開け放たれた教室の窓から、生温い風が吹き込んできた。その拍子に、壁に貼られた掲示物がパラパラと捲れ、机に置いてあったプリントが数枚、床に落ちた。僕の近くにも一枚落ちてきたので、拾い上げて机に戻す。
「いよいよ今週の土日か」
 それは、文化祭のビラだった。高校のイメージカラーにもなっているオレンジを基調に、可愛らしいイラストやアレンジされたたい焼きが描かれた、クラスのリーフレット。姉弟で才能があるのか、これをデザインしたやつは……今日も学校を休んでいる。
「大丈夫かな……笹原」
 美咲さんが倒れた日から、今日で五日目。倒れた翌日に送ったメッセージに、落ち着いたら学校に来ると返信があったきり、連絡はない。
 笹原の両親からは、もし良かったら会いに来てほしいと言われているが、結局この土日にも行かなかった。
 ……というより、行けなかった。まだ僕の中には、病床に臥している美咲さんに、その傍らで悲しそうに美咲さんを見つめている笹原に、会う勇気がなかった。そうした場所に足を踏み入れることが、怖かった。
 きっとまだ、心のどこかで、十年前のあの日のことが消化しきれないでいる。
 でも。それがわかったところで、その後どうしたらいいのかわからない。そんなことを考えていたら、土日が終わっていた。
「……やるか」
 これ以上悩んでいても仕方ないので、止めていた色塗りを再開する。僕が担当しているのは、当日の屋台のテントの上に乗せる看板の飾り。お見舞いには行けなかったが、せめて、同じ担当メンバーだった笹原の分までしっかり仕事をしておきたかった。
 ただ、僕は笹原や美咲さんと違って、デザインのセンスも手の器用さもない。できるとすれば、決められた場所に決められた色を塗るくらいだ。それですら、きれいに塗るのは結構難しくて危うい。
「な、なぁ。ここの色って、こんな感じでいいか?」
 早速自信がなくなって、笹原と一緒にリーフレットや看板のデザインを担当していた女子にアドバイスを求める。
「え? んー……もう少し明るい色を乗せるともっと良くなるかな?」
 彼女は少し驚きつつも、丁寧に説明をしてくれた。使う絵の具の色に、水の量やバランス。僕には何をどう考えたらその塩梅に辿り着けるのかわからないが、とりあえず言われるがまま混ぜ合わせ、色を塗っていく。 
「おぉ。確かに、きれいになった」
 そこにはさっきよりも全体的に明るみが増し、華やかさが増した向日葵があった。
「でしょ? またわからないことあったら聞いてね」
「あ、あぁ。その、ありがとう」
 立ち去る彼女に慌ててお礼を言うと、また彼女は驚いたように目を丸くした。なんだ? なんか変なこと言ったか……?
「橘くんさ、なんか最近変わったよね」
「え?」
 思いもよらない返事に、今度は僕が呆気に取られた。
「あぁ、ごめん。変な意味じゃなくて。なんか前は分厚い壁が反り立ってたんだけど、今は薄い板が数枚あるだけ、みたいな?」
「いや、板はあるのかよ」
「アハハッ、そういうとこだって」
 彼女は短く笑うと、他の助けを求める声の方へ駆けていった。
「変わった、か……」
 なんだか少し、くすぐったかった。前に笹原にも言われたし、それは僕も実感している。今の彼女への質問も、以前だったら絶対にしなかったし、何よりこんなにも真剣に準備をしようとは思わなかっただろう。
 確かに、僕のことをあれこれ言う人はいるし、好奇の視線もなくなったわけじゃない。ただ、なんだか前よりも、そうした人が少なくなったようにも感じていた。なぜかは、わからないけれど。
 でもこの変化は、間違いなく笹原と……光里のおかげだ。
 明るい黄色が付いた筆を置き、代わりにポケットからスマホを取り出す。まだ、既読にはなっていない。
「光里……」
 悩みの種は、尽きてくれない。

 土日を含めたこの五日間。笹原だけでなく、光里ともほとんど連絡をとれていなかった。
 あの日の言葉は、今も消えずに耳の奥に残っている。
 美咲さんが倒れた日。その帰り道に、僕は美咲さんを生き返らせてくれないかと訊き、断られた。そして、彼女は続けた。
 僕の家族を奪ったのは、自分だと……――。
 結局、その後光里は走って帰ってしまい、それ以上のことは聞けていない。電話はしたが出てくれず、メッセージで訊いてみるも「言えない」の一言しか返ってこなかった。それ以降、光里にいろいろメッセージを送ってみるが一向に既読はつかず、未読スルー状態が続いている。
 本当に、光里が奪ったんだろうか。
 ボランティア遠足でのことを思い出す。あの時、確かに僕は光里のことを疑った。僕の父を、母を、姉を、崖下に突き落として逃げた対向車の親族か何かなんじゃないかと思って、避けた。
 でも。光里の無邪気な笑顔を見て、真っ直ぐな優しさに触れて、他人のための涙を知って、違うと思った。違うと……思いたかった。なのに……――。
 ――陽人から家族を奪ったのは、私だから。
 彼女の声が、また脳裏に響く。聞きたくない言葉だった。
 彼女は、あの事故を知っている。僕の生き返らせたい人を、知っている。
 彼女は、光里は…………――あの事故の、関係者だ。
 だけど。
 やっぱり……違うと思った。
 光里は、あの事故の加害者側なんかじゃない。僕から家族を……奪ったはずが、ない。
 光里のおかげで、僕は日常の大切さを思い出すことができた。彼女と過ごした日々は、本当に楽しかった。
 光里が流した涙は、僕にくれた言葉は、笹原と美咲さんへの優しい眼差しは……――間違いなく、本物だった。
 もう、わからなかった。
 ――あの事故を、どうか……恨まないで。
 ふと、姉の最期の言葉が蘇る。姉は、どうしてあんなことを言ったんだろう。十年経っても、姉と同じ年齢になる年になっても、僕は未だにあの言葉の意味がわからない。
 光里と会うまでは、憎くて憎くて仕方なかった。あの言葉に縛られて、自分の気持ちとの矛盾に苦しんで、ただただ毎日を惰性のように過ごしていた。姉と同じ年齢になればわかるかもと、そう自分に言い聞かせて今まで生きてきた。
 そして結果的に、今はあの言葉を肯定したい気持ちになってしまっている。
 それに、何よりわからないのが……
 どうして、美咲さんを生き返らせられない理由が、「僕の家族を奪ったから」なんだ?
 なぜ? どうして……――?
 頭の中がぐちゃぐちゃだった。
 光里は、どうしたいんだろう。
 僕は、どうすればいいんだろう……――

 休み時間。今日もダメ元で光里のクラスに行ってみたが、やはり来ていなかった。
「光里ちゃん、大丈夫かな……。こんなに休んだことなかったのにな」
 教室の入り口付近で、か細い声がポツリと漏れた。声の主は、僕が唯一話せる光里の友達。僕よりも頭一つ分背は低く、肩ほどまで伸びた髪を後ろでひとつに束ねている。目尻は少し垂れていて、おっとりとした雰囲気を醸し出しており、名前は確か……光里からは「りんちゃん」と呼ばれてたっけ。
「何か言ってなかった? えっと……」
 光里と同じように「りんちゃん」と呼ぶわけにもいかず、口ごもる。すると、彼女は小さくはにかみ、「遅ればせながら、天音凛です」と自己紹介してくれた。
「えと、光里ちゃんだよね。うーん……風邪をひいたとしか聞いてないや」
「そっか」
 おそらく本当は風邪でなく、僕との一件で休んでいるんだと思う。口をきいてくれないとか、避けられるとかは予想できたが、文化祭直前のこの時期に学校を休み続けるというのは計算外だった。
「文化祭の準備も大詰めだし……光里ちゃんいないと不安だな……」
「あぁ、そういえば、光里は学級委員だったっけ」
「うん。まぁ、文化祭での学級委員の事前準備はほとんど終わってるみたいなんだけど、カフェの外装とか接客用の制服作成のスケジュール管理もやってくれてたから……」
「光里、そんなにいろいろやってたのか……」
 僕との渉外係での調整もそうだし、そのうえ美咲さんのサプライズ計画の手伝いまで……。さすがだと思う反面、どうしてそこまでやるのか不思議だった。
「なぁ、光里って……――」
「お、橘! ちょうどいいところに」
 彼女のことを天音さんに訊こうとした時、張りのある声が上から降ってきた。と同時に、逞しい手が僕の肩を掴む。
「先生、声大きすぎです」
 振り返ると、そこには男子の体育を指導しており、笹原が散々お世話になっている陸上部顧問の先生が苦笑を浮かべていた。
「あー、すまんな。ついクセで」
「まぁいいですけど。それで、何かご用ですか?」
「あぁ、そうだった。橘、お前確か、笹原や天之原と仲良かったよな?」
「え?」
 唐突に出た二人の名前に、思わず呆けた声が出た。
「あれ? 違ったか?」
「いえ……まぁ」
 仲は良いと思う。でなければ、毎朝変なやりとりをしたり毎日一緒に昼食を取ったりしない。
 でも今は、状況が悪かった。そのせいで、結局僕は曖昧な言葉しか返せなかった。
「どした? もしかして今は喧嘩中とか?」
「いや、そんなわけでは……。でもまぁ、はい。仲は、いいですよ」
 歯切れの悪い僕の言葉に先生は首を傾げていたが、やがて割り切ったように表情を戻した。
「実はな、あの二人に渡してほしいプリントが溜まっているんだ。文化祭関係のものもあるし、悪いが届けてやってくれないか?」
 続けて出てきた突然の提案とプリントの束。今度はもう驚きのあまり声も出ない。このタイミングで……? 一周回って、そういえばこの先生は隣のクラスの担任もしてたなー、なんてどうでもいいことが頭に浮かんだ。
「橘?」
「あ、いえ。その……わかりました」
 名前を呼ばれて我に返る。と同時に、僕の中でひとつの意思が生まれた。
 これはきっと、チャンスだ。

 その日の放課後。切りのいいところまで看板の色塗りを終えてから、事情を言って準備を早抜けさせてもらった。
 まだ日が高い午後の蝉時雨の中、僕はなだらかな坂を下っていた。
「あっついな……」
 いよいよ夏も本番。日を追うごとに強くなる日差しや高くなる気温が恨めしい。快晴の青空を滑る雲も、身体を吹き抜ける南風も、夏の気配を濃く深くまとっている。
「えーっと、確か光里の家は……」
 地図アプリを凝視しつつ、僕は案内通りに突き当たりの角を曲がった。
 先生から聞いた光里の家は、思いのほか僕の家から近いところにあった。初めて会ったのが、駅から僕の家までの道中だったのも合点がいく。まぁ、あの時は待ち伏せていたような感じだったけど。
「……あと少し、だな」
 点在する田畑の間を通り抜け、住宅街の角をさらに数回曲がると、急勾配の短い坂が姿を現した。地図アプリによると、この坂を登り切って真っ直ぐ行ったところに、光里の家はあるらしい。
 この坂を登れば……。
 目の前にそびえる坂の前で、僕は足を止めた。道中も考えないようにしていたけれど、もう目と鼻の先というところまでくれば考えない方が無理だ。
 僕は、光里に会って……なんて言えばいいんだろう。
 そんな問いが、頭の中にずっと渦巻いていた。一度考え始めれば、それは瞬く間に思考を覆い尽くしていく。
 どう切り出そうか。何から話そうか。そもそも何を話せばいいんだろうか……――。
 でも、答えはわかり切っている。美咲さんのこと。光里の能力のこと。これからのこと。そして……過去のこと。
 これまでずっと目を逸らしてきて、しっかりと話していなかったことを、話さなければならない。時間だって、もうほとんど残っていないのだ。
「よしっ」
 自分の心に喝を入れるように一声叫び、僕は足を前へ進めた。
「あら? あなた、もしかして光里ちゃんの彼氏さん?」
 唐突に聞こえた女性の声に、反射的に振り返る。そこには……――
「お久しぶりです。七宮春子です」
 僕が知る限り、この世で二人しかいない生き返った人のうちの一人……――七宮さんが、柔和な笑みを浮かべて僕を見ていた。

