少し頭を冷やしてからリビングに戻れば千世さんは泣き止み眠ってしまった赤ちゃんをベッドに寝かせ、テーブルに何冊かの大きな本を出していた。
そしてその部屋に鹿島さんは見当たらない。
不自然にならないよう必死に見回したのにどこにも彼はいなかった。

そっか、成仏出来たんですね。

約束を果たせた、その安堵を今感じていてその感情に嘘は無い。

「これ、渉ちゃんの写真なの。
出た雑誌とか、高校生の時の写真とか」

千世さんは楽しそうにアルバムなどを開いていく。
だが私の意識はそこにはなく、言われたことにただ返事をしていた。
彼女が何をしたのか、何を話したのかはわからない。
だがわかっているのはもう恐らくこの世に鹿島さんはいないという事。

きっとその場になれば泣くと思ったのに涙は出ない。
だってここにいるのは、鹿島さんの親戚で尊敬するお兄ちゃんの死を乗り越えた高校生。
こんなとこで役を放り出したらきっと鹿島さんに怒られる。
なら、最後まで演じなくては。
私は写真を見ようと急かす彼女に、高校生らしい笑顔で席に着いた。



「ごめんなさいね、こんな時間まで」

夕方、まだ外の陽は明るい。
駅まで赤ちゃんと共に送ってくれた千世さんに、大丈夫ですと返す。
赤ちゃんはさっきミルクを飲んでご機嫌な表情だ。

「知世さんってもしかして何か感じる人なの?」

急な指摘に演技も忘れびくりと顔を強ばらせてしまった。
なのに彼女は穏やかに、

「お手洗いに行ったタイミングがね、まