5,君の嘘に騙されたい。

 ソーダ水で満たした水槽に熱した鉄球を落とすように、私は君に恋をした。
 
 鉄球が水槽の底に沈み、周りは激しく気泡を上げ、水槽の底は熱で日々が入り始める。
 それくらい、私は君に恋い焦がれているし、その気持ちを表現したい。

 だけど、私はコミュ障でそんなこともできない――。



 君――。
 湊(みなと)くんと1対1になったのは、図書館だった。
 私はいつものように学校の近くにある図書館で本を借りて、帰ろうとしたら、湊くんと入口でばったり会ってしまった。湊くんは私のことを無視するかと思った。 
 だって、湊くんは私のことなんて、きっと同じクラスメイトとなんて認識してないかもしれない。私はクラスの中でうまく話せない所為で不気味がられていた。だから、空気みたいな扱いをされている。
 10月にふさわしくなく、湊くんは長袖の白いワイシャツを腕まくりしていた。
 その腕は筋肉質で図書館よりはジムのほうが似合いそうな雰囲気だった。

「おー、柊佳奈(ひいらぎかな)じゃん」と湊くんは、本当に何もないかのように、昨日まで関係性があるかのように、軽やかにそう言ってくれた。じんわりと両手が汗で滲むのがわかる。てか、初めて話すのになんでこんなにフレンドリーなんだろう――。

「――ど、どうも」と私は何も思いつかず、そう返した。
 
 休み時間1軍女子の話を盗み聞きというか、勝手に聞こえてきた話のなかで湊くん人気は、異常なことは伝わってきた。
 昨日、帰りのバスで二人きりで、話すのチョー緊張したとか、篠山がコソコソ話していた。きっと、篠山は湊くんと付き合いたいらしい。篠山心晴(しのやまこはる)を囲む、石井澪(いしいれい)も、河岡(かわおか)みすずも、いいじゃん、チャンスじゃんとか、LINE交換した? とか、そういうやり取りをしていたのを思い出した。
 
「どうもって、恥ずかしがり屋だな。佳奈は」
 湊くんはしっかりと、前歯が見えるくらい明るく微笑んだ。その笑顔はきっと、後天性のものじゃないと思う。先天的に明るくて、どんな人もポジティブにしちゃうような、そんな笑顔だ。筋が通ったこぶりな鼻、そして、二重の左目の少し下にある涙ボクロが、かっこよさよりも、愛嬌、かわいさを出しているように感じる。なんか、吸い込まれちゃうくらい、親しみやすそうだし、優しそうで、湊くんはいつもクラスで遠くから見るよりキラキラしていた。

 ――だけど、何を話せばいいのかわからない。

「俺、こうみえて意外と、読書家なんだよね。佳奈は、もとから読書家だろうけどね」
「――どうも」と私は芸のない他人行儀な返事を返した。本当はもっとまともなことを話せたらいいのに。

「いつも学校の帰り、図書館に寄ってるの?」
 そう聞かれたから、私は小さく頷いた。
「だろうね。そんな感じかと思った。てかさ、ここで話すのもあれだから、自販機で飲み物買って、少し外のベンチで話そうよ」
 私は急に頭が真っ白になった。そもそも、友達なんていないし、人からこうやって誘われたことも、ほとんどない。小学校低学年くらいで私は周りからあまり誘われなくなった。

「――じゃあ」
「よっしゃ。そしたら、行こうぜ」
 じゃあねって言おうと思ったのに、それを遮るように湊くんは急に私の手を繋いだ。私は動揺したまま、何が起きているのか理解しようとしている最中に、湊くんは自販機コーナーの方へ歩き出し、私は引っ張られた。



 10月に入ってもまだ、冬は本気を出していなかった。
 だから、私と湊くんは、20℃くらいのちょうどいい微温さの中、図書館の向かいにある公園のベンチに座った。私は缶のつめたいカフェオレを買い、湊くんはペットボトルのつめたいブラックコーヒーを買っていた。

 ベンチに来るまでも、湊くんは無邪気そうにベラベラと、こないだ篠山とバスで二人っきりになったんだけど、気まずかったとか、LINE聞かれなくてよかったとか、噂を知ってるから、少しだけ嫌気がさしてるって話を、マシンガンを空中に打ち込むみたいに話し続けていた。
 私はその間、ずっと、へぇ。とか、そうなんだ。とか、意外。とか、自分でもうんざりするくらい、愛嬌もかけらもない返事ばかりしていた。

 なんで、そんなこと、私になんか言うんだろう――。

「あーあ、だから、うんざりしてるんだよ。乾杯ー」
 湊くんは一通り、そう言ったあと、私のカフェオレにペットボトルを当てて、コーヒーを美味しそうに飲んだ。だから、私もカフェオレの缶を開けて、一口、飲んだ。

「――ど、どうして、うんざりしてるの?」
「どうしてって、どう考えても俺の内面を評価してくれてないと思うから。みんな外面で近寄ってくるんだよ」
「いいことじゃん」
「よくないよ。どうせ、そんなのすぐに別れるんだから。それで、ここが駄目だったとか、がっかりしたとか、顔の割に大したことなかったとか、そんなこと言われるんだよ」
 湊くんは、わざとらしく、ため息をついた。そして、もう、一口、コーヒーを飲んだ。そのあと、私はどうやって話を進めればいいのかわからなくて、そのまま黙ってしまった。
 そのあと、しばらくの間、私と湊くんはお互いにカフェオレとコーヒーをちまちま飲んでいた。目の前に広がる空には小さい雲がひとつだけ、風にゆっくりと流されていて、そのうち、ちぎれて消えてしまいそうだった。

 きっと、湊くんはこんなコミュ障な私に手を焼いているに違いない。
 きっと、気まずいと思っているだろうし、私に声をかけたことを後悔しているに違いない。

「俺さ、陽キャに見える?」と聞かれたから、私は静かにうんと頷いた。すると、だよなって言って、湊くんはそっと微笑んできたから、私は直視できず、そっぽを向いた。

「実は高校デビュー組なんだよね。俺」
「――そうなんだ」
 それをわざわざ高校デビューすらしてない私に言うことなのかって考えながら、くるくると空回りしたスピンドルみたいに私はどう会話を続ければいいのか全くわからなかった。

