三度目の人生を君と謳う


 意味のない人生だった。
 見慣れた白い天井を眺めて、私はふと思う。
 私は何のために生きてきたのか。わからない。十数年余りの人生経験をもとにあえて語るならば、死ぬためだろうか。
「はっ……はぁ……」
 もう体にはほとんど力が入らない。手を持ち上げるだけでも一苦労で、もはや自力で起き上がることは叶わない。まるで体だけおばあちゃんになったみたいだ。
「うっ、くっ……」
 胸のあたりが苦しい。
 息がしにくい。
 私が、何をしたというのか。
 一番よく見た光景といえば、病院の周囲に咲く花々。
 一番よく聞いた音といえば、ベッドサイドモニタの音。
 一番よく触った物といえば、冷たい真っ白なシーツ。
 一番よく嗅いだ匂いといえば消毒液の匂いで、一番よく味わったのは苦い薬の味だ。
 私が、いったい何をしたというんだ。
「くっ、うぅ……」
 視界がにじむ。何かが零れた。熱くて、拭いたいけれど、手に力が入らない。
 できる限りのことはした。
 提案されたよくわからない治療にも耐えた。
 吐き気にも、痛みにも、寒気にも、息苦しさにも耐えた。
 不安にも、悲しみにも、寂しさにも、苦しみにも、自己嫌悪にも、無力感にも、周囲への罪悪感にも、幸せそうな人たちへの嫉妬にも、憧れにも、憎らしさにも、後悔にも、絶望にも、恐怖にも、頑張って耐えて、耐えて、耐えた。
 けれど、私はもうすぐ人生を終える。
 いったいどうして、私は生きているのだろう。
 いったいどうして、私は生きてきたのだろう。
 いったいどうして、私は生まれてきたのだろう。
 いったいどうして、いったいどうして、いったいどうして……――。

「来世が、あるなら……幸せに、なりたい、なぁ……――」

 不安をあおる大きな音が鳴り響き、慌ただしい足音や声が聞こえる中、視界は暗転した。

 タップ、上、右、上、左、タップ。
 僕は慣れた手つきでスマホの画面に指を滑らせる。読点は二回タップで入力。そして変換。「暗転した。」というワードを打ち込んで、そこで一息ついた。
「ふう」
 背もたれに体重を預ける。プラスチックが軋む音を立てて沈み、そして止まる。不穏な音とは対照的に、それはしっかりと身体の重みを受け止めてくれる。そんな当たり前の安心感に身を委ねて、僕は再び息を吐いた。
「暑いな」
 微かに顔へかかる日差しを見つめ返す。まだそこまで高く昇っていない太陽のくせに、存在感は圧倒的だ。夏の残滓を宿した光を不乱に振り撒き、僕の額にじんわりと汗をにじませてくる。遠くから聞こえる蝉時雨と相まってなんともうっとうしい。
 季節は秋。
 開放感に満ちた夏休みは昨日で終わり、面倒くさいことこの上ない朝の通学時間を僕は過ごしていた。電車待ちの合間にこうして唯一ともいえる趣味の小説を綴っているものの、どうにも文章は腹落ちしていない。
 消すか、残すか。
 優柔不断な僕は散々迷った挙句、残すことにした。「下書き」と書かれた、とあるWEB小説投稿サイトのページにある保存ボタンを押す。これで、長考の末に僕が入力した六百七十二文字はクラウド上に残ることとなった。
「はぁー」
 駅ホームの傷んだ屋根と薄い水色の空が映っていた視界を閉じて、僕は何度目かになるため息をついた。
 人生に一度しかない高校二年生の夏休みは、勉強と部活とバイトばかりしていた。
 来年から始まるらしい受験に備え、自主性とは名ばかりの夏期講習に赴く。うだるような暑さの中シャーペンを走らせ、板書をノートに写す。こんなの社会に出てなんの役に立つのか。多くの学生が思っているだろう疑問を幾度となく感じつつも、勉強をやめることはない。夏休みの前半二週間にわたって行われた夏期講習は皆勤賞だった。
 夏期講習や夏休みの宿題といった勉強のほか、部活という名前の青春も、僕は漏れなく謳歌していた。腐れ縁ともいうべき幼馴染に誘われ、生徒は必ずどこかの部活に所属しなければならないという校則にも縛られた結果、僕は公立には珍しい演劇部に所属している。もっとも、役者なんて目立つものはやりたくない。誰にも話していない趣味の参考になればくらいに思って脚本担当になった。ただ、人数が少ないという環境的事情に押され、大道具や小道具などの裏方全般もこなしている。おかげで手先がいくらか器用になった。そんな僕の些細な技術を用いて、夏休みの夕方は黙々と舞台のセットや小道具を作っていた。
 あるいはバイトだ。といっても、大手ハンバーガーチェーン店や清潔感溢れるカフェの店員などではない。人よりも多少できる勉強の実力を買われて、腐れ縁幼馴染の妹に短期の家庭教師をしていた。彼女は同じ演劇部に所属している役者の中でも飛びぬけて芝居の実力があるが、それ以外についてはからっきし。サボりまくりで進級ギリギリの成績をどうにかしてくれと彼女の親から頼まれ、昔からお世話になっていることもあって断り切れず引き受けた。時給は思いのほかよく、少しばかり財布は潤った。家庭教師の時間中、延々と恨み辛みは聞かされたが。
 あとは友達の誘いにほどほどに付き合い、残りは冷房の効いた自室で本を読むか小説を書くか動画を見るかして時間は流れた。気づけば八月は終わり、新学期が始まろうとしていた。
「ふうー」
 息を吐く。今度は細く、長く吐く。
 つまらないな、と思った。
 何事もなく過ぎてしまった高二の夏休みを後悔しているわけじゃない。健全な男子高校生としては恋愛のひとつもと思わなくもないが、いざ直面すればきっと「面倒くさい」という気持ちが勝つ。勉強にしても部活にしてもバイトにしても遊びにしてもそれ以外にしても、僕は平均以上の活動をしていると思っている。つまりは、充実している、はずなのだ。
 でも、時々思ってしまう。つまらない人生だな、と。
 こんな当たり前の毎日を過ごして、来年には受験を迎える。
 上手く合格すれば大学生になって、サークルやら講義やらといった高校にはない楽しみを享受する。少し興味のあるお酒だって合法的に飲めるようになる。
 やがてはインターンとかいう社会人手前の仕事体験をし、就職競争を勝ち抜いて本当にやりたいのか向いているのかもわからない仕事に就き、社会人になる。名刺交換のマナーを覚え、メールの作法を覚え、接待のやり方を覚える。
 そして昇進、結婚、育児、子育て……いろいろなライフイベントを経験し、年老いていく。
 それが、人生だ。
 事故もなく、大病もなく、リストラや不況、災害などに見舞われなければ、形は違うがほとんどの人が歩く道だ。なんの変哲もない、明るい未来だ。幸せな日々だ。
 ……本当に、そうなんだろうか。
 何度自問したってわからない。当たり前だ。きっとそれは、その時にならないとわからない。あるいは、後で振り返ってみないとわからない。要は結果なのだ。
「はぁーー」
 僕は目を閉じたまま、何度目かになるため息を吐いた。


 シャーペンの走る音が聞こえる。
 あれ?
 ページをめくる音。チョークで黒板に文字を書く音。野太い男性の声。
 ここは……。
 気がつくと、僕は教室にいた。真新しい教室の真ん中やや窓寄りの列。椅子に座り、目の前にある机の上には書きかけのノートが開いている。どうやら、数学の授業中らしい。
「はい、この問題がわかる人」
 それまで板書をしていた先生が、くるりとこちらに向き直った。
 僕は反射的に黒板に書かれた問題を見る。
 二次方程式の問題だ。定数が文字になっていて、しかも解も文字で置かれているから……。
 などと思考を巡らせ始めたところで、周りでパラパラと手が上がり始めた。
 え、もう?
 僕はまだ途中式すら思いついていない。にもかかわらず、上がる手の数は増え続ける。ある程度手が上がったところで、黒板の前に立つ先生はひとつ頷いた。
「ふむ、よろしい。では……」
 彼は満足そうな声をあげつつも、訝し気な視線をこちらに向けた、気がした。でもそれは一瞬のことで、すぐに僕ではない別の生徒を指名し、前で解くよう促す。指名された生徒は何も持たずに前に立つと、よどみのないスピードで問題を解いていく。もちろん正解。
 答え合わせや補足説明が終わるとすぐに先生はそれを消し、次の問題へと移る。また僕ではない誰かを指名して解かせ、それを繰り返していく。
 見覚えのある光景だった。
 さきほどの視線を思い出す。
 憐れむような、呆れたような、失望したような、そんな眼差し。
 ――仕方ないだろ。
 誰かが言う。
 ――そうね、仕方ないわ。
 誰かが答える。
 ――うん、仕方ない。
 僕がつぶやく。
 白く染まった視界を前に、僕はただひたすらに耳を塞いでいた。


『まもなく、二番ホームの電車が発車いたします。締まるドアにご注意ください――』
 夢と現実の狭間。秋晴れの中でまどろむ意識の外から聞こえてきたアナウンスに、僕は跳ね起きた。
「やべっ」
 乗る予定だった電車がいつの間にか発車しようとしていた。これを逃すとおそらく間に合わない。
 左隣に置いていたリュックを引っ掴み、僕は駆け出す。ドアまで僅か二メートル足らずの距離。くたびれたスニーカーが点字ブロックを踏むかどうかというタイミングで、目の前のドアは無慈悲にも閉まった。
「あ」
 吊り革を掴んだサラリーマンと目が合う。ドア越しの見つめ合いは、電車の加速する音に比例して左へと流れていった。たった四両の車両が眼前を駆け抜け、生暖かい風が遅れて僕の頬を撫でた。そして後には、複線の線路と向かい側のホームが見えるばかり。
 僕は、電車に乗り損なった。
「マジかー」
 駅のホームには余裕で着いていたのに、うたた寝をしてしまった。夏休み後半の乱れた生活が直り切らず、昨日寝るのが遅かったからだろう。なんとも間抜けだ。
 とはいっても、朝のホームルームには余裕で間に合う。間に合わなくなったのは、部活の朝練だ。
 まあ、しょうがない。
 僕は思考を切り替えた。どうせ元々自由参加の朝練だ。出ても出なくても、どっちでもいい。今日は二学期初日だし、念のため行っておこうかという気まぐれから早起きしたが、やはり慣れないことはするものじゃない。
 駅のホームに呆然と立つ自分への言い訳を済ませると、僕は次の電車の時間を確認しようと左の内ポケットに手を伸ばした。
「ん?」
 ない。いつもスマホを入れているはずの場所に、何も入っていない。別の場所に入れたっけ、と制服の全てのポケットを確認するが見つからない。リュックの外ポケットにもなく、中には基本的に入れることはないのでありえない。さっきまで小説を書いていたから家に忘れたわけじゃないし、うたた寝をする前は確かに……。
「あ」
 そこまで考えて、僕は後ろを振り返った。
 小説を書きつつうたた寝をしていたなら、スマホをポケットに入れるわけもなく。
 ただ単に、さっきまで座っていたベンチの上か、最悪下に落ちているのだろうと思いながらそちらに視線を向けて、僕は固まった。
 少女がそこに座っていた。
 断続的に吹く風をまとって踊る、艶やかで長い黒髪。
 真っ直ぐ下りたきれいな鼻すじに、すっきりとした輪郭。
 白いシンプルなシャツの上下に映える、テラコッタのロングスカートとベレー帽はとっても秋らしい。同じくらいの年齢だろうに、服装だけで随分と大人っぽく見える。
 つまるところ、秋コーデに身を包んだ同年代の少女がベンチに座っていて……僕のスマホを食い入るように見つめていた。
 いや、というか操作している。普通に手に持って、画面に細い人差し指を立てて、上にスライドさせている。何かを読んでいる。……何か?
「ちょ、ちょっとそれ!」
「ん?」
 はたと思いついた可能性に慌てて話しかけると、少女は無垢な瞳を向けてきた。平均以上の可愛らしさにドキッとするも、それ以上の事態の前では些末なこと。僕の、書きかけの小説を読まれているということの前では。
「えと、そのスマホ、僕のだと思うんですが」
 万が一違うという場合も考慮し、僕はやや控えめに話しかけた。
「ああ、これ? ここに落ちてたんだ」
 丁寧語の僕に対し、少女は物怖じすることなくタメ口で答えた。それだけで彼女のコミュ力の高さがうかがえる。そしてその間にちらりと盗み見た画面は、紛れもなく僕の書いている小説だった。
「やっぱり。さっきここでうたた寝しちゃって、返してほしいんだけど」
 彼女に合わせて僕もタメ口で応じ、おずおずと手のひらを出す。
 小説にはあえて触れない。どこかの誰かが勝手に書いたアマチュア文芸という体裁をとれば、僕の小さな自尊心は守られる。例え心の中でどう思っていようと、言葉として出さなければほとんど効果らしい効果は発揮しない。
「うん、それはもちろん。ただその前に、この小説のタイトル教えてくれない?」
「へ……?」
 しかし、目の前の少女は僕のささやかな思惑を正面から切って捨てた。
「このWEB小説のタイトルだよ。結構読んじゃったし、きりのいいところまで読みたいじゃない」
「ああ、うん。確かに、それは、まあ、そうかも……しれない、な」
 意味のない相槌をこぼす間、僕は必死に頭を回転させる。勉強はそれなりに得意で、学年でも上位層には食い込む脳だ。けれど、勉強ができることと地頭がいいことは別だ。類に漏れず、最後の一音を発しても僕の頭は最適解を弾けずにいた。
「あ、これ、もしかしなくてもひとつ前に戻ったらわかる感じか。今流行りの長文系タイトルだと忘れちゃうよね~。ということでごめん、戻っていい? 戻るね~」
「あ、おい、ちょっと待て!」
 制止する僕の言葉を無視し、彼女は何食わぬ顔でスマホをタップした。
「あれ? あれれ、もしかしてこれ編集画面? てことは君が作者? この小説の?」
 そしてわざとらしく発する不思議そうな声。間違いなく確信犯だこれは。
「おいあんたな、他人のスマホを勝手にいじるな」
「だから断り入れたのに」
「僕は『待て』って言ったぞ」
「ごめんごめん、その前に押しちゃった」
 少女は小さく舌を出す。その仕草はまさに小悪魔そのものだった。
「というかもういいだろ。返してくれ」
「えー、せっかく作者様が目の前にいるんだし、もう少し読ませて」
「僕の羞恥心をいくら引きずり出せば気が済むんだ」
 渋る彼女の手から半ばひったくるようにして僕はスマホを取り返した。
「あーあ。せっかくこれからってところだったのに」
「言っとくけど、君が今読んでいたところまでしか書いてないからな」
 画面に目をやると、案の定、今書いているところまで全て読まれていた。まだ最初の方しか書いていないが、推敲もしていない下書き段階のものを読まれるのは気分がいいものじゃない。
 僕は腹立たしさを隠すことなく、電車待ちの列に並んだ。
「ねーねー、これいつ続き投稿するの?」
 少女はすくっと立ち上がると、僕の様子を気にしたふうもなく聞いてきた。
「僕が怒っているのがわからない? 勝手に読んだ君に教えるわけないだろ」
「いいじゃん。面白かったんだし」
「え?」
 耳を疑う。僕の聞き間違いじゃないだろうか。
「聞こえなかった? 面白かったよ、その小説」
 どうやら聞き間違いではないらしい。
 僕の中で怒りが落ち着き、入れ替わりに微かな興味が芽生えた。
「……どの辺が?」
「んとね、いいなって思ったのは切ない雰囲気かな。冒頭で主人公の女の子が悩みつつも友達のために自転車を走らせているシーンとか、いきなり感動しちゃった」
「ああ、あそこは僕も結構悩んで書いたんだ。他にはある?」
「あるよ~二つくらい。でも教えなーい」
 にんまりと少女が笑った。その小憎らしい笑顔でハッと我に返る。
「あんた、謀ったな」
「んふふふ~、アマチュアでも作家様なら気づくべきだったね~。教えてほしくばいつ投稿するのか教えなさい」
 ピース、と少女はVサインを突き出す。
 迂闊だった。彼女の言う通り、こんな見え見えの罠にかかるなんて。
「教えないって言ったら?」
「もちろん、私も一番面白かったところと二番目に面白かったところは教えないよ」
 罠が増えた。
「さっきのは三番目に面白かったところだったのか」
「んふふ、そういうこと」
 僕は右手で頭を抱えた。趣味とはいえ、自分が書いた小説の面白かったところを聞きたくない物書きはいない。今後の参考にもなるし、なにより純粋に知りたい。
 それでも、僕は彼女の問いに答えられないでいた。気ままに書いているからわからないというのもあるが、それとは別の理由で、僕は彼女が欲する答えを持ち合わせていなかった。
 どう返答しようか迷っているところへ、数分前に僕を眠りから覚ましたアナウンスが鳴った。
『まもなく、一番ホームに電車が参ります。黄色い点字ブロックの内側に』
「あ、私の乗る電車だ」
 思い出したように彼女が言った。続けて、何か言いたげな視線を僕に向けてくる。
 しょうがない。少しばかり気になるが、彼女の感想は諦めようと僕が口を開きかけた時だった。
「じゃあ、私は行かないとだからこれで。答えは次会った時にでも教えてね」
「は?」
 次? 次とはいつだろう。これまで見かけたこともないのに。
「なんだったら、それまでに書き上げてくれてもいいよ。楽しみにしてるからね、室崎秀(むろさきしゅう)せーんぱい」
 それだけ言うと、秋色の少女は到着した電車の中へと乗り込んだ。通勤通学の時間帯ということもあり、彼女の姿はすぐに人混みに紛れて見えなくなる。暫しの時間を置いて金属製のドアが閉まり、電車は加速を始めた。
「なんだったんだ……」
 僕のつぶやきは、電車が運んできた一陣の風にさらわれ、溶けていった。

     *

 車窓の風景がみるみる左へ流れていく。
 見慣れた田園風景に、ぽつぽつと点在する一軒家。車を追い越し、川を越え、街へ街へと進んでいく。
 いつもなら英単語テストの範囲を復習するか、気が乗らない時は適当な音楽を流し聞きしているかだが、今はそのどちらでもなかった。
 数十分前のことを、思い返していた。
「なんだったんだ、あいつ……」
 わからないことだらけだった。
 どうして次会った時に答えを教えてと言ったのか。次会えるかもわからないのに。
 どうして僕の名前を知っていたのか。あの小説投稿サイトの著者名には「シュウ」としか書かれていないのに。
 どうして「先輩」を付けたのか。もしや同じ高校の一年生なんだろうか。でも新学期初日は今日で、彼女は私服だった。そもそも反対方向の電車に乗っていったし。
 謎が謎を呼ぶ。まるでミステリー小説の世界に落とされたような気分だった。彼女も小説や脚本を書けるんじゃないだろうか。
 でも、ミステリー小説よろしく、真実を導けないのはピースが揃っていないからだろう。これ以上考えるだけ無駄だ。おそらく、近いうちに真実とやらがわかるはず。……わかりたくもないけれど。
 僕はそこで思考を区切り、いつもの日常に戻るべくイヤホンを取り出した。
「あっ、秀じゃん! おはよー!」
 ノイズのおおよそを遮断するノイズキャンセリング機能を搭載したイヤホンが耳孔を塞ぐ前に、快活で耳心地の良い声が鼓膜を震わせた。
「なんだ、小夜(さよ)か」
「なんだとはなんだ。朝からあたしの可愛い声を聞けて幸せだろうに」
「普通そんなこと自分で言うか」
「役者たるもの、長所である自分の声には自信を持っているのです」
 ピース、とつい最近どこかで見たようなポーズをとる少女――青海(あおみ)小夜に、僕は小さく肩をすくめた。
 事実、彼女の声は澄んでいて、ずっと聞いていたくなるような魅力があった。今も、周囲にいる何人かがチラチラとこちらを見ている。もっとも、それは今しがた響いた類稀な声質もさることながら、モデルでも通用しそうな整った見た目のせいもありそうだが。
「それで。その役者たる自負をお持ちの小夜様は、どうして朝練に行っていないんでしょうか」
 見慣れ過ぎたその顔を見下げ、努めて他人行儀に僕は聞いた。
「む、それは秀もじゃん」
「僕はちゃんと行こうとしてたよ。ひとつ前の電車に間に合うよう駅のホームにも来てたしね。まあ、うたた寝して乗り損なったんだけど」
「ぷぷーっ! ウケる」
「ウケねーよ」
 いつもの調子でからかってくる彼女。本当に、こういうところは昔から変わらない。
「まっ、あたしも似たようなものなんだけどね。普通に寝坊した」
「えぇ、あの部活だけは真面目な小夜が?」
「部活だけ、が余計だよ!」
 パーンチ、と小夜は痛くもない拳を突き出してくる。その拍子に、黒色のウェーブがかった髪が小さく揺れた。
「はいはい。んで、その真面目な小夜がどうして寝坊を?」
「誰かさんが夏休み中に出した課題を終わらせてたんですぅ」
「へえ、終わったの?」
「寝落ちしたからもちろん終わってない」
「前言撤回。お前はやっぱり不真面目だ」
「うるさーい!」
 キーック、と今度は足を蹴り出してくるが、僕はそれをひょいとかわした。もちろんただのおふざけなので、それで小夜がこけることはない。これは、僕らの間では幼い頃からやっているただの遊びのひとつだ。
 青海小夜は、いわゆる幼馴染というやつだ。正確には、幼馴染の妹。小夜の兄である青海雪弥(ゆきや)は同級生で、保育園の時からほとんど一緒な時を過ごしている。中学の時に一時的に離れはしたものの、結局またこうして同じ高校に通い、さらには同じ部活に所属しているのだ。その縁あって、雪弥の妹の小夜ともそれなりに親しくなっていた。
「ちなみに雪弥は朝練行ったのか?」
「うん。お兄ちゃんはまあ、あんなんだし」
「言わずもがな、ってか」
 趣味の領域を越えたマニアの域に達しているメガネ面が脳裏に浮かぶ。映画にドラマに漫画に小説。しかもジャンルや書いてある言語は問わないという守備範囲の広さだ。
「しかも三年生が夏で引退して今日から部長だし、それはもう張り切ってるよ」
「また随分と部が暑苦しくなりそうだな」
「年中エアコンが必要だね」
 そんな軽口を交わしている間にも、電車はどんどん目的地へと近づいていく。
 聞き慣れたアナウンスが、聞き慣れた駅名の到着を告げる。
「まあでも学藝祭ももうすぐだし、あたしらも頑張らないとね!」
 小夜の言葉に、僕はなぜか一抹の不安を感じていた。


 学藝祭。
 毎年十月の第二土曜日に行われる、僕らの高校の文化祭だ。各学年の部活ごとに出し物や模擬店を企画し、一般開放される来校者を楽しませる。教室や体育館を借りて活動実績を見せているところもあり、いわば高校と地域との交流の場だ。
 最初に聞いた時は、素直にその名前が疑問だった。旧字体の「藝」の字を冠する言葉といえば、有名な某文学雑誌や最先端の芸術を追求する大学の名前くらいでしか見たことがない。そんなことを雪弥に話したら、「うちの高校の源流は芸術寄りの専門学校との合併から来ているから」などと教えてくれた。その芸術としての成果を発表する場が「学藝祭」であり、自分たちの部活も全力を尽くさねばならないのだと。
 正直面倒くさいことこの上ないが、あれの熱に多少は応えてやらないともっと面倒なことになるのは目に見えている。普段は比較的冷静で真面目な優等生なのだが、こと自分の得意領分においてはあっという間に沸点を超え、ヒートアップする。端的に言えばバカになる。
 そんな熱しやすい我が部の新任部長は、新学期初日の放課後にあたる今も、全く冷めていない熱量を教卓の前で振り撒いていた。
「待ちに待った学藝祭も、いよいよ来月に迫ってきたな! 今日はミーティングの後に体育館に移動し、そのまま猛練習に移りたいと思う! ラストスパート、頑張っていこう!」
「雪弥~、ラストスパートかけるの早くないか?」
 雪弥の正面、最前列中央の席に座るミーティング書記担当の男子が苦笑する。
「お兄ちゃん、あたしもさすがに一ヵ月もスパートはかけられないって」
 後方からは小夜の不満そうな声が飛び、
「部長、事前確認の時にも言いましたが、もっと部全体のバランスを考えて発言してください。ラストスパートもそうですが、なにが猛練習ですか。今日は確認がメインです」
 黒板にミーティングの要旨を書いていた新任副部長の女子が止めを刺した。
 方々から上がる笑いの混じったブーイングに、雪弥は「ぐぬぬ。みなが言うなら仕方ない」とどこぞの漫画みたいなセリフをつぶやく。
 そんな喜劇的な四面楚歌状態の教室内だが、入り口付近に座る雪弥の恋人の(ひびき)菜々花(ななか)だけが、「まあまあ仕方ないよ。雪弥くん、冷たそうな名前に似合わず熱血だからね~」とおっとりした口調でフォローしていた。
 これが日常。夏休み前も夏休み中も変わらない、僕らが所属する部のミーティング風景だ。そんな平和としかいいようのない青春の一端を、教室の後方窓際の席で俯瞰して見ているのが僕だ。
「うう~、ありがとう菜々花。俺のことをわかってくれるのはお前と秀だけだよ」
「僕もラストスパート反対組だけど」
「この裏切り者めー!」
 なんてたまに唐突なキラーパスが飛んでくることもあるが、基本的にはスルーする。僕にはどうも、この温度は合っていない気がしていた。
「はい。おふざけはここまでにしてください。そろそろ今日のミーティングを始めたいと思います」
 実質部の権限のほぼすべてを握っている副部長が手を叩く。それを合図に、喧騒に包まれていた教室の音が静まっていく。
「では早速ですが、来週の学藝祭の前に」
「来月な。我らが副部長殿もなんだかんだ熱血だよな」
 いきなりやらかした副部長に、書記担当が冷静なツッコミを入れる。
 好きなことになると周りが見えなくなる雪弥同様、実は彼女もそれなりにポンコツだった。けれどそれが、一見冷たい印象を与える彼女をいい意味で柔らかくしている。本人は絶対に認めないだろうけど。
 そんなことを考えていると、案の定、副部長は何も返すことなく咳払いをひとつし、何事もなかったかのように話を続けた。
「来月の学藝祭の話に移る前に、ここでひとつ、皆さんにお知らせがあります」
「え?」
「部長。その『俺、何も聞いてないけど?』みたいな聞き返しはなんですか。さっき江波(えなみ)先生との事前確認で話していたでしょうに」
「え、えーっと」
「まーた新しい映画か何かの新着情報の通知でも出てましたか。まったく、もう少し部長としての自覚をもって普段の冷静さを出してください」
 いつものようにお𠮟りコントを始める二人に割って入るように、教室の扉の開く音がした。
「はーい。いつまで経っても始まらないので入っちゃいますねー」
 顧問の江波先生の声が響く。
 彼女に続いて、つい最近見知った少女が教室に入ってきた。
 予感はしていたはずだった。
 アマチュアでも素人でも一応は物書き。物語を作るうえでの構成や伏線の張り方などは一通り考えることができる。
 それほど大きくない田舎の駅で、今まで見かけたこともない同年代の女子から「次会う時」と言われ、かつ「先輩」と呼ばれることの不自然さ。確率としては少ないまでも、そうであることの可能性は、確かにあった。
「皆さんに紹介しますね。新しく演劇部に入部してくれることになった、(ひいらぎ)結生(ゆい)さんです」
 江波先生に促されて黒板の前に立ち、目鼻立ちの整った秋色の少女は一礼する。
「初めまして。柊結生といいます。正式な入部は転校初日となる明日からなんですけど、せっかくなので手続きついでに見学させてもらうことになりました。名前で呼ばれるのが好きなので、結生って呼んでください。よろしくお願いします」
 お手本のような丁寧さと、可愛げのある笑顔が印象的だった。この時期には珍しい新入部員の登場に場は湧き立ち、興味の視線がこれでもかと彼女に注がれる。
「あっ、また会いましたね! 朝ぶりです、室崎秀せーんぱい」
 でもその可愛いらしさは仮面で、本性が後ろに隠れていることは疑いようもない。
「え、室崎、お前知り合い?」
「おー? なになにどういう関係なの?」
「あの人付き合いしなさそうな秀が……?」
 転校生に向けられていた興味の視線が、今度は僕へと向けられる。その内訳は純粋な疑問であったり、野次馬根性丸出しの好奇心であったり、経験則に反することへの驚愕であったりと様々だった。でも僕は、そういった類の視線はもちろん、複数人から向けられるという注目についても苦手だった。
「あいつ、後で覚えてろよ」
 今後の人生で二度と言わないであろうベタな恨み言をこぼしつつ、僕は早々に弁解を始めるほかなかった。