「ありがとうございます」
 淀みなく流れるような所作で出された麦茶に、僕は恐縮して頭を下げた。
「あらあら、いいのよ。そんなにかしこまらなくて」
 柔らかな微笑を湛えたまま、七宮さんは向かい側に腰を下ろす。
 僕が今いるのは、玄関から進んで少し中に入ったところにある座敷の部屋だ。い草の匂いがふわりと香っており、手入れの行き届いた床の間や書院などは僕の家とは大違いだ。おそらく、客間としていつ誰が来てもいいように、普段からしっかり掃除がされているんだろう。
「それで……今日は光里ちゃんに会いに来てくださったんですよね?」
 麦茶をひと口飲んでから、ゆるりと彼女は切り出した。
「えぇ、まぁ。風邪で休んでる光里さんに、先生から欠席中のプリントを渡してくるよう頼まれまして」
「そうでしたか。でも、ごめんなさい。光里ちゃん、少し散歩に行ってくるってさっき出かけてしまったの。入れ違いになっちゃったわね」
「あぁ、そうだったんですね」
 七宮さんの言葉に、図らずもほっとしたのがわかった。なんとも情けないな、と思う。そんな自分に苦笑しつつ、僕も彼女に倣って麦茶を口へと運んだ。
「ところで、光里ちゃんとはいつから付き合ってるの?」
「っ⁉」
 危うく、麦茶を吹き出しそうになった。が、どうにか堪え、喉へと流し込む。
「いや、その……僕と光里さんは、そんなんじゃないですよ」
「あら、そうなの? でもあなた、光里ちゃんのことが好きでしょう?」
「えっ⁉」
 今度は、声が裏返った。
「違うの?」
「いや、えと……」
「違わないでしょう?」
「え、え、えぇ……?」
 いきなり何を言ってるんだ、この人は。
 やっと落ち着いた心が、またザワザワと波打ち始めていく。
「だって、あなたの顔に書いてあるもの」
「か、顔に……?」
「そう、顔に。人の表情は、思っている以上に豊かなものよ」
 優し気な微笑みが、幾重もの皺が刻まれた口元に浮かぶ。まるで、全てを見透かされているような気分だった。
 思い返せば、初めて会った時も七宮さんはこんな感じであれこれ訊いてきていた。
 あの、夕方の墓地で。
 確か、複雑そうな顔をしていた光里が叫んで、その追求を止めたんだっけ……
「……ふふふっ。意地悪して、ごめんなさい」
 つい二ヶ月ほど前のやりとりを思い出していると、不意に七宮さんが小さく頭を下げた。思わず、僕の口から「え?」と呆けた音が漏れる。
「あなたの顔が、あの時の光里ちゃんと似てたからつい……ね」
「あ……」
 夕暮れに浮かぶ、光里の顔が思い起こされた。
 焦ったような、戸惑いのような、そんな表情をしていた。
 どうしてかわからなくて、僕自身も驚いて……――
「その表情を浮かべた理由は、きっと違うんでしょう。もしかすると、とっても大変なことで悩んでいるのかもしれない」
 彼女はひどく真面目な顔つきで、僕を見ていた。そこには、先ほどまでの少しふざけたような色は微塵もない。
「でも私は、どちらも見過ごせなかった。少し肩の力を抜いて、小さく笑って、そして向き合って欲しかった。空元気でもいいの。物事はね、それくらいの方がうまくいくものよ。そんな、おばさんのお節介」
「七宮さん……」
 ふふふっ、と今度は笑って、七宮さんは残った麦茶をひと息に飲み干した。やがて、氷が音を立ててコップの底へと落ちる。
「さて。おばさんのお節介も済んだことだし、今度はあなたの番ね」
「え?」
「何か私に、訊きたいことがあるんでしょう?」
 チリン、と風鈴が音を立てた。夏の風が室内へ舞い込み、軽く肌の表面を滑っていく。
「…………どうして、そう思うんですか?」
 たっぷりと間を置いてから、僕は尋ねた。
 正直、まだ迷っている。七宮さんに聞きたいことはもちろん、たくさんある。
 僕は、光里と、光里の能力について向き合わないといけない。その中で、実際に能力で生き返った人に話を聞けるのは僥倖だ。
 だけど、果たしてそのことに触れていいんだろうか。
 一度亡くなり、そして文字通り、この世に蘇った人。そのきっかけとなる能力について、訊いていいんだろうか。
 ある種、その人にとっては最大の謎であったり、不安の源であったり、唯一の希望であったりする。むしろ知りたいのはこっちだと逆ギレされてもおかしくない。そんなデリケートな問題に、触れていいんだろうか。
「きっとあなたは、光里ちゃんの不思議な能力について気にしているんでしょう?」
「え…………あ、はい」
 今しがた悩んでいたことが、予想外にも音となってストレートに飛んできた。あまりに直球すぎる質問に、思わず正直な返事が口をついて出る。
「だったら、光里ちゃんの能力で生き返った当人である私に、訊きたいことがないはずがないじゃない。ね?」
「ね? って言われましても……」
 なんだか、想像以上に軽い。もしかして、僕が考えすぎているんだろうか。
「優しいのね。大丈夫よ。おばさんはそんなことで取り乱したりしないわ」
「……わかりました」
 僕は再度気を引き締め、七宮さんに目を向けた。チリン、と風鈴がまた涼やかな音を立てる。
 けれど、僕の頭にはそんな音を楽しむ余裕はなかった。

「――……それじゃ、光里さんのあの能力については……」
「残念ながら、私も橘さん以上のことについては知らなくて。自信満々に言ったのに……ごめんなさいね」
「いえ……」
 おそらく、二十分ほど経過しただろうか。その間、光里自身のこと、光里の能力のこと、能力で生き返った前後のことなど、内容に気を遣いつつあれこれ訊いてみた。そして今のところわかったのは、まとめると三つ。
 光里の母はシングルマザーで、光里が小学生の時に亡くなってしまったこと。
 それからは、ここ祖母宅で暮らしていること。
 光里の能力の詳細については本人しかわからないこと。
 中でも驚いたのは、光里も僕と同じで両親がいないということだった。なんでも、光里が五歳くらいの時に父親が行方不明になり、光里の母親はそれから女手一つで光里を育ててきたらしい。でも、過労がたたって、それから暫くして亡くなったとのことだった。
 塞ぎがちで他人とは壁を作っているような僕とは違い、光里はいつも前向きで明るくて、笑顔の絶えない人気者だ。光里にそんな過去があったなんて想像もできなかったし、何より僕は光里のことを何も知らなかったんだと悔しくなった。
 そして一方、肝心の光里の能力については、何もわからないということがわかった。
「私も生き返ってから光里ちゃんといろいろお話したんですが、能力についてはあまり話したくなさそうにしていて……」
「いえ、大丈夫です。むしろ、彼女が話したくないことを別の人から聞いてしまわなくて良かったです」
「あなた、本当に優しいのね。おばさんも惚れちゃいそうだわ」
「きょ、恐縮です……」
 光里の両親のことを、光里以外から既に聞いてしまっている時点でどうかとも思うが、そこは言わないでおいた。光里も僕の過去を知っているようだし、ここはおあいこということにしてほしい。
 そこで会話が途切れ、お互い緩くなった麦茶を口へと運んだ。思っていた以上に僕の喉は渇いていたらしく、一気にコップの分を飲み干す。そんな僕を見て、七宮さんは小さく笑っていた。なんだか恥ずかしくて壁の時計に視線を移すと、針はそろそろ五時を指そうとしていた。
「光里ちゃん、遅いわね〜。ちょっと散歩に出てくるって言ってたのに」
「いえ。プリントを届けに来ただけですし、光里さんに渡しておいていただければ」
「そうですか。ごめんなさいね、せっかく来ていただいたのに」
「いえいえ。貴重なお話を聞かせていただいてありがとうございました」
 なんとなく帰る雰囲気になったので、麦茶のお礼を言い、立ち上がった……時だった。
「あれ? これって……」
 ふと、そばの棚の上に置いてあった紙に目が留まった。
 それは、手書きの簡単な地図だった。いくつも四角が並んでいて……どこかで、見た気がする……
「あらいけない。出しっぱなしにしちゃってて、ごめんなさい。それは、光里ちゃんに渡した手紙よ」
「手紙……」
「あら? 私を生き返らせてくれた時に、光里ちゃんから見せてもらってないかしら?」
 私を生き返らせてくれた時…………あ。
「あの時! 光里が確か、お墓の場所が書いてあるって……!」
「そうなの。光里ちゃんがお母さんを亡くした時に送った手紙でして。私たちもいい歳だったから、もし私たちも亡くなって、光里ちゃんが寂しくなったら、光里ちゃんの能力で少しの間だけ生き返らせてねって、送ったんです」
 懐かしそうに、そして嬉しそうに話す七宮さんの隣で、僕は呆然としていた。僕はひとつ、大切なことを訊き忘れていたから。
「あの……七宮さん」
「はい、なんですか?」
「えと……あの墓地で生き返った後、確か光里と約束をしたって、おっしゃってましたよね? もしかして今のが、その約束ですか?」
「えぇ、そうですが……」
「その約束をしたのは……いえ、七宮さんが初めて光里の能力を見たのは、いつなんですか?」
 僕はすっかり忘れていた。そういえばあの時、光里は七宮さんと何かを約束して、それで来たと言っていた。そしてその約束が、今七宮さんが言った内容なら、光里が能力を得たのは、おそらくかなり前……
「私が初めて光里ちゃんの力を見たのは、十年も前ですね。そういえば……ちょうど光里ちゃんが、お母さんを亡くしたばかりの頃でした」
「十年前……」
「光里ちゃんのお婆ちゃんに用があって、この家を訪ねてきた時に、たまたま見たんです。確か……雀か何か、小さな鳥を生き返らせていたような気がします」
「雀……」
 ショッピングモールでの出来事が脳裏をよぎった。いつもの光里とは違う、壊れてしまいそうな表情が何度もちらつく。
 頭が割れそうなくらいに痛んだ。でも、ここで考えることを止めてはいけない。
「その時はびっくりして、腰を抜かしそうになったわ。だって、目の前で横たわっていた動物が、急に元気になって羽ばたいて行ったんですもの。まぁ、一緒にいた優ちゃんは、腰を抜かしていましたけれど」
「優ちゃん?」
「あぁ、ごめんなさい。私と、光里ちゃんのお婆ちゃんの友達で……そうね、一ノ瀬優子と言った方がわかるかしら?」
「一ノ瀬優子っ⁉」
「そう、女優のね。本名は原田優子。まさかあのおっちょこちょいの優ちゃんが女優になるなんて思っても見なかったわ〜」
 マイペースに笑う七宮さんの前で、僕はさらに追加された情報に顔を歪めるしかなかった。
 一ノ瀬優子。
 一人目の、生き返った人だ。
 まさか、ここでその名前が出るなんて……。
「そ、それで……?」
「あぁ、そう。それで、びっくりはしたんですが、その時の光里ちゃん、泣いててね……。さすがにあれこれ訊くわけにもいかなかったから、その後しばらく優ちゃんと相談して、私たちは光里ちゃんを見守ろうってことにしたんです。手紙は、その時に私と優ちゃんが送ったものなの」
「そう、だったんですか……」
 どうやら、話は終わりのようだった。
 でも、僕の頭は以前、フル回転していた。
 十年前。光里のお母さん。雀の生き返り。一ノ瀬優子……――。
 ――ピリリッ!
「わっ⁉」
「ひゃっ⁉」
 僕のポケットから、突然着信音が響き渡った。この音は……電話だ。
「あ、僕のスマホです……」
「そ、そう……。ふふっ、あなたの声にびっくりしちゃったわ。さ、私にお構いなく」
「は、はい。すみません……」
 この間も鳴り続けるスマホを取り出し、画面を見る。そこに書かれていた名前に、僕は急いで通話ボタンを押した。
「笹原っ⁉」
「ぬあっ⁉ うるせーな。ふつー、電話の第一声は『もしもし?』だろ」
 五日ぶりに聞く笹原の声に、軽口。さっきまで高鳴っていた心音が少しずつ落ち着いていく。
「あぁ、悪い。それで、どした? 美咲さんの容体は……?」
「親友である俺の調子より、その姉を優先かよ。まぁ、いーけど」
 小さく笑う彼の口調に、そうでないとほぼ確信する。でも、直接聞くまでは安心できなかった。別の要因で、心臓がドキドキと再び音を立てている。
「さっき、目を覚ましたよ。お前に会いたいから来てくれ、とさ」
 窓の外では、午後五時を知らせる音楽がやけにゆったりと、茜色の空に流れていた。

 七宮さんに事情を言って光里の家を後にすると、僕は大急ぎで駅に向かい、電車を乗り継いでどうにか飛田総合病院へと辿り着いた。
「落ち着け……きっと、大丈夫……」
 そう自分に言い聞かせてみるも、緊張は和らぐところを知らなかった。
 高鳴る心臓。暑さとは異なる冷や汗。若干揺らいでいるような気さえする視界……
 リノリウムの床を踏み締め、一歩ずつ前へと進んでいく。何度か深呼吸を繰り返し、ようやくその病室へと辿り着いた。
 ドクン、と心臓が一際大きく跳ねる。
 病室と廊下を隔てる大きな扉の前には、一枚の札がかかっていた。
 面会謝絶。
 笹原からの電話でも、受付でも話を聞いていたから、驚くことはなかった。まだ目を覚まして間もない美咲さんは、例え元気でも一般の来院者では会うことができない。今回僕は、本人が希望したから特別に会うことができる。
「……大丈夫」
 もう一度息を深く吸い、そして吐き出した。汗の滲む手を持ち上げ、目の前にそびえる扉を小さく叩く。
「よう。やっと来たか」
 想像よりも軽やかに扉が開き、聞き慣れた声が鼓膜を震わせた。たった五日程度なのに、それはひどく懐かしかった。
「元気そうだな」
「ああ、なんとかな」
 扉のレールを境に、僕らは軽く挨拶を交わす。彼は少し痩せていたけれど、顔色は良さそうだった。そして、促されるまま僕はその病室へと、足を踏み入れた。
「やほ〜! 元気してた〜?」
 そこには……倒れる前と全く変わらない、のんびりとした口調で笑いかけてくる、美咲さんがいた。
「……美咲さん?」
「そうだよ〜。え、もしかして、顔忘れちゃったとか〜?」
 パリパリパリ。
「いや、なんか……思ったより元気そうですね?」
「え〜、そんなことないよ〜。生死の境を彷徨ってたんだから〜」
 呆然とする僕の様子に満足したのか、美咲さんはあけすけに笑った。そしてその間も、美咲さんの口からは香ばしい音が規則正しく響いており……っていやいや、ちょっと待て。
「そのポテチは?」
「ん〜? 弟の差し入れ」
「うそつけ。姉さんが買ってこいって俺をパシらせたんだろ。マジでバレたら洒落にならないし、身体も本調子じゃないんだから小袋で我慢しとけよな」
 ベッド横の丸椅子に腰掛けた笹原は、不満そうな声をあげた。でも、そんな口調とは裏腹に表情は穏やかで、口元を緩ませながら美咲さんを見つめている。
「もう〜わかったわよ〜。じゃあここは、陽人くん。大袋の……」
「元気に退院してくれたら、いくらでも買ってきますよ」
 美咲さんの軽口を受け流しつつ、僕は笹原の隣に腰掛けた。「ちぇっ」と小さく舌を鳴らす彼女は、本当にいつも通り。
 けれど。ここまで彼女と一緒に誕生日サプライズ計画を進めてきた僕には、そのらしくなさが際立って見えた。
「言質とったからね⁉ とか、言ってくれないんですね」
「……」
 美咲さんは答えない。むしろそれが、彼女の今の状況を雄弁に物語っていた。
「美咲さん、やっぱり……」
「うん。多分、陽人くんの思ってる通りだよ。聞いちゃったんだね。私の病気のこと」
「……ごめんなさい」
「いや〜、謝ることないよ〜。言ってなかった私も悪いし。それに、今日話したかったことのひとつでもあるから」
「今日話したかったことの、ひとつ?」
 意味深な言い方だった。
 美咲さんはクスリと小さな笑みをこぼすと、笹原に少し席を外してくれるよう言った。事前に話していたのか、笹原は何も言わずに頷くと、足早に病室を出て行った。
「今日話したかったのはね。私の病気のことと、君自身のこと。そして……」
 美咲さんはそこで、一度言葉を区切った。黒い大きな瞳が、僕を見据える。
「――君の、お姉さんのことだよ」
 窓の外では、分厚い雲が立ち込め始めていた。