「だから、元々、根暗だし、コミュ障だし、こうやって読書も好んでるんだ」
「なんか、秘密なこと聞いてるみたい」
「別に秘密ってわけじゃないけどね」
「そうなんだ」
「うん。だけど、時々、苦しいときがあるんだ。陽キャでいるの。だから、佳奈には言ってもいいかなってふと思ったんだ。さっき会ったときに」
「なんか、頑張ってるんだね」
「優しいね。佳奈は」
 そう言われて、急に身体が熱くなっていくのを感じた。胸にじんわりと感じる不思議な感覚。きゅっと締め付けられるような、ほわっとしてしまうような、そんな変な感じに身体が包まれているみたいだった。

「なんか、やっぱり勇気持って話しかけてみるもんだな」
「え、私に話しかけることが、そんなに勇気いることだったの?」
「当たり前じゃん。女の子なんだし。クラスでは接点ないから、俺のこと、悪く思われてるかもしれないし」
「そんなわけないじゃん。クラスでも好感度高いのに」
「いや、あれは俺が努力して作った偽善の好感度だから」
 湊くんがコーヒーを一気に飲み干したから、私も慌てて、残っていたカフェオレを飲み干した。

「なあ」
「――なに?」
「偽装彼女になってくれない?」
「えっ――」
 私は言っていることがわからなくて、言葉を失った。
 というか元々、半分、失っているようなものだから、コミュ障の所為でなんて返せばいいのかわからなくなっているのかもしれない――。
 というか、偽装ってなに?

「あ、偽装って、言い方悪かったな。実は篠山にストーキングされてるんだよね」と言ったあと、湊くんはそっと、私の左手の上に右手を乗せてきた。びっくりして、思わず湊くんを見ると、左手を自分の顔の前に立てて、悪いと言うようなジェスチャーを送ってきた。そのあと、湊くんの右手は私の左手を繋いだ。

「これで、ショック受けてくれたらいいんだけど」と言ったあと、小声であそこ、見ろよ。と首で弱く左の方に一瞬、顎を上げたから、そちらを見ると、かなり先のほうにあるベンチに、私たちの学校の制服を着ているように見える女子高生が座っていた。

「篠山、いいiPhone持ってたから、きっとカメラの最大望遠で俺らのこと、見まくってるぜ」
 湊くんがわざとらしく、私の手を繋いだまま、右手を上に上げた。だから、私の左腕は引っ張られるように上がり、胸が思いっきり張り出した状態になって、ちょっと恥ずかしかった。

「よし、これくらい、しとけばいいかな」
 湊くんはゆっくりと右手を下げた。だけど、私は手を繋がれたままだった。これが本当の恋だったら、いいのにってふと思って、私はもうすでにそんな湊くんに恋しちゃったのかもしれないと思った。

「佳奈、もう少し、歩こうぜ」
 湊くんはそう言いながら、立ち上がった。だから、私も慌てて、立ち上がって、手を繋いだまま、公園を歩き始めた。



 あれから、週が明けても、私は自分が湊くんの偽装彼女なのかどうかわからないまま、もやもやした日々を過ごしていた。
 今日も、朝、教室に入るとき、ちょうど湊くんと入口で鉢合わせたけど、湊くんは誰にでも接するように「おはよう」と微笑みなが言ってきたから、私は小さな声で「お、おはよう」と最初の「お」の音が掠れたから、言い直したら、まるで自分が動揺しているかのようにどもってしまった。

 あの日、結局、偽装彼女ってなに? って聞くこともなく、ただ、湊くんに「助かったよ。ありがとう。この礼はどこかで返すから」と言われて、私はうんと頷いて、公園から駅前まで繋いだままだった手をそっと離した。
 じゃあねと言って、湊くんが私が乗る反対方向のホームに繋がる階段に吸い込まれるのを立ったまま、見つめていた。湊くんが階段を降り始め、姿が見えなくなったあと、右手の手のひらを眺めた。
 まだ、右手には湊くんの熱が残っているような気がした。

 そんなことを考えているうちに6限の数学Ⅱが終わった。机の上に右手を返して、右手を眺めた。当たり前だけど、もう5日も経った右手には湊くんの熱なんて残っていなかった。
 息をすっと吐いた。
 帰る準備しなくちゃ――。

 私は右手をそのまま、右のほうへスライドさせた。『そのとき、』机の端に置いていた赤いシャーペンがありえない勢いでコロコロと机の上を転がり、そして、床に落ちた。

 また、やっちゃったよ、ピタゴラスイッチ。
 こういう不注意なところが嫌になる。だって、この些細な不注意で、もし、隣の席の子の椅子の真下にシャーペンが入ってしまっても、私はきっと、シャープペンを取ることができない。帰りのホームルームが終わってから、そっと、シャーペンを回収するか、それでもダメなら、掃除当番に落とし物扱いにしてもらって、次の日、こっそり担任にもらいに行く。
 もし、掃除のときに捨てられたら、もうそのシャーペンはそれっきりだ。

 憂鬱な気持ちで下を見ると、やっぱり厄介なところにシャーペンが落ちていた。右側の席の様子を伺う。1軍のバカ男子二人組、吉岡蒼(よしおかあお)と伊藤誠(いとうまこと)がガヤガヤとちょっかいを掛け合っていた。
 シャーペンはちょうど、吉岡蒼と伊藤誠の間に落ちていた。二人はバカ騒ぎの最中で私のシャーペンになんか気づいてもいなかった。
 クラスでは奇跡の組み合わせと言われているらしい。
 このバカ二人組がクラスの雰囲気を牽引していると言っていいほど、仲が良くて、こうして、チャイムが鳴った途端に常にふざけあっている。

