タップ、上、右、上、左、タップ。
 僕は慣れた手つきでスマホの画面に指を滑らせる。読点は二回タップで入力。そして変換。「暗転した。」というワードを打ち込んで、そこで一息ついた。
「ふう」
 背もたれに体重を預ける。プラスチックが軋む音を立てて沈み、そして止まる。不穏な音とは対照的に、それはしっかりと身体の重みを受け止めてくれる。そんな当たり前の安心感に身を委ねて、僕は再び息を吐いた。
「暑いな」
 微かに顔へかかる日差しを見つめ返す。まだそこまで高く昇っていない太陽のくせに、存在感は圧倒的だ。夏の残滓を宿した光を不乱に振り撒き、僕の額にじんわりと汗をにじませてくる。遠くから聞こえる蝉時雨と相まってなんともうっとうしい。
 季節は秋。
 開放感に満ちた夏休みは昨日で終わり、面倒くさいことこの上ない朝の通学時間を僕は過ごしていた。電車待ちの合間にこうして唯一ともいえる趣味の小説を綴っているものの、どうにも文章は腹落ちしていない。
 消すか、残すか。
 優柔不断な僕は散々迷った挙句、残すことにした。「下書き」と書かれた、とあるWEB小説投稿サイトのページにある保存ボタンを押す。これで、長考の末に僕が入力した六百七十二文字はクラウド上に残ることとなった。
「はぁー」
 駅ホームの傷んだ屋根と薄い水色の空が映っていた視界を閉じて、僕は何度目かになるため息をついた。
 人生に一度しかない高校二年生の夏休みは、勉強と部活とバイトばかりしていた。
 来年から始まるらしい受験に備え、自主性とは名ばかりの夏期講習に赴く。うだるような暑さの中シャーペンを走らせ、板書をノートに写す。こんなの社会に出てなんの役に立つのか。多くの学生が思っているだろう疑問を幾度となく感じつつも、勉強をやめることはない。夏休みの前半二週間にわたって行われた夏期講習は皆勤賞だった。
 夏期講習や夏休みの宿題といった勉強のほか、部活という名前の青春も、僕は漏れなく謳歌していた。腐れ縁ともいうべき幼馴染に誘われ、生徒は必ずどこかの部活に所属しなければならないという校則にも縛られた結果、僕は公立には珍しい演劇部に所属している。もっとも、役者なんて目立つものはやりたくない。誰にも話していない趣味の参考になればくらいに思って脚本担当になった。ただ、人数が少ないという環境的事情に押され、大道具や小道具などの裏方全般もこなしている。おかげで手先がいくらか器用になった。そんな僕の些細な技術を用いて、夏休みの夕方は黙々と舞台のセットや小道具を作っていた。
 あるいはバイトだ。といっても、大手ハンバーガーチェーン店や清潔感溢れるカフェの店員などではない。人よりも多少できる勉強の実力を買われて、腐れ縁幼馴染の妹に短期の家庭教師をしていた。彼女は同じ演劇部に所属している役者の中でも飛びぬけて芝居の実力があるが、それ以外についてはからっきし。サボりまくりで進級ギリギリの成績をどうにかしてくれと彼女の親から頼まれ、昔からお世話になっていることもあって断り切れず引き受けた。時給は思いのほかよく、少しばかり財布は潤った。家庭教師の時間中、延々と恨み辛みは聞かされたが。
 あとは友達の誘いにほどほどに付き合い、残りは冷房の効いた自室で本を読むか小説を書くか動画を見るかして時間は流れた。気づけば八月は終わり、新学期が始まろうとしていた。
「ふうー」
 息を吐く。今度は細く、長く吐く。
 つまらないな、と思った。
 何事もなく過ぎてしまった高二の夏休みを後悔しているわけじゃない。健全な男子高校生としては恋愛のひとつもと思わなくもないが、いざ直面すればきっと「面倒くさい」という気持ちが勝つ。勉強にしても部活にしてもバイトにしても遊びにしてもそれ以外にしても、僕は平均以上の活動をしていると思っている。つまりは、充実している、はずなのだ。
 でも、時々思ってしまう。つまらない人生だな、と。
 こんな当たり前の毎日を過ごして、来年には受験を迎える。
 上手く合格すれば大学生になって、サークルやら講義やらといった高校にはない楽しみを享受する。少し興味のあるお酒だって合法的に飲めるようになる。
 やがてはインターンとかいう社会人手前の仕事体験をし、就職競争を勝ち抜いて本当にやりたいのか向いているのかもわからない仕事に就き、社会人になる。名刺交換のマナーを覚え、メールの作法を覚え、接待のやり方を覚える。
 そして昇進、結婚、育児、子育て……いろいろなライフイベントを経験し、年老いていく。
 それが、人生だ。
 事故もなく、大病もなく、リストラや不況、災害などに見舞われなければ、形は違うがほとんどの人が歩く道だ。なんの変哲もない、明るい未来だ。幸せな日々だ。
 ……本当に、そうなんだろうか。
 何度自問したってわからない。当たり前だ。きっとそれは、その時にならないとわからない。あるいは、後で振り返ってみないとわからない。要は結果なのだ。
「はぁーー」
 僕は目を閉じたまま、何度目かになるため息を吐いた。


 シャーペンの走る音が聞こえる。
 あれ?
 ページをめくる音。チョークで黒板に文字を書く音。野太い男性の声。
 ここは……。
 気がつくと、僕は教室にいた。真新しい教室の真ん中やや窓寄りの列。椅子に座り、目の前にある机の上には書きかけのノートが開いている。どうやら、数学の授業中らしい。
「はい、この問題がわかる人」
 それまで板書をしていた先生が、くるりとこちらに向き直った。
 僕は反射的に黒板に書かれた問題を見る。
 二次方程式の問題だ。定数が文字になっていて、しかも解も文字で置かれているから……。
 などと思考を巡らせ始めたところで、周りでパラパラと手が上がり始めた。
 え、もう?
 僕はまだ途中式すら思いついていない。にもかかわらず、上がる手の数は増え続ける。ある程度手が上がったところで、黒板の前に立つ先生はひとつ頷いた。
「ふむ、よろしい。では……」
 彼は満足そうな声をあげつつも、訝し気な視線をこちらに向けた、気がした。でもそれは一瞬のことで、すぐに僕ではない別の生徒を指名し、前で解くよう促す。指名された生徒は何も持たずに前に立つと、よどみのないスピードで問題を解いていく。もちろん正解。
 答え合わせや補足説明が終わるとすぐに先生はそれを消し、次の問題へと移る。また僕ではない誰かを指名して解かせ、それを繰り返していく。
 見覚えのある光景だった。
 さきほどの視線を思い出す。
 憐れむような、呆れたような、失望したような、そんな眼差し。
 ――仕方ないだろ。
 誰かが言う。
 ――そうね、仕方ないわ。
 誰かが答える。
 ――うん、仕方ない。
 僕がつぶやく。
 白く染まった視界を前に、僕はただひたすらに耳を塞いでいた。