「…………えと、なんで美咲さんが、僕の姉のことを……?」
 夏空を覆う雲から水滴が零れ、疎らに窓を叩く頃になって、漸く僕は口を開けた。
「美沙とは、友達だったの。……ううん、親友って言った方がしっくりくるかな。それくらい、仲が良かった」
 僕とは対照的に、美咲さんはほとんど間を置かず返事をした。久しぶりに聞く姉の名前に、思わず身体がびくりと跳ねる。
「高一から同じクラスでね。名前が似てるねーって美沙から話しかけてくれて、すぐに意気投合したの。美沙は本当に真っ直ぐで、明るくて、誰にでも優しくて、眩しかった。美沙といると不思議と元気になって、笑顔になれた。私にとって美沙は大切で、かけがえのない親友だったんだ」
 でも、美咲さんは僕に構うことなく続けた。姉のことを、美咲さんはすごく無邪気に話してくれた。
 何気ないお喋りが楽しかったこと。
 音楽やドラマだけでなく、男子の好みも同じだったこと。
 二人で学校をサボって遠出したこと。
 海に行ったこと。
 カラオケに行ったこと。
 あれも、これも……思い出をたくさん、語ってくれた。
「でも。高二になったある日……私たちは、喧嘩をしてしまった……」
 遠くで雷鳴が轟いた。雨は勢いを増し、割れるんじゃないかと思うほど激しく、窓を打ち付けている。
「あの頃、美沙は悩んでたの。偶然公園で仲良くなった女の子が家庭不和の問題を抱えてて、それで相談に乗ってあげてたみたいで」
 初めて聞く話だった。あの頃、姉の悩んでいるような姿を見たことはなかった。僕の記憶にあるのは、くだらない話を楽しそうに喋っていて、憎たらしいくらい喧嘩の種を蒔いてくる、そんな姿ばかり。
「あの子、困ってる人は放っておけない性格だったから。でも、あまりにも悩んでたから見てられなくて……他人の家のことでそんなになるまで悩むことないって、言っちゃったの。バカだよね、私。しっかり話し合っていれば、喧嘩にはならなかった。すぐに仲直りできた。でも私たちは……それから疎遠になっていった」
「疎遠に?」
「うん。学校でもあまり話さなくなって、目が合うと気まずくて避けて……。何度も仲直りしようと思ったんだけど、私たち意地っ張りだったからなかなかできなくて…………辛かったな」
 美咲さんの顔が苦しそうに歪んだ。そして徐に、窓の方へと視線を向ける。
「あの日も、雨だった。私は、今日こそは仲直りしようと思って、早めに学校に来てた。朝イチで謝らないと、またズルズルいっちゃいそうだったから。だから、美沙が好きなお菓子を買って、どうにか生徒指導の先生の持ち物検査をかい潜って、自分の席でドキドキしながら美沙を待ってた。そして……」
 彼女の顔が、再び僕の方に向く。
 窓の外を眺めていたのは、僅か数分。
 僅か数分で……彼女の顔色は変わっていた。
「朝のHRで、私は……もう二度と、美沙に会えないことを知ったの」
 薄く、彼女は笑った。とても悲しそうな笑顔だった。
「その時の事情は……きっと、君の方が詳しいよね?」
「……はい」
 思い出したくもない、橙色の記憶。
 揺らめく炎。泣き叫ぶ声。降り頻る雨音と、赤くただれた肌。そんな地獄の中から姉は僕を救い出してくれて……亡くなった。
「前にも、少し話したよね? 私は、大切な人に自分の気持ちを伝えられなかったことがあったって」
 彼女は目元を軽く拭ってから、またゆっくりと雨音の方へ顔を向けた。美咲さんらしくない、寂しそうな横顔が脳内に浮かんで、目の前の彼女と重なる。
「確か……喧嘩して、好きなのに伝えられなかったって…………あ」
「そ。あれは告白じゃなくて、謝罪と感謝の気持ち」
 ある意味告白だけどね、と美咲さんは自嘲気味に肩をすくめた。
「私は、伝えられなかったの。そして、ここまで来てしまった。社会人になって、病気にかかって、そんなに長くないかもって言われた時、美沙の顔が頭に浮かんだ。やっと謝れるんだって……思った」
「美咲さん!」
 思わず叫ぶ。その意味するところを、続けさせたくなくて。
 でも、彼女は首を小さく横に振った。
「大丈夫。知ってるよ。美沙は、そんなふうに諦めて死んだ人の謝罪なんて、聞いてくれない。絶交だって言われる。だから、私は最期まで生き抜いて、胸を張って死んでから、美沙に謝りたい。そう思って、今日まで生きてきた」
「美咲さん……」
「サプライズ計画も、そのひとつだった。弟に、幹也に何かしてあげたくて。ずっと、気を遣わせちゃってたから。だから、協力してくれてありがとう」
 美咲さんは、そっと僕の手を握った。柔らかくて、温かい手だった。なんだか、懐かしいなと思った。
「私もまだ生きることを諦めたわけじゃないけど、どうしても君には言っておきたくて。……そして、これは君にも当てはまることだと思ってる」
「え?」
「私は……君にも、後悔のないように生きてほしい」
 黒曜石のような瞳が、僕を真っ直ぐ見据えた。そして、徐に空いた方の手を伸ばすと、僕の右頬――やけどの痕がある場所に優しく触れた。
「多くは語らない。君は、きっとわかっているだろうから。ただ、美沙なら多分、今を良しとはしない。そう思う」
 熱を帯びた言葉が心に落ちてきた。
 でも僕は、すぐには受け止められなかった。
「ありがとう、ございます……。でも、僕の中で、まだあの過去を清算できてないんです。それに……」
 言葉が続かない。言えるはずもない。
 そもそも、どうやったら過去を清算なんてできるのか。
 光里と話して、もし僕の中の仮定が合っていたら……僕はそれで、あの過去を乗り越えられるのだろうか。
「大丈夫。自分の中で、それがわかっているなら大丈夫だよ。焦らないで。きっと君なら、大丈夫――」
 手が引き寄せられた。僕の額が、彼女の肩に当たる。病衣特有のツンとくる匂いが鼻孔を衝き、そして後から、柔らかな香りにふわりと包まれる。
「大丈夫だから――」
 首筋と背中が温かい。まるで、そこから心にまで熱が伝わってくるような。
 肩も、腕も、顔も、胸も、温かくて。
 目尻だけが、少し熱くて――。
 規則的な雨音が響く病室で、僕はしばらく震えていることしかできなかった。

 やばい。
 僕は、もう生きていられないかもしれない。だって……
「手を放してください、美咲さん。恥ずかしいので帰りたいです」
「ダーメ。写真撮らないからせめてもうちょっといてよ~」
 泣き顔を見られるなんてどんな仕打ちだ。確かに心は軽くなったけれども。それでもこう、人には見られたくない一面みたいなのがあるわけで……。
「写真なんてもっての外です」
「じゃあ、いいじゃん〜。ね? ほら、ここに座って、ここに」
 美咲さんは僕の服から手を放すと、先ほどまで僕が座っていた丸椅子をポンポンと叩いた。そして、なにやら含みを持った笑顔を向けてくる。
「……どうしても?」
「どうしても〜っ!」
「はぁ……わかりましたよ」
 まぁ僕自身、本当に帰ろうとは半分程度しか思ってなかったので、渋々腰を下ろした。
「ただし、笹原が戻ってくるまでですからね」
「わかったって〜。それに、別にいいんじゃない? 辛い時とか、いっぱいいっぱいの時は、誰かに寄りかかったって」
「……僕、そんなに思い詰めた顔してました?」
「そりゃ〜もう。今から戦場にでも行くのかって感じだったよ〜」
 ケラケラと笑う美咲さんは、すっかりいつもの調子に戻っていた。ただそれでも、この場の空気が重くならないように、気を遣ってくれているのがわかった。やっぱり、美咲さんには敵わない。
「そんなにですか。ならまぁ……ありがとうございます、と言っておきます」
「ふふっ。素直じゃないなぁ〜」
「ほっといてください」
「はいは〜い」
 のんびりとした彼女の口調とは対照的に、外の雨はさらに強まっていた。こんな大雨になるなんて天気予報では言ってなかっただけに、ついつい視線は窓の方へと向けられる。
「私……やっぱり、夏に降る雨って苦手なんだよね」
 僕と同じように雨を見ていた美咲さんが、ポツリとつぶやいた。
「はい……僕もです」
 あの日を、あの時期を思い出す夏の雨は、どれだけ時間が経っても心をざわつかせる。
 オレンジ色で世界を染める夕陽。
 唐突に空を覆う、薄暗い雲。
 湿気の多い、じめっとした空気。
 空の彼方で轟く雷と稲光。
 激しく降り注ぐ、大粒の雨――。
 そのどれもが、あの日と似ていた。酷似していた。ただの夕立なのに。それは重く、深く、心に浸透してくる雨音だった。
「……美咲さん。僕にまだ、何か言いたいことがあるんじゃないんですか?」
「え?」
 美咲さんは驚いたように振り返った。
「そんなに驚かなくても……。だって、美咲さんが僕を呼び止めるのは、何か用事がある時ですから」
 サプライズ計画の準備をしている時。美咲さんが僕を引き留め、光里についてあれこれ聞いてきた日のことを思い出す。いつもみたいにお菓子を食べ終わって、「まだいるよね〜?」とにこやかに言われて、結局その後に質問攻めに遭ったんだ。 
「アハハッ。さすが陽人くんだね〜。やっぱり、姉弟そっくり……」
 美咲さんは小さく苦笑いを浮かべると、何かを思い出すようにそっと目を閉じた。
「……そうだよ。もしかしたら、お節介かもしれない。関係ないことかもしれない。でも……今は、伝えられることは伝えておきたいの」
 再び目を開いた美咲さんは、僕をじっと見つめてきた。黒くて大きくて、混じり気のない澄んだ瞳。さっきは受け止めきれなかったけど、今なら……美咲さんのおかげで少し吹っ切れた今なら、大丈夫だと思った。
「……わかりました」
「ありがとう」
 僕の返事に、美咲さんはまた短く笑った。
「話っていうのは……光里ちゃんのこと」
 窓ガラスをたたく雨は、まだまだ止みそうにない。

