9、すべての『』を繋げた君へ。




 家に帰ってから、1時間くらい涼葉と通話をした。そして、明日が来なければいいのにと、涼葉は何度も言っていた。
 そして、月曜日に会うことを約束して、月曜日になる1時間前に通話を切った。

 月曜日になり、いつも通り退屈な学校生活をこなした。涼葉と過ごした昨日が夢みたいに思え、一日中ぼんやりとしていた。放課後になり、図書室でお団子ヘアの涼葉とまたいろんな話をした。そして、火曜日は図書室で会わずにイオンのフードコートで話をして、適度な時間に帰り、夜、少しだけ通話をした。
 そうして、図書室で会う日、図書室で会わない日はこうやって過ごし、土曜、日曜のどちらか1日は外でデートをした。
 そして、本当に平和なまま、9月に入院していたことなんて忘れたまま、涼葉が退院してから、2週間が経ち、10月になった。




 月曜日。

 僕はいつものように職員室に図書室の鍵を取りに行った。涼葉は来てますかと、顧問に聞くと、顧問が壁に備え付けのホワイトボードを指した。
 ホワイトボードの2年の病欠欄には、涼葉の名前はなかった。

 ドアの鍵を開けて、図書室に入ろうとしたとき、
「おつかれー。ダーリン」と後ろから声がした。だから、僕は後ろを振り返ると、制服姿の涼葉が胸元くらいの高さで、右手を小さく振っていてた。涼葉を見ると、いつもよりも色白く見えた。色白を越して、すこし青みがかっているようにも見えた。唇もルージュを塗ったみたいに淡い紫に見えた。
 日曜日は会わず、土曜日にスタバで少しだけ話した。そのあと、具合が悪いと言ったから、帰ることになり、日曜日はメッセージだけのやり取りだけで終わっていた。

「大丈夫?」
「大丈夫。さすがに学校はサボらないよ」
「いや、顔色悪い」
「いいよ。具合悪くなったら、帰るから少しでも一緒にいたい」
 僕はもう一度、強く止めようと言おうと思った。だけど、いつになく真剣そうに、なにかを訴えかけてくる、そんな涼葉の表情で言い出せなかった。


 
 カウンターにいつものように横並びで座っているけど、やっぱり、涼葉は具合悪そうに見えた。座っているのもキツそうな雰囲気だ。
「床に座ろうぜ」
「え、でも、カウンターから人、いなくなっちゃうじゃん」
「こうすればいいんだよ」
 僕は立ち上がり、カウンターを出て、図書室のドアを締め、鍵をかけた。そして、ドアの窓についている〈閉館中〉の札をつけた。

「嘘つきじゃん」
 ふふっと、弱々しい涼葉の笑い声が響いた。
「蔵書整理日。どうせ、だれも来ないよ。みんな部活か、バイトだ」
「だよね。ごくわずかの利用者の陰キャに優しくないね」
「いいんだよ。ほら、椅子に座るのやめようぜ」
 そう言うと、涼葉はゆっくり立ち上がり、そして、カウンターの中の壁側まで歩き、壁に寄りかかってカーペットに座った。蛍光灯の明かりの下で見る涼葉の顔色はやっぱり青白かった。僕はカウンターに戻り、涼葉の隣に座った。

「――もうダメかも」
 僕が座ってすぐ、そんなこと言うから、本当に身体がきついんだと感じた。
「そんなこと言うなよ。まだ、長い夢の小説、できてないだろ」
「これでも、毎日書いてるんだよ」
「だから、完成させないと」
「ねえ。もし完成できなかったら奏哉くんが引き継いで書いてね」
「――なに言ってるんだよ」
 僕はそれしか返す言葉がでなかった。そのあと、すぐ涼葉はいつものように何度か咳をした。だから、僕は涼葉の背中をさすった。

「ずっと、優しいままだったね。奏哉くんの印象、ずっと変わらなかったなぁ」
「そういう冗談はやめろよ」
「いいじゃん。弱ってるときなんだから、少しは本当に思ってること話しても」
 そう言ったあと、また弱々しく、へへっと涼葉は笑った。エアコンの送風の音と、時計の秒針だけが静かに響いていて、ここの中が無菌室や水槽の中のように感じた。ずっと、涼葉とふたりでこの中で暮らしたら一体、どんな生活になるんだろうと、どうでもいいことを僕は考えた。

「ねえ、ビートルズ流してよ」
「いいよ」
 僕は一歩先くらいに置いてある自分のバッグに手を伸ばし、バッグを手繰り寄せた。そして、バッグからiPhoneを取り出し、Spotifyを開き、一番最初に表示された〈ザ・ビートルズ・アンソロジー2〉をタップした。
 不安定で繊細な聞き慣れたReal Love のイントロが流れ始めた。
 