『まもなく、二番ホームの電車が発車いたします。締まるドアにご注意ください――』
 夢と現実の狭間。秋晴れの中でまどろむ意識の外から聞こえてきたアナウンスに、僕は跳ね起きた。
「やべっ」
 乗る予定だった電車がいつの間にか発車しようとしていた。これを逃すとおそらく間に合わない。
 左隣に置いていたリュックを引っ掴み、僕は駆け出す。ドアまで僅か二メートル足らずの距離。くたびれたスニーカーが点字ブロックを踏むかどうかというタイミングで、目の前のドアは無慈悲にも閉まった。
「あ」
 吊り革を掴んだサラリーマンと目が合う。ドア越しの見つめ合いは、電車の加速する音に比例して左へと流れていった。たった四両の車両が眼前を駆け抜け、生暖かい風が遅れて僕の頬を撫でた。そして後には、複線の線路と向かい側のホームが見えるばかり。
 僕は、電車に乗り損なった。
「マジかー」
 駅のホームには余裕で着いていたのに、うたた寝をしてしまった。夏休み後半の乱れた生活が直り切らず、昨日寝るのが遅かったからだろう。なんとも間抜けだ。
 とはいっても、朝のホームルームには余裕で間に合う。間に合わなくなったのは、部活の朝練だ。
 まあ、しょうがない。
 僕は思考を切り替えた。どうせ元々自由参加の朝練だ。出ても出なくても、どっちでもいい。今日は二学期初日だし、念のため行っておこうかという気まぐれから早起きしたが、やはり慣れないことはするものじゃない。
 駅のホームに呆然と立つ自分への言い訳を済ませると、僕は次の電車の時間を確認しようと左の内ポケットに手を伸ばした。
「ん?」
 ない。いつもスマホを入れているはずの場所に、何も入っていない。別の場所に入れたっけ、と制服の全てのポケットを確認するが見つからない。リュックの外ポケットにもなく、中には基本的に入れることはないのでありえない。さっきまで小説を書いていたから家に忘れたわけじゃないし、うたた寝をする前は確かに……。
「あ」
 そこまで考えて、僕は後ろを振り返った。
 小説を書きつつうたた寝をしていたなら、スマホをポケットに入れるわけもなく。
 ただ単に、さっきまで座っていたベンチの上か、最悪下に落ちているのだろうと思いながらそちらに視線を向けて、僕は固まった。
 少女がそこに座っていた。
 断続的に吹く風をまとって踊る、艶やかで長い黒髪。
 真っ直ぐ下りたきれいな鼻すじに、すっきりとした輪郭。
 白いシンプルなシャツの上下に映える、テラコッタのロングスカートとベレー帽はとっても秋らしい。同じくらいの年齢だろうに、服装だけで随分と大人っぽく見える。
 つまるところ、秋コーデに身を包んだ同年代の少女がベンチに座っていて……僕のスマホを食い入るように見つめていた。
 いや、というか操作している。普通に手に持って、画面に細い人差し指を立てて、上にスライドさせている。何かを読んでいる。……何か?
「ちょ、ちょっとそれ!」
「ん?」
 はたと思いついた可能性に慌てて話しかけると、少女は無垢な瞳を向けてきた。平均以上の可愛らしさにドキッとするも、それ以上の事態の前では些末なこと。僕の、書きかけの小説を読まれているということの前では。
「えと、そのスマホ、僕のだと思うんですが」
 万が一違うという場合も考慮し、僕はやや控えめに話しかけた。
「ああ、これ? ここに落ちてたんだ」
 丁寧語の僕に対し、少女は物怖じすることなくタメ口で答えた。それだけで彼女のコミュ力の高さがうかがえる。そしてその間にちらりと盗み見た画面は、紛れもなく僕の書いている小説だった。
「やっぱり。さっきここでうたた寝しちゃって、返してほしいんだけど」
 彼女に合わせて僕もタメ口で応じ、おずおずと手のひらを出す。
 小説にはあえて触れない。どこかの誰かが勝手に書いたアマチュア文芸という体裁をとれば、僕の小さな自尊心は守られる。例え心の中でどう思っていようと、言葉として出さなければほとんど効果らしい効果は発揮しない。
「うん、それはもちろん。ただその前に、この小説のタイトル教えてくれない?」
「へ……?」
 しかし、目の前の少女は僕のささやかな思惑を正面から切って捨てた。
「このWEB小説のタイトルだよ。結構読んじゃったし、きりのいいところまで読みたいじゃない」
「ああ、うん。確かに、それは、まあ、そうかも……しれない、な」
 意味のない相槌をこぼす間、僕は必死に頭を回転させる。勉強はそれなりに得意で、学年でも上位層には食い込む脳だ。けれど、勉強ができることと地頭がいいことは別だ。類に漏れず、最後の一音を発しても僕の頭は最適解を弾けずにいた。
「あ、これ、もしかしなくてもひとつ前に戻ったらわかる感じか。今流行りの長文系タイトルだと忘れちゃうよね~。ということでごめん、戻っていい? 戻るね~」
「あ、おい、ちょっと待て!」
 制止する僕の言葉を無視し、彼女は何食わぬ顔でスマホをタップした。
「あれ? あれれ、もしかしてこれ編集画面? てことは君が作者? この小説の?」
 そしてわざとらしく発する不思議そうな声。間違いなく確信犯だこれは。
「おいあんたな、他人のスマホを勝手にいじるな」
「だから断り入れたのに」
「僕は『待て』って言ったぞ」
「ごめんごめん、その前に押しちゃった」
 少女は小さく舌を出す。その仕草はまさに小悪魔そのものだった。
「というかもういいだろ。返してくれ」
「えー、せっかく作者様が目の前にいるんだし、もう少し読ませて」
「僕の羞恥心をいくら引きずり出せば気が済むんだ」
 渋る彼女の手から半ばひったくるようにして僕はスマホを取り返した。
「あーあ。せっかくこれからってところだったのに」
「言っとくけど、君が今読んでいたところまでしか書いてないからな」
 画面に目をやると、案の定、今書いているところまで全て読まれていた。まだ最初の方しか書いていないが、推敲もしていない下書き段階のものを読まれるのは気分がいいものじゃない。
 僕は腹立たしさを隠すことなく、電車待ちの列に並んだ。
「ねーねー、これいつ続き投稿するの?」
 少女はすくっと立ち上がると、僕の様子を気にしたふうもなく聞いてきた。
「僕が怒っているのがわからない? 勝手に読んだ君に教えるわけないだろ」
「いいじゃん。面白かったんだし」
「え?」
 耳を疑う。僕の聞き間違いじゃないだろうか。
「聞こえなかった? 面白かったよ、その小説」
 どうやら聞き間違いではないらしい。
 僕の中で怒りが落ち着き、入れ替わりに微かな興味が芽生えた。
「……どの辺が?」
「んとね、いいなって思ったのは切ない雰囲気かな。冒頭で主人公の女の子が悩みつつも友達のために自転車を走らせているシーンとか、いきなり感動しちゃった」
「ああ、あそこは僕も結構悩んで書いたんだ。他にはある?」
「あるよ~二つくらい。でも教えなーい」
 にんまりと少女が笑った。その小憎らしい笑顔でハッと我に返る。
「あんた、謀ったな」
「んふふふ~、アマチュアでも作家様なら気づくべきだったね~。教えてほしくばいつ投稿するのか教えなさい」
 ピース、と少女はVサインを突き出す。
 迂闊だった。彼女の言う通り、こんな見え見えの罠にかかるなんて。
「教えないって言ったら?」
「もちろん、私も一番面白かったところと二番目に面白かったところは教えないよ」
 罠が増えた。
「さっきのは三番目に面白かったところだったのか」
「んふふ、そういうこと」
 僕は右手で頭を抱えた。趣味とはいえ、自分が書いた小説の面白かったところを聞きたくない物書きはいない。今後の参考にもなるし、なにより純粋に知りたい。
 それでも、僕は彼女の問いに答えられないでいた。気ままに書いているからわからないというのもあるが、それとは別の理由で、僕は彼女が欲する答えを持ち合わせていなかった。
 どう返答しようか迷っているところへ、数分前に僕を眠りから覚ましたアナウンスが鳴った。
『まもなく、一番ホームに電車が参ります。黄色い点字ブロックの内側に』
「あ、私の乗る電車だ」
 思い出したように彼女が言った。続けて、何か言いたげな視線を僕に向けてくる。
 しょうがない。少しばかり気になるが、彼女の感想は諦めようと僕が口を開きかけた時だった。
「じゃあ、私は行かないとだからこれで。答えは次会った時にでも教えてね」
「は?」
 次? 次とはいつだろう。これまで見かけたこともないのに。
「なんだったら、それまでに書き上げてくれてもいいよ。楽しみにしてるからね、室崎秀(むろさきしゅう)せーんぱい」
 それだけ言うと、秋色の少女は到着した電車の中へと乗り込んだ。通勤通学の時間帯ということもあり、彼女の姿はすぐに人混みに紛れて見えなくなる。暫しの時間を置いて金属製のドアが閉まり、電車は加速を始めた。
「なんだったんだ……」
 僕のつぶやきは、電車が運んできた一陣の風にさらわれ、溶けていった。

     *

 車窓の風景がみるみる左へ流れていく。
 見慣れた田園風景に、ぽつぽつと点在する一軒家。車を追い越し、川を越え、街へ街へと進んでいく。
 いつもなら英単語テストの範囲を復習するか、気が乗らない時は適当な音楽を流し聞きしているかだが、今はそのどちらでもなかった。
 数十分前のことを、思い返していた。
「なんだったんだ、あいつ……」
 わからないことだらけだった。
 どうして次会った時に答えを教えてと言ったのか。次会えるかもわからないのに。
 どうして僕の名前を知っていたのか。あの小説投稿サイトの著者名には「シュウ」としか書かれていないのに。
 どうして「先輩」を付けたのか。もしや同じ高校の一年生なんだろうか。でも新学期初日は今日で、彼女は私服だった。そもそも反対方向の電車に乗っていったし。
 謎が謎を呼ぶ。まるでミステリー小説の世界に落とされたような気分だった。彼女も小説や脚本を書けるんじゃないだろうか。
 でも、ミステリー小説よろしく、真実を導けないのはピースが揃っていないからだろう。これ以上考えるだけ無駄だ。おそらく、近いうちに真実とやらがわかるはず。……わかりたくもないけれど。
 僕はそこで思考を区切り、いつもの日常に戻るべくイヤホンを取り出した。
「あっ、秀じゃん! おはよー!」
 ノイズのおおよそを遮断するノイズキャンセリング機能を搭載したイヤホンが耳孔を塞ぐ前に、快活で耳心地の良い声が鼓膜を震わせた。
「なんだ、小夜(さよ)か」
「なんだとはなんだ。朝からあたしの可愛い声を聞けて幸せだろうに」
「普通そんなこと自分で言うか」
「役者たるもの、長所である自分の声には自信を持っているのです」
 ピース、とつい最近どこかで見たようなポーズをとる少女――青海(あおみ)小夜に、僕は小さく肩をすくめた。
 事実、彼女の声は澄んでいて、ずっと聞いていたくなるような魅力があった。今も、周囲にいる何人かがチラチラとこちらを見ている。もっとも、それは今しがた響いた類稀な声質もさることながら、モデルでも通用しそうな整った見た目のせいもありそうだが。
「それで。その役者たる自負をお持ちの小夜様は、どうして朝練に行っていないんでしょうか」
 見慣れ過ぎたその顔を見下げ、努めて他人行儀に僕は聞いた。
「む、それは秀もじゃん」
「僕はちゃんと行こうとしてたよ。ひとつ前の電車に間に合うよう駅のホームにも来てたしね。まあ、うたた寝して乗り損なったんだけど」
「ぷぷーっ! ウケる」
「ウケねーよ」
 いつもの調子でからかってくる彼女。本当に、こういうところは昔から変わらない。
「まっ、あたしも似たようなものなんだけどね。普通に寝坊した」
「えぇ、あの部活だけは真面目な小夜が?」
「部活だけ、が余計だよ!」
 パーンチ、と小夜は痛くもない拳を突き出してくる。その拍子に、黒色のウェーブがかった髪が小さく揺れた。
「はいはい。んで、その真面目な小夜がどうして寝坊を?」
「誰かさんが夏休み中に出した課題を終わらせてたんですぅ」
「へえ、終わったの?」
「寝落ちしたからもちろん終わってない」
「前言撤回。お前はやっぱり不真面目だ」
「うるさーい!」
 キーック、と今度は足を蹴り出してくるが、僕はそれをひょいとかわした。もちろんただのおふざけなので、それで小夜がこけることはない。これは、僕らの間では幼い頃からやっているただの遊びのひとつだ。
 青海小夜は、いわゆる幼馴染というやつだ。正確には、幼馴染の妹。小夜の兄である青海雪弥(ゆきや)は同級生で、保育園の時からほとんど一緒な時を過ごしている。中学の時に一時的に離れはしたものの、結局またこうして同じ高校に通い、さらには同じ部活に所属しているのだ。その縁あって、雪弥の妹の小夜ともそれなりに親しくなっていた。
「ちなみに雪弥は朝練行ったのか?」
「うん。お兄ちゃんはまあ、あんなんだし」
「言わずもがな、ってか」
 趣味の領域を越えたマニアの域に達しているメガネ面が脳裏に浮かぶ。映画にドラマに漫画に小説。しかもジャンルや書いてある言語は問わないという守備範囲の広さだ。
「しかも三年生が夏で引退して今日から部長だし、それはもう張り切ってるよ」
「また随分と部が暑苦しくなりそうだな」
「年中エアコンが必要だね」
 そんな軽口を交わしている間にも、電車はどんどん目的地へと近づいていく。
 聞き慣れたアナウンスが、聞き慣れた駅名の到着を告げる。
「まあでも学藝祭ももうすぐだし、あたしらも頑張らないとね!」
 小夜の言葉に、僕はなぜか一抹の不安を感じていた。