「それで……光里の、何の話ですか?」
 外では、雨に加えて風も強くなっていた。ガタガタと窓枠を揺らす音は少しうるさいくらい。そんな音に負けないよう僕は小さく息を吐き出してから、徐に切り出した。
「まぁそうね。いくつか話したいことはあるんだけど……まず、何かあったんだよね?」
 やはりか。
 思っていた通りの問いかけ。おそらく、笹原に頼んで電話やメッセージをしてもらったけど反応がなかったってところだろう。
「まぁ、ちょっと……喧嘩とかじゃないんですけど……ギクシャクというか、疎遠な感じになってて……」
「……そっか。うん、深くは聞かないよ。それで今、君は光里ちゃんのことをどう思ってるの?」
 言葉を選ぶようにゆっくりと、美咲さんは訊いてきた。いつものゆったりとした喋り方とは違う、静かで研ぎ澄まされたような口調。
 そして、今日何度目かになる真剣な眼差しに見つめられ、僕はしばらく口をつぐむしかなかった。回数を重ねても、その意味合いの重さが軽くなることはない。
「……僕は、光里のことを……――」
 不意に、風の音が止んだ。 
 病院特有の匂いや椅子の感触、微かな蒸し暑さが遠ざかっていく。
 きっと、僕は考えていた。
 ここに来るまでずっと……いや、光里にあの言葉を突き付けられた日から。
 ――僕は今、光里のことを、どう思っているんだろう。
 少し前に、自分の奥底で溜まっていた気持ちに気づいた。それは、ずっとずっと前から少しずつ器に溜まっていて。知らないうちに、溢れそうになっていた。
 そこへ落とされた一滴の雫と、広がっていく波紋。
 光里に向けられた真っ直ぐな想いと、それを拒絶する彼女の言葉は、今も覚えている。そしてその後に続けられた、僕への気持ちも……――。
「……大切で、かけがえのない人だと、思ってます」
 それでも。
 関係ないと言われようとも、光里があの事故に何らかの形で関わっているかもしれないとしても、僕は……光里のことが大切だ。そして、多分……
「――好きなんだと、思います」
 僕は、彼女の笑顔に救われた。
 彼女と過ごす日々に、また生きようと思えた。
 周囲の環境に合わせて抜け殻のように生きていくんじゃなくて。
 悩んで、笑って、怒って、ふざけて、心配して、泣いて、また笑って――。
 僕はもう一度、そんな日常を過ごしていきたいと思ったんだ。
「……そっか。良かった」
 視線の鋭さが、ふっと緩んだ。
「今もそう言えるなら、そう思えるなら、きっと大丈夫だね」
「今も?」
「この前も、そうだったでしょ?」
 今度は、少し悪戯っぽく笑って僕を見る。
「あの時はそんなこと言ってないです!」
「でも、思ってたことは否定しない、と」
「ぐっ……」
 事実その通りだったので、何も言い返せない。でもなぜか、それが妙に心地良かった。
 美咲さんはそんな僕を満足そうに見て、また短く笑った。
「ふふっ。その気持ち、忘れないでね。とっても大切なものだから。そしてその気持ちで、光里ちゃんの力になってあげて」
「光里の?」
 僕が聞き返すと、美咲さんはゆっくりと頷いた。
「うん。光里ちゃんは……きっと何か大きなことで悩んでる」
「それは……」
「私も詳しくはわからない。けれど……お祭りの時も、サプライズ計画の準備の時も、光里ちゃんは何かに悩んで、苦しんでた」
 美咲さんの言葉に、一ヶ月も経っていない記憶が蘇る。
 光里の様子について一番印象に残っているのは、弱った雀が倒れていた時だ。確かにあの時の光里は何か変だったし、苦悩しているようにも見えた。
 でも……。もしかしたら、おかしなところは他にもあったんじゃないだろうか。
 花火祭りの時も。買い物の最中も。学校で会っていた時や、文化祭の打ち合わせの時。すれ違った時、隣で歩いていた時……。
 何気ないと思っていた日常の中で、
 僕の気づかないところで、
 もしかしたら光里は……ずっと悩んでいたんじゃないだろうか。
 ――陽人から家族を奪ったのは、私だから。
 あの言葉を思い出す。
 事故当時、光里はまだ七歳だ。
 父親は行方不明でおらず、母親に至っては亡くなっている。
 もし最初から、出会った時から……そんなふうに思っていたんだとしたら。
 光里はいったい、どんな気持ちで、覚悟で、僕と笑い合っていたんだろう――。
「僕は……バカだな」
 思い切り、両手で頬を叩く。
「は、陽人……くん?」
「いやこれ、思ったより結構痛いんですね」
 ジンジンと両頬が痺れている。そして多分、赤くなっている。
「……覚悟、決まったみたいだね」
「はい。おかげさまで」
 僕は、光里と向き合いたい。
 これまでのことも。これからのことも。
 全部受け止めて、そして……伝えたい。
 しなければならないじゃなくて、したいんだ――。
「でも! 今日はもう遅いから、明日にするんだよ〜?」
「……わかってますよ」
 出鼻を挫く言葉にムッとしたが、外の様子に合点がいった。
 そんなに時間は経ってないと思っていたのに、窓の外はいつの間にか真っ暗になっていた。雨はかなり弱くなっていて、傘を持っていなくてもなんとか帰れそうだ。それに、夕ご飯の支度もしないと。
「まっ、何かあったらこの美咲お姉ちゃんに相談しなさいな〜」
「期待せずに頼らせていただきますね」
「ちょっと〜!」
 お互いに軽口を言い合い、笑い合ってから僕は席を立ち、病室の扉の方へと向かう。
 本当に、今日は来て良かった。
 直接お礼なんて言うのも恥ずかしいから、心の中でこっそり…………いや――。
「……美咲さん、今日はありがとうございました。またみんなで、お菓子食べましょう」
 病室の扉に手をかけたまま、振り返る。あんまり得意じゃない笑顔を浮かべ、恥ずかしさと悲しさを押し殺して、僕はそんな言葉を投げかけた。 
 特に返事はなかったけれど、彼女は嬉しそうに笑い、手を振っていた。

「速報です。先日蘇ったと噂されていた元女優の一ノ瀬優子さんが、昨日、亡くなっていたことがわかりました――」
 居間のテレビから流れたニュース速報に、結局、僕は夕ご飯を作ることができなかった。

 昨日通った時は、見慣れない景色だった。
 近所にはない平屋。青々と生い茂った稲。歩いたことのない畦道――。
 けれど。二回目ともなれば話は別。真新しさは薄れ、多少なりとも慣れてしまい、気持ちは楽になる。だいたい何事も、二回目は心に余裕があるものだ。
 ――でも。今の僕は、全くの逆だった。
「はぁ、はぁ……」
 寝不足の体に鞭を打ち、必死に足を前へと進める。周囲を気にしている余裕はなく、何度も転びそうになった。でも、走るのを止めるわけにはいかない。
「はぁ……はぁ……」
 肺が痛い。足が重い。
 まだ朝も早く、陽はそんなに高くないのに、僕は全身汗だくだった。いつもなら、「今日も暑くなりそうだな」なんて思いながら朝ご飯を作っている頃。だけど今日は、独特の蒸し暑さや蝉の鳴き声など、汗を滴らせるに十分な夏の気配の中を駆けていた。
「はぁ……ふぅ……」
 住宅街を抜け、田畑を突っ切り、僕はどうにか目的地の近くまで辿り着いた。あとは、この短いながらも急な坂道を登るだけだ。
「ふぅ…………」
 小さく息を整える。ドクドクと脈打っていた胸のあたりが、呼吸に合わせて落ち着きを取り戻していく。まぁそれも、ある一定程度までの話だが。
「……っ、くそっ。やっぱダメか……」
 小休止の間、メッセージアプリを立ち上げてみるも、相変わらず光里のアイコンは沈黙を貫いている。昨夜の鬼電も合わさって、アプリのメッセージ欄はちょっと引くレベルだ。
「……まぁでも、行くしかないよな」
 事情が事情なだけに、こっちも諦めるわけにはいかない。
 昨夜のニュースは、あまりにも衝撃的だったから。

「速報です。先日蘇ったと噂されていた元女優の一ノ瀬優子さんが、昨日、亡くなっていたことがわかりました」
 緊張したような、焦ったような、そんなアナウンサーの声がテレビから聞こえたのは、ちょうど夕ご飯を作ろうとしていた時だった。
「えー、繰り返します。元女優の一ノ瀬優子さんが昨日、亡くなっていたことが――」
 速報なだけに、大した情報はない。けれど、それすら頭に入るのに時間がかかった。
 一ノ瀬優子。光里の能力で生き返った、おそらく最初の人。
 その人が……亡くなった?
 続報のニュースを聞いていくと、死因は病死で、数日前から体調がすぐれなかったらしい。しかし、所々曖昧な報道で、どうやら詳しいことは何一つわかっていないようだった。
 さらに、ネットニュースやSNSでは物凄い数の推測や憶測が飛び交っていた。幽霊説や集団催眠説、人体実験説なんてものまであり、タイトルだけで吐き気がして読むのをやめた。
 直前に病院で美咲さんから諭された手前、光里に連絡することは躊躇われたが、さすがに連絡しないわけにはいかなかった。
 既読すらついていないのにメッセージを送り続け、コール音しかしないのに電話をかけまくった。
 そしてもちろん、光里からは一切反応がなかった。
 どうしようもなくなって途方に暮れていたところに祖父が帰ってきて、かなり心配された。けれど相談できるはずもなく、体調が悪いと言い訳をして自室に閉じ籠った。
 その間。月明かりだけが差し込む薄暗い部屋の中であれこれと考え、思い出していた。
 光里の能力は、一時的に人を生き返らせるだけなのだろうか。
 今日話した七宮さんは、間違いなく生身の人間だった。幽霊や催眠な訳がないし、光里が能力を使うところも見ているから人体実験というのも有り得ない。
 つまり、光里の能力にはまだ僕が知らない何かが隠されている――。
 ……まぁ。だから何だというのか。
 光里と過ごした学校での日々や、ボランティア遠足。花火祭り、買い物、文化祭の準備。どれも、僕の日常に彩りを取り戻させてくれた大切な思い出だ。
 どれだけ考えようと、もはや僕の気持ちは変わらなかった。
 僕は、光里と向き合いたい――。
 これまでのことも。これからのことも。
 光里の能力も含めて、全部受け止めて、そして……伝えたいのだ。
 ――覚悟、決まったみたいだね。
 数時間前に聞いた優しい声が、脳裏で響く。
 僕の、もう一人の姉のような、そんな存在だ。
「大丈夫です。心配しないでください」
 覚悟は、とっくに決まっている。そして――

「はい。どちら様ですか?」
 呼び鈴が鳴り止むと同時に引き戸が開いて、一日振りとなる女性が現れた。
「おはようございます。また会えて良かったです……七宮さん」
 ――それを証明するために僕は、ここにいるのだ。

 早朝の高台に、一陣の風が吹き抜けた。緑の木々を揺らし、枝葉をなびかせて青空へと舞い上がる。それに驚いた小鳥が二羽、鳴き声をあげて何処ともなく飛び去っていった。
「あなたは…………おはようございます。どうしたんですか? こんな朝早くに」
 昨日と変わらない丁寧な物腰のまま、七宮さんは驚いた表情を浮かべた。時刻はおそらく六時を少し過ぎたあたりなので、時間という意味では驚くのも無理はない。しかし、さすがに来た理由がわからないはずがない。
「……ニュースを見て、来ました。その……光里は、いますか?」
「……」
 彼女は何も言わない。何かを考えるように、迷うように、僕のことを見ていた。
「七宮さん。僕は、光里と向き合いたいんです。僕はずっと、彼女と本当の意味で向き合うことを避けてきました。だってそれは、この顔にある傷痕とも、向き合うことになるから……」
 自分の右頬に触れる。乾燥した肌に、少し硬い皮膚の感触。なんだか、久しぶりに触ったような気がした。
「この傷は、昔事故で負ったものです。その時に、家族を亡くしました。その過去を引きずって生きていた時に光里と会って……そして、問われたんです。生き返らせたい人はだれかと」
 あれから三ヶ月しか経っていないのに、随分と遠いことのように感じた。
 それは多分、光里と、笹原と、美咲さんと……みんなと過ごした日々が、それだけ濃かったからだ。
「彼女と向き合うには、僕はこの過去とも向き合わなければいけません。そして薄々、その過去に光里が関わっていることも感じていました。だからこそ……僕は、怖かった。光里と向き合うことが怖くて、逃げていました」
 最初は素っ気なく突き放して、文字通り避けようとした。
 でも彼女は強引で、どんどん踏み入ってきて、笹原もそれに合わせて……気がつけば三人で過ごす日々を心地良く感じていた。
 と同時に。今度はその日々にのめり込むことで、僕は逃げていた。……過去と向き合うことから、目を背けていた。
「正直、今でも怖いです。僕は、僕だけが生き残ってしまったあの事故と向き合うのが……すごく怖い。光里がどんなふうに関わっているのか知るのも怖い。……でも。きっとそれは……光里も同じなんだと、気付きました」
 あの日の夜。月明かりの下に浮かぶ、光里の顔を思い出す。
 彼女は、今にも零れ落ちそうなくらい、涙を溜めていた。
 でも、泣いていなかった。
 目を逸らすことなく、真っ直ぐ、僕を見つめていた。
 それは、どれだけ苦しかったんだろう。
 光里と過ごした日々は、うそ偽りのない楽しさに溢れていた。それは間違いない。きっと彼女も、僕や笹原や美咲さんと過ごした日常を、楽しんでくれていたはずだ。
 でも実は。そんな日々の後ろに、あんな悲しい気持ちを抱えていて……
 その気持ちを我慢して、押し込めて、隠して、笑って、はしゃいで、楽しんで……そして、突然日常が壊れそうになった。そんな矢先に……――
 僕から家族を奪ったのだと言うのは……――どれだけ怖かったんだろう。
「僕はまた、光里と、みんなと、心の底から毎日を楽しみたいんです。だからこそ、そのために、僕は……」
 スッと息を吸う。蝉の鳴き声が、止まった。
「――僕は、光里と向き合いたいんです」
 また、一際強い風が夏の気配を運んできた。
 砂が舞い、葉が舞い、光が舞う。
 そんな中でも動じることなく、七宮さんは僕の目を見つめ続けていた。
「…………わかったわ。少し、待ってて」
 それだけ言うと、彼女はフイッと中に引っ込んだ。しばらくすると、ある一冊のノートを手に戻ってきた。
「それは……?」
「これはね……光里ちゃんの日記」
「え?」
「私は見ていないけれど……光里ちゃんはいつもこれだけは肌身離さず持っていた。これはきっと、光里ちゃんの気持ちのノートなの……」
 七宮さんは神妙な顔でそれだけ言うと、無言でノートを差し出してきた。
「……光里ちゃんは、とっくに家を出たわ。あなたが来たら適当に受け答えをして、そして、『出会った場所で待ってる』とだけ伝えてと言われてるの。これだけ言えば、あとは走り出すだろうからって」
「あいつ……」
 確かに、気持ちの決まっていなかった時だったら、光里の思惑通りに行動していただろう。ったく、どこまでも先回りしやがって。
「橘陽人さん」
「はい」
「光里ちゃんを…………どうか、救ってあげてください」
 今までで一番深いお辞儀に、僕はもう一度返事をしてから……
 ――元来た道へと、駆け出した。

「随分遅かったね」
 その場所に着くと、光里はあの日と同じように制服を身にまとい、小さく微笑みながら立っていた。長く艶やかな黒髪も、陽光に輝くクラスバッチも、あの日と変わらない。違うとすれば、制服が夏服になっていることと、僕が彼女に気づいていることくらいだ。
「まぁ、ちょっとな」
「ふーん……そっか。さっ、学校行こ? 今から行っても遅刻確定だけど」
 僕の曖昧な返答を気にすることなく、光里は短く笑い、そして歩き出した。その様子は、きっと出会った頃なら普通だっただろう。僕も素っ気なくしていたし、彼女も必要以上に訊いてはこなかったから。でも、美咲さんが倒れる前の僕たちからすれば……少し、異常だ。
「訊かないのか?」
 堪らなくなって、僕は思わず訊いていた。
「何を?」
「何をって……遅れた理由とか」
「んー……じゃあ、なんで遅れたの?」
「じゃあってなんだよ」
「訊いてほしそうな顔してたし」
「そんな顔してねー」
「してたよー」
 夏色の日差しの下で交わされる、軽口の応酬。これは前と同じだけど、やっぱりどこかぎこちない。
「訊いてほしそうな顔って、どんな顔だ」
「こんな顔?」
 ムスッとした、どこか不機嫌そうな表情を彼女は作る。
「僕はそんな顔してない」
「えーいつもしてるじゃん」
「だったらヤバいやつじゃねーか」
 僕のツッコミに、ふっと光里の表情が和らいだ。そのまま、二人して顔を見合わせて小さく吹き出す。これは、僕ら二人が過ごしてきた日常の先に築かれた、一場面だ。
「ふふっ。さ、学校いこ?」
 ――でも。僕が望む一場面じゃない。
「いや、今日はサボろう」
「…………え?」
 彼女の顔が、驚きで固まる。
「今日は一日、僕に付き合ってもらうぞ」
 立ち止まっている彼女を追い越して、僕は駅の方へと歩き始めた。