 体育館は熱気に満ちていた。
 バスケ部やバレー部の掛け声。ボールが床や壁にぶつかる音。やがてはブザー音が鳴り、一瞬の静寂が落ちる。その後にはそれぞれのポジションや動きに関する話し合いが行われ、また散っていく。
「この高校のバスケ部とかバレー部って強いんですか?」
「さあ、全国大会行ったとかは聞かないし、普通なんじゃない」
 僕らが今いるのは、舞台袖の先にある準備室だ。舞台の準備が整うまでの間、よく使うこの準備室やそもそもの演劇について教えるよう江波先生に言われたのだ。知り合いのようだからと僕が選ばれたのだが、本当に勘弁してほしい。
 そして、さほど熱心に演劇をしているわけでもない僕の説明にそこまで時間を使うはずもなく、わりと時間を持て余していた。
「先輩も一緒に見ませんか? 白熱してて面白いですよ」
 体育館のアリーナを興味津々にのぞいている新入部員が手招きをしてくる。
「僕はいい」
「えー素っ気ないな~。口調は丁寧にしましたし、そろそろ機嫌直してくださいよ~」
「口調を丁寧にするだけで僕の機嫌が直ると思っているなら、なんておめでたい脳みそなんだろうね」
 勝手に僕のスマホを操作し、下書き段階の小説を見ただけでなく、あらぬ誤解を部内に振り撒いた。その罪はそれなりに大きい。
 皮肉を込めてわざとらしく嫌味を言ってみたが、彼女は気にしたふうもなく駆け寄ってきた。
「わかりました。じゃあお詫びに、朝言わなかった面白かったところを教えます。だから、機嫌直してくれませんか?」
 上目遣いで、申し訳なさそうな表情を彼女は浮かべた。それだけでなく、彼女は自分が持っている交渉のカードで一番効果的なものを切ってきた。実に狡猾。でもそうしたずる賢さは、時に勉強なんぞより必要だったりする。
 ただ僕も、朝のようにはいかない。
「どっちも教えてくれるなら、前向きに考える」
「え?」
「朝言わなかった面白かったところは二つ。でもどうせ君のことだから、どちらかしか言わないつもりだろう。だから、どっちも教えてくれるなら前向きに検討しよう」
「先輩、意地悪ですね」
「君にだけは言われたくないな」
 軽い押し問答の末、意地悪な後輩は残りの面白かったところを教えてくれた。
 二番目に面白かったところは、主人公とヒロインのしょうもない掛け合いらしい。全体的に切ない雰囲気のある物語の中で、主人公とヒロインがコミカルに繰り広げる言い合いは読んでいてつい笑ってしまったのだとか。その感想は普通に嬉しかった。
 そして一番目は、テーマらしい。ただここについては詳しい内容は教えてくれなかった。一応、題材としてはありきたりな転生モノだ。もっとも、剣と魔法のファンタジーではなく、あくまでもヒューマンドラマに重きを置いており、不遇な前世をやり直すべく主人公が奮闘する物語だ。そこが良かったらしいが、具体的な部分については「朝の問いの答え」と交換だと言われた。本当に抜け目ない。
「あと、私のこと『君』って呼ぶの止めてください。自己紹介でも言いましたけど、『結生』って名前で呼んでくださいね」
 感想の途中には、あろうことかそんな注文もつけてきた。
「あのな。海外じゃあるまいし、それは僕にとってハードルが高い」
「え~他の皆さんは呼んでくれていますよ~。それに先輩、さっきのミーティングでは小夜ちゃんのこと名前で呼んでたじゃないですか」
「あいつは昔馴染みで慣れてるだけだ。それ以外で名前呼びなんてしたことない」
「じゃあ昔馴染みを除いた異性で、私が記念すべき第一号ってわけですね」
「そんな記念はいらない」
 結局は根負けして彼女のことを名前で呼ぶことになったのだから、僕の交渉術レベルは実に低いとしか思えなかった。
 そんなやり取りで時間をつぶしていると、ようやく小夜が僕らを呼びに来た。
「お待たせ結生ちゃん。どう? 演劇について教えてもらえた?」
「うん。とりあえず見て学べって言われたよ」
「……ちょっと秀? もしかしなくても、全然教えてないでしょ」
「ま、まあまあ。ほら、これが立ち稽古だ」
 小夜から距離をとりつつ、僕は今日一真面目に演劇について説明した。
 夏休みの終わりから台本の読み合わせを始め、今は台本を片手に立ち位置を確認している。台本無しで行う立ち稽古と区別して半立ち稽古とも言うそうだが、僕らの高校では特に使い分けはしていない。今日は読み合わせ後の最初の立ち稽古で、実際にどんなふうに動くのかを確認し、改めて自分のセリフや振り付けをどう観客に見せるのかを考える練習なのだ、などということを、基本的なことも交えて懇切丁寧に説明した。もちろん、途中小夜から多くの補足やら修正やらを加えられはしたが。
「あ、そろそろあたしの出番だ」
 基本的な講義が終わったところで、ちょうど小夜の役が登場するシーンが回ってきた。
「おお、小夜ちゃんのお芝居見られるんだ! 楽しみ!」
「あははっ、ありがと! といっても、読み合わせ後の初立ち稽古だし、あたしもまだそんなに役に入ってないんだけどね。とりま、頑張ってきます」
 小夜は手を振り、舞台の中央へと駆けていく。その足取りは軽やかで、不安や緊張は微塵も感じられない。
 すると、同じように手を振り返していた結生が思い出したように言った。
「ね、秀先輩。ちなみに小夜ちゃんって、なんの役してるんですか?」
「ん? ああ、そういえば、まだ配役表渡してなかったっけ」
 僕は持ってきていたクリアファイルからプリントを一枚取り出し彼女に渡す。そして一番上に書かれた登場人物を指差した。
「小夜は主役だ。うちは例年県大会止まりの実力で強くはないんだけど。ただ、あいつの芝居については一見の価値があると思う」
「え、それって――」
 なにかを言いかけた結生の言葉は、次の瞬間、清冽な声に呑まれた。
『ねえどこ! どこにいるのっ⁉』
 心を鷲掴みにされたような悲痛な叫びが舞台上に響く。漂う空気は一気に重くなり、胸の辺りにぽつりと小さな違和感が生まれた。
『お願い……私を、独りぼっちにしないで……!』
 違和感の正体が切なさや悲しさであると気づくまで数秒。気づけばあとは瞬く間に胸の内へと広がり、その色を濃くしていく。
『私を……私を置いて行かないでよおおぉっ……!』
 全身が震える。お芝居だとわかっていても、震えてしまう。
 小夜が今演じているのは、物語の冒頭で、主人公の少女が唯一心を許していた兄と生き別れになり慟哭するシーンだ。ここを端緒に、生き別れの真実と兄の居場所を探す小さな旅路の物語が動き出すわけだが。
「初立ち稽古で、これか」
 僕は息を呑んだ。
 幼い頃から小夜は演じるのが上手かった。他人のモノマネ然り、映画やアニメの真似然り。そっくりに演じては僕らを笑わせ、家族を驚かせ、友達を楽しませていた。
 そんな芝居の才能の片鱗をのぞかせていた彼女だったが、演劇部に入部して間もなくあった春季発表会からの成長は凄まじかった。何かを掴んだのか、声の抑揚や間の長さ、雰囲気の作り方などあらゆる技術がみるみる良くなっていった。それは素人の僕から見ても明らかで、裏付けるように夏の大会では観客をどよめかせていた。
 もっとも、一個人の芝居の上手さだけで勝ち上がれるはずはなく、僕らはあっけなく県予選で敗退したわけだが。
「あれが小夜ちゃんの演技なんだ……」
 どうやら隣の結生も度肝を抜かれたようだった。
「すごいよな。ちなみにほんとかどうか知らないけど、どこかの芸能事務所からスカウトがあったらしい」
「えっ、本当なんですか⁉」
「いや、だからほんとかどうかわからないんだって」
 実際、来ていてもなんらおかしくないと思う。優れた容姿に加え、それくらい小夜の演技は突出している。今も、片手に台本を持っているとは思えないくらいの臨場感を生み出し、観ている僕らを魅了しているのだから。
 そうして、あっという間に慟哭のシーンは終わった。一拍遅れて雪弥が区切りの合図を出し、場の空気が弛緩する。
「結生ちゃーん!」
 先ほどまでまとっていた空気はどこへやら、小夜が無邪気な笑顔を浮かべて走ってきた。
「小夜ちゃん、すごい! 感動した!」
「えへへ、ありがと! 結生ちゃんにそう言ってもらえるとすっごく嬉しい!」
 僕の隣で二人はあれやこれやと話し始めた。まるで昔からずっと友達だったような親しさで、今日会ったばかりとは思えない。これがコミュ力の高さなのかと、またひとつ僕が持っていないスキルを目の当たりにした。
 水分補給を兼ねた小休止の後、再び練習は始まった。全体で四十分弱の演劇で、シーンごとに区切りをはさみ、流れを確認していく。主役の小夜は当たり前だがほとんどのシーンに登場しており、その度に驚かざるを得なかった。いったいどれほど読み込めばあそこまでの演技ができるんだろうか。そして、少しだけでいいからその熱量を勉強に向けてくれればと思った。
 僕はと言えば、舞台袖で結生に逐一解説をしていた。一応脚本担当なので、今回の演題やストーリーを中心に、僕が知っている限りの演劇の基本についても教えた。結生は吸収が早いらしく、そのほとんどをすぐに理解していた。半端な演劇部員である僕なんかは明日辺りには超えられているに違いない。
「そういえば、先輩はお芝居しないんですか?」
「僕は脚本と裏方担当だから」
「え~つまんない。私役者志望で、先輩と共演するのが夢だったのに~」
「そんなにやけ顔で言われたって誰も信じないぞ」
 どうでもいい質問なんかも時々飛んできてはいたが、そこは適当に受け答えしておいた。
 そうしているうちに、今日予定していた場面まで確認が終わった。
「よし。今日の練習はここまでだ。みんな水分補給を忘れるなよ。あと、今日は居残り練習する人いるか?」
「あたしは少し確認したいところあるし、やる予定」
「小夜か。よし、じゃあ俺と秀も付き合うぞ」
「おい。僕まで巻き込むんじゃない」
 雪弥による部活終了のあいさつに、僕はツッコミを入れる。雪弥が部長になってからというもの、ちょくちょく僕に変なパスが飛んでくるようになったのだが、正直勘弁してほしい。部活が終わってからの練習なんて、各自が勝手にやってくれればいいのに。
 そんなことを思っていると、予想外の方向からまたパスが飛んできた。
「えー、秀先輩も一緒にいきましょ!」
「は?」
 結生だった。見学者でまだ入部前の転校生が、目を輝かせていた。
「私、今日の練習を見てまだまだ知らないことだらけだなって思ったんです。秀先輩の言う通り、もっとたくさんお芝居を観ないといけないなって」
「お、おう……」
「今日の解説もすごくわかりやすかったです。だから、ぜひ居残り練習でもお願いします!」
「お、おう……じゃなくて、いやいやいやいや」
 真剣に話す結生の言葉に危うく乗せられそうになり、僕はすんでのところで訂正する。
「僕は今日用事あるから、それはまたの機会ということに」
「用事って?」
「えと、宿題がたくさんあって」
「秀、今日は夏休みの宿題提出メインだったからそれは無理がある」
 雪弥が余計な補足をした。
「あと家庭教師のバイトもあるし」
「その教え子が居残り練習するんだから大丈夫よね。それに家庭教師は夏休みまでだし」
 小夜も雪弥に続いた。いつもケンカばかりしているのに、こういう時だけ団結するんだからたちが悪い。
「えっと……」
 次の言い訳を探すこと数秒。とりあえず観たいテレビがなどと適当な言い訳を言おうとしたところで、結生が手を合わせ、顔を近づけてきた。
「どうかお願いします、ね?」
 僕にだけ聞こえる声で、「小説のためにも」などと語尾に付け加えられた気がした。
 こいつ、脅してるのか。
 小説を書いていることは誰にも言っていない。もちろん雪弥や小夜にも。理由は恥ずかしいからという至極まっとうなものを筆頭にいろいろあるが、どうしてそのことを彼女が知っているんだろう。
「はあ、わかったよ」
 こうして僕は、人生で初めての居残り練習をすることとなった。


 僕らの学校では、九月の完全下校時刻は午後六時半となっている。午後六時半までには部活の片づけやら帰り支度やらを全て終わらせ、校門の外に出ていないといけない。
 そして演劇部は基本的に午後五時半には部活が終わる。それからは各自勉強したり下校したりと自由に過ごすのだが、一部やる気のある面々が居残り練習と称して完全下校時刻まで引き続き練習をすることができる。もっとも、強豪演劇部などでは断じてないので、そんな物好きが増えるのは本番が近くなった時くらいだ。なのに。
「おぉ、さすが小夜ちゃん!」
「あははっ、ありがと。でも、今のとこはセリフを言うのが少し早かったかな」
「そうだな、俺ももうちょっと溜めがあるといいと思う。あと秀、もう少し真面目にやれ」
「あのな。僕は役者じゃないんだが」
 そんな物好きが、なぜか四人も舞台に揃っていた。いや正確には僕は物好きではないので、三人プラスおまけ一人が正しいか。
「といっても俺よりは上手いんだから、居残り練習の小夜の相手役くらいは務まるだろ」
「務まりたくないんだが。というか、雪弥は熱が入って噛みまくるのを早くどうにかしろ」
「それは小夜が勉強に興味を持つことよりも難しい」
「ムリじゃん」
「ちょっと二人ともーっ!」
 小夜は台本を丸めて僕らをベシベシとたたいた。でも事実なんだからしょうがない。
 居残り練習そっちのけで僕らが戯れていると、ふと視界の端で笑っている結生が目に入った。
「そういえば、結生って役者志望なんだっけ?」
「え?」
 珍しく彼女が驚いた表情を浮かべた。
「そういや今日のミーティングの時は秀と結生の関係性の話ばっかで、肝心なこと聞き損ねてたな」
「それは全面的にこいつのせいだけどな」
「歓迎会は正式入部の明日にしようってなって、部活後もすぐ居残り練習に移っちゃったしね。……あれ。じゃあどこで秀はそれを知ったの? まさかやっぱり二人は……!」
「おい。そういう誤解は解けたんじゃなかったのかよ」
 沈静化した話題と解けたはずの誤解を再燃させる二人を制し、僕は結生に向き直った。
「ほら、練習中に言ってただろ。役者志望なら演じてみるのも大事だし、ここはひとつ小夜の相手役をしてみないか? 何事も実践あるのみだ」
 これが僕の作戦だった。
 僕は役者ではない。多少上手かろうと、小夜の相手をするには全然実力が足りないし、そもそもやる気もない。だが、これが定常化してしまえば、ほぼ毎回居残り練習をしている二人に付き合う羽目になり、必然的に僕も居残り練習をすることになる。それはさすがに勘弁願いたい。ということで、役者志望である結生を相手役にしてしまえばいいと思ったのだ。彼女の勉強にもなるだろうし一石二鳥。誰も不幸にならない。
 主に後半の思惑を押し出しつつ、僕は台本を彼女に手渡した。
「うん……やって、みたい!」
 結生は僕の思惑を知ってか知らずか、おずおずと台本を受け取った。でも仕草とは裏腹に、その目にはやる気が満ち溢れている。やはり、僕よりはよっぽど適任だと思った。
「結生ちゃーん! 一緒にやろー!」
「わわっ」
 そこへ視界の外から小夜が飛び込んできた。勢いそのままに結生に抱きつき、ふらふらとよろめくが、スマートに雪弥が二人を支える。
「小夜、はしゃぎすぎ」
「ごめんごめん。嬉しくって」
「まあ気持ちはわかる。うちは役者不足だからな」
 僕らの高校の演劇部員は、引退した三年生を除けば全部で七人だ。そのうち役者は四人しかいない。以前はもう少しいたが、バイトやら兼部先が忙しいやらで何人かが辞めてしまい、ギリギリのところで回しているのが現状だった。つまり結生は演劇部にとって救世主であり、二人が喜ぶのも無理からぬことだ。
 盛り上がった熱が引くのを待ってから、僕らは改めて配置を変えた。といっても、単純に僕と結生を入れ替えただけだが。
 とりあえず慣れるためにも、先ほど演じていたのと同じく、主人公が旅立つシーンを練習することになった。ここの登場人物は二人で、僕と雪弥は外から見守ることになる。
「よーし、じゃあ始めっ」
 雪弥の言葉を合図に、小夜の雰囲気が変わった。
『私、旅に出るから。兄さんを見つけるまで、戻ってこないつもり。姉さん、あとのことは任せたよ。もし私が帰ってこなかったら死んだと思って』
 真っ直ぐ心に届くような、意志の強さが伝わってくる声色だ。鳥肌が立つのがわかった。
 そして、相対するのは家族に内緒でこっそり見送りをする姉だ。この姉は心の奥底では主人公を心配していたが、高圧的な親が怖くて兄ほど主人公の味方をできなかった。激しい葛藤を抱えたまま訪れた旅立ちの日に、姉はどうにか謝ろうと主人公を見送る。そんな難しい場面だ。
 やや難易度の高い場面を、ずる賢い転校生の少女がどんなふうに演じるのか。僕は珍しく興味を抱いていた。僕をからかっていた時の様子から、演技自体は苦手ではないだろう。解説をしていた時も吞み込みが早かったし、頭も回る。そんな結生が、いったいどんな演技を――。
「――え」
 思わず声が漏れた。
 隣からも、同じような雪弥の声が聞こえた。
 正面にいる小夜も、目を見開いているのがわかった。
 葛藤に悩む姉役の、結生の眼からは、涙が伝っていた。
『ごめん……ごめんね。本当に、ごめんなさい……。私には、こんなことを言う権利はないけれど、それでも……どうか、無事に帰ってきて……お願い、お願い……』
 彼女は泣いていた。
 それでも、声ははっきりと聞こえた。
 悲痛で、どうしたらいいかわからなくて、やっと絞り出したような声だった。
 どれほど悩んだのか。どれほど苦しかったのか。どれほど妹のことを想っていたのか。
 そんな狂おしいほどの感情が、結生の演技には込められていた。
 小夜ほどじゃないけど、ここまでの演技ができるとは……。
 僕は吸い込まれるように、ただひたすらに、結生の瞳から零れ落ちる涙を眺めていた。
「………………その、えっと、私間違っちゃった?」
「「「あ」」」
 僕も、雪弥も、小夜ですら言葉を失っていて。我に返ったのは、結生が不安げな声を発してからだった。
「ご、ごめん! あたしの番だった! その、まさか初っ端から泣きの演技をされるなんて思ってもみなくて。あ、いい意味でね! いい意味で!」
「まさか結生がここまでの演技をできるなんてな。まだ粗削りな部分も多いけど、これは伸びるぞ。秀、お前すごい人材を連れてきたな」
「僕が連れてきたわけじゃないって。いい加減その誤解を忘れろ」
 軽口をたたくも、驚きはまったく抜けていなかった。難しいといわれる泣きの演技を、まさか小夜以外がやるとは思ってもみなかった。しかもセリフも疎かにしておらず、しっかりと感情が込められていたのだから。
「これは、脚本修正だな」
「うん、そだね。秀、人数足りなくて無くしてた主人公の妹役、復活できる? できれば明日の部活までに」
「は?」
 状況が呑み込めず呆然としている結生とは違う意味で、僕もまたあんぐりと口を開けていた。

     *

 翌朝。
 僕は昨日急遽決まった役の復活やら微々たる修正やらを台本に反映させるべく、朝練へと向かっていた。
「ふぁああ……」
 朝は早く、校門までひたすら真っ直ぐ伸びる歩道には誰もいない。
 眠かった。僕の脳が不満げに酸素を欲している。連日の早起きはさすがにきつく、眠さは尋常じゃなかった。
 少しでも眠さを紛らわそうとこうなった経緯を思い返してみるが、明らかに僕の安易な作戦が裏目に出た形だ。
「ほんと、昨日はいろいろありすぎたな」
 珍しく朝練でも行こうかと早起きすれば電車に乗り損ない、そこで変な少女にこっそりと書いていた趣味のWEB小説を見られた。しかもその少女はうちの高校の転校生であり、さらには新入部員でもある。加えて、僕の身代わりに小夜の相手役をしてもらえば、その小夜に迫るほどの演技力を持っている逸材ときた。まったく情報量が多すぎだ。
 ちなみに、当の転校生も学藝祭の演劇への出演は乗り気だった。最初は戸惑っていたようだったが、「出させてもらえるなら全力で演じます!」などと目をキラキラさせていた。
 そんなこんなで、僕は今日の部活前ミーティングまでに脚本を書き換えて台本に反映させ、みんなの了解を得るための準備をしなければならない。面倒なことこの上なかった。
「ふぁあ……」
 もう一度あくびをかみころす。
 もとより僕はそこまで演劇部に注力しているわけではない。朝練だって、これまで片手で数えるほどしか行っていないのだ。それが半強制的に行かざるを得なくなったのだから、昨日の作戦を立てて実行した時の自分を呪いたい。
「はぁ、まあやるしかないか……はふ」
 ほとんど諦め気味のちっぽけな覚悟を決め、再三のあくびをしながら僕は校門をくぐった。
「秀せーんぱいっ。おはようございます」
「わっ、と。え、結生?」
 いきなり名前を呼ばれたことと軽く背中をたたかれたことに驚く。声の方を振り返ると、朝日に負けないくらい眩しい笑顔を浮かべた柊結生が立っていた。……体操服で。
「え、なに。その格好」
「ん? なにって、体操服ですけど。先輩もしかして見たことないんですか」
「そんなわけないだろ。じゃなくて、なんでこんな時間に体操服でこんなところにいるんだよ」
 時間は七時過ぎ。場所は校門前。目の前には学校指定の赤色のジャージとハーフパンツを身にまとった一学年下の後輩。
 登校するには明らかに早いし、そもそも彼女にとって今日は転校初日だ。まさかまだ説明すらしていない朝練にきたわけじゃないだろうし、よくよく見れば荷物はなにも持っていないしで、疑問はどんどん増えていく。
 おそらく間抜けな表情をしているだろう僕を見てか、彼女はクスクスと小さく笑った。
「私がここにいるのは、もちろん早朝自主練のためです。昨日、小夜ちゃんや先輩方から、声の大きさや呼吸の仕方なんかについて教わりましたから。少しでも肺機能を高めようと、早速一時間程度校舎の周辺をまわっていたところでして」
「へ、へえー……」
 想像以上の回答だった。相変わらず彼女といると情報量が多すぎてついていけない。
「そろそろ部室に戻ろうかなって思ってましたし、一緒に行きましょう」
「お、おう……」
 それから僕はほとんど流されるようにして彼女と並んで歩き始めた。
 さすがにまだ朝は早く、校舎の中に生徒の姿はない。微かにグラウンドの方から運動部らしき掛け声が聞こえてくる程度だ。
「静かですね~」
「まだ早朝だからな」
「なんかウキウキしますね」
「僕は眠い」
 何がそんなに楽しいのか、隣を歩く結生は小さくステップを刻んでいる。足どりの重い僕とは正反対だ。
「そういえば、昨日も先輩は眠そうでしたね。駅のホームでうたた寝してましたし」
「早く忘れろ」
 思い出したくもない記憶に、彼女はまた小さく笑う。
「無理ですよ。だって、面白い物語を読ませてもらいましたから」
「もうその戦法には乗らないぞ」
「いやいや本当ですって。それで、続きはいつ書けそうですか?」
 これまた無邪気に結生は聞いてきた。こう何度も聞かれると、実は本当に楽しみにしてくれているんじゃないかと思ってしまう。
 そしてもしそうなら、やや僕の態度は不誠実であるようにも感じた。
「そうだな。じゃあ今からする僕の質問に、正直に答えてくれたら教えるよ」
「わかりました。じゃあまず、私に彼氏がいるかどうかって質問ですけど」
「そんなことは聞いていないし、一ミリも興味ない」
「ひど!」
 ぎゃあぎゃあとわめく彼女を受け流しつつ、僕は質問の内容を考える。
「じゃあまず、昨日どうして僕の名前や学年がわかったんだ?」
「え、そんなことでいいんですか?」
「質問はこれだけじゃないけど、とりあえずは」
「いくつもするなんて聞いてない!」
「昨日結生もしただろ。どの口が」
「アハハッ、まあいいですけど。えっと、先輩の名前と学年ですよね。なんてことないです。先輩のスマホケースに入っている学生証を見ただけですよ」
「あ」
 言われて僕は自分のスマホを見る。僕のスマホケースは手帳型で、蓋にあたる左側には三つほどカードが入れられるようになっている。一番上にはよく使う電車のICカードを入れており、チャージの時などよく出し入れしている。しかし、その下二つに入れている学生証と保険証はほとんど使わないのですっかり忘れていた。
「ついでに誕生日もバッチリ見ちゃいました。十二月にはお祝いしますね!」
「しなくていい」
 なんたる失態。部室に着いたら学生証と保険証は別のところに仕舞おうと決心してから、僕は次の質問に移った。
「あとこれも単純な疑問だけど、昨日は転校の手続きに来たって言ってたのに、なんで朝反対方向の電車に乗って行ったんだ?」
「ああ、単に午前中は別の用事があっただけですよ」
「用事?」
「はい。おかげで転校初日が一日延びて今日になっちゃいました」
「なるほどね。だから新学期の二日目からとかいう、微妙なタイミングでの転入になったのか」
「微妙うるさいです」
 結生はむくれたように頬を膨らませた。さっきの仕返しだ。
「ほかにはそうだな。僕が演劇部にいるってこと、結生は知ってたのか?」
「いや、知らなかったですけど」
「あれ、そうなのか」
 これは意外だった。彼女があの時「次に会った時にでも教えて」と言ったのは、てっきり僕が所属している部活を知っていたか、ある程度推測していたからだと思っていた。あの編集画面には、僕が書いている小説のほか、演劇部で使う脚本も載っていたし。
「じゃあ、どうして昨日、『答えは次会った時にでも教えて』なんて」
「んー、ただ単に勘ですね」
「は?」
「同じ高校みたいですし、どこかで会えるかな~って」
 結生は楽しそうに、僕ら以外誰もいない廊下でくるりと舞う。
「そんな適当な」
「先輩は小説の読みすぎですよ。現実の言葉に深い意味なんてほとんどないです」
「まあ、それはそうかもしれないけど」
 まさか後輩に諭される日が来ようとは。本当に、つくづく彼女は僕の予想の斜め上をいく。テンション高めに少し前を歩く彼女の後ろ姿からは、そんな深い思慮なんて微塵も感じられないのに。
「ほらほら~もうすぐ部室に着いちゃいますよ。さっきからどうでもいい質問ばっかりですけど、ほかに何かありますか?」
「あ、ああ」
 気づけば、遠目に部室となっている空き教室の扉が見えた。おそらく質問はあと一つがいいところだろう。
 ただ正直、特に聞きたいことはなかった。これはあくまでも理由付けだ。彼女からの三度にわたる問いに答えるのは、僕の作品を「面白い」と評してくれたことへのお返しなどではなく、僕の質問に答えてくれたことへの対価なのだ。
 それでもせっかくの機会だし、質問しないというのももったいない。何かないものかと、鼻歌混じりの後ろ姿を見つめる。
「じゃあ最後に聞くけど」
「はい」
「なんでそんなに僕に構うんだ?」
 言ってから、しまったと思った。本当にただ純粋に思いついた質問だったのだが、これだとまるでうっとうしいと明言しているようなものだ。僕はなるべく周囲とは波風立てず、一定の距離を保って接していきたい。これはその逆をいくことになりかねない。
 それでも一度口に出してしまったものは取り戻せない。「あ、その、えっと……」などと、僕がつなぐ当てのない間投詞をいくつか発していると、結生は一度立ち止まってから、ゆっくりと振り返った。
「――好きだから、だよ」
「え」
 唐突な言葉に、時が止まった気がした。
 外から聞こえていた運動部の掛け声が急速に遠のいていき、代わりに胸の辺りの音がうるさくなり、早くなる。
 夏と大差ない陽光のせいか顔も熱くなってきて、僕の思考はどんどん鈍くなっていった。
 ちょっと待て。どういうことだ。こいつは会って二日目の先輩に何を言っている。
 もっともかつ安直な疑問が次々と浮かぶ。彼女の眼はいやに真剣で、からかっているような色は微塵もない。それが逆に、僕の思考をより混乱させた。
 そうして青春の沈黙が三秒、五秒と過ぎていき、十秒くらい経ったところで彼女が不思議そうに首を傾げた。
「どうしたんですか。先輩、早く続きのセリフを言ってください」
「は?」
 続き? セリフ? いったいなんの…………あ。
 そこで思い出した。この場面、いや正確には先ほど僕が言った言葉は、ちょうど僕が書いていた小説のセリフであったことを。
 そして彼女が発した返しに、ゆっくりと振り返る仕草は、まさに僕が書いていた場面そのものだったことを……。
「あ、えと」
「あれ? もしかして先輩、本気の告白だと思ったんじゃ」
「断じて違う!」
 僕は彼女の言葉を遮って叫んだ。それが逆に図星であることを物語る可能性があることなど考えもせずに。
 目の前の小悪魔は、気づいてか気づかずか、クックックッと不気味な声で笑った。
「いや~先輩ってからかいがいがありますね」
「そういう結生は本当に意地悪だな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
 昨日といい今日といい、本当に振り回されっぱなしだ。先輩の威厳もなにもあったもんじゃない。それになんだか最後の問いについては上手くはぐらかされているし。
「まあいいか。それで、僕がいつ続きを投稿するか、だったか」
「ああ、それはもういいです」
「は?」
 また予想とはかけ離れた返答に、朝だけでもう片手では数え切れないほど発している聞き返しが、僕の口からこぼれる。
「その代わりといってはなんですが、先輩。私の演技力向上練習に付き合ってください」
「え?」
 演技力向上、練習?
「やっぱり昨日先輩もおっしゃっていた通り、何事も実践あるのみだと思うんです。昨日は褒めてくれましたけど、やっぱり小夜ちゃんに比べたらまだまだですし、もっと頑張りたいんです。そしてせっかくなら今みたいに先輩の小説をもとに演技の練習をしたいなって思って! そうすれば続きも読めますし、一石二鳥じゃないですか!」
「え、ええ?」
「先輩も、私の演技から小説の修正点とかもっといい表現とか展開とか、いろいろ見つかるかもしれないですし。どうせならそう! 一緒に最高の物語を創り上げましょう!」
「え、えええぇぇ……」
 その時僕は、完全に彼女のやる気の底を見誤っていたのだと悟った。


 無茶苦茶な道中とは裏腹に、朝練は真面目そのものだった。
 結生は、「まあ考えといてくださいね!」とだけ言ったきり、動画を参考に発声練習を始めた。しばらくして小夜と雪弥が来てからは、二人から具体的な方法を聞いて熱心に声出しや基本的な動きなどを練習していたみたいだった。
 みたい、というのは、僕が直接その練習を見ていたわけではないからだ。僕は部室に隣接した小道具や工具などがしまってある小部屋で、昨日決まった通りに脚本を修正していた。
 小部屋には教室と同じ机や椅子がいくつかあり、メイクなどでも使っているので埃っぽさもなく、居心地はかなりいい。それもあってか、どうにか僕は朝練の間に脚本修正を終わらせることができた。あとは雪弥に任せておけばいいので、僕の役目はひとまず終了となる。
 朝練を終え、微かな解放感と眠気を感じながら、僕はいつも通り一限目の授業を受けていた。
「えー、新学期からは夏にやった指数を応用した対数の単元を……」
 聞き慣れた年配男性教師の声は、夏休み前となんら変わらない。
 教室の後ろから眺める景色も、窓の外の風景も、退屈な授業も、なにも変わっていない。
 それなのに、僕の心の中だけは、夏休み以前とは比べ物にならないほどざわめき立っていた。
 一緒に最高の物語を創る――。
 まったくもって、思ってもみない発想だった。
 どこからそんな発想が出てくるんだろうと思った。
 そしてなにより、どうしてそんなに全力で取り組めるんだろうと不思議だった。
 僕はこれまで、演劇部にいながら演技から積極的に何かを得ようとしたことはなかった。目論見通り、結果的に小説の参考になったことはあったものの、基本幼馴染たちがいるから所属しているだけの部活で、必要以上に頑張ろうとは思わない。部員たちから嫌われない程度に取り組んで場に馴染み、あとはなんとなくやっていればよかった。
 でも、彼女は違う。
 正式入部前に自主練を始めるほど全力で、演技力を少しでも上げるために会って間もない先輩を含めた周囲も巻き込んでいく。相手のやる気を誘うのも上手いし、小夜ほどじゃないが実力も伴っている。間違いなく、僕とは持っている意欲のレベルが違う。小夜や雪弥のやる気もすごいが、結生のやる気の高さはまた別格だと思えた。
「じゃあこの問いを……室崎。前に出て解いてみてくれ」
「……はい」
 不意に呼ばれた名前に一瞬ドキッとしたが、なんとなくは聞いていたので問題はなかった。
 黒板に歩み寄り、白墨で書かれた文字を見つめる。
 対数の基本計算。底を揃えさえすればただの簡単な足し算だ。僕は途中式を省き、答えだけを書いた。
「解けました」
「ふむ、正解だ。だが、テストの時は途中式もしっかり書くようにな」
 こんなの、なんの役に立つんだろう。
 僕は小さく頷き、足早に席に戻った。授業は滞りなく再開した。
 なんだか、僕らしくないなと思った。
 容易には解けそうにない心のモヤモヤが、どうにも気持ち悪かった。
 結局それは一限目が終わっても、昼休みを過ぎても、五限目終了のチャイムが鳴っても解けなかった。僕は担任の先生に腹が痛いとうそをつき、六限目が始まる前に早退した。
 ――一緒に最高の物語を創り上げましょう!
 まだ日が落ちていない帰り道でも、彼女の言葉が脳裏に響いていた。


 僕は中学の時、結生と同じように転校をした経験がある。
 しかしその理由は、親の仕事の都合や人間関係の問題などではない。
 ただの、ドロップアウトだ。
「秀くんはとっても優秀ですので、難関の私立中学を目指してみるのもいいでしょう!」
 小学三年生から通っていた塾の先生は、目を輝かせて僕の母にそんな言葉を投げかけた。
 それを機に、母は僕の学費を稼ぐためにパートを辞めて正社員になり、毎日夜遅くまで働いていた。父も期待してくれ、平日は残業三昧、休日は僕の勉強を熱心にみていた。二人からの期待はプレッシャーでもあったが同時に嬉しくもあり、挑戦してみたいという気持ちもあったので、僕は意欲十分で平日も休日も勉強に取り組んでいた。
 そうしてやっとの思いで入った某私立中学は、次元が違った。
 僕より何倍も頭のいい同級生たち。授業のスピードは速く、僕はついていくのがやっとだった。調子が良くて全体の真ん中。基本的には下の中程度の位置。しかも上位層は勉強だけでなくスポーツも優秀。サッカーやら陸上やらバスケやらで地方大会、ひいては全国大会進出なんて人もいた。僕には部活なんてやっている余裕はなかった。
 人見知り気味で、人付き合いが得意ではない性格も災いした。元々そんなに和気あいあいとした雰囲気のクラスではなかったが、最低限の交流はしっかり行われていた。勉強の教え合いや受験情報の交換、学校のイベントに、部活の話題やなんてことない日常会話が、休み時間には飛び交っていた。予習や復習で手一杯だった僕はそれに混ざることなく、必死に机にかじりついて勉強していた。気づけばクラスで仲の良い友達などはおらず、独りになっていた。
 結局、僕は所詮井の中の蛙で、送り出してくれた親や先生の期待に応えられることなく、半年程度でドロップアウトした。
 落ち込む僕に、親をはじめ周囲は優しく慰めてくれた。
 仕方ないよ。仕方ないわ。お前はよく頑張った。偉いぞ。今は少し休め。次また頑張ろう。
 温かみのある言葉の数々は、確かに僕の傷を癒してくれた。おかげで僕は非行に走ることも引きこもりになることもなく、普通に地元の中学へ転校し、普通に学校生活を再開することができた。そこには見知った顔のほか雪弥もいたし、翌年には小夜も進学してきたので前のように僕が孤立することはなかった。
 どこにでもある挫折と復活。なんてことはない人生の山谷。僕が好きだった小説や映画ではもっと酷い挫折やトラウマがあるし、それに比べれば実にありきたりで気にすることもない些細なこと。こんな失敗、長い人生においてはごまんとあるし、これからも幾度となく直面する。だから、気に病む必要なんてない。
 これに限らず、大なり小なり失敗するたびにそう自分に言い聞かせて、ここまできた。
 間違っていたとは思わない。事実だし、そうやっていろんな経験をしていくのが人生だ。
 ただ、そうしていくうちにいつの間にか、僕はなんだかいろんなことが面倒くさく感じるようになった。退屈になった。一歩引いて物事を見据え、外から冷静に見つめ、少しだけ中に加わる。あとは上手くやり過ごす。その方が楽だし、自然とそうするようになっていった。
 高校に進学してからも、勉強も部活も一定の距離を保って取り組んできた。雪弥や小夜は部活に没頭していたが、僕はそこまで力を入れようとは思わなかった。趣味だった小説の参考になれば程度に思って、雪弥の誘いに乗ったまでだ。最低限の知識だけは学んで自分の役割をこなしているが、今でも演劇にあまり興味はないし必要以上のことを知ろうとも思わない。そうして波風立てず、気ままに日々を過ごしていた。
 それが僕の理想とする高校生活だった。
 その、はずだった。


