4、壊れる君と思い出が作りたかった。

 今、こうして、インスタに書き込んでいるけど、きっと誰にも読まれることなんてない。だから、私のアカウントはノートでしかないから、思ったこと、今の考えをそのまま書くだけにする。

 私は18歳になったばかりの2月の初めにすべての意識をおいてきた気がする。
 例えば、人は人生の中でどれだけ喪失を経験するんだろう。
 例えば、人は人生の中でどのくらい微笑まれるのだろう。

 数えることができない、すべての出来事に嫌気がさしたら、私はどうやって生きていけばいいのだろう。そんなこと、私には到底わからない。
 だから、気持ちを整理するために誰にもフォローされていない鍵垢に書きなぐる気でいる。

 

「人なんて、みんな強く生きれないよ」
 イサムは慣れた手つきで缶のコーラを開けた。炭酸が抜ける涼しい音がしたけど、すでに11月の半ばで、夏の暑さの記憶なんて忘れてしまっていた。学校の屋上から、一望する街は今日も夕日でキラキラと輝いている。

「だけど――」
「だけどなんてないよ。メル」
 イサムが微笑むと風が吹いた。その風でイサムの髪先が弱く揺れた。イサムの髪は肩まで着くくらいロングで、パーマがかかっているからか、アンニュイな印象を受ける。

「そんな萌え袖するなよ。セーター伸びるよ」
 私はそう言われて、急に顔が熱くなるのを感じ、思わず手すりから手を離して、両手をスカートのポケットに突っ込んだ。
「イサムさんはさ、どうして、強く生きることができるの?」
「簡単だよ」
 イサムはそう言いながら、手すりから手を離し、身体をクルッと回して、背中で手すりに寄りかかった。そして、勢いよく、上を向いた。
 一瞬、このまま、飛び降りるのかと思った。だけど、イサムはその場に居たままだった。
 首から上はすでに手すりから大きく出ている。長い髪がだらっと、下がり、イサムの顎のラインが綺麗に見え、少しだけドキッとした。
「全部、知らないふりして笑顔でいればいいんだよ」
 そう言い終わったあと、イサムはまた元の姿勢に戻り、右手で髪をかきわけた。

 なに、言ってるんだろう。コイツ――。
 たぶん、他の学校だったら、明らかに校則違反になるはずだけど、うちの学校の校則はあるようでないものに近い。だから、派手に髪を染める以外で髪のことはあまり言われない。
「ねえ」
「なに? メルちゃん」
「なんで、人って、寿命があるんだろう」
「いいんだよ。そんなことより、どう? 話、乗ってくれる?」
 イサムの微笑みはオレンジ色で染まっていて、その微笑みが切なく感じた。



 イサムの余命ノートを見てしまったのは偶然だった。
 教室に忘れ物を取りに行ったとき、教室には誰も居なかった。だけど、電気はついていた。私の席の前はイサムの席で、イサムの机にはノートが広げられていた。
 別に見るつもりはなかった。だけど、自分の席に向かっているときにノートの内容が目に入ってしまった。

・余命までやりたいこと

 余命って。
 予想外の言葉が目に入ってきて、私は立ち止まり、そのノートを思わずじっくりと見てしまった。

・卒業して、半年くらいは生きたい。
・メルと付き合う。
・あとはもういい。それで十分。

「――なにこれ」
 私は理解できずに思ったことを口にした。一度、目をつぶって、すーっと息を吐いた。そして、見開き、もう一度ノートに視線を戻した。そこにはやっぱり私の名前が書かれていた。
「なんで、私――」
「マジかよ」
 後ろを振り返ると、右手を額に当てて、上を向いたイサムが立っていた。



 そのあと、屋上に連れて行かれて、イサムに告白されて、私は簡単にイサムの彼女になってしまった。だけど、屋上から降りてきたあとも、何も変わっていない。
「イサムさん」
「やめろよ。さん付けするなよ」
 イサムを見ると少し不貞腐れているような表情をしていた。だけど、そのあとすぐ、その表情は微笑みに変わって、眩しく見えた。