「いい曲だね」
「でしょ。ビートルズ最後の曲」
「レットイットビーじゃないの?」
「ジョン・レノンが死んだあとにデモテープをもらって、残りの三人で作ったんだ。だから、これが最後の曲」
「本当に好きなんだね。もっと自信持ってもいいと思うよ」
「ありがとう。そうする」
 そう言うと、涼葉は微笑んでくれた。

「ねえ。ひとつだけお願いがあるんだけどいい?」
「いいよ」
「ただ、抱きしめて」
「――いいよ」
 隣に座っている涼葉の背中に左手を回すと、涼葉は僕に寄りかかってきて、僕の胸の中にきた。髪からほのかにバニラの香りがした。そのまま右手も涼葉の背中に回し、涼葉のことを抱き寄せた。涼葉も両手を僕の背中に回し、僕と涼葉はただ、密着した。
 黙ったまま、僕の左肩に頭を乗せていて、このまま時が止まってしまえばいいのにって強く思った。だけど、Real Loveは流れ続けているし、時計の秒針は一秒一秒をしっかりと刻んていたし、エアコンもしっかりと外の風を図書室に送り込んでいた。

「――やり残したこと、いっぱいあるなぁ」
「大丈夫。まだ涼葉は生きてるだろ」
「今はね。――私、たまにデジャブ見るんだ。今もそうだよ」
「じゃあ、今まで言ってたのも、本当に夢で見てたんだ」
「なに言ってるの。私は本当のことだから、素直に言ったのに」
「なんか、小説書いてる延長みたいなものかと思ってた」
「変なの」と言って、涼葉は弱く笑った。今まで一度も、そんな経験をしたことがないから、本当にそんなことがあるんだと、よくわからないけど、僕は納得してしまった。

「デジャブってどんな感じなの?」
「なぜか一言だけ、印象に残ってたりするの。ほとんどは一瞬見た光景とか、一言とかだけなんだけどね」
「へえ。そうなんだ」
「だけどね、今回のデジャブはね。ちゃんとオチがあるんだよ」
「オチ?」
「――ここで死んじゃうの」
 涼葉の声が震えていた。本当に怖い夢だったんだと思うけど、まだ何も起きてないよ。って言おうと思ったけど、そんなこと言わずにただ、両腕に力を入れて、涼葉をしっかり抱きしめた。

「――私、死にたくない」
「大丈夫だよ。涼葉」
 お互いに二人しか聞こえないような小さい声でそうやり取りをした。いつの間にかReal Loveは終わっていて、Yes It IsがiPhoneから流れていて、僕と涼葉だけを置いて、穏やかでのほほんとした空気になっていた。そして、涼葉はそっと、僕の背中から両腕を離し、僕から離れ、抱きしめる前と同じように、壁に寄りかかった。

「もっと、奏哉くんとたくさん楽しいことして、ずっと一緒にいたかったな」
「変わらないよ。今も、この先も」
「――だけど、もう、十分自分がこの世界に存在していることを自分の言葉で残した気がする。あとはお願いね」
 涼葉は左手で胸をさすり始め、鈍い表情をしていた。

「ダメだ。痛むんだろ」
 僕が立ち上がると、涼葉は僕の左腕を掴んだ。だから、僕はもう一度、涼葉の前に座った。
「……行かないで」
「ダメだよ。助け呼ばないと」
「ふふっ。このシーンも夢で見たな。やっぱり、私、今日で最後かもね」
「やめろよ! もっと、楽しいことたくさんしよう。そして、ずっと一緒にいよう」
 涼葉は微笑んでいた。だけど、いつの間にか、頬は濡れていて何粒も、涙が蛍光灯で輝いているのが見えた。

「……奏哉くん。愛してます。一緒にいてくれてありがとう」
 そのあと、左腕を掴まれていていた力が急に弱まった。そして、涼葉を見ると、涼葉は目をつぶっていた。

「――この世界から消えないでほしい」
 僕はそう呟いたあと、再び立ち上がった。
 



 涼葉は火曜日に亡くなった。
 その火曜日から、僕の心は何者かに鷲掴みにされて、そしてきれいに抜き取られたように空っぽだった。なにも考えられない日々が続き、それは涼葉の葬儀の日も同じだった。

 葬儀が終わり、僕は駅のホームで電車を待っていた。夜のホームには数人がポツポツと立っているだけで寂しかった。本当は家まで我慢しようと思ったけど、僕は我慢できなくなり、涼葉の母から受け取った青い花柄の封筒をバッグから取り出した。
 ベンチに座り、両手に持った封筒をじっくりと見た。