 バタン、と強めに扉が閉まる音で目が覚めた。
 帰った時には明るかった室内は、いつの間にか随分と暗くなっていた。
 帰ってすぐ寝てしまったんだったか。
 記憶が曖昧だった。僕はぼんやりした頭をもたげ、ゆっくりと体を起こす。ベッドが微かに軋み、静まり返っていた自室に小さな音をもたらした。いつもはそれだけで、またすぐに静寂が辺りを包み込んでいくのだが、今日は少し違っていた。
「……もう帰ってるのか」
 一階の方から物音が聞こえる。何かを乱暴に置く音。布がうるさく擦れる音。足音も必要以上に大きい。
 正直に言えば自室から出たくはなかったが、喉がカラカラに渇いていた。僕は手探りで部屋の電気を点けてから、足取りも重く一階のキッチンに向かった。
「あら、秀。まだ起きてたのね」
 気だるそうな声が聞こえた。幼い頃から何度も、それこそ約十七年聞き続けているはずの声なのに、どうしてか耳馴染みが悪い気がした。
「母さん、帰ってたんだ」
「ええ、少し早く仕事が終わってね」
 そこには、スーツ姿のまま倒れ込むようにしてソファにもたれかかっている母がいた。
 早く仕事が終わった、というわりには見るからに疲れ切っていた。顔色もあまり良くないし、コートやバッグは乱雑に投げ棄ててある。
「……カフェオレ入れるけど、飲む?」
「お願いするわ」
 僕はリビングの光景から目を背けるようにしてキッチンへ移動した。その間に、予想していた通り母はつらつらと愚痴をこぼし始めた。上司の愚痴、担当業務の愚痴、取引先の愚痴。聞き飽きた顔も知らない部長の名前や同僚の名前があがるが、僕の知ったことじゃない。そして愚痴の最終的な矛先は、未だ家に帰っていない父へと向くのだ。
「まったく、あの人はいつもそうなのよ。面倒な手続きはいっつも私任せ。家事の分担だって私の方が手間がかかるものが多いし。なんなのよ、ほんとに」
 よくもまあそこまで次々と言葉が出てくるものだと思う。僕なんか、登場人物の一言を書くのですら悩むというのに。
 マシンガンのように話し続ける声を聞き流しながら、僕はインスタントの粉を入れたコップにお湯を注いだ。スプーンで軽くかき混ぜ、リビングへと持っていく。
「はい」
「悪いわね」
「じゃあ、僕は部屋で勉強してるから」
 カフェオレの入ったコップを片手に、足早に廊下へと向かう。
「あ、そうそう」
 そこへ、思い出したような母の声があがった。
「秀、最近学校どう? 勉強とか大丈夫?」
 そこには若干気を遣うような色が含まれていた。きっと中学の時のことを心配しているんだろう。
 僕はちらりと目をやってから、徐に頷いた。
「うん、大丈夫。問題ないよ」
「そう、なら良かった。勉強もほどほどにね」
「わかってる」
 今度こそ僕はリビングを出た。廊下を歩き、自室へと続く階段を昇っていく。部屋のドアを開けようとしたところで、一階から玄関の扉が開く音がした。
「はぁ~あ、今日も疲れたな」
 またこの時間には滅多に聞かない声が響く。続けて、玄関の扉が閉まる音にビニール袋の擦れる音が聞こえた。
 僕は少しだけ迷いつつも、そのまま自室に引っ込んだ。椅子に腰かけ、引き出しからイヤホンを取り出して耳につける。
「……ちっ」
 作業用BGMを流す直前、それは微かに耳に入ってきた。一度苦情がきてから怒鳴る頻度は減ったが、それでも喧嘩自体がなくなることはなかった。
 川のせせらぎが聴こえる。小鳥のさえずりが駆ける。葉擦れの音が鳴る。新緑に満ちた森の中には言い争いなんてない。でも一回聞いてしまえば、耳の奥にこびりついてなかなか離れてくれない。勉強をする時もゲームで遊ぶ時も小説を書く時にも、邪魔でしかない。
 そして考えてしまう。
 仕事をして疲れ果てている両親の顔を。
 何気ない挨拶や談笑すら消えてしまった今の生活を。
 その原因の多くが、自分に起因するものであろうということを。
 なにかに追い立てられるように僕はパソコンを立ち上げ、いつものWEB小説編集画面にアクセスした。いつものように少し前に書いた己の文章を読み、いつものように想像を膨らませ、いつものようにキーボードの上へ指を置く。
 空想の世界が綴られている画面を見つめて、ふと思った。
 もしかしたら僕は、逃避の手段として小説を書いているのかもしれない。
 趣味として、一時でも空想に浸ることで逃げているのかもしれない。
 その時間だけは、現実を見つめなくて済むから。
 そこには、誰かを楽しませようなんて高尚な考えはない。
 だからきっと僕は、いつまでも小説を非公開にしているんだろう。
 面白いと言ってくれた彼女と、「続きをいつまでに書く」なんて約束すらできないんだろう。
 なんて、ざまだ。
 そこまで考えた時、耳元で流れていた新緑の音が遠のいた。続けて、彼女の声がまた僕を苦しめる。
 ――一緒に最高の物語を創り上げましょう!
 彼女の笑顔が、また僕に聞いてくる。
「逃げ道、か」
 なんとなく、嫌だなと思った。


 翌朝、僕はいつもより一時間早く家を出た。
 理由は単純。喧嘩して機嫌の悪い両親とはちあわせしたくなかったからだ。
 僕の両親は共働きで、朝は早く夜も遅い。昨日はたまたま会話をしたが、普段平日に顔を合わせることはほとんどない。
 しかし、夫婦喧嘩をした翌日は別だ。喧嘩をした次の日は、疲れからか両親ともに少し遅めに家を出る。そしてその時間が、ちょうど僕が登校する時間と重なるのだ。あのなんとも言えない気まずい空気を朝から味わうのだけは勘弁したかった。
 いつもより一時間早い駅のホームには、いつも見ない人たちが並んでいた。そんな見慣れない大人たちに紛れて電車に乗り、いつもより一時間早い通学路を歩き、途中でいつもはない邂逅を経て、いつもより四十分早く学校に着いた。
「いや~まさか秀先輩と登校途中に会うとは。今日は良い一日になりそうです」
「それだけで良い一日になったら苦労しないけどな」
 普段より倍近く登校に時間がかかったのは無論、隣にいる結生のせいだ。
道中の曲がり角でばったりと出くわし、お互いよそ見をしていたのでぶつかりそうになった。「食パンくわえておけばよかった」などと訳の分からない話から、「小夜ちゃんと隣の席になりました!」という転校初日のあれこれ話を相手にしていたら、予想以上に時間がかかってしまったわけである。それでも、朝練をする時より随分と早い時間ではあるけれど。
「そういえば先輩、体調は良くなりました?」
 部室までの道すがら、結生は思い出したように聞いてきた。
 言われて、そういえば昨日は腹痛で早退したんだったかと思い返す。きっと、雪弥あたりが先生から聞いて伝えたんだろう。
「ああ、大丈夫。心配かけて悪いな」
 彼女の言い方からしてそんなに心配してくれているようには見えなかったが、僕はひとまず謝っておいた。
「いえ、そこまで心配してなかったので謝らないでください」
 案の定だった。
「そこはうそでも『めっちゃ心配してました』って言うところだぞ」
「私、先輩にうそはつきませんので!」
「ほんとかよ」
 なんとも信用ならない言葉だ。
 僕が訝し気な視線を向けると、結生は対抗するかのように朗らかに笑った。ほんとよく笑うよな、なんて思って、僕もつい笑ってしまった。
 すると、今度はなぜか彼女の方が真顔になって、不思議そうに首を傾げた。
「どうした?」
「いや、なんか先輩いつもと違うなって思いまして」
 その言葉に、また僕は噴き出した。
「お前な、いつもとって、まだ会って三日しか経ってないぞ」
「それはそうなんですけど。って、もう笑わないでください!」
 ベシッと背中をはたかれる。ちょっとだけ痛い。そこで、一時間前まで心に渦巻いていたモヤモヤがなくなっていることに気づいて、僕はまた笑ってしまう。本当に不思議だった。
「わ、悪い悪い。お詫びと言ってはなんだけど、よかったらこれ見てくれ」
 これ以上笑っていると本当に怒られそうなので、僕は笑いを誤魔化すべく、昨日の夜に書き上げた成果を彼女に渡した。
「ん? スマホって……え! これ、もしかして」
「うん。昨日、小説の続きを書いてみた。満足のいく仕上がりじゃないし、あんまり書けてないけど、とりあえずは書いたから一応報告がてら見せ」
「おぉ、読ませてください!」
 結生は僕の言葉を最後まで聞くことなく部室に駆け込んだ。近くにあった机に鞄を放り投げてから、食い入るように僕のスマホを見始める。
 本当に、面白いって思ってくれてたのか。
 一昨日も昨日も、彼女は僕の書いた小説を褒めてくれていた。べつにうそだと疑っていたわけじゃないが、なにぶん自分以外の誰かに読んでもらう機会などなかったので、こんなふうに真剣に読まれると否が応でも胸は高鳴っていった。
 書いた続きの文字数はそこまで多くない。両親の喧嘩が気になったり、時間が遅かったりしたこともあって四百字程度しか書けていない。でも、結生はなにをそんなに読み込むところがあるのかと思うほどに、じっくりと時間をかけて読んでいた。
 五分か、十分か、二十分か。はたまたそれ以上か。
 そろそろ雪弥や小夜がやってきそうな時間になって、ようやく結生は立ち上がった。
 ひときわ大きく、心臓が跳ねた。
 なにを言われるのか。称賛か、失望か。もしくはまた想像の斜め上からの言葉が投げかけられるのか。
 スマホを胸に抱えた結生は、何事かを考えるように目を閉じている。言葉を、選んでくれているのだろうか。
「その、悪い。まだそこまで書けてないんだ。一応は進んでるって言いたくて見せただけで」
 漂う空気に耐え切れなくて、言い訳がましい言葉を吐く僕の声を、彼女はまた遮った。
『――本当は、どうしたいの?』
 僕を見つめて、彼女は言った。
 射抜くような声だった。
 一瞬、僕に向けられた言葉かと思った。
 でも同じ勘違いは繰り返さない。彼女の眼が、表情が、声が、明らかにいつもの彼女と違っていたから。
『サアヤはいつもそうやって逃げてるけど、それでいいの?』
 僕が書く小説の主人公の名前が呼ばれる。音にすると、意外とセリフに紛れてしまうんだなと思った。
『私はまったく良くない。サアヤには幸せになってほしいの。だから、私にも協力させてよ』
 言葉は静かに、それでも想いは熱く、一心に呼びかけるシーンだ。けれど、なんとなくセリフのテンポが悪い気がする。
 そこで結生はくるりとターンし、さっきまで自分がいた場所を見つめるように向き直ってから、言葉を紡いだ。
『カナデ。私は、あなたにこそ幸せになってほしい。だから、それはできない』
 今度は主人公のセリフ。真っ向から親友の申し出を拒絶し、溝を深めていくわけだが。
 結生が演じる必死な主人公を見て、ここは敢えて拒絶せずぼやかすのもアリだなと思った。
 ここは、主人公と親友が同じ人を好きになってしまった結果、お互い相手のために身を引こうとしている場面だ。ここから二人は自分の想いと友情の葛藤に悩みつつも選択し、成長していくのだが、実は具体的な展開がまだ定まっていなかった。
 主人公には、異世界から転生しており、そこで受けた呪いのせいで寿命が短いという設定がある。敢えてここで申し出を曖昧に受け取っておき、最後には親友の想いを成就させるようにこっそり動く、などといったほうが切なさも高まって面白いかもしれない。
 その後も結生は演技を続けた。時間的には僅か一分程度。ひとつまみともいえる時間だったが、僕の頭の中にはいろいろな展開や改善点が浮かんだ。昨日の夜には思いつかなかったことばかりで、ちょっとだけ悔しかった。
 新しく書いた部分の演技が終わると、結生は「少し解釈を変えたのもやってみるね」と、最初の演技とは微妙に異なる演技でもう一度見せてくれた。セリフの抑揚や表情がさっきとは違っていてまた抱く感想やイメージが変わった。
 そしてなにより、彼女の演技が昨日の朝よりも良くなっていることに僕は驚いていた。
 たった一日。たった数時間の部活。
 そこで彼女は何かを吸収し、確実に成長していた。もしかすると、家でも練習していたのかもしれない。本当に、恐るべきやる気だと思った。
 そうして僕は、結生が演じる一分間に魅せられていた。
 小説の改善に結生の演技と、あれこれ想像を働かせていると、不意に声が止んだ。ハッとして我に返ってみれば、目の前で満足げに笑う結生がいた。
「ふふん、どうですか先輩」
「あ、ああ……良かったよ」
 得意そうに胸を張る彼女に軽口をたたきたかったが、なにも思い浮かばなかった。ただ素直に、少し無愛想に、僕は感想を述べていた。
「でしょ! 昨日も小夜ちゃんと一緒にたくさん演技の練習したんですよ」
 しかし結生は特に気にしたふうもなく言葉を続けた。
「昨日は先輩が修正した台本でしたけど、やっぱり小説もいいですね。描写が丁寧なのでイメージしやすいですし、私みたいな初心者の練習にはもってこいです。もちろん、私好みの物語っていうのも大きいですけど」
「初心者ってレベルの演技じゃないけどな」
「んふふっ、ありがとうございます。それで、どうですか先輩」
 話もそこそこに、といった感じで彼女は僕を見た。改めて投げかけられた言葉と、含みのある視線には、間違いなく昨日の答えを欲しているのが見て取れた。
 真剣で真っ直ぐな眼差しを羨ましく思いつつ、僕は両手を上げて降参の意を示した。
「わかったよ。僕自身、さっきの演技から得られたものは多かった。僕の小説でよければ、いくらでも練習に使ってくれ」
「やりい!」
 ぐっと拳を握るポーズは無邪気そのものだった。目標に向かって一心に取り組もうとするその姿勢は、どこか懐かしかった。
 だから僕は、思わず聞いていた。
「なあ、なんで結生はそんなに全力で取り組めるんだ?」
 かつての自分が持っていた挑戦心と意欲。
 彼女はどこからそれが沸いてくるのか、知りたかった。
「そうですねー。じゃあお礼も兼ねて、先輩には特別に教えといてあげますね。今から言うことは、他の人には秘密ですよ」
 嬉しそうな表情を変えずに、結生は言った。

「実は私、前世の記憶があるんです。
 十七歳で一度この世を去った、そんな記憶が」
 
 僕の耳に届いた声に喜色はなく、

「だから私は、今度は全力で取り組むんです。人生を精一杯楽しみたいから」

 彼女の顔には笑顔が満ちていた。
 どこまでも想像の斜め上をいく彼女に、僕はしばらく言葉を返すことができなかった。

 残暑の気配も、九月を三週間も過ぎればすっかり薄くなっていた。
 学校近くの並木にも黄色や赤が目立ち始め、制服越しに伝わってくる気温も随分と涼しい。
 この過ごしやすく、何をするにも適している秋という季節が僕は好きだ。夏よりも早く部活が終わるので、さっさと帰って宿題を終わらせれば読書なりゲームなりに長く時間をとることができる。しかも、何もしなくても適温なので集中力も続きやすい。
 実に充実した素晴らしい季節だった。去年までは。
「秋と言えば、演技の秋ですね!」
「聞いたことないな」
 去年ならとっくに家に帰っている部活後。僕はほぼ連日、結生の居残り練習に付き合わされていた。
「ほら、秋って夏や冬と違ってすごく過ごしやすいじゃないですか。だから、演技をするにしても集中力は桁違いですし、身も心も入りやすいってもんです」
「それは読書にもスポーツにも芸術にも言えることで、むしろそっちの方が世間一般ではメインだろ」
「もう、先輩はそれでも演劇部員ですか」
「驚くべきことにそうらしい」
 練習中は演技に集中してくれているからまだいい。むしろその合間や、場合によっては普段の休み時間に出くわした時までも、結生がくだらない話をあれこれとしてくるから疲れるのだ。これも、彼女とした約束のせいゆえなんだろうか。
 三週間前。
 新学期が始まって僅か三日で、僕の日常はかなり様変わりした。
 演技力を高めたいという結生の要望で、僕は彼女に練習用台本として、自身の書いている小説を提供することとなった。頻度は週一回。ある程度書き溜めてからじゃないとしっかりした練習にならないので、僕の執筆速度も加味して結生と話し合って決めた。まさか僕が締切に追われるなんて思ってもみず、毎日隙間時間や土日を利用して書き進めていった。
 最初の頃はなかなか思うように書けず、ほかの小説を代わりに、と思いもしたが、結生はどうしても僕の小説でやりたがった。理由は「私が面白いと思ったから」と言い張っていたが、約束をした日に聞いた彼女の背景を考えると納得がいった。
 ――私、前世の記憶があるんです。十七歳で一度この世を去った、そんな記憶が。
 前世の記憶に、短命。これは、今の僕が書いている小説のテーマにもなっている。つまり、今の彼女にとってかなり親近感の持てる内容なんだろう。初めて僕の小説を読まれた時、一番面白かったことに「テーマ」をあげていたし。
 そうして四苦八苦して書き上げた小説を見せる審判の日が、毎週の金曜日だ。結生は基本的に楽しんでくれているようだし、仮に面白くなくてもそこまでひどいことは言わないだろうが、それでもガッカリされると心にくるものはある。どうせ読まれるなら、やっぱり面白いと思ってほしい。そんな緊張感や期待で入り混じった朝の時間が数十分ほど過ぎると、彼女は唐突に空気が変わる。
『ほら、早く行こっ! きっと楽しい日になるよ!』
 結生の演技は、目覚ましい速さで上達していった。いったいどれほど練習を積んでいるんだろうと思うほどだった。その成長スピードは雪弥や小夜だけでなく、ほかの演劇部員も認めるところで、学藝祭準備の盛り上がりもあって結生はあっという間に演劇部に溶け込んでいた。
 そんな期待のホープに自分の拙い小説を演じられるのだから、心臓に悪いことこの上なかった。恥ずかしさもさることながら、演技力向上練習としてやっているので、僕の小説を演じていて調子を崩しては本末転倒だ。彼女の演技を見て思いついた改善点を必死にメモし、どうにか活かして良くしていこうと思うようになっていた。僕の心臓の平穏のためにも。
 こんなサイクルを三周ほど繰り返した結果、不本意ながら、結生はすっかり僕の日常の一部になっていた。
「よし。じゃあ純粋な演劇部員の私は、本日練習のラストスパート頑張ります! しっかり撮ってくださいね! 後で見返して参考にするんですから」
「はいはい」
 僕は言われるがままスマホのカメラアプリを起動し、結生にレンズを向ける。この演技力向上練習を始めてから、僕は台本提供のほか記録係にもなっていた。演技の練習動画を家で見直し、さらに課題を洗い出すらしい。実に見上げた向上心だ。
 舞台全体の見え方を意識して遠近を調整していると、画面越しに結生が笑った。どうやら準備は整ったらしい。
 呆れつつ僕が手を振ると、彼女は小さく頷き、ひと呼吸おいてから演技を再開した。
 画面の中に見る結生には、先ほどまで無邪気に話していた後輩の面影はほとんどない。演者として前を向き、一心に役を演じている。どこまでも真っ直ぐなその姿勢は、彼女の「全力」を体現しているように思えた。
 そしてふと、思い出してしまう。
 ――私、前世の記憶があるんです。十七歳で一度この世を去った、そんな記憶が。
 結生は気にしないでと言っていたが、それは土台無理な話だ。
 あの日彼女から聞いた話は、まるで小説の世界のようだった。
 当たり前だが、聞いてすぐには到底信じられなかった。言われてすぐ、「僕は笑い飛ばせばいいのか」と尋ねてしまったくらいだ。
 前世。言葉として知ってはいても、考える機会はそうあるものじゃない。身近なところだと、占いで前世がバッタだとか武士だとか言われたり、日本史の授業で宗教分野を扱った時にちらりと聞いたりするくらいだ。そしてほとんどの人が、占いで前世がバッタだと言われても本気では信じないし、その場限りの興味で終わる。今の自分の人生には何も関係がないし、影響もないから。
 でも、結生は前世で今と同じ人として生き、若くして病気にかかり、そして死んだのだという。「サナトリウムって木造校舎みたいなんですよ」などと彼女はやたらリアルに知っていることを語ってくれた。「まるで見てきたみたいだ」と素直な感想を述べたら、「見てきたんですよ」と真面目に返された。
 ただし、前世の記憶といってもそれほど多くのことを覚えているわけではないらしかった。何の代わり映えもしない毎日を退屈に感じつつ、時に悪化する症状と闘いながら、日々を無為に過ごしていったらしい。親の顔や名前、前世の自分のことなど、具体的なことはほとんど覚えておらず、ただ空虚で寂しく辛かった感情と、病気に日々抗っていた記憶だけが物心ついた時から残っているとのことだった。
 ――だから私は、今度は全力で取り組むんです。人生を精一杯楽しみたいから。
 どこか儚げながらも嬉しそうに笑う彼女の顔が浮かぶ。その言葉通り、入部前から誰よりも早く来て朝練をこなし、練習にも初心者ながら必死にくらいつき、今も手を抜くことなく懸命に演劇に取り組み、そして日々上達している。
 ちなみに小夜から聞いた話では、日々の勉強やクラスでの行事にも全力かつ直向きで、眩しいくらいらしい。クラスにもあっという間に馴染み、今度の休みには仲の良いグループも交えて遊びに行くとか言っていた。「あたしと違って結生ちゃんは演劇以外にも全力なんだよね。見習わないと」などと小夜が嬉しそうに話していたのが印象的だった。
 確かに眩しかった。
 今の僕とは正反対の生き方。目の前のことを外から眺めているのではなく、入り込んで関わって、そして傷つきもするし喜びもする生き方だ。今の僕には、できない生き方だ。
 そんな彼女の在り方を目の当たりにすると、前世の記憶とやらもあながちうそではないように思えた。
 ――私の言葉を信じるも信じないも、先輩次第です。結局人は、自分が信じた世界でしか生きていないんですから。
 僕の無遠慮な問いかけに、結生はあっけらかんとそう答えていた。なんとも哲学的で、一面的には真理を突いていそうな返しに、僕はそれ以上真偽について追求するのをやめた。理由がどうあれ、彼女が全力で今を生きようとしていることは間違いない。
「まったく、さすがだな」
 画面の中で涙を流す結生を見て、僕はつい小さく笑ってしまった。
 ちょうどそこで彼女の雰囲気がフッと和らいだ。今日の課題としていた場面の、最後のシーンが終わった。
「せんぱーい! 今のどうでしたか。結構上手くできたと思うんですけど!」
「ああ。涙を流すタイミングもばっちりだったし、セリフもそっちに紛れて聞こえにくくなったりもしなかったから良かったんじゃないか」
「ですよね!」
 演技に関してはド素人の僕に、結生は喜色満面で自分の感触を話してくる。細かいところは全く分からないので、適当に相槌を打っておいた。
「あ、そうだ先輩。明日の放課後って空いてますか?」
「明日の放課後?」
 明日は部活がオフの日だ。学藝祭に向けた練習のラストスパートが始まる前に、一度喉や身体に休養を入れようということで自主練もNGになっている。
「もちろん練習とかじゃないですよ。ちょっと先輩の小説の参考になりそうなことがありまして、少しだけお時間をいただきたいんです」
「小説の参考、ね」
 なんだか嫌な予感がするが、自分のためと言われるとどうにも断りにくい。特にこれといった用事もなかったので、僕は悩みつつも「まあそれなら」と了承した。
「やった! じゃあ明日の放課後、正門前で待っててくださいね。忘れて帰ったらダメですよ」
 どこか引っかかる笑顔を振り撒いて、結生は更衣室へと走っていった。

     *

「なるほどね。そういうことか」
 次の日。毎度毎度退屈な授業を終えて正門前に来てみれば、一瞬で状況を察した。
「先輩、遅いですよ。待ちくたびれちゃいました」
「ねぇ、秀。あたしがお願いしても来てくれなかったのに、結生ちゃんだと来るってどういうことなんでしょーか?」
 一年生、もとい学校内でも相当上位に来るであろう整った顔立ちが二つ。
 一方はとても嬉しそうに、実にいい笑みを浮かべていて。
 もう一方はかなり不機嫌そうに、むすっと頬を膨らませていた。
「僕の教室から正門まではわりと遠いんだよ。それと小夜、そんな怒るな。備品の買い出しだとわかってたら、たとえ結生から言われても同じように断ってたよ」
「ほほーう? 本当にそうなんでしょーか」
「あれ。私、学藝祭の買い出しに付き合ってって言ったような?」
「ほら! ほらー! やっぱり結生ちゃんだから来たんだー!」
「おい結生、適当なこと言うな」
 面倒くさいことになった。
 昨日の部活で、僕は小夜から養生テープや裁縫道具などの部活備品の買い出しの手伝いをお願いされていた。もちろん、僕は断った。せっかくのオフに面倒だし、そもそも備品管理は雪弥の担当だったからだ。そこで雪弥はどうしたのかと尋ねると、むしろ小夜も雪弥から頼まれたらしい。
「なんか大事な用事があるって言われて、あたしの好きなアイスなんでも五個買ってくれるっていうから引き受けた」
 などと小夜は言っていた。あのケチな雪弥がアイスを五個も奢るとはよっぽどだ。
 そんなわけで、アイスをひとつ分けてやるからと改めて頼まれたが僕はいち早く逃走した。後ろで小夜が何か叫んでいたが、結生と居残り練習の約束もあったからしょうがなかった。その日、小夜は家の用事で居残り練習に来れないことを知ってやったわけでもないのだ。
 そうして幸運にも無事回避できたと思っていた矢先、結生にはめられて今ここにいる。悪いことはするもんじゃない。
「さて。もう荷物持ちでも何でもするからさっさと行くぞ。時間がもったいない」
 こうなったらとにかく早く終わらせるしかない。また逃げでもしたらそれこそさすがに怒られそうだし、備品が足りなくなるのは僕だって困る。
「もう! 秀、あんたもアイス奢りだからね!」
「えーやった! 私にも奢ってください!」
「絶対に嫌だ」
 ぎゃあぎゃあ言っている二人を尻目に、僕はさっさと駅に向かって歩き出した。


 演劇部の備品は、学校の最寄り駅から二駅乗り継いでいったところにあるショッピングモールの大規模雑貨店で買っている。理由は単純に安いから。そう多くない部費を少しでも上手くやりくりしようと雪弥が提案して決まった。ちなみに、雪弥以外が行くとだいたいお菓子がたくさん買われて、むしろ出費は増えている。
「おっ、見て! このクッキーの大袋めっちゃ安いよ! 休憩用にいくつか買っておこう~」
「小夜ちゃん、このチョコも大特価だって!」
「じゃあそれも行っちゃおう!」
「おい、また雪弥に怒られるぞ」
 今日も類に漏れない買い物を傍目に、僕はリストにあるものを順調にカゴに入れていった。やや買うものは多かったが、所詮は小さなものばかりなので問題はない。あるとすれば、多種多様で面白そうなものが所狭しと並んでいる店内で、ふらふらと物色して回っている後輩二人のお守りの方だった。気持ちはわからないでもないが、関係ないものを次々とカゴに入れようとするのはやめてほしい。この面子だと間違いなく僕が怒られることになる。
 そうして、どうにかこうにか必要なものプラス累々の菓子袋を買ってから、僕らはショッピングモールにあるカフェでひと休みをすることにした。
「いや~どうにか備品が切れる前に買えてよかったね」
 名物のチーズタルトを切り分けつつ小夜が言う。
「まったくだな。あいつ、結構買い出し来てなかったみたいだし」
 コーヒーを口に含んでから、メッセージアプリにある小夜に転送してもらった買い出しリストを改めて見やる。そこには、かなりの数の備品名が並んでいた。どう考えても一人で買いに行ける量じゃなく、小夜の頼みを断ったのが申し訳なくなるくらいだ。
「でも、雪弥先輩の大事な予定ってなんだろうね」
「あ、そっか。結生ちゃんはまだ知らなかったっけ」
 不思議そうに首を傾げている結生に向かって、小夜はどこか楽しそうに言った。
「お兄ちゃんね、響先輩と付き合ってるんだよ。ちょうど去年の秋くらいから」
「え、そうなの⁉」
 ストロベリーフレーバーのドリンクを口に運ぼうとしていた結生の手が止まる。
「うん、なんかね、一年の時に同じクラスで隣の席だったらしくて、部活も同じだったから一気に仲良くなったんだって。それで秋ごろに紅葉狩りデートして、そこで告白してオッケーもらったんだってさ~。だから多分、大事な用事ってのは記念日の準備とかだと思う」
「へぇ~! まさに甘酸っぱい青春って感じだね」
「ほんとよ。響先輩は可愛いし、包容力あるしでお兄ちゃんにはもったいないって感じ。あんなお兄ちゃんのどこがいいんだろ」
「もう小夜ちゃん~、大好きなお兄さんとられたからって拗ねないの」
「拗ねてないし!」
 キャッキャッと姦しく話題を膨らませていく二人を前に、僕はゆっくりとコーヒーをすすった。全くついていけない。ついていきたいとも思わないけど。
 ただ話の内容だけは小説の参考になるかと、転んでもただでは起きない精神で会話内容の端々を聞いていると、不意に結生がこちらを向いた。
「それで? 秀先輩は好きな人とかいないんですか?」
「は?」
 雪弥と響の色恋話で盛り上がっている中、いきなりぶっこまれた予想外の質問に僕は呆けた声をあげた。
「とぼけても無駄ですよ。健全な男子高校生なら好きな人の一人や二人、いるんじゃないですか~?」
「いや二人って」
「付き合っている人じゃないですよ? 秀先輩はいないでしょうし」
「おい」
 当たっているが微妙に失礼な言い草に僕は思わずツッコむ。しかしそれが良くなかった。結生はここぞとばかりに楽しそうな表情を深めて、ニヤリと笑う。
「あれ、もしかして付き合っている人いたんですか? それは失礼しました~」
「え、そうなの秀?」
「いや、いないけど」
「好きな人はいると」
「言ってないし、いない」
「けど、昔はいたんですよね。はいはい、白状してください~」
「あたしも気になる。秀ってあんまり自分のこと話さないし!」
「二人ともうるさいな」
 結生はドリンクを飲みながら、小夜はチーズタルトを食べながら目を輝かせている。
 好きな人、と言っていいのかわからないけれど、確かに僕にも気になる人はこれまで何人かいた。ある時は同じクラスの優しい女の子だったり、またある時は実行委員で少し話すようになった大人しい女子だったり、さらにある時は同じ委員会に所属していた活発な子だったりと様々だった。タイプもなにもあったもんじゃない。
 そして、特段なにか新しい関係に進展したりといったこともなかった。その時々の関係で僕は満足していたし、変えたいとも思わなかった。両想いになって恋人関係になれば楽しいことも多くなるだろうが、同時に面倒事も多くなる。僕にとって、やっぱり恋愛はするのではなく書くだけで十分だ。
 僕が興味なさげにコーヒーを手に取ると、結生はやや不満げにズイッと顔を近づけてきた。
「もう先輩。面白い小説にはこういう話の経験も必要ですよ」
 僕だけに聞こえる声で、そっとささやく。ふわりと甘い匂いが漂った。でもそれは一瞬のことで、瞬く間にコーヒーのほろ苦い香りが鼻孔を覆っていく。
「結生、お前な」
「さあ先輩、観念して恋バナに混ざりましょう!」
「もぐもぐ、あたひも気になる! おひえろ!」
「小夜は食べてから話せ」
 ショッピングモールを出たのは、それからさらに一時間後だった。


