こんなに、走ったのはいつぶりだろう。
雨が傘を叩く音。途切れ途切れの自分の息遣い。それを追う、奇妙なライオンの足音。
怖ろしくて振り返ることも出来なかった。
振り返ったらなにもいなくて、雨で見た奇妙な錯覚だと思いたかった。でも、背後に迫る気配がその希望にすがるのを許さない。
小刻みに河川敷のアスファルトを叩く私の足音と違って、奇妙なライオンの足音はどこか余裕があるようにゆったりとしていた。いつでも捕らえられるのをわざと泳がせて遊んでいるようにも思えて、走ったせいだけじゃない冷たい汗が背中を伝うのを感じる。
「きゃあっ!」
体育の授業ぐらいしか運動らしい運動をしたことがない私が、短距離走を走る勢いで長時間走れるわけがなかった。
来た道をそう戻らないうちに、気持ちに足がついてこなくなってしまった。
自分の足に自分の足がからまって、バランスを崩して盛大にこける。
上手く受け身を取ることさえ出来なくて頭から地面にぶつかり、湿った土の味がした。
膝と両手を擦りむいた感触がしたけど、痛みを感じる場合じゃない。
そのまますぐに立ち上がろうとしたけど、完全に体を起こす前に手元に衝撃が走り再び地面に突っ伏した。
傘が舞う。
今朝、トラックに轢かれたのとはまた違う壊れ方。
鋭い爪で布地を引き裂かれた傘が、私の手を離れて弾き飛ばされたのが見えた。
思わず目で追いそうになった瞬間、今度は背中に強い衝撃を感じた。
「うっ……!」
再び胸が地面につき、押しつぶされた肺からくぐもった音がする。
悲鳴を上げられないほどの圧迫を背中に受けて、地面に這いつくばる。
私の背中を押さえるソレが何かなんて考えたくもなかった。
傘を手放した私の体を濡らす。でも、雨じゃない獣臭い液体が後頭部に降ってくるのも感じていた。
さっき見たライオンの大きな手足が、大きな口が、そこに並ぶ鋭い爪と牙が思い起こされる。
なんで!? どうして!?
奇妙な現実を受け入れられない。
走馬灯のようにみんなの顔が思い浮かぶ。
パパ――花――芽依、栞里、正美、榴先輩――幸夜くんと……咲仁くん。
いっそ気を失ってしまいたかったのに、涙が溢れるばかりで意識ははっきりとしていた。
迫りくる痛みから目を逸らすように、私は目をきつく閉じた。
「珠子ちゃん!」
「まだ生きてるか?」
水音と共に私の背中を押さえる圧が消えたかと思うと、双子の声がした。
体を起こした私の視界に走ってくる二人の姿が見えて――また霞んだ。
「幸夜くんっ……! 咲仁くんっ……!」
さっきとは違う安堵の涙で、視界が歪んで大粒の涙がこぼれる。
「一人でよく頑張ったな」
「もう大丈夫だから、安心してねっ」
二人が私とあの奇妙な生き物の間に立ち塞がる。
二人の背中越しに見たあの生き物は、やっぱりヤギの頭とヘビのしっぽを生やした奇妙なライオンにしか見えなかった。
そのライオンが今、腕から血を流して引きずっていた。
タイミング的に、二人が何かをしたのだとしか思えなかった。
二人があの生き物を攻撃して私を助けてくれたんだと――でも、どうやって?
