*
シャワーを浴びながら、さっき擦りむいたはずの両ひざと両手を見る。
こびりついていた血を流すためにボディーソープで洗ったけど、しみたりもしなかった。
泡を流した後に、傷は一つもない。誰かの血がついてしまったようにただ表面に血がついていただけで、転んだ時の感触も痛みも全部夢のようだった。
「どう? ちょっとは落ち着いた?」
まじまじと怪我の消えた体を見ていると、脱衣所に続く曇り戸がノックされる気配がした。
慌ててシャワーを止めると、花の声がした。
「うん。……花も次入る?」
「私はそんなに濡れてないから。タオルだけ、もう少し借りるね」
花も傘を差さないでいたから、濡れているはず。そう思って声をかけたけど、断られてしまった。
「好きなだけ使って」
「ありがとう」
曇り戸に映る花の影が立ち去るのが見えて、私は再び蛇口をひねってシャワーを浴びる。
熱いお湯で、雨で冷えた体が温まる。
怪我が治ってるのは、たぶん花がやったんだ。
花の手が光ったように見えたのは、きっと気のせいなんかじゃない。榴先輩もオオカミに変身するし、幸夜くんも水を操っていたし、信じられないようなことばかり。
お風呂場に立ち込める湯気を眺めながら、考えようとするけれど、考えてわかるようなことじゃない気がした。
小さくため息をついて、温まった体を動かして蛇口を締めると脱衣所への扉を開く。
そして――目が合った。
「きゃああああああああああ!」
悲鳴を上げた私はすぐに扉を閉めて、再び湯気の中へ舞い戻った。
しゃがみこんで、裸の体を抱える。
目が合ったのは、咲仁くんだった。
着替えている最中だったのか上半身裸でズボンも緩めていて、驚いた顔が目に焼き付いている。目に、焼き付いて……
咲仁くんの右のわき腹に、大きな傷跡があった。手術の跡みたいなのとは全然違う。大怪我したのをそのまま放置して、治っただけみたいな深くえぐれた傷跡。
赤くなった体が青ざめる気がした。
でも、目が合ったってことは咲仁くんもバッチリ私を見ていたっていうこと。半裸の咲仁くんが、全裸の私を見ていた。なんてこと!
「珠子ちゃん、どうしたの? 大丈夫!?」
「大丈夫! 足が滑りそうになっただけ!」
騒がしい足音の後に聞こえてきたのは幸夜くんの声だった。私の悲鳴に飛んできてくれたみたいで、申し訳ないやら恥ずかしいやらで複雑。まさか本当のことを言えるわけもなくて、そう言って誤魔化した。
「……幸夜、着替え中なんだが」
「なにを今更。僕と兄さんの仲じゃない」
私に続いて幸夜くんにまで半裸を見られた咲仁くんが苦情を言っていたけど、幸夜くんは軽く流していた。
「怪我してなぁい? なにかあったら、すぐに呼んでね」
「う、うん。大丈夫。ありがとう」
曇り戸に幸夜くんの影が映って、優しく声をかけてくれる。嘘をつくのは気が咎めるけど、その優しさを受け止める。
私の返事に満足したようで幸夜くんは立ち去って行った。
曇り戸越しに、私と咲仁くんだけが残される。
「俺はちゃんと声かけたからな……」
「シャワー中に聞こえるわけないじゃん!」
呆れたように言われても、自分に非があるとは思えなかった。
他にも客間とかいろいろあるのに、わざわざ私がシャワー浴びてるところで着替える方が悪いと思う。
「まあ、安心しろ。オマエの平べったい体に興味なんかないから」
「そういう問題じゃない!」
大声で怒鳴りたかったけど、また幸夜くんが来るかもと思うと控えめになるしかなかった。
怒りと羞恥で手が震える。
興味がないからって見られてセーフな気持ちにはならないし、体型わかるぐらいにはしっかり見たって言われてるようなものだし、本当に本当に……!