 学藝祭。
 毎年十月の第二土曜日に行われる、僕らの高校の文化祭だ。各学年の部活ごとに出し物や模擬店を企画し、一般開放される来校者を楽しませる。教室や体育館を借りて活動実績を見せているところもあり、いわば高校と地域との交流の場だ。
 最初に聞いた時は、素直にその名前が疑問だった。旧字体の「藝」の字を冠する言葉といえば、有名な某文学雑誌や最先端の芸術を追求する大学の名前くらいでしか見たことがない。そんなことを雪弥に話したら、「うちの高校の源流は芸術寄りの専門学校との合併から来ているから」などと教えてくれた。その芸術としての成果を発表する場が「学藝祭」であり、自分たちの部活も全力を尽くさねばならないのだと。
 正直面倒くさいことこの上ないが、あれの熱に多少は応えてやらないともっと面倒なことになるのは目に見えている。普段は比較的冷静で真面目な優等生なのだが、こと自分の得意領分においてはあっという間に沸点を超え、ヒートアップする。端的に言えばバカになる。
 そんな熱しやすい我が部の新任部長は、新学期初日の放課後にあたる今も、全く冷めていない熱量を教卓の前で振り撒いていた。
「待ちに待った学藝祭も、いよいよ来月に迫ってきたな! 今日はミーティングの後に体育館に移動し、そのまま猛練習に移りたいと思う! ラストスパート、頑張っていこう!」
「雪弥~、ラストスパートかけるの早くないか?」
 雪弥の正面、最前列中央の席に座るミーティング書記担当の男子が苦笑する。
「お兄ちゃん、あたしもさすがに一ヵ月もスパートはかけられないって」
 後方からは小夜の不満そうな声が飛び、
「部長、事前確認の時にも言いましたが、もっと部全体のバランスを考えて発言してください。ラストスパートもそうですが、なにが猛練習ですか。今日は確認がメインです」
 黒板にミーティングの要旨を書いていた新任副部長の女子が止めを刺した。
 方々から上がる笑いの混じったブーイングに、雪弥は「ぐぬぬ。みなが言うなら仕方ない」とどこぞの漫画みたいなセリフをつぶやく。
 そんな喜劇的な四面楚歌状態の教室内だが、入り口付近に座る雪弥の恋人の(ひびき)菜々花(ななか)だけが、「まあまあ仕方ないよ。雪弥くん、冷たそうな名前に似合わず熱血だからね~」とおっとりした口調でフォローしていた。
 これが日常。夏休み前も夏休み中も変わらない、僕らが所属する部のミーティング風景だ。そんな平和としかいいようのない青春の一端を、教室の後方窓際の席で俯瞰して見ているのが僕だ。
「うう~、ありがとう菜々花。俺のことをわかってくれるのはお前と秀だけだよ」
「僕もラストスパート反対組だけど」
「この裏切り者めー!」
 なんてたまに唐突なキラーパスが飛んでくることもあるが、基本的にはスルーする。僕にはどうも、この温度は合っていない気がしていた。
「はい。おふざけはここまでにしてください。そろそろ今日のミーティングを始めたいと思います」
 実質部の権限のほぼすべてを握っている副部長が手を叩く。それを合図に、喧騒に包まれていた教室の音が静まっていく。
「では早速ですが、来週の学藝祭の前に」
「来月な。我らが副部長殿もなんだかんだ熱血だよな」
 いきなりやらかした副部長に、書記担当が冷静なツッコミを入れる。
 好きなことになると周りが見えなくなる雪弥同様、実は彼女もそれなりにポンコツだった。けれどそれが、一見冷たい印象を与える彼女をいい意味で柔らかくしている。本人は絶対に認めないだろうけど。
 そんなことを考えていると、案の定、副部長は何も返すことなく咳払いをひとつし、何事もなかったかのように話を続けた。
「来月の学藝祭の話に移る前に、ここでひとつ、皆さんにお知らせがあります」
「え?」
「部長。その『俺、何も聞いてないけど?』みたいな聞き返しはなんですか。さっき江波(えなみ)先生との事前確認で話していたでしょうに」
「え、えーっと」
「まーた新しい映画か何かの新着情報の通知でも出てましたか。まったく、もう少し部長としての自覚をもって普段の冷静さを出してください」
 いつものようにお𠮟りコントを始める二人に割って入るように、教室の扉の開く音がした。
「はーい。いつまで経っても始まらないので入っちゃいますねー」
 顧問の江波先生の声が響く。
 彼女に続いて、つい最近見知った少女が教室に入ってきた。
 予感はしていたはずだった。
 アマチュアでも素人でも一応は物書き。物語を作るうえでの構成や伏線の張り方などは一通り考えることができる。
 それほど大きくない田舎の駅で、今まで見かけたこともない同年代の女子から「次会う時」と言われ、かつ「先輩」と呼ばれることの不自然さ。確率としては少ないまでも、そうであることの可能性は、確かにあった。
「皆さんに紹介しますね。新しく演劇部に入部してくれることになった、(ひいらぎ)結生(ゆい)さんです」
 江波先生に促されて黒板の前に立ち、目鼻立ちの整った秋色の少女は一礼する。
「初めまして。柊結生といいます。正式な入部は転校初日となる明日からなんですけど、せっかくなので手続きついでに見学させてもらうことになりました。名前で呼ばれるのが好きなので、結生って呼んでください。よろしくお願いします」
 お手本のような丁寧さと、可愛げのある笑顔が印象的だった。この時期には珍しい新入部員の登場に場は湧き立ち、興味の視線がこれでもかと彼女に注がれる。
「あっ、また会いましたね! 朝ぶりです、室崎秀せーんぱい」
 でもその可愛いらしさは仮面で、本性が後ろに隠れていることは疑いようもない。
「え、室崎、お前知り合い?」
「おー? なになにどういう関係なの?」
「あの人付き合いしなさそうな秀が……?」
 転校生に向けられていた興味の視線が、今度は僕へと向けられる。その内訳は純粋な疑問であったり、野次馬根性丸出しの好奇心であったり、経験則に反することへの驚愕であったりと様々だった。でも僕は、そういった類の視線はもちろん、複数人から向けられるという注目についても苦手だった。
「あいつ、後で覚えてろよ」
 今後の人生で二度と言わないであろうベタな恨み言をこぼしつつ、僕は早々に弁解を始めるほかなかった。


