったりして遅れたりなんかすれば、結生はドヤ顔でジュースをねだってくるに違いない。
「にしても、寒いな」
 唐突に吹き抜けた北風に、僕は思わず身を震わせる。
 今週から十二月に入り、雪は降らないまでも気温はすっかり冬の様相を呈していた。僕が今歩いている道は左右に田んぼが広がっており、風が時折強く吹いてくる。花畑がどんな場所にあるかは知らないが、こんな寒い時期に咲いているのだろうか。
 田んぼ道を抜け、住宅街に入ってからも僕は思索を続け、実は秋に見つけた花畑で今はもう咲いていないというオチが予想できたところで、病院が見えてきた。前に結生が言っていた通り手前にある脇道へと逸れ、右から回り込むようにして裏手へと回ると、それは目に飛び込んできた。
「わっ……」
 基本あまり大きく心が動かされないタイプだが、つい声が漏れていた。
 そこには、紫を基調とし、所々に白や青がアクセントのように咲いた、見渡す限りの花畑が広がっていた。
「これは、サイネリアか」
 小説を書く手前、花言葉はよく調べたりしている。前向きな意味をもつ花言葉として、かなり有名な花だったはずだ。
「でも確か、あんまりいい名前じゃないからお見舞いとかではNGの花だったような……」
 スマホを取り出し、おぼろげな記憶の確認をしようと検索エンジンを起動した時だった。
「――こんにちは」
 後ろから、透き通った声が聞こえた。
 驚いて振り返ると、白い厚手のコートに身を包んだ、四十代後半か五十代くらいの女性が小さく微笑んでいた。その顔に見覚えはなく、散歩か何かをしているただの通行人だろうか、と思ったところで、女性は再び口を開いた。
「突然ごめんなさい。失礼ですが、もしかして室崎秀さんでしょうか?」
「え、ええ……」
 また驚く。どうやら、通行人ではないらしい。
 僕が戸惑いながらも頷くと、女性の顔がパッと輝いた。
「ああっ良かった! いつも娘がお世話になっております。柊結生の母です」
「え……ええぇっ⁉」
 僕の声に驚いたのか、サイネリアの花畑から小鳥が一羽飛び去っていった。