『奏哉くんへ』

 いつも、ノートで見慣れた丸っこい字でそう書かれていた。
「遺書ってことか」
 そうぼそっと呟いてみたけど、僕の隣で、笑ってくれる人なんて、もう存在しなかった。封筒を開けて、手紙を取り出した。そして、手紙を開くと、ノートと同じように見慣れた字がたくさん並んでいた。

『奏哉くんへ

 これを書いているのは、土曜日に具合が悪くなったからだよ。
 お医者さんから、この症状があると危険だって症状がとうとう出ちゃったんだ。
 だから、口では言えない、大事なことを伝えるね。

 まず、なんで奏哉くんのことが好きになったかを言いたいんだ。
 中学3年の受験生だったとき、うたた寝をしたとき、変な夢をみたの。
 男の子に「この世界から消えないでほしい」って言う夢だったんだ。
 
 そのことをノートの小説で〈冬の始まりの凛とした空気よりも、君は透明だった。〉にしたんだ。
 あの小説で書いたことがそのまま夢で起きた感じだったんだよ。
 それでその小説を奏哉くんに見せたら、奏哉くんがいいねって言ってくれたから、
 嬉しかった。
 
 それでね、その夢に出てきた男の子がまさに奏哉くんだったの。
 図書局に入って、奏哉くんのこと見たとき、奇跡だと思ったよ。
 そして、運命なんじゃないかってことも。
 だから、同じ曜日に入るようにしたの。

 だけど、高校合格したあとすぐに余命1年って宣告を受けてたから、
 本当は今すぐに付き合いたかったけど、
 1年後に死ぬのわかってて、そんなことするって、
 ものすごくつらいことだと思うから、やめちゃったんだ。

 だけど、宣告された時期も過ぎて、
 死期を逃した私は残り時間に縛れずに残りを生きようと思ったんだ。

 だから、小説を書き始めたし、
 自分と向き合うことができた気がするんだ。
 ある意味、長く生きるとか、そう言うことは諦めて、
 開き直ることにしたの。

 そんな中、奏哉くんが告白してくれたんだ。
 嬉しい反面、身体弱いこと言わないといけないとも思った。
 だけど、なかなか言い出せなかった。

 だって、楽しいんだもん。

 もっと、生きたいって、余命宣告受けて、
 その時期を越して、せっかく開き直ってたところだったのに。

 そして、私の小説を読んで、褒めてくれたのは毎回、すごく嬉しかったよ。
 だから、その気になって、長編小説書こうとしたのにさ。

 無理だったから、約束通り引き継いでね。
 これが私からの本当の最後のお願い。
 ただ、無理はしないでね。
 何十年でも完成するのを待ってるし、
 完成できなくても、奏哉くんのこと、とがめないから安心して。 

 小説はクラウドの中に入ってます。
 クラウドのIDとパスワード、別の紙に書いたから、よろしくね。

 最後に人に愛されることを知れた私は幸せ者でした。
 ありがとう、愛してます。
 
 PS ノートの最後から2つ前のページをみてください。
 


                            お空へ行った涼葉より』




 電車を降りたあと、僕はホームを走り、改札を抜け、外に出た。少しでも早く家に帰りたくて、シャッターが閉まり、すずらん街灯で薄暗い見慣れた商店街を走り抜けた。10月の夜の空気はすでに秋に満たされていて、少しだけ冷たかった。そして、商店街を抜け、住宅街に入ったとき、息が切れてしまい立ち止まってしまった。

 何度か大きく、息を吸い込むとやっぱり僕だけが生きているんだと、つらくなった。涼葉が咳き込んでいたことをふと思い出した。
 息が少しだけ整い、空を見上げた。深い藍色の空には、今日は月は浮かんでいなかった。その代わりにいくつかの一等星がまたたいているのが見えた。こんなにじっくりと夜空を見上げたのは、いつ以来だろう。
 涼葉が隣にいれば、こんなくだらないこと言っても、受け止めてくれてたんだろうな――。
 つらい波が胸のなかで何度も打ちつけ、喉の奥が熱くなりそうになった。

「泣くにはまだ早いだろ」とぼそっと言いながら、頬はすでにいくつもの粒で濡れた感触がした。




 部屋につき、机の下に置いてある椅子を引き、座った。そして、机に置きっぱなしの青いノートを手に取り、涼葉に言われたとおり、ノートの最後から2つ前のページを開いた。そこにはこう書いてあった。