 体育館は熱気に満ちていた。
 バスケ部やバレー部の掛け声。ボールが床や壁にぶつかる音。やがてはブザー音が鳴り、一瞬の静寂が落ちる。その後にはそれぞれのポジションや動きに関する話し合いが行われ、また散っていく。
「この高校のバスケ部とかバレー部って強いんですか?」
「さあ、全国大会行ったとかは聞かないし、普通なんじゃない」
 僕らが今いるのは、舞台袖の先にある準備室だ。舞台の準備が整うまでの間、よく使うこの準備室やそもそもの演劇について教えるよう江波先生に言われたのだ。知り合いのようだからと僕が選ばれたのだが、本当に勘弁してほしい。
 そして、さほど熱心に演劇をしているわけでもない僕の説明にそこまで時間を使うはずもなく、わりと時間を持て余していた。
「先輩も一緒に見ませんか? 白熱してて面白いですよ」
 体育館のアリーナを興味津々にのぞいている新入部員が手招きをしてくる。
「僕はいい」
「えー素っ気ないな~。口調は丁寧にしましたし、そろそろ機嫌直してくださいよ~」
「口調を丁寧にするだけで僕の機嫌が直ると思っているなら、なんておめでたい脳みそなんだろうね」
 勝手に僕のスマホを操作し、下書き段階の小説を見ただけでなく、あらぬ誤解を部内に振り撒いた。その罪はそれなりに大きい。
 皮肉を込めてわざとらしく嫌味を言ってみたが、彼女は気にしたふうもなく駆け寄ってきた。
「わかりました。じゃあお詫びに、朝言わなかった面白かったところを教えます。だから、機嫌直してくれませんか?」
 上目遣いで、申し訳なさそうな表情を彼女は浮かべた。それだけでなく、彼女は自分が持っている交渉のカードで一番効果的なものを切ってきた。実に狡猾。でもそうしたずる賢さは、時に勉強なんぞより必要だったりする。
 ただ僕も、朝のようにはいかない。
「どっちも教えてくれるなら、前向きに考える」
「え?」
「朝言わなかった面白かったところは二つ。でもどうせ君のことだから、どちらかしか言わないつもりだろう。だから、どっちも教えてくれるなら前向きに検討しよう」
「先輩、意地悪ですね」
「君にだけは言われたくないな」
 軽い押し問答の末、意地悪な後輩は残りの面白かったところを教えてくれた。
 二番目に面白かったところは、主人公とヒロインのしょうもない掛け合いらしい。全体的に切ない雰囲気のある物語の中で、主人公とヒロインがコミカルに繰り広げる言い合いは読んでいてつい笑ってしまったのだとか。その感想は普通に嬉しかった。
 そして一番目は、テーマらしい。ただここについては詳しい内容は教えてくれなかった。一応、題材としてはありきたりな転生モノだ。もっとも、剣と魔法のファンタジーではなく、あくまでもヒューマンドラマに重きを置いており、不遇な前世をやり直すべく主人公が奮闘する物語だ。そこが良かったらしいが、具体的な部分については「朝の問いの答え」と交換だと言われた。本当に抜け目ない。
「あと、私のこと『君』って呼ぶの止めてください。自己紹介でも言いましたけど、『結生』って名前で呼んでくださいね」
 感想の途中には、あろうことかそんな注文もつけてきた。
「あのな。海外じゃあるまいし、それは僕にとってハードルが高い」
「え~他の皆さんは呼んでくれていますよ~。それに先輩、さっきのミーティングでは小夜ちゃんのこと名前で呼んでたじゃないですか」
「あいつは昔馴染みで慣れてるだけだ。それ以外で名前呼びなんてしたことない」
「じゃあ昔馴染みを除いた異性で、私が記念すべき第一号ってわけですね」
「そんな記念はいらない」
 結局は根負けして彼女のことを名前で呼ぶことになったのだから、僕の交渉術レベルは実に低いとしか思えなかった。
 そんなやり取りで時間をつぶしていると、ようやく小夜が僕らを呼びに来た。
「お待たせ結生ちゃん。どう? 演劇について教えてもらえた?」
「うん。とりあえず見て学べって言われたよ」
「……ちょっと秀? もしかしなくても、全然教えてないでしょ」
「ま、まあまあ。ほら、これが立ち稽古だ」
 小夜から距離をとりつつ、僕は今日一真面目に演劇について説明した。
 夏休みの終わりから台本の読み合わせを始め、今は台本を片手に立ち位置を確認している。台本無しで行う立ち稽古と区別して半立ち稽古とも言うそうだが、僕らの高校では特に使い分けはしていない。今日は読み合わせ後の最初の立ち稽古で、実際にどんなふうに動くのかを確認し、改めて自分のセリフや振り付けをどう観客に見せるのかを考える練習なのだ、などということを、基本的なことも交えて懇切丁寧に説明した。もちろん、途中小夜から多くの補足やら修正やらを加えられはしたが。
「あ、そろそろあたしの出番だ」
 基本的な講義が終わったところで、ちょうど小夜の役が登場するシーンが回ってきた。
「おお、小夜ちゃんのお芝居見られるんだ! 楽しみ!」
「あははっ、ありがと! といっても、読み合わせ後の初立ち稽古だし、あたしもまだそんなに役に入ってないんだけどね。とりま、頑張ってきます」
 小夜は手を振り、舞台の中央へと駆けていく。その足取りは軽やかで、不安や緊張は微塵も感じられない。
 すると、同じように手を振り返していた結生が思い出したように言った。
「ね、秀先輩。ちなみに小夜ちゃんって、なんの役してるんですか?」
「ん? ああ、そういえば、まだ配役表渡してなかったっけ」
 僕は持ってきていたクリアファイルからプリントを一枚取り出し彼女に渡す。そして一番上に書かれた登場人物を指差した。
「小夜は主役だ。うちは例年県大会止まりの実力で強くはないんだけど。ただ、あいつの芝居については一見の価値があると思う」
「え、それって――」
 なにかを言いかけた結生の言葉は、次の瞬間、清冽な声に呑まれた。
『ねえどこ! どこにいるのっ⁉』
 心を鷲掴みにされたような悲痛な叫びが舞台上に響く。漂う空気は一気に重くなり、胸の辺りにぽつりと小さな違和感が生まれた。
『お願い……私を、独りぼっちにしないで……!』
 違和感の正体が切なさや悲しさであると気づくまで数秒。気づけばあとは瞬く間に胸の内へと広がり、その色を濃くしていく。
『私を……私を置いて行かないでよおおぉっ……!』
 全身が震える。お芝居だとわかっていても、震えてしまう。
 小夜が今演じているのは、物語の冒頭で、主人公の少女が唯一心を許していた兄と生き別れになり慟哭するシーンだ。ここを端緒に、生き別れの真実と兄の居場所を探す小さな旅路の物語が動き出すわけだが。
「初立ち稽古で、これか」
 僕は息を呑んだ。
 幼い頃から小夜は演じるのが上手かった。他人のモノマネ然り、映画やアニメの真似然り。そっくりに演じては僕らを笑わせ、家族を驚かせ、友達を楽しませていた。
 そんな芝居の才能の片鱗をのぞかせていた彼女だったが、演劇部に入部して間もなくあった春季発表会からの成長は凄まじかった。何かを掴んだのか、声の抑揚や間の長さ、雰囲気の作り方などあらゆる技術がみるみる良くなっていった。それは素人の僕から見ても明らかで、裏付けるように夏の大会では観客をどよめかせていた。
 もっとも、一個人の芝居の上手さだけで勝ち上がれるはずはなく、僕らはあっけなく県予選で敗退したわけだが。
「あれが小夜ちゃんの演技なんだ……」
 どうやら隣の結生も度肝を抜かれたようだった。
「すごいよな。ちなみにほんとかどうか知らないけど、どこかの芸能事務所からスカウトがあったらしい」
「えっ、本当なんですか⁉」
「いや、だからほんとかどうかわからないんだって」
 実際、来ていてもなんらおかしくないと思う。優れた容姿に加え、それくらい小夜の演技は突出している。今も、片手に台本を持っているとは思えないくらいの臨場感を生み出し、観ている僕らを魅了しているのだから。
 そうして、あっという間に慟哭のシーンは終わった。一拍遅れて雪弥が区切りの合図を出し、場の空気が弛緩する。
「結生ちゃーん!」
 先ほどまでまとっていた空気はどこへやら、小夜が無邪気な笑顔を浮かべて走ってきた。
「小夜ちゃん、すごい! 感動した!」
「えへへ、ありがと! 結生ちゃんにそう言ってもらえるとすっごく嬉しい!」
 僕の隣で二人はあれやこれやと話し始めた。まるで昔からずっと友達だったような親しさで、今日会ったばかりとは思えない。これがコミュ力の高さなのかと、またひとつ僕が持っていないスキルを目の当たりにした。
 水分補給を兼ねた小休止の後、再び練習は始まった。全体で四十分弱の演劇で、シーンごとに区切りをはさみ、流れを確認していく。主役の小夜は当たり前だがほとんどのシーンに登場しており、その度に驚かざるを得なかった。いったいどれほど読み込めばあそこまでの演技ができるんだろうか。そして、少しだけでいいからその熱量を勉強に向けてくれればと思った。
 僕はと言えば、舞台袖で結生に逐一解説をしていた。一応脚本担当なので、今回の演題やストーリーを中心に、僕が知っている限りの演劇の基本についても教えた。結生は吸収が早いらしく、そのほとんどをすぐに理解していた。半端な演劇部員である僕なんかは明日辺りには超えられているに違いない。
「そういえば、先輩はお芝居しないんですか?」
「僕は脚本と裏方担当だから」
「え~つまんない。私役者志望で、先輩と共演するのが夢だったのに~」
「そんなにやけ顔で言われたって誰も信じないぞ」
 どうでもいい質問なんかも時々飛んできてはいたが、そこは適当に受け答えしておいた。
 そうしているうちに、今日予定していた場面まで確認が終わった。
「よし。今日の練習はここまでだ。みんな水分補給を忘れるなよ。あと、今日は居残り練習する人いるか?」
「あたしは少し確認したいところあるし、やる予定」
「小夜か。よし、じゃあ俺と秀も付き合うぞ」
「おい。僕まで巻き込むんじゃない」
 雪弥による部活終了のあいさつに、僕はツッコミを入れる。雪弥が部長になってからというもの、ちょくちょく僕に変なパスが飛んでくるようになったのだが、正直勘弁してほしい。部活が終わってからの練習なんて、各自が勝手にやってくれればいいのに。
 そんなことを思っていると、予想外の方向からまたパスが飛んできた。
「えー、秀先輩も一緒にいきましょ!」
「は?」
 結生だった。見学者でまだ入部前の転校生が、目を輝かせていた。
「私、今日の練習を見てまだまだ知らないことだらけだなって思ったんです。秀先輩の言う通り、もっとたくさんお芝居を観ないといけないなって」
「お、おう……」
「今日の解説もすごくわかりやすかったです。だから、ぜひ居残り練習でもお願いします!」
「お、おう……じゃなくて、いやいやいやいや」
 真剣に話す結生の言葉に危うく乗せられそうになり、僕はすんでのところで訂正する。
「僕は今日用事あるから、それはまたの機会ということに」
「用事って?」
「えと、宿題がたくさんあって」
「秀、今日は夏休みの宿題提出メインだったからそれは無理がある」
 雪弥が余計な補足をした。
「あと家庭教師のバイトもあるし」
「その教え子が居残り練習するんだから大丈夫よね。それに家庭教師は夏休みまでだし」
 小夜も雪弥に続いた。いつもケンカばかりしているのに、こういう時だけ団結するんだからたちが悪い。
「えっと……」
 次の言い訳を探すこと数秒。とりあえず観たいテレビがなどと適当な言い訳を言おうとしたところで、結生が手を合わせ、顔を近づけてきた。
「どうかお願いします、ね?」
 僕にだけ聞こえる声で、「小説のためにも」などと語尾に付け加えられた気がした。
 こいつ、脅してるのか。
 小説を書いていることは誰にも言っていない。もちろん雪弥や小夜にも。理由は恥ずかしいからという至極まっとうなものを筆頭にいろいろあるが、どうしてそのことを彼女が知っているんだろう。
「はあ、わかったよ」
 こうして僕は、人生で初めての居残り練習をすることとなった。