 *

 四月七日。
 今日、やっと彼と話せた。すごく緊張した。
 私は、うまく笑えていたかな。話せていたかな。心配だな。
 私の能力を見せても、信用するまでは生き返らせたい人は教えないって言われちゃった。当然だよね。
 でも。なんとか、彼の家族を生き返らせないといけない。じゃないと、この力を得た意味がない。
 この力については、わからないことも多い。優子さんを生き返らせてわかったこともあるけど、まだ足りない。せめてあと一回は、やらないと。
 優子さん、七宮さん、ごめんなさい。でも私は、この力について知らないといけない。寂しいって気持ちもあるけど、それとは別に、お手紙に甘えさせていただきます。ごめんなさい。
 私はやらないといけない。
 そして、彼自身のことも。

* *

 電車を降り、学校まで続く道の途中を曲がって、住宅街の中をしばらく歩いていく。早朝よりも暑い日差しがさんさんと照りつけており、額からは汗が噴き出していた。
「あちぃな」
「そりゃあ、夏だもん」
「まぁそうなんだけど。でもさ、僕らの通学路にある登ったり降りたりするあの坂道、あれがなかったらもう少し快適に登下校できたと思うんだよな」
「あーまぁ、それには同感かな。なんであんなふうにしたんだろうね」
 ここまで来る途中、意外にも沈黙は少なかった。学校の授業や文化祭の準備の様子、平日の午前中の新鮮さなど、他愛のない会話が僕らの間に飛び交っていた。
 そんな雑談をしつつ歩くこと二十分。住宅街を抜け、多目的グラウンドや田畑を通り過ぎた先にある土手の上に漸く辿り着いた。
「やっぱこの辺りは気持ちいいな〜」
 青空に向かって手を伸ばし、思う存分伸びをする。川から吹き付ける風が肌を滑り、火照った身体を冷やしていく感覚がなんとも心地良い。
「ここって……」
「そう。ボラ遠で来た土手だよ。もう少し行ったら、あのアイス売ってる店があるから食べようぜ」
「陽人……」
 光里はまだ何か言いたげな様子だったが、僕が構わずに歩き始めると後を追うようについて来た。そこからはなんとなく無言でアイスを買い、前と同じように近くの芝生の上に座る。
「美味いな」
「うん。美味しいね」
 川に臨み、夢中でスプーンを口へと運ぶ。バニラアイスのほのかな甘さが口に広がったかと思えば、この暑さで上がった体温に溶けていく。
 ――んーっ! おいしいっ!
 いつかの叫びが、風に乗って聞こえた気がした。ハッとして隣を見るも、黙々とアイスを頬張る光里がいるだけだ。あの時とは違い、満足そうな声も、幸せそうな表情もしていない。でもきっと、こっちが本当なんだ。
「……ねぇ、陽人?」
「ひょっ、え⁉ な、なに?」
 彼女の顔を盗み見ていた矢先に名前を呼ばれ、つい変な声が出た。「アハハッ、なにその声!」と笑われるかと思ったが、光里は特に反応を見せることもなく、川の方を見つめたまま言葉を続けた。
「陽人はさ、あのニュース見たんだよね?」
「……一ノ瀬優子が亡くなったってやつか?」
 僕の言葉に、彼女はこくりと頷いた。
「どう、思った?」
「どうって……メッセージでも送った通り、めっちゃ驚いたよ」
「……そう、だよね」
 光里は俯く。悲しそうな横顔に、ズキリと胸が痛んだ。彼女はきっと、その目的にばかり囚われて、肝心なことを忘れている。
「まぁでも……優子さんは、生き返らせてくれて嬉しかったんじゃないかな」
「え?」
「たとえ短い間だったとしても、理由がなんであっても、多少なり自分に会いたいと思ってくれて、そして会って……成長した光里の姿を見れて、嬉しくないわけないだろ」
 光里の家で見た、七宮さんと優子さんが光里に送ったという手紙。
 きっと二人は、両親を失い、さらに意味不明な能力を持ってしまった幼い光里のことが、心配で心配で仕方がなかった。
 でも、両親を失った喪失感と、未知の能力への恐怖の両方を和らげることは簡単じゃない。それに年齢的にも、いつまで見守れるかわからない。
 だから、あの手紙を送った。
 光里はひとりじゃないと、伝えるために。
 生きているうちはもとより、亡くなってからも彼女の心に寄り添えるように。
 そして何かあった時は、自分たちを生き返らせてもいいのだと。それで少しでも、彼女の心に漂う喪失感と恐怖が薄れるならと――。
「……だから。一度生き返らせるって決めたなら、後悔なんてするなよ」
 彼女には、そのことを忘れてほしくない。生き返らせた理由がどうであれ、光里の気持ちの根底にはあの手紙からもらった心強さがあったはずだ。そして、手紙を書いた二人の気持ちも、わかっていたはずだ。だから――二人の気持ちを無視するような後悔なんて、してほしくなかった。
「陽人……」
 僕が言い終わると、光里はなにやら物言いたげに僕の方を見た。
 あ、まずい。
 その先に続きそうな言葉に思い当たり、僕は慌てて残りのアイスをかき込んで勢いよく立ち上がる。 
「さ、さぁ! 次はまた電車だ! 早く行くぞ!」
「あ、待ってよー!」
 彼女の慌てた声が、キーンと冷えた頭に響く。軽く頭を振って夏特有の頭痛を紛らわし、歩を進めた。
 今は、これでいい。
 まだ……気づかれるわけにはいかないから――。

 *

 四月二十七日。
 やっちゃった。どうしよ。陽人に、気づかれちゃったかな。
 どうしてあんなこと言っちゃったんだろ、私。気をつけてたはずなんだけどな。ここ二週間も大丈夫だったのに。それになんだか、最近楽しくなってきてるような。
 ダメ。ダメダメダメダメダメ!
 この日常を楽しいって思っちゃダメ!
 続いてほしいって思っちゃダメ!
 彼を元気にして、彼の家族を生き返らせるのが、私の役目なんだから!
 彼が元気になってくれてるからって、それが嬉しいからって、私まで楽しんでたらダメ!
 素っ気ないままでもあれこれ気にかけてくれたり、からかってくれたり、笑わせてくれたりするのは、その先にいるのがふさわしい人は、私じゃなくて、美沙さんでしょ! 彼の家族でしょ!
 受け入れてほしいなんて思うな、私!
 私は、陽人に、笑っていてほしいんだ。だから、だから、私は、

* *

 夏の日差しにあてられながら駅まで歩き、さらに電車を乗り継ぐこと二十分。僕たちは、つい三週間前にも来たショッピングモールの入り口の前にいた。
「どうしてショッピングモールに……?」
「んー約束したし、どうせならちょっと良いものの方がいいかなって」
「良いもの?」
「まぁとりあえず行こうぜ」
 まだ納得していない様子の光里を促し、中へと入る。
 そこは、平日の昼間の割にはそれなりに混んでいた。どうやら、一足先に夏休みに入った学生や家族連れが買い物を楽しんでいるらしい。スマホを覗き込んで目当てのお店を探している女子グループに、父親に抱っこをせがむ五歳くらいの男の子、ベンチで休憩している大学生くらいのカップルと、客層も多様だ。
「何買うの?」
「一応、お菓子の予定」
 彼女の質問に答えつつ、スマホに指を走らせる。前来た時は百均やら雑貨やらがメインだったし、普段来ることもないので、当然お菓子を売ってるお店がどこにあるのか知らない。時間もあまりないし、さっさと検索して行かないと……
「んー、だったら一階の中央エリアに、洋菓子とか焼き菓子とか売ってるお店並んでるから、そこ行こうよ」
「え?」
 検索欄に一文字目を打ち込むより早く出た答えに、僕は驚きを隠せなかった。
「ん? どしたの?」
 しかし当の本人は、不思議そうに僕を見ているばかり。いや、だって……
「光里、そんな乗り気になってなかったんじゃ……?」
「んーまぁ、そうだったんだけど」
 僕の疑問に、光里は困ったような笑顔を浮かべた。
「せっかくだし、ね?」
 それだけ言うと、彼女は再び歩き始めた。いつもより幾分早いその歩調に、思わず手に力が入る。
「……ぜってー諦めないからな」
 置いて行かれないように、僕は急いでその背中を追った。

 *

 七月六日。
 サプライズボックスの材料を買いに、陽人とショッピングモールに行った。
 最初は、とても楽しかった。陽人とあちこち回って、くだらない物で笑ったりなんかもして、すごく充実してた。
 ダメだって、わかってるのにな。しかも最後に、あんなの見ちゃうなんてついてない。思い出しちゃうし。
 陽人、なんて思ったかな。不思議がってたし、ここで私が変に接したらダメだよね。いつも通り、いつも通りでいなきゃ。
 うん。いつも通りは、得意だから大丈夫。
 そう、いつも通り。私は陽人と、みんなと過ごしたい。過ごしていきたい。
 あと、少しだけ。もう少しだけでいいから、お願い。

* *

「え〜! これどうしたの〜⁉」
 想像以上の叫び声に、耳の奥が震えた。思わず手で耳をふさぐも、目の前で興奮気味の彼女は声量を抑えるどころか、むしろ食い気味に身を乗り出している。
「あの、もう少し声のボリュームを下げてください」
「え~いいじゃん! 嬉しいんだし~! それに……っ!」
 ショッピングモールで光里オススメの洋菓子、そして特売のポテチを買い、電車を乗り継いで、一日振りに彼女の元へ足を運んだらこれだ。倒れてこの先も危ぶまれる状況だというのに、そんな気配はほとんど消し飛んでいる。
 まぁでも、これでいいのか。
 僕の隣。すぐ近くにある丸椅子には座らず、どこか気まずそうに立ち尽くしている光里の様子を見ると、そう思わずにはいられなかった。
「その……すぐ来れなくて、ごめんなさい」
 光里は、申し訳なさそうに頭を下げた。
 ここへ来ることに、光里は随分と渋っていた。けれど、今の病状や美咲さんも会いたがっていたことを伝えると、戸惑いながらもついてきてくれた。そして――
「もう〜っ! そんなのいいの! 来てくれてすっごく嬉しいよ〜! 光里ちゃん!」
「美咲さん……」
 ひしと抱き合う二人を見て、心の底から連れてきて良かったと思えた。
「……お前、どんな説得したの?」
 ベッドを挟んだ向かい側から、笹原の不思議そうな声が聞こえた。なんでも、まだ姉に付き添いたいからと今日も学校を休んでいるらしい。
「いや。まだ説得できてない」
「は?」
「まぁ……また落ち着いたら説明するよ」
「……わかった。絶対だからな」
「あぁ」
 もっとも。まだ何も解決していないし、先に進んでいるわけでもない。だからこそ、そんな悪友の問いかけに、僕は曖昧に答えるしかなかった。
 それから僕たちは、持ってきたお菓子をつまみながら、楽しいひと時を過ごした。
「それでさ。春ごろのこいつの頑固さとひねくれ具合といったら、もうそれはそれは……」
「うっせーな!」
「あ、ほら。こんな感じでいつも怒っててね!」
「光里も! うっさい!」
「アハハッ!」
 花火祭りの時のように、何気ない会話に花を咲かせて。
「幹也。結局いろいろあって渡すの遅れちゃったけど、これ……」
「えっ! 何これ!」
「サプライズボックス。開けてみて」
「わっ……! え、ヤバッ! すご……」
「気に入ってくれた?」
「ハハハッ……グスッ、ありがと。姉ちゃん……」
 いつの日かに渡せなかった、約束の贈り物を届けたりして。
「それより〜、光里ちゃんと陽人くんさ。うちの幹也の恋バナとか知らない〜?」
「はっ⁉ 姉ちゃん、いきなり何訊いてんのっ⁉」
「いやだってさ〜、光里ちゃんと陽人くんは付き合ってるわけでしょ〜? だったら幹也もそろそろ〜」
「ストップ! 僕と光里はそんな関係じゃ……」
「え? 陽人?」
「え。なに光里、その反応……?」
「おーっと、これは?」
「修羅場か……?」
「……ぷっ。アハハッ! 陽人、その顔!」
「な、なっ、光里……! お前なぁ!」
 いつかの言葉を。
 いつかの想いを……忘れないように。
 顔を赤らめながら、話して――。
「……あれ? 光里は?」
「あぁ。お前がトイレに行った後に、同じようにトイレに行ったと思うんだけど……すれ違わなかった?」
 彼女に、かけがえのない日常を思い出してほしくて――。
「いや、すれ違わなかったけど……」
「あれ? そうなのか。まぁすぐ戻ってくるだろ」
 だからこそ僕はこれまでをなぞって、二人を巻き込んで、過ごそうと思った。そうしたら、彼女も考えを改めてくれると思ったから。
 だけど――。

 *

 七月十五日。
 陽人、ごめん。本当に、ごめんなさい。
 私も、美咲さんには生きていてほしい。そのために、できることならこの力を使いたい。
 でも、でも、できないの。だって、