「遅くなって、ごめんね」
私が目を丸くしてにらみ合う二人と一匹を見ていると、そっと花が肩を抱いた。
振り返るといつもの優しい花がいて――オオカミがいた。
「ひっ……」
私は花にしがみついた。
真っ黒な毛並みのオオカミは、ライオンよりも二回りぐらい大きく見えた。
「大丈夫よ」
あの生き物の仲間かと怯える私の体を、花がそっと優しくさすってくれる。
「幸夜! 咲仁! 加勢するか?」
「いい! 珠子ちゃんを安全なところに」
オオカミが口を開いて双子に声をかけた。私以外の誰もオオカミが喋っていることに疑問はないようで、幸夜くんも普通に返事をしていた。
私は驚いていた。
オオカミが喋ったこともだけど、その声が――
「榴先輩……?」
オオカミは花の恋人、榴先輩の声でしゃべっていた。
「幸夜! 右の鉤爪、八時の死角からヘビだ」
呆然とする私をよそに、更なる奇妙な光景が繰り広げられようとしていた。
咲仁くんが幸夜くんに指示を出した一瞬後に、咲仁くんの言葉通り奇妙な生き物が負傷していない右の鉤爪を幸夜くんに繰り出し、それと同時にヘビの尾が幸夜くんの背後に伸びて牙を向く。
咲仁くんの指示でそれを難なくかわした幸夜くんが、不敵に笑う。
「今日が雨降りで、不運だね」
指揮者のように幸夜くんが指を振る。
その動きにつられるように、降り注ぐ雨が動きを止めて、無重力のように空中に水玉を作る。幸夜くんの指揮に合わせて水は形を変え、矢のようにライオンの体にヤギの頭にヘビの尾に降り注ぎ攻撃する。
咆哮を上げ奇妙なライオンがのたうつ。
「180秒後に黒鷲アエトスが上空から奇襲だ。警戒しろ」
咲仁くんが見上げた曇天の下、巨大な鳥の影が旋回しているのが見えた。
奇妙なライオン、榴先輩の声でしゃべる大オオカミ。水を操る幸夜くん――
目の前で巻き起こるファンタジーな光景に頭がついていかない。
「背中に乗れ、離れるぞ」
「珠ちゃん」
榴先輩の声に花が大オオカミに騎乗して、私に手を差し出してくる。
ぼうっとしたまま花にうながされてその手を取ると、二人で大オオカミの背中に乗った。
温かくて柔らかい毛並みが、これは夢じゃないと訴えかけてくる。
馬にさえ乗ったことがないのに、オオカミの背に乗る日が来るなんて思わなかった。
「行くぞ」
体をしならせ、オオカミが走り出す。双子を残して、花に体を支えられた私はその場を離脱した。
オオカミは河川敷を走り抜けると電信柱を伝って街並みの屋根に上がると、人目につかないようにかそこを駆けて行った。そして、私の住むマンションの外壁を伝って玄関の前に滑り込む。
「結局、ここが一番安全だな」
オオカミがそう言って身を屈めると、花が先に降りて私に手を差し出してくる。
花にエスコートされてマンションに足を下ろすと、おぼつかない。
「カギ、借りるね」
花の小さな肩を支えに立っていると、いつの間にか私のカバンを預かっていたらしくて、花がカギを取り出して解錠する。
「とりあえず、休みましょう」
花が扉を開けて慣れ親しんだ我が家に入ると、続いて大オオカミと花が滑り込んでくる。
とても我が家の玄関に入れないと思った大オオカミは、いつの間にか大型犬ぐらいの大きさに縮んでいた。オオカミが二足で立ち上がるとともに毛皮を脱ぐように姿が変わり、見慣れた榴先輩がそこに立っていた。
「驚かして悪かったな」
目を丸くする私に榴先輩が気まずそうに言ってくるけど、私はなにも返事が出来なかった。
「怪我を治すわ。座って」
花は腰を抜かした私を玄関に座らせると、擦りむいた膝に手を当てる。
「痛かったね。怖かったね。もう、大丈夫だから」
小さな子をあやすように花が優しく言うと、ポロポロと涙がこぼれて止まらなかった。
傷に触れる花の手が温かい。傷に触られているのに痛みを感じるどころか、痛みが引いていく。目の錯覚か、花の手が淡く光っているように見えた。
「もう、痛くない?」
「う、うん……」