お風呂場の床に座り込んで、顔を覆ってジタバタしてしまう。
叫びだしたいような気持ちを抑えながら、呼吸を整える。
「……怪我とかは、してない?」
温まった体が少し冷えてきて、それにつられて頭も少し冷えてくる。
今更見なかったことには出来ないし、恥ずかしがっていても始まらない。
見なかったことに出来ないのは、私も同じ。咲仁くんの、あの傷跡――古そうだったし、さっきのライオンにつけられた物ではないとは思うけど気がかりだった。
「そんなヘマはしない」
扉の向こうから聞こえてくる、平静な声に少し安心する。
「……助けてくれて、ありがとう」
お風呂の戸を細く開けて、体は見えないように顔だけ覗かせる。ちゃんと、目を見てお礼を言いたかったから。
「なに。お礼に見せてくれんの?」
見えたのは、いじわるそうな笑顔。
「見せるわけないでしょ!」
扉を勢いよく閉めて憤慨していると、咲仁くんが声をかけてくる。
「俺の力は戦闘向きじゃない。実際に戦ったのは、ほとんど幸夜だ。礼を言うなら、アイツに言ってやれ」
「うん……でも、ありがとう」
すぐそこに、咲仁くんがいる。扉越しに、咲仁くんの気配を感じていた。
シャワーで体を温め直している間に、咲仁くんは着替えを終えたようでいなくなっていた。
私も着替えて髪を乾かし、リビングに戻る。
リビングの扉の前に立つと、みんなの話し声が聞こえてきた。
なにを話しているのか内容まではわからなかったけど、みんな揃っている。
ドアノブに手をかけて、意を決して開く。
ソファーに座ったみんなの視線が、いっせいに私に向いた。
「珠子ちゃん!」
幸夜くんが真っ先に立ち上がって、私に駆け寄ってくる。
「ごめんね。怖い思いさせて……」
私の手を握って眉をハの字に寄せている幸夜くんに、申し訳ない気持ちになる。
二人が一人で帰ることを許さなかったのは、こうなるってことが分かっていたからなんだろう。一人になったら化け物に襲われるなんて言われても信じなかっただろうし、強引だったのも仕方がないことだったんだと思う。
「ううん。助けてくれて、ありがとう」
謝る幸夜くんに首を振って、幸夜くんの向こうにいる三人を見る。花は立ち上がっていて、胸の前で手を組んで祈るように私を見ている。咲仁くんと榴先輩は、落ち着いた様子でソファーに腰かけたまま。
「花も、榴先輩も……ありがとうございました」
咲仁くんにはさっきお礼を言ったから、今度は花と榴先輩に頭を下げる。
「当然のことをしただけだ」
「お礼なんて、言わないでっ!」
榴先輩はいつもと変わらない様子だったけど、花は今にも泣きそうにしていた。
「ごめんね、珠子ちゃん。こんなことになるなら、ちゃんと話しておけばよかった」
「極東まで来た甲斐がなかったな」
落ち込んだ様子の幸夜くんの向こうで、ソファーに座った咲仁くんがそっぽを向いて憮然としていた。
「でも、今まで無事でいてくれてよかった」
私の手を握る幸夜くんの手に力がこもる。
「とっくに、見つかってはいたんだろうな。それが……」
「僕と接触したから、だ」
榴先輩の言葉を受けて、幸夜くんの唇が白くなっている。
こんな顔をした幸夜くんに問いただすのは気が引けるけど、それでも私は聞かなきゃいけない。
私の身に何が起きているのか、みんなは――何なのか。
「ちゃんと、教えて……」
奇妙な生き物、奇妙な力。
信じられないようなことしか告げられないと、それを受け入れる覚悟を決める。
「……僕らは、神話の神々の化身なんだ」
幸夜くんは言いにくそうに、俯きがち言う。
「星座にもなってるから、ちょっとは聞いたことあるかな? ギリシア神話として語られる世界の神様」
――神様。
ファンタジーな話をされる覚悟はしていたけれど、突拍子もない話に現実感がわかない。
「僕はエピメテウス」