「イサムくんでいいよ。無駄に留年してるだけだから」
 イサムにそう言われて、私はゆっくり頷いた。
「なあ」
「なに?」
「俺の心臓、もうあんまりもたないらしいんだよね」
 イサムがそう言ったあと、私は黙ったまま、歩き続けた。イサムは身体が弱くて留年したのは知っている。だけど、そんなこと、急に言われても、やっぱり実感がわかなかった。それは生まれたての告白がまだ定着していない所為もあるのかもしれない。

「――ねえ」
「なに?」
「――こういうとき、なんて言えば、イサムさ……イサムくんの心は軽くなるの?」
「メルちゃん。俺はもう、何言われても大丈夫だよ。その優しさだけで十分だよ」
 イサムはまた優しく微笑んだ。そして、私の手を繋いだ。急に触られた右手はいきなり電流が走ったみたいに感じた。また頬が一気に熱くなっていく。

「余命ノート、本当だったんだ」
「そうなんだよね。残念だけど本当なんだよ。――だから、今日、一つ夢が叶ってすごく、俺、嬉しいよ。身勝手だと思うけど」
 イサムはこんな私をなんで選んだんだろうってすごく不思議に思った。そして、そんなガラスみたいに透き通ったイサムに私は釣り合わないんじゃないかって、イサムの整った横顔のシルエットを見てより強く思った。
 ホント、なんで、私なんだろう――。



 図書室の当番で今日は5時半まで、このカウンターにいなくちゃならない。だけど、放課後開放しているこの図書室には誰一人として、寄付く気配はなかった。
 なんで、金曜日の当番になんてなったんだろう。私はため息を吐いたあと、白い天井を見て、ぼんやりとした。
 うちの学校はスポーツをやりに来る生徒ばかりだ。どのスポーツ系の部活も大体は県大会、全国大会の常連で強豪校と呼ばれているらしい。

 図書局の私にはそんなこと、関係なかった。図書局員は10人しかいない。そして、そのうち7人は幽霊部員だから、月、水、金の週3日しかこの学校の図書室は開いていない、この図書室のカウンター業務の当番は3人で持ち回りをしている。
「なに上向いて、ぼんやりしてるんだよ」
 声のする方を見ると、イサムが立っていた。そして、私のアホ面を見て、面白がっているのか、ニヤニヤしていた。

「ちょっと。ちゃんと気配出してよ」
「気配は出してたよ。それにしても、静かだな」
 イサムは貸し出しカウンターの一番近くにあるテーブルにバッグを置いた。そして、椅子を持ち上げ、カウンターの前に置き、椅子に座った。私とイサムはカウンター越しで向き合った。

「4年目で、初めて図書室来たけど、マジで誰もいないんだな。噂通りじゃん」
「なに? 冷やかしにでも来たの?」
「違うよ。メルちゃん。俺はただ、愛しの彼女に会いに来ただけだよ」
 イサムに告白されてから、一週間が経っても、イサムにそんな調子のいいことを言われると、すごく恥ずかしくて、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚がした。

「あ、メルちゃん。また顔赤くなってるよ」
「いいでしょ。恥ずかしいんだから」と返すとイサムはゲラゲラと笑った。

「そういえば、3年生なのに引退させてくれないの? 図書局は」
「人手不足だからね。――イサムくん入る?」
「あと4ヶ月で卒業なのに入ってどうするんだよ」
 イサムはもう一度、笑ったあと、立ち上がった。そして、日本文芸の書架の方までいき、何かの本を探し始めた。

「古すぎだろ。ラインナップ」
「0%に近い利用率だから、新しい本、買ってもらえないの」
「うちの学校、サルしかいないからな」
 そう言いながら、イサムは一冊の本を書架から抜きとり、それを持って、またカウンターの方へ戻り、椅子に座った。