「今日の踊るヒット賞は明らかに俺らじゃないよな」
「残念だけど、ニシマリちゃんだな」
「うぇーい。マネしてよ」
「いいよ。いくよ? ちょ、せんせぇぇぇーん! 全部、忘れましたー!」
「ちょっと私の真似しないでよー!」と声が後ろのほうから聞こえたあと、クラスの3分の1くらいが笑いに包まれた。
 こういうとき、私は困る。というか、私にしてみたら、最悪の奇跡だ。こんなうるさくて、よりによって、クラスの中心みたいな場所の席にいるのはつらい。こんなときどんな反応すればいいのかよくわからなくなる。
 それも、たまに普通に面白いときがあるから、笑いそうになり、ほころぶ頬を手で覆い、隠したりする。だけど、今みたいに人の真似をして、小バカにするネタは好きじゃないから、周りから笑いが上がるたびに気まずい気持ちになる。

「お前ら、いつからヒット賞決め始めたんだよ」と後ろのほうから、湊くんの声がした。そして、私の席の真横まで来て、バカ二人組の前に立った。
「悔しいなら、面白いことしな。このリア充め」と伊藤誠が言ったあと、うぇーいと言いながら、湊くんにパンチをするフリをしたのを、湊くんは華麗に身体を捻って、パンチをかわすフリをした。
「バーカ。先月から非リアだよ。俺」
「お、そうだったな。おめでとうございまーす!」
「うるせーよ。ヨッシー。お前はアイランドでマリオの配送でもしてろ」と湊くんはそう言いながら、かがみこみ、左手で吉岡の脇に手をすっと入れて、吉岡の脇をくすぐろうとしていた。

「おいやめろよーーー。俺の脇はガラスなんだって。誠、笑ってないで助けろーーー」
「うるせぇ、お前なんて笑い死ね!」と伊藤誠が下品な声で楽しそうにそう言った。湊くんは一通り、吉岡のことをくすぐったあと、再び立ち上がった。
 そして、右手を背中のほうに回した。湊くんの右手には私の赤いシャーペンが握られていた。私は驚いて、思わず凝視してしまった。

「はよ」と湊くんは私のほうを向かずにそう言った。そして、手に持っているシャーペンを上下に細かく揺らしていた。私を誘っているかのように――。

「え、なにを?」と伊藤誠はもっともらしいことを言った。
「なんだと思う?」と湊くんは何事もないかのように、そう言ったあと、シャーペンを揺らすのをやめた。だから、私はそっと、湊くんの右手から、シャーペンを取った。
「笑い死ねーーー!」と湊くんはそう言って、再び、かがみ込み、今度は吉岡の両脇をくすぐり始めた。そして、吉岡は本気で笑い死ぬんじゃないかってくらい、息を乱しながら笑い転げていた。



 いつもの帰り道を歩いているだけなのに、私の心はふわふわとしていた。気持ち、いつもより早足で、まだ心臓は冷静にドキドキしている。今日もこうして、ホームルームが終わってすぐに学校を出ることができたのも、湊くんのおかげだ――。
 
 というか、どうして、私のシャーペンを拾ってくれたんだろう――。
 どうして?
 だって、私は偽装彼女なんじゃないの?
 私のことなんて、ほっといてもいいのに。
 今までみたいに。
 
 

「湊、付き合い始めたらしいよ」
「え、マジで。誰と?」
「柊とだって」
「えー、なんで?」
 津久井萌夏(つくいもか)が河岡みすずにそう話している会話が聞こえた。津久井萌夏が始めた話は私自身をドキッとさせた。昼休みが終わる15分前に、職員室に提出物を出しに行った。その帰り、廊下を曲がろうとしたとき、このやり取りが聞こえてきた。シャーペンを拾われてから1週間、偽装彼女になってから10日が経とうとしていた。
 とうとう、噂になったんだって、ふと思った。そして、そのことが急に嫌になった。今朝『見た夢の中でね』、私、空飛んでたんだよとか、そんなこと言いあえる関係じゃないんだよ。私と湊くんは。ってくだらないことを考えても、噂されているのは現実だった。
 廊下の曲がり角の先できっと、二人は話しているに違いなかった。そんな話をしている本人が真横を通り過ぎたら、どんな表情されるかわからない――。
 一気に余計な汗が吹き出てきた。
 そして、余計に心拍数が爆発的に上がっていく――。
 私はその場に立ち止まった。教室に戻りたいけど、戻ることもできず、とりあえず、話を聞くことにした。

「てか、萌夏と真逆のタイプじゃん」
「そうだね。いいんじゃない。私よりきっとお似合いだよ」
「いや、それでも釣り合ってないじゃん」
「そう? 価値観はあいつと釣り合わなかったけどね。私」
「だから、柊と釣り合ってるって言いたいの?」
「そう、そう言うこと」と津久井萌夏が言い終わると、二人はゲラゲラと笑い始めた。
 きっと、あの日、篠山以外にも私と湊くんが一緒にいるところ、そして、手を繋いでいるところを見られたんだ。少なくとも、津久井には見られているはずだ。
 津久井はクラスの中で一番かわいい子だと思う。
 というか、実際に男子にもちやほやされてモテているのは知っている。それなのに、1軍女子にもしっかり馴染んでいて、クラスの立ち回りがすごいなって感心しちゃうときがある。
 そんな津久井萌夏も裏ではこんな噂話が好きだったんだと思うと、勝手にそんなのと無縁だと思いこんでいたから、少しだけショックだった。しかもよりによって、私のことだし、私はそもそも湊くんの偽装彼女に過ぎないのに――。

「萌夏って、変な男のこと好きになるよね」
「まあね。私も変わってるからかな。別れたけど」
「別れたってことは普通に戻ったってことだよ。あいつ、イケメンなのに、たまに行動が謎で残念なときあるよね」
「それ、元カノの私にいうこと?」
「あー、ごめんごめん。だって、もう別れたからいいでしょ」
 この会話をはたから聞いていると、本当にこの二人は仲がいいのかわからないような会話の内容になってきた。だけど、津久井萌夏はそんなことは気にもとめずに軽やかな声色で話を進めていた。津久井と湊くんが付き合い始めたとき、クラスでもちやほやされて、話題になることが多かった。何かの授業でペアを組むときは周りが、無理やりもてはやして、カップルで組ませて、また、ちやほやするというのが鉄板ネタになっていた。