 改めてお互いの自己紹介を交わしたところで、結生のお母さんと僕は花畑の隅に並べられたベンチのひとつに腰かけた。そこは陽がよく照っており、田んぼ道とは違ってそれなりに暖かかった。
「これ、良かったらどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 差し出されたペットボトルのお茶を恐縮して受け取る。そんな僕の様子を穏やかな表情で見つめてから、結生のお母さんは同じお茶を鞄から取り出し一口飲んだ。
「あの、もしかして、僕と結生さんがここで待ち合わせしていることを聞いて……?」
「ええ。結生から、『素敵な先輩を紹介したい』って言われましてね」
「え……うわっ、と!」
 予想だにしていない返答に、手に持っていたペットボトルを落としそうになり、慌てて掴み直す。そんな僕の様子に、結生のお母さんはクスクスと笑った。
「そういう意味じゃないってことは、結生から聞いています。私としては、とっても残念ではあるけれど」
「は、はあ」
 つかみどころのない人だ。ある意味、結生と似ている。
 僕はもらったペットボトルの封を切り、一口喉へ流し込んだ。
「でも室崎さん、随分と早いですね。待ち合わせは午後一時って聞いてましたけど」
「えっと、ちょうど暇だったので早めに来て軽く下見に。結生さんからは遅れないようにって言われましたし、この花畑には初めて来るので、先に場所だけ見て、また後で来ようと思いまして」
「なるほど、そうだったんですね」
 今度はふんわりと笑ってから、結生のお母さんは視線を花畑へと向けた。
「ここ、いいところでしょう。結生のお気に入りの場所で、定期検査の時によく一緒に来ているんです。花言葉は喜びや快活。あの子らしくて私も好きなんですが、サイネリアはシネラリアとも言って、不吉な花だって思う人もいるのが少し残念ですね」
「ああ、みたいですね。僕もいいところだと思いますが、病院の近くにあるのは珍しいですね」
「なんでも、院長がヨーロッパ出身の友人に、ここに健康を願う花を植えてくれと頼んだら、サイネリアを一面に植えられたらしいです。向こうでは快復を祈るためのプレゼントとしてよく贈られるみたいで」
「へぇー。お詳しいですね」
「いえいえ、ただの又聞きです」
 結生のお母さんは照れたように苦笑した。よく笑うところも、結生に似ていると思った。
 それから話の話題は、学校での結生の様子に移った。
 なんでも結生の家は母子家庭で、結生のお母さんは昼夜働いており、学藝祭にも来れなかったらしい。たまに結生の口から教室での出来事や小夜などの友達の話は聞くが、演劇については恥ずかしいのか多くは語ってくれないようで、結生のお母さんは特に部活のことを聞きたがった。僕は意外に思いつつも、結生の類稀な演技や全力で部活に取り組む姿勢について話した。
「結生さんの演技を初めて見た時は驚きました。まさか難易度の高い泣きの演技をこなすとは」
「ええっ、あの子が。幼い時からいつも笑ってるので、泣いた顔なんて親の私でもあまり見たことないのに。すごく気になりますね」
 前世のことについては伏せた。言葉の端々から察するに、結生は記憶のことを話していないように思えたから。
「いつも全力で演技に取り組んでいて、僕や小夜、他の部員たちもすごく刺激になっていますね。三月頭の卒業生送別会でも演劇をやるんですが、今からすごく張り切ってます」
「そっかー、あの子らしいわ。聞いていると思いますが、春過ぎに少し大きな手術を予定してまして、その間は部活ができなくなるから、余計やる気に満ちているのかも」
 会話の中では、僕も結生のことについていろいろ聞いた。
 病気のこと。手術のこと。治る見込みのこと。
 そのどれもが結生の言っていたままで、彼女は言葉通り本当のことしか僕に伝えていなかった。現在の病状など少し疑ってしまったこともあり、なんだか申し訳なくなったが、同時に安心もした。
 そして気が付けば、話し始めてから小一時間あまりが経過していた。
「あら、もうこんな時間。検査前に診察もあるし、そろそろ行かないと」
「検査は何時からなんですか?」
「十時からだけど……あ、そうだ! どうせなら室崎さんも一緒に来て、結生をびっくりさせてみる?」
「え」
「ふふふっ、冗談です」
 悪戯っぽく笑ってから、結生のお母さんはベンチから立ち上がった。一時間程度話したくらいだが、こういうお茶目なところも本当に結生とそっくりで、まるで結生にからかわれているような気がした。
「それじゃあ、僕もこの辺で。お昼は結生さんも交えて話しましょう」
 苦笑交じりに僕も立ち上がる。なんとなく同じ方向に歩くのははばかられたので、別の道から行こうと踵を返そうとして、僕は驚いた。
「ふふっ……本当に、あなたが結生の先輩さんで、良かった、です……っ」
 視界の端に映った結生のお母さんが、泣いていた。
「えと、え、えぇ?」
 慌てふためく僕に、結生のお母さんは自嘲気味に笑った。
「ごめんなさい。つい、感極まってしまって……。あの子ね、自分では気がついていないようだけど、最近は本当に心から楽しそうに笑ってるの」
「え?」
 やや違和感のある物言いに、僕は思わず聞き返した。
「さっきも言った通り、結生は昔からよく笑う子だった。でも、時々どこか表面上で笑っているというか、心から笑っていない時があったんです。私がよく笑って誤魔化すのが原因だと思ってたけど、それだけじゃないみたいで。病気になってからは特に……むしろ苦しそうな笑顔ばかりでした。無理も、ないんだけど」
 結生のお母さんは顔を伏せた。悲しそうに笑うその表情には見覚えがあった。けれど、すぐに顔を上げて話を続けた。
「でも、最近は違うんです。本当によく、笑うようになったんです。心から嬉しそうに、楽しそうに。そしてそれが、室崎さんの話をしている時だと気づいたんです。詳しい内容は教えてくれませんでしたけど、二人で何か楽しいことをしているんだということはわかりました。『お母さん、今日は秀先輩とあそこに行ったのっ!』って、とっても楽しそうに、笑顔で話してくれるんです。私はそれが嬉しくて、嬉しくて……」
 目元に涙を浮かべて、結生のお母さんも本当に嬉しそうに笑っていた。それは確かに、最近の結生の笑顔とそっくりだった。
「だから、だから……本当に、ありがとうございます。自分の子どもが心から笑ってくれる。親にとって、これほど嬉しいことはありません。幸せなことはありません。もし良ければ、どうかこれからも、結生のことをよろしくお願いします」
「は、はいっ!」
 深々と頭を下げる結生のお母さんを前に、僕は結局、慌てふためいたまま気だけ強い返事をした。なんだかそれがまるで本当の「ご両親へのあいさつ」みたいで、二人して顔を見合わせて笑った。午後から結生と会うのに、僕はどんな顔でいればいいんだろうと思った。
「それでは今度こそ、私は行きますね。目元が赤くなってしまいましたが、まあ夜勤明けなのでなんとか結生には誤魔化しておきます」
「や、夜勤明けなんですか⁉」
 ハンカチで目元を拭いつつ、サラリとすごいことを言う結生のお母さんに、僕は驚愕と同時に心配になった。いったいいつ寝ているんだろうか。
「大丈夫ですよ、仮眠はとってきましたので。って、そろそろ行かないと本当に遅刻しそうですね。それでは、私はこれで――」
 その時、着信音が鳴り響いた。聞き慣れない音だったので、すぐに結生のお母さんのものだとわかった。
「ああ、すみません。私のスマホですね……って、やだ病院からだわ。もしもし、すみません近くにいるのですぐに向か…………え?」
 結生のお母さんの顔から、表情が消えた。