 僕らの学校では、九月の完全下校時刻は午後六時半となっている。午後六時半までには部活の片づけやら帰り支度やらを全て終わらせ、校門の外に出ていないといけない。
 そして演劇部は基本的に午後五時半には部活が終わる。それからは各自勉強したり下校したりと自由に過ごすのだが、一部やる気のある面々が居残り練習と称して完全下校時刻まで引き続き練習をすることができる。もっとも、強豪演劇部などでは断じてないので、そんな物好きが増えるのは本番が近くなった時くらいだ。なのに。
「おぉ、さすが小夜ちゃん!」
「あははっ、ありがと。でも、今のとこはセリフを言うのが少し早かったかな」
「そうだな、俺ももうちょっと溜めがあるといいと思う。あと秀、もう少し真面目にやれ」
「あのな。僕は役者じゃないんだが」
 そんな物好きが、なぜか四人も舞台に揃っていた。いや正確には僕は物好きではないので、三人プラスおまけ一人が正しいか。
「といっても俺よりは上手いんだから、居残り練習の小夜の相手役くらいは務まるだろ」
「務まりたくないんだが。というか、雪弥は熱が入って噛みまくるのを早くどうにかしろ」
「それは小夜が勉強に興味を持つことよりも難しい」
「ムリじゃん」
「ちょっと二人ともーっ!」
 小夜は台本を丸めて僕らをベシベシとたたいた。でも事実なんだからしょうがない。
 居残り練習そっちのけで僕らが戯れていると、ふと視界の端で笑っている結生が目に入った。
「そういえば、結生って役者志望なんだっけ?」
「え?」
 珍しく彼女が驚いた表情を浮かべた。
「そういや今日のミーティングの時は秀と結生の関係性の話ばっかで、肝心なこと聞き損ねてたな」
「それは全面的にこいつのせいだけどな」
「歓迎会は正式入部の明日にしようってなって、部活後もすぐ居残り練習に移っちゃったしね。……あれ。じゃあどこで秀はそれを知ったの? まさかやっぱり二人は……!」
「おい。そういう誤解は解けたんじゃなかったのかよ」
 沈静化した話題と解けたはずの誤解を再燃させる二人を制し、僕は結生に向き直った。
「ほら、練習中に言ってただろ。役者志望なら演じてみるのも大事だし、ここはひとつ小夜の相手役をしてみないか? 何事も実践あるのみだ」
 これが僕の作戦だった。
 僕は役者ではない。多少上手かろうと、小夜の相手をするには全然実力が足りないし、そもそもやる気もない。だが、これが定常化してしまえば、ほぼ毎回居残り練習をしている二人に付き合う羽目になり、必然的に僕も居残り練習をすることになる。それはさすがに勘弁願いたい。ということで、役者志望である結生を相手役にしてしまえばいいと思ったのだ。彼女の勉強にもなるだろうし一石二鳥。誰も不幸にならない。
 主に後半の思惑を押し出しつつ、僕は台本を彼女に手渡した。
「うん……やって、みたい!」
 結生は僕の思惑を知ってか知らずか、おずおずと台本を受け取った。でも仕草とは裏腹に、その目にはやる気が満ち溢れている。やはり、僕よりはよっぽど適任だと思った。
「結生ちゃーん! 一緒にやろー!」
「わわっ」
 そこへ視界の外から小夜が飛び込んできた。勢いそのままに結生に抱きつき、ふらふらとよろめくが、スマートに雪弥が二人を支える。
「小夜、はしゃぎすぎ」
「ごめんごめん。嬉しくって」
「まあ気持ちはわかる。うちは役者不足だからな」
 僕らの高校の演劇部員は、引退した三年生を除けば全部で七人だ。そのうち役者は四人しかいない。以前はもう少しいたが、バイトやら兼部先が忙しいやらで何人かが辞めてしまい、ギリギリのところで回しているのが現状だった。つまり結生は演劇部にとって救世主であり、二人が喜ぶのも無理からぬことだ。
 盛り上がった熱が引くのを待ってから、僕らは改めて配置を変えた。といっても、単純に僕と結生を入れ替えただけだが。
 とりあえず慣れるためにも、先ほど演じていたのと同じく、主人公が旅立つシーンを練習することになった。ここの登場人物は二人で、僕と雪弥は外から見守ることになる。
「よーし、じゃあ始めっ」
 雪弥の言葉を合図に、小夜の雰囲気が変わった。
『私、旅に出るから。兄さんを見つけるまで、戻ってこないつもり。姉さん、あとのことは任せたよ。もし私が帰ってこなかったら死んだと思って』
 真っ直ぐ心に届くような、意志の強さが伝わってくる声色だ。鳥肌が立つのがわかった。
 そして、相対するのは家族に内緒でこっそり見送りをする姉だ。この姉は心の奥底では主人公を心配していたが、高圧的な親が怖くて兄ほど主人公の味方をできなかった。激しい葛藤を抱えたまま訪れた旅立ちの日に、姉はどうにか謝ろうと主人公を見送る。そんな難しい場面だ。
 やや難易度の高い場面を、ずる賢い転校生の少女がどんなふうに演じるのか。僕は珍しく興味を抱いていた。僕をからかっていた時の様子から、演技自体は苦手ではないだろう。解説をしていた時も吞み込みが早かったし、頭も回る。そんな結生が、いったいどんな演技を――。
「――え」
 思わず声が漏れた。
 隣からも、同じような雪弥の声が聞こえた。
 正面にいる小夜も、目を見開いているのがわかった。
 葛藤に悩む姉役の、結生の眼からは、涙が伝っていた。
『ごめん……ごめんね。本当に、ごめんなさい……。私には、こんなことを言う権利はないけれど、それでも……どうか、無事に帰ってきて……お願い、お願い……』
 彼女は泣いていた。
 それでも、声ははっきりと聞こえた。
 悲痛で、どうしたらいいかわからなくて、やっと絞り出したような声だった。
 どれほど悩んだのか。どれほど苦しかったのか。どれほど妹のことを想っていたのか。
 そんな狂おしいほどの感情が、結生の演技には込められていた。
 小夜ほどじゃないけど、ここまでの演技ができるとは……。
 僕は吸い込まれるように、ただひたすらに、結生の瞳から零れ落ちる涙を眺めていた。
「………………その、えっと、私間違っちゃった?」
「「「あ」」」
 僕も、雪弥も、小夜ですら言葉を失っていて。我に返ったのは、結生が不安げな声を発してからだった。
「ご、ごめん! あたしの番だった! その、まさか初っ端から泣きの演技をされるなんて思ってもみなくて。あ、いい意味でね! いい意味で!」
「まさか結生がここまでの演技をできるなんてな。まだ粗削りな部分も多いけど、これは伸びるぞ。秀、お前すごい人材を連れてきたな」
「僕が連れてきたわけじゃないって。いい加減その誤解を忘れろ」
 軽口をたたくも、驚きはまったく抜けていなかった。難しいといわれる泣きの演技を、まさか小夜以外がやるとは思ってもみなかった。しかもセリフも疎かにしておらず、しっかりと感情が込められていたのだから。
「これは、脚本修正だな」
「うん、そだね。秀、人数足りなくて無くしてた主人公の妹役、復活できる? できれば明日の部活までに」
「は?」
 状況が呑み込めず呆然としている結生とは違う意味で、僕もまたあんぐりと口を開けていた。