「なに持ってきたの?」
「サラダ記念日」
 イサムは右手に持っているサラダ記念日の文庫を弱く振った。その本は見るからに日に焼けていて、この図書室に来てからかなりの年月が経っているのを感じさせた。イサムは、そんな古びたサラダ記念日を開き、読み始めた。
 イサムがサラダ記念日を読み始めると、さっきの騒がしさが嘘みたいに消え、一気に静かになった。遠くから聞こえてくる吹奏楽部の管楽器の音階が、上から下へ、下から上へいくのを繰り返している音だけが聞こえてきた。

 私は右手に持ったままだったiPhoneに視線を再び戻した。そして、開きっぱなしだったインスタのタイムラインを適当に指で流していた。いろんな投稿を辿ったけど、だけど、別に必要とする言葉や情報なんてほとんど手に入らなかった。
「今日は何月何日?」
 急にイサムが聞いてきた。私はあまりにも急すぎてこたえることができなかった。
  
「何月何日?」
「11月16日」
「この味いいねって言って」
「いや、意味わからないんだけど」
「いや、言ってみてよ。メルちゃん」
「……この味いいね」
 私がそう言うと、イサムはニヤニヤした表情をしていた。私はそれですぐにイサムが次に何をするのかわかった。

「この味いいねと君が言ったから――」
「11月16日はサラダ記念日」
「おー、さすが。文学少女」
「なにこれ」
「今日は俺達のサラダ記念日」
「無理やりじゃん」
 私がそう言うとイサムは満足そうにまた、ゲラゲラと笑ったから、私も思わず、つられて笑った。



 5時半までイサムは図書室で私と一緒に過ごした。今日も結局、イサム以外の利用者はいなかった。図書室を閉めて、鍵を職員室に戻したあと、玄関を出て、二人でゆっくりと歩き始めた。すっかり辺りは暗くなっていて、冷え込んでいる。息を吸い込むとかすかに冬の匂いがした。カーキのアウターのポケットに両手を入れていても、たまに強く吹く風が冷たくて、そのたびに私は身震いした。

 ――冬至が近い。
 息を吐くと息は白かった。それなのにイサムはブレザーの上に厚手の白いパーカーを着ていた。ポケットに両手を突っ込んでいる。

「寒いな」
「うん」
 右側に見えるグランドは照明で白く照らされていた。その中で、野球部とサッカー部は練習をしていた。時折、大きな声が辺りに響いていた。
「元気すぎだろ。こんなに寒いのに」
「そうだね」
「――ちょっと前までは羨ましいって思ってたけど、今はなんとも思わないな」
「――そうなんだ」
 私はイサムの話が重く感じ、どうやって返せばいいのかわからなかった。イサムは残りの人生を意識していることをこういう何気ない会話の中で、この一週間、何度感じたかもうわからなくなった。

「優しいな。ホント、メルちゃんは」
 イサムはまるで私の気持ちを見透かしたかのようにそう言った。右側を向き、イサムを見ると、いつものように優しい微笑みを浮かべていた。
 
「――イサムくん」
「なに?」
「どうして、私と付き合いたかったの?」
「――それは内緒」  
 イサムは左手をパーカーのポケットから出し、そのまま、私の右肘の間に腕を通し、私とイサムはつながった。
 


 いつものように線路脇の路地を歩き、駅まで向かっている。イサムと手を繋いだまま、ゆっくり歩いている。二本の線路が路地と同じ目線で続いていて、路地の街灯でレールが渋く光に反射していた。

 だけど、先に見える踏切の様子が変だった。
「ねえ、あれ」
「思った」
 イサムもその違和感を覚えたみたいだ。予兆もなく急に鳴り始めた警報と、それに合わせて闇の中に赤色が点滅し始めた。
「マジかよ」
 イサムは私の手を離し、すぐに走り始めた。視線の先の踏切の真ん中には、違う学校の制服姿の女子が座ったままだった。
「待って」
 私はイサムの後ろを慌てて、追った。遮断器の棒は完全に下がりきった。
 