 買った備品を学校に持って帰り、仕分けをしていたらあっという間に完全下校時刻になった。
 小夜はこの後家族で外食する予定らしく、親が迎えに来るというのでそのまま学校で別れた。別れ際、「お兄ちゃんに三人分の報酬をせがんでおくね!」と言っていたので、くれぐれもよろしくしておいた。でないと本当に割が合わない。
 そうして学校を出る頃にはすっかり空は茜色に染まっており、僕と結生は二人で帰途についていた。
「あー楽しかった~!」
 駅までの道中にある河原沿い。夕焼けをバックに、結生はご機嫌とばかりにステップを刻む。
「お菓子買いすぎだったけどな」
「いいんですよ。学藝祭も近いんですし」
「ぜんぜん答えになってない」
 僕の素っ気ない返答に、結生はあけすけに笑った。何がそんなに面白いんだろうか。
 僕が呆れて首を振ると、結生は見事な足取りで近づいてきて、そのまま顔をのぞき込んだ。
「ほら、先輩と一緒に見て回る学藝祭の後の打ち上げとかで食べるんですよ」
 しなくてもいいのに、彼女はわざとらしく言葉を強調してまた笑う。対して僕は、より大仰にため息をついた。
「あのな。何度も言うが、同じクラスの友達と回れ。普通、部活の先輩とは回らないぞ」
 ショッピングモールで色恋の話をしたあと、話題は学藝祭に移った。学藝祭では、僕らは演劇をすることになっているが、実際にやるのは午後だ。午前はほかの部活がやっている出し物を見たり模擬店を回ったりと、純粋に楽しむことができる。そんな話をしていたら、何を血迷ったのか、結生が僕と一緒に回りたいと言い出したのだ。
「もちろん、友達とも回りますよ。小夜ちゃんとも模擬店に行く約束してますし」
「じゃあそのままみんなで楽しんでこい」
「でも、部活の先輩と文化祭を回るっていうのも青春っぽくていいじゃないですか」
「なら僕じゃなくて、響とか二年生の女子を誘ったらどうだ。みんな喜んで回ってくれると思うぞ」
「明日誘ってみますよ。でも今、私は先輩を誘っているんです。ね、一緒に見て回りましょ。私は欲張りなので、一日しかない学藝祭をいろんな人とめいいっぱい楽しみたいんです」
 屈託なく、結生は目を細めて微笑む。そこには僕をからかっているような素振りはなく、純粋にそう思っているようだった。相変わらず妥協はなくて、どこまでも全力だ。
「ほんと真っ直ぐだよな」
「何をいまさら。私は前世で早死にしてるんです。後悔しないように、今の私がやりたいことをやるだけですよ」
 結生は僕から距離をとると、また土手道を歩き出した。夕日はいくぶんその位置を沈めていて、空の色もなんとなく紫色になっているような気がする。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけど」
「なんですか?」
 僕の言葉に、結生は顔だけをこちらに向けてきた。
 本当にふと思いついただけの疑問だけに、少しばかり聞くのはためらわれたが、すぐに引っ込めようと思えるほどどうでもいい質問でもなかった。だから僕は、努めて深刻にならないよういつも通りの感じで、口を開いた。
「どうしたら、結生のように全力で生きられるんだ?」
「そうですね。一度死んでみることですかね」
「は?」
 返事は即行で返ってきた。自分が実はくだらない質問をしたのではないかと思ってしまうほどに。しかし彼女の顔は至極真面目で、しかもその内容は、すぐに「はいそうですか」と受け入れられるものではなかった。
「えと、悪い。僕は今、どうしたら全力で生きられるかを聞いたよな?」
「はい。それで私は、一度死んでみることをお勧めしました」
「正気か」
 どうやら聞き間違いでも言い間違いでもないらしい。
「すこぶる正気ですよ。だって私は、一度十七歳で死んじゃったからこそ、今こうして行動できているんです。前世では行動せずにずるずると時間を過ごして、結局後悔しっぱなしでした。一度目の生だったらそんなもんです。だから、一度死んで生まれ変われば、考えも変わって全力になれるんじゃないんですかね」
「それは……」
 僕は言葉を返せなかった。聞く相手を間違えたと思った。彼女は普通の人とは違う。フィクションの世界にあるような、ある種特別な経験を持った人種だ。今流行りの異世界転生ファンタジーで言えば、チート能力にあたるような、そんな類のものだ。そんな人に、あんな質問をすれば答えなんて理解しがたいものになるに決まっている。
 それに、僕は次の生で全力になりたいわけじゃない。
 僕は、この先こんな質問はもうやめようと思った。
「……とまぁ、たちの悪い冗談はこのくらいで。真面目に答えますね」
「はあ?」
 くしゃりと笑ってまた想定外なことを言う結生に、僕は口が半開きになった。
「私の秘密を知ってる秀先輩がそんな質問をするからですよ。少しは反省してください」
「うっ……」
 勢いで聞いてしまったが、改めて考えると後悔して亡くなった悲しい記憶を持つ相手にデリカシーがなかったかもしれない。まあ、これまでそんな礼儀を考える機会もなかったわけだが。
「その、ごめん。確かに配慮が足りなかった」
「わかればいいんです」
 それでも僕が素直に謝ると、結生は笑顔をそのままに許してくれた。そして再度僕に向き直ると、上目遣いになって見上げてきた。
「それで、全力で生きる方法ですよね。簡単ではないですけど、いくつか考えてみたり想像してみたりするのがいいと思います」
「想像?」
「はい。友達とか家族と話したことないですか。将来はサッカー選手になりたいとか、生まれ変わったら鳥になりたいとか」
「ああ、あるな」
 ちなみに僕の小さい頃の夢は医者だった。理由は白衣がかっこいいから。なんとも安直だ。
「それと同じように考えるんです。十年後の自分はどうなっていたいか、でもいいですし、逆に十年後にこんなふうになっているのは嫌だ、でもいいと思います。なるべくリアルに、細かく想像するのがいいですね」
「なんか、怖いな」
 僕は今年十七歳だ。十年後といえば二十七歳。立派なアラサーだ。仕事はしていると思うが、おそらく普通のサラリーマンだろう。結婚とかは、おそらくしていないだろうな。
「怖いのがいいんです。そこから逆算して、どんどん今の自分に近づけてみてください。五年後、三年後、一年後……。そうしたら、なんとなく考え方が少しだけ変わりませんか」
「まあ、少しだけ」
「それを毎日繰り返してたら、行動も変わってくるんじゃないですかね。ほかにも、人間いつ死ぬかわからないみたいなのでもいいと思います。ほら、私は現に一度十七歳で死んでますし!」
 あはははっと結生は豪快に笑った。なんとも反応に困る冗談に、僕は苦笑いを浮かべる。でも確かに考え方としては一理あると思った。
 参考になった、とありきたりな返事で会話を区切ろうとしたところで、彼女が「あ」と何かを思いついたような声をあげた。
「どうした?」
「もうひとつ。こんなふうに考えるのもいいですね」
 意地悪そうに口元を薄くし、彼女は言った。
「もし、今の先輩の人生が二度目だったとしたら。十七歳で一度命を落として、その記憶がただないだけの、今の私と同じ二度目の人生だったとしたら、先輩はどんなふうに生きますか?」
 彼女の口元は変わらず笑っていた。でもなぜか、目は笑っていないように見えた。
「私は、もっといろんなことをしたかったですよ。友達とカラオケに行ったり、いろんなところに旅行へ行ったり、美味しいものを食べたり」
 彼女はまた、僕に一歩近づいた。
「部活に入って楽しく練習したり、買い物をした後にカフェでわいわいお喋りしたり、綺麗な夕焼けの中で学校の先輩と笑って下校したり……したかったですよ。ただそれだけです。何も、難しく考えることはないです」
 息がかかるような近さまで結生は近づいてから、ゆっくりと離れた。
「だから先輩。先輩も前世の自分に胸を張れるよう、学藝祭をめいいっぱい一緒に楽しみましょう!」
 前のめりになったまま、また結生は嬉しそうに笑顔を浮かべた。
 綺麗な夕焼けが、そろそろ終わろうとしていた。
 踵を返して歩き始めた結生を追って、僕は小さく了承の返事を口にした。

     *

 僕らの高校の文化祭、すなわち学藝祭は、一般開放することを前提にしていることもあって土曜日に行われる。僕の所属する演劇部はあまりパッとしないが、美術部や吹奏楽部の実力は折り紙つきだ。毎年その素晴らしい作品や演奏を目当てに多くの人が来校しており、今年も類に漏れず、既に開催三十分にして学校内は大勢の人で賑わっていた。
「今年も盛況だな~! さすがは伝統ある学藝祭だ」
 正門前に立ち並ぶ模擬店で買ったジュースを片手に、雪弥は興奮した様子で辺りを見渡した。
「僕的には多すぎだな。もうちょっと人が減ってくれると嬉しい」
 同じ模擬店のジュースを喉に流し込んでから、僕は溜め込んだ息を吐く。どうもこう人が多いと息がしにくい。
「去年もそんなこと言ってたな。でも帰ったりするのはなしだぞ」
「しないよ」
 そういえば、去年は終始帰りたいとぼやいていた気がする。僕はどうも人混みが苦手で、右も左も人、人、人、といったような場所には極力いたくない。今日だって、先日の約束と舞台設営の人手不足がなければ自室にこもっていた自信がある。
 しかしそんな僕の心境もどこ吹く風。隣でステップでも踏みそうな演劇部部長は、軽快にパンフレットをめくった。
「よーし、そうこなくっちゃな。せっかくだし楽しもうぜ! まずはどうする? 映像部のミニ映画もいいし、漫画研究部の展示も今年はすごいらしいぞ!」
「雪弥に任せるよ」
「オッケー、じゃあ行こうぜ。俺も十一時には菜々花と待ち合わせしてるしな」
 意味ありげな笑みを浮かべて、雪弥は校舎内へと入っていった。僕は特に言及することなく、近くにあったゴミ入れに空のジュース容器を投げ入れ後に続いた。
 それから僕は、彼の気の赴くままに学藝祭を見て回った。
 映像部のミニ映画は、ひと夏の恋の後に訪れた秋をテーマに、切なさと寂しさ、そして恋焦がれる想いを描いたミニ恋愛ストーリーだった。短い時間ながらも儚さがひしひしと伝わってくる素晴らしい出来で、小説の参考になる部分も多かった。
 漫画研究部の展示は、部員による自作漫画を読めるようにしたもので、前評判通り奇抜で斬新な作品が多かった。というのも、今年のテーマは「野心作」らしく、部員がこれまでのスタイルから一歩脱却した真新しさを追求しているとのことだ。その甲斐あってか、展示作を読むまでに二十分近く待たされるほどの人気ぶりだった。雪弥もその内容にはえらく満足したようで、「俺も久しぶりに帰ったら漫画描いてみようかな~!」などと話していた。
 そうしてほかにも美術部の展示やら運動部の模擬店のお菓子やら芸術とは何の関係もない出店やらを楽しんでいたらあっという間に十一時になった。僕らはひとまず、待ち合わせ場所になっている中庭へと移動した。
「じゃあ、俺は昼から準備時間まで菜々花と見て回るから、お前も楽しんでこいよ」
「ああ。午後に影響ない程度にお守りをしてくるわ」
「お守り、ね。お前ら、本当にどんな関係なんだよ」
 雪弥は呆れたように眉を下げてから、首をゆっくり横に振った。
「前も言っただろ。たまたま新学期の朝に駅で見かけただけで、それ以外は雪弥と同じただの先輩後輩だって」
「の、ようには見えないんだよなあ。ちなみに秀さ、気はあるのか?」
「まさか。あるわけないだろ」
 同じ部活の、しかも後輩に対して異性としての好意があるなんて面倒くさい以外の何物でもない。関係がうまくいっている間は冷やかされまくるだろうし、喧嘩したりうまくいかなくなったりしたらそれこそ毎日が地獄だ。後輩でないにしろ、響とも部員ともうまくやれている雪弥は本当にすごいと思う。記念日もしっかり成功したらしいし。
「まっ、いいけどな。一度しかない青春なんだし、悔いのないようにしないと損だぜ?」
「どこかで聞いたようなセリフだな」
 ドヤ顔でクサい言葉を言ってくる雪弥に対し、今度は僕が呆れて首を振った。
 そんな至極くだらないやり取りをしていると、遠目に僕らの方へ手を振っている集団が見えた。
「せんぱいがた~!」
 透き通るような声で叫んでいるのは、言わずもがな結生だ。心なしか周囲の視線が気になる。あいつには羞恥心というものがないんだろうか。
 結生の後ろには、響や小夜、ほかの女子部員たちの姿があった。各々の手には模擬店で売っているお菓子やら展示の配布品やらがあり、どうやら演劇部女子で学藝祭を楽しく見て回っていたようだった。
「十一時ジャストだな」
「当たり前じゃないですか。いつぞやのどこかの先輩さんみたいに、遠いから~なんて言い訳はしません」
「うるさいな」
 買い出しの日のことを言っているんだろう。ここ最近、前にも増して結生の僕に対する態度が遠慮ないものになっている気がする。
 その後、響や小夜たちとも軽く言葉を交わしてから、それぞれ目的の方向へと散っていった。雪弥と響は二人で吹奏楽部の演奏を聴いてからお昼にするらしく体育館へ、小夜は別の高校に進学した中学の時の友達が来ているようで、その案内のために待ち合わせ場所らしい校門へと歩いて行った。
 ほかの部員たちも各々の用事があるらしく、中庭には僕と結生だけが残った。
「それじゃ、僕たちも行くか」
「あ、ちょっと待ってください」
 とりあえず校内へと向かおうとした僕を結生は引き留めた。かと思いきや、いきなり隣に並ぶとスマホの画面を高々と掲げる。
「え、なに」
「ほら、撮りますよ~!」
 うろたえる僕の質問に対する答えはなく、代わりにパシャパシャパシャッと機械質な音が連続して響いた。やや思考停止に陥っていた僕は、それがスマホのシャッター音だと気づくのに数秒の時を要した。
「あはははっ、秀先輩。さすがにポカンとしすぎですよ!」
 連写した写真を次々とスライドして見せながら、結生はゲラゲラと笑った。
「あのな。いきなり撮られると誰だってそうなるだろ」
 僕は素っ気なく答えた。確かにどの写真の僕も間の抜けた表情で収まっている。対して、隣の結生は口元にピースサインをつけた眩しい笑顔を浮かべていた。
「大丈夫ですよ。リベンジチャンスは今からいくらでもあります」
「今から?」
 嫌な予感がした。
 その予感を的中させるがごとく、結生は笑顔の質を眩しいものから意地悪なものへと変えて続ける。
「はい! せっかくなので、先輩の今書いている小説の参考になるようなシチュエーションの写真や動画をいっぱい撮りましょう! ちょうど日常シーンに困っていたようですし!」
「ええぇー……」
 早速午後の本番に影響しそうな気配を察し、僕は小さく頭を抱えた。


 それは、つい昨日のことだった。
 学藝祭前日にもかかわらず、結生は朝練で僕の小説を読み、その演技をしていた。本人曰く、「気分転換も大切!」とのことで、学藝祭の役が崩れないことを条件に僕も小説の続きを見せていた。
 そうして、小説の展開としては中盤に差し掛かろうかという頃の日常シーンを迎えていた。主人公と親友、そして二人の想い人を交えたショッピングの場面。三人でわいわい盛り上がりつつも、後半になるにつれて主人公は三人でいることが辛くなり、途中で帰ってしまうというターニングポイントとなるところだったが、ここで問題が起こった。
「先輩。ここのシーン、なんか変です!」
 何度か演じた後、結生はオブラートに包むことなく言い放った。やれ主人公のモノローグが堅いだとか、三人のやりとりに違和感があるだとかそれはもう忌憚のない意見を述べてきた。一応、感想や意見は遠慮することなく言ってくれと伝えていたので身構えてはいたが、実はここまでダメ出しをくらったのは初めてで軽く落ち込んだ。
 そして話し合ってみたところ、コメディチックな部分に必要以上のシリアス要素が混ざっているようで、それは僕の経験不足が原因だろうということになった。青春小説を書いている人全員が素晴らしい青春を送っているわけではないと思うが、多少なりとも経験していた方が書きやすいのは事実だ。ゆえに、何かしらの対策を考えていたところ、中庭での提案が来たわけである。
 先日の買い出しでの色恋話にあまり混ざれなかったことも引き合いに出されては、僕としては断れるはずもなく、渋々納得して彼女の後についていくこととなった、が。
「秀せんぱーい! これこれ! 小夜ちゃんが言っていた今年の模擬店で一番の注目商品のアートドリンク! さっき売り切れてたんですよ今ありますよすぐ買いましょう!」
 大行列の最後尾でぴょんぴょん飛び跳ねたり、
「秀せんぱーい! あのお化け屋敷いきましょう! なんでも特殊メイクが趣味の人が部活にいて、例年にないくらいの恐怖度らしいですよ!」
 笑い声なのか悲鳴なのかわからない声をあげてお化けと戯れたり、
「秀せんぱーい! お腹すきましたー! あそこのたこ焼き奢ってくださーい!」
 なんとも図々しい物言いでねだったりしていた。ただ本人が気ままにはしゃいでいるようにしか見えないこのシチュエーションを、どう小説に使えというのか。
 一応、結生の言う通りに写真やら動画も撮った。合間にフォルダを何気なく確認したらすごい量になっていて若干引いた。そんなところをまた見られて勢い任せに文句を言ったら、「このくらいの枚数全然ですよ」と笑われた。一時間で百枚超えは普通なんだろうか。
 そうしてあちこち見て回った後、僕は結生に連れられるまま屋上に来ていた。
「いや~学藝祭って楽しいですね~!」
 近くのベンチに腰掛け、結生は満足そうに伸びをした。
「僕は既にくたくただよ」
 たこ焼きのお礼にと結生が買ってきてくれたお茶を飲んで一息つく。冷えたお茶は、疲れた四肢や喉によく沁みた。
「秀先輩は体力なさすぎですよ。役者じゃなくても運動はしないと」
「僕はインドアなんだよ」
「小説にはアウトドアのキャラもいます。なら運動は必須です」
「作者しんどすぎないか」
 書くキャラクターの経験や立場に沿って逐一作者も経験していたんじゃ身がもたない。
「もちろん全部とは言わないですけど、経験して損のあることなんてほとんどありませんよ。運動は健康にとっても大切ですし」
「……なんか、結生ってたまに言ってることがおばちゃんくさくなるよな」
「なんだとー!」
 どうでもいい会話が時間を緩やかに流していく。
 屋上は、中庭と同じく学藝祭の間は休憩用スペースとして開放されている。いつもは倉庫に仕舞われているベンチやら簡易テーブルやらが置かれ、辺りには喧騒が漂っていた。それは仲の良いグループと思しき男子の悪ふざけだったり、スマホでいろんな写真を撮って騒いでいる女子グループだったり、和やかに笑い合っているカップルのような男女ペアだったりした。そのどれもが青春の色を宿していて、とても充実しているように見えた。
 もしかしたらさっきまでの僕たちや今のやり取りさえも、傍からは同じように見えているのかもしれないと思うと、なんだか気恥ずかしくなった。
 そんな戸惑いを覚えつつも隣で明るく笑う後輩の話に耳を傾けていると、不意に十三時開始の吹奏楽部の演奏が風に乗って聞こえてきた。
「わ、もうこんな時間!」
「っと、そろそろ行かないとな。設営にメイクもあるし」
 僕らは手早く広げていたパンフレットや配布品、お昼のゴミなどを片付けてまとめる。
 舞台の本番は十五時だ。大道具などは既に裏へ運び込んでいるが、小道具の確認や役者のメイクなど準備をいくつかしなければならない。
「はあ~~緊張するう~」
「まったくそんなふうに見えないけど」
「我慢してるんです。ちょっと気を抜くと手とか足とかガクブルです」
 緊張の震えって我慢できるんだろうか。素朴な疑問が頭をよぎるが、そもそも結生はまだ入部して一ヵ月とちょっとだ。緊張するなという方が難しい。
「まあ初めての本番だしな。緊張もするだろうけど、結生はいつも通りやれば大丈夫だ」
「いつも通り、ですか。じゃあ先輩、後輩の緊張をほぐすために何かしてくれませんか?」
「え?」
 思わずパンフレットをそろえる手が止まる。
 そして、声のした方へ顔を向けた。そこには、いつも通り意地悪な笑みを浮かべた結生の表情が、なかった。
 そこには、不安げに微笑む結生がいた。
 唐突に見せた彼女の表情に戸惑う。
 演技を除いた今まで、前世の話をした時でさえ、結生がそんな表情をしたことはなかった。
「結生、大丈夫か」
 僕の問いかけに、彼女は答えない。表情も変えないまま、僕をただ見つめていた。
 緊張をほぐすため。
 僕に、何ができるだろうか。
 これまでの経験を思い返すも、そういった場面を避けていたこともあって思い当たることがない。さらに遡れば中学受験だろうが、緊張したまま受験した記憶しかない。どうしたものか。
 吹奏楽の演奏が進んでいく。有名な曲で、中盤に差し掛かろうとしていた。
 時間もあまりない。力強い曲調に押されるように、僕はひとつ息を整え、思考の隅で思いついた方法を実践に移すことにした。
『飾ろうとしないで。お姉ちゃんの、ありのまま姿でいいの』
「……え?」
 僕が普段出さない声に、結生は一瞬ポカンと口を開けた。
『久しぶりにお兄ちゃんと会うから緊張するのはわかる。でも大丈夫。お姉ちゃんなら、大丈夫だから』
 今日の午後からの舞台。演題は「想い合う気持ち」。急遽後から復活させた、結生が演じる妹役の終盤のセリフを、一心不乱に演じる。
『今までの想いをしっかりぶつけて! 応援してる! だいす……き、ダ、ヨ……』
 一心不乱に演じた、つもりだったのだが、最後の最後で羞恥心が勝った。
 一応これでも小夜に限らず役者の練習相手として一年以上台本を書き、読んできた。だから演技もどきのものならできる。女言葉も話せるし、好きじゃない相手に告白だってできる。
 でも、どうも勝手が違った。やっぱり僕は役者には向いていなかったらしい。
 演技中は「自分」に戻ってはいけない。役が抜けてはいけない。なのに、僕は肝心なところで冷静になってしまった。結果……
「ぷっ、あははっ! アハハハハハッ!」
 演劇部期待のホープに盛大に笑われるという状況になった。ついでに言えば、周囲で騒いでいた男子や女子のグループも大爆笑している。なんだこの恥さらしは。
「おい、この、笑いすぎだろ!」
「あは、ふふっ、ご、ごめんなさい……! でも、さすがに、驚いちゃって、アハハハ……ッ!」
 お腹を抱えて、涙を貯めて笑う後輩から目を逸らす。これ以上見るのは、いろいろな意味で無理そうだった。
「ったく、緊張がほぐれるように何かやれって言うから」
「ふふふっ、うん、そう、緊張、ほぐれました! ははっ、ありがとう、ございます、ふふふ」
「そうかそうか。それは何よりだ。本番はせいぜい期待してるよ」
「んふふふっ、はい! 任せてください!」
 元気よく突き出した彼女のピースサインは、まったく震えていなかった。

     *

 演劇が始まる前は、確かに胸が高揚する。
 でもそれは、物語が始まる前の興奮であることが主だ。僕は役者でも演出でも監督でもないので、本番が始まってしまえばできることは少ない。せいぜいが、観客席の後方や上方から記録用の動画を撮っているくらいだ。
 今日も今日とて小道具の状態を確認し、役者のみんなにひと声ずつかけた後はずっとこうしてビデオカメラに張り付いている。
『出て行け! 出来損ないのお前はもう我が家には必要ない!』
 序幕にあたる父役と兄役のやり取りが体育館に響く。体裁を重んじる家系の父親は、我が子が犯罪に手を染めたことを受け入れられず勘当し、疎遠になっている遠方の親戚のところへと追い出す。これを機に家族はどこか歪になり、疎遠になり、やがては仕事や人間関係にも影響を及ぼしていく。
 この発想のもとになっているのは不甲斐ない自分の過去だ。周りの期待を背負い、国内でも最難関の私立中学に進学させてもらったが、あえなく打ちのめされ、耐えることもできずに逃げ出した。さすがに脚本のような酷さはないが、あれから家族はバラバラになり、今もなおその尾を引いてしまっている。
『私、旅に出るから。兄さんを見つけるまで、戻ってこないつもり。姉さん……、あとのことは任せたよ。もし私が帰ってこなかったら、死んだと思って』
 序幕のやり取りが終わった後は、いよいよ生き別れた兄を探しに行く主人公の出番だ。
 仕立てた衣装に身を包み、照明をあてられた小夜の演技は圧巻の一言だ。夏休みから始まった一ヵ月以上にわたる練習を経て、彼女の演技はより精緻で洗練されたものになっていた。
 さらに続く、姉役との涙の掛け合い。一度結生が練習で演じた姉役は、響が演じている。響はメイク担当だが役者も掛け持ちしており、主人公の姉役は落ち着いていておっとりとした彼女の性格とも合っている。結生の時とはまた違った印象で、おおらかかつ包容力のある演技だ。
 そしてここからが、彼女の出番だ。
『待って! 私も連れてって!』
 舞台脇から走り出してくる少女、主人公の妹だ。主人公は驚き、戸惑う様子を見せるも、優しく微笑んで小さく頷く。ここから、主人公たちの兄探しの旅が始まる。
 これが本来の脚本の形だ。ただ残念ながら落ち込み気味の演劇部には部員が少なく、やむなく当初は妹役を無くしてやる予定だった。でも。
 僕は、たった一ヶ月とちょっとの間のことを思い出す。彗星のごとく現れた転校生は、あろうことか本来の転校日前日に部活に乗り込み、居残り練で見事な演技を披露した。翌日には部員全員を納得させ、再修正した元の脚本で演じることになった。
 そこから一ヵ月。元々輝いていた結生の演技はさらに磨きがかかっていった。
 主人公を演じる小夜の周囲で、妹役の結生がはしゃぐ。でもそれは、僅か数時間前に見せていたはしゃぎ方とはまるで違う。随分と幼くて、純真無垢。この世の暗い部分を何も知らない、そんな未熟さを宿した眩しい表情で、くるくると舞台を飛び跳ねている。
 きっと彼女は、これからさらにその演技をさらなる高みへと昇華させていくんだろう。今は僕が書いた小説で練習しているが、それもやがてなくなり、自分の実力に適した方法を模索して、小夜たちとハイレベルな掛け合いを披露していく。その過程に携われただけでも引き受けた甲斐があるってもんだ。
 舞台は家を出て街を抜け、電車を乗り継ぎ、場所を移していく。中盤は、姉妹同士や行く先々での人々とのやり取りがメインだ。話の端々で、家の状況や兄が妹のためにやむなく犯罪に手を染めたこと、兄を見つけてもその先どうしたらいいかわからないことなど、いろんな悩みや葛藤が明るみになっていく。ともすれば、やや退屈なシーンとも受け取れなくもないが、二人の演技力の前では僕の脚本の未熟さなど霞んでしまう。ころころと表情を変えていく二人のやり取りは時に面白く、時に心を打ち、時に涙をそそる。
 また、結生を始めとした部員のアドバイスで、所々変えている部分が多いのもこの中盤だ。伏線として、電車でたまたま乗り合わせたおばさんやカフェのお兄さん、兄の居場所を聞くために話しかけた道端の通行人など、他の人と話すのは基本的に主人公だけだ。最初はあまり気にならないが、徐々に違和感を増やしていき、同行している主人公の妹役の異質性を際立たせていくのがいいだろうということで、最後まで微調整をした部分だ。思えば、こんなにギリギリまで調整したのは入部して初めてかもしれない。
『お兄ちゃん、どうやら叔父さんの家を出て住み込みで働いているみたいだね!』
『うん。別れてから随分経つけど、元気にしてるかな』
 どうにか居場所を探し当て、会うための算段を立てる。そしてここで、あのシーンもある。
『飾ろうとしないで。お姉ちゃんの、ありのまま姿でいいの。久しぶりにお兄ちゃんと会うから緊張するのはわかる。でも大丈夫。お姉ちゃんなら、大丈夫だから。今までの想いをしっかりぶつけて! 応援してる! 大好きだよ……!』
 久しぶりに兄と会う前に緊張して、どんな自分で会おうかと悩んでいる主人公に声をかけるシーンが。
 僕が羞恥ゆえ最後まで言い切れなかったセリフを、僕のおかしな演技を直前に見ているはずの結生は、そんなことなんて微塵も感じさせない演技で言い切る。緊張をほぐすためとはいえ、咄嗟にしてしまったことが影響しないか心配だったが、どうやら杞憂だったらしい。良かった。いつもの僕ならそんな影響を考慮して絶対にやらない。格好悪くても、「いや、結生なら大丈夫だ。自信持てって」なんてありきたりな言葉だけかけて、彼女が許してくれるのを待つだろう。きっと、学藝祭という熱に一時的に当てられただけだ。気を付けねば。
 その後もつつがなく物語は進み、終盤へと差し掛かる。失敗らしい失敗もなく、ラストシーンに続く最後の暗転を迎えた。
『兄さん、また一緒に暮らそうよ。兄さんは悪くないんでしょ? 家族のためを想ってやったことなんでしょ……! それなのにひどいこと言われて、追い出されて……あんまりだよ……』
 ラストシーン。主人公と兄が互いの気持ちをぶつけ合う場面だ。
『いいんだ。俺は自分の信念の通りに動いただけだから。また家族を失うことにならなくて、良かった』
 そして明かされる真実。兄の口から語られる妹殺害の事実と復讐の顛末に、観客が息を呑むのがわかった。シーンの始まりから舞台の端で佇んでいる主人公の妹を見る目が変わる。セリフはなく、手の動きや表情だけで演技をするという難しいものだが、結生はまたしっかりとやり切った。
『お姉ちゃん、お兄ちゃん、みんな……。毎日を、家族を、想いを、どうか大切に』
 結生のセリフと小夜の慟哭。そして続くナレーションを最後に、幕が下りる。
 体育館全体に拍手が響く。
 そこでやっと、僕は自分が息をとめていたのだと自覚し、録画に入らないように気をつけて息を吐いた。いつの間にか鳥肌が立っていて、背中や手には汗をかいていた。
 終わった。文化祭にありがちなハプニングもなく、一ヶ月以上に渡る練習を詰め込んだ四十分の幕は引かれた。
 そこで僕は気づいた。
 微かな充実感と、寂しさを感じてしまっていることに。
 去年はこんな気持ちにならなかったのに。なんとも不思議だ。
 学藝祭の演劇は終わったけれど、僕らの活動はまだまだ続く。そんな打ち切り漫画の終わりにあるような常套文句が浮かぶが、現実世界では周知の事実だ。当たり前のことだ。
 未だに続く拍手の終わり際に、僕も少しだけ混ざらせてもらった。
 なんとなく、手を動かしておきたかった。

     *

 ステージの撤去作業を終え、僅かに残った自由時間をのんびりだらりと過ごし、一般開放の終了時刻が過ぎてから演劇部の担当になっていた正門付近の片づけが終わると、いよいよ学藝祭全体の幕も引かれることとなる。
「わ~終わって欲しくね~! 江波先生、あと一週間くらいやりませんか!」
「そっかー。じゃあ青海だけ打ち上げは一週間後ってことで」
「それは寂しいっ!」
 正門の端で繰り広げられるくだらないやり取りの後、月曜日が代休であることや冬練に向けた連絡事項が伝えられ、めでたく解散となった。ようやく人混みから開放されて自室に引きこもれる、と思う間もなく、まだ興奮冷めやらぬ部長の叫び声が聞こえた。
「こーら、秀! まだ帰んなよ! 打ち上げあるんだからなー!」
「はいはい。場所は?」
「一時間後に駅前集合! 俺は準備があるから先に行っとく!」
 何の準備だ、と思ったが、問い質す前に雪弥は響を連れて足早に去っていった。なんともせっかちなやつだ。響も大変だろうにと思ったが、その顔はむしろほころんでいた。
 至極円満そうなカップルを見送った後、部員たちは荷物の整理やらほかの部の友達との談笑やらをしに散らばっていく。空はすっかり茜色に染まっており、夕暮れ時の物寂しさと相まって、どこかしんみりとした雰囲気がそこには漂っていた。
「や、お疲れ」
 気さくな声が背後から聞こえた。振り返ると、爽やかな笑顔を浮かべた小夜が立っていた。
「おう小夜。お疲れ。演技すごかったな」
「あれ。秀から褒めてくれるなんて珍しい」
「あのな。僕だって褒めるときは褒めるぞ」
 やや失礼な彼女の物言いに、わざとらしくムッとしてみせる。けれど、小夜は「そんな演技じゃ誰も騙されませんよー」とケタケタ笑った。
「なんだか今日はやけに笑われる日だな」
「ん? 誰かに笑われたの?」
「ああ。結生にな。緊張してるっていうから、励ます演技をして見せたら大爆笑された」
「えーなにそれ。めっちゃ気になるんだけど」
「やらないよ」
 あろうことか同じ演技をしろとせがんでくる小夜をいなす。つい話の流れで言ってしまったが、あれはまごうことなき僕の黒歴史だ。もう絶対にやりたくない。
 それからしばらくは粘っていた小夜だったが、意外にも早く諦めてくれた。それから話は再び今日の演劇の話になり、あのシーンが上手くできただとか、この場面の表情が良かっただとか、各々の感想を言い合った。さっき小夜も意外そうにしていたが、僕はあまり自分の感想を言わないタイプだ。自分でもそう思う。でも、なぜか今日は感想が次々と口をついて出た。
「ほんとに今日の秀は饒舌だね。人が変わったみたい」
「うるさいな。学藝祭が終わった直後だからだ。明日になれば戻る」
 自分でも自覚していることを改めて人に指摘されると、どうしてか少しムカつく。きっと心を見透かされているような気がして落ち着かないからだろう。
 僕はそんな気持ちを紛らわす意味でも、努めて素っ気なく小夜に言い放った。でも彼女はまるで動じることなく僕に一歩近づくと、対照的な柔らかい口調で見当違いの言葉を口にした。
「多分だけど、戻らないんじゃないかなー」
「は?」
「だーかーらー、戻らないと思うの。秀は明日も明後日も、今みたいに少し饒舌だと思う」
 小夜には珍しい、遠回りな物言いだった。どういう意味だろうか。僕が明日も興奮を引きずっているとでもいうのか。
「雪弥じゃあるまいし、それはない。なんなら今からだって戻れる」
「言葉だけならね。でも、あたしが言ってるのはそういうことじゃなくて、行動って意味」
 彼女は一歩下がってから、言葉を選ぶようにゆっくりと息を吐いた。
「秀は、変わってきてるよ。結生ちゃんが入部してから」
「え?」
 またよくわからないことを言う小夜に、僕はいよいよ混乱した。
「ううん、正確には戻ってきてるって言い方が正しいかも。今よりも前、中学に入る前の秀に」
「中学に入る前?」
「うん。お兄ちゃんとあれこれ映画とか漫画の感想を言い合ってて、勉強とか好きなゲームとかに熱中してて、その時の感情で結構見切り発車しちゃう癖のあった子どもっぽい秀に、ね」
「……馬鹿にしてるのかよ」
 ようやく少し落ち着いてきた思考で、僕はやっとそれだけを言った。あまり認めたくないことだった。ある程度これからの人生を諦念的に俯瞰して見ていると思っていた僕にとって、それはすぐには受け入れられることではなかった。
 でも小夜に言われて、改めて自覚せざるを得なかった。
 僕がまた少し、少しだけ、自分の人生に何かを期待してしまっていることに。
「あたしは嬉しいよ。またあの頃の秀が戻ってきてくれて。ちょっと妬けちゃうけど、結生ちゃんならまあ、納得だし」
「は? なんの話だ」
「あはは、内緒っ。結生ちゃん、部室に忘れ物取りに行くって。あたしは先に行ってお兄ちゃんの準備手伝ってるから、秀は結生ちゃんが迷わないようにしっかり連れて来てね!」
 小夜は早口にそれだけ言うと、制服を翻して走っていった。だから何の準備だ、とツッコむ暇さえなかった。
 僕は無言で振り返る。校舎は変わらず、橙色の光で染め上げられていた。
「はあ、仕方ないな」
 ひとりで駅に行って怒られるのも面倒なので、僕は足先を校舎の方へと向けた。