     *

 翌朝。
 僕は昨日急遽決まった役の復活やら微々たる修正やらを台本に反映させるべく、朝練へと向かっていた。
「ふぁああ……」
 朝は早く、校門までひたすら真っ直ぐ伸びる歩道には誰もいない。
 眠かった。僕の脳が不満げに酸素を欲している。連日の早起きはさすがにきつく、眠さは尋常じゃなかった。
 少しでも眠さを紛らわそうとこうなった経緯を思い返してみるが、明らかに僕の安易な作戦が裏目に出た形だ。
「ほんと、昨日はいろいろありすぎたな」
 珍しく朝練でも行こうかと早起きすれば電車に乗り損ない、そこで変な少女にこっそりと書いていた趣味のWEB小説を見られた。しかもその少女はうちの高校の転校生であり、さらには新入部員でもある。加えて、僕の身代わりに小夜の相手役をしてもらえば、その小夜に迫るほどの演技力を持っている逸材ときた。まったく情報量が多すぎだ。
 ちなみに、当の転校生も学藝祭の演劇への出演は乗り気だった。最初は戸惑っていたようだったが、「出させてもらえるなら全力で演じます!」などと目をキラキラさせていた。
 そんなこんなで、僕は今日の部活前ミーティングまでに脚本を書き換えて台本に反映させ、みんなの了解を得るための準備をしなければならない。面倒なことこの上なかった。
「ふぁあ……」
 もう一度あくびをかみころす。
 もとより僕はそこまで演劇部に注力しているわけではない。朝練だって、これまで片手で数えるほどしか行っていないのだ。それが半強制的に行かざるを得なくなったのだから、昨日の作戦を立てて実行した時の自分を呪いたい。
「はぁ、まあやるしかないか……はふ」
 ほとんど諦め気味のちっぽけな覚悟を決め、再三のあくびをしながら僕は校門をくぐった。
「秀せーんぱいっ。おはようございます」
「わっ、と。え、結生?」
 いきなり名前を呼ばれたことと軽く背中をたたかれたことに驚く。声の方を振り返ると、朝日に負けないくらい眩しい笑顔を浮かべた柊結生が立っていた。……体操服で。
「え、なに。その格好」
「ん? なにって、体操服ですけど。先輩もしかして見たことないんですか」
「そんなわけないだろ。じゃなくて、なんでこんな時間に体操服でこんなところにいるんだよ」
 時間は七時過ぎ。場所は校門前。目の前には学校指定の赤色のジャージとハーフパンツを身にまとった一学年下の後輩。
 登校するには明らかに早いし、そもそも彼女にとって今日は転校初日だ。まさかまだ説明すらしていない朝練にきたわけじゃないだろうし、よくよく見れば荷物はなにも持っていないしで、疑問はどんどん増えていく。
 おそらく間抜けな表情をしているだろう僕を見てか、彼女はクスクスと小さく笑った。
「私がここにいるのは、もちろん早朝自主練のためです。昨日、小夜ちゃんや先輩方から、声の大きさや呼吸の仕方なんかについて教わりましたから。少しでも肺機能を高めようと、早速一時間程度校舎の周辺をまわっていたところでして」
「へ、へえー……」
 想像以上の回答だった。相変わらず彼女といると情報量が多すぎてついていけない。
「そろそろ部室に戻ろうかなって思ってましたし、一緒に行きましょう」
「お、おう……」
 それから僕はほとんど流されるようにして彼女と並んで歩き始めた。
 さすがにまだ朝は早く、校舎の中に生徒の姿はない。微かにグラウンドの方から運動部らしき掛け声が聞こえてくる程度だ。
「静かですね~」
「まだ早朝だからな」
「なんかウキウキしますね」
「僕は眠い」
 何がそんなに楽しいのか、隣を歩く結生は小さくステップを刻んでいる。足どりの重い僕とは正反対だ。
「そういえば、昨日も先輩は眠そうでしたね。駅のホームでうたた寝してましたし」
「早く忘れろ」
 思い出したくもない記憶に、彼女はまた小さく笑う。
「無理ですよ。だって、面白い物語を読ませてもらいましたから」
「もうその戦法には乗らないぞ」
「いやいや本当ですって。それで、続きはいつ書けそうですか?」
 これまた無邪気に結生は聞いてきた。こう何度も聞かれると、実は本当に楽しみにしてくれているんじゃないかと思ってしまう。
 そしてもしそうなら、やや僕の態度は不誠実であるようにも感じた。
「そうだな。じゃあ今からする僕の質問に、正直に答えてくれたら教えるよ」
「わかりました。じゃあまず、私に彼氏がいるかどうかって質問ですけど」
「そんなことは聞いていないし、一ミリも興味ない」
「ひど!」
 ぎゃあぎゃあとわめく彼女を受け流しつつ、僕は質問の内容を考える。
「じゃあまず、昨日どうして僕の名前や学年がわかったんだ?」
「え、そんなことでいいんですか?」
「質問はこれだけじゃないけど、とりあえずは」
「いくつもするなんて聞いてない!」
「昨日結生もしただろ。どの口が」
「アハハッ、まあいいですけど。えっと、先輩の名前と学年ですよね。なんてことないです。先輩のスマホケースに入っている学生証を見ただけですよ」
「あ」
 言われて僕は自分のスマホを見る。僕のスマホケースは手帳型で、蓋にあたる左側には三つほどカードが入れられるようになっている。一番上にはよく使う電車のICカードを入れており、チャージの時などよく出し入れしている。しかし、その下二つに入れている学生証と保険証はほとんど使わないのですっかり忘れていた。
「ついでに誕生日もバッチリ見ちゃいました。十二月にはお祝いしますね!」
「しなくていい」
 なんたる失態。部室に着いたら学生証と保険証は別のところに仕舞おうと決心してから、僕は次の質問に移った。
「あとこれも単純な疑問だけど、昨日は転校の手続きに来たって言ってたのに、なんで朝反対方向の電車に乗って行ったんだ?」
「ああ、単に午前中は別の用事があっただけですよ」
「用事?」
「はい。おかげで転校初日が一日延びて今日になっちゃいました」
「なるほどね。だから新学期の二日目からとかいう、微妙なタイミングでの転入になったのか」
「微妙うるさいです」
 結生はむくれたように頬を膨らませた。さっきの仕返しだ。
「ほかにはそうだな。僕が演劇部にいるってこと、結生は知ってたのか?」
「いや、知らなかったですけど」
「あれ、そうなのか」
 これは意外だった。彼女があの時「次に会った時にでも教えて」と言ったのは、てっきり僕が所属している部活を知っていたか、ある程度推測していたからだと思っていた。あの編集画面には、僕が書いている小説のほか、演劇部で使う脚本も載っていたし。
「じゃあ、どうして昨日、『答えは次会った時にでも教えて』なんて」
「んー、ただ単に勘ですね」
「は?」
「同じ高校みたいですし、どこかで会えるかな~って」
 結生は楽しそうに、僕ら以外誰もいない廊下でくるりと舞う。
「そんな適当な」
「先輩は小説の読みすぎですよ。現実の言葉に深い意味なんてほとんどないです」
「まあ、それはそうかもしれないけど」
 まさか後輩に諭される日が来ようとは。本当に、つくづく彼女は僕の予想の斜め上をいく。テンション高めに少し前を歩く彼女の後ろ姿からは、そんな深い思慮なんて微塵も感じられないのに。
「ほらほら~もうすぐ部室に着いちゃいますよ。さっきからどうでもいい質問ばっかりですけど、ほかに何かありますか?」
「あ、ああ」
 気づけば、遠目に部室となっている空き教室の扉が見えた。おそらく質問はあと一つがいいところだろう。
 ただ正直、特に聞きたいことはなかった。これはあくまでも理由付けだ。彼女からの三度にわたる問いに答えるのは、僕の作品を「面白い」と評してくれたことへのお返しなどではなく、僕の質問に答えてくれたことへの対価なのだ。
 それでもせっかくの機会だし、質問しないというのももったいない。何かないものかと、鼻歌混じりの後ろ姿を見つめる。
「じゃあ最後に聞くけど」
「はい」
「なんでそんなに僕に構うんだ?」
 言ってから、しまったと思った。本当にただ純粋に思いついた質問だったのだが、これだとまるでうっとうしいと明言しているようなものだ。僕はなるべく周囲とは波風立てず、一定の距離を保って接していきたい。これはその逆をいくことになりかねない。
 それでも一度口に出してしまったものは取り戻せない。「あ、その、えっと……」などと、僕がつなぐ当てのない間投詞をいくつか発していると、結生は一度立ち止まってから、ゆっくりと振り返った。
「――好きだから、だよ」
「え」
 唐突な言葉に、時が止まった気がした。
 外から聞こえていた運動部の掛け声が急速に遠のいていき、代わりに胸の辺りの音がうるさくなり、早くなる。
 夏と大差ない陽光のせいか顔も熱くなってきて、僕の思考はどんどん鈍くなっていった。
 ちょっと待て。どういうことだ。こいつは会って二日目の先輩に何を言っている。
 もっともかつ安直な疑問が次々と浮かぶ。彼女の眼はいやに真剣で、からかっているような色は微塵もない。それが逆に、僕の思考をより混乱させた。
 そうして青春の沈黙が三秒、五秒と過ぎていき、十秒くらい経ったところで彼女が不思議そうに首を傾げた。
「どうしたんですか。先輩、早く続きのセリフを言ってください」
「は?」
 続き? セリフ? いったいなんの…………あ。
 そこで思い出した。この場面、いや正確には先ほど僕が言った言葉は、ちょうど僕が書いていた小説のセリフであったことを。
 そして彼女が発した返しに、ゆっくりと振り返る仕草は、まさに僕が書いていた場面そのものだったことを……。
「あ、えと」
「あれ? もしかして先輩、本気の告白だと思ったんじゃ」
「断じて違う!」
 僕は彼女の言葉を遮って叫んだ。それが逆に図星であることを物語る可能性があることなど考えもせずに。
 目の前の小悪魔は、気づいてか気づかずか、クックックッと不気味な声で笑った。
「いや~先輩ってからかいがいがありますね」
「そういう結生は本当に意地悪だな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
 昨日といい今日といい、本当に振り回されっぱなしだ。先輩の威厳もなにもあったもんじゃない。それになんだか最後の問いについては上手くはぐらかされているし。
「まあいいか。それで、僕がいつ続きを投稿するか、だったか」
「ああ、それはもういいです」
「は?」
 また予想とはかけ離れた返答に、朝だけでもう片手では数え切れないほど発している聞き返しが、僕の口からこぼれる。
「その代わりといってはなんですが、先輩。私の演技力向上練習に付き合ってください」
「え?」
 演技力向上、練習?
「やっぱり昨日先輩もおっしゃっていた通り、何事も実践あるのみだと思うんです。昨日は褒めてくれましたけど、やっぱり小夜ちゃんに比べたらまだまだですし、もっと頑張りたいんです。そしてせっかくなら今みたいに先輩の小説をもとに演技の練習をしたいなって思って! そうすれば続きも読めますし、一石二鳥じゃないですか!」
「え、ええ?」
「先輩も、私の演技から小説の修正点とかもっといい表現とか展開とか、いろいろ見つかるかもしれないですし。どうせならそう! 一緒に最高の物語を創り上げましょう!」
「え、えええぇぇ……」
 その時僕は、完全に彼女のやる気の底を見誤っていたのだと悟った。


 無茶苦茶な道中とは裏腹に、朝練は真面目そのものだった。
 結生は、「まあ考えといてくださいね!」とだけ言ったきり、動画を参考に発声練習を始めた。しばらくして小夜と雪弥が来てからは、二人から具体的な方法を聞いて熱心に声出しや基本的な動きなどを練習していたみたいだった。
 みたい、というのは、僕が直接その練習を見ていたわけではないからだ。僕は部室に隣接した小道具や工具などがしまってある小部屋で、昨日決まった通りに脚本を修正していた。
 小部屋には教室と同じ机や椅子がいくつかあり、メイクなどでも使っているので埃っぽさもなく、居心地はかなりいい。それもあってか、どうにか僕は朝練の間に脚本修正を終わらせることができた。あとは雪弥に任せておけばいいので、僕の役目はひとまず終了となる。
 朝練を終え、微かな解放感と眠気を感じながら、僕はいつも通り一限目の授業を受けていた。
「えー、新学期からは夏にやった指数を応用した対数の単元を……」
 聞き慣れた年配男性教師の声は、夏休み前となんら変わらない。
 教室の後ろから眺める景色も、窓の外の風景も、退屈な授業も、なにも変わっていない。
 それなのに、僕の心の中だけは、夏休み以前とは比べ物にならないほどざわめき立っていた。
 一緒に最高の物語を創る――。
 まったくもって、思ってもみない発想だった。
 どこからそんな発想が出てくるんだろうと思った。
 そしてなにより、どうしてそんなに全力で取り組めるんだろうと不思議だった。
 僕はこれまで、演劇部にいながら演技から積極的に何かを得ようとしたことはなかった。目論見通り、結果的に小説の参考になったことはあったものの、基本幼馴染たちがいるから所属しているだけの部活で、必要以上に頑張ろうとは思わない。部員たちから嫌われない程度に取り組んで場に馴染み、あとはなんとなくやっていればよかった。
 でも、彼女は違う。
 正式入部前に自主練を始めるほど全力で、演技力を少しでも上げるために会って間もない先輩を含めた周囲も巻き込んでいく。相手のやる気を誘うのも上手いし、小夜ほどじゃないが実力も伴っている。間違いなく、僕とは持っている意欲のレベルが違う。小夜や雪弥のやる気もすごいが、結生のやる気の高さはまた別格だと思えた。
「じゃあこの問いを……室崎。前に出て解いてみてくれ」
「……はい」
 不意に呼ばれた名前に一瞬ドキッとしたが、なんとなくは聞いていたので問題はなかった。
 黒板に歩み寄り、白墨で書かれた文字を見つめる。
 対数の基本計算。底を揃えさえすればただの簡単な足し算だ。僕は途中式を省き、答えだけを書いた。
「解けました」
「ふむ、正解だ。だが、テストの時は途中式もしっかり書くようにな」
 こんなの、なんの役に立つんだろう。
 僕は小さく頷き、足早に席に戻った。授業は滞りなく再開した。
 なんだか、僕らしくないなと思った。
 容易には解けそうにない心のモヤモヤが、どうにも気持ち悪かった。
 結局それは一限目が終わっても、昼休みを過ぎても、五限目終了のチャイムが鳴っても解けなかった。僕は担任の先生に腹が痛いとうそをつき、六限目が始まる前に早退した。
 ――一緒に最高の物語を創り上げましょう!
 まだ日が落ちていない帰り道でも、彼女の言葉が脳裏に響いていた。