* *

 その時。ポケットの中でスマホが振動した。
 ほとんど無意識に取り出し、画面に表示されたメッセージを見て、背筋が凍りついた。

 *

 だってこの力は、私の寿命を与える能力だから。

* *

 ≫≫今日はありがとう。本当に楽しかった。もう悔いはないよ。私は、先にいくね。
 二人に断るが早いか、僕は病室を飛び出した。

 幅の違う石段を一心不乱に降っていく。
 そこは、橙色に染まっていた。
 僕は何度、この色を見ただろう。
 そして、考えただろう。思い出しただろう。
 僕にとって、橙色は不吉な色だ。
 真っ先に思い浮かぶのは、炎。家族を失ったあの日を思い起こさせ、僕の顔にその痕を残した、忌むべきものだ。どれだけ日が経とうとも、身を焼かれるあの痛みだけは、記憶の奥深くに根付いてしまっている。
 それだけじゃない。
 橙色は、夕焼けの色だ。
 光里の能力を見た時。彼女に向けられた告白を聞いた時。美咲さんが倒れた時……。
 この色は、僕にとって目を背けたくなるような時ばかりを思い出させる――。
「ひかりぃぃーーーっ!」
 彼女の名前を、全力で叫ぶ。声に驚いたのか、カラスが一羽、夕陽の方へ飛び去っていった。
「おいっ! 聞こえてんだろーーっ⁉」
 相変わらず、墓地に人気はない。幾分か弱まった蝉の鳴き声や、すぐ近くの公道を走る車の走行音ばかりが響いている。でも、彼女がここにいるのは間違いない。
「おーいっ! 勝手に、力なんか、使うなよーっ! 僕は、僕は……そんなこと、一言も、頼んで、ないから、なーーーっ!」
 息も絶え絶えになりながら、僕は最後の石段を蹴った。舗装されていない砂利道に、小石の擦れる音が鳴る。小さな凹凸に足をとられるもなんとか立て直し、僕は再び駆け出した。
 どこだ? どこにいる?
 薄暗い墓地で、僕は必死で辺りを見渡した。足を踏み締める度に、嫌な思考が次々と浮かんでくる。
 もし、光里が能力を使っていたら。
 もし、光里が能力を使い終わっていたら。
 もし、僕の家族が不思議そうに立ち尽くしていたら……。
「くっ……!」
 そんなわけない。まだ大丈夫だ。きっと、大丈夫だ……。
 頭を振って無理矢理思考をかき消すと、僕はさらに足を前へと進めた。
「――っ!」
 視界の先。墓地の入り口がみるみる大きくなっていくと同時に、人影がひとつ、佇んでいた。逆光でその姿はほとんどシルエットだけど、間違いない。あれは――
「光里っ!」
 僕の叫び声に応えるように、その影はゆっくりとこちらを向いた。落ちた影の中でも輝きを失わない瞳が、僕を見据える。
「ふふっ、早かったね」
 柔和な笑みが浮かぶ。嬉しさとも、悲しみとも違う笑顔。あれは……
「うるせー! そんな、何もかも悟ったみたいな顔で笑うなよ!」
 彼女に掴みかからんばかりの勢いで、僕は叫ぶ。その笑みが意味するところを、僕は絶対に認めたくなかったから。
「んーじゃあ、どんな顔をすればいいの?」
 相変わらず落ち着いた口調で、彼女は続けた。無性にイライラして、つい拳に力がこもる。
「素直な表情してろよ。いい加減、そうやって自分の気持ちを偽るのはやめろ」
「……」
 強めの風が吹き、彼女の長い髪がなびく。その細く長いシルエットが彼女の口元を隠した刹那に、笑顔は消えていた。
「……わかった」
 無感情な表情で光里はそれだけを言った。あれほど響いていた蝉時雨も、今ではどこか遠い。
「光里……お前、まさかもう能力を……?」
 数瞬の沈黙の後、僕はここに来るまでに一番気になっていたことを尋ねた。心臓が肋骨の下で、一際大きく脈打つ。
「……ううん。まだ、だよ」
 彼女は少し躊躇うように、首を横に振った。その反応を見て、僕は思わず膝から崩れ落ちた。
「よ、良かった……」
 彼女が能力を使う。
 しかも、今彼女が立っている場所は、紛れもなく僕の家のお墓の前だ。この状況での肯定は、僕にとって最悪の言葉でしかない。
「……どうして?」
 膝立ちのようになっている僕に近づくと、彼女はまた無感情な声で、そう聞いてきた。
「え?」
「だって……陽人は家族を、生き返らせたいんじゃないの?」
 色のない声が、また僕の鼓膜を震わせる。僕は、彼女の顔をしばらく見上げてから、ゆっくりと立ち上がった。
「……確かに、僕は家族に生きていてほしかった。できることなら……生き返ってほしいと、思ったこともあった」
「……だったら」
「でも。僕が家族に生きていてほしいのは、家族が大切な人だからだ。かけがえのない人だからだ。そしてその意味では……僕は君にも生きていてほしい」
「…………っ」
 光里の顔が、一瞬歪んだのがわかった。でも、瞬く間にそれは元の無機質な色を帯び、冷たく僕を見据えた。
「……なんだよ?」
「陽人は……何もわかってないよ」
「なに?」
「陽人、私の日記を読んだでしょ?」
 光里は、事実だけを確認するように淡々と聞いてきた。そこには、日記を読んだことを責めるような色はない。なぜかそれが、無性に僕をイラつかせた。
「……あぁ。読んだ」
「だったら、まだわからないことがあるんじゃない?」
「それは…………」
 図星だった。あの日記のおかげで、光里のこれまでの言動の理由や気持ち、何より光里の能力について知ることができた。決してその内容は良いものではなかったけど、それでも知らないよりはずっとマシだった。
 でも。あの日記には……事故については、ほとんど書かれていなかった。
「……事故について書いてなかったのは、私自身、日記にも書きたくなかったから」
 話しながら、彼女はくるりと身を翻した。
「でも、話すよ。最後だから。陽人には、知っていてもらわないといけない。私のせいで起こった、悲惨な事故の真相を――」
 どこか遠くで、一羽のカラスが夕暮れ時を告げていた。

 十年前、私は母と二人で暮らしていた。
 父の記憶はほとんどない。私が五歳くらいの時に、突然いなくなったと聞いている。
 それ以来、母は病弱ながらも必死に働き、私を育ててくれた。父との結婚は家族に激しく反対されていたらしく、実家に帰るといったようなことはなかった。
 私は幼心に家庭の事情を理解していたので、なるべく母の負担にならないよう、家が暗くならないよう、明るく振る舞っていた。けれど、本当は寂しくて、母のいないところでこっそり泣いていた。
 それは、あの日もそうだった。
 十年前のあの日、私は公園の東屋で涙が乾くのを待っていた。
 母の帰りは遅い。誰もいない部屋にひとりでいたくなくて、私はいつも図書館や公園で時間をつぶしていた。その日も、東屋のベンチの上で私は足を抱え込み、目頭を押さえて、ただひたすらに時間が過ぎるのを待っていた。
 けれど。その日は疲れていたのか、そのまま眠ってしまったみたいで、気がつくとすっかり辺りは暗くなっていた。
 お母さんに怒られる。
 そんな幾ばくかの不安と、それでも早く母に会いたい一心で、私は走って帰った。
「ただいまー!」
 なるべく明るく、元気に私は叫んだ。「何時だと思ってるの!」と怒られるかもしれなかったけれど、私にとっては母に会えるのならそれだけで良かった。
 でも、そんな母の声は聞こえなかった。
 代わりにあったのは……廊下で倒れている、母の姿だった。
 私は、呆然としていた。
 ただただ、呆然としていた。
 ゆすっても起きない。呼びかけても、叫んでも起きない。求めていた温もりを確かめたくて触った母の手は……ゾッとするほど、冷たかった。
 まだ七歳だったけれど、私はすぐに母がもう生きていないことを直感した。
 でも不思議と、泣き喚くようなことはしなかった。……というより、できなかった。
 心の中の何かが壊れていく。
 そんな音にならない音ばかりが頭の中に響いて、目の前が真っ白になっていって……――気がつくと、私はお気に入りの服を着て、独り山道を登っていた。
 そこは、春に母と桜を見に行った場所だった。確かな温もりを右手に感じ、幸せな気持ちに満たされて、心の底から笑い合えた場所。そこに行けば、母に会えると思ったのかもしれない。
 でも、現実は違う。
 降り頻る雨の中、私は無我夢中で山道を登っていた。周囲には誰もおらず、夏なのにすごく寒かった。途中で道に迷い、何度も転んでボロボロになって、時間も場所もわからないまま私はひたすらに歩いていた。
 しばらく歩いていくと、開けた場所に出た。あまり大きくはない、舗装された道路が左右に伸びていた。夜だからか車通りもなく、そこは暗闇一色だった。
 なんで、私はこんなところにいるんだろう。
 全身ずぶ濡れで、お気に入りだったバックも雨でふやけて、髪の先からは水滴が滴り落ちている。とにかく、ひどい格好だった。
 でも、そんなことはもうどうでも良かった。壊れた感情の中、また私は歩き始めた。
 その時、目の前を水が大きく波打った。反射的に身を引くも間に合わず、ずぶ濡れだった全身がさらに濡れた。視線を左にやると、車の赤いテールランプが遠ざかっていくのが見えた。
 そっか。ここが……。
 ――この場所はスピードを出す車が多いから、渡るときは気を付けなさいね。
 お花見に来た時の母の言葉が、脳裏に響いた。と同時に、私の壊れた心の中にたったひとつの感情が戻った。
 お母さんに会いたい。
 その感情の意味するところを自覚しても、全く怖くなかった。むしろ、母に会えるのが楽しみで楽しみで仕方がなかった。続けて走ってきた車のライトに目を細めながらも、私の心は決まっていた。
「ふう……」
 さっき引いた一歩を、私は進めた。泥だらけになった白い靴の中に、じんわりと冷たい水が染みていくのがわかった。
 ――信号が青になったら、まず右を見て。
 少し前に聞いたはずなのに、頭の中に響く声はすごくすごく懐かしかった。
 ――車が来ないことを確認してね。
 変わりない闇の中、私はそっと祈った。
 ――今度は左よ。
 夜の帳の中に舞う小さな光は、希望の光。
 ――最後にもう一度、右を見て。
 母に会うのに必要な、代償の光。
 ――大丈夫なら、手を挙げて渡りましょう。
 その光の中で、母に会えることを祈って歩き始めた…………はずなのに。
 やっぱり、私は怖かった。
 光の中に行くことが……車に、轢かれることが――。
 その後の結果は、言わずもがなだ。
 私を避けようとして車が反対車線に飛び出し、そこへちょうど走ってきた別の車の前へ。衝突はしなかったものの、反対車線を走っていた車は、飛び出してきた車をかわそうとして木に激突。そのままバランスを崩し、崖下に落ちてしまった。そしてそれが……――陽人の家族の車だと、後で知った。
「あ……あぁぁぁ……」
 数十メートル先で揺らめく炎を前に、私は何もできなかった。目を背けるように、一目散にその場から逃げ出した。
 そこから先は、ほとんど覚えていない。無事家に辿り着けたのか、はたまた途中で力尽きたのか。気がついた時には、祖母の家の布団で丸まっていた。
 そして、何がなにやらわからないうちに、お通夜、お葬式、お引っ越し、転校……と環境がどんどん変わっていった。私はただ呆然と、その場の流れに身を任せ続けていた。
 それから暫く経って、自分が置かれている状況を理解すればするほど、耐え難い後悔の念が襲いかかってきた。
 私が公園で居眠りさえしなければ、母は死なずに済んだかもしれない。
 私が飛び出しさえしなければ、山での事故は起きなかったかもしれない。
 私が逃げずにすぐ助けを呼んでいれば、崖下に落ちてしまった人は助かったかもしれない。
 私が、私が、わたしが……――。
 そんな頃だった。
 私が、自身の寿命と引き換えに、生き物を生き返らせる能力を得たのは。
 神様が、私に言っているように思えた。
 自分の命でもって、その過ちを償えと。
 それこそが、私の残りの命の、使い方なのだと――。
 ……ありがたかった。願ったり叶ったりだった。
 高校生になって、陽人のことを見かけて、私の決意は固まった。
 私は、この命に代えて、必ず陽人の人生に光を取り戻させる。
 私のせいで失われた光を。全く元通りとはいかないかもしれないけれど。
 生き返った人が社会復帰できるのかとか、野暮な問題も山積みだろうけど……。
 命さえあれば、
 目の前に、手の触れる距離にいてさえくれれば……
 きっと……――また、笑えるようになるから。
 ……これが私の、
 天之原光里の、
 ――生きる、意味なんだ。