 ――変だ。
 女子は踏切の真ん中で体育座りをしたままだった。誰か他の人の助けがほしくて、私は辺りを見回した。だけど、路地の小さな道の踏切だから、当たり前のように私たち以外、誰もいなかった。
 私の10歩先を走るイサムは、すでに踏切の手前までたどり着いていた。そして、イサムはなにもためらいなんてなさそうに、遮断器を無視して、線路の中に入っていった。

「イサムくん!」
「危ないから、メルちゃんは待ってて!」
 イサムの大きな声が辺りに響いた。依然として、制服姿の女子は線路の上に座ったままだった。ようやく踏切の前にたどり着いた私は、とっさに踏切の非常ボタンを押した。
 イサムと女子が何かのやり取りをしているように見える。だけど、右側から大きな音が聞こえてきた。その方を見ると、電車のライトがだんだん近づいてきていた。

「イサムくん。早く!」
 私の声がイサムに届いているのかどうかわからない。

 あー、終わっちゃう。
 私は何もできずにただ、立ったまま、イサムと制服姿の女子を見守っているだけだった。制服姿の女子は未だに座ったままだった。イサムは制服姿の女子の両腕を掴み、引っ張っているように見える。それに答えるようにようやく制服姿の女子は立ち上がった。女子は思ったより華奢に見える。
 イサムは女子を引っ張るように反対側の遮断器の方まで歩き始めた。
 その直後、私の目の前を耳につく高音を立てながら通過した。



「バカじゃねぇの!」
 踏切の警報音が止み、遮断機が開いてすぐ、怒鳴り声が聞こえた。私は反対側にいるイサムと制服姿の女子の方へ駆け寄った。
 女子は遮断機の前に座ったまま、泣いていた。イサムは女子の前にかがんでいた。

「イサムくん」
「メルちゃん。今、俺、すごい腹立ってるから話しかけないでくれる」
 振り返って、私を見たイサムはすごく怖い表情をしていて、私は思わず息をのんだ。

「――ごめん……なさい」と制服姿の女子は小さな声でそう言った。
「ふざけるんじゃねーよ! なにが死にたかったからほっといてほしいだよ」
 イサムは背中からでもすごい剣幕を感じる。女子は踏切の前で座って、噎びながら泣いている。私はバッグから、ポケットティッシュを取り出した。

「あの……。これ、使って」
 ポケットティッシュを女子に渡すと女子は無言で、ポケットティッシュを取った。私も仕方なく、イサムの隣でかがむことにした。しばらく、三人とも無言のままだった。私とイサムは女子の様子をずっと見たままだし、女子はひたすら泣き続けていた。

「ねえ。運転手から、女の子、足、くじいたって聞いたんだけど」
「いや。こいつ、足なんてくじいてないよ」
「え、どういうこと?」
「メルちゃん。こういうときは正当な嘘をつかないと大変なんだよ」
 私は思わずイサムを見ると、イサムはニコッとした表情をした。
 電車が踏切で止まったあと、電車から、運転手と車掌が降りてきて、イサムに話を聞いてたらしい。そのあと、イサムの反対側にいた私にも話を確認しにきた。そして、10分もしないで電車は何事もなかったかのようにゆっくりと発車していった。
 一人でぽつんと踏切の前に立っているところを、明るい電車の窓越しに多くの乗客から見られるのはしんどかった。

「――どうして、嘘なんかついたの?」
「仮にこの子が本当の理由話してしまったら、事故じゃなくて、この子の過失になる。つまり、電車を止めた賠償金を支払わなくちゃならなくなる」
 なんでイサムはこんなことも知ってるんだろう。