「結生が……交通事故で病院に……それに遺書を持ってって……ど、どういうことですかっ⁉」

 ヒュッと、僕の心から温度がなくなった。

     **

 お母さんへ。
 まずは、謝らせてください。本当に、本当にごめんなさい。
 謝るくらいならこんなことするなって怒られそうだけど、それでも、ごめんなさい。
 私は、やっぱり耐え切れませんでした。病気が怖くて、死ぬのが怖くて、死んだ後にみんなから忘れられていくのが怖くて。毎日悩むくらいなら、ここでその恐怖を断ち切りたいです。
 治るなら、まだいいんです。でも、この病気はきっと治らない。一度経験してるから、わかるんです。
 私には前世の記憶がおぼろげなりにあって、そこでも私は今と同じ病気を患っていました。今とは違って友達とかもいなかったけど、どうにか闘病生活に耐えて、頑張っていました。でも、十七歳の時に死んじゃったんです。
 そして、今の病気の悪化の仕方は、数値としては出ていないけど、かなり悪い方なんです。私が前世で経験した悪化の仕方よりも早くて、きっともう長くはないんだと思います。
 そんな親不孝の娘を、母子家庭で貧しいのに、学校に行かせてくれて、部活にも通わせてくれて、治療費を払ってくれて、時間を見つけては私が寂しくないように寄り添ってくれて、本当にありがとう。そして、ごめんなさい。私はこれ以上、お母さんが疲れていく姿を見たくないです。負担になりたくないです。お母さんにはお母さんの人生があります。治らない病気のためなんかに、大切な時間を使わないでください。
 今まで私を育ててくれて、ありがとう。短い人生だったけど、私は幸せでした。お母さんの子どもで、本当に良かったです。
 それから、友達へ。
 一人一人書いていたら、泣けて泣けていつまで経っても終わらなさそうなので、あえてここには書きません。
 前の学校の友達へ。転校の理由を伝えなくてごめんなさい。病気の治療のためだって言えなくて、急にいなくなってごめんなさい。泣いちゃいそうで、言えませんでした。みんなの心では、私は笑顔のままでいたかったから。みんなと遊べて本当に楽しかったし、幸せだったよ。
 そして、今の学校の友達と部員のみんなへ。急にいなくなってごめんなさい。病気のことも、私が持ってる不思議な記憶のことも、悩みも、何もかもを隠していて、ごめんなさい。毎日を一緒に過ごすみんなだからこそ、言えませんでした。言っちゃったら、きっと今の関係は壊れてしまうから。最後まで友達でいてくれて、部活の仲間でいてくれて、本当にありがとう。笑顔の私を、少しの間だけでいいので、覚えていてくれると嬉しいです。
 最後に、私の秘密を知ってる先輩へ。
 怒ってると思います。もしかしたら、戸惑っているのかもしれません。でも、これが私の心の奥底にある感情で、苦悩でした。先輩にはいつか話せたらなと思っていました。でも、どうやらその時は来なさそうです。今まで自分勝手にいろいろと巻き込んで、振り回して、すみませんでした。でも、すごく楽しかったです。
 小説の完結まで見届けられなかったのが、唯一の心残り、かな。(これ書いちゃっていいんだっけ笑)
 先輩ならきっと、大丈夫です。幸せになってください。