 校舎内は、まだ学藝祭の面影があちらこちらにあった。片付けの途中なのだろう、廊下には机や椅子が所々に積み上げられており、開いた窓からは談笑する陽気な声がちらほらと聞こえてくる。人数は随分と減っているが、まだそれなりの生徒が残っているみたいだった。
 外と同じく夕日の色に照らされた廊下を歩き、階段を昇り、また廊下を歩いていく。部室として使われている空き教室が並ぶところまで来ると、人影はほぼなくなっていた。
 なんとなく、結生と歩いたここ一ヶ月あまりの朝が思い出される。彼女と朝練を共にする日は、他の人に見られたくないので必然的にかなり早い時間になる。時には彼女と鉢合わせし、二人でほとんど人のいない早朝の廊下を歩いて部室へと向かっていた。
 ――秀は、変わってきてるよ。結生ちゃんが入部してから。
 小夜に言われた言葉が蘇る。それは、僕自身もなんとなく気づいていたことではあった。
 でも、自分で自覚するのと他人から指摘されるのは違う。僕は、傍から見てもわかるほどに、変わってしまったのだろうか。
 考える。まず思いつくのは、結生の提案を受け入れたことだ。演技力向上練習の台本として、僕の小説を提供する。まず間違いなく、今までの僕ならやらない。そう、あの時は確か「一緒に最高の物語を創ろう」とか言われて、僕は逃げで小説を書いていたくないと思って、それで……。
 軽く頭を振る。少しだけ、クラクラした。
 ほかにはどうか。朝練に行く回数が増えたし、小説のことを考える機会も多くなった。後輩との約束のせいだ。普段なら聞かない変なことを聞いてしまったこともある。前世の記憶とか超前向きな生き方とか、それこそ小説の中の登場人物のような後輩が近くにいるからだ。そういえば僕らしくもない演技披露なんかもやってしまった。でもあれは、目の前にいた後輩が緊張をしているから何かしろと言ってきたからで……。
 僕はさらに頭を振った。さっきよりもクラクラした。でもおかげで、頭の中に浮かんでいたことのいくつかが空気中へ吹っ飛んでくれたようだった。
 先に目を向けると部室が遠目に見えた。廊下は変わらず静まり返っていて、人の気配はないが、ここに来るまで会わなかったのでまだ部室にいるかもしれない。入れ違いになってなければいいんだけど。
 ――好きだから、だよ。
 唐突に、いつかの彼女の声が聞こえた。
 慌てて僕は辺りを見渡した。でも、人影は見えない。当たり前だ。だってあれは、一ヶ月前に、ここで彼女がした演技でのセリフだ。
 そこでふと、小夜が去り際に言っていたことを思い出した。続けて、雪弥にも聞かれたんだったかと苦笑する。兄妹揃って何をそんなに気にしているのか。
 それはありえないと思った。変わったからといって、僕は彼女にそんな感情は抱いていない。あるいは逆に、そんな感情を持ったがゆえに変わったというのもない。ライト文芸にあるような、そんな物語は、ここには生まれていない。
 二、三回深く息を吸って吐き、呼吸を整える。その頃には、既に部室の前に到着していた。さすがに彼女に会って取り乱してはまたからかわれてしまうので、今まで考えたことは全て忘れることにした。
「結生ー? いるかー?」
 努めて平坦な声で呼びかけながら、僕は部室になっている空き教室のドアを開けた。お菓子を保管していたからか、微かに甘い香りが漂っていた。
 そしてやけに静かな教室の中に、彼女はいた。
 窓際に置かれた、普通の教室にあるものと同じ机に前のめりに身体を預け、椅子に腰深く座った姿勢で眠っていた。
「ったく、寝てんのかよ」
 顔はこちらを向いている。閉じられた瞳は僕を捉えていないのに、口元はほころんでいた。微かに上下している背中を見ても、狸寝入りをしているふうではなかった。つまりは、なんとも幸せな夢を見ているだけらしい。お気楽なやつだと思った。
 初めての学藝祭や本番の舞台で疲れたんだろうし、その嬉しそうな顔を見ていると起こすのは忍びないが、さすがに起きるのを待っているわけにもいかない。もうそろそろ学校を出ないと、集合時間に間に合わなくなってしまう。
「おい、結生。起きろ。打ち上げに行くぞ。お前の大好きなお菓子が全部食べられ……」
 その時、カシャンと音がした。
 見ると、僕がいるのとは反対側の床に、化粧ポーチと化粧品が散乱していた。もしかしたら、忘れ物ついでに化粧直しをしていたのかもしれないと思うと、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がした。
 起きる前にさっさと片付けてしまおうと、僕は化粧ポーチを拾い上げた。
「え――」
 血の気が引いた。
 周囲の景色が急速に遠のいていき、僕の視線は一点に釘付けになる。
 ――私、前世の記憶があるんです。十七歳で一度この世を去った、そんな記憶が。
 また、いつかの結生の声が響いた。
 ――死因? 病気ですよ。当時の医学じゃ治せない、いわゆる不治の病ってやつです。
 内容とは裏腹に、あの時の彼女はなぜか笑顔だった。
 ――辛かったですね、あの時は。もう重病なんてまっぴらごめんです。
 時に苦笑いを浮かべつつも、なんてことないように過去の記憶を話していた。
 ――だから私は、今度は全力で取り組むんです。人生を精一杯楽しみたいから。
 あの日言っていた「今度」の意味。何気なく聞き流していた。それでよかった。わかりたくなかった。わからなくてよかった、のに。
 化粧ポーチの底は、見慣れない錠剤とカプセルで埋め尽くされていた。ただの病気ではありえないほどの量の薬。錠剤は種類ごとにまとめられ、朝、昼、夕方などと飲む時間帯とみられるメモが貼られている。そしてカプセルの束には、『辛い時だけ飲む。頑張れ私』と手書きの文字があった。
 手汗がにじむ。
 息が詰まった。
 視界が揺れた。
 でも、どうにかこらえた。
 彼女が言っていた、前世で患ったという大病。実はあれは前世のことではなく、現在のことを遠回しに言っていたのだろうか。そのために彼女は、毎日を後悔しないように、全力で生きているのだろうか。あるいはただの、持病かなにかの薬なんだろうか。命にかかわるような、そんな病気とは違う、べつの、なにか――

「――あーあ。見つかっちゃった」

 突然背後から聞こえた声に、僕は大きく飛びずさった。同時に「ひょえっ」なんて変な声が出て、後ろにいたらしい彼女は小さく噴き出した。
「ふふっ。先輩のそんな声、初めて聞きました。今度また驚かせてみようかな」
「っ、結生……」
 机に突っ伏して寝ていたはずの後輩が、困ったように笑っていた。それだけで、これがたちの悪い冗談などではないことを察してしまう。
「まったく、乙女の秘密をこっそり見るなんて。先輩はひどい人ですね」
「いや、えと、これは……」
「言い訳を探すなんてもっとひどい人です。そんなんじゃ将来、好きな人に愛想つかされちゃいますよ?」
 結生はおもむろに近づくと、そっと僕の手から化粧ポーチを取り上げた。
「こんな時はまず謝る。自分の言い分はその後です」
「その……ごめん」
「よろしい。それでは、言い分をどうぞ」
 彼女の声は妙に落ち着いていた。でもそれが、意図してやっていることだということはすぐにわかった。彼女の普段の演技とは、似ても似つかないほどの、酷いものだったから。
 だから僕は、また僕らしくもなく聞いていた。
「その、化粧ポーチのは……なんなんだ?」
「んー? お薬ですよ。私の命を繋いでくれている大切な、ね」
 ためらう様子もなく、彼女は世間話をするみたいな気安さで答えた。
 対して僕は、冷静なふりをするだけで精一杯だった。
「つまり、前世の記憶っていうのはうそで、本当は今のことだったのか」
「いーえ。病気で早死にした記憶があるのも本当です。私、先輩にうそはつきません」
 想定していた答えと違い、戸惑う。どういうことだ。
 何も言えずに彼女を見返すと、やや間があってから、彼女はゆっくりと口を開いた。
「私は今、前世と同じく、病気にかかっているんですよ。ついでに言えば、どうやら全く同じ病気みたいです」
 彼女は笑っていた。
 僕は絶句していた。
 返す言葉が見当たらず、僕は視線を彷徨わせるしかなかった。
「ああ、でも安心してください。医学の進歩ってすごいですね。今は不治の病ではないみたいです。二十パーセントくらいの確率で治るって聞きました」
 いつの間にか、彼女の笑顔は自然なものになっていた。
「五分の一ですよ、五分の一。すごくないですか。治癒率ゼロパーが二十パーですよ。前世で新薬投与されたり脊髄液とられたりと確かに医療貢献はしましたが、まさか本当に貢献できているとは思ってもみませんでした。驚きですよね」
 声も普段通りで、むしろ少しだけ明るいくらいだった。
「前世の自分が、今の自分を救う。なんか物語みたいじゃないですか。小説にしてもいいですよ。先輩なら許可します。ただし、書いたら必ず見せてくださいね。私が演じてみせますから。最高の演技を先輩に披露しますから。だから、だからね……」
 彼女の黒くて大きな眼が、僕を捉えた。
「そんな顔しないでください……秀先輩」
 僕は慌てて後ろを向き、思わず目元を拭った。
 涙は、流れていなかった。


 結局、僕と結生は打ち上げに行かないことにした。
 衝撃的な事実を目の当たりにして僕は既にそんな気分じゃなかったし、結生に至ってはあまり体調がすぐれないらしい。ちょうど薬を飲んだところで、副作用と疲れゆえに部室で少し眠ってしまったとのことだった。
 すぐに親に連絡して迎えに来てもらった方がいいと言ったが、結生は首を横に振った。
「あんまり心配かけたくないんで大丈夫です。薬も飲んで、だいぶ良くなりましたし」
 それでも心配だったが、結生が頑なに拒むので次体調が悪くなったら連絡するということで決着した。
 打ち上げを欠席して急遽空いた時間で、結生は屋上に行こうと僕を誘った。僕はひとつ頷いて、軽い足取りでさっさと先に行こうとする結生を追った。
 屋上に着くと、辺りは暗くなり始めていた。今日一日学藝祭を照らし続けてくれた太陽は地平線の彼方へと沈み、代わりに半分に欠けた月が顔を出していた。紫がかった空にはぽつぽつと星の光が灯り、今にも消え入りそうなか細さで瞬いている。
「んふふふっ、なんだかドキドキしますね!」
 結生はあどけない笑みを浮かべて空を見上げた。
「そうだな。僕もさすがにこんな時間に屋上に来たことないし」
「おお、それは光栄ですね~。先輩の初めていただきました~」
「変な意味に聞こえるからやめろ」
 あどけない笑顔から小悪魔的な笑顔にその性質を変え、結生は変わらず笑っていた。
「……そういえば、打ち上げ欠席するって雪弥に連絡しとかないとな」
「ああ、さっき小夜ちゃんにしておきました。急用ができたから秀先輩も一緒に休むね、って」
「おい待て。その言い方だとまるで僕たちが一緒にいて、そこで何か用事ができたから休むって意味に聞こえるんだが」
「実際そうなんですから、いいじゃないですか~」
「……週明けどうなっても知らないからな」
「大丈夫ですよ」
 そこには、いつもと同じ空気が流れていた。学藝祭後の興奮も、衝撃的な現実への悲観も見えなかった。くだらない冗談を言って、どうでもいい会話を楽しむ、そんな日常があった。
 でも、そのまま何もなかったことにはできないと思った。だから僕は一呼吸の後、言葉を選びつつ口を開いた。
「ストーップ! 先輩は何も喋っちゃダメです!」
 僕の口から声として言葉が漏れる前に、隣の彼女が小さく叫んだ。
「もう少しだけこのままで。その後に、私から話させてください」
 彼女は笑みを浮かべて、空を眺めていた。
 だから僕もそれに倣うことにした。
 夕暮れ時は過ぎ、黄昏時も終わり、夜の色が濃くなっていく。日の出る時間も随分と短くなった。それは、暑い夏が過ぎ、過ごしやすい秋を経て、寒く厳しい冬の訪れを僕に感じさせた。
 僕は秋が好きだが、冬も嫌いではなかった。寒さに弱くはないし、必要以上に外に出なくて済むし、堂々と部屋にこもって読書や趣味に興じられるから。ただどうしてか、僕は今年の冬をあまり好きになれそうにないと思った。
「高校に入ってからです。私が体調に異変を感じたのは」
 星の数が目に見えて増えた頃、随分と落ち着いた結生の声が聞こえた。
「最初は風邪かなって思う程度だったんです。でも全然治らなくて。おかしいなって、どこかで聞いたことのある症状だなって考えてたら、気づいてしまいました。この身では覚えがないけど、記憶にはありましたから」
 苦笑したのが、彼女の息遣いでわかった。
「そこから先は早かったです。大きな病院で検査して、聞いたことのある耳心地の悪い病名を聞いて、母は取り乱してましたけど、私は思ったより落ち着いていました。何事も二回目は楽だって言葉が、なんとなく思い浮かんでました」
 楽なはずがない。思わずそう言葉にしかけ、彼女に止められる。そうだ。僕は今、喋っちゃいけない。
「確かにショックはショックでしたけど、悪いことばかりじゃありませんでしたよ。前世では治る見込みが無いって言われたのに、今回は、初期症状でわかったこともあって治る可能性があるって言われましたし。さっきも言いましたけど、前世での医療貢献が僅かとはいえ報われていることを知って、嬉しくなりました」
 星から目を離し、彼女はこちらを向いた。また、笑っていた。
「でも、前世は後悔だらけでした。病気のことを受け入れられなくて、死ぬことが怖くて、何よりとっても悲しくて、動ける間もベッドから出ずに毎日を過ごして、動けなくなってからはずっと泣いていました。残された命で、もっと何かできたかもしれないのにって、死に際に思っちゃいました。だから私は、今回の人生では後悔のないようにって、ずっと全力で生きてきました」
 結生は一度目を閉じてから、そのまま視線を空へと戻した。
「病気になる前はもちろん、病気なってからもその考えは変わっていません。治ると治らないとに関わらず、私は残りの命を悔いなく生き抜くんです。病気なんて関係ない。今の私がやりたいことを、ただ全力でやる。それだけです。でも……」
 そこで結生は、一度言葉を区切った。小さく長く息を吐いてから、彼女は一歩前へと進み、こちらを振り返った。
「先輩を巻き込むのは、これで最後にします。さすがにこんな厄介な病気を抱えている人と関わるのは嫌でしょうし、小説とかも書きにくいと思うので。あ、でもいきなり部活やめたりすると不自然なので、これから少しずつ距離を離していきましょう。私が先輩に告白したけどフラれて、気まずいがゆえに疎遠になった同じ部活にいる後輩、みたいに接していただけると、嬉しいですね」
 結生は、まだ笑っていた。
 結生が転入してきてから一ヵ月。何度も何度も見てきた彼女の笑顔。無邪気に笑ったり、悪戯っぽく笑ったり、朗らかに笑ったり、小悪魔みたく笑ったり、柔らかく微笑んだり、お腹を抱えて笑い転げたり……いろんな笑顔を見てきた。僕はそんな笑顔が嫌いではなかった。腹が立つことも、うっとおしく感じることもあったけれど、決して嫌だと思ったことはなかった。
 でもこの笑顔は、嫌いだ。
「あのさ――」
 数分ぶりに声を発した。が、彼女は人差し指を押し付けて塞いできた。
「何も言わなくていいです。ただ黙って、頷いてくれればそれで」
「……」
「秀先輩、そういうの得意ですよね。会った時からわかってました。達観して周囲や自分を見てて、本当の意味で人とは深く関わらないタイプの人だって。だから私も近づいたんです。万が一知られても大丈夫かなって。結果は大正解でした。きっと小夜ちゃんじゃこうはいかない。他の人も同じです。先輩だから、秀先輩だから、私は全てを話したんです。きっと先輩なら、上手く距離を作って私を遠ざけてくれる。そんな信用がある、秀先輩だから私は――」
「うるさいな。少し黙れ」
 僕は自分の口先にあてがわれていた彼女の人差し指を押し返した。
「結生、お前には失望した。最初会った時からなんか変だとは思ってた。勝手に僕のスマホにある小説は読むし、演劇部に入部してからも必要以上に絡んでくるし、小説執筆にかこつけて演技力向上練習とかにも付き合わされるし、なんなんだいったい」
「……」
 僕の強い物言いにも、彼女は動じなかった。真っ直ぐ見つめてくる視線には、むしろそれを当然のことと思っているふうにさえ見えた。
「買い出しの時も、今日の学藝祭もそうだ。自分のやりたいことを優先して、あまつさえ僕を巻き込んで、振り回すだけ振り回して、かと思えば今度は『もういいです』だと? ふざけるな。自分勝手にもほどがあるだろ」
 だから僕も、遠慮なく続けた。
「巻き込むなら、振り回すなら、最後まで巻き込んで振り回せよ」
「……え?」
 彼女の眼が大きく見開かれ、口元に浮かんでいた笑みが消えた。
「確かに僕は自分も周囲も冷めた目で見てたし、見てる。結生には悪いけど、人生なんてくだらないって思ってたし、不仲でいつも疲れてる両親とか見てると世の中にも未来にも期待なんか持てなかった。そんな夢も希望もないところに向かうためにいろいろ頑張るとか、はっきり言って面倒くさすぎるだろ」
 誰かが言っていた。僕は変わってきていると。きっと明日も明後日も饒舌だろう、って。
 どうやら、その通りみたいだった。
「でも最近は、実はそれだけじゃないんじゃないかって思えてもいる。結生の生き方見てたら、なんかいろいろと冷めた目で見てるのがあほらしくなってきて、諦めた価値観でいるのもなんだか馬鹿みたいに思えてきて、そんな考え方でいるのが嫌になってきて、結生みたく自分本位に人生を楽しむのもいいかもって、少しだけ思えるようになった。お前が変に絡んでくるから、そう思えてきたんだ。だったら最後まで、とことん全力で振り回せよ。なに無責任に途中放棄してんだ、結生らしくもない」
「秀、先輩……」
「僕は……結生に全力で振り回された先に、自分がどうなっているのか見てみたい。馬鹿みたいにまた前のめりに頑張れるのか、やっぱり諦めてなんとなく生きているのか。そのためなら、結生が全力で生きるのに協力するよ」
 一息に言い切って、僕は小さく肩で息をした。結生に自分勝手だと言っておきながら、僕のほうもだいぶ自分勝手だなと思った。
 でもこれでいい。
 僕は、ずっと目を背けていた。自覚はしていたけれど、認めたくはなかった。なんだか癪だったから。もしかしたら、見栄を張りたかったのかもしれない。厭世的な自分に酔っていただけなのかもしれない。
 でももはや、そんな意地を張ることの方がくだらない。だったら、言えることは言ってしまえと思った。
 それに。
 例え嫌われようとも、言っておかなければならないと思った。
 さっきの結生の顔は、きっと――。
「……ふ、ふふっ、あははははっ!」
 突然、大きな笑い声が屋上に響き渡った。
 言わずもがな、隣にいる結生だった。
「なんでまた笑う?」
「だ、だって……クサすぎるでしょ、あははっ!」
 結生は目尻に涙を溜め、お腹を抱えて震えていた。この場所といい、その姿勢といい、なんだか強烈な既視感があった。どうもこいつは雰囲気クラッシャーらしい。
「ぐっ……というか! さっき部室じゃ自分のことを小説にして見せてくれーとか言ってなかったか? あれ、もしかして物忘れ? ボケるには早すぎるんじゃないのかー?」
「なっ! あ、あれは先輩が泣きそうな顔してたから!」
「は、はあ? そんな顔してないし、見間違いだろ。言いがかりは止めろ」
「言いがかりじゃありませんー! 先輩こそ記憶どうなってるんですかー!」
「う、うるさいな!」
 それからしばらく、完全下校時刻を知らせる予鈴が鳴るまで僕らは騒いだ。
 屋上の施錠に来た先生に追い立てられるようにして学校を出てからもそれは続いた。
 明日も明後日も。そしてきっと来週もこんな調子なんだろうな、と思えた。
 でもそれも悪くないと思っている自分に、僕はまた、目の前の彼女と同じように笑うほかなかった。

     *

 学藝祭が終わった翌日、僕は朝から最寄りの駅前で眠い目をこすっていた。
「ふぁ……ねむ」
 今日は学校も部活も休みだ。つまりは、一日中自室で好きなことができる貴重な日だ。
 最近は父も母も仕事が忙しいらしく、二人ともそろって家を空けていることが多かった。静かで落ち着いた我が家は居心地がよく、つい昨日の夜までは引きこもる予定だった。が、今日の早朝になってスマホが震え、急遽丸つぶれになったのだ。理由は、言わずもがな手を振って近づいてくる彼女だ。
「秀せんぱーい! 今日も眠そうだね~!」
「誰かさんのせいでな」
 こういう時の第一声は普通、「待った?」とかじゃないだろうか、などと思いつつ、僕はスマホで時間を確認する。朝の八時。一方的に提示された集合時間ジャスト。ついでに言うと、いつもの休日ならまだ寝ている時間だ。
「昨日振り回していいって言ったじゃん。だったらもうとことん遠慮するのは止めにして、巻き込み倒そうって思って!」
「巻き込み倒す?」
 物騒な言葉が聞こえて、僕は一歩身を引いた。
「うん! もしくは、ぶん回す?」
「どんどん危険な方向にいってるからやめろ」
「んふふふっ。はーい!」
 結生は元気よく返事をすると僕の服の袖を掴み、足取り軽やかに駅構内へと引っ張っていった。口調も初めて会った時のように敬語がとれてるし、本当に遠慮をやめたらしい。
 それから彼女に促されるまま改札をくぐり、いつもとは逆方向のホームに立った。電車が来るまではまだ時間があるらしく、ひとまず僕は直近の問題のひとつと向き合うことにした。
「それで、いきなり呼びつけてどこに行くんだ?」
「聖地巡礼だよ!」
 僕の問いに彼女は満面の笑みで答えた。
 はっきり聞こえた。でも僕はいまいち意味がわからず、聞き間違いかともう一度聞き返した。
「すまん、もう一回言ってくれ」
「聖地巡礼に行くの。私が一番よく観た大好きな映画の舞台を巡るの!」
「好きな映画の、聖地巡礼」
 結生の言葉を反芻する。聞き間違いじゃなかった。どうやら本気で彼女の遊びに付き合わされるだけらしい。
 僕が呆然としている間も、彼女は映画について語っていた。そのタイトルはそれなりに有名なアニメーション青春映画で、一応僕も雪弥に誘われて観たことがあった。だから全く楽しめないわけじゃないし、昨日振り回していいと言ったからまんざらではないのだが、普通に考えれば友達と行った方がいいだろうに。ますます意味がわからない。
「ちなみに聞くけど、なんで僕と聖地巡礼に?」
「なんでって、ただ行きたいから?」
「じゃなくて、それは僕じゃないとダメなのか? 部活の先輩よりも、それこそ小夜とかクラスの友達とかのほうが楽しいだろ」
「ああ!」
 僕の意をようやくくみ取ったのか、納得したように結生は頷いた。
「そんなの当然、私の病気のことを知ってるからだよ」
「え?」
 ここでその言葉が出るとは思わず、また僕は聞き返した。
「私ね、何の制限もないように見えるけど、実はいくつか言われてることがあるんだ。その中のひとつに、ひとりで遠出はしないっていうのがあって。やっぱり何があるかわからないし、それに何回も薬を飲んでるところとか友達にあまり見せられないし、これまで行けなくてさ。だから、私の病気を知ってる先輩が、遠慮なく全力で腕が引きちぎれそうになるほど振り回してほしいって言ってくれたおかげで、こうして念願叶って行くことができるの」
「ちょっと待て。そこまでは言ってない」
「あははっ。似たようなもんでしょ。それに演技もしたいし、先輩の小説の参考にもなるかもだし!」
 結生はさらに楽しそうに笑った。
 無理をしている様子はない。でも、その笑顔の後ろにはきっと多くの葛藤や悩みがあるんだろう。それが少しでも紛れるなら、この小旅行に同行するのもいいかなと思った。
 それからしばらくくだんの映画について話していると、僕らが乗る予定の電車がホームに入ってきた。
 初めて会った日は呆然と見送るだけだったが、今日は僕も結生の後に続いて乗り込む。さすがに日曜の朝ともなれば座席は選び放題で、僕らはボックス席に向かい合うようにして座った。
 程なくして電車が発車すると、結生は背負っていたリュックの中からパンを取り出して頬張り始めた。一口サイズのパンが五個入ったもので、種類は口元に付いているカスタードクリームから簡単に察することができた。
 そんな幸せそうな朝食の合間に聞くところによると、どうやら今日はかなりの長旅になりそうだった。
 目的の駅までは電車を四度乗り換えして行くこと約二時間。そこからモデルとなった場所を十カ所近く回るらしいので、どう考えても帰るのは夜になる。某有名小説みたく、いきなり一泊二日の泊りがけ旅行へと拉致されないだけまだマシだが、それでも僕の貴重な休日がこれで終わることはまず間違いない。
「やっぱり勢いでいろいろ言うもんじゃないな」
「んぐんぐっ……ん? なにかいっひゃ?」
「言ってない。あと食べてから話せ」
 最後の一個を食べ終わり、朝食後の薬を飲んでもまだ口元にはクリームが残っていたので、僕はお返しにスマホで写真を撮って送ってあげた。すると、さらにお返しとばかりに脛の辺りをつま先で小突かれた。地味に痛かった。
 彼女をにらみつつ脛をさすっていると、電車は田園を抜け、山間へと入り込んでいた。
「わぁ、見て見て! 紅葉だよ!」
「おお、ほんとだ」
 結生が興奮気味に指差す方角を見ると、深まる秋の色に衣替えした山々が連なっており、なかなかの風景だった。
「きれい~! 今から行くとこのひとつも紅葉の名所だから、きっとすごいよ~!」
「へえ、そうなのか。というか、具体的にはどこに行くんだ?」
 何気なく聞くと、彼女は驚いたように僕を見た。
「え! この映画の聖地、テレビのニュースとかにもなってたのに知らないの?」
「いや知らない」
 公開されたのは半年ほど前だったと思うが、そんなニュースが流れていた記憶はない。そもそもそこまでテレビやネットニュースを見るタイプではないので、よほどじゃないと僕の眼には触れないのだが。
「よーし。じゃあ私が教えてあげる!」
 喜色満面の笑顔を浮かべると、結生は両手でガッツポーズを作った。そのやる気というかスイッチの入りように危ういものを感じたのも束の間。案の定、僕は目的の駅に着くまで終始、今日訪れる予定の場所についての講義を聞く羽目になった。
 そうして彼女の講義が八つ目の場所の内容に差し掛かった頃、僕らが駅から乗り換えたバスの車内アナウンスが目的のバス停名を告げた。
「ささっ、降りるよ! ようやく最初の聖地とご対面だ~」
 彼女のテンションは既に僕のMAXを超えている。ご対面する前でこうなのだから、現地に着いたら卒倒するんじゃないだろうか。そんな僕の心配はよそに、結生はバスを飛び降りるとずんずん前を歩いて行った。辺りは点在する家のほか畑や田んぼが広がっているばかりで、僕らが普段住んでいる街よりもかなり田舎のようだった。
 そして足を動かしながら雀に挨拶し、猫に手を振り、虫に驚く結生の背を眺めること十分。不意に彼女はくるりと振り返った。
「じゃーん! ここが、かの有名な『分かれ道の自販機』だよ!」
 弾んだ声で両手を前方へ広げる。その手の先には、二股に分かれたY字路と、その突き当たりにポツンと佇む自動販売機があるだけだが、確かにその風景には見覚えがあった。
「おお。序盤から何度か出てきたな、この場所。下校のシーンとかだったっけ?」
「そう! 帰り道の別れ際にここの自販機で飲み物を買っていろんな話をするの! あと少しだけ、もうちょっとだけでいいから話をしていたい……そんな想いが伝わってくる切なくて素敵なシーンなんだ~!」
 興奮した口調であれやこれやと印象的な部分を語ってくる様は、好きな映画や漫画のシーンを力説する時の雪弥みたいだった。僕は苦笑を浮かべつつ相槌を打ち、何か僕も話せることはなかったかと映画の内容を思い出す。
「僕はあそこ、中盤のところとか印象に残ってるな。ほら、進路が分かれる時に交わしてた会話で……確か、『これまでは立ち止まってたんだよな、俺たち……』っていうとこ」
「あー、進路選択で就職組と進学組に分かれちゃうところね! 正しくは、『今まではここで足踏みしてたんだな、俺たち……』だけど!」
 結生は楽しそうにうんうんと頷くと、待ってましたとばかりに演技を披露した。自販機の前に立ち、スカートのポケットに手を突っ込んで振り返る姿は、まさに薄く脳内に残っていたシーンそのものだった。もっとも、その主人公の男子が履いていたのはスカートではなかったが。
「あれ、そんなセリフだったか」
「そうだよ! そしてヒロインが答えるの。『足踏みも楽しかったけど、私たちもそろそろ進まないとだね……』って! それから頷き合って無言で別れるの! あー切なーーいっ!」
「お、おう……そうだな」
 どうやら火がついたらしい。表情がころころと忙しなく入れ替わっている。しかし、テンション高く叫びながらも演じるところはしっかり演じるあたり、さすがは演劇部期待のホープだ。
 それから僕らは自販機でペットボトルのお茶とミネラルウォーターを買い、映画のように二股へ別れる、ことはなく、並んで右側の道を歩いていく。ペットボトルが半分になる頃には次の目的地、ナントカベンチに到着した。
「ここが『お昼寝ベンチ』か~!」
「そうそう。そんな名前……」
「今名前忘れてたでしょ?」
「いや、そんなことは」
「じゃあ、ここはどんなシーンの場所でしょーか?」
 破顔した表情を浮かべて目の前の木製ベンチを観察する結生を尻目に、僕はどうにか該当のシーンを思い出そうとする。が、電車で何度も聞いたベンチの名前を思い出せない時点でそれはかなり無謀だった。
「……どんなシーンだったっけ?」
「もう~仕方ないな~」
 早々にギブアップした僕の問いに彼女はなぜかご機嫌になって、そのままごろんとベンチに横になった。
「え、おい」
 僕は軽く慌てた。ここは市街地にある公園で、少し離れたところには元気に遊ぶ子どもやそれを見守る大人の姿もある。つまりは人目があるのだ。そんなところで堂々と寝転ぶなんて、僕にはとてもできない。しかもあろうことか、彼女はそのまますうすうと規則正しい寝息を立て始めたのだ。
「おい、結生」
 軽くゆするが、起きる様子はない。一瞬病気のことがちらついたが、やけに幸せそうな寝顔なのでおそらく違う。お昼時の陽の光を浴びて眠る彼女の様子は、季節外れの春の陽気を感じさせるようで……
「あ」
 そこで、思い出した。これは、映画の中で主人公とヒロインが初めて出会うシーンだ。とするなら、僕に求められている行動はひとつ。恥ずかしさもあったが、昨日自分が口にした言葉や、旅の恥は搔き捨てということわざにも推され、僕はコホンと咳払いをして応える。
『なんだ? ネコみたいなやつがいるな』
 下手ながらも努めてクールに、見下すように言う。
 すると、目の前の少女は大きなあくびと伸びをひとつして目を覚ました。
『ん~? だれ? 君も寝たいの?』
 トロンとした瞳は、本当に眠そうに見えた。
『そうだな。せっかくだし、俺も寝させてもらうか』
『どうぞどうぞ~』
 のんびりとした口調とともに譲られたベンチに、僕も寝転んで目を閉じ……
「――って、冷たっ!」
「あ。私のミネラルウォーター」
「おいーっ!」
 やや確信めいた笑みを浮かべる結生に、僕は人目もはばからず全力で吠えた。