「電車止めるっておおごとなんだよ。仮に飛び降り自殺したら、最悪、その遺族に何千万、何億か賠償請求されることだってあるらしいよ」
「へえ。物知りだね」
「まあな。入院してるとき観てた、ワイドショーでやってたの思い出したんだ」
 イサムがそう言ったあと、しばらくの間、沈黙が流れた。女子は静かに泣いていて、私とイサムは女子の次の言葉を待っていた。

「だから、お前は俺に助けられて、ラッキーだったよ」
「……それでも死にたかったの」
 私は女子のその言葉で思わず、座ったままの女子を睨んでしまった。

「あっそう。いいよな。生きること放棄する選択があるのって」
「……あんたにはわからないよ!」
 女子の声が路地に響き渡った。女子が着ている制服のスカートは他校のものだ。

「は? 知らねーし」
「どうせ、わかりっこないよ。あんたなんかに。生きることがつらい人のことなんて。なに? なんなの。ヒーローぶってさ。私だってそれなりの覚悟であんなことしたんだよ」
「知らねーよ。迷惑かけるような身勝手なことはどうかと思うけどな」
「ねえ。どうしてあんなことしたの?」
 私がそう女子に聞くと女の子はしばらくの間、黙ってしまった。きっと、何かを自分の頭の中で再生しているのかもしれない。

「……私、社会不適合者なんだと思う」
「あっそ」
「イサムくんは黙ってて」
 私がそう言うと、イサムはバツが悪そうな表情をしながら、大きなため息をついた。

「周りと話が噛み合わないし、友達いないし、いじめられてはいないけど、失笑されたり、無視されたりするし、学校に行くだけでつらく感じるし、生きてる意味なんてよくわからないから、だったら死んだほうがマシって思ったの。――ただ、それだけ」
 女子はそう言い終わったあと、立ち上がった。だから、イサムと私も女子と同じように立ち上がり、女子の次の言葉を待った。
 空を見上げると月の光が薄い雲で濁っていた。すっと息を吐くと白かった。

「やっぱ、ムカつくわ。理解できない」とイサムは呆れたような口調でそう言った。
「――理解しなくたっていいよ。どうせ、理解されないことだってわかって言ったんだから。あんたたちみたいに人生上手くいってそうな人にはわからないよ」
 ――なにそれ。ムカつく。

「ねえ。決めつけないでよ。人生上手くいってるって」
「えっ」
 女子は一瞬で驚いた表情になった。さっきまで泣いていた両目は暗闇の中でも、充血しているのが見えた。

「全然、上手くいってないよ。少なくともイサムくんは」
「いいよ。メルちゃん」
「イサムくん。よくないよ。――イサムくんはね、もう命が短いの! 勝手に決めつけないでよ。あなたに何があったか知らないけど、イサムくんがどんな気持ちであなたのこと助けたのか、わかってよ!」
 今度は私の声が辺りに響き渡った。女子はそんな私に驚いたのか、ぽかんとした表情のまま、私を見つめている。なんでこんなにこの女子のことがムカつくんだろう。
 
「メルちゃん。いいよ、ありがとう。――俺、病気で余命半年なんだ。だから、ついムキになっちゃったんだよ。悪かったな。いきなり、怒鳴ったりして」
 イサムのことが気になって、思わずイサムの方をみると、微笑みを浮かべていたから、私はまだ、納得いかず、だんだんとイライラが込み上げてきた。



「あーあ、なんで俺、あんなに怒っちゃったんだろうなぁ」
 結局、私達はあのあとのソワソワして釈然としない気持ちを解消するために駅前のスタバに入り、お互いにフラペチーノを飲んでいた。

「ねえ。イサムくん」
「なに?」
「ごめんなさい。――私、ムキになって、余計なこと、口走っちゃって」
「違うよ。メルちゃん。――嬉しかった」
「えっ」
 予想外の答えがかえってきたから、少し動揺した。だから、それを隠そうと、フラペチーノを一口飲んだ。