私が頷くと花は微笑んで、同じように擦りむいた両手を握る。また花の手が光を帯びたような気がして、痛みが引いていった。
「遅くなってすまなかった。花と同じコロンだから、雨じゃなきゃすぐに追えたんだが……」
申し訳なさそうな榴先輩に、私は首を振る。
なにが起きたのかわからない。でも、みんなが私を助けに来てくれたんだってことだけはわかってた。
「あれは……いったい、なんなんですか?」
でも、本当にわからないことだらけ。
「キマイラだ――けど、聞きたいのはそういうことじゃないな」
「幸夜くんと咲仁くんが戻ったら、ちゃんと話すから。今は、体を拭いて温めましょう」
そう言われて、自分がずぶ濡れになっていることを思い出した。
「うん……」
みんな、いつもと違う。花もなんだか大人っぽくて、同級生じゃないみたい。
疎外感を覚えながら、それでも私は頷くしか出来なかった。
雨が傘を叩く音。途切れ途切れの自分の息遣い。それを追う、奇妙なライオンの足音。
怖ろしくて振り返ることも出来なかった。
振り返ったらなにもいなくて、雨で見た奇妙な錯覚だと思いたかった。でも、背後に迫る気配がその希望にすがるのを許さない。
小刻みに河川敷のアスファルトを叩く私の足音と違って、奇妙なライオンの足音はどこか余裕があるようにゆったりとしていた。いつでも捕らえられるのをわざと泳がせて遊んでいるようにも思えて、走ったせいだけじゃない冷たい汗が背中を伝うのを感じる。
「きゃあっ!」
体育の授業ぐらいしか運動らしい運動をしたことがない私が、短距離走を走る勢いで長時間走れるわけがなかった。
来た道をそう戻らないうちに、気持ちに足がついてこなくなってしまった。
自分の足に自分の足がからまって、バランスを崩して盛大にこける。
上手く受け身を取ることさえ出来なくて頭から地面にぶつかり、湿った土の味がした。
膝と両手を擦りむいた感触がしたけど、痛みを感じる場合じゃない。
そのまますぐに立ち上がろうとしたけど、完全に体を起こす前に手元に衝撃が走り再び地面に突っ伏した。
傘が舞う。
今朝、トラックに轢かれたのとはまた違う壊れ方。
鋭い爪で布地を引き裂かれた傘が、私の手を離れて弾き飛ばされたのが見えた。
思わず目で追いそうになった瞬間、今度は背中に強い衝撃を感じた。
「うっ……!」
再び胸が地面につき、押しつぶされた肺からくぐもった音がする。
悲鳴を上げられないほどの圧迫を背中に受けて、地面に這いつくばる。
私の背中を押さえるソレが何かなんて考えたくもなかった。
傘を手放した私の体を濡らす。でも、雨じゃない獣臭い液体が後頭部に降ってくるのも感じていた。
さっき見たライオンの大きな手足が、大きな口が、そこに並ぶ鋭い爪と牙が思い起こされる。
なんで!? どうして!?
奇妙な現実を受け入れられない。
走馬灯のようにみんなの顔が思い浮かぶ。
パパ――花――芽依、栞里、正美、榴先輩――幸夜くんと……咲仁くん。
いっそ気を失ってしまいたかったのに、涙が溢れるばかりで意識ははっきりとしていた。
迫りくる痛みから目を逸らすように、私は目をきつく閉じた。
「珠子ちゃん!」
「まだ生きてるか?」
水音と共に私の背中を押さえる圧が消えたかと思うと、双子の声がした。
体を起こした私の視界に走ってくる二人の姿が見えて――また霞んだ。
「幸夜くんっ……! 咲仁くんっ……!」
さっきとは違う安堵の涙で、視界が歪んで大粒の涙がこぼれる。
「一人でよく頑張ったな」
「もう大丈夫だから、安心してねっ」
二人が私とあの奇妙な生き物の間に立ち塞がる。
二人の背中越しに見たあの生き物は、やっぱりヤギの頭とヘビのしっぽを生やした奇妙なライオンにしか見えなかった。
そのライオンが今、腕から血を流して引きずっていた。
タイミング的に、二人が何かをしたのだとしか思えなかった。
二人があの生き物を攻撃して私を助けてくれたんだと――でも、どうやって?