 黄昏時の墓地に、風の鳴く微かな音が響いた。それ以外は、何も聞こえない。燃えるような橙色も身を潜め、少しずつ夜の闇が濃さを増してきていた。
「ひかり……」
 かけがえのない人が紛れてしまわないように、必死に呼びかける。
 でも、思った以上に声は出てくれなかった。
「わかったでしょ? ……十年前の、あの事故の原因は私なの。私が、陽人から家族を奪った」
 一方、彼女の声色は先ほどから全く変わっていなかった。まるで遠い国の物語を読み聞かせているように、淡々と言葉を繋げていた。
「だから、陽人が私に向けるべき気持ちは感謝や好意じゃない。そんな綺麗な気持ちは、私にふさわしくない」
 灰色に染まった声の出所に視線を向けると、目が合った。
「……もう一度言うよ。私は、あなたから大切な家族を奪った。それでも、あなたは同じことが言える?」
 ハッとした。光里の目元には涙が溜まっていた。消え入りそうな陽光を受けて、それは微かに光っていた。
 刹那に、あの日と重なる。
 美咲さんが倒れ、病院に搬送された日。月明かりの下、帰り道で見た彼女の、真剣で、今にも壊れてしまいそうな表情と――。
「――光里」
 ふわりと、いつかの香りが鼻をついた。
 それは、無意識だった。
 自分でも驚くほど反射的に――僕は光里を抱きしめていた。
「は、陽人……?」
「僕も、もう一度言う。素直な表情、してくれよ」
 光里は驚いたように身を硬くしていた。
 意外にも、抵抗はされなかった。思ったよりも細くて、柔らかな感触が制服越しに伝わってくる。僕は、壊れてしまわないように優しく、気持ちが伝わるように強く、手に力を込めた。
「もう一度、言う。いい加減、自分の気持ちを偽るのはやめてほしい」
 光里の話を聞くのが、怖かった。
 彼女の話を聞いて、もし僕が光里を憎んでしまったらと思うと……聞かない方が何倍もいいと思っていた。
 でも。実際に聞いて、生まれた感情は違っていた。
 僕の心の中は……ただただ辛く、悲しかった。
「もう一度……言う。僕にとって光里は……かけがえのない人で、生きていてほしい、大切な人なんだよ……」
 いつまで、独りでいるつもりなんだろうか。
 いったいいつまで、心を偽ってるつもりなんだろう。
 いったいいつまで……自分を苦しめるつもりなんだ?
 いったい、いったい……――
「光里はいつまで我慢しているつもりなんだよ!」
「…………っ!」
 強く胸を押された。咄嗟のことで思わず後ろに身を引くも、その力は随分と弱かった。
 そして。離れて露わになった彼女の瞳からは……涙が零れていた。
「光里……」
「……っ⁉」
 彼女は慌てて目元を拭うも、涙は止めどなく流れ続けていた。
「なんで……どうして……」
 まるで、これまでずっと溜めてきた気持ちが、
「どうして……やっと、やっと止まったのに……っ!」
 溢れているみたいだった。
「光里……」
「私は……っ!」
 絞り出すような声とともに、鋭く睨みつけられる。
「私は……陽人から、家族を……」
「知ってる」
「私は……ずっとそれを、陽人に隠し続けて……」
「あぁ、そうだな」
「そのくせ、一緒にいると少し……楽しいとか、思う時もあって……」
「それはなんか、嬉しいな」
「私は……わたしには……そんな資格なんて、ないのに……」
「いいから」
 僅か数十センチの距離にいる光里を、僕は再び抱き寄せた。夏の暑さとは別の熱が、確かな形を帯びていく。
「確かに、僕は家族を失って荒んだ。毎日が意味のないものに思えて、だれかもわからない相手を恨んで、ひとり生き残ってしまった自分を責めた」
 数ヶ月前まで、僕はそうやって生きてきた。毎日鏡の前でやけどの痕を見つめ、憎しみを忘れないよう心に刻みつけた。と同時に、当たり前だった騒がしさが鳴りを潜めた朝に、言い知れぬ不安と、悲しさと、罪悪感を覚えていた。
「僕はずっと、過去に囚われていたんだ。十年も経ったっていうのに、まだまだ受け入れられてなかった。そんな毎日がずっと続いていくんだろうって、そう思ってた。でも……あの新学期の日に光里と出会ってから、それは少しずつ変わっていった」
 無味乾燥な日々を生きていくのは、正直キツかった。
 一方で、楽だとも思っていた。周囲と距離を置いて、過去だけを引きずり、漫然と生きていく。これ以上、得るものもなければ、失うものもない。起伏の無い、平坦な人生を送っていくだけでいい。
 でも、そこに光里は現れた。
 彼女の言葉は、僕の人生を根幹から揺るがしかねないものだった。
「いきなり現れたかと思えば、不思議な能力を見せつけられてさ。さらに、あなたの生き返らせたい人はだれなんて訊くもんだから、マジでびっくりした」
「……だって、それは……」
「ああ、わかってる。多分、僕も同じ立場だったら同じことをしただろうから。あの場では突き放したけど、あの言葉で僕は確かに考えたよ。僕の生き返らせたい人について、さ」
 もし死んでしまった人が生き返るなら、だれを生き返らせるだろう。
 普通なら、身近な人。家族や親戚、恋人、友達などがあるだろうか。そしてもちろん、僕にとってもそれは同じだった。
「やっぱり、家族を生き返らせたいって思った。また、父さんにキャンプで火熾しを教えてもらって、母さんの料理の手伝いをして、姉ちゃんとあれこれ馬鹿な話をしたいって、思った」
「なら……!」
「でも! それから光里と過ごした日々も楽しかったんだ!」
 腕の中で響いた彼女の言葉に被せるように、僕は叫んだ。
「今まで対して話したこともないのに、いきなり朝に挨拶してきたり昼に弁当誘ってきたりして、ほんと何なんだよって思った。笹原もそれに乗っかってさ、僕の意見なんてそっちのけで机くっつけて食べだすし、話も雑に振ってくるし。ボラ遠の時もなぜか合流することになって、いつの間にか寄り道してアイス食うことになってるし。その後も、こっちが一方的に避けても絡んできて、仲直りしてからも強引で、真っ直ぐで……」
 早口にまくしたてた。というより、気持ちが口をついて溢れてきた。一度溢れるとそれは止まらなくて、止まってくれなくて……
「そんな、非日常的な日常が……僕はいつの間にか、楽しいと感じてしまってた。最初はあんなに煩わしくて、面倒くさかったのに。周囲との接点なんて、必要最小限で良かったと思ってたのに……。僕は、光里や笹原や美咲さんと過ごす日々が、本当に楽しかったんだ」
 抱き締めていた腕の力を弱めて、彼女を離す。遠ざかっていく温もりを惜しみつつも、僕はこれまでの彼女のように真っ直ぐ、その瞳を見据えた。
「だからこそ。僕は光里の命を犠牲にして、僕の家族を生き返らせるなんてことはしてほしくない。僕は、光里のおかげで過去に囚われていた日常を変えることができた。今が楽しいと思えるようになった。そして、これからしたいことだって考えるようになった」
 何度もドキドキさせられた彼女の瞳は、まだ潤んでいた。今だってドキドキしている。でも、もう目を逸らすことはしたくない。
「だから光里も、どうか前を向いて生きてほしい」
 強く、強く願いながら、僕は想いを吐露した。
 どうか、届いてほしい。
 どうか、思いとどまってほしい。
 どうか、どうか、どうか……――。
 無意識に、日記の内容が頭の中にイメージとして蘇った。
『だってこの力は、私の寿命を与える能力だから。』
 薄く、弱々しい文字で、ノートにはそう書かれていた。そして、
『私は、自分の寿命全てを使って、陽人の家族を生き返らせたい』
 日記の最後は、そんな言葉で終わっていた。だから、どうか…………
「陽人」
 光里の声が、すぐ近くで聞こえた。
「ごめんね。ありがとう――」
 そんな言葉とともに、淡い光が急速に、目の前を覆い尽くしていった。

 何が起こっているのかわからなかった。
 いや。初めてならまだしも、僕は何度かそれを目の当たりにしている。彼女と出会った新学期の日や、七宮さんを生き返らせた日に。
「ひか、り……?」
 口から零れたつぶやきが、闇の中に溶けていく。いつの間にか、辺りはすっかり暗くなっていた。空には煌々と月が輝き、わきの茂みからは虫の音が響いている。ぽつぽつと点在する街灯も、そこから伸びる細長い影も、何もかもがいつの日かに見た光景だった。
 でも。僕の視線の先には、そんな暗闇に決して紛れることのないか細い光が、確かにあった。
「ほんとに、ごめんね……?」
 淡い光の先で、彼女は涙を流しながら困ったように笑った。一緒に過ごした日常で、失敗した時や何かを誤魔化したい時に時折見せた笑顔と似ていた。そんな時、僕は決まって「しょうがないな」なんて思いながら、彼女に呆れた視線を送っていた。
 だけど、今は無理だ。とてもできそうにない。だって、だってこれは――
「光里……! お前、まさか能力を……っ⁉」
 叫んだ勢いのまま、僕は彼女の肩に掴みかかった。
「うん。実は、陽人がここに来てくれた時から使ってた。寿命の桁が違うからか、ようやく光り始めたけどね。……陽人だったら、もしかしたら、私の決心そのものを変えちゃうんじゃないかって、思ったから」
 一方彼女は、特に驚くふうでもなくそう答えた。声は落ち着いていて、言葉もずっとはっきりしている。でもそれは、今目の前で涙を流し続けている表情とは、ひどく対照的だった。
「それって……」
「……うん。もし能力を使ってなかったら、私はこれからも生きたい、生きていたいって、思ったかもしれない」
 彼女は涙を拭うこともせず、そんな言葉を吐いてきた。
 ……なんだよ、それ。
 イライラした。でもこれは、怒りじゃない。悲しみだ。手が震えて、足が震えた。息が苦しい。頭が、クラクラする……。
 その時。一際強く、彼女の背後で光の粒が輝きを増した。驚いて目を向けると、人の輪郭のようなものが薄っすらとできあがっていた。
「おい! 今すぐやめろよ! やめてくれ!」
 我に返った僕は、彼女の肩を揺らして必死に叫んだ。
「無理だよ。やめられない。もう……止められないの」
 でも、彼女は頑なだった。何度叫ぼうと、何度その肩を揺らそうと、光里は首を横に振り続けた。そうこうしているうちにも、光はみるみる濃さを増していく。
「嫌だ! 頼む、頼むから……やめて、くれよ……」
 焦りが心を支配していく。もはや、懇願するしかなかった。
 目の前が揺れた。目頭が熱い。なんだ、これ。光のせいだろうか。……いや、違う。これは…………涙だ。
「ね、ほら。泣かないで。これは、陽人のためだけじゃない。私のためでもあるんだから」
「光里の、ため……?」
 意味が、わからなかった。
「うん。私も、生きていてほしいって思うから。見ず知らずの私に、あんなに親身になって話を聞いてくれて、甘えさせてくれて、優しくしてくれた……美沙お姉さんに………………」

「――ここは……?」

 懐かしくて、憎たらしくて、愛おしい声が…………光里の背後で、静かに響いた。


 あの日は、雨だった。
 頻りに雨音が響く病室で、僕は姉を看取った。
 彼女の顔はなぜかとても安らかだった。
 たくさんしたいことがあっただろうに。
 苦しくて、痛くて、辛かっただろうに。
 姉の死に顔は、笑っているんじゃないかと思うくらい、穏やかだった。
「……ここは、お墓? それに…………陽人?」
 あの日。何度願っても返ってこなかった声が聞こえた。どれほど強く願っても、どれほど強く手を握っても、どれほど強く叫んでも返ってこなかった声が、言葉が、すぐ近くで聞こえた。
「ねえ……ちゃん?」
「……あはは、やっぱりそーだ。相変わらず、マヌケな顔してる」
 ウソだと思った。
 そんなはずがないと思った。
 けれど。現実だった。
 光里よりも短いショートな髪に、少し垂れた大きな瞳。
 よくチャームポイントだとか言っていた口元のホクロも、幾度となく喧嘩の種となった憎まれ口もそのままに、手を伸ばせば届くような距離で、姉は笑っていた。
 でもその輪郭はまだ曖昧で、薄らと透けていた。顔は比較的はっきりと見えるが、それ以外は目を凝らしてどうにか見える程度。白と黒のラフなボーダーTシャツに、デニムのショートパンツという姉らしい格好をしているとわかるのは、きっとあの日一緒の車に乗っていた僕と、僕の両親くらいだ。
 そして。姉の顔もあの時のままだった。僕と同じ十七歳の、高校二年生の、ままだった。
「……くっ!」
 心に芽生えた感情に戸惑った。
 それは、嬉しさと恐怖だった。
 待ち望んでいた声が聞こえて、僕の名前を呼んでくれて、変わらない笑顔を向けてくれて……すごく、嬉しかった。今すぐにでも、抱きつきたかった。泣き喚きたかった。甘えたかった。
 でも……。
 今、腕の中にある感触に、僕は恐怖していた。
「おい、光里っ!」
 必死で名前を叫ぶ。彼女は、軽く僕に寄りかかっていた。どうやら力が入らないみたいで、立っているのがやっと、という感じだった。
「ハハッ……やっぱり、一気に何十年分も寿命をあげようとすると、キツいね……」
「だから、やめろって!」
 よろめく彼女をどうにか支える。手足が震えていた。男子とは違い、華奢で細い手足だ。強く握りすぎたりなんかすれば、すぐに壊れてしまうんじゃないかとさえ思う。
 でも、彼女はそんな手足で自らを叱咤し、重い過去を抱えて、ここまで来ていた。今だって、苦しそうなのにまだ、能力を使っている。
 僕は、どうすればいい?
 何をすれば……光里を止められる?
 生き返らせられている姉が目の前にいるにもかかわらず、僕は懸命に光里が生きるための術を、能力の使用を止めさせる方法を、考えていた。
 その時、なんとなく変な感じがした。
 それは、本当に感覚的なものだった。
 光里から発する何かが、微かに……弱まった気がした。
「はぁ……はぁ……あと、少し……」
「おい、光里っ!」
 もう、どうしたらいいかわからなかった。
 光里は僕の言葉に頷くことなく、能力を使い続けている。最初は彼女の周囲をチラチラと舞っているだけだった光の粒も、その密度をさらに濃くしていた。
 止められないのか。
 もう、光里と……みんなと、楽しい日々を過ごせないのか。
 悔しかった。悲しかった。
 どこで間違えたんだろう。
 どうすれば良かったんだろう。
 これから、光里の能力で家族が生き返る。だからこそ……僕の心の中は真っ暗だった。
「まったく……。本当に成長してないんだから。陽人も……ひーちゃんも――」
 突如、光が弾けた。
 と同時に、あれだけ濃く深く舞い上がっていた光の粒が霧散していく。
「え……?」
「どう、して……」
 呆然とする僕と光里の傍らで、微かに輝く姉が見下ろしていた。

