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 気がつくと、私は自分のベッドでうつ伏せになって眠っていた。
 頭が痺れるようにぼうっとして、目が腫れているのがわかる。あの後、部屋にこもって泣いているうちに泣き疲れて眠ってしまったみたい。
 結局、部屋のカギは買えなかったけど、幸夜くんも咲仁くんも他の二人も誰も部屋には来なかった。
 気を使われている。
 意味不明な出来事に巻き込まれて、意味不明な前世の話とか神様とか馬鹿みたいな話をされて、でも体験したことが夢物語じゃないと突き付けてくる。混乱した私が落ち着くまで、そっとしていてくれているんだと、みんなの優しさはわかっている。
 でも、わかっているだけ。
 気持ちは落ち着かない。こんな現は実、受け入れられるわけがなかった。

「はぁ……」

 無意識にため息が出る。
 泣いたせいで酷く喉が渇いていた。息をするだけでもかさついて、鼻の奥がツンとする。
 明かりのついていない部屋の中で、蛍光塗料の塗られた時計を見上げる。
 もう夜中の二時だった。
 耳を澄ませてみても、部屋の外から物音や喋り声はしない。花と榴先輩はもう帰ったんだろうか。双子も、もう寝ているんだろう。またリビングで寝ているのか、それとも私がいないから客間で寝ているのかもしれない。
 二人と顔を合わせたくはなかった。
 賭けだったけど、喉の渇きに負けて私はベッドを下りた。

 物音を立てないようそっと扉を押して、廊下を覗いて――声が出そうになった。
 薄く開けた扉の隙間から、幸夜くんの顔が見えた。
 廊下に座り込んで壁に背中を預けている。でも目は閉じていて、布団に包まっている。

 部屋には入ってこない。でも、傍にいてくれた。
 前世の私はパンドラで、エピメテウスっていう神様だった幸夜くんの奥さんだっていう。前世の私は、幸夜くんのことが好きだったのかな? 好きだったんだろうな……
 睫毛が長い幸夜くんの寝顔を見ながら、私はそんなことを考えた。


 私は幸夜くんを起こさないようにそっと部屋を抜け出すと、リビングへ向かった。
 リビングでは、咲仁くんが眠っていた。
 ソファーに横たわって、長い脚が少しはみ出している。薄いブランケットを掛けているだけで、寒そうだった。
 マスクをしたまま険しい顔で眠っているのをそっと起こさないようにキッチンへ向かうと、テーブルの上でスマホのアラームが鳴った。
 その音とバイブの振動に飛び上がって心臓が飛び出しそうになる。
 険しい顔のまま体を起こした咲仁くんがアラームを止めると、目を細めて私を見る。睨まれているような気がして、縮こまる。

「少しは落ち着いたか?」

 声はぶっきらぼうだったけど、掛けられたのは優しい言葉だった。
 私がいることに驚きもせず、最初っからいるのを知ってたみたい。

「なんで、こんな時間にアラームかけてたの?」

 こんな深夜にアラームをかけるなんて、普通は考えられない。
 そう思って聞くと、信じられない言葉が返ってきた。

「おまえが起きてくる時間だからだよ」

「えっ」

 私は、こんな時間に起きてくる習慣はない。今日もたまたまこの時間に目が覚めただけで、アラームをかけていたわけじゃない。
 ブランケットを剥がして、長い足をソファーから床に下ろした咲仁くんが、私の前に立つ。

「俺はそういう能力なんだよ。気持ち悪いか?」

 マスクの下で、咲仁くんが意地悪く嗤っているのがわかった。

「神様って、本当なの……?」

 他の三人と違って、咲仁くんの力は目の当たりにしたわけじゃないから、信じられなかった。今の言葉を信じるなら、未来予知みたいな力なのかなって思うけど、ただ偶然が重なっただけじゃないかって思いたくなる。
 咲仁くんは人間。だったら私もパンドラの生まれ変わりなんかじゃなくて、ただの人間だって思えるから。

「本当。今は人間に身を落としてるから、大した力はないけどな」

 マスクの下であくびをしながら、咲仁くんは私の横を抜けてキッチンへ行ってしまった。
 咲仁くんを追いかけてキッチンに行くと、咲仁くんはグラスを二つ出して、ウォーターサーバーから水を入れていた。