 僕は中学の時、結生と同じように転校をした経験がある。
 しかしその理由は、親の仕事の都合や人間関係の問題などではない。
 ただの、ドロップアウトだ。
「秀くんはとっても優秀ですので、難関の私立中学を目指してみるのもいいでしょう!」
 小学三年生から通っていた塾の先生は、目を輝かせて僕の母にそんな言葉を投げかけた。
 それを機に、母は僕の学費を稼ぐためにパートを辞めて正社員になり、毎日夜遅くまで働いていた。父も期待してくれ、平日は残業三昧、休日は僕の勉強を熱心にみていた。二人からの期待はプレッシャーでもあったが同時に嬉しくもあり、挑戦してみたいという気持ちもあったので、僕は意欲十分で平日も休日も勉強に取り組んでいた。
 そうしてやっとの思いで入った某私立中学は、次元が違った。
 僕より何倍も頭のいい同級生たち。授業のスピードは速く、僕はついていくのがやっとだった。調子が良くて全体の真ん中。基本的には下の中程度の位置。しかも上位層は勉強だけでなくスポーツも優秀。サッカーやら陸上やらバスケやらで地方大会、ひいては全国大会進出なんて人もいた。僕には部活なんてやっている余裕はなかった。
 人見知り気味で、人付き合いが得意ではない性格も災いした。元々そんなに和気あいあいとした雰囲気のクラスではなかったが、最低限の交流はしっかり行われていた。勉強の教え合いや受験情報の交換、学校のイベントに、部活の話題やなんてことない日常会話が、休み時間には飛び交っていた。予習や復習で手一杯だった僕はそれに混ざることなく、必死に机にかじりついて勉強していた。気づけばクラスで仲の良い友達などはおらず、独りになっていた。
 結局、僕は所詮井の中の蛙で、送り出してくれた親や先生の期待に応えられることなく、半年程度でドロップアウトした。
 落ち込む僕に、親をはじめ周囲は優しく慰めてくれた。
 仕方ないよ。仕方ないわ。お前はよく頑張った。偉いぞ。今は少し休め。次また頑張ろう。
 温かみのある言葉の数々は、確かに僕の傷を癒してくれた。おかげで僕は非行に走ることも引きこもりになることもなく、普通に地元の中学へ転校し、普通に学校生活を再開することができた。そこには見知った顔のほか雪弥もいたし、翌年には小夜も進学してきたので前のように僕が孤立することはなかった。
 どこにでもある挫折と復活。なんてことはない人生の山谷。僕が好きだった小説や映画ではもっと酷い挫折やトラウマがあるし、それに比べれば実にありきたりで気にすることもない些細なこと。こんな失敗、長い人生においてはごまんとあるし、これからも幾度となく直面する。だから、気に病む必要なんてない。
 これに限らず、大なり小なり失敗するたびにそう自分に言い聞かせて、ここまできた。
 間違っていたとは思わない。事実だし、そうやっていろんな経験をしていくのが人生だ。
 ただ、そうしていくうちにいつの間にか、僕はなんだかいろんなことが面倒くさく感じるようになった。退屈になった。一歩引いて物事を見据え、外から冷静に見つめ、少しだけ中に加わる。あとは上手くやり過ごす。その方が楽だし、自然とそうするようになっていった。
 高校に進学してからも、勉強も部活も一定の距離を保って取り組んできた。雪弥や小夜は部活に没頭していたが、僕はそこまで力を入れようとは思わなかった。趣味だった小説の参考になれば程度に思って、雪弥の誘いに乗ったまでだ。最低限の知識だけは学んで自分の役割をこなしているが、今でも演劇にあまり興味はないし必要以上のことを知ろうとも思わない。そうして波風立てず、気ままに日々を過ごしていた。
 それが僕の理想とする高校生活だった。
 その、はずだった。


 バタン、と強めに扉が閉まる音で目が覚めた。
 帰った時には明るかった室内は、いつの間にか随分と暗くなっていた。
 帰ってすぐ寝てしまったんだったか。
 記憶が曖昧だった。僕はぼんやりした頭をもたげ、ゆっくりと体を起こす。ベッドが微かに軋み、静まり返っていた自室に小さな音をもたらした。いつもはそれだけで、またすぐに静寂が辺りを包み込んでいくのだが、今日は少し違っていた。
「……もう帰ってるのか」
 一階の方から物音が聞こえる。何かを乱暴に置く音。布がうるさく擦れる音。足音も必要以上に大きい。
 正直に言えば自室から出たくはなかったが、喉がカラカラに渇いていた。僕は手探りで部屋の電気を点けてから、足取りも重く一階のキッチンに向かった。
「あら、秀。まだ起きてたのね」
 気だるそうな声が聞こえた。幼い頃から何度も、それこそ約十七年聞き続けているはずの声なのに、どうしてか耳馴染みが悪い気がした。
「母さん、帰ってたんだ」
「ええ、少し早く仕事が終わってね」
 そこには、スーツ姿のまま倒れ込むようにしてソファにもたれかかっている母がいた。
 早く仕事が終わった、というわりには見るからに疲れ切っていた。顔色もあまり良くないし、コートやバッグは乱雑に投げ棄ててある。
「……カフェオレ入れるけど、飲む?」
「お願いするわ」
 僕はリビングの光景から目を背けるようにしてキッチンへ移動した。その間に、予想していた通り母はつらつらと愚痴をこぼし始めた。上司の愚痴、担当業務の愚痴、取引先の愚痴。聞き飽きた顔も知らない部長の名前や同僚の名前があがるが、僕の知ったことじゃない。そして愚痴の最終的な矛先は、未だ家に帰っていない父へと向くのだ。
「まったく、あの人はいつもそうなのよ。面倒な手続きはいっつも私任せ。家事の分担だって私の方が手間がかかるものが多いし。なんなのよ、ほんとに」
 よくもまあそこまで次々と言葉が出てくるものだと思う。僕なんか、登場人物の一言を書くのですら悩むというのに。
 マシンガンのように話し続ける声を聞き流しながら、僕はインスタントの粉を入れたコップにお湯を注いだ。スプーンで軽くかき混ぜ、リビングへと持っていく。
「はい」
「悪いわね」
「じゃあ、僕は部屋で勉強してるから」
 カフェオレの入ったコップを片手に、足早に廊下へと向かう。
「あ、そうそう」
 そこへ、思い出したような母の声があがった。
「秀、最近学校どう? 勉強とか大丈夫?」
 そこには若干気を遣うような色が含まれていた。きっと中学の時のことを心配しているんだろう。
 僕はちらりと目をやってから、徐に頷いた。
「うん、大丈夫。問題ないよ」
「そう、なら良かった。勉強もほどほどにね」
「わかってる」
 今度こそ僕はリビングを出た。廊下を歩き、自室へと続く階段を昇っていく。部屋のドアを開けようとしたところで、一階から玄関の扉が開く音がした。
「はぁ~あ、今日も疲れたな」
 またこの時間には滅多に聞かない声が響く。続けて、玄関の扉が閉まる音にビニール袋の擦れる音が聞こえた。
 僕は少しだけ迷いつつも、そのまま自室に引っ込んだ。椅子に腰かけ、引き出しからイヤホンを取り出して耳につける。
「……ちっ」
 作業用BGMを流す直前、それは微かに耳に入ってきた。一度苦情がきてから怒鳴る頻度は減ったが、それでも喧嘩自体がなくなることはなかった。
 川のせせらぎが聴こえる。小鳥のさえずりが駆ける。葉擦れの音が鳴る。新緑に満ちた森の中には言い争いなんてない。でも一回聞いてしまえば、耳の奥にこびりついてなかなか離れてくれない。勉強をする時もゲームで遊ぶ時も小説を書く時にも、邪魔でしかない。
 そして考えてしまう。
 仕事をして疲れ果てている両親の顔を。
 何気ない挨拶や談笑すら消えてしまった今の生活を。
 その原因の多くが、自分に起因するものであろうということを。
 なにかに追い立てられるように僕はパソコンを立ち上げ、いつものWEB小説編集画面にアクセスした。いつものように少し前に書いた己の文章を読み、いつものように想像を膨らませ、いつものようにキーボードの上へ指を置く。
 空想の世界が綴られている画面を見つめて、ふと思った。
 もしかしたら僕は、逃避の手段として小説を書いているのかもしれない。
 趣味として、一時でも空想に浸ることで逃げているのかもしれない。
 その時間だけは、現実を見つめなくて済むから。
 そこには、誰かを楽しませようなんて高尚な考えはない。
 だからきっと僕は、いつまでも小説を非公開にしているんだろう。
 面白いと言ってくれた彼女と、「続きをいつまでに書く」なんて約束すらできないんだろう。
 なんて、ざまだ。
 そこまで考えた時、耳元で流れていた新緑の音が遠のいた。続けて、彼女の声がまた僕を苦しめる。
 ――一緒に最高の物語を創り上げましょう!
 彼女の笑顔が、また僕に聞いてくる。
「逃げ道、か」
 なんとなく、嫌だなと思った。