「俺はプロメテウス。人類に炎を与えた先見の神――といっても、ピンとこないだろうな」
幸夜くんと咲仁くんが名乗ってくれるけど、咲仁くんが言うみたいに横文字の名前を言われてもよくわからない。
「花と榴の方が、日本じゃ有名だろ。榴は冥府の神ハデス、花はその妻ペルセポネだ」
咲仁に紹介されて、花が恐縮するように肩をすくめる。
ハデス――さすがにその名前は私でも知っていた。
ゲームとかアニメとかでよく登場してくるメジャーなギリシア神話の神様。
ペルセポネも、乙女座のモデルになった女神様だって聞いたことがある。
「知ってる、けど……」
けど、やっぱり急にそんなこと言われてもどう反応したらいいのかわからない。
神話の神様だなんて言われても実感がわかなくて、花と榴先輩が恋人じゃなくて本当は夫婦だなんて、そっちの方がまだ現実味のある話としてインパクトがあった。
「知っててくれて光栄だが、今回の件、俺たちはそう深くは関わっていない。俺らはただ、パンドラの魂を今世に運んできただけだ」
榴先輩が補足するように言ってくる。
新しく出てきた横文字の名前。その名前にも、聞き覚えがあった。
パンドラ――パンドラの箱――災いを封じた箱を開けてしまい、世界に災厄を招いてしまった女性の名前。
災いが飛び出した後、箱の中には希望が残っていたという神話は知っている。
「パンドラは、神々に全てを与えられた人類最初の女性。地上で暮らす僕エピメテウスの元に、最高神ゼウスから贈られた花嫁」
幸夜くんが私の手を取り、私の知らない神話の話をする。
幸夜くんの色の薄い瞳が、真っ直ぐに私を捉えて目が離せない。
そして幸夜くんは、今までの話の中で最も信じられないことを告げた。
「珠子ちゃん。珠子ちゃんは僕の妻、パンドラの生まれ変わりなんだよ」 私がパンドラの生まれ変わりで、私の前世は幸夜くんの妻……
信じられない話だったけど、幸夜くんがなんで私なんかを? という疑問の答えは見つかった。幸夜くんは、私じゃなくて……
「災厄は解き放たれてしまったけれど、希望はまだ君の中に残ってる」
幸夜くんが私の前にひざまずき、恭しく私の手の甲に口付けをして告げる。
「君は――希望の花嫁なんだ」
「エルピスの花嫁……?」
「そう、希望の花嫁」
聞きなれない横文字を復唱すると、幸夜くんが言い直してくれる。
幸夜くんはエピメテウスとかいう神様の化身で、その妻だったパンドラが私の前世で、希望の花嫁だとか言われても……
「……意味わかんない」
幸夜くんから距離を取ろうとしても、ひざまづいたまま幸夜くんは私の手を強く握っていた。
「まあ、こうなるよな」
咲仁くんが嗤い交じりに言う。
「やはり、幼いうちから言い含めておいた方がよかったのでは?」
「それはない!」
榴先輩の言葉に、幸夜くんが剣幕に振り返って榴先輩を見る。
「こんなことにならなきゃ、珠子ちゃんは何もしらないまま僕と幸せになれたんだから」
私の話のはずなのに、私にはなにもわからない。
「それが一番いい未来だったが、一番実現は低いと言っただろ」
咳混じりに話す咲仁くんに、幸夜くんの顔が曇る。
「みんな、なに言ってるの? 私がパンドラの生まれ変わりだとか、希望の花嫁だとか」
人違いだとしか思えなかった。
確かにパパは陶芸家で高校生で一人暮らししていたり、ちょっと変わった家庭環境かもしれないけど、でもそれだけ。
「みんなみたいに不思議な力もないし、私はただの人間だよ」
水を操ったり、先を読んだり、怪我を治したり、獣に変身したり……そんなファンタジーな設定、私は持ってない。
「言っただろう。パンドラは人類最初の女だ。神の贈り物を持っていても、なんの力もないただの人間だ」
でも、それは私がパンドラじゃない証明にはなってくれないみたいだった。