「飲めよ」

 グラスの水に口を付けながら、私にも水の入ったグラスを差し出してくる。
 私も元々水を飲みに来たんだったって思い出す。咲仁くんと喋って、喉は一層渇いていた。

「ありがとう」

 胸の中はもやもやしていたけど、お礼を言ってそれを受け取る。
 水は冷たくて、美味しかった。自分で感じていた以上に喉は渇いていたみたいで、すぐに飲み干してしまった。
 おかわりをしようと思って、咲仁くんの隣でウォーターサーバーのコックをひねる。

「なにも食わずに寝ただろ。なんか食うか?」

「ううん、いい。いらない……食欲ない」

「ちょっとでも何か腹に入れろ。オマエに健康を損なわれると、いろいろ困る。喜久にもどやされるしな」

 これは、私のことを心配してくれてるって思っていいんだろうか。こんなことになったっていうのに、少しだけ嬉しい自分がいることに気がつく。でも、それでも食欲はわきそうになくて首を横に振る。

「花と榴先輩は?」

 泣き叫びながらいろいろ言ってしまった手前、心配されるのも心苦しくて話を逸らす。
 花にも大っ嫌いって言ってしまった。わけの分からない事を言われて、なんだか距離も遠くなった気がして、知らない人みたいで、裏切られた気分だった。

「帰らせた。特に、花の家はおっかないからな」

 キッチンのウォーターサーバーの前に立ったまま、会話が進む。

「花のお母さん、知ってるの?」

 花のお母さんは、本当に強烈だった。たぶん、学校でもマークされている気がする。
 榴先輩が双子のことを知ってたみたいに、噂に――って思ったけど、違う。そうじゃない。本当に噂になっていたのかもしれないけど、でも榴先輩が双子の事を知ってたのは仲間(グル)だったからだ。
 気づいてしまって、グラスを持つ手が震えた。
 花のお母さんには何度も会ったことがある。榴先輩にはキツいし過保護で花は息苦しそうだったけど、私には優しくしてくれた。会うたびに『いつも花と仲良くしてくれてありがとう』って、どこにでもいる普通のお母さんだと思ってた。
 でも、花が女神様だっていうんなら、花のお母さんは……?

「古い付き合いだな……化身の俺らに人間の親はいないが、アイツは正真正銘、花の――ペルセポネの母親、豊穣の女神デメテルだ」

 やっぱり花のお母さんも、仲間(グル)だった。
 花だけじゃなくて花のお母さんまで、私を騙していた。
 他のみんなはどうなんだろう。芽依とか栞里とか正美とか。他のみんなもずっと私を騙してきて、ずっと傍で見張られてきたんだとしたら……絶望的な気分だった。
 花はペルセポネの化身で、花のお母さんもデメテルの化身。
 私がパンドラの生まれ変わりだっていうんなら……

「パパ……は?」

 咲仁くんが言った古い付き合いという言葉。私が学校でパパとどういう関係なのか聞いたときにも返ってきた言葉だった。
 水を飲んだところなのに、喉が渇いて声が上手く出ない。
 怖ろしい。それでも聞かずにはいられなかった。

「喜久はヘイパイストス――炎の神だ」

 体が……心が、バラバラになりそうだった。

「喜久と昔馴染みなのは親じゃない。俺ら自身がだ」

 グラスを持つ手に力が入らなくて、取り落としそうになったのに気づいて咲仁くんがグラスを取り上げてシンクに置く。
 頭のなかに靄がかかったみたいに、現実感がない。
 聞き馴染みのない横文字の名前。私の知っている高良喜久は偽物だったの? ママが男と出て行って男で一つで育てられてきたって思ってきたけど、それも全部嘘? ママも女神様? それともママなんていない? 私はパパが作った陶芸作品の一つなのかもしれない。神様なんだから、そういうことだって出来るのかもしれない。
 パンドラの生まれ変わり。そんなことを言われたってなんの実感も持てないのに、私は私が人間とは違う生き物になってしまったような気がした。

「珠子……」

 いたわる様な優しい咲仁くんの声。咲仁くんに涙をぬぐわれて、私はようやく自分が泣いていることに気が付いた。

「喜久の愛情を疑ってやるな。花の友情もだ」

 優しい手が私の頬に触れる。

「最初は希望の花嫁のために、おまえのそばにいた。それでも、おまえはパンドラとは違う。パンドラとは違う命を、違う人生を歩んだ。魂は同じでも、おまえはパンドラじゃない。喜久も花も、パンドラではなくオマエを――高良珠子を慕っている」