 翌朝、僕はいつもより一時間早く家を出た。
 理由は単純。喧嘩して機嫌の悪い両親とはちあわせしたくなかったからだ。
 僕の両親は共働きで、朝は早く夜も遅い。昨日はたまたま会話をしたが、普段平日に顔を合わせることはほとんどない。
 しかし、夫婦喧嘩をした翌日は別だ。喧嘩をした次の日は、疲れからか両親ともに少し遅めに家を出る。そしてその時間が、ちょうど僕が登校する時間と重なるのだ。あのなんとも言えない気まずい空気を朝から味わうのだけは勘弁したかった。
 いつもより一時間早い駅のホームには、いつも見ない人たちが並んでいた。そんな見慣れない大人たちに紛れて電車に乗り、いつもより一時間早い通学路を歩き、途中でいつもはない邂逅を経て、いつもより四十分早く学校に着いた。
「いや~まさか秀先輩と登校途中に会うとは。今日は良い一日になりそうです」
「それだけで良い一日になったら苦労しないけどな」
 普段より倍近く登校に時間がかかったのは無論、隣にいる結生のせいだ。
道中の曲がり角でばったりと出くわし、お互いよそ見をしていたのでぶつかりそうになった。「食パンくわえておけばよかった」などと訳の分からない話から、「小夜ちゃんと隣の席になりました!」という転校初日のあれこれ話を相手にしていたら、予想以上に時間がかかってしまったわけである。それでも、朝練をする時より随分と早い時間ではあるけれど。
「そういえば先輩、体調は良くなりました?」
 部室までの道すがら、結生は思い出したように聞いてきた。
 言われて、そういえば昨日は腹痛で早退したんだったかと思い返す。きっと、雪弥あたりが先生から聞いて伝えたんだろう。
「ああ、大丈夫。心配かけて悪いな」
 彼女の言い方からしてそんなに心配してくれているようには見えなかったが、僕はひとまず謝っておいた。
「いえ、そこまで心配してなかったので謝らないでください」
 案の定だった。
「そこはうそでも『めっちゃ心配してました』って言うところだぞ」
「私、先輩にうそはつきませんので!」
「ほんとかよ」
 なんとも信用ならない言葉だ。
 僕が訝し気な視線を向けると、結生は対抗するかのように朗らかに笑った。ほんとよく笑うよな、なんて思って、僕もつい笑ってしまった。
 すると、今度はなぜか彼女の方が真顔になって、不思議そうに首を傾げた。
「どうした?」
「いや、なんか先輩いつもと違うなって思いまして」
 その言葉に、また僕は噴き出した。
「お前な、いつもとって、まだ会って三日しか経ってないぞ」
「それはそうなんですけど。って、もう笑わないでください!」
 ベシッと背中をはたかれる。ちょっとだけ痛い。そこで、一時間前まで心に渦巻いていたモヤモヤがなくなっていることに気づいて、僕はまた笑ってしまう。本当に不思議だった。
「わ、悪い悪い。お詫びと言ってはなんだけど、よかったらこれ見てくれ」
 これ以上笑っていると本当に怒られそうなので、僕は笑いを誤魔化すべく、昨日の夜に書き上げた成果を彼女に渡した。
「ん? スマホって……え! これ、もしかして」
「うん。昨日、小説の続きを書いてみた。満足のいく仕上がりじゃないし、あんまり書けてないけど、とりあえずは書いたから一応報告がてら見せ」
「おぉ、読ませてください!」
 結生は僕の言葉を最後まで聞くことなく部室に駆け込んだ。近くにあった机に鞄を放り投げてから、食い入るように僕のスマホを見始める。
 本当に、面白いって思ってくれてたのか。
 一昨日も昨日も、彼女は僕の書いた小説を褒めてくれていた。べつにうそだと疑っていたわけじゃないが、なにぶん自分以外の誰かに読んでもらう機会などなかったので、こんなふうに真剣に読まれると否が応でも胸は高鳴っていった。
 書いた続きの文字数はそこまで多くない。両親の喧嘩が気になったり、時間が遅かったりしたこともあって四百字程度しか書けていない。でも、結生はなにをそんなに読み込むところがあるのかと思うほどに、じっくりと時間をかけて読んでいた。
 五分か、十分か、二十分か。はたまたそれ以上か。
 そろそろ雪弥や小夜がやってきそうな時間になって、ようやく結生は立ち上がった。
 ひときわ大きく、心臓が跳ねた。
 なにを言われるのか。称賛か、失望か。もしくはまた想像の斜め上からの言葉が投げかけられるのか。
 スマホを胸に抱えた結生は、何事かを考えるように目を閉じている。言葉を、選んでくれているのだろうか。
「その、悪い。まだそこまで書けてないんだ。一応は進んでるって言いたくて見せただけで」
 漂う空気に耐え切れなくて、言い訳がましい言葉を吐く僕の声を、彼女はまた遮った。
『――本当は、どうしたいの?』
 僕を見つめて、彼女は言った。
 射抜くような声だった。
 一瞬、僕に向けられた言葉かと思った。
 でも同じ勘違いは繰り返さない。彼女の眼が、表情が、声が、明らかにいつもの彼女と違っていたから。
『サアヤはいつもそうやって逃げてるけど、それでいいの?』
 僕が書く小説の主人公の名前が呼ばれる。音にすると、意外とセリフに紛れてしまうんだなと思った。
『私はまったく良くない。サアヤには幸せになってほしいの。だから、私にも協力させてよ』
 言葉は静かに、それでも想いは熱く、一心に呼びかけるシーンだ。けれど、なんとなくセリフのテンポが悪い気がする。
 そこで結生はくるりとターンし、さっきまで自分がいた場所を見つめるように向き直ってから、言葉を紡いだ。
『カナデ。私は、あなたにこそ幸せになってほしい。だから、それはできない』
 今度は主人公のセリフ。真っ向から親友の申し出を拒絶し、溝を深めていくわけだが。
 結生が演じる必死な主人公を見て、ここは敢えて拒絶せずぼやかすのもアリだなと思った。
 ここは、主人公と親友が同じ人を好きになってしまった結果、お互い相手のために身を引こうとしている場面だ。ここから二人は自分の想いと友情の葛藤に悩みつつも選択し、成長していくのだが、実は具体的な展開がまだ定まっていなかった。
 主人公には、異世界から転生しており、そこで受けた呪いのせいで寿命が短いという設定がある。敢えてここで申し出を曖昧に受け取っておき、最後には親友の想いを成就させるようにこっそり動く、などといったほうが切なさも高まって面白いかもしれない。
 その後も結生は演技を続けた。時間的には僅か一分程度。ひとつまみともいえる時間だったが、僕の頭の中にはいろいろな展開や改善点が浮かんだ。昨日の夜には思いつかなかったことばかりで、ちょっとだけ悔しかった。
 新しく書いた部分の演技が終わると、結生は「少し解釈を変えたのもやってみるね」と、最初の演技とは微妙に異なる演技でもう一度見せてくれた。セリフの抑揚や表情がさっきとは違っていてまた抱く感想やイメージが変わった。
 そしてなにより、彼女の演技が昨日の朝よりも良くなっていることに僕は驚いていた。
 たった一日。たった数時間の部活。
 そこで彼女は何かを吸収し、確実に成長していた。もしかすると、家でも練習していたのかもしれない。本当に、恐るべきやる気だと思った。
 そうして僕は、結生が演じる一分間に魅せられていた。
 小説の改善に結生の演技と、あれこれ想像を働かせていると、不意に声が止んだ。ハッとして我に返ってみれば、目の前で満足げに笑う結生がいた。
「ふふん、どうですか先輩」
「あ、ああ……良かったよ」
 得意そうに胸を張る彼女に軽口をたたきたかったが、なにも思い浮かばなかった。ただ素直に、少し無愛想に、僕は感想を述べていた。
「でしょ! 昨日も小夜ちゃんと一緒にたくさん演技の練習したんですよ」
 しかし結生は特に気にしたふうもなく言葉を続けた。
「昨日は先輩が修正した台本でしたけど、やっぱり小説もいいですね。描写が丁寧なのでイメージしやすいですし、私みたいな初心者の練習にはもってこいです。もちろん、私好みの物語っていうのも大きいですけど」
「初心者ってレベルの演技じゃないけどな」
「んふふっ、ありがとうございます。それで、どうですか先輩」
 話もそこそこに、といった感じで彼女は僕を見た。改めて投げかけられた言葉と、含みのある視線には、間違いなく昨日の答えを欲しているのが見て取れた。
 真剣で真っ直ぐな眼差しを羨ましく思いつつ、僕は両手を上げて降参の意を示した。
「わかったよ。僕自身、さっきの演技から得られたものは多かった。僕の小説でよければ、いくらでも練習に使ってくれ」
「やりい!」
 ぐっと拳を握るポーズは無邪気そのものだった。目標に向かって一心に取り組もうとするその姿勢は、どこか懐かしかった。
 だから僕は、思わず聞いていた。
「なあ、なんで結生はそんなに全力で取り組めるんだ?」
 かつての自分が持っていた挑戦心と意欲。
 彼女はどこからそれが沸いてくるのか、知りたかった。
「そうですねー。じゃあお礼も兼ねて、先輩には特別に教えといてあげますね。今から言うことは、他の人には秘密ですよ」
 嬉しそうな表情を変えずに、結生は言った。

「実は私、前世の記憶があるんです。
 十七歳で一度この世を去った、そんな記憶が」
 
 僕の耳に届いた声に喜色はなく、

「だから私は、今度は全力で取り組むんです。人生を精一杯楽しみたいから」

 彼女の顔には笑顔が満ちていた。
 どこまでも想像の斜め上をいく彼女に、僕はしばらく言葉を返すことができなかった。