「今、なんでって思ったでしょ」
 私が小さく頷くと、イサムは笑みを浮かべて、フラペチーノを一口飲んだ。
「俺のこと、わかってくれてるなって、すごい思っただよ」
 そんなこと言われて、私は急に恥ずかしくなった。そして、その感情と同時に顔が一気に熱くなるのを感じた。

「一瞬さ、俺、あのまま電車に轢かれるのかと思った」
「――よくやったよね。真似できないよ」
「だろ。あの子に気づいて、走り始めた時は、どうせあと半年の命なんだから、電車に轢かれてもいいやって思った」
 イサムはそう言ったあと、小さなため息を吐いた。私はイサムの次の言葉をただ、待つことにした。

「だけど、電車のライトが見えたとき、怖くなったんだ。――死にたくないって」
「――そうだったんだ」
「あぁ。――なんでだろうな。もうさ、半分、諦めてるんだよね。俺。別にいいやって。だから、あんなバカげたノートも書いたんだよ」
 イサムは右手で髪をくしゃくしゃと何度かいじったあと、上を向き、また小さく息を吐いた。

「なあ。メルちゃん。――やっぱり、先がない男なんかと付き合っても辛くなるだけだろうからさ。別れちゃおうか。このまま」
「え、なに言ってるの」
 胸の奥にズキッと鈍くて重い感覚が広がった。
 
「やっぱ、余命半年ってつらいわ。――もっと、普通にこうやってデートだってしたかったし、メルちゃんのこともっと知りたかったな」
「ねえ、やめてよ。まだ私、なにも答えだしてないんだけど」
 私がそう言って、イサムのことをまっすぐ見た。イサムの目元に少しだけ涙が滲んでいるのがわかったけど、私は目をそらさないように心がけた。

「今更、遅いよ。せっかく好きになり始めてるのに、自分だけ、格好つけないでよ。――その気にさせておいて、無責任だよ」
「――悪い、だよな」
 イサムはそう言ったあと、すっと息を吐いた。その仕草をみて、私は思わず泣きそうになり、数秒間、上を向いた。そして、涙を我慢できた自分を少しだけ褒めながら、もう一度、イサムをじっと見つめた。

「だけど、マジでいいの。最後まで」
「――いいよ。最後まで、付き合ってあげる。その代わり、イサムくんも最後まで私に付き合ってね」
「いいよ。約束する」
 イサムはそう言ったあと、右手の小指を私の方に差し出してきた。だから、私は右手の小指をイサムの小指に結んだ。



「イサムくん。これ、読んで」
 私はそう言ったあと、サラダ記念日の文庫本をイサムに渡した。イサムの病室からは、灰色の空と、雪で白くなった街が綺麗に見えている。
「メルちゃんありがとう。さすが。サラダ記念日、読みたいって思ってたんだよ」
 ベッドの上に座っているイサムはいつものように微笑んでくれた。

「寒いよ。今日」
「あぁ。本、冷たくてそう思った」
 イサムとクリスマスは過ごすことはできなかった。クリスマスの一週間前に入院し始めて、イサムはそのまま、一足早い冬休みを病院で過ごすことになった。
 そして、1月になり、ようやくイサムから連絡があり、こうしてお見舞いに行くことができた。

「メルちゃん。クリスマスごめんな」
「いいよ。――4月になったら、桜見に行こう」
「――だな」
 お互いに黙ったままになってしまった。
 ――約束が果たされるのかなんてわからないけど、今は約束するしかない。イサムとの未来を。

「ねえ。私達のサラダ記念日、覚えてる?」
「当たり前だろ。せーの」
「11月16日」
 お互いにそう言ったけど、微妙にタイミングがあってなくて、バラバラに言い終わって、それがおかして思わず笑うと、イサムも私と同じように笑ってくれた。

「息ぴったりだね。私達」
「あってないじゃん」
「あってるようなもんだよ。ちょっとずれただけじゃん」
「そうだな」
「そうでしょ」
 そう返すと、変なのと言って、イサムはまた笑った。イサムのベッドの先の窓をふと見ると、窓の外はいつの間にか雪がちらつき始めていた。