 4月に付き合っていることがクラスに広まり、そして、津久井と湊くんは8月末に別れた。たった4か月で一体、どれくらい湊くんのことをできたんだろう――。それで、それがチャンスだと思ったのか、篠山心晴が9月から、猛烈に発情し始めた。
 そして、こないだ湊くんが言ってたことが本当なら、放課後に湊くんのことをストーキングし始めたのも、つい最近のことだったのかもしれない。

「問題は心晴にどう話すかだよね」
「そうだよね――。萌夏が目撃したんだし、萌夏が言ったほうがいいと思うな。私」
 やっぱり、この二人、本当は仲が悪いのかもしれない。女の嫌なところが出ていて、私はこんな話、もう聞きたくなくなってきた。
「えー、私が言うのは良くないよ。元々、付き合ってたんだし」
 篠山心晴はもう知ってるよ。って言いたくなったけど、朝、教室に入ったとき、露骨に篠山心晴ににらまれたのを思い出した。その目は突き刺すように鋭くて、私は思わず下を向き、自分の机へ向かった。篠山心晴が私のことをじっと睨んだことはきっと、まだ、誰も気づいてはいない。
 だって、篠山心晴は私が湊くんと手を繋いでいたことをまるでなかったかのように、湊くんに話しかけていたんだもん。そして、湊くんもいつも通りだったし、クラスの中でこの異変に気づいているのは、湊くんの元カノの津久井萌夏と、篠山心晴と津久井萌夏と交流がある河岡みすず、そして、当事者の私――。
 事故に巻き込まれているのはもちろん、湊くんで、その事故にさらに巻き添えにされたのが、私だ――。
 そして、ストーカーの篠山心晴。
 
 チャイムが鳴った。予鈴のチャイムだ。
「あー、鳴っちゃった。みすず、もうダメだね。またあとで考えよう」
「わかった。授業中めっちゃ考えておくわー。心晴ショックだろうなぁ」
「そうだね。行こう」

 ようやく、二人がゆっくりとした足音が聞こえて、私はようやく水面から出て、息ができるような開放感に感謝した。



 今日は図書館に本を返しに行く日だ。だから、私はいつものように借りた3冊の本をカウンターで返した。そして、見慣れた棚を眺めながら、また小説を3冊選び、それをカウンターに持っていった。

 いつものように外に出ようとしたら、こないだ、10日前と同じように湊くんと入口でばったり会った。

「佳奈じゃん」
「ど、どうも――」と言って、私はその場を立ち去ろうとした。だけど、湊くんは簡単に私の左腕をつかんできた。その瞬間、また胸が締め付けられる感覚がじんわりと、胸に広がり始めた。よく、ハートを矢で射抜くアニメーションがあるけど、きっと、こういう感覚を表現してるんだって、妙に自分の中で説得力が生まれてきた。

「なあ、こないだのお礼させてよ」
「い、いいよ」
 もちろん、私は断ったつもりだった。
 だけど、湊くんは私がそう言った瞬間、にっこりと微笑んで、じゃあ、行こうかと言われて、私は10日前みたいにそのまま、手を繋がれて、湊くんに引っ張られるようにどこかに連れて行かれることになってしまった。



「ということで、マジで助かったわ。ありがとう」
 そう言って、湊くんは美味しそうに期間限定のフラペチーノを一口飲んだ。だから、私も湊くんの真似をして、フラペチーノを一口飲んだ。口に含むと、口のなかいっぱいにチョコレートとマロンの風味が広がった。
 決して安くはないフラペチーノを湊くんは簡単に私に奢ってくれた。

 それも、限定のフラペチーノでいいと聞かれて、うんと頷いたら、しっかり2つ頼んでくれた。さらに先に席、座ってていいよって言われたけど、どこに座ればいいのかわからず、困っていたら、湊くんが私の手を引いて、二階の一番端っこの席まで連れて行ってくれた。
 そして、そこで待ってて、と言い残して、1階のカウンターからフラペチーノを2つ運んできてくれた。私は友達にもこんなに行き届いたことはされたことがなかったし、もちろん、家族にもそんなことされたことはなかった。そう、湊くんは私にとって、初めて見る人種に見えた。
 なんでこんなに気を使えて、こんな、どんくさい私に優しくしてくれるんだろう――。

「――お礼にしては、重すぎるよ」
「え、引いた?」と言われて、私は慌てて横に首を小刻みに振ると、よかったと言って、湊くんは優しく笑ってくれた。

「だよね。よかった。遅くなってごめんな」
「遅くなんかないよ。――まさか、誘われるなんて思ってなかったし」
「そう? 俺は義理固いからね」
「そうなんだ」
「あぁ。あの日から篠山にストーキングされることもなくなったし、マジで佳奈に助けられたよ。ありがとう」
「――お礼、二回目だよ」
 あ、お礼しなくちゃ。私は緊張して、いちばん大事なことを忘れるところだった。

「この間……」
「この間?」
「その……シャーペン」
「あー、あれね。どじっ子だよな。意外に佳奈は」
「――あ、ありがとう」
「いいんだよ。あれくらい。それにこれ、デートだし」
「……で、デートなの?」
「うん、そうでしょ。俺と佳奈の初デート。読書が好きで、陰キャでコミュ障の俺たちにとって、ぴったりの場所でしょ。スタバ」
「――男の子とスタバなんて」
「初めて?」と言われたから、うんと小さく頷いた。

「俺は女の子と来るの初めてじゃないけど、もし、タイムスリップして、初めて俺とスタバ行く女の子選べるなら、佳奈がよかったなー」
 そんな軽いこと言えるんだ。って思ったけど、そんなこと、湊くんに言われて、私は間に受けてしまいそうになる。――私たちって、本当に偽装なんだよね? って聞きたくなっちゃうけど、偽装でもいいから、『少しでも長く君と一緒にいて、話がしたいなって思った』。それになぜかわからないけど、湊くんとなら、なぜかいつもより、自然に話せている気がした。

「顔、赤くなってるじゃん。かわいい」と穏やかに笑いながら、湊くんはプラスチックのカップを手に取り、もう一口フラペチーノを飲んだ。私はさらに恥ずかしくなり、思わず、右手で口元を覆った。

「なあ」
「――な、なに?」
「あれだけじゃないから」
「……えっ?」
 湊くんが、いったい何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。
「ちゃんと、守ってあげたい。佳奈のこと」
「――ど、どういう。……ふ、ふうに」
 あ、間違った。どういう”こと”と聞きたかったのに、”ふうに”にしたら、余計、話がわからなくなりそうだ。
「佳奈って、意外と察しが悪いんだね。本たくさん読んでるのに。そのままの意味だよ。少し考えてごらん」と湊くんはそう言って、また、意味があり気な雰囲気で微笑んだ。



 なかなか眠れない――。今日が週末でよかった。
『考えてごらん』っていたずらに言われたけど、これって、本気にしていいってこと――?