跳ねのける咲仁くんの言葉に、幸夜くんに握られた手が震える。
「俺が冥府から魂を運んで宿した。間違えるはずがない」
「ずっと傍で見守ってきたんだもの。貴女がパンドラよ」
榴先輩にも畳みかけられて、その横に立つ花にまでそう告げられる。
よく見知ったはずの二人なのに、なんだかいつもと違う人みたいだった。
「貴女って、そんな呼び方しないでよ!」
気づいたら、悲鳴みたいな声を上げていた。
幸夜くんの手を振りほどいて、涙で視界が歪んでいく。
花は小学校からの仲だった。
塾で出会って、一緒に勉強したりして、大切な人だって榴先輩も紹介してくれて、誕生日だって一番に祝ってくれたのに……ずっと見守ってたって、なんなの? ずっと、友達だと思ってたのに……
「私はパンドラなんかじゃない!」
叫んだ瞬間、頬を涙が伝った。
「みんな、勝手なことばっか言わないで」
「珠ちゃん……」
花がいつもみたいに私を呼ぶ。でも、それが許せなかった。さっきは貴女なんて他人行儀な呼び方したくせに。
「馴れ馴れしく呼ばないで!」
私の叫びに花が目を見開いて、その目に涙の膜が張っていくのがわかった。でも、その膜が決壊する前に花は榴先輩の方を向いて顔を隠してしまった。そんな花の肩を、榴先輩が優しく抱き寄せる。
いたわる様な榴先輩の眼差しが、花じゃなくて私の方に向けられる。
余計に、胸のなかがぐちゃぐちゃになる。
「珠子ちゃん、落ち着いて……」
幸夜くんが差し出す手を振り払う。
「花もみんなも、大っ嫌い!」
咲仁くんもなにかを言いかけるのが視界の端に見えて、私はそれを遮るように言い捨てる。
踵を返してリビングを飛び出すと、背後で大きな音を立てて扉が閉まった。
シャワーを浴びながら、さっき擦りむいたはずの両ひざと両手を見る。
こびりついていた血を流すためにボディーソープで洗ったけど、しみたりもしなかった。
泡を流した後に、傷は一つもない。誰かの血がついてしまったようにただ表面に血がついていただけで、転んだ時の感触も痛みも全部夢のようだった。
「どう? ちょっとは落ち着いた?」
まじまじと怪我の消えた体を見ていると、脱衣所に続く曇り戸がノックされる気配がした。
慌ててシャワーを止めると、花の声がした。
「うん。……花も次入る?」
「私はそんなに濡れてないから。タオルだけ、もう少し借りるね」
花も傘を差さないでいたから、濡れているはず。そう思って声をかけたけど、断られてしまった。
「好きなだけ使って」
「ありがとう」
曇り戸に映る花の影が立ち去るのが見えて、私は再び蛇口をひねってシャワーを浴びる。
熱いお湯で、雨で冷えた体が温まる。
怪我が治ってるのは、たぶん花がやったんだ。
花の手が光ったように見えたのは、きっと気のせいなんかじゃない。榴先輩もオオカミに変身するし、幸夜くんも水を操っていたし、信じられないようなことばかり。
お風呂場に立ち込める湯気を眺めながら、考えようとするけれど、考えてわかるようなことじゃない気がした。
小さくため息をついて、温まった体を動かして蛇口を締めると脱衣所への扉を開く。
そして――目が合った。
「きゃああああああああああ!」
悲鳴を上げた私はすぐに扉を閉めて、再び湯気の中へ舞い戻った。
しゃがみこんで、裸の体を抱える。
目が合ったのは、咲仁くんだった。
着替えている最中だったのか上半身裸でズボンも緩めていて、驚いた顔が目に焼き付いている。目に、焼き付いて……
咲仁くんの右のわき腹に、大きな傷跡があった。手術の跡みたいなのとは全然違う。大怪我したのをそのまま放置して、治っただけみたいな深くえぐれた傷跡。
赤くなった体が青ざめる気がした。
でも、目が合ったってことは咲仁くんもバッチリ私を見ていたっていうこと。半裸の咲仁くんが、全裸の私を見ていた。なんてこと!