〈9、すべての『』を繋げた君へ。〉
〈書いた小説の順に『』を拾ってね。私から奏哉くんへの最後のお願いだよ〉

 その文章の下に〈『〉が書かれていて、ページの一番下に〈』〉が書かれていた。そして、その間にそれぞれ数字が書かれていた。

『1→
 4→
 5→
 3→
 6→
 2→
 7→
 8→        』


「そういう意味だったんだ――」
 僕はノートの一番最初のページを開き、ひとつずつ涼葉がこの世界に残した小説を読み始めた。




『1→
『もし、こっちが世界から消えたら、忘れてね。』
『一瞬だけでも君と過ごせてよかったと思ってるよ。だから、忘れて。氷が溶けたあとの水たまりみたいにね。だからね、』『君が大切だってことを伝えたいんだ』
 
 4→
『身体には何本もの線が繋がれていて、それらの線は心電図の機械にまとめられていた』
『あのとき、ものすごく失望していたんだ』
『こんな自分の運命を受け入れることができなかったんだ』
『だけど、あれのおかげで、君の優しさに触れることができたし、初めて愛しいと思える人と出会えました』

 5→
『そのとき、』『見た夢の中でね』

『少しでも長く君と一緒にいて、話がしたいなって思った』
『私だって知りたいよ』『君のこと』
『なぜか自然に君にいろんなこと話してることに気がついたんだ。なんでだろうって思ったけど、たぶん、これが相性なんだろうなって思ったんだよ』
『私なりに考えた結果だよ』

 3→
『たまに予知夢、みるときがあるんだ』
『この前ね、』『死ぬ夢、みちゃったんだ』
『ふわふわしたような、嫌な気持ちは消えなかったよ』
『瑞々しかった過去の出来事になりつつあるのが少しだけ寂しく感じたから、そのまま伝えようと思ったんだ』

 6→
『夢で見た光景、そのまんまだったから』
『だから、告白されて嬉しかったよ』
『君のことがずっと好きだったから』

 2→
『孤独を好むタイプな』『君のことが好きだよ』
『なにかをインストールされるような、そんな気持ちにふわふわしていた気持ちが固まり始めていることにふと気がついてしまったよ』

 7→
『もっと自由に青春を過ごしてみたかったな』
『ずっと一緒に生きていたい』
『ずっと一緒に生きたい』
『あーあ、ずっと一緒に生きていたかったな。もし、私が先にいなくなっても忘れないでね』

 8→
『これじゃあ、つたなすぎて、気持ちを伝えられないから、あとで手紙で伝えるね』
『ただ、ひとつだけ』
『私が言いたいことは、』
『生きている証が君によって、続いたら、すごくいいなって思ったんだ』

『重いお願いになるけど、受けてくれたら嬉しいな』
『最後にひとつだけ伝えるね』
『君のことが好きだった』

『やっぱり、想いを伝えるのって、手紙みたいに上手くいかないね。言ってること、ぐちゃぐちゃじゃん』

『奏』『哉』『くん』『自分らしく強く生きてね』

                                        』
 


 この怪文書を完成させてしまうと、僕は涼葉に強くお願いされているように感じた。本当に長い夢の小説を完成させたかったんだと思う。だけど、それができなかったんだ。
 
「いいよ。自分らしく生きてやる」
 ぼそっと、そう言いながら、失った事実が、青く、深く、胸に押し寄せてくる感覚がしたから、息を思いっきり吐いた。
 吐いた息はすでに熱くて、その熱を感じている間にまた頬は簡単に濡れてしまった。






 僕は小説が書けるようになるために勉強を重ねた。そして、文学部に合格し、僕は上京した。この街で涼葉と過ごした思い出は少しずつ、遠のいていくのは、ものすごく寂しく感じた。
 だけど、僕は涼葉が残した残りの言葉を紡ぎたかった。

 あれから2年が経ち、僕は19歳になった。
 その間に何度も、涼葉が残した小説を読み直し、そして、涼葉が中途半端に残したままの長い夢の小説をどうやって完成させようかこの2年、ずっと悩み続けていた。

 そして、月曜日。
 真夜中、僕はローテーブルの上に置いたMacBookのキーボードを叩いていた。
 耳につけたAirPodsからは、ストロベリー・フィールズ・フォーエバーが心地よく流れていた。
 
〈「僕は君に出会えたことが奇跡だったし、君が本当に必要だったんだ。だから、ありがとう。もし、僕がこっちが世界から消えたら、忘れてね」
「忘れるわけないでしょ。私は絶対、忘れないよ」
 気がつくと黄色と白が交じる朝日で8時間の藍色は水色に変わっていた。と一緒に溶け始めた死神を私はただ、抑えられない涙を我慢できずに、ただ見つめているだけだった。〉

 日曜日から5分過ぎて、涼葉が残した長い夢の小説を僕は完成させた。

「すべての『』を繋げた君へ。」
 僕は小説のタイトルをぼそっと言ったあと、マグカップに入っているカフェラテを一口飲んだ。