 私はますます湊くんのことがよくわからなくなった。ただ、私に声をかけただけなのか、それとも、本気で湊くんは私のことを考えてくれてるのだろうか。

 ――いや、たぶん、ないと思う。
 ないに決まってる。

 だけど、『ちゃんと、守ってあげたい』ってどういうことなんだろう。
 私は弄(もてあそ)ばれているだけかもしれない。
 だけど、もし、それが本当の気持ちだったら、私はいったい、この気持ちをどうすればいいんだろう――。
 


「ありがとう。助かったよ」
「ううん。いいよ。――だけど、どうしてあんなことしたの?」
 私はまた、聞いてはいけない会話を聞いてしまっているみたいだ。私はその場に立ち止まり、誰の声なのか耳をすました。またこの間と同じ、廊下の曲がり角だ。日直だったから、日誌を書ききったあと、職員室に行き、担任の机の上に日誌を置いてきた。そして、あとは帰るだけだと思っていたのに、今日も、こんな横を通りづらいシチュエーションに遭遇してしまった。

「俺は――」
 あ、と声を出しそうになったけど、ここで出したら、いけないと本能的にわかったから、私はじっとすることにした。
「そんなにストーカーされてるの、きつかった?」
「――逃れたかった」

「へえ。私と別れなければよかったのにね」
「――そうかもな」
「ふふ、冗談だよ」
「萌夏のはマジっぽくて反応に困るよ」
「だけど、よかったじゃん。結果」
「あぁ。ありがとう」
「だけど、あの行動はいらなかったんじゃない?」
「あの行動?」
「うん。柊と手、繋いでた。付き合ってるんでしょ」
「――いや、あれはただ、利用しただけだよ」
 利用――。
 待って、じゃあ、スタバで言ってくれたことは――。

「ふっ、最低だね」
「――そうだな。だけど」
 もう聞いていられないと思い、私はそっと、その場から逃げ出した。反対方向へ歩みを進めるたびにこないだまで感じた痛いとは違う痛みが胸を占めていく。気がついたら、両目から、涙が溢れていた。一歩踏み出すたび、一滴ずつ、涙が頬を伝う感触がした。



 また、あれから1週間、前に本を借りてから10日が経ったから、私はいつも通り、図書館で本を返し、本を借りた。そして、いつものように図書館を出ようとしたら、やっぱり湊くんがいた。湊くんは小さく手を振ってきたけど、私はそれを無視して、下を向いた。

「佳奈じゃん」
「――私のことストーカーしないでよ」
「してないよ。ただ、佳奈が几帳面なだけだよ。だって、こないだも、その前も時間ぴったりなんだもん」
 私は顔を上げて、湊くんのことを見た。湊くんはいつものように優しく微笑みかけてくれた。だけど、この微笑みはきっと、嘘だろうし、私を利用するための微笑みなんだ。
 最初に会ったとき、私と同じで陰キャで、コミュ障だったって言ってたけど、結局、それもきっと私を利用するための嘘だったんだろうって思うと、どんどん悲しくなってきた。だから、私はもう嫌になって、再び歩き始めた。
 だけど、湊くんはこないだと、全く同じように私の左腕をつかんできた。

「――は、離してよ」
「離さないよ」
 私は何度か力強く左腕を振り払おうとしたけど、湊くんは私のことを離してくれなかった。
「佳奈、どうしたんだよ。今日」
「――い、いそいでる……から」
 私は動揺して、上手く話せない。いつもより言葉に詰まるし、いつもより気持ちが乱されている。そう言ったあと、左腕を大きく上げて、そのあと、力強く振り下ろした。それとあわせて、湊くんは私の腕をすっと離した。だから、私はそのまま、走り始めた。

「――佳奈!」と後ろから大きな声が聞こえたけど、私はそれを無視して、走り続けた。
 
 ――もう、いいよ。
 湊くんのその優しさがつらいんだよ。私はそのまま駅まで走り続けて、駅前のロータリーで思いっきり息が切れた。



 11月になり、急に冬が本気を出した結果、私はすでにブレザーの上にマフラーをまとって登校している。家から駅まで黙々と歩き続けている。外の空気は先月、湊くんに初めて図書館の前で話しかけられたときから比べると、嘘みたいに冷たくなっていた。息を吸うと、冷たい空気と、冬が始まりそうな新鮮な香りがした。
 あれから、10日が経った。
 あれから、湊くんとは話していない。

 私はいつもどおり帰りに図書館に寄る日だから、背負うリュックは借りた本の分だけ重かった。いつものように地元の駅に着き、モバイルSuicaの定期が入っているiPhoneをタッチした。

 階段を降り、ホームに着くとちょうど反対方向の電車が発車していった。反対方向の電車はすでに人がたくさん乗っていた。だから、ホームはいつものようにガランとしていた。私が乗る方向の電車を待つ人はまばらだった。
 ホームの端の方まで歩き、いつもの乗車口に立った。ブレザーのポケットからレモン味のハイチューを取り出し、そして、包み紙をあけて、口の中に入れた。急に口の中がさっきまで冬の空気で満たされていたのに、一気に夏みたいな爽やかさになった。

「へぇ。朝からハイチュー食べるんだ」
 聞き覚えがある女の声がして、びっくりして、声がした右側を向くと、津久井萌夏が立っていた。私は驚きすぎて、なにを話せばいいのかわからなくなった。元々、人と話すときは頭が真っ白になるけど、今の状況が上手く飲み込めず、余計に頭の中が真っ白になった。