 そう言われても、すぐには納得できない。私はパンドラじゃない。前世の記憶もないし、希望の花嫁と言われてもピンとこない。私とパンドラは別人だ。それは、確かだった。
 パパも花も、パンドラとは別の私を思ってくれている。きっかけはパンドラでも、パパは私のパパで、花は私の親友。咲仁くんが言うみたいに、本当にそうだったらいいのに。
 咲仁くんが私を励まそうとしている。優しい手から、それだけは確かに伝わってきた。

「そもそも、絶世の美女だったパンドラとおまえは似ても似つかないからな」

 濡れた頬を優しく撫でていたはずの手が、私の頬を摘まんだ。
 慈悲に満ちていた眼差しが悪戯っぽく細められ、口元が歪む。

「どうせ私は美女じゃないですよ!」

 しとしとと零れていた涙も引っ込み、デリカシーのない言葉に激高する。
 神々に全てを与えられたなんて肩書きを持つパンドラはさぞやセクシーダイナマイトボディな絶世の美女だったんでしょうよ。平べったい体の地味な女子高生と比べるまでもないんでしょう。
 私はパンドラじゃないと言いつつ、パンドラと混同して見られていると気を揉んでいることがバカらしくなってしまう。

「元気出たみたいだな。やっぱ、オマエはその方がいいよ。人形みたいなパンドラより、俺は百面相のオマエの方が好きだよ」

 微笑む咲仁くんの言葉に、指先まで血が巡るのを感じた。

「私の方が……好き……?」

 思わず復唱した言葉に、咲仁くんの頬にさっと朱が差す。それを隠すように肘で顔を隠す。

「あー……そういう意味じゃねぇ。幸夜に言うなよ。誤解されると、殺されるから」

「う、うん……」

 頷いても、胸がドキドキして全身が熱い。
 口止めはされたけど、好きの言葉自体は撤回されなかった。それが、こんなにも私の胸を熱くする。

「なんにせよ、オマエがパンドラだろうがそうじゃなかろうが好きなヤツはオマエを好いているし、嫌ってるヤツは嫌ってる。どちらにせよ、オマエは希望の花嫁なんだ。胸を張ってろ」

 悪口も、私を怒らせて元気づけようとしてくれたんだとわかる。励ましてくれる咲仁くんに、私は首を傾げて聞いてみる。

「結局、その希望の花嫁って何なの? パンドラの箱とかは知ってるけど、エルピスとか聞いたこともないよ」

 パンドラの箱はいろんなモチーフになっているし私も知っていたけど、希望の花嫁なんて聞いたことがない。

「なんで私はあんなのに襲われたの? パンドラの箱を開けたりしたから?」

 思い出すだけでもゾッとする、奇妙な生き物。あんなのに狙われる心当たりなんて、私がパンドラの生まれ変わりというのが本当なら、箱を開けて災いをぶちまけたからだとしか思えなかった。
 でも、咲仁くんはそれを即座に否定した。

「違う。それは関係ない。災厄が世界を覆ったのは、オマエのせいじゃない。全部、キメラをけしかけたヤツの思惑だ」

 パンドラが災いを招くように差し向けた人と、私にキメラ――たぶん、あの化け物のことだ――を差し向けた人が同一人物。
 私の前世っていう時代から誰かが関わっていると思うと、空恐ろしい気がした。

「思惑を外れて、オマエが希望の花嫁になったから、だから命を狙われている」

 命を……
 薄々感じてはいたけれど、改めて言葉にされると恐怖が身に染みる。

「それで、エルピスの花嫁って……」

「明日、花から説明させる」

 更なる説明を求める私に、遮るように言葉を重ねてくる。

「どうして?」

 どうして今説明してくれないんだろう。どうして、咲仁くんじゃなくて花が説明するんだろう。
 不思議に思っていると、更に不思議な答えが返ってきた。

「異性の俺から聞くより、花の方がいいだろ」

 更に追求したかったけど、私も疲れてしまっていた。
 明日花からというのを受け入れて、私は部屋に戻って再び眠りについた。