「珠子ちゃん、どうしたの? 大丈夫!?」
「大丈夫! 足が滑りそうになっただけ!」
騒がしい足音の後に聞こえてきたのは幸夜くんの声だった。私の悲鳴に飛んできてくれたみたいで、申し訳ないやら恥ずかしいやらで複雑。まさか本当のことを言えるわけもなくて、そう言って誤魔化した。
「……幸夜、着替え中なんだが」
「なにを今更。僕と兄さんの仲じゃない」
私に続いて幸夜くんにまで半裸を見られた咲仁くんが苦情を言っていたけど、幸夜くんは軽く流していた。
「怪我してなぁい? なにかあったら、すぐに呼んでね」
「う、うん。大丈夫。ありがとう」
曇り戸に幸夜くんの影が映って、優しく声をかけてくれる。嘘をつくのは気が咎めるけど、その優しさを受け止める。
私の返事に満足したようで幸夜くんは立ち去って行った。
曇り戸越しに、私と咲仁くんだけが残される。
「俺はちゃんと声かけたからな……」
「シャワー中に聞こえるわけないじゃん!」
呆れたように言われても、自分に非があるとは思えなかった。
他にも客間とかいろいろあるのに、わざわざ私がシャワー浴びてるところで着替える方が悪いと思う。
「まあ、安心しろ。オマエの平べったい体に興味なんかないから」
「そういう問題じゃない!」
大声で怒鳴りたかったけど、また幸夜くんが来るかもと思うと控えめになるしかなかった。
怒りと羞恥で手が震える。
興味がないからって見られてセーフな気持ちにはならないし、体型わかるぐらいにはしっかり見たって言われてるようなものだし、本当に本当に……!
お風呂場の床に座り込んで、顔を覆ってジタバタしてしまう。
叫びだしたいような気持ちを抑えながら、呼吸を整える。
「……怪我とかは、してない?」
温まった体が少し冷えてきて、それにつられて頭も少し冷えてくる。
今更見なかったことには出来ないし、恥ずかしがっていても始まらない。
見なかったことに出来ないのは、私も同じ。咲仁くんの、あの傷跡――古そうだったし、さっきのライオンにつけられた物ではないとは思うけど気がかりだった。
「そんなヘマはしない」
扉の向こうから聞こえてくる、平静な声に少し安心する。
「……助けてくれて、ありがとう」
お風呂の戸を細く開けて、体は見えないように顔だけ覗かせる。ちゃんと、目を見てお礼を言いたかったから。
「なに。お礼に見せてくれんの?」
見えたのは、いじわるそうな笑顔。
「見せるわけないでしょ!」
扉を勢いよく閉めて憤慨していると、咲仁くんが声をかけてくる。
「俺の力は戦闘向きじゃない。実際に戦ったのは、ほとんど幸夜だ。礼を言うなら、アイツに言ってやれ」
「うん……でも、ありがとう」
すぐそこに、咲仁くんがいる。扉越しに、咲仁くんの気配を感じていた。
シャワーで体を温め直している間に、咲仁くんは着替えを終えたようでいなくなっていた。
私も着替えて髪を乾かし、リビングに戻る。
リビングの扉の前に立つと、みんなの話し声が聞こえてきた。
なにを話しているのか内容まではわからなかったけど、みんな揃っている。
ドアノブに手をかけて、意を決して開く。
ソファーに座ったみんなの視線が、いっせいに私に向いた。
「珠子ちゃん!」
幸夜くんが真っ先に立ち上がって、私に駆け寄ってくる。
「ごめんね。怖い思いさせて……」
私の手を握って眉をハの字に寄せている幸夜くんに、申し訳ない気持ちになる。
二人が一人で帰ることを許さなかったのは、こうなるってことが分かっていたからなんだろう。一人になったら化け物に襲われるなんて言われても信じなかっただろうし、強引だったのも仕方がないことだったんだと思う。