「無視しないでよ」
「……お、おはよう」
「あ、そうだね。おはよう。湊の彼女」
「……べ、べつに。ち、違うんだけど」
「違わなくないでしょ。元カノとして、湊から彼女だって聞いたんだけどなぁ。おかしいね」
「おかしく……ないよ」
「動揺しすぎでしょ」
 津久井萌夏はそんな私に半ば呆れているようにそう言った。津久井萌夏の、その整った小さな顔でつんとした不機嫌な表情しているのも思わず見惚れるくらい絵になっていた。美人のボブ姿は無敵だなって余計なことばかり考えてしまう――。
 てか、やっぱり、1軍女子のなかでは穏やかそうな性格に見える津久井萌夏もこうして二人っきりで話すと、性格がきつく感じた。私に敵意を向けているのか、なにがしたいのか私にはさっぱりわからなかった。

「ねえ」
「……な、なんですか」
「なにその急な敬語。まあいいや。私だって頑張って柊の行動パターン分析して、せっかく二人きりになれたんだから、手短にいくよ」
 なんで、私なんかと二人っきりになる必要があるんだろう――。

「柊佳奈、湊のこと、どう思ってるの?」
 どう思ってるって言われても、私は湊くんに利用されたんだ。だから、恋以前の話だし、なんで津久井萌夏なんかに話さなくちゃならないんだろう――。だから、私は困って、小さく横に首を振った。

「なにそれ。湊は本気で柊のこと心配してるのに」
「……えっ」
 心配? 湊くんが私のことを?

「――ど、どなんして?」
 あ、ダメだ。”どうして”と”なんで”が混じっちゃった。
「どうしてもなにも、『私だって知りたいよ』」
 私がよくわからないことを言ったのに、津久井萌夏は私の変な話し方なんてどうでもいいみたいだった。じっと、隣で見つめてくる津久井萌夏の大きな瞳に吸い込まれそうになるくらいだった。
 だけど、もしかしたら、それだけ本気で何かを私に伝えたいのかも――。

「てか、普通にまだ別れたばかりでこっちは気持ち引きずってるのに、どうしても何もないでしょ。だけど、”友達”の湊が本気で悩んでるから、助けたくなってこうやって柊なんかに話しかけてるんだよ。私も」
 ”柊なんかに”って、ところに毒を感じて、少し私は怖くなった。

「――悩んでるって。……ストーカーのこと?」
「あー、そうなるんだ。心晴のことなんて、もう、解決してるよ」
「えっ、違うんだ」
「そう。とにかく、湊に会ってくれない? 今日、図書館行くんでしょ」
「な、なんで……知ってるの?」
 なんで、私の行動を津久井萌夏は普通に知っているんだろう。そこが怖くて、私は思わず、引いてしまった。
「私は湊と親友だから、なんでも知ってるんだよ。柊って普段、無口だから、常識人なのかと思ってたけど、ホントに鈍いんだね」と言って、急に津久井萌夏の口元がほころんだかと思ったら、そっと微笑んできた。
 これはからかわれているのか、それとも、単純に私がおかしい反応を返したのか――。私はなんで、津久井萌夏が笑ったのかよくわからなかった。

「湊、この10日間、ずっと恋の病に悩んでるの。だから、会ってあげて。柊は何か、勘違いしてるみたいだけど、湊はきっと、柊が変わってくれないと平行線のまま終わっちゃうと思う。――ったく、もし、結婚したら、婚姻届の証人、私が書かなくちゃならないじゃん」
 ――本当だったんだ。だけど、なんで。
「あーあ。私はできなかったけど、湊のこと、幸せにしてあげて。たぶん、私より湊と合いそうな気がする。柊」
 そう津久井萌夏が言っている途中で、ちょうど電車がホームに到着した。



 私はいつも通り、図書館で本を返し、本を借りた。そして、いつものように図書館を出ようとしたら、やっぱり湊くんがいた。だから、私は思わずその場に立ち止まった。

「――佳奈」
「み、湊くん――」と私が言い終わると、湊くんはふふっと笑い始めた。私はただ、名前を呼んだだけなのに――。
「初めて名前、呼んでくれたな」
 私は自分の中では湊くんのこと、名前で呼んでいたつもりだったから、驚いた。というより、心のなかではずっと、湊くんって呼んでたけど、湊くんの前では呼んだことがなかったんだ。

「顔、赤くなってる」
「――ど、どうも」
「困るとすぐにそう言うよな」
 私の左腕はいつものように湊くんに掴まれた。だけど、10日前よりは弱くて、優しい触り方だった。

「自販機で飲み物買って、少し外のベンチで話そうよ」
「――いいよ」と私がそう返すと、湊くんはしっかりとした微笑みを返して、そっとだけど、しっかり手を握ってくれた。



 10月に初めて話しかけられたときと同じように私と湊くんは公園のベンチに座った。ベンチは11月の冷気にしっかりと包まれていた所為ですごく冷たく感じた。だけど、適度に心臓はしっかりと一定のペースでドキドキしていたから、身体はどんどん温まっているように感じた。

「まず、話し始める前に、とりあえず、乾杯」
 そう言って、湊くんは缶コーヒーを開けたから、私も慌てて、カフェオレの缶を開けた。そして、私からそっと、缶を当てた。湊くんは少し驚いた表情をしていたけど、私はそれを気にせず、カフェオレを一口飲んだ。

「俺より、積極的じゃん」
「た、たまにはいいでしょ?」
「いいかも」と湊くんはそう言ったあと、微笑んでくれた。そして、缶に唇をつけ、コーヒーを飲み始めた。私だって少しは『君のこと』知りたい。

「ねえ。湊くん」
「なに?」
「今日はストーカーはいないの?」
「――もう、いないよ」
「そうなんだ」
 湊くんは不意打ちされたかのような、少し戸惑っている表情をしていた。今まで、余裕そうな雰囲気を出していた湊くんのこんな表情を見るのは初めてだった。