 皆さん、ごめんなさい。そして、ありがとう。
 さようなら。

     **

 バタンッ、と扉の閉まる音が自室に響いた。
 やっと帰ってきた。
 どうにか帰ってきた。
 帰って、これた。
 部屋の明かりもつけず、僕は倒れるようにベッドに突っ伏した。それくらい、限界だった。
「ったく……ほんと、なんなんだよ」
 恨み言が漏れる。言葉にしても、それは後から後から心の奥底から湧き上がってきて晴れることがない。大声で叫びたい衝動を、僕はどうにか堪えていた。
 結生は、幸いにも一命をとりとめた。
意識は戻っておらず、骨折などの怪我があり、現在患っている病気との合併症には気をつける必要はあるが、今のところ命にかかわるようなものではないらしい。数日もすれば、目が覚めるだろうとのことだった。
 もっとも、ただの事故ならそれでひとまず安堵するのだが、事はもっと複雑で、深刻で、意味がわからなかった。
 結生のお母さんと急いで病院に行き、結生の病室に入ると、そこには小夜がいた。どうやら検査前に会う約束をしていたらしく、事故の瞬間は見ていないが近くに居合わせたらしい。すぐそばの交差点で交通事故だと騒ぎがあり、高校生くらいの女子が巻き込まれたと聞いて気になって行くと、結生が倒れていたとのことだった。
 事故については、どうやら結生が飛び出して起きてしまったらしい。死角の多い交差点で、結生の行動の一部始終をしっかりと見た人はいなかったが、軽傷を負った運転手や遠目から見ていた人には、そのように見えたそうだ。
 そして最も衝撃的だったのは、結生が懐に持っていたという遺書だった。
 読んでみると、紛れもなく結生の筆跡だった。前世の記憶や病気についての苦悩が綴られ、自分の母親や友達、そしておそらく僕へのメッセージが簡潔に書かれていた。
「自殺を図った、という線も考えられます」
 事故を担当した警察からは、淡々とそんな事実を述べられた。そんなはずがない、と結生のお母さんも小夜も、もちろん僕も反論したが、結生が自ら飛び出したという目撃情報と、懐に持っていた遺書が、現状を雄弁に物語っていた。
 あの結生が、自殺しようとするだろうか。
 疑問が、疑念が、濁流のように押し寄せてくる。全く意味がわからない。信じられない。
 最後まで全力で生き抜くと誓っていた結生が?
 心の底から楽しそうに笑ってくれていた結生が?
 僕の小説の完結を楽しみにし、手術も頑張ると言っていた結生が?
 その全ての表情が、言葉が、うそだったということだろうか。うそはつかないと何度も言っていたのは、これを悟られないようにするためだったのだろうか。
「はぁー……」
 肺に巣食っていた重たい空気を吐き出す。考えがまとまらない。
 僕は暗い自室の中で、そっと目を閉じた。