「ううん。助けてくれて、ありがとう」
謝る幸夜くんに首を振って、幸夜くんの向こうにいる三人を見る。花は立ち上がっていて、胸の前で手を組んで祈るように私を見ている。咲仁くんと榴先輩は、落ち着いた様子でソファーに腰かけたまま。
「花も、榴先輩も……ありがとうございました」
咲仁くんにはさっきお礼を言ったから、今度は花と榴先輩に頭を下げる。
「当然のことをしただけだ」
「お礼なんて、言わないでっ!」
榴先輩はいつもと変わらない様子だったけど、花は今にも泣きそうにしていた。
「ごめんね、珠子ちゃん。こんなことになるなら、ちゃんと話しておけばよかった」
「極東まで来た甲斐がなかったな」
落ち込んだ様子の幸夜くんの向こうで、ソファーに座った咲仁くんがそっぽを向いて憮然としていた。
「でも、今まで無事でいてくれてよかった」
私の手を握る幸夜くんの手に力がこもる。
「とっくに、見つかってはいたんだろうな。それが……」
「僕と接触したから、だ」
榴先輩の言葉を受けて、幸夜くんの唇が白くなっている。
こんな顔をした幸夜くんに問いただすのは気が引けるけど、それでも私は聞かなきゃいけない。
私の身に何が起きているのか、みんなは――何なのか。
「ちゃんと、教えて……」
奇妙な生き物、奇妙な力。
信じられないようなことしか告げられないと、それを受け入れる覚悟を決める。
「……僕らは、神話の神々の化身なんだ」
幸夜くんは言いにくそうに、俯きがち言う。
「星座にもなってるから、ちょっとは聞いたことあるかな? ギリシア神話として語られる世界の神様」
――神様。
ファンタジーな話をされる覚悟はしていたけれど、突拍子もない話に現実感がわかない。
「僕はエピメテウス」
「俺はプロメテウス。人類に炎を与えた先見の神――といっても、ピンとこないだろうな」
幸夜くんと咲仁くんが名乗ってくれるけど、咲仁くんが言うみたいに横文字の名前を言われてもよくわからない。
「花と榴の方が、日本じゃ有名だろ。榴は冥府の神ハデス、花はその妻ペルセポネだ」
咲仁に紹介されて、花が恐縮するように肩をすくめる。
ハデス――さすがにその名前は私でも知っていた。
ゲームとかアニメとかでよく登場してくるメジャーなギリシア神話の神様。
ペルセポネも、乙女座のモデルになった女神様だって聞いたことがある。
「知ってる、けど……」
けど、やっぱり急にそんなこと言われてもどう反応したらいいのかわからない。
神話の神様だなんて言われても実感がわかなくて、花と榴先輩が恋人じゃなくて本当は夫婦だなんて、そっちの方がまだ現実味のある話としてインパクトがあった。
「知っててくれて光栄だが、今回の件、俺たちはそう深くは関わっていない。俺らはただ、パンドラの魂を今世に運んできただけだ」
榴先輩が補足するように言ってくる。
新しく出てきた横文字の名前。その名前にも、聞き覚えがあった。
パンドラ――パンドラの箱――災いを封じた箱を開けてしまい、世界に災厄を招いてしまった女性の名前。
災いが飛び出した後、箱の中には希望が残っていたという神話は知っている。
「パンドラは、神々に全てを与えられた人類最初の女性。地上で暮らす僕エピメテウスの元に、最高神ゼウスから贈られた花嫁」
幸夜くんが私の手を取り、私の知らない神話の話をする。
幸夜くんの色の薄い瞳が、真っ直ぐに私を捉えて目が離せない。
そして幸夜くんは、今までの話の中で最も信じられないことを告げた。
「珠子ちゃん。珠子ちゃんは僕の妻、パンドラの生まれ変わりなんだよ」 私がパンドラの生まれ変わりで、私の前世は幸夜くんの妻……