「遅くなって、ごめんね」
私が目を丸くしてにらみ合う二人と一匹を見ていると、そっと花が肩を抱いた。
振り返るといつもの優しい花がいて――オオカミがいた。
「ひっ……」
私は花にしがみついた。
真っ黒な毛並みのオオカミは、ライオンよりも二回りぐらい大きく見えた。
「大丈夫よ」
あの生き物の仲間かと怯える私の体を、花がそっと優しくさすってくれる。
「幸夜! 咲仁! 加勢するか?」
「いい! 珠子ちゃんを安全なところに」
オオカミが口を開いて双子に声をかけた。私以外の誰もオオカミが喋っていることに疑問はないようで、幸夜くんも普通に返事をしていた。
私は驚いていた。
オオカミが喋ったこともだけど、その声が――
「榴先輩……?」
オオカミは花の恋人、榴先輩の声でしゃべっていた。
「幸夜! 右の鉤爪、八時の死角からヘビだ」
呆然とする私をよそに、更なる奇妙な光景が繰り広げられようとしていた。
咲仁くんが幸夜くんに指示を出した一瞬後に、咲仁くんの言葉通り奇妙な生き物が負傷していない右の鉤爪を幸夜くんに繰り出し、それと同時にヘビの尾が幸夜くんの背後に伸びて牙を向く。
咲仁くんの指示でそれを難なくかわした幸夜くんが、不敵に笑う。
「今日が雨降りで、不運だね」
指揮者のように幸夜くんが指を振る。
その動きにつられるように、降り注ぐ雨が動きを止めて、無重力のように空中に水玉を作る。幸夜くんの指揮に合わせて水は形を変え、矢のようにライオンの体にヤギの頭にヘビの尾に降り注ぎ攻撃する。
咆哮を上げ奇妙なライオンがのたうつ。
「180秒後に黒鷲アエトスが上空から奇襲だ。警戒しろ」
咲仁くんが見上げた曇天の下、巨大な鳥の影が旋回しているのが見えた。
奇妙なライオン、榴先輩の声でしゃべる大オオカミ。水を操る幸夜くん――
目の前で巻き起こるファンタジーな光景に頭がついていかない。
「背中に乗れ、離れるぞ」
「珠ちゃん」
榴先輩の声に花が大オオカミに騎乗して、私に手を差し出してくる。
ぼうっとしたまま花にうながされてその手を取ると、二人で大オオカミの背中に乗った。
温かくて柔らかい毛並みが、これは夢じゃないと訴えかけてくる。
馬にさえ乗ったことがないのに、オオカミの背に乗る日が来るなんて思わなかった。
「行くぞ」
体をしならせ、オオカミが走り出す。双子を残して、花に体を支えられた私はその場を離脱した。
オオカミは河川敷を走り抜けると電信柱を伝って街並みの屋根に上がると、人目につかないようにかそこを駆けて行った。そして、私の住むマンションの外壁を伝って玄関の前に滑り込む。
「結局、ここが一番安全だな」
オオカミがそう言って身を屈めると、花が先に降りて私に手を差し出してくる。
花にエスコートされてマンションに足を下ろすと、おぼつかない。
「カギ、借りるね」
花の小さな肩を支えに立っていると、いつの間にか私のカバンを預かっていたらしくて、花がカギを取り出して解錠する。
「とりあえず、休みましょう」
花が扉を開けて慣れ親しんだ我が家に入ると、続いて大オオカミと花が滑り込んでくる。
とても我が家の玄関に入れないと思った大オオカミは、いつの間にか大型犬ぐらいの大きさに縮んでいた。オオカミが二足で立ち上がるとともに毛皮を脱ぐように姿が変わり、見慣れた榴先輩がそこに立っていた。
「驚かして悪かったな」
目を丸くする私に榴先輩が気まずそうに言ってくるけど、私はなにも返事が出来なかった。
「怪我を治すわ。座って」
花は腰を抜かした私を玄関に座らせると、擦りむいた膝に手を当てる。
「痛かったね。怖かったね。もう、大丈夫だから」
小さな子をあやすように花が優しく言うと、ポロポロと涙がこぼれて止まらなかった。
傷に触れる花の手が温かい。傷に触られているのに痛みを感じるどころか、痛みが引いていく。目の錯覚か、花の手が淡く光っているように見えた。
「もう、痛くない?」
「う、うん……」
私が頷くと花は微笑んで、同じように擦りむいた両手を握る。また花の手が光を帯びたような気がして、痛みが引いていった。
「遅くなってすまなかった。花と同じコロンだから、雨じゃなきゃすぐに追えたんだが……」
申し訳なさそうな榴先輩に、私は首を振る。
なにが起きたのかわからない。でも、みんなが私を助けに来てくれたんだってことだけはわかってた。
「あれは……いったい、なんなんですか?」
でも、本当にわからないことだらけ。
「キマイラだ――けど、聞きたいのはそういうことじゃないな」
「幸夜くんと咲仁くんが戻ったら、ちゃんと話すから。今は、体を拭いて温めましょう」
そう言われて、自分がずぶ濡れになっていることを思い出した。
「うん……」
みんな、いつもと違う。花もなんだか大人っぽくて、同級生じゃないみたい。
疎外感を覚えながら、それでも私は頷くしか出来なかった。