 コントみたいなやり取りを繰り広げつつ、僕らはさらに街中へと入っていった。
 映画の中で主人公とヒロインが登下校で歩いていたと思しき住宅街の道を歩き、交差点を渡って、コンビニを過ぎる。なんてことないただの通り道でも、結生は元気にはしゃぎ、演技をして、無邪気に笑っていた。
 そうこうして半分ほど聖地を巡ると、ちょうどお昼をせがむ腹の音が聞こえたので、赤面する結生に連れられ僕らは近くにあった小さなカフェへ立ち寄ることにした。
 そこはとてもこじんまりとした落ち着いた雰囲気のお店だった。外観からしてそこまで新しい印象は受けなかったが、店内は清掃が行き届いていて清潔そのものだった。木目調の壁に、天井で回るファンやシックなランプは実にお洒落で、カウンターの奥にある棚にはワインボトルや名前の知らないお酒のビンが所狭しと並んでいる。
「ここって、もしかしてバー?」
「お昼はカフェで、夜がバーのお店だよ。実はここも聖地だったり」
 にへらと相好を崩す結生に、どこまでも彼女の手のひらの上なんだなと僕は苦笑した。
 店内を見渡すと、たまたまなのかメインは夜なのか、僕らの他にお客さんはいなかった。カウンターの中にいるバーテンダーっぽい服装のお姉さんに、「お好きな席にどうぞー」と促される。
「ねっ、せっかくだしカウンターに座ろ!」
 言うが早いか、テーブル席には目もくれず結生はカウンターに並べられた脚の長い椅子に腰かけた。嬉しそうに手招きする様子は、まるで招き猫みたいだった。その手の動きに誘われたわけでは決してないが、結果的に僕は彼女の隣の椅子に座った。
「お水失礼しますねー」
 ちょうどそこへ、店員のお姉さんが水とメニューを持ってきてくれた。注文を聞かれ、結生も僕もランチプレートとドリンクを頼んだ。そして料理が来るまでの間、次に行くところの話や学校の話などでお昼の時間をゆったり過ごす……なんてことはなく。
「ねねねっ、お姉さん! ここって夜はバーだよね。やっぱりお洒落なカクテルとか出してるの?」
 結生は、僕にはとても真似のできないコミュ力の高い質問を店員のお姉さんに投げかけた。僕が驚いて止めようする傍ら、カウンターの中にいたお姉さんは動じることなく微笑んでから返事をしてくれた。
「ええ、出してるわよ」
「おお! じゃあお姉さんもあの、シャカシャカシャカってやつできる?」
「シェイクね。もちろん」
「おおお! ねねねっ、一回だけでいいから、お姉さんがそのシェイクするところ見てみたいなあーーなんて!」
「ちょっと結生」
 さすがに頭が痛くなってきたところで、僕は制止にかかった。おそらく映画のどこかのシーンにあったんだろうが、いくらなんでも迷惑過ぎる注文だ。注意しつつ店員のお姉さんに謝ろうとしたところで、クスリと小さく笑う声が聞こえた。
「素直なお客さんね。いいわよ。他にお客さんもいないし、特別に二人にノンアルコールのカクテル作ってあげる」
「えっ」
「わーい! やったーー!」
 僕の驚愕の声と結生の喜びの声が重なった。完全に予想外の反応だった。
「いや、でも、悪いですよ」
「ちょっと秀先輩。こういう時はご厚意に甘えるのがいいんだよ」
「お前が言うか」
「ふふふっ、仲がいいのね。まあでも、私としても甘えてくれると嬉しいかな」
 店員のお姉さんは、また短く微笑んでから手際よく配膳やドリンクの準備を再開した。
 作ってほしいカクテルを聞かれたが、説明を聞いても正直どれがいいのか全くわからなかったのでお任せすることにした。片や結生は、迷うことなくシンデレラというカクテルを注文していた。理由を聞いたら、ただ単に柑橘系が好きなんだと笑っていた。そうして結生が大興奮のシェイクタイムが過ぎ、初めて飲んだノンアルコールカクテルはちょっとだけ甘かったけど、スッキリもしていた。これが大人の飲む味なのか、と僕はまだ子どもながらに思ったりした。
 その後は、運ばれてきたランチプレートに舌鼓を打ちつつ、結生とお姉さんが重ねる雑談に耳を傾けていた。その中で、お姉さんの名前が上谷(かみや)里穂(りほ)さんということ、このお店でそれなりに長く働いていて、やっぱりメインは夜のバー営業だということなどがわかった。僕は隣でカクテルや水をちびちびと飲み、たまに振られる話題に無難に答えた。
「そういえばさっき、先輩って呼ばれてたけど、二人は部活か何かに入ってるの?」
「はい。演劇部に入ってます」
「へえ! じゃあいろんな役を演じたりするんだ」
「僕は脚本担当なので練習相手くらいですが、こっちの結生は役者なのでそうですね」
 チラリと横に視線をやると、生ハムサラダで口をいっぱいにした結生がこくこくと頷く。
「そっかそっか。あ、じゃあ私からもリクエストで、何か演じてみてくれない?」
「え」
「ごくん……はいっ! 喜んで!」
 また僕と結生の声が被った。どうやらコミュ力の高い人は、こうして少しわがままを言い合いながら仲を深めていくらしい。とても僕にはできそうにない。
 でも、一応僕もノンアルコールカクテルをいただいたので何かした方がいいかと思い、結生に再び視線を向ける。
「おい結生、いったい何を演じるつもりなんだ?」
「もちろん、ここに来たからにはあれっきゃないでしょ」
 やっぱりあの映画か。でもそうなると、ひとつ問題があった。
「でも僕、ここのカフェのシーン覚えてないぞ」
「大丈夫大丈夫! 先輩はカウンターに座ったままで、最初に私が入り口に立ったら、私の方を向いて『よう。もう話すことはないぞ』って素っ気なく言ってくれれば。あとはそのまま手元のコップを見てるだけでいいから」
 幸いにも、僕の役割はそこまで難しいものではなさそうだった。けれど、結生のシーンの説明を聞いてもいまいちピンとこない。そんなシーンあっただろうか。僕がやや意識を思考の渦に沈めかけたところで、結生はトンッと少し勢いをつけて椅子を下りた。
「じゃあ、よろしくねっ」
「あ、ああ」
 心なしか上擦った声を残して、結生は入り口の方へ歩いていく。そして位置に着いたところで、彼女は準備完了とばかりに頷いてみせた。
 ここで僕はいくつかミスを犯した。
 ひとつは彼女の顔が微かに赤らんでいたのを見逃したこと。
 あるいは、自分の心の準備を疎かにしたこと。
『よう。もう話すことはないぞ』
 僕は入り口の方を向き、努めて素っ気なく言い放った。その言葉を受けて、入り口に立つ彼女は小さく微笑み、ゆっくりと近づいてくる。僕は結生に指示された通り、視線を手元のコップへと移した。
 コツコツと靴音が店内に響く。
 その音は徐々に大きくなり、やがて僕の背後で止まった。……背後?
『私は、あるよ』
 柔らかくて温かな感触が背中を包み込む。僕よりもいくぶん細い手が視界の端に映り、そのまま僕のお腹辺りに回された。そこまでいってようやく、僕は彼女に後ろから抱きしめられたのだと気づいた。心臓らへんが、急に大きく跳ねた。
『もっと早く、素直になっておけば良かった。そうしたら、もっと長く、一緒にいられたのに』
 思考が停止して固まる僕に構わず、結生は演技を続ける。
『ごめん、ごめんね……』
 コツンと彼女は額を僕の首筋に乗せてきた。もっともこの姿勢では確認しようがないので、おそらく乗せた、という表現が正しい。ていうかそれどころじゃない。結生に抱きしめられたという事実に混乱し、急に襲ってきた密着感に困惑して、僕の脳がバグったのか甘い匂いまで漂ってきた。
 しばし沈黙が降りる。
 その間もドキドキと僕の心臓は情けない音を立てていた。まさか演技で本当に緊張していることが知られたら、また彼女は意地の悪い笑みを浮かべてからかってくるだろう。その意味でも、彼女の手が腹部に回されていることは不幸中の幸いだった。
 五秒、十秒、二十秒と時間が過ぎる。
 この後の動きは特に指示されていないので、僕は固まっていることしかできない。だが、もしこの演技の中で僕が映画のシーンを思い出すことを期待していたとしたら、さすがに理不尽極まりないが……
「――って、結生?」
 それは、ちょっとした違和感だった。
 ほんの少し、彼女の手が震えていたから、僕は彼女の体勢が崩れた時にいち早く反応できた。
「結生!」
「ちょ、ちょっと大丈夫⁉」
 傾いた結生の身体を慌てて抱きとめる。見ると、結生の顔はほんのりと赤い。それは照れなどではなく、どちらかといえば病的な赤さだった。
「ごめ……カプセルの、薬……とって……」
 彼女が指差す先には、さっきまで彼女が背負っていたリュック。僕は急いでその中から化粧ポーチを取り出し、奥底から薬を引っ張り出す。
「これか?」
 僕の問いに、彼女はこくりと力なく頷いた。
 それは、『辛い時だけ飲む。頑張れ私』とメモが書かれた、あのカプセルだった。


 カプセルを飲ませ、店の奥にあるテーブル席のソファを借りて横に寝かせると、しばらくして規則正しい吐息が聞こえてきた。昨日の帰り道に聞いた話では、カプセルの副作用として眠気があるようで、服用してから数分程度眠ってしまうらしい。僕は落ち着いた表情の結生を見て安堵しつつ、里穂さんに頭を下げた。
「本当にすみません、ご迷惑をかけて。ソファまで貸していただいて……」
「いいのよ。困ったときはお互い様でしょ」
 里穂さんは小さく笑って首を横に振った。
「それにしても、持病の発作、か。本当に大丈夫なのよね? 救急車とか呼ばなくて」
「ええ、大丈夫です。薬が効いて落ち着いていますし、副作用の眠気も少しの間だけなので」
 僕は心配させまいと努めて平静を装って笑う。救急車は僕の脳裏にも一瞬過ぎったが、昨日結生は親に連絡されるのを全力で拒否していたし、さっき寝かせる時にも「親とか学校に連絡しないで」と釘を刺されたので、呼ばないことにした。容体は安定しているようだし、救急車を呼べば間違いなく親や学校に連絡せざるを得なくなるだろうから。
「そう。まあ、大丈夫っていうなら呼ばないけど、無理はしないようにね」
 里穂さんはまだ心配そうにしていたが、それ以上の追求は止めてくれたようだった。僕はしっかりと頷きつつ、空気を変えようと何か別の話題を探す。けれど、僕が話題を見つける前に里穂さんが口を開いた。
「そういえば言いそびれちゃったけど、さっきの演技はほんとに素晴らしかった。まさかこのお店がモデルになった映画のシーンを演じてくれるなんてね。びっくりしちゃった」
「え、あ、ありがとうございます」
 さすがに長年勤めているだけあって、モデルになったことも映画のことも知っているらしい。僕はおまけ程度の演技だったが、恐縮しつつ頭を下げた。
「君は役者じゃないって言ってたけど良かったよ。特に、後ろから抱きしめられた時の戸惑いっぷりとか。アワアワと態度に出して慌てるんじゃなくて、表情で驚きとか緊張とか困惑とかを語るの、すごかった」
「……どうも」
 まさかの演技だと思われていたらしい。さすがに演技じゃなくて本気で戸惑ってましたとは言えず、僕はやや間をおいてお礼を言った。
「あと彼女……結生ちゃんだっけ? 結生ちゃんも、すごかった。さすがは役者さんだね。表情とか仕草とかセリフとか間とか、全部が洗練されてた。まるで本物の女優さんかと思っちゃった」
「ははは、ありがとうございます。結生はうちの部の期待のホープでして。それは是非、結生が目を覚ましたら直接言っていただけると」
 結生のことも褒められて、なぜか自分のことのように嬉しくなる。
「ふふふっ、わかった。でも本当に驚いたわよ。まさか絶版になった二十年以上前の映画を演じてくれるなんて」
「はは…………え?」
 里穂さんの思いがけない言葉に、自分の笑顔が凍ったのがわかった。僕の表情の変化に気づいたのか、里穂さんが小首を傾げる。
「ん? どうかした?」
「いや、この映画、結構最近放映されたと思うんですけど……」
 僕は表情を戻して、どうにか疑問を口にする。でも、さっきほど上手く笑えない。
「ああ。リメイクされたアニメーション映画の方ね。でもリメイク版はここのカフェのシーンはなかったでしょ? セリフは似たようなのあったけど、確か通学路のシーンに変更されてたし」
 学生時代を思い出して懐かしかったな~、などと語る里穂さんの言葉は、それ以上頭に入ってこなかった。
 適当に相槌を返しつつ、僕はそっと結生の顔を見やった。彼女は静かに寝息を立てていた。
 ――聖地巡礼に行くの。私が一番よく観た大好きな映画の舞台を巡るの!
 行きがけに彼女はそう言っていた。
 道中、ところどころ僕の記憶と齟齬があったけれど、それはただの記憶違いだと思っていた。
 でもどうやら、それだけではないらしかった。
 ――私、前世の記憶があるんです。十七歳で一度この世を去った、そんな記憶が。
 随分昔に聞いた言葉の重さが、またひとつ、変わった気がした。


 しばらくすると結生が目を覚まし、僕らは改めて里穂さんに深々と頭を下げた。
 また別の日にお礼しに来ると伝えたら、里穂さんは小さく首を振り、
「じゃあその代わりに二度。結生ちゃんの病気が良くなった時と、大人になった時に、また私が作ったカクテルを飲みに来て」
 と笑ってくれた。
 僕らは一瞬顔を見合わせてから、しっかりと頷き約束した。
 そう、約束。
 それは決して叶えられないわけじゃない。医学の進歩ゆえに、二十パーセントの確率で叶えられる、破りたくない約束だった。
 里穂さんと別れ、お店を後にした僕たちは、さすがに帰路についていた。訪れる予定だった聖地はまだ半分ほど残っていたが、体調を崩した状態で回るわけにはいかない。それは頑固な結生も承知していたようで、特に反対意見もなく僕らは元来た道を歩いていた。
「あーあ、残念だなー。残りも見たかったのに」
 もっとも、文句はたらたらと流れているが。
「しょうがないだろ。また今度来ればいい」
「また今度、か」
 斜め前を歩く結生は何か言いたげに口先を尖らせた。それからしばらく「んー……」とうなっていたが、やがて諦めたように「そだね」と小さくつぶやいた。
 外はまだ明るい。夕方にすらなっていない。もう一、二時間もすれば空も茜色に染まるんだろうけど、こんな時間に家に帰るというのが、なんだか無性にもったいなく感じられた。
 でもさすがに新しいところは見に行けない。それで万が一何かあれば、里穂さんの親切心を無駄にしてしまうから。だから、僕はせめてもの抗いとして結生に提案をした。
「なあ。どうせ通り道だし、もう一度午前中に回ったところ寄っていこう。そして、演技でも撮りながら帰らないか」
 それは、本当に小さな抗い。後輩が楽しみにしていた聖地巡礼を、病気に邪魔されたことへの、ささやかな抵抗のつもりだった。
 結生は僕の言葉に驚いていたようだったけど、いつものように朗らかな笑みを浮かべてから「いいよ!」と小さく叫んだ。
 それから僕たちは、もう一度聖地を巡った。
 午前中と同じようにコンビニの前でジュースを飲む結生を撮った。それはただ空を見上げているだけの、彼女の横顔だった。
 交差点を渡り、人気の少ない住宅街を歩く結生の後ろ姿を撮った。打ち合わせ通り電柱のあたりでくるりと振り返って笑う彼女は、朝とぜんぜん変わっていなかった。
 子どもたちに代わって鳩が集会を開いていた公園では、気持ちよさそうにベンチに横になる結生を撮った。やっぱり猫みたいに眠そうだった。
 三叉路の自動販売機の前で、足踏みしている結生を撮った。これは違うと怒られた。だからもう一度スマホを構えて、今度はしっかり寂しそうに頷く結生を撮った。なぜか朝よりもとても寂しく感じられた。
 そうして駅に着く頃には、空はすっかり茜色になっていた。
「あー楽しかったね!」
 電車待ちのホームで、結生は大きく伸びをする。そこに体調不良の影などどこにもない。まさに健康そのものという感じがした。
「そうだな。意外と楽しめた」
「後半ノリノリで動画撮ってたもんね~」
「僕のあの態度がノリノリに見えたなら、結生の目は節穴以外の何物でもないな」
 彼女のからかい口調に僕は軽口で応じる。すると結生は学校の時のようにムキになって言い返してきたので、僕は内心安心していた。そこには頬の赤みも手の震えもない。帰り道でも駅に着いてからも、結生の体調は至っていつも通りだった。
 けれど、そんな僕の心境を敏感に察したのか、結生は困ったような表情になって言った。
「ねぇ、秀先輩。私、本当に遠慮しなくていいの?」
 その声は、彼女にしては珍しく落ち着いていた。
 僕は質問の意図がわからず首を傾げた。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ」
 結生はこちらに向き直ると、僕を真っ直ぐ見据えた。
「私は今日、遠慮ゼロで先輩と聖地巡礼をした。すごく、すっごく楽しかった。久しぶりに心の底から楽しめたし、また行きたいなって思った。でもね……」
 彼女はためらいつつ、そっと目を伏せた。
「早速、先輩に迷惑かけちゃった。昨日なったし、二日続けてってあんまりないから大丈夫だと思ってたけど、やっぱり最近は調子悪いのか、こういう時に限って……なるんですよね。ほんと、空気の読めない病気で。……だけど、ある意味では良かったかもって思うんです。きっとこの先、遠慮せずに先輩を振り回し続けてたら、同じようなことが起こってたと思うから。秘密を知っているだけにとどまらなくて、迷惑をかけ続けることになると思うから」
 彼女はまた顔を上げて、今度は真面目な表情を作った。
「だから、もう一度聞きます。私は、本当に遠慮しなくていいんですか?」
 いやに丁寧で耳馴染みのない言葉だった。それは、彼女が心の底から知りたいことであるがゆえだということはわかった。
 また雰囲気が重くなりかける。
 でも、そういうのが嫌で、僕はほとんど間を置かずに言った。
「いいよ、しなくて」
 目を合わせたのは一瞬。それからは、ずっと僕は向かい側のホームを見ていた。誰もいなかった。
 何もない線路の上を風が吹き抜ける。視界の端に、ちらりと髪の毛が映り込んだ。
「そっか」
 しばらくして、歌うように彼女はつぶやいた。
「そっかそっか、そっかあ……」
 けれど、不意に言葉が途切れた。その理由は明確にはわからなかったけれど、なんとなく聞いてはいけないことのような気がした。
 風の音ばかりが耳に届く。
 やっぱり、彼女には似合わないと思った。だから僕は、また柄にもないことをしようとスマホを取り出した。
「……っ、はぁっ……! ねぇ、秀先輩! 小説見せて!」
「え?」
 先に彼女から言われて、僕は思わず彼女の方を見てしまった。
「三日前に見せてもらったいびつな日常パートに駅のシーンあったよね。ちょうどいいし、気分転換に演じてみる!」
「いびつ言うな。あと修正中だ」
「なおいいじゃん。ぜひぜひ参考にしてってね」
 それから結生は僕の小説を演じた。
 最初は忠実に。確かにいびつだった。
 次は修正途中を参考に。学藝祭の経験が功を奏したのか、多少良くなったけどまだ違和感があった。
 その後は彼女が思いつくままに数パターン。どれも元気が良すぎて騒がしいから却下だった。
 結局、納得のいくシーンに仕上がったのは、電車で彼女の寝顔を見ながらぼんやりと午前中の演技を振り返っていた時に思いついた内容だった。電車から降りた後にそのことを話したら、結生は寝顔を見られたことを恥ずかしがっていた。そこじゃないと、僕は苦笑した。
 最後までグダグダと締まらないまま、僕らは朝集合した駅前で解散した。
 翌日の月曜日は学藝祭の代休で、結生もさすがに疲れたのか呼び出されることはなかった。僕は念願叶って一日中自室にこもり、本を読んだり小説を書いたりして過ごしていた。振り返ってみれば、まあまあな一日だったなと思った。
 さらに翌日の火曜日は学校で部活もあったけれど、結生には会わなかった。小夜に聞くところによると、風邪で休みとのことだった。一応メッセージアプリで呼びかけてみたが、寝ているのか返信はなかった。

 そのさらに翌日の水曜日も、彼女は休みだった。変わらずスマホは沈黙していた。

 木曜日になって、ようやく僕は結生と話した。
 画面越しの彼女の背景には、見慣れない白いカーテンと、白い壁が映っていた。
 入院してるの、と彼女は笑っていた。

     *

 幸運にも、僕はこれまでほとんど病院に行ったことはなかった。
 この身に巣食う大病もなければ、親戚や身近な人が入院したこともない。せいぜい風邪やインフルエンザで地元の内科に行くくらいだった。だからまさか、僕が全国でも指折りの大病院に足を運ぶことになるなんて思ってもみなかった。
「やっほー秀先輩っ!」
 病室に入ると、結生はベッドの上で上半身だけを起こして何やら書き物をしていた。そのわきには教科書らしきものが広げられていたので、休んでいる間の宿題か何かだろうと察する。
「思ったより元気そうだな。宿題してるのか?」
「うん、さすがに暇だからね~」
 結生は手際よく教科書やプリント類を片付けると、傍に合った丸椅子をポンポンとたたいた。勧めに応じて僕は丸椅子に座り、お見舞いにといくつか買ってきたフルーツゼリーを袋ごと手渡す。
「やった、ゼリーだ! 私、みかん好きなんだよね~」
「それは良かった。何持ってきていいかわからなくて、無難なの選んだんだけど」
「病院食は味気ないから、なんでもウェルカムだよ。一緒に食べよ!」
 それから僕たちは雑談をしながらフルーツゼリーを頬張った。その辺りのスーパーに売っている普通のゼリーなのだが、結生はまるで高級ゼリーを食べているかのようなオーバーリアクションをしていた。病院食の味気なさというのが恐ろしくなってくるとともに、結生が思った以上に元気で僕は内心ホッと胸をなでおろした。
「ほんとに元気だな」
「え~? なに、私が瀕死の状態で横たわっていると思ったの?」
 二つ目のゼリーを幸せそうに口に含みつつ、結生はこちらに目を向けた。
「少なくとも今日持ってきたゼリーを一個食べきれず、半分程度残すくらいには弱ってると思ってた」
「あちゃーそれは大外れだ、残念。多分今日の夜にはすっからかんだよ」
 僕が持ってきたゼリーは残り三個。これをあと数時間足らずで?
「食べ過ぎだろ」
「大丈夫大丈夫! 私あんまし太らない体質だから!」
「いや、そういう問題じゃないんだけど」
 僕が呆れて肩をすくめると、結生は心底可笑しそうに笑った。
「まあでも、ほんとに心配しなくて大丈夫だよ。ただの検査入院だから。定期的にいろんな数値測ったりしないといけなくて、そのために一週間くらい入院するだけ。検査が全部終わったらまた学校行くから」
「それ、昨日も言ってたな」
 僕がここに来た理由。それは、昨日の夜に結生から突然ビデオ通話があり、検査のため入院したことを知らされたからだ。病衣姿でどこか疲れた様子の結生は、明らかにいつもの元気な結生ではなかった。だから僕は、差し入れを持っていくことを条件に入院している病院と病室を聞き出し、放課後すぐに向かった。まあ、疲れていたのは検査が終わった直後だったからで、一晩寝たらすっかり回復したそうだが。
「そそ。というわけで、来週はきちんと学校行くから大丈夫! あ、先輩以外には季節早めのインフルエンザってことにしてあるから、ちゃんと口裏は合わせてね」
 空になったゼリーのカップを、結生は勢いよくゴミ箱へ放り投げた。外すような距離ではないので、カップはカコンッと音を立てて中に吸い込まれていった。
「なあ、結生」
 大仰に喜んでいるその横顔に向かって、僕は彼女の名前を呼んだ。
「ん~? なに?」
 おもむろに彼女はこちらを向いた。その顔にはいつもと変わらない笑顔が浮かんでいる。
 だから僕は、とりあえず聞いてみることにした。
「まだ、何か隠してるだろ?」
 僕が結生とここまでずっと一緒にいて得られたものはいろいろとあるが、それとは別に付随的に身に付いた能力もあった。演技の特徴を見抜く能力だったり、彼女の気分を察知する能力だったり。
 あとは、本物の笑顔かそうでないかを見分ける能力だったり。
「もちろん無理にとは言わないけど、いつも小説の参考にさせてもらってるお礼として、話くらいは聞くからな。それに、その、遠慮とかもしなくていいから」
 後半の言葉はなんだか僕らしくないセリフに思えてしまって、目を逸らしてから素っ気なく言った。少しだけ、顔が熱い。
 対して結生は、からかうそぶりもなく平坦な調子で返事をしてきた。
「……ふふっ。秀先輩、小説の参考って、むしろ私が演技力を向上させるために提供してもらってる側だよ? お礼も何もないって」
「それでも、だ。別にいらないっていうならそれでいい。ただ、遠慮はしなくていいってだけ。それに、結生ご所望の『前世の自分が今の自分を救う物語』の参考にもなるしな。それだけだ」
 なんだか無性に恥ずかしくなってきて、僕は席を立った。足元に置いていた鞄を肩にかけ、「それじゃあまた学校でな」と早口に言い残し、病室の出入口へと向かう。
 扉の取っ手に手をかけ、そのまま僕は一度だけ振り返った。
 窓の外からは、夕焼けがこちらを見つめていた。逆光ではっきりとは見えないが、彼女は窓の外に目を向けているようだった。
 僕は今度こそ、結生の病室を後にした。


『――秀先輩、ありがとね』
 スマホが震えたのは、僕が最寄り駅に着いた頃だった。改札を抜けようとしていた足を止め、僕は急いで隅の方へと場所を移した。
「どうした?」
 努めていつも通りに話しかけると、結生は渇いた声で笑った。
『ううん、なんでもない。なんでもないんだけど、ただ先輩の言う通りだなって思って』
 彼女の声色は落ち着いていた。
『あのね。私、春に手術するんだ。結構大きな、難しい手術。もし成功したら、治る確率がグンと上がるみたい。この検査入院もそのために必要なことなの』
 日常会話をするみたいに、彼女はサラリとそんなことを言ってのけた。
『それでまあ、なんと言いますか、私もそれなりに緊張してまして。だから、もし良かったら、それまでに先輩の小説、エンディングまで読んで、演じたいなって思ってるの。そうしたら、私、手術頑張れる気がするから。だから先輩、素敵な物語を書いてね』
 今度はこわばった声で、彼女はお願いしてきた。なんとも責任重大なお願いに、僕は苦笑するしかなかった。
「そうしたら手術、頑張れるんだな?」
『うん。頑張れるし、頑張りたいし、めっちゃ頑張る!』
 やたらと大きな声に僕はもう一度苦笑して、「わかった」と返事をした。
 そして今度こそ、僕らは「また学校で」と言葉を交わして、会話を終えた。
 十月の夕空には、群青色が広がっていた。

* *

 病室には、薄く弱々しい光だけが窓から差し込んでいた。
「それじゃあ、また学校でな」
「うん、また学校で」
 最後の言葉を交わして、私は通話を終える。
 通話終了の文字が画面に表示されているのを見て、私は小さく息を吐いた。
「演じ切れた……かな」
 安心感からか、足に力が入らなかった。
 ベッドの上にへたり込んだまま、私はもう一度窓の外へ目を向ける。
 うそは言っていない。手術も、緊張しているのも、小説を最後まで演じ切ったら頑張れるのも、全部本当のことだ。
 ただ私は、全てを話していないだけだ。
 全てを見せていないだけだ。
 だって現実は、どこまでも厳しくて、残酷だから。
「秀先輩……。私、わたし……やっぱり、怖いよ……」
 本心からのつぶやきは、薄暗い静寂の中に溶けていった。

 学藝祭の時期が終わり、冬が近づいていた。
 演劇部の練習も基礎トレーニングがメインになり、役者の部員たちは実に面倒くさそうな体力トレーニングや発声トレーニングをこなしていた。結生も無事一週間で検査入院を終え、特に問題もなく部活に合流していた。あれからの様子を見る限り、本当に体調が悪くなって入院したわけではないようだった。そんなことをこっそりと戻ってきた結生に言ったら、
「私、秀先輩にはうそつかないって言ったじゃないですか」
 と軽く怒られた。
 確かに思い返してみれば、何度か言われた気がしないでもない。ただ、結生は僕にうそは言わなくても本当のことを言わないことも多いので、僕は軽くスルーしておいた。
 そんな役者たちのトレーニングの傍ら、僕や雪弥の裏方組は役者組の練習サポートをこなしつつ、イベントスケジュールの調整や道具類の整理に補充と、雑務に追われていた。
「ったく、うちの部はほんと人少なすぎだろ。どうにかしてくれよ~秀」
「どうにかするのは部長のお前だ」
「んなこと言ったって、うちの高校の文化部は強すぎるんだよ。吹奏楽やら美術部やら映像部やらにみんなとられちまうし」
「まあ県大会の成績が違いすぎるからな。僕たちは他にアピールできるところでアピールしていくしかないだろ」
「アピールできるところなあ~」
 備品が収納してある小部屋で個数チェックをしつつ、雪弥はウンウン唸っている。少しうるさい。
「まあ手頃なところで言うなら、卒業式の後にある一般開放の卒業生送別会と、新入生にアピールできる新学期の部活動紹介だろうな」
 僕は隣の唸り声を抑えるために、とりあえず思いつく策を提示してみた。
 卒業生送別会というのは、その名前の通り卒業生を送り出すための会だ。ただし、僕たちの学校は学藝祭同様やや特殊で、保護者や地域の人を招き、有志の部でちょっとした演目の催しをやるのだ。もちろんテーマは「卒業」で、例年美術部や吹奏楽部がハイレベルな展示や演奏を披露し、人気を博している。
 そして新学期早々にある部活動紹介は、言わずもがな新入生に直接アピールできる絶好の機会だ。ただし、毎年人気のある部活は後半に回って印象をかっさらってしまうので、正攻法でやっても勝率はかなり低い。
 つまりは、人数不足で例年希望を出していない卒業生送別会に今年は有志として参加し、印象的な演劇を披露して知名度を高めつつ、新学期の部活動紹介で奇をてらったミニ演劇か何かで新入生への印象付けを行うのがベストだろう。
 備品整理の手を動かしながらそんな持論を展開していると、目論見通り雪弥の唸り声が収まった。想定外だったのは、やけににんまりとした笑みを浮かべて僕の方を見ていたことだ。
「なに?」
「いーや、なんでも。ただ小夜から聞いていた通りだなって思っただけ」
「……うるさいな」
 そっぽを向いて作業を続ける僕を見て、雪弥はくつくつと意地悪く笑う。本当に兄妹揃ってなんなんだ。
 しかしそんなおふざけはすぐに終わり、雪弥は何かを決心したようにパンと手を打った。
「よしっ、じゃあ秀もやる気あるみたいだし、部活後のミーティングで提案してみるか」
「は? やる気? ってか何を?」
「決まってるだろ~!」
 より深まった悪戯っぽい笑みに、僕は自分の判断ミスを悟った。
「より盛り上げるための、卒業生送別劇の案をだよ!」


「してやられた……」
 結生との居残り練後の帰り道、僕は軽い頭痛を覚えていた。
 もちろん、暑さや熱にやられたわけではない。十一月に入って日も随分と短くなっており、辺りはほとんど夜だ。道の脇に立ち並ぶ街灯が行く手を照らし、名前も知らない虫がどこかで鳴いている。
 頭痛の原因は、雪弥だ。あろうことか、今日の部活後ミーティングで議論されたのは、「既に部員全員から賛同を得られている卒業生送別会においてどんな演目をやるか」という内容だった。まだ確定はしていないが、今のところミュージカルとかいうとんでもない案も出ている。勘弁してほしい。
「いや~秀先輩も変わったね~。私としては嬉しい限りだけどっ」
 隣を歩く後輩の影が、ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねた。
「ちなみに結生はいつ言われたんだ?」
「昨日だよ。もちろん、二つ返事でオーケーした!」
「だろうな」
 演劇部の知名度を上げるために新しく演劇をするなんてこと、結生が反対するはずもない。むしろ全力で周囲を巻き込んで策を練りに練って、卒業生全員を感涙の渦に巻き込むにはどうすればいいか、くらいの勢いがあってもおかしくない。事実、今日のミーティングでも一番発言していた。
「ほんとは私から先輩を説得しようとしたんだけどね。雪弥先輩が、『今の秀なら俺でも落とせるから問題ないっ!』って張り切っちゃって」
「あのやろ」
 これは明日にでも絞めておかないといけないな。
 僕が幾ばくかの悲壮な決意を固めていると、少し前を歩く彼女が不意に振り返った。
「そういえば、明日の朝は大丈夫そう?」
 言われて思い出す。明日は演技力向上練習の日だ。
「ああ、大丈夫。今日帰って続き書いたら、多分ちょうどいいくらいだし」
「おーそっか! 明日も楽しみだ~」
 スキップを再開して制服を翻す後ろ姿は、至って普通……もとい、ちょっと変な女子高生だ。風邪をひいているわけでもなければ、怪我をしているわけでもない。健康そのもの……に見えるのに、その実、体内には風邪や怪我よりも厄介な病が巣食っている。
「なあ、結生。あれから体調は大丈夫なのか?」
 僕の問いかけに結生はスキップを止めた。そして勢いはそのままに、くるりと再度反転する。
「問題なしっ。体調は万全、検査結果も好調、と絶好調だよ」
「そっか。そりゃなによりだ」
 僕は内心で胸をなでおろす。といっても、何か特別不安なことがあったわけではない。結生は約束通り一週間で退院したし、その後も特に体調不良で休んだり早退したりといったこともなかった。
 結生が退院してから、既に二週間強。
 彼女は、健康そのもののようだった。
「まっ、私のことはおいといて。そろそろ先輩の小説のラストを飾る聖地も決めちゃお!」
「ああ……聖地、ね」
 どうにも、ここ最近の僕は振り子以上に振り回されている気がしてならなかった。

     ***

 ルーナは前世で聖女として世界中を行脚し、治療の呪いで多くの人を救った。だが、それを良く思わない者たちから身に覚えのない罪を擦り付けられ、大切な人たちを人質にとられ、挙句には死の呪いによって殺されてしまう。「瑠奈」として転生したルーナは、今度は自分の幸せを第一として生きようと決意し、自らのために学び、多くの友達を作って遊び、楽しい毎日を過ごしていた。
 そして高校生となった瑠奈は、初めて恋を経験する。相手は親友である奏の幼馴染、友樹で、奏も友樹のことが好きだった。お互いの気持ちに気づいた瑠奈と奏は、恨みっこなしで想い競うことを誓う。切なくも楽しい三人での日々がしばらく流れたが、ある日、瑠奈は病気で倒れてしまう。しかもその病は、前世に受け、魂にまで刻み込まれた死の呪いが原因のようだった。悲しみに沈む瑠奈だったが、せめて残りの命は親友のためにと、病気のことは伏せ、全力で友樹にアプローチするふりをしつつ、要所では奏に譲るようになる。
 しかし、友樹の気持ちが次第に自分に傾いていることを知ってからは、今度は自身が嫌われるために、奏に嫌がらせをするようになる。前世で散々苦しめられた謀略を参考に、綿密かつ陰湿に、そして最後には自分が主犯とわかるように仕組むことで、目論見通り次第に奏や友樹の不信感を集めていく。病状も進行する中、遂に瑠奈は、三人の思い出の品を盗み壊すことで決着を付けようとする。前世に続き、結局は他人のために命を散らす自分に苦笑しつつ迎えた最期の場所で、瑠奈が下した決断とは。そして三人の絆の結末やいかに――。

     ***

「うーん……」
 翌日の放課後。
 僕は自分の書いた小説のあらすじを読みつつ、正門前で結生を待っていた。
 今日は部活がオフで、普通ならさっさと帰るところだが、ここ最近は結生と出かけることが多かった。目的は昨日も言っていた、聖地探しだ。
 聖地というと大げさだが、いわば小説を書くためのモデルとなる場所のことだ。結生の協力のおかげで小説も随分と書き進んだのだが、後半がどうにも煮詰まっていた。そんなことを結生に相談したら、「じゃあ聖地とか決めてみたらどうかな!」とやたら嬉しそうに提案されたのだ。
「聖地、聖地ねえ……」
 生徒でごった返す正面玄関の隅で、僕はもう一度自身の小説を見返す。
 聖地探し、といっても行き先はまるで決まっていない。小説の展開に見合った、情景的にも見栄えしそうな場所を、その日の気分で適当に訪れ見ているだけだ。今日だってまだどこに行くかは決まっておらず、とりあえず授業中に考えた候補から結生の意見を聞こうと思っている。
 今日の候補は三つ。
 海に臨む崖と、街が一望できる高台と、近所の小さな公園だ。それぞれに理由はあるが、さてどうしたものか。
「せーんぱいっ! 待った?」
 僕がウンウン唸っていると、唐突に明るい声が割り込んできた。そして破顔した顔がにゅっと視界の端に現れる。
「おう結生。少しだけな」
「ちょっと、こういう時は『全然待ってないよ』とか『今来たとこだよ』って言うんだよ!」
「チャイム鳴ってから二十分だぞ。同じ学校の、それも遠慮する必要のない後輩に気を遣ったうそなんて言う必要ない」
「もうっ」
 やや不貞腐れ気味に頬を膨らませる結生だが、こういう時は実はあんまり怒っていない。本当に怒っている時は、やたらと怖い笑顔を浮かべるか無表情になるので、表情豊かなときはまだまだ大丈夫だ。
「それより今日行くとこの候補だけど、スマホに送ったの見た?」
「見た見た。おかげで数学の時間に当てられたのに答えられなかったんだよ」
「知るか」
 とんだとばっちりだ。授業中に見るなと言いたい。
「えーっと、候補は崖と高台と公園だよね。公園は裏門からちょっと行ったとこで、崖ってもしかしてこの前の聖地巡りで行けなかったとこ?」
 結生の問いに僕は頷く。
 前回の聖地巡りではそれなりに遠出をしたが、調べてみると意外と近くにもモデルとなった場所があるようだった。提案した崖は、聖地的に言えば『区切りの崖』や『約束の崖』と呼ばれているらしい。映画では、結局離れ離れになる主人公とヒロインが、この崖でお互いの想いを伝え合い、再会を約束した場所だ。そしてエピローグでは約束を果たし、学生時代の区切りと別離の時間の区切りを示す場所として聖地になっているとのことだった。
「そっか! 確かに『区切りの崖』もいいかもね! パロディ的に書けたりもするし。あと高台って言うのは?」
「ああ、ここはバスで少し行ったところに丘陵公園があって、そこから街が一望できるんだよ。物語的には、思い出を振り返るシーンとしていいかなって思って」
「おぉ、いいじゃん! 今日はそこ行ってみよ!」
「ほいほい」
 いつも通りその場のノリで決まった場所へ向かうべく、僕と結生は人が減った正面玄関を後にした。