信じられない話だったけど、幸夜くんがなんで私なんかを? という疑問の答えは見つかった。幸夜くんは、私じゃなくて……
「災厄は解き放たれてしまったけれど、希望はまだ君の中に残ってる」
幸夜くんが私の前にひざまずき、恭しく私の手の甲に口付けをして告げる。
「君は――希望の花嫁なんだ」
「エルピスの花嫁……?」
「そう、希望の花嫁」
聞きなれない横文字を復唱すると、幸夜くんが言い直してくれる。
幸夜くんはエピメテウスとかいう神様の化身で、その妻だったパンドラが私の前世で、希望の花嫁だとか言われても……
「……意味わかんない」
幸夜くんから距離を取ろうとしても、ひざまづいたまま幸夜くんは私の手を強く握っていた。
「まあ、こうなるよな」
咲仁くんが嗤い交じりに言う。
「やはり、幼いうちから言い含めておいた方がよかったのでは?」
「それはない!」
榴先輩の言葉に、幸夜くんが剣幕に振り返って榴先輩を見る。
「こんなことにならなきゃ、珠子ちゃんは何もしらないまま僕と幸せになれたんだから」
私の話のはずなのに、私にはなにもわからない。
「それが一番いい未来だったが、一番実現は低いと言っただろ」
咳混じりに話す咲仁くんに、幸夜くんの顔が曇る。
「みんな、なに言ってるの? 私がパンドラの生まれ変わりだとか、希望の花嫁だとか」
人違いだとしか思えなかった。
確かにパパは陶芸家で高校生で一人暮らししていたり、ちょっと変わった家庭環境かもしれないけど、でもそれだけ。
「みんなみたいに不思議な力もないし、私はただの人間だよ」
水を操ったり、先を読んだり、怪我を治したり、獣に変身したり……そんなファンタジーな設定、私は持ってない。
「言っただろう。パンドラは人類最初の女だ。神の贈り物を持っていても、なんの力もないただの人間だ」
でも、それは私がパンドラじゃない証明にはなってくれないみたいだった。
跳ねのける咲仁くんの言葉に、幸夜くんに握られた手が震える。
「俺が冥府から魂を運んで宿した。間違えるはずがない」
「ずっと傍で見守ってきたんだもの。貴女がパンドラよ」
榴先輩にも畳みかけられて、その横に立つ花にまでそう告げられる。
よく見知ったはずの二人なのに、なんだかいつもと違う人みたいだった。
「貴女って、そんな呼び方しないでよ!」
気づいたら、悲鳴みたいな声を上げていた。
幸夜くんの手を振りほどいて、涙で視界が歪んでいく。
花は小学校からの仲だった。
塾で出会って、一緒に勉強したりして、大切な人だって榴先輩も紹介してくれて、誕生日だって一番に祝ってくれたのに……ずっと見守ってたって、なんなの? ずっと、友達だと思ってたのに……
「私はパンドラなんかじゃない!」
叫んだ瞬間、頬を涙が伝った。
「みんな、勝手なことばっか言わないで」
「珠ちゃん……」
花がいつもみたいに私を呼ぶ。でも、それが許せなかった。さっきは貴女なんて他人行儀な呼び方したくせに。
「馴れ馴れしく呼ばないで!」
私の叫びに花が目を見開いて、その目に涙の膜が張っていくのがわかった。でも、その膜が決壊する前に花は榴先輩の方を向いて顔を隠してしまった。そんな花の肩を、榴先輩が優しく抱き寄せる。
いたわる様な榴先輩の眼差しが、花じゃなくて私の方に向けられる。
余計に、胸のなかがぐちゃぐちゃになる。
「珠子ちゃん、落ち着いて……」
幸夜くんが差し出す手を振り払う。
「花もみんなも、大っ嫌い!」
咲仁くんもなにかを言いかけるのが視界の端に見えて、私はそれを遮るように言い捨てる。
踵を返してリビングを飛び出すと、背後で大きな音を立てて扉が閉まった。