「佳奈。俺――。最初は本当に軽い気持ちだったんだ。だけど、このベンチでなぜかわからないけど、『なぜか自然に君にいろんなこと話してることに気がついたんだ。なんでだろうって思ったけど、たぶん、これが相性なんだろうなって思ったんだよ』。ここでしゃべりながらね」
 私は小さく頷いた。すると、湊くんは最初、このベンチで話したときみたいに、私の左手の上に右手を重ねたあと、私の手を繋いだ。

「だから、あのとき"偽装"って言ったのすごい後悔した」
「――そ、そうなんだ。……でも、私、聞いちゃったんだ。……湊くんと津久井萌夏が話してるところ」
「あー、それかー」と悪気がなさそうなトーンで湊くんは返してきたから、私は少しだけ腹が立ってきた。だけど、きっと違うんだろう――。津久井萌夏があんなに言うなら。

「……私のこと。――り、利用したんじゃないの?」
「ごめん。あのときは萌夏の前だったから、思わずそう言っちゃったんだ。別れたばかりの萌夏にそんなこと言うのはそのとき、ためらったんだよ。反射的に。――たぶん、そのときのやり取り聞いてたんだな」
 私はもう一度頷くと、あー、最低だな、俺と言って、湊くんはコーヒーをもう一口飲んだ。

「あのあと、すぐに萌夏に最初は利用するつもりだったって、言ったんだよ。マジでストーカーに悩んでたから。だけど、それは図書館で最初に話しかけたあの瞬間だけだったんだ。話してみたら、マジで気があったんだよ。マジで」
 そうなんだ。やっぱり、湊くんが10月、私に優しくしてくれていたのは本当に気持ちがあったからだったんだ――。

「ねえ」
「――なに?」
「彼女になってあげてもいいよ――。本物の」
「えっ」
「――『私なりに考えた結果だよ』」
「ありがとう。――やっぱり、察しがいいね」
 湊くんはそう言って、今までで一番柔らかくてきれいな微笑みを返してきたから、私も目一杯、そっと口角を上げた。






「面白かったよ」
「ありがとう」
 青色の中にペンで描いた無数の白いコスモスが咲くワンピースをまとった涼葉を目の前にしていると、いまだにドキドキしてしまう。金曜日に告白して、土曜日にデートをして、それでも満たされずに、日曜日になり、今日は午前中から駅ビルに入っているスタバで涼葉と話している。
 一人がけのソファに座り、沈み込んでいる涼葉は満足そうな表情をしていた。右手でプラスチックカップを手に取り、中に入っている期間限定の焼きいもをモチーフにしたフラペチーノを一口飲んだ。

「2日に1本ペースって、凄すぎでしょ」
「ねえ、日比谷くん。すごいでしょ。私、樋口一葉の生まれ変わりだから」
「たけくらべ、大つごもり、5千円札」
「なにそれ。変な返し」
 僕のことを冷たくあしらったのに満足したのか、涼葉は紙ストローを咥えて、もう一口フラペチーノを飲んだ。僕はノートを閉じて、テーブルの上にノートを置いた。ただ、相変わらず『』の意味はわからなかった。

「あーあ、何気ないこういうやりとりがずっと続けばいいのに」
「なに言ってるんだよ、日比谷さん」
「てかさ、いい加減、名前で呼んでよ」
「いやいや、小田切さんだって、まだ名前呼びしなかった癖に」
「日比谷奏哉(そうや)くん」
「フルネームじゃん」
「じゃあ、呼んでよ。私の名前」
「……す、涼葉」
 ただ、名前を呼ぶだけなのに胸は告白した時と同じくらい、激しく音を立て始めた。
 
「たどたどしいな」
「奏哉……岬くん」
「最果てかよ」
「ねえ、いつかさ、宗谷岬で年越ししてみよう」
「いやだよ。寒いの苦手だから」
「あそこでね、マイナス10℃の中でみんなでテント張って、年越すんだって」
「へえ。なんでそんなことするんだろう」
「ドキュメント72時間観れば、わかるよ。奏哉くんも感動すると思う」
「いや、その感動具合を今、教えてくれよ」
 いやだ、教えなーい。と涼葉はそう言って、またフラペチーノを一口飲んだ。散々、人の名前で遊んだ癖に身勝手だなと思いながら、プラスチックカップを手に取り、僕も涼葉と同じように紙ストローを咥え、フラペチーノを口に含んだ。

 


 サイゼリヤで夕飯を食べ、結局、今日は10時間くらい、涼葉といたけど、駅で涼葉と別れると、さっきまでの楽しさの反動で簡単に寂しくなった。そんなことを思いながら電車に乗っていると、涼葉から《寂しいからもう少し話したい》とメッセージが来たから、単細胞な僕はそのメッセージで同じ気持ちだったんだと嬉しくなった。

 電車を降りたあと、すぐに通話をするとさっきまでと、まったく同じテンションの涼葉の声が耳元で聞こえた。そして、またくだらない話の続きをして、僕と涼葉はそれぞれの家に着いた。



 寝る準備を一通り終わらせて、机の上に置きっぱなしだったiPhoneを手に取り、真っ暗な画面をタップして、待ち受けにすると、涼葉からの新着メッセージがあると通知されていた。
 僕はベッドに寝転んだあと、その通知をタップして、LINEの涼葉とのトークを開くと、こう書かれていた。

《ギリギリまで話したいな》
 一瞬、明日学校だしとか、いろんな現実的なことが頭の中に浮かんだけど、たまに寝不足になってもいいんじゃないかなって気持ちに負けて、僕はまた通話ボタンを押した。

「もしもし」
「ねえ。奏哉くん」
「なに?」
「私、今、どんなパジャマ着てると思う?」
「全身、ピカチュウになるパジャマ」
「ドンキに売ってるやつ?」
「そう。似合うと思うよ」
「適当すぎでしょ」
「正解は?」
「男の子だから、ピンクのフリフリパジャマだと思うでしょ?」
「すごい決めつけじゃん」
「じゃあ、今、見せてあげる。耳から離して」
 僕はそれで察して、iPhoneを耳元から離した。そして、画面を見ると、一瞬、グレーの丸がクルクル回ったあと、涼葉の顔と首元に広がるグレーのTシャツが映った。