「なぁ。メルちゃん」
「なに?」
「本当はさ、クリスマスにやりたいことがあったんだ」
「え、なに?」
「もう少し、こっち来てよ」
 イサムにそう言われて、私はパイプ椅子から立ち上がり、イサムのベッドの方まで近づいた。

「もっと。柵の手前まで」
 そう言われて、私はベッドの転落帽子柵に身体をくっつけるくらい近づけた。
 『身体には何本もの線が繋がれていて、それらの線は心電図の機械にまとめられていた』
 左手には点滴がされていて、そんなイサムの姿が切なく感じた。

「もっと。ベッドに座って」
「――いいの?」
「ほら、座りなよ」
 そうイサムに言われて、私はイサムの方に背中を向けて、ベッドの端に座った。そのあと、すぐに後ろから温かさを感じた。
 イサムに抱きつかれたまま、しばらく、お互いになにも話さずにそうしていた。窓の外を見ると、雪がちらつき始めていた。このまま、時間なんて止まってしまえばいいのに。
 なぜか辛くなって、息を止めて、我慢しようと思ったけど、涙が一粒あふれてしまい、頬を伝ったのを感じた。



 これが君と付き合った数カ月の話だ。
 君がいなくなり、桜が咲き、そして、散っても私の気持ちは未だに整理がつかない。

 君と何気ない毎日が過ごせたらいいなって思えるくらい息が合う感覚を私は忘れることができないよ。
 ねえ。あの世はどうですか?
 あの世から私が見えているなら、きっと、このインスタの文章も見られているかもしれないね。

 前を向くためには、まだ、時間が掛かりそうだから、私はしばらくフリーターのまま、自分の心の整理をつけて次のことを考えたいと思っているよ。
 全部、君の所為って言いたいけど、君を選んだ私の責任もあるし、君はそのことを危惧してくれていたから、すべて私の問題だよ。

 だから、今日でこのインスタの更新も辞めようと思う。
 最後に、この画像は、最後に彼からもらった最後の手紙だ。


 
 メルちゃんへ

 これを読んでいるということは……
 とか、辛気臭い話はしないよ!

 本当は、あと半年、いや、しぶとく余命なんて無視して生きるつもりだったけど、無理だったわ。
 君のこと、もっと知りたかったし、もっといろんなことしたかった。
 息があうとか、運命ってこんな感じなんだって思ったよ。
 
 本当のこと、白状します。
 実はメルちゃんと付き合いたいと思ったのは、メルちゃんがうしろの席だったからにすぎないんだ。
 
 更に白状しちゃえば、
 『あのとき、ものすごく失望していたんだ』

 『こんな自分の運命を受け入れることができなかったんだ』
 『だけど、あれのおかげで、君の優しさに触れることができたし、初めて愛しいと思える人と出会えました』
 
 最後にこれだけは言わせて。
 本当にありがとう。
 メルちゃんと付きあえて本当によかったよ。
 俺は君が大好きだ。

 メルちゃん、
 くやしいけど、君の幸せを俺は祈ってるよ。

 イサムより愛を込めて。






「ねえ、日比谷くん」
「なに?」
「もし、人が死んじゃうまでの残りの日数を見ることができるようになったらどうする?」
 水曜日と同じように僕と涼葉は成り行きで、そのまま、公園までやってきていた。そして、この前と同じ、噴水が見えるベンチに座り、いつものように終わりが見えない話をしていた。すでに夕日のオレンジは深く、薄くなっていて、世界は優しい秋の寂しさに包まれていた。

「小説みたいじゃん」
「私は自称天才小説家だからね。日比谷くんの前だけでは」 
「今、自分のこと天才って言ったよ。そう思ってるなら、もっと外に出しなよ。ネットとかでさ」
「いいの。これは自己満足で私の記録を残しているんだけだから」
「ふーん」
 僕がそう返すと、冷たい人だねと、笑いながら涼葉はそう言った。そのあと、少しだけ冷たい風が吹き、涼葉の後れ髪が揺れた。