 僕たちが乗り込んだバスは思いのほかかなり空いていた。
 車内には数人程度がいるばかりで、座席は選び放題。結生は乗るや否やさっさと後ろの二人掛け席の窓際を陣取り、ひらひらと手を振って僕を隣に招いた。下校時刻直後だったら、溢れかえる生徒たちでこうはいかなかっただろうが、結生がやや遅れ気味に来たために混雑する時間帯からは外れたようだった。
「ふふん、どうどう? 私の計画的な遅刻の成果は」
「たまたまだろ」
 隣で調子に乗る結生に肩をすくめる。ここまでの道すがら、遅れたのは時間を忘れて友達と話し込んでいたからだと聞いたばかりだ。僕の記憶力は、さすがに数分前の会話を忘れるほど落ちてはいない。
「もう素っ気ないなあ。あ、もしかして卒業生送別会のことでまだ怒ってる?」
 結生の言葉に思い出したくもない記憶が脳裏をかすめた。
「いや、それはもういい。先行きは不安だらけだけどな」
「大丈夫だよ。今日のお昼のミーティングで方向性はほぼ決まったんだし!」
「その方向性が問題なんだよ。テーマが『卒業』で、ミュージカル要素の入った脚本なんて書いたことないよ」
 昼ミーティングは本当に地獄だった。知名度を上げるために奇抜なことをやろうと、やたらミュージカルにこだわる雪弥を筆頭に、卒業生や在校生へのメッセージ性を主張する小夜と結生、衣装や練習時間といった細部にこだわる副部長や響などとにかく議論は白熱した。そして、ミュージカルなんて書いたこともなければ、『卒業』をテーマにこれだけの少人数で上手く演じられる内容を探すのも大変だと僕も主張した結果、最終的には顧問の江波先生がそれぞれの意向をバランス良く組み込んだ折衷案を提示して落ち着いた。一応は。
「まあまあ、今回は私たちも積極的に参考になる脚本とかミュージカル作品探すし、みんなでできるところまで作ってみようよ!」
「もちろんそのつもりだし、腹もくくったけど、大スベリしそうな気しかしない」
「秀先輩、そこは考え方次第だよ。今まで書いたことのないジャンルを書けば、間違いなく糧になるんだから。大スベリしてもレベルアップするというまたとないチャンスだよ!」
「……そういう前向きさは、ほんと結生のいいところだよな」
 ニマニマとややイラつく笑みを浮かべる結生に、僕は苦笑で応じた。
 そうこうしているうちに、僕たちを乗せたバスは坂道に差し掛かった。つづら折りになっている道を進むにつれて、車窓の景色はみるみる高くなっていく。時刻は既に午後五時を過ぎており、僕たちが先ほどまで勉強していた校舎も、いつも使っている駅も、そこに立ち並ぶ住宅の数々も、すっかり街の色は橙色に染まっていた。
「わぁ~、きれいだね!」
 ほどなくして着いたバス停で降りると、結生は一目散に展望路へと駆けて行った。山の中腹に広がる丘陵公園には街を一望できる展望台があるが、その道中にあたる展望路と呼ばれる回遊路からの景色もなかなかのものだ。
「小学生くらいの時に一度来たことがあって、なんとなく景色がすごかったことだけは覚えてたから候補に入れたんだけど、これは本当に見事だな」
「ね。もうここでいいんじゃない?」
「またそんな適当に」
 投げやり気味に言う結生の表情は悪戯っぽい笑みで満ちている。どう見てもわざとだ。
「おやおや~やっぱり決められないですか~? 私の演技を見ないとっ」
「……そんなことはない。けど、判断材料は大いに越したことはないから」
「もう~。素直じゃないなあ~」
 茜色の空を背景に咲く笑顔に向けて、僕はスマホのカメラを向ける。すると、からかうような笑顔は一瞬で消えて、次の瞬間には儚げな表情がそこには浮かんでいた。
『奏に、友樹も……。来ちゃったんだね』
 こうしてまた、僕たちの物語は完成に一歩近づいた。


 次のオフの日は、残った候補である『区切りの崖』に向かった。
「海だーーっ!」
 水飛沫が上がる切り立った岩先で結生は歓声を上げた。すっかり夕日は水平線の彼方に落ち、群青色の空とほぼ黒に近い海ばかりの景色だったが、そんなことお構いなしに彼女は笑う。
「滑って転んで吹っ飛んでそのまま海に落ちるなよ」
「落ちないよ! ってかそんな曲芸みたいなことになるわけないじゃん!」
「だといいんだが」
 今日に限っては全くないとは言い切れない。というのも、結生の大好きな映画の聖地ということもあってか、道中はずっと語りっぱなしで興奮度合いが引くレベルだったから。
「まあいいや、今は機嫌がいいから許してあげる。そんなことより、もうここは聖地として外せないポイントだよねっ! 映画のラストシーンは本当に、ほんっとうに感動したの! 進路の関係で二人が離ればなれになって、それから五年くらい会えなくなって、大学生活と社会人生活を過ごす中でもやっぱりどこか心の中に解消されないしこりが見えて、それでそれで」
「あーわかったわかった。それはまた帰りの電車でな。これ以上暗くなると動画撮れなくなる」
 それでも熱弁を続けようとする結生に、僕は秘技「撮影」を繰り出してどうにか演技を収める。カメラを向けられると舞台に立ったような感覚がしてスイッチが切り替わると前に言っていたので、それを利用したら上手くいった。もっとも、結生にはなぜか怒られた。
 そして翌日の昼休みにはこっそりと校舎の敷地から抜け出し、公園に向かった。猫の額のような小さな公園は、学生生活の一コマを切り取るにはいい場所のように思えた。今もこうして二つしかないベンチに並んで腰掛け、ミルクティーを飲んでいる様子なんかがそうだろう。ただ、ここを最後に据えるにはやはり思い出の描写を足したり前後のやり取りを工夫したりといったことが必要になりそうだった。ミルクティーブレイクの後に結生の演技を見てもその考えは変わらず、結生も同意見だったのでここは一旦保留になった。
「ほかにさ、こことかもどうかな?」
 そして公園から学校に戻る道中、結生はさらに候補地を追加してきた。彼女が見せてきたメモには、さらに候補地が四つも並んでいる。
「おい。ちょうどついさっき候補を全部見終えたばかりだぞ」
「だからこそ、だよ。やっぱり妥協はしたくないじゃない。見れるところは見て回ろう! それにまだ春まで時間もあることだし」
「やめろやめろ。フラグを立てるんじゃない。それ物語的には時間なくなるパターンだろ」
「あははっ、確かに」
 結局、僕らは翌週からさらにその候補地を回ることになった。ひとつは学校の屋上で昼休みに昼食がてら向かい、ひとつは僕らが普段使う駅前にある憩いの広場だったので放課後に見て回った。どちらも何度か来たり通ったりしているが、改めて見て回ると意外にも活かせそうだった。そんな発見に驚く僕を見て、結生はしたり顔で笑っていた。
 残りの二つは、さらにその翌週の休日に見に行くことになった。というのも、場所がなんと結生の通う病院と、その裏手にある花畑だった。
「やっぱり病気がちな『瑠奈』にまつわるラストなら、病院は外せないでしょ」
 そんなやや心配になるような一言を事もなげに言い、彼女は僕を誘ってきた。僕は何か言おうと思ったが言葉は出てこず、無難な軽口しか言えなかった。
「結生が言うと説得力が違うな」
「でしょ。あ、もしかして心配になってる?」
 もっとも、僕の考えはどこまでもお見通しのようで。
「……なるよ」
「ふふっ、ありがと。でも心配しないで。余命宣告とかされてるわけじゃないし、見ての通り今は体調もいいし、治る確率は確かに低いけどあくまで今のままだったらの話だから。それに先輩のおかげで、頑張れそうだから」
 そんなことを柔らかに言って、彼女は僕を安心させた。
 それから結生は、楽しそうに病院の裏手にある花畑について教えてくれた。つい最近候補として思いついたようで、理由を聞くとそこに咲いていた花の花言葉がピッタリだったらしい。十二月になったばかりでどんな花が咲いているのか聞くと、結生は悪戯っぽい笑みを浮かべて言ってきた。
「集合場所はその花畑にしよ! 私は午前中に定期検査があるから、集合は午後一時ね! 待ってる間に花言葉、ぜひ調べてみてっ」
 楽しそうに、嬉しそうに、彼女は心から笑っていた。
 だから僕はあえてそれ以上は聞かず、ただ素直に頷いておいた。
 彼女は、結生は――この時は本当に、心の底から笑っていたんだ。

     *

 よく晴れた土曜日の早朝。
 僕はここ最近で一番機嫌悪く家を出た。
 理由は、深夜だろうと時間構わず口論を重ねる両親だ。昨日の夜は、また偶然にも両親の帰宅時間が重なり、顔を合わせるなり早速言い合いが始まった。最初はいつも通り家事分担やら日々の不満なんかをぶつけていたが、やがて時期も時期だからか僕の進路に飛び火していった。最難関国立か評判重視の私立か。その先の就職は大企業かベンチャー企業か。留学はした方がいい、いやしない方がいい、文系だがプログラミング言語や資格は習得しておいた方がいい、いやそんなことはせずに人脈づくりや大学生活を楽しむことが人格形成には重要だうんたらかんたらと、深夜三時だか四時まで激論を交わしていた。
 正直うんざりだった。自分の進路は自分で決めるし、僕は親のために進学するわけでも就職するわけでもない。学費や生活費を出してくれていることに感謝はするけれど、それでもって子どもを自分の思い通りにしたいというのはどうかと思う。そんなことを考えていると、やっぱり大人なんてロクなもんじゃない、なりたくないという気持ちが強くなってきて、やがてなんで僕は毎日を生きているんだろうなどという、やや哲学的な疑問が沸き上がってくるのだ。
 駅に着き、学校とは反対方向の電車に乗ってからも、悶々とした思考は続いていた。寝不足も相まって、気分は最悪だった。
「ん?」
 澄み渡った青空を車窓からぼんやり眺めていると、スマホが振動した。一瞬、親からの電話かと思ったが違った。
 ≫おはよー!
 ≫病院裏の花畑に一時集合だからね!
 ≫遅れないでよ! 遅れたらジュース奢りだから!
 早朝からフルパワーで連続メッセージを送ってきたのは、大病を患った後輩だった。
「ははっ、朝から相変わらず元気だな」
 病気になっているとはとても思えない。学藝祭後のやりとりや聖地巡りでの出来事がなかったら、きっと今でもわからなかっただろう。僕は「そっちこそ遅れるなよ」とだけ返信してから、そっと瞼を閉じた。
 気がつくと、目的の駅名を告げるアナウンスが車内に響いていた。


 病院の最寄り駅で降りると、僕は近くにあったファストフード店で朝食を済ませ、早めに花畑へと向かった。結生に聞いてどの辺りにあるのかは大まかに把握していたが、やはり実際に行ってみないとわからないこともある。もし道に迷ったりして遅れたりなんかすれば、結生はドヤ顔でジュースをねだってくるに違いない。
「にしても、寒いな」
 唐突に吹き抜けた北風に、僕は思わず身を震わせる。
 今週から十二月に入り、雪は降らないまでも気温はすっかり冬の様相を呈していた。僕が今歩いている道は左右に田んぼが広がっており、風が時折強く吹いてくる。花畑がどんな場所にあるかは知らないが、こんな寒い時期に咲いているのだろうか。
 田んぼ道を抜け、住宅街に入ってからも僕は思索を続け、実は秋に見つけた花畑で今はもう咲いていないというオチが予想できたところで、病院が見えてきた。前に結生が言っていた通り手前にある脇道へと逸れ、右から回り込むようにして裏手へと回ると、それは目に飛び込んできた。
「わっ……」
 基本あまり大きく心が動かされないタイプだが、つい声が漏れていた。
 そこには、紫を基調とし、所々に白や青がアクセントのように咲いた、見渡す限りの花畑が広がっていた。
「これは、サイネリアか」
 小説を書く手前、花言葉はよく調べたりしている。前向きな意味をもつ花言葉として、かなり有名な花だったはずだ。
「でも確か、あんまりいい名前じゃないからお見舞いとかではNGの花だったような……」
 スマホを取り出し、おぼろげな記憶の確認をしようと検索エンジンを起動した時だった。
「――こんにちは」
 後ろから、透き通った声が聞こえた。
 驚いて振り返ると、白い厚手のコートに身を包んだ、四十代後半か五十代くらいの女性が小さく微笑んでいた。その顔に見覚えはなく、散歩か何かをしているただの通行人だろうか、と思ったところで、女性は再び口を開いた。
「突然ごめんなさい。失礼ですが、もしかして室崎秀さんでしょうか?」
「え、ええ……」
 また驚く。どうやら、通行人ではないらしい。
 僕が戸惑いながらも頷くと、女性の顔がパッと輝いた。
「ああっ良かった! いつも娘がお世話になっております。柊結生の母です」
「え……ええぇっ⁉」
 僕の声に驚いたのか、サイネリアの花畑から小鳥が一羽飛び去っていった。


 改めてお互いの自己紹介を交わしたところで、結生のお母さんと僕は花畑の隅に並べられたベンチのひとつに腰かけた。そこは陽がよく照っており、田んぼ道とは違ってそれなりに暖かかった。
「これ、良かったらどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 差し出されたペットボトルのお茶を恐縮して受け取る。そんな僕の様子を穏やかな表情で見つめてから、結生のお母さんは同じお茶を鞄から取り出し一口飲んだ。
「あの、もしかして、僕と結生さんがここで待ち合わせしていることを聞いて……?」
「ええ。結生から、『素敵な先輩を紹介したい』って言われましてね」
「え……うわっ、と!」
 予想だにしていない返答に、手に持っていたペットボトルを落としそうになり、慌てて掴み直す。そんな僕の様子に、結生のお母さんはクスクスと笑った。
「そういう意味じゃないってことは、結生から聞いています。私としては、とっても残念ではあるけれど」
「は、はあ」
 つかみどころのない人だ。ある意味、結生と似ている。
 僕はもらったペットボトルの封を切り、一口喉へ流し込んだ。
「でも室崎さん、随分と早いですね。待ち合わせは午後一時って聞いてましたけど」
「えっと、ちょうど暇だったので早めに来て軽く下見に。結生さんからは遅れないようにって言われましたし、この花畑には初めて来るので、先に場所だけ見て、また後で来ようと思いまして」
「なるほど、そうだったんですね」
 今度はふんわりと笑ってから、結生のお母さんは視線を花畑へと向けた。
「ここ、いいところでしょう。結生のお気に入りの場所で、定期検査の時によく一緒に来ているんです。花言葉は喜びや快活。あの子らしくて私も好きなんですが、サイネリアはシネラリアとも言って、不吉な花だって思う人もいるのが少し残念ですね」
「ああ、みたいですね。僕もいいところだと思いますが、病院の近くにあるのは珍しいですね」
「なんでも、院長がヨーロッパ出身の友人に、ここに健康を願う花を植えてくれと頼んだら、サイネリアを一面に植えられたらしいです。向こうでは快復を祈るためのプレゼントとしてよく贈られるみたいで」
「へぇー。お詳しいですね」
「いえいえ、ただの又聞きです」
 結生のお母さんは照れたように苦笑した。よく笑うところも、結生に似ていると思った。
 それから話の話題は、学校での結生の様子に移った。
 なんでも結生の家は母子家庭で、結生のお母さんは昼夜働いており、学藝祭にも来れなかったらしい。たまに結生の口から教室での出来事や小夜などの友達の話は聞くが、演劇については恥ずかしいのか多くは語ってくれないようで、結生のお母さんは特に部活のことを聞きたがった。僕は意外に思いつつも、結生の類稀な演技や全力で部活に取り組む姿勢について話した。
「結生さんの演技を初めて見た時は驚きました。まさか難易度の高い泣きの演技をこなすとは」
「ええっ、あの子が。幼い時からいつも笑ってるので、泣いた顔なんて親の私でもあまり見たことないのに。すごく気になりますね」
 前世のことについては伏せた。言葉の端々から察するに、結生は記憶のことを話していないように思えたから。
「いつも全力で演技に取り組んでいて、僕や小夜、他の部員たちもすごく刺激になっていますね。三月頭の卒業生送別会でも演劇をやるんですが、今からすごく張り切ってます」
「そっかー、あの子らしいわ。聞いていると思いますが、春過ぎに少し大きな手術を予定してまして、その間は部活ができなくなるから、余計やる気に満ちているのかも」
 会話の中では、僕も結生のことについていろいろ聞いた。
 病気のこと。手術のこと。治る見込みのこと。
 そのどれもが結生の言っていたままで、彼女は言葉通り本当のことしか僕に伝えていなかった。現在の病状など少し疑ってしまったこともあり、なんだか申し訳なくなったが、同時に安心もした。
 そして気が付けば、話し始めてから小一時間あまりが経過していた。
「あら、もうこんな時間。検査前に診察もあるし、そろそろ行かないと」
「検査は何時からなんですか?」
「十時からだけど……あ、そうだ! どうせなら室崎さんも一緒に来て、結生をびっくりさせてみる?」
「え」
「ふふふっ、冗談です」
 悪戯っぽく笑ってから、結生のお母さんはベンチから立ち上がった。一時間程度話したくらいだが、こういうお茶目なところも本当に結生とそっくりで、まるで結生にからかわれているような気がした。
「それじゃあ、僕もこの辺で。お昼は結生さんも交えて話しましょう」
 苦笑交じりに僕も立ち上がる。なんとなく同じ方向に歩くのははばかられたので、別の道から行こうと踵を返そうとして、僕は驚いた。
「ふふっ……本当に、あなたが結生の先輩さんで、良かった、です……っ」
 視界の端に映った結生のお母さんが、泣いていた。
「えと、え、えぇ?」
 慌てふためく僕に、結生のお母さんは自嘲気味に笑った。
「ごめんなさい。つい、感極まってしまって……。あの子ね、自分では気がついていないようだけど、最近は本当に心から楽しそうに笑ってるの」
「え?」
 やや違和感のある物言いに、僕は思わず聞き返した。
「さっきも言った通り、結生は昔からよく笑う子だった。でも、時々どこか表面上で笑っているというか、心から笑っていない時があったんです。私がよく笑って誤魔化すのが原因だと思ってたけど、それだけじゃないみたいで。病気になってからは特に……むしろ苦しそうな笑顔ばかりでした。無理も、ないんだけど」
 結生のお母さんは顔を伏せた。悲しそうに笑うその表情には見覚えがあった。けれど、すぐに顔を上げて話を続けた。
「でも、最近は違うんです。本当によく、笑うようになったんです。心から嬉しそうに、楽しそうに。そしてそれが、室崎さんの話をしている時だと気づいたんです。詳しい内容は教えてくれませんでしたけど、二人で何か楽しいことをしているんだということはわかりました。『お母さん、今日は秀先輩とあそこに行ったのっ!』って、とっても楽しそうに、笑顔で話してくれるんです。私はそれが嬉しくて、嬉しくて……」
 目元に涙を浮かべて、結生のお母さんも本当に嬉しそうに笑っていた。それは確かに、最近の結生の笑顔とそっくりだった。
「だから、だから……本当に、ありがとうございます。自分の子どもが心から笑ってくれる。親にとって、これほど嬉しいことはありません。幸せなことはありません。もし良ければ、どうかこれからも、結生のことをよろしくお願いします」
「は、はいっ!」
 深々と頭を下げる結生のお母さんを前に、僕は結局、慌てふためいたまま気だけ強い返事をした。なんだかそれがまるで本当の「ご両親へのあいさつ」みたいで、二人して顔を見合わせて笑った。午後から結生と会うのに、僕はどんな顔でいればいいんだろうと思った。
「それでは今度こそ、私は行きますね。目元が赤くなってしまいましたが、まあ夜勤明けなのでなんとか結生には誤魔化しておきます」
「や、夜勤明けなんですか⁉」
 ハンカチで目元を拭いつつ、サラリとすごいことを言う結生のお母さんに、僕は驚愕と同時に心配になった。いったいいつ寝ているんだろうか。
「大丈夫ですよ、仮眠はとってきましたので。って、そろそろ行かないと本当に遅刻しそうですね。それでは、私はこれで――」
 その時、着信音が鳴り響いた。聞き慣れない音だったので、すぐに結生のお母さんのものだとわかった。
「ああ、すみません。私のスマホですね……って、やだ病院からだわ。もしもし、すみません近くにいるのですぐに向か…………え?」
 結生のお母さんの顔から、表情が消えた。

「結生が……交通事故で病院に……それに遺書を持ってって……ど、どういうことですかっ⁉」

 ヒュッと、僕の心から温度がなくなった。

     **

 お母さんへ。
 まずは、謝らせてください。本当に、本当にごめんなさい。
 謝るくらいならこんなことするなって怒られそうだけど、それでも、ごめんなさい。
 私は、やっぱり耐え切れませんでした。病気が怖くて、死ぬのが怖くて、死んだ後にみんなから忘れられていくのが怖くて。毎日悩むくらいなら、ここでその恐怖を断ち切りたいです。
 治るなら、まだいいんです。でも、この病気はきっと治らない。一度経験してるから、わかるんです。
 私には前世の記憶がおぼろげなりにあって、そこでも私は今と同じ病気を患っていました。今とは違って友達とかもいなかったけど、どうにか闘病生活に耐えて、頑張っていました。でも、十七歳の時に死んじゃったんです。
 そして、今の病気の悪化の仕方は、数値としては出ていないけど、かなり悪い方なんです。私が前世で経験した悪化の仕方よりも早くて、きっともう長くはないんだと思います。
 そんな親不孝の娘を、母子家庭で貧しいのに、学校に行かせてくれて、部活にも通わせてくれて、治療費を払ってくれて、時間を見つけては私が寂しくないように寄り添ってくれて、本当にありがとう。そして、ごめんなさい。私はこれ以上、お母さんが疲れていく姿を見たくないです。負担になりたくないです。お母さんにはお母さんの人生があります。治らない病気のためなんかに、大切な時間を使わないでください。
 今まで私を育ててくれて、ありがとう。短い人生だったけど、私は幸せでした。お母さんの子どもで、本当に良かったです。
 それから、友達へ。
 一人一人書いていたら、泣けて泣けていつまで経っても終わらなさそうなので、あえてここには書きません。
 前の学校の友達へ。転校の理由を伝えなくてごめんなさい。病気の治療のためだって言えなくて、急にいなくなってごめんなさい。泣いちゃいそうで、言えませんでした。みんなの心では、私は笑顔のままでいたかったから。みんなと遊べて本当に楽しかったし、幸せだったよ。
 そして、今の学校の友達と部員のみんなへ。急にいなくなってごめんなさい。病気のことも、私が持ってる不思議な記憶のことも、悩みも、何もかもを隠していて、ごめんなさい。毎日を一緒に過ごすみんなだからこそ、言えませんでした。言っちゃったら、きっと今の関係は壊れてしまうから。最後まで友達でいてくれて、部活の仲間でいてくれて、本当にありがとう。笑顔の私を、少しの間だけでいいので、覚えていてくれると嬉しいです。
 最後に、私の秘密を知ってる先輩へ。
 怒ってると思います。もしかしたら、戸惑っているのかもしれません。でも、これが私の心の奥底にある感情で、苦悩でした。先輩にはいつか話せたらなと思っていました。でも、どうやらその時は来なさそうです。今まで自分勝手にいろいろと巻き込んで、振り回して、すみませんでした。でも、すごく楽しかったです。
 小説の完結まで見届けられなかったのが、唯一の心残り、かな。(これ書いちゃっていいんだっけ笑)
 先輩ならきっと、大丈夫です。幸せになってください。

 皆さん、ごめんなさい。そして、ありがとう。
 さようなら。

     **

 バタンッ、と扉の閉まる音が自室に響いた。
 やっと帰ってきた。
 どうにか帰ってきた。
 帰って、これた。
 部屋の明かりもつけず、僕は倒れるようにベッドに突っ伏した。それくらい、限界だった。
「ったく……ほんと、なんなんだよ」
 恨み言が漏れる。言葉にしても、それは後から後から心の奥底から湧き上がってきて晴れることがない。大声で叫びたい衝動を、僕はどうにか堪えていた。
 結生は、幸いにも一命をとりとめた。
意識は戻っておらず、骨折などの怪我があり、現在患っている病気との合併症には気をつける必要はあるが、今のところ命にかかわるようなものではないらしい。数日もすれば、目が覚めるだろうとのことだった。
 もっとも、ただの事故ならそれでひとまず安堵するのだが、事はもっと複雑で、深刻で、意味がわからなかった。
 結生のお母さんと急いで病院に行き、結生の病室に入ると、そこには小夜がいた。どうやら検査前に会う約束をしていたらしく、事故の瞬間は見ていないが近くに居合わせたらしい。すぐそばの交差点で交通事故だと騒ぎがあり、高校生くらいの女子が巻き込まれたと聞いて気になって行くと、結生が倒れていたとのことだった。
 事故については、どうやら結生が飛び出して起きてしまったらしい。死角の多い交差点で、結生の行動の一部始終をしっかりと見た人はいなかったが、軽傷を負った運転手や遠目から見ていた人には、そのように見えたそうだ。
 そして最も衝撃的だったのは、結生が懐に持っていたという遺書だった。
 読んでみると、紛れもなく結生の筆跡だった。前世の記憶や病気についての苦悩が綴られ、自分の母親や友達、そしておそらく僕へのメッセージが簡潔に書かれていた。
「自殺を図った、という線も考えられます」
 事故を担当した警察からは、淡々とそんな事実を述べられた。そんなはずがない、と結生のお母さんも小夜も、もちろん僕も反論したが、結生が自ら飛び出したという目撃情報と、懐に持っていた遺書が、現状を雄弁に物語っていた。
 あの結生が、自殺しようとするだろうか。
 疑問が、疑念が、濁流のように押し寄せてくる。全く意味がわからない。信じられない。
 最後まで全力で生き抜くと誓っていた結生が?
 心の底から楽しそうに笑ってくれていた結生が?
 僕の小説の完結を楽しみにし、手術も頑張ると言っていた結生が?
 その全ての表情が、言葉が、うそだったということだろうか。うそはつかないと何度も言っていたのは、これを悟られないようにするためだったのだろうか。
「はぁー……」
 肺に巣食っていた重たい空気を吐き出す。考えがまとまらない。
 僕は暗い自室の中で、そっと目を閉じた。


 翌日の朝。寝たのか寝てないのかわからない頭を冷や水で無理矢理起こしてから、僕はすぐ小夜に電話をかけた。電話口から聞こえた声はとても小夜とは思えない酷いものだったが、結生のお見舞いに行かないかと言うと、ためらいながらも了承してくれた。
 重い足を引きずりつつ、最低限の身支度だけして駅へと向かう。それなりに急いだつもりだったが、駅に着くと既に小夜が改札前に立っていた。ラフな格好で見慣れない帽子を目深にかぶっているところを見ると、どうやら僕と同じくすぐに家を出てきたらしい。
「よっ」
「よっす」
 お互いを認識しているという合図だけ交わし、僕らはそれ以上言葉を交わすことなく改札をくぐり、電車へと乗り込んだ。
 日曜日ということもあり、駅のホームも車内も比較的空いていた。僕と小夜は向かい合うボックス席に座った。なんだか懐かしい気がした。
 しばらくすると普段とは逆方向へ景色が流れ始めた。本来なら今日は部活だが、さすがに行く元気はなく僕は欠席の連絡をしていた。きっと小夜もそうなんだろうなと思った。
 昨日も見た景色を、昨日とは違う感慨を抱きながら眺める。天気も良く、実にのんびりとした雰囲気で、普通なら会話も弾むのだろうが、僕と小夜の間に会話は一切なかった。話したいことはたくさんあったけれど、一方で何を話したらいいのかわからなかった。どう切り出そうか、なんて考えていたら、いつの間にか電車は目的の駅へと着いていた。
 改札を抜け、昨日も通った道を足取り重く歩いていく。田んぼ道に差し掛かったところで、冬の季節らしい北風が吹き抜けた。気温的には昨日よりも暖かいはずだが、それはやけに身に沁みた。縮こまって身を震わせていると、どうやら小夜も同じみたいだった。
 昨日と同じように田んぼ道を抜け、住宅街に入り、しばらく行くと昨日と同じように病院が見えてきた。
「ねえ、秀。サイネリアの花畑って、どこにあるの?」
 昨日通った脇道を過ぎたあたりで、唐突に小夜が言葉を発した。急に話しかけられたこともそうだが、その内容に僕は思わず肩を震わせた。
「そこの脇道から回り込んだところに、あるけど」
「案内してくれない?」
 小夜の申し出に、僕はすぐに頷くことができなかった。だってそこは、昨日あの連絡を受け取った場所で。
「お願い」
 再度力強い口調で言われ、僕は無言のまま脇道へと足を向けた。昨日と全く変わらない、何の変哲もないただの道だ。なのに、そこはやけに長く感じられた。
「あ」
 隣から、微かに声が聞こえた。小夜が視線を送る方向、そこには変わらず、紫色のサイネリアの花畑が広がっていた。相変わらず綺麗だと思った。でも気持ちのせいか、それは少しばかり色褪せて見えた。
 小夜はしばらく呆然と眺めていたが、やがてゆっくりと花畑に近づいた。僕もその後ろからついていく。
「サイネリアの花言葉って知ってる?」
「ああ、知ってる。喜びとか、快活とか、そんな意味だろ」
 小夜の不意の問いに、僕は淡々と答えた。昨日、結生のお母さんから聞いたばかりだ。
「そう、喜びや快活。結生ちゃんらしくて、とても素敵な花。でもね、色によって花言葉は微妙に違うの」
「え、そうなのか?」
「うん。ここに一番多い紫は喜びだけど、白と青はまた別。白はね、『望みのある悩み』。前に結生ちゃんが、サイネリアはどの色の花言葉も私らしくて好きだって言ってたんだけど、昨日でやっと意味がわかった。結生ちゃんは、自分の病気のことを指して、自分らしいって言ってたんだと思う」
「確かに、前は不治の病だったけど、今は治る見込みがあるらしいからな。その……前世とのことも比較して考えてたとしたら、余計に」
「うん。きっと、そうなんだと思う。病とかにもまつわる花みたいだから」
「なるほど……。ちなみに、青は?」
 僕の問いかけに、小夜はスッと一度息を吸って、静かに言った。
「『悩み多き恋』、だよ。結生ちゃんは、秀のことが好きなんだよ」
「え……?」
 想定外の言葉だった。驚きのあまり固まる僕に、小夜は呆れたように肩をすくめた。
「なんとなく察したのは学藝祭の時くらいかな。その時は、結生ちゃん自身も気づいてなかったみたいだけど、最近は自覚したのか顔真っ赤にしてて、なんていうか、可愛かった」
 思い出したように、クスリと小夜が笑う。
「でね。それからもカマかけたり、居残り練習を二人っきりにしてみたり、ほんといろいろしてたの。相談にも乗ったし、駅前にある広場とか和やかに話せる場所へのデートも提案した。そして昨日も……秀への誕生日サプライズのために、朝集まろうとしてた」
「え、それって」
「うん」
 口元に浮かべた笑みを収めてから、小夜は真っ直ぐ僕を見つめてきた。
「あたし、やっぱり今の結生ちゃんは自殺なんてする子じゃないと思う。その前日にした電話だって、すごく楽しそうにしてた。『秀先輩の度肝を抜いてやるんだっ!』って張り切ってたの。だから、だからそんな結生ちゃんが、自殺なんてするはずない」
 小夜の顔がくしゃりと歪む。それは、涙を我慢しているようにも、無理して笑おうとしているようにも見えた。
「ああ、そうだな。僕も、そう思う」
 一番演技の上手い後輩の、不格好な演技を見て、僕は大きく頷いた。


 その日、僕と小夜は結生を見舞いに病室まで行ったが、まだ目は覚ましていなかった。結生が目を覚ましていたら真意を問い質したかったが、それはまたの機会となった。
 現状の僕と小夜の想い、そして明日の放課後にまた来ることを、付き添いをしていた結生のお母さんに伝え、僕たちは病院を後にした。