「どう?」
「似合うよ」
「嘘つき。なんでも良いって言うもんじゃないよ」
「じゃあ、付き合いたてで部屋着なんか見せるなよ」
「いいの。少しでも私の事実を奏哉くんに見てもらいたかったの」
「変なのって言いたいけど、涼葉らしいかも」
「奏哉くんの白いTシャツ姿、見慣れなくて新鮮だね」
「やっぱ、変なの」
 僕はそう言ったあと、ビデオ通話をオフにした。

「ちょっと、不貞腐れないでよ。格好よかったよ」
「嘘つき」
「あー、バレちゃった。あ、また夢で見たことあるやり取りなんだけどじゃん、これ。まあいいや。嘘がバレるくらいがちょうどいいかも」
「なんだよそれ」と返すと、スピーカー越しで涼葉はくすくすと笑った。そして、そのあと、涼葉が咳き込む音がした。

「大丈夫?」
「ごめん。いつものやつ」
「気をつけろよ」と僕が言っている途中で、涼葉はまた咳き込み、そして、その咳が落ち着いたころに、うんと少し苦しそうな声がした。だから、僕は涼葉が落ち着くまで、少しだけ黙ることにした。
「ねえ」
「なに?」
 あ、もう大丈夫なんだ。
 
「私、もう眠いけど、無理やり通話してるんだ。だから、寝落ちしたら通話切ってね」
「えっ、どうして?」僕はわざと意地悪なことを聞くことにした。
「いくら好きでもいびきは聞かれたくないよ」
「じゃあ、聞いてあげる」
「いやだよ。約束だよ?」
「いいよ。約束する」
「寝る前に言っておくね。奏哉くんのこと、自分のこと晒して、わからなくなるくらい好きになったよ。――おやすみ」
「なんだよそれ」と返すと、数秒間だけ、マイクが涼葉の部屋の空気の音を拾っているノイズだけが聞こえた。

「――涼葉?」
 僕がそう聞いてみても、向こうの世界からは空気のノイズが聞こえるだけだった。だから、僕は諦めて、通話を切ろうとした。
 
「私のこと、好き?」
 不意に飛び込んできた涼葉の声に僕は少しだけ驚いた。だけど、僕は素直にこう伝えることにした。
 
「――好きだよ」
 そう伝えても、向こうの世界からの答えはなかった。聞こえる音はまたノイズだけになり、そして、寝息のようなそっとしたリズムが聞こえたから、僕は涼葉に言われたことを守って、通話を切った。




 いつものように図書室の鍵を取りに職員室に行くと、顧問から涼葉が休みであることを告げられた。昨日の夜まで話していて、今日、休んだんだと少し驚いてしまって、顧問に理由を聞いたら、あれを見ろと言って、顧問が指をさした。その方を見ると壁には備え付けのホワイトボードがあった。
 2年の病欠の欄に涼葉の名前が書いてあった。
 
 ドアの鍵を開け、図書室に入った。そして、電気をつけ、カウンターへ向かい、いつもの事務椅子に座った。グラウンドから聞こえる運動部の掛け声だけが図書室の中で小さく響いていた。

「窓を突き破るくらいの声出して、なにになるんだろう」
 僕がぼそっと言った愚痴は、図書室の中には響かず、そして、そんなことを優しく返してくれる人なんて存在しなかった。とりあえず、バッグからiPhoneを取り出し、《サボるなよ 大丈夫?》って涼葉にメッセージを送ったけど、すぐに既読はつかなかった。

 右手にiPhoneを握ったまま、数分間、涼葉とのトーク画面をじっと見ていたけど、既読がつかなかった。だから、僕はカウンターテーブルにiPhoneを置いたあと、古いノートパソコンの電源ボタンを押した。
 静かな図書室の中で、パソコンがハードディスクを派手に読み込む音が響いた。



☆ 
 ホームで電車を待っている間、もう一度、涼葉とのトークを開いたけど、既読がつかなかった。2日連続のデートのことや、昨日、寝る直前まで涼葉と話したことを思い出した。
 思い出す要素、すべてにおいて、涼葉に未読スルーされる要素なんてないように思えた。ため息を吐いたあと、iPhoneをバッグに戻した。
 そして、気持ちを紛らわせるために涼葉が住んでいる街の方へ続く、レールを見た。4本のレールは沈みかけた夕日が黄色くキラキラと反射していた。




 火曜日になっても、既読がつかず、そして、水曜日になり、一人、図書室で退屈な時間を過ごし、そして、木曜日になってしまった。

 目覚めて、すぐにベッドの横においているiPhoneを手に取り、メッセージが来ていないか確認した。だけど、今日も涼葉からのメッセージはなかった。そして、僕は半分、諦めながら涼葉とのトークを開いた。
 すると、僕の間抜けなメッセージの横に既読が表示されていた。
 そして、そのあとすぐにメッセージが届いた。

 《連絡できなくてごめんなさい 入院しました だけど、大丈夫、小説書けるくらい回復してるから安心して》

 僕は嬉しくなった。だから、こう返すことにした。

《今から、会いに行くから、病院教えて》
 そのあとすぐ、学校の電話番号を検索し、学校に電話をかけ、頭痛と腹痛と悪心の仮病を伝えた。
 



「バカでしょ」
「バカかもね」
 病院の大きな吹き抜けのロビーにある、小さくて丸いガラステーブルを挟んで向き合うように僕と涼葉は座って話始めた。

 あのあと、メッセージで病院のURLを涼葉から送ってもらった。そして、病院に着いたのを伝えると、涼葉は入院用の紺色のパジャマ姿のまま、この吹き抜けの広場にやってきた。僕から見て左側は3階分くらいの高さがガラス張りになっていて、ガラスの先は四角い庭園になっていていて、庭園を囲むように病院の建物がコの字に見えた。
 そして、右側は通路になっていて、その先には、院内出店の小さなローソンや会計、そして、カフェが見えていた。

「大丈夫なのかよ」
「それよりも、これ先に読んでよ」
 そう言って、涼葉は微笑みながら、手に持っていたノートを僕に差し出してきた。だから、僕はノートを素直に受け取った。小説を読んだあと、じっくり話を聞けばいいだけだ。
 涼葉の顔色は黄色っぽくなっていて、いい顔色ではなかった。