「なんで……どうして……」
 すぐそばで、光里が取り乱していた。同じ言葉を繰り返したかと思えば、初めて会った日のように祈るポーズをとったり、なにやらつぶやいたりしている。でも、その身体から光が溢れることはなかった。
「ひーちゃん、こっち向いて?」
 すると、少し上から声が降ってきた。さっき僕へ向けてきた小馬鹿にする感じではなく、子どもをあやすような優しい口調だった。
「みさ……おねえさん……」
 声のする方へ、光里が頭をもたげる。
「そうそう。なぜか今、私は少し浮いてるみたいだから、ちょっと首が痛いかもしれないけれど我慢してね?」
「グスッ、なんで……なんで生き返らないの!」
「ほーら。そうやって、すぐ叫ばないの」
 ふわりと姉はこちらへ近づいてきて、僕もろとも光里を抱きしめた。でも、不思議と感触は微塵も感じられなかった。
「だって……私はあなたに、美沙お姉さんに生きてほしいの! 卑怯な私なんかより! ずっと優しくて、ずっと温かくて、ずっとずっと陽人のことを思いやれる……美沙お姉さんに……!」
「こーら。またそんなこと言わない」
 姉は、ひと息に捲し立てた光里の頭にチョップをかました。
「本当にもう。あれから十年くらい経ってるんでしょ? 少しは成長してないと、心配になるでしょーが。そこのヘタレ陽人も同様」
「は?」
 いきなり向けられた矛先にカチンときて、つい語気が強くなる。けれど、昔のようにすぐ言い返せるような余裕はなかった。
 突然光里の能力は止まるし、急に光里を「ひーちゃん」呼びして親しげに話し始めるし、本当にわけがわからない。
「だってそうでしょ? いつまでも過去を背負いこんで自分を責めてたかと思えば、今度は立ち直ったのになかなかひーちゃんに素直になれない弱虫弟」
「おい」
「アハハッ、ジョーダンよ。あんたのおかげで、こうして私は彼女から渡されそうだった寿命を拒絶できたんだし」
 サラリと、日常会話でもするみたいに姉は衝撃的な言葉を吐いた。
「寿命を……拒絶?」
「そ。生き返らせるための条件にも入ってたんじゃない? 相手のことを強く想うとか、決して迷いを持たないみたいなのが。でも、あんたのおかげでその信念がぐらついた。だから、そこは評価しよう。よくやった、ビビりな陽人くん」
「……どつくぞ」
 シリアスな場面だというのに、姉はちょくちょく僕をいじってくる。
 本当に、腹立つなあ。
 忘れていた感情が、懐かしさとともに心に沁みていく。
「そんな……でも、わたし……」
 一方、光里は絶望に満ちた表情をしていた。きっと、あれほど頑なに僕のお願いを拒んでいたのも、この条件を満たすためだったんだろう。
 でも、それが崩れ去った。僕の家族を、少なくとも姉を生き返らせることは、もうできない。
「ひーちゃん。初めて公園で会った日に、私が言ったこと覚えてる?」
 僕に向けたおどけるような雰囲気から一転、姉は優しく光里に問いかけた。光里は目元に溜まった涙を軽く拭い、何度か深呼吸を繰り返す。そして、
「もちろん……。忘れたことなんてない。ベンチでうずくまって泣いてた私に、『たくさん泣いたら、たくさん笑うんだよ』って、言ってくれた」
 ぎこちなく、笑った。
 でも。やっぱりその顔は、ひどく不恰好に思えた。
「そうそう。そしてそれは、なんでだったっけ?」
「頑張ろうって、前を向けるから……」
 光里は不細工な笑顔を浮かべたまま、ポツリと答えた。
 本当に、そうなんだろうか。
 光里の様子に、ついそんなことを思ってしまう。
 泣くのは、辛いから。悲しいから。その後に笑うなんて矛盾してるし、何より簡単じゃない。
「正解。笑顔の力ってすごいの。だから、たくさん泣いたら、たくさん笑って、前を向いてほしい」
 光里の言葉に、姉は満足そうに笑った。その仕草にあわせて、髪が小刻みに揺れる。
「――でもね、それだけじゃないの」
 揺れた髪先に小指を当て、そのまま耳にかけながら、姉は静かに言い切った。
「辛い時、悲しい時、切ない時、寂しい時、苦しい時……それらを乗り越えようと笑うと、どうしても変な感じになる。そして……その違和感に気づいてくれた人を、大切にしてほしい」
 そう言うと、姉は空を見上げた。どこか寂しそうな、そんな眼差しだった。視線の先には半分ほど欠けた月が輝いており、そのせいか星はあまり見えなかった。
「私は、結局その違いに気づいてくれた親友と仲直りする前に、死んじゃったから……」
「それって……」
「うん。笹原美咲。生涯で一番の、私の親友」
 夜空から目を離して、今度は屈託なく笑った。心の底から大切に想っている。それがわかる、綺麗な笑顔だった。
「ごめん、なさい……」
 そこで、光里が唐突に謝った。僕は少しびっくりして、彼女の方を見る。
「ごめんなさい……。私のせいで、美沙お姉さんが悩んで……美咲さんと喧嘩しちゃって……グスッ、そのまま……別れることになっちゃって……」
 しゃくりあげる声が響く。
 光里は知っていたのか?
 美咲さんが、僕の姉について話してくれた時、光里はいなかった。その前の、気持ちを伝えられなかった話の時もそうだ。別の時に、美咲さんから聞いたんだろうか。でも、もしそうなら、光里はずっと……
「ほんとにもう……大丈夫よ。私と美咲は喧嘩別れしちゃっても、お互いの気持ちには気づいてる。美咲も今では整理をつけて、しっかり生きようとしてくれてるみたいだから」
 呆れたように言いながら、「でもね」と姉は言葉を続けた。
「確かに、私は言葉に出して伝えたかった。直接、私の言葉で謝りたかった。お礼を言いたかった。大好きだって、言いたかった。でも、もう言えない。もう私は、美咲に会うことができない。触れることができない。
 でも、ひーちゃんは違う。しっかり向き合って気持ちを伝えることができる。なのに……自分の気持ちに蓋をして、自分から逃げるなんてダメ。もし私や美咲に対して見当違いの罪悪感なんて感じてるなら、代わりにひーちゃん自身が、ひーちゃんの大切な人に、しっかり伝えて」
 真っ直ぐな声だった。
 そして、思った。少し光里と似ている。いや……もしかしたら、光里が真似をしていたのかもしれない。
 この覚悟の決まった鋭い声は、強く心に落ちてくる。突き刺さってくる。沁み込んでくる。
「私の……大切な人……?」
「そ。ひーちゃんの、貼り付けた笑顔の裏を見守ってくれた、そんな人……」
 数瞬の逡巡の後、彼女はそっとこちらに目を向けてきた。ドキリと、心臓が跳ねる。
 脳裏に、夕焼けの空が浮かんだ。
 僕が、彼女への想いを自覚した日。僕は、屋上での告白を目撃してしまい、悲痛な気持ちで空を仰いでいた。
 日常の楽しさを思い出させてくれた光里。
 いつも笑顔で、強引な光里。
 実は不器用で、いろんなことを背負い込んでしまう光里。
 笑顔の裏で、悩んでいた光里。
 彼女に、心の底から笑ってほしいと思った。
 今は、あの時よりも強く、強く想っている。
 もう、僕は失いたくないから。それほど大切な存在だから、僕は光里に生きていてほしい。叶うなら、一緒に生きていきたい。
 彼女も、少しはそう思ってくれているんだろうか――。
「あ、でも今じゃなくていいからね? そういうのはこんなしけた場所じゃなくて、今週末の文化祭が終わった後にでもとっときなさい」
 ……沈黙を破ったのは、促した張本人の声だった。
「……姉ちゃんって、ちょいちょい雰囲気壊してくるよな。あとなんで今週末に文化祭あるの知ってるんだ?」
「え、今さらそこツッコむ?」
 ここに来て一番驚いた顔を見せる姉に、僕は苦笑した。まぁ確かに、さっきまでずっと事の顛末をまるで見てきたかのように話していたから今更感が……
「え、もしかして……?」
「そーよ。あんたが塞ぎ込んでるから心配で心配で、成仏できなかったのよ」
 脳裏に浮かんだ最悪の理由が、まさか本人の口から出てくるとは思いもしなかった。そして、申し訳なさという単語では言い表せられないほどの罪悪感が津波のように押し寄せてきた。
「姉ちゃん……その、ごめん」
「ったく。わかればいーのよ。いつまでもダサい傷痕なんか付けてるんじゃないわよ。治せるなら治してきなさいよね」
「はい……」
「まぁでも、おかげでひーちゃんに言いたかったことは言えたから、これでチャラにしておいてあげる。あ、あと――」
 その時。姉の身体から、消えていた光の粒が舞い始めた。
「え?」
 驚いて声をあげる。しかし、光里の身体は発光していない。まさか……
「あぁ、大丈夫。そろそろ消えるってだーけ。拒絶っていっても、数分間くらい寿命はもらっちゃったみたいだから」
「姉ちゃん!」
「美沙お姉さんっ!」
 何も気にしてないと言わんばかりの調子で話す姉に、僕らは一斉にしがみつこうとする。でも、僕らの指は空を切るばかりで、光の粒が収まることはない。
「もう。ほら! シャンとする! 最期なんだから私の言いたいように言わせなさい!」
 情けない僕らを叱咤するように、姉は叫ぶ。不思議と、その声だけで背筋が伸びた。
「まず、美咲に伝えてほしいことがあるの。あの子のことだから、精一杯生きて、胸張って死んでから私に会いに来るとか思ってると思うの」
「お、おおう……」
 まさに図星だった。確かに、この前美咲さんと話した時にそんなことを言っていた気がする。
「バカなんじゃないの、って叫んでおいて。最期の最期、一分一秒コンマ一瞬まで、生きてやるって気持ちで生きなさいって。まだ生きてるんだから、諦めたようなこと思ってんじゃないわよ! ……って、どついておいて」
「は、はーい……」
 これから消えるって感じじゃない姉の気迫に、光里も縮んだ声で返事をした。本当に、姉らしいな、と思った。
「それと……陽人とひーちゃんも、しっかり生きてね?」
 それでも。どんどん消えていく姉の身体に、僕の心は騙されてくれなかった。
「簡単にこっちに来たり、ましてや寿命を渡して入れ替わったりなんかしたら承知しないから」
 そしてきっと。それは僕のすぐ前で震えている、彼女も同じだ。
「それから、本当にありがとうね。二人のおかげで、私の人生、思った以上に良かった――」
「うそっ!」
 僕が言葉を発するより早く、光里が叫んだ。
「うそ……そんなの、うそだよ……っ! もっと、もっとたくさんしたいこと、あったんじゃないの? もっと知りたいこと、聞いてみたいこと、見てみたいもの……あったんじゃないのっ⁉ それなのに……グスッ、それなのに……っ!」
「光里……」
 まだ足元がおぼつかないらしい彼女を支えながら、そっと抱きしめた。
 彼女だって、もうわかってる。こんなこと言っても、困らせるだけだって。
 でも、言わずにはいられなかった。
 ……そしてそれは、僕も同じだった。
「姉ちゃん……僕も、そう思うよ。なんでそんなに、大人なんだよ。十年前だって、飛び出したのが光里だってわかってたんだろ。だから死に際に、『あの事故を恨まないで』って、言ったんだろ。もっと言いたいこと、あったはずなのに……。なんで姉ちゃんは、姉ちゃんは……っ!」
 今なら、あの言葉の意味がわかる。
 でも、つい最近まで僕は苦しんでいた。恨みたいのに、恨めない。あの言葉のおかげで、僕は道を踏み外さずに歩いてこれたけど……それと同時に、とてもキツかった。
「んーまぁ……私も心残りがないわけじゃないけど、私の生きた意味はあったなって思ったから、満足なんだ」
「生きた……意味?」
「そ。私もね、嬉しかったよ。二人にまた会えて。こうして話せて。想いを伝えられて。
 でも、もっと嬉しかったことがあったの。それは、また私に会いたいって思ってくれたこと。もう一度だけでいいから会いたい。そんなふうに思ってくれる人がいるのは、とてもとても幸せなこと。だってそれは、一緒に過ごした思い出が輝いている証拠だから。例え短くても、私の人生には意味があったんだって思えるから。だから、私を生き返らせたいと思ってくれて……私に、生きていてほしいと思ってくれて、ありがとう……!」
 ほとんど消えかけた手が、僕らの方へ伸びてくる。
「そしてね。それは、私も同じなの。陽人に、ひーちゃんに、生きていてほしい。もっともっと笑って、楽しく生きていてほしい。怒ってもいい。泣いたっていい。立ち止まったって、迷ったって、落ち込んだっていい。それが、生きてるってことだから。そしてまた前を向いて、生きていってほしい。今日だけじゃない。十年前、私と一緒にいた時の二人の顔は、笑っていたし、怒っていたし、泣いていたし、照れていたし、眩しかった。そんな日々を心に留めて、生きてほしいの」
 僕も、光里も、必死に手を伸ばす。
「二人が私に生きていてほしいと思うように、私も二人に生きていてほしいの。
 私の分までなんて言わない。私の人生は、十分すぎるくらい輝いていたから。
 だから。私のお願いは、私以上に人生を輝かせて。あんなに輝いた人生を歩んだ人に、生きていてほしいって思われたんだよって、私に自慢させて。そしていつか、たくさん話して聞かせてね。私はいつまでも、お父さんやお母さんと一緒に見守ってるから。ウジウジしてたら、叱り飛ばしに化けて出てやるからね! わかった⁉ 泣き虫ひーちゃんに、ヘタレな陽人!」
「姉ちゃん!」
「待って……っ!」
 指先が触れる前――。
「ずっと、大好きだから……――」
 夜がまたひとつ、色を濃くした頃に、姉の姿は空へと溶けていった。