 翌日の朝。寝たのか寝てないのかわからない頭を冷や水で無理矢理起こしてから、僕はすぐ小夜に電話をかけた。電話口から聞こえた声はとても小夜とは思えない酷いものだったが、結生のお見舞いに行かないかと言うと、ためらいながらも了承してくれた。
 重い足を引きずりつつ、最低限の身支度だけして駅へと向かう。それなりに急いだつもりだったが、駅に着くと既に小夜が改札前に立っていた。ラフな格好で見慣れない帽子を目深にかぶっているところを見ると、どうやら僕と同じくすぐに家を出てきたらしい。
「よっ」
「よっす」
 お互いを認識しているという合図だけ交わし、僕らはそれ以上言葉を交わすことなく改札をくぐり、電車へと乗り込んだ。
 日曜日ということもあり、駅のホームも車内も比較的空いていた。僕と小夜は向かい合うボックス席に座った。なんだか懐かしい気がした。
 しばらくすると普段とは逆方向へ景色が流れ始めた。本来なら今日は部活だが、さすがに行く元気はなく僕は欠席の連絡をしていた。きっと小夜もそうなんだろうなと思った。
 昨日も見た景色を、昨日とは違う感慨を抱きながら眺める。天気も良く、実にのんびりとした雰囲気で、普通なら会話も弾むのだろうが、僕と小夜の間に会話は一切なかった。話したいことはたくさんあったけれど、一方で何を話したらいいのかわからなかった。どう切り出そうか、なんて考えていたら、いつの間にか電車は目的の駅へと着いていた。
 改札を抜け、昨日も通った道を足取り重く歩いていく。田んぼ道に差し掛かったところで、冬の季節らしい北風が吹き抜けた。気温的には昨日よりも暖かいはずだが、それはやけに身に沁みた。縮こまって身を震わせていると、どうやら小夜も同じみたいだった。
 昨日と同じように田んぼ道を抜け、住宅街に入り、しばらく行くと昨日と同じように病院が見えてきた。
「ねえ、秀。サイネリアの花畑って、どこにあるの?」
 昨日通った脇道を過ぎたあたりで、唐突に小夜が言葉を発した。急に話しかけられたこともそうだが、その内容に僕は思わず肩を震わせた。
「そこの脇道から回り込んだところに、あるけど」
「案内してくれない?」
 小夜の申し出に、僕はすぐに頷くことができなかった。だってそこは、昨日あの連絡を受け取った場所で。
「お願い」
 再度力強い口調で言われ、僕は無言のまま脇道へと足を向けた。昨日と全く変わらない、何の変哲もないただの道だ。なのに、そこはやけに長く感じられた。
「あ」
 隣から、微かに声が聞こえた。小夜が視線を送る方向、そこには変わらず、紫色のサイネリアの花畑が広がっていた。相変わらず綺麗だと思った。でも気持ちのせいか、それは少しばかり色褪せて見えた。
 小夜はしばらく呆然と眺めていたが、やがてゆっくりと花畑に近づいた。僕もその後ろからついていく。
「サイネリアの花言葉って知ってる?」
「ああ、知ってる。喜びとか、快活とか、そんな意味だろ」
 小夜の不意の問いに、僕は淡々と答えた。昨日、結生のお母さんから聞いたばかりだ。
「そう、喜びや快活。結生ちゃんらしくて、とても素敵な花。でもね、色によって花言葉は微妙に違うの」
「え、そうなのか?」
「うん。ここに一番多い紫は喜びだけど、白と青はまた別。白はね、『望みのある悩み』。前に結生ちゃんが、サイネリアはどの色の花言葉も私らしくて好きだって言ってたんだけど、昨日でやっと意味がわかった。結生ちゃんは、自分の病気のことを指して、自分らしいって言ってたんだと思う」
「確かに、前は不治の病だったけど、今は治る見込みがあるらしいからな。その……前世とのことも比較して考えてたとしたら、余計に」
「うん。きっと、そうなんだと思う。病とかにもまつわる花みたいだから」
「なるほど……。ちなみに、青は?」
 僕の問いかけに、小夜はスッと一度息を吸って、静かに言った。
「『悩み多き恋』、だよ。結生ちゃんは、秀のことが好きなんだよ」
「え……?」
 想定外の言葉だった。驚きのあまり固まる僕に、小夜は呆れたように肩をすくめた。
「なんとなく察したのは学藝祭の時くらいかな。その時は、結生ちゃん自身も気づいてなかったみたいだけど、最近は自覚したのか顔真っ赤にしてて、なんていうか、可愛かった」
 思い出したように、クスリと小夜が笑う。
「でね。それからもカマかけたり、居残り練習を二人っきりにしてみたり、ほんといろいろしてたの。相談にも乗ったし、駅前にある広場とか和やかに話せる場所へのデートも提案した。そして昨日も……秀への誕生日サプライズのために、朝集まろうとしてた」
「え、それって」
「うん」
 口元に浮かべた笑みを収めてから、小夜は真っ直ぐ僕を見つめてきた。
「あたし、やっぱり今の結生ちゃんは自殺なんてする子じゃないと思う。その前日にした電話だって、すごく楽しそうにしてた。『秀先輩の度肝を抜いてやるんだっ!』って張り切ってたの。だから、だからそんな結生ちゃんが、自殺なんてするはずない」
 小夜の顔がくしゃりと歪む。それは、涙を我慢しているようにも、無理して笑おうとしているようにも見えた。
「ああ、そうだな。僕も、そう思う」
 一番演技の上手い後輩の、不格好な演技を見て、僕は大きく頷いた。


 その日、僕と小夜は結生を見舞いに病室まで行ったが、まだ目は覚ましていなかった。結生が目を覚ましていたら真意を問い質したかったが、それはまたの機会となった。
 現状の僕と小夜の想い、そして明日の放課後にまた来ることを、付き添いをしていた結生のお母さんに伝え、僕たちは病院を後にした。

 結生が病室から姿を消したのは、翌日の朝のことだった。