「それでどうするの? 日比谷くんだったら」
「それ、答えないとダメ?」
「ダメに決まってるじゃん」
「意味わかんねーだけど」
「いいじゃん、意味わからなくても。答えて、重要なことだから」
 一体、なにに対して重要なんだろう。涼葉はいたずらを仕掛けているときみたいに無邪気そうな表情をしていた。この質問に意図があって、その意図の先にいたずらが仕掛けられているとして、その目的が明かされ、僕がその質問に簡単に騙されていたら、涼葉のことを天才だって思うかもしれない。

「人が死んじゃうまでの残り日数を見ることができたら、その人に優しくするかな。なにも伝えず、知らせず、運命なんだから、受け入れるしかないんだし」
「――そっか」
 静かに涼葉がそう言ったから、きっと、僕は涼葉が求めていた回答をしなかったんだなって思った。涼葉は視線をあげて、何かを考えているようだった。
 もっと、ドラマティックなことでも言えばよかったのかな。その人が死なないように寿命まで助ける努力をするとか。

「じゃあ、質問を変えるね。もし、もうすぐ死ぬのが、私だったらどうする」
 え、めっちゃ中二病こじらせてる質問じゃん。とすぐに言いたくなったけど、僕に視線を戻してそう言った涼葉の表情は思った以上に真剣だったから、そう返すことを僕はためらってしまった。

「つまり、涼葉の余命の日数が見えて、それが僅かだったらってこと?」
「そう、その通り。頭いいね」
「なんか、バカにしてない?」
「だって、話をまとめようとしたじゃん。さあ、答えて」
 女王みたいな迫り方だなって、ふと思った。思春期をこじらせた女王が、スペードのジャックみたいなイエスマンの召使に自分が望んだ答えを言わせようとしているみたいだ。

 そして、ふと思った。
 もし、今、涼葉がいなくなったら、心に穴が空いたような喪失感で僕は苦しくて溺れてしまうかもしれないって。

「どんな死因でも、最後まで一緒にいたいな。1秒でも長く。そして、次の小説ができるのを待つよ」
 そう言い終わると、冷たい風がまた吹いた。この風が吹くたびに木々は色づき始めるようなそんな夏を忘れさせる冷たい風だった。僕と涼葉はじっと見つめたままだった。くっきりとして、色素が薄い大きな瞳に吸い込まれそうなくらい、涼葉には透明感があった。

 涼葉を見つめながら、もう一度、僕は自分が言ったことを考えた。
 少し冷静に考えると、これって、もしかして告白していることになっているかもしれないと思った。 
 
「ねえ」
「――なに?」
「もっと、はっきりしたいな」
「はっきり?」
「――関係性」
 静かな声で涼葉はそう言った。急に心臓が忙しくなってきたから、僕は浅く息を吸って、深く吐いた。
 関係性をはっきりさせたいってことは、やっぱりこう言うのって、男から言うのが、ベストなのかもしれない。だけど、ドキドキする。

 急に訪れた人生で初めて、誰かに好意を伝える機会。
 僕の勇気ですべてが変わるなら、僕は自分に素直になろう。
 僕は涼葉のことが好きだったんだ。
 
「涼葉。君と一緒に――」
「あっ、ちょっとまって」と言ったあと、すぐに涼葉は咳き込んだ。何度か、苦しそうに咳き込んだあと、もう一度、僕のほうを見てきた。目元は少し潤んでいた。

「大丈夫?」
「ごめん、緊張したかも。むせただけだから、大丈夫」
「めっちゃ涙目じゃん」
「たまに息苦しくなるんだよね。本当にたまにね。いいよ、続けて」
「なんか余計、緊張するな」
 僕がそう言うと、涼葉は、だよね、ムードぶち壊したわと言って、弱く笑った。