 結生が病室から姿を消したのは、翌日の朝のことだった。

 そこは、見渡す限りの闇だった。
 一点の光もなく、は言い過ぎだが、空の遥か彼方がようやく白み始めた頃だ。視界の上半分には薄っすらと雲が流れており、下半分では何かがうごめいている。
 その何かに視線を移した時、正面から吹き付ける風が勢いを増した。相変わらず容赦がない。背後では髪が波打ち、木々がざわめいている。潮の匂いが鼻孔を衝き抜け、ツンと奥がうずく。足元というには程遠い真下から潮騒が響き、そこが海に臨む崖であることを如実に表していた。
 軽く腕をさする。季節は冬。手持ちのパーカーとコートだけだとさすがに寒い。もっとも、私の心はとっくに冷え切ってしまったから、べつにどうということはないのだけど。
 一歩、前へ進む。
 生い茂る雑草を踏んだ感触が伝わってくる。
 どこか、懐かしいと思った。
 あれはいつだっただろう。
 こんなモノトーンに染まった景色じゃなくて、夕焼け色に満ちていた。
 少し肌寒かったけれど、そんなことどうでもよくなるくらい心は温かかった。
 踏み締めた草花の感覚も、耳元で響く海風の音も、何もかもが新鮮だった。
 でも今は違う。
 もう私は、あの時の感情でここを訪れることはできない。
「ごめんなさい」
 ここにはいない、誰かに向けた謝罪の言葉が口をつく。
「ありがとう」
 夢のように楽しかった日々にお礼を告げて、私は飛ぶ。
 左右に広げた両手で風を受ける。
 有名な映画のワンシーンが浮かんだ。
 豪華客船の鼻先で、私は両手を広げている。
 自由を体全体で感じている。
 でもそれは、幻想の自由。泡沫のように儚く、あっという間に消えてしまう。全く同じだった。何も前と変わらない。見せかけの、偽物の自由だった。
「次の、三度目の人生こそは、楽しく……」
 そこで衝撃が全身を貫き、いつかの生の終わりと同じく、視界は闇に包まれた――――。
 
     *

 朝露を蹴り上げ、僕はひたすらに駅前の広場を駆けていた。
 右に左に首を動かすも、目当ての人は見つからない。
 月曜日の朝。視界に映るのは、気だるげに駅構内へと向かう会社員や学生ばかりだ。そんな人たちを押しのけ、僕はもう一度広場の中央へと戻る。部屋着のままだからか奇異の目を向けられ、時には怒鳴られたような気もしたが、それどころじゃなかった。
「ダメ……やっぱり電話にも出ない……」
 広場の中央。噴水の前に佇む小夜は、スマホを握り締め、震えた声でつぶやいた。
「こっちもいない。家はどうだ?」
「さっき結生ちゃんのお母さんからいなかったって、メッセージが……」
「そうか……くそっ」
 拳を握り締めると、手汗がにじんだ。気持ち悪くて服で拭うが、まるで収まる気配がない。
 焦っていた。
 自分でも自覚できるほどに、焦っていた。
 こういう時こそ落ち着かなければと思うが、考えがまとまらない。頭の中を何かがぐるぐると渦巻いていて、まるで嵐のようだった。
「どこだ……どこにいる……結生」
 今朝。まだ日が昇り始めた早朝にかかってきた電話で、僕の意識は一気に覚醒した。いや、むしろそのまま通り越して、ほとんどオーバーヒート状態になりかけた。そのくらい、意味がわからなかった。
 ――結生がそちらに来ていませんかっ⁉
 動揺している結生のお母さんの声が、今も耳の奥に残っている。
 ――結生が、結生が……病室からいなくなったんです……!
 ほとんど無意識に、僕は家を飛び出していた。
 聞くところによると、昨日の夜中までは確かに結生は病室で眠っていた。しかし、明け方の見回りで看護師さんが再度確認した時、ベッドに彼女の姿がなかったのだという。病院関係者が総出で敷地内を探し周り、連絡を受けた結生のお母さんもサイネリアの花畑や近隣を探したが見つからず、今は警察も動いているとのことだった。
 そして結生が消えた布団の上には、身代わりのように一通の手紙が置かれており、ただ一言。
 ――ごめんなさい。
 とだけ書かれていたらしい。
「何やってんだよ……結生」
 結生らしくないと思った。
 確かに結生は自分の全力に周囲を巻き込んでいくが、決して悲しませたりただ迷惑をかけるだけといったことはしない。むしろ積極的に笑わせ、喜ばせ、前を向かせていく。彼女のひたむきな姿勢に、みんながつられて頑張りたくなる。結生は、そんな後輩だった。
 ――楽しみにしてるからね、室崎秀せーんぱい。
 憎たらしい笑顔でそんなことを言われたのは、いつだっただろう。
 初めて自分以外の人に小説を読まれ、面白いと言われ、嬉しいと思った。でもどうやらその時の感想は三番目に面白かったところらしくて、僕はよりムキになった。
 ――一緒に最高の物語を創り上げましょう!
 瞳を輝かせてそう誘われたのは、いつだっただろうか。
 転校間もなく、人の何倍も努力をしていた結生は、さらに演技力向上練習をしたいと言って僕を本格的に巻き込んできた。両親のやり取りにうんざりし、自分の在り方にも嫌気がさしていた僕は、その誘いに乗った。直前に見せられた彼女の演技は非常に魅力的で、もっと見たかったという気持ちもあったのかもしれない。
 ――じゃあ明日の放課後、正門前で待っててくださいね。忘れて帰ったらダメですよ。
 演技だけじゃない。彼女は、僕の日常へも入り込んできた。幼馴染の雪弥や小夜を含め、他人とは深く関わらないようにしていた僕を誘い、引っ張り回した。
 部活の買い出しにカフェでの談笑なんて、どこが楽しいんだろうと思っていた。居残り練習や、本番前に部員で話し合って脚本を修正していくなんて、面倒なだけだと思っていた。でも実際は全然嫌じゃなくて、まんざらでもないと感じている自分がいて、それがなんだか気恥ずかしくて。
 ――私は先輩を誘っているんです。ね、一緒に見て回りましょ。私は欲張りなので、一日しかない学藝祭をいろんな人とめいいっぱい楽しみたいんです。
 学藝祭を一緒に回ろうと誘われた時も、本当は嬉しくて。
 そして当日も、なんだかんだで楽しくて……――。
 ――あーあ。見つかっちゃった。
 まさかあんなふうに学藝祭が終わるなんて、思ってもみなかった。
 本当に衝撃的で、すぐに頭が追い付かなかった。結生は、病気で人生を終えた記憶を持っているだけじゃなく、再び同じ病気を患っていた。その理不尽な事実を、現実を、僕はすぐに受け入れることができなかった。
 ――そんな顔しないでください……秀先輩。
 そんな僕に、結生は心配そうに笑いかけてくれた。
 一番辛いのは、結生のはずなのに。
 知られたくないことを知られたはずなのに。
 結生は、僕のことを気にかけてくれていた。
 ――だから私は、今度は全力で取り組むんです。人生を精一杯楽しみたいから。
 結生は、いつだって全力で生きていた。
 ――もし、今の先輩の人生が二度目だったとしたら。十七歳で一度命を落として、その記憶がただないだけの、今の私と同じ二度目の人生だったとしたら、先輩はどんなふうに生きますか?
 僕を諭した言葉たちは重かった。きっと多くのことを考え、悩み、あがいて、前を向こうと必死に頑張っていたんだ。
 ――いつも通り、ですか。じゃあ先輩、後輩の緊張をほぐすために何かしてくれませんか?
 そしてずっと、恐怖と闘っていた。
 ――先輩を巻き込むのは、これで最後にします。
 だからこそ。あの時結生は初めて、僕から距離を置こうとした。
 誰かと、深く関わることを拒否した。
 僕は、嫌だと思った。そんな見せかけの笑顔で笑って僕と接する結生を見たくなかった。
 だから僕はそれを拒否した。僕ならもっと振り回してくれていい。だから結生も、見せかけの笑顔なんて作らず、遠慮なんてせず笑ってほしいと、切に思った。
 ――ねぇ、秀先輩。私、本当に遠慮しなくていいの?
 聖地巡りの後に、結生はまだそんなことを聞いてきた。
 僕の中では、それは終わったことにしたかった。遠慮しないことなんて、当たり前でいてほしかった。
 そしてあの後に、僕は結生の涙を初めて見た。心配にはなったけれど、今度こそ遠慮なんてせずに、素直な表情を見せてくれたのだと、そう思った。
 ――集合場所はその花畑にしよ!
 学校近くの公園に行った時も、『区切りの崖』に行った時も、高台に行った時も、学校の屋上でも駅前広場でも、結生は心から笑ってくれていた……はずだった。
 ――最後に、私の秘密を知ってる先輩へ。
 それなのにあいつは、結生は、あんな遺言を残して自殺を図ろうとした。
 あれだけ楽しそうに笑っていた結生が。遠慮するなって言ったのに。僕は、秘密を知るだけじゃなくて、迷惑をかけ続けられてもって………………
「…………いや、もしかして」
 そこでふと、ひとつの可能性が浮かんだ。
 もしそうなら、辻褄の合わない結生の行動にも説明がつく。ただ……
「でも、結生は、どこに……」
 焦るな。考えろ。もしそうなら、結生がそう考えているのなら。
 結生なら、結生だったら、最期に選ぶのは…………。
 ――秀先輩、ありがとね
「――学校だ」
「え?」
「小夜、学校に向かうぞ! 今すぐに!」
 僕はひとつの確信をもって、走り出した。

* *

 ――――――――。
 ……………。
 ……視界は闇に包まれて、死ぬつもりだった。
「ふぅ……」
 集中するために閉じていた瞳を開く。眩しい。朝日が目に染みる。
 今のところ、私は生きている。
 道中、イメージトレーニングはずっとしていた。一度死は経験したはずだし、前世に限らず今の人生でも死は隣にいる。死はいつだって、すぐ傍で私を追い越す機会をうかがっている。
 でも、なぜか私は目的の駅を通りすぎ、予定とはべつの場所に来ていた。
「……ううん、今だけ」
 己に聞かせるように口ずさむ。
 そうだ、べつに死ぬことを諦めたわけじゃない。せめて今日一日。いや、この午前中だけでも、楽しかった思い出を振り返りにきただけだ。
 手元の、ひどく傷つきくたびれた本をめくる。無数の書き込みが目に入った。学藝祭の時、穴が開くほど読み込んだ台本だ。あの時の演題は「想い合う気持ち」だったが、それとはべつにタイトルもつけてあった。
 タイトルは、『Everyday Is Just One』。
 見栄を張りがちな秀先輩らしい、クサいタイトルだ。
 もっとも、私は結構好きだった。だからきっと、私も見栄っ張りで、ある意味、秀先輩よりも重症なんだと思う。もしかしたら、秀先輩の影響かもしれないけれど。
「責任、とってもらわないとなー」
 最後まで振り回せ、と言われた。だから私は、思いっきりわがままを言ってみた。
 前世の記憶にあった大好きな映画を調べて、その聖地に秀先輩を引っ張っていった。ちょうど最近になってアニメーション映画としてリメイクもされていたけれど、そこにはなかった聖地に敢えて行ってみた。想像通り秀先輩は戸惑っていたけど、なんだかとても楽しかった。あの時に感じた秀先輩の背中の温もりが、忘れられなかった。
 検査入院した時は、頑張って強がってみた。定期的にある入院は、前世の辛い記憶が蘇ってきて、本当に怖かった。だから秀先輩がお見舞いに来てくれた時は嬉しかったけど、同時に恐怖で弱った私を悟られないか心配だった。そして案の定、秀先輩は私が何か隠していることを見抜いていた。
 最近の秀先輩は、私の演技と本当の表情を見分けていた。だから、その時は演技なんてできなくて、後でどうにか電話の声だけで頑張った。誤魔化し切れた時はホッとしたけれど、同時に少し残念でもあり、嬉しくもあった。
 もし、見抜いてほしかったなんて言ったら、秀先輩はなんて思うんだろう。
 もし、秀先輩との練習の成果だって笑ったら、秀先輩は褒めてくれるんだろうか。
 でも、好きな人に弱っている自分なんか見せたくない。その気持ちだけは揺るがなくて、結局私としては良かったのだと思うことにした。
 退院してからは、さらに秀先輩を振り回した。秀先輩の書く小説を演じるのは、本当に楽しかった。私が私でない誰かになれて、しかもその誰かを書いているのは好きな人なのだ。ときめかないわけがない。病気であることを忘れ、時間を忘れ、ただ秀先輩と一緒に、秀先輩が私を見てくれていることが、なにより嬉しくて、楽しかった。
 聖地探しだなんだと理由を付けて、小夜ちゃんからおすすめされた場所に行ったり、根回しをした卒業生送別会の脚本を一緒に考えるのも楽しかった。秀先輩と二人だけの時間はもちろんだけど、小夜ちゃんや他の部員のみんなと一緒に部活動をするのもかけがえのない時間だった。みんなと笑い合えるのが、何より幸せだった。
 そんな秀先輩との物語づくりも、終盤まで来ていた。
 秀先輩と約束をした。秀先輩の書く小説をエンディングまで読んで、演じると。そうしたら、手術を頑張れると。前世でたくさん手術や治療を受けたがことごとくダメで、あっけなく死んでしまった記憶を、今度こそ乗り越えるのだと。
 でも、叶わなくなった。不注意ゆえに交通事故に遭って、私は手と腕を骨折し、顔にも傷を負った。盗み聞いたところでは、完治まで数か月かかるらしい。それでは、とても先輩の小説を演じることなんてできない。
 さらに、私の家は母子家庭だ。お金なんてなくて、今の治療費だって借金をしてねん出していることを知っている。お母さんは返済のために昼も夜も必死に働いてて、まだ四十歳なのに十歳以上老けて見られることも多いのだ。治る確率の低い病気なんかに時間を割いてほしくないし、これ以上やつれていくのを見たくない。今回の交通事故による入院と治療で、さらに負担が増えるなんてもってのほかだ。
 だから私は、今のこの状況を利用するしかない。
 視線を前へと向ける。すっかりと陽は昇り、小鳥が朝のさえずりを奏でている。
「もうそろそろ行かないと、か」
 病気なんかに、二度も私の命はくれてやらない。どうやって死ぬのかも、私の生き様のうちのひとつだ。
「あーあ。責任、とってほしかったなー」
 随分と自分勝手な気持ちだ。
 昔、一度決心した死への気持ちを簡単にへし折られ、私を心から笑わせてくれた人。
ずっと一緒にいられたら、なんて夢物語を叶えるために、もう一度頑張ろうと思えたことが懐かしい。
「……よし」
 朝日に向けて、笑顔を作る。
 私の物語のフィナーレは、もうすぐだ。
 もうすぐ私の人生は、エンディングを迎えるのだ。
 物語の最後をどう演じるかは、主役である私が決める。
 そう、心に決めた時だった――。

     *

「――結生っ!」
 屋上へと続く階段室の扉を、僕はぶち破る勢いで開いた。
 朝日が視界に溢れ、一瞬目を細める。
 けれど。次の瞬間捉えた姿に、僕は目を見開かざるを得なかった。
 だって、そこには――。
「秀、先輩……?」
 驚いた顔でこちらを見つめる、後輩の姿があった。
 十二月の早朝。気温はかなり低いのに、結生はパーカーとコートを簡単に羽織った程度の薄着で、学校の屋上に立ち尽くしていた。羽織ることしかできないのは、右腕から手のひらにかけて巻かれた包帯とギプスのせいだ。顔にはガーゼが何カ所も張られており、フードを被っているがその痛々しさは隠しきれていない。
 そんな満身創痍の状態で、結生は僕を真っ直ぐ見据えた。
「……何しにきたんですか」
 突き放すような冷たい声が僕を刺す。丁寧な口調も相まってそれなりに心にきたが、ひるむわけにはいかない。
「何って、迎えに来たんだよ。当たり前だろ」
「余計なことしないでください」
「余計なことってなんだよ」
「そのままの意味です。余計なお世話だって言ったんです。ほっといてください」
 結生はさらに強く言い切った。眼光は鋭く、真っ直ぐ睨みつけてくる。
 いつからか。僕は、日常における結生の演技とそうでない時をある程度見分けられるようになっていた。見た目における違いはほぼない。視線も、表情も、声色も、仕草も、大差はない。でも、なんとなくわかった。雰囲気というか、にじみ出ている空気が違っていた。そして結生は、日々のほとんどを演技で過ごしていた。
 べつにそれ自体は珍しいことではない。頻度の差はあれど、きっと多くの人がそうだろうし、もちろん僕もそうだ。素直な自分を日常的に行動で表せる人の方が少ない。けれど、僕にとっては、結生がそこまで日々を演技で過ごしていたことが驚きだった。
 そして今は……演技と本心が、混在していた。
「……悪いけど、それはできない。結生だって、僕が今の結生と同じことをしていたら介入してくるだろ?」
「それは……」
「だから僕もする。余計なお世話だろうとなんだろうと、僕は僕のやりたいように結生と関わる。それだけだ」
 僕が言い切ると同時に、隣で成り行きを見守っていた小夜が口を開いた。
「結生ちゃん、あたしも同じだよ。あたし、結生ちゃんが苦しんでいることをわかってなかった。そんな自分が嫌いだし、正直自分のことをぶん殴りたい。でも何より、結生ちゃんのことをまたひとつわかった今だからこそできることをあたしはやりたい。結生ちゃんの力になりたい。だからどうか、お願い……」
「小夜ちゃん……」
 結生は少し逡巡するように目を背ける。でも、静かに首を横に振った。
「ごめん。私は、やっぱり戻れない。手紙にも書いた通り、私は怖くてたまらないの。一度死んだことがあるはずなのに、やっぱり死ぬのは怖いんだ」
 諦念に満ちた視線が僕らを見据える。まただ。また、混ざっている。
「それに、この楽しい世界から離れてしまうのも怖い。みんなの記憶からすっかり忘れられるのも寂しいし、お母さんとか小夜ちゃんとか先輩に迷惑をかけ続けている今も嫌だ。いろんな意味で、もう限界。だから……ごめん」
「結生ちゃん、あたしは迷惑なんて思ってない……!」
「うん……ありがとう。小夜ちゃんなら、本気でそう思ってくれてると思う。お母さんも、きっと秀先輩だって、そう思ってくれてる。それはすごく幸せなことだけど、それでも、私が嫌なんだ」
 結生は笑った。そして、一歩後ずさる。
「だからやっぱり私は――」
「――もうやめろよ、結生」
 言い切る前に、言い切らせないために、僕は結生の言葉を遮った。
「本音とうそを混ぜてなんか言ってるけど、もし本当に最後だって言うなら本音だけで話せよ。なに小説みたいにきれいにまとめようとしてんだ」
「私は、そんなこと……」
「してるだろ。あの遺言、書いたのは結構前だろ。秘密を知ってる先輩とか、言葉遣いとか、その辺りから察するに学藝祭の前辺りじゃないのか。思い返せば、学藝祭の時もなんか様子変だったし、その時は結果的に見送ってくれたみたいだけど……今回事故に遭って、またぶり返してきて、そしてたまたま持っていた遺言を利用して、そのまま人生の幕を引こうとしたってところじゃないのか」
 僕の言葉に、結生は驚いたように目を見開いた。
「……どうして」
「当たり前だろ。もうだまされないからな。最初の頃みたく行くと思うなよ。僕はこれでも、ここ最近は一番結生のことを見てきた自信がある。似合わないんだよ、今の結生の行動は。途中で無責任に全てを放り出すのも、自分一人で何かを背負った気になっているのも、こんな悲劇を演じているのも、全て」
 結生は、いつだって全力で生きようとしていた。これと決めたことには頑固で、途中で投げ出したりせず、妥協したりせずに行動していた。行動しようと、していた。
 そんな僕にはない真っ直ぐなところに、僕は憧れた。近くで見たいと、そしてあわよくば何か僕も変われないかと、そう思った。
 でもそれだけじゃなかった。
 結生は、ずっと怖がっていた。病気のことも、自分の過去や未来のことも、周囲との関わり方も。結生は優しくて真っ直ぐなゆえに、どれに対しても正面から向き合っていた。だからこそ、恐怖を感じていた。当たり前だ。当たり前なのに、僕は結生の突き抜けた前向きさと不思議な前世での経験とやらを理由に、そこを見ていなかった。結生はどこまでも普通で、ありふれた、僕と同じただの高校生だった。
 そんな普通の高校生である結生に、こんな物語的悲劇は、必要ない。
「……そっか」
 結生はまた、諦めたように笑った。
「私、なんでもかんでも背負いすぎちゃってたのか」
 でも、そこに悲しみはなかった。むしろどこか、呆れているような感じさえした。
「それで、私はこれからどうしたらいいのかな。お母さんに負担かけちゃっているのは現実だし、今回の逃亡も含めてみんなに迷惑をかけちゃってるのも事実だし」
「負担とか諸々、結生のお母さんに全て話してみろよ。まずは話すところから、だろ。みんなに迷惑って部分に関しては、これからたっぷり話すぞ。な、小夜?」
「そだね。お菓子買いこまないと」
「ふふっ」
 また結生は笑顔を浮かべた。
 そして今度は後ろではなく前に、歩いてきてくれた。
「わかった。もう少しだけ、信じてみるよ。今はとりあえず謝りに行かないとだね。一緒に来てくれる?」
「もちろん!」
 小夜が笑顔で応じた。
 僕も慣れない笑顔を浮かべて、でもしっかりと頷いてみせた。
 結生は、今度は恥ずかしそうに笑ってから、逃げるように階段室へと入っていった。
 すれ違う時に見せた彼女の笑顔は、本当に綺麗だった――。

* *

 今は、諦めるしかなかった。
 嬉しかった。わかってはいても、面と向かって真っ直ぐ気持ちをぶつけられると、心に響かないわけがなかった。
 私は、どうしたらいいんだろう。
 わからない。
 わからないからこそ、怖い。押し潰されそうになる。
 みんな心配してくれている。大切に思ってくれている。
 わかってる。
 わかっているからこそ、辛い。治らなかった時に悲しませたくない。迷惑だけかけ続けて死ぬなんてしたくない。みんなの気持ちに応えたい。
 どうしたらいいのかわからない。
 私は、わたしは、ワタシは……どんなふうに残りの人生を生きていけばいいんだろうか。
 恐怖が私を蝕んでくる。
 自分の手で、自分の物語の幕を引く。そんな考えがちらついて離れない。
 でも今は、諦める。見抜かれた以上、今の私は今の気持ちを貫き通すことはできない。
 らしくない、と思った。
 気づいていた。踏ん張っていた気持ちが、今は根こそぎ折れているからだろうか。
 かけがえのない想いに触れても、私の中に巣食う諦念は、消え去ってくれないのだ。
 どうしたらいいんだろう。
 誰か教えてほしい。
 誰もわからない答え。求めるだけ無駄だ。
 嬉しいのは事実だ。間違いない。今の悩みだって、解ける日が来るのかもしれない。
 私は精一杯の笑顔を浮かべた。
 演技じゃない、心の底からの笑顔だった。
 でも私は、きっといつか、また同じ過ちを犯してしまうんだろうと、そう思っ――

「――え?」

 ふわりと、優しい匂いが私を包み込んだ。
 少し汗臭い、安心する匂い。
 薄暗い階段室と朝日に照らされた屋上の境界で、私は後ろからそっと抱きすくめられていた。
「大丈夫だ、結生」
 聞き慣れた声がすぐそばで聞こえた。
 年齢の割に落ち着いている、男らしい低い声。
 耳心地の良い、私の大好きな、声だ。
「焦らなくていい。大丈夫だ。大丈夫、大丈夫だから」
 繰り返し繰り返し、彼は言ってくれた。
 私の心を解きほぐすように。
 まるで私の心の中をわかってくれているみたいに。
「今の僕じゃこんなことしかできないし、言えないけれど……結生なら大丈夫。そばで見てきた僕が保証する。結生はひとりじゃない。だから、ひとりでエンディングを迎えようとするな。一緒に、最高の物語を創り上げるんだろ?」
「あ……」
 視界がぼやけた。
 私は、何があっても本心から泣かないようにしていた。
 泣くのは演技だけ。
 辛い時こそ笑うのだと、そう心に決めていた。
 なのに、またこの人は……。

「グスッ、ううっ……はい……はい……っ!」

 泣けてしょうがなかった。
 私はただ、頷くことしかできなかった。

 改札を抜けると、花の香りがふわりと鼻孔をくすぐった。
 頭上には青空が広がり、柔らかな春の日差しが雲間より顔を出している。
 季節は冬を越え、春になっていた。
 僕は道の先へと目を向ける。両脇には枝ばかりだった木々に花が咲いており、命の息吹がこれでもかと満ちていた。本当に、静かで寂しげだった冬とは雲泥の差だ。
 それから手元へ視線を落とす。

 先輩へ。これは手術後に読むこと。ぜったい!

 真っ白な封筒に、手書きで書かれた丁寧な文字。
 彼女の手術が始まる一週間前に手渡された手紙だ。
 どうやら相当なこだわりがあるらしく、渡される時も「絶対に手術前に開けないでね!」と何度も念を押された。そこまで禁止されると破りたくなるのが心情だが、あとで怒られるのも嫌なので素直に従うことにした。
 だから、僕はついさっき初めてこれを読んだ。

『拝啓 どうしようもない先輩へ
 これを先輩が読んでいるとき、私はどうなっているのかな。
 手術後に読んでねって言って渡したはずだから、きっと手術は終わってるよね。(もし手術前に読んでるなら今すぐ閉じること!)
 手術、成功してるのかな。失敗してるのかな。
 どっちにしても手術後は気持ちがぐちゃぐちゃになってそうだから、今のうちにいろいろ書いておこうと思います。
 あのね。今回受ける、というか受けた手術なんだけど、成功確率は3割くらいなんだって。これでも昔よりは随分といいらしいんだけど、それでも嫌になっちゃうよね。
 でももちろん頑張るつもりでいるから、心配しないで。
 ただ病院にいると、命にかかわる数値ばっかり聞かされて本当に怖い。私の人生って、なんなのかなって思っちゃう。
 ちなみに、私たち高校生(仮に17歳としよう)が明日死ぬ確率ってどのくらいか知ってる?
 だいたい、0.00000059%。
 暇だったから計算してみたんだけど、どう? 生きてるの、嫌になっちゃう?
 こんな計算してると、私と先輩が駅で出会った確率とかも知りたくなっちゃう。ほかにも、その後同じ日に高校の部活で再会する確率とか、約1年間こうして恋人になるとかもなくほぼ毎日一緒にいる確率とかも笑
 明日死ぬ確率と、どっちが高いんだろうね。
 私さ。本当に先輩には感謝してるの。
 変な出会い方した変な後輩女子高生と、こんなにも長く一緒にいてくれた先輩に。
 先輩は、私はずっと全力で前向きに頑張ってるって言ってたけど、それは違うよ。
 私はただ、前を向いているふりをしていただけ。
 全力で頑張ってるふりをして、ただ目を背けていただけなの。
 毎日が本当に怖くて、全力で頑張っている自分を、演じていただけ。
 演じていたらいつか本気になるって信じてた。そう信じるしかなかった。
 もしまた怖さに向き合って、絶望してしまったら、前と同じになってしまうから。前と同じじゃ、あまりにも私の人生が無意味過ぎる。それだけは絶対嫌だった。だから必死で全力を演じて、私は怖さから目を背け続けた。
 先輩と会った時もそうだった。なんか変わった人がいるなって思った。前世っていう私にとっては身近なキーワードを据えて、生きることの苦悩を小説として書いているのに、どこか自分の人生は諦めているような、変な人。前も言ったけど、本当の意味で他人に近づかなさそうな先輩だったから、私は一工夫こらして、また逃げ道を作った。
 でも、先輩との日々は、なんだかんだで楽しかった。
 部活も、買い物も、何気ない雑談も、もちろん演技力向上練習も。
 私の秘密を知る人と、前世とは違った思い出をたくさん作れて楽しかった。
 このまま本当に全力で、死ぬまで駆け抜けられたらって、そう思った。
 それでも、やっぱりダメだった。
 学藝祭の前後は、身体の調子が悪かった。使いたくない薬をたくさん飲んで、お母さんにも心配をかけた。全力かつ前向きな私なんてまがい物で、結局は怖かった。怯えてた。
 前世と、何も変わっていなかった。
 だから私は、死のうと思った。
 精一杯学藝祭を楽しんで、そしてその後に、私は本気で死のうと遺書まで書いた。なのに。
 なーにが、「最後まで、とことん全力で振り回せよ」ですか。
 なーにが、「結生に全力で振り回された先に、自分がどうなっているのか見てみたい」ですか。
 馬鹿みたい。一言一句覚えてる。忘れるはずない。
 ほんと、馬鹿みたい。
 そんなこと言われたら、振り回すしかなくなるじゃないですか。
 もうほとんどすべてを知られてしまったのなら、ちょっとくらい弱いところを見せるかもしれない遠出だってできるかもって、思ってしまうじゃないですか。
 遠慮も敬語もぜーんぶやめて、ちょっと甘えて、背中の温もりを感じるくらい、いいのかもって思っちゃうじゃないですか。
 馬鹿みたい。浮かれちゃって。もう少しだけ頑張ろうかなって、思っちゃうじゃないですか。
 先輩のせいで、私は馬鹿になっちゃった。遠慮やめたら楽しくて、怖さとか忘れて、本当に全力で演技とか頑張ってる女の子になれたような気がして、ほんと馬鹿みたい。
 だからね。あの日のことは本当にごめんなさい。
 本当はあの日、昔書いた遺書を先輩の前で破り捨てて、正真正銘の全力で、先輩の小説の最後を演じるつもりだった。私の大好きな、サイネリアの花畑で。先輩に、誕生日サプライズもして、気持ちを伝えるつもり、だった。
 でもそれが叶わなくなって、何かが折れちゃったんだ。そうしたら蓋をしていた嫌な感情とか、全部出て来ちゃって。もうどうでもいいやって、思っちゃった。本当に、本当に、ごめんなさい。
 そして、本当にありがとうございました。
 屋上で誤魔化している私を見抜いて、抱き締めてくれて。
 大丈夫と、言ってくれて。
 不思議だよね。好きな人に「大丈夫」って言われたら、本当にそうかもって思っちゃった。
 まるで、新しい三度目の人生が開けた気分。
 私って単純。本当に、馬鹿だ。みたいじゃない。大馬鹿だ。
 だいぶ長くなっちゃったから、そろそろ締めるね。
 今回の手術がどうなっても、私の命がどうなっても、先輩はしっかり幸せになってください。
 先輩も私と同じで、何かから逃げてるのはわかってた。
 人はね、生きてる限り、全てに向き合うことなんてできない。そんなに強くできてない。
 だから、逃げたっていいと思います。逃げて幸せになれるのなら、きっとそれが最善手。逃げる勇気も、絶対に必要。
 けれど。もし逃げて幸せになれないのなら、いつか向き合ってください。
 先輩なら、大丈夫です。
 前世の記憶を持つ大病を患った面倒くさい後輩を元気づけられた先輩なら、大丈夫。
 大丈夫、大丈夫だから。
 あなたからもらった言葉を、そのまま返します。
 そして必ず、あなただけの、秀先輩だけの幸せを掴んでね。
 きっとそうしたら、最高の物語を創り上げられるはずだから。
 先輩なら、大丈夫。
 どうしようもなく大好きな先輩なら、大丈夫だよ。
 ずっとずっと、ずーっと応援してるからね!

 本当の意味でどうしようもない後輩より』


「ほんと、どうしようもない後輩だよ。お前は」
 彼女には、全て見抜かれていた。
 僕が逃げていることも。
 生きることにどこか投げやりになっていることも。
 本当は心のどこかで、何かを期待してしまっていることも。
 僕はこの手紙を読んですぐ、父と母に「夜話したいことがある」とメッセージを飛ばした。
 彼女がここまでしているのに、僕が逃げるわけにはいかないから。
 幸せになるために、僕は向き合うのだ。
 家族の問題だけじゃない。過去の問題だけじゃない。
 僕は――。

 駆け足で田んぼ道を突っ切り、住宅街を抜けると、白い大きな建物が見えてきた。
 彼女が入院している病院。
 手術の準備のためと面会謝絶になってから、ちょうど一週間だ。

 冬の間。ほぼ毎日通っていたエントランスを抜ける。
 エレベーターで目当ての階まで昇り、扉が開くと同時に降りた。
 リノリウムの床が音を鳴らす。
 保健室みたいな匂いに、鼻が懐かしさを覚えた。
 そして、検査入院の頃とは違う病室の前に、僕は立つ。
 扉は開いていた。
 でもそのまま入るのは少し忍びなくて、徐に扉の面を二度叩いた。

「――入っていいよ」

 一週間ぶりに見る、後輩の顔。少しだけ痩せていた。心配になった。

「久しぶりだな」
「うん。久しぶり」

 一言だけ言葉を交わす。あまり声が出せないようだった。

「気分はどう?」
「ぼちぼち、かな」

 というわりには、疲れているように見えた。無理もない。昨日手術が終わったばかりだ。

「そっか」

 僕は、ベッドの近くにあった丸椅子に腰かけた。
 開いた窓からは涼し気な風が流れ込んでくる。白いカーテンがなびき、日差しがキラリと光った。

「聞かないの?」

 唐突に、彼女は言った。
 その顔を見ると、目尻には涙の痕があった。
 口元は真一文字に結ばれ、手は拠り所を探すようにくるくると円を描いている。

「まあ」
「どうして?」
「どっちにしても、僕は結生から逃げないからな」

 彼女の手紙。
 ひとつイラッとしたのは、まるで自分に関わるなと言っているような書きぶりだった。
 まるで手術の結果がどうなっても自分からは逃げるように勧めているような。
 本当に、どうしようもない後輩だ。

「後悔するかもよ」
「しないよ」

 それに、僕はもう彼女の顔を見ればわかる。
 それが演技なのか。
 はたまた本心なのか。

「ほんと、ずるいなあ」
「幸せになるため、だからな」
「ほんとに……もうっ!」

 ふわりと甘い匂いに包まれる。
 それはずっと求めていた春の香り。

 三度目の人生は、心からの謳声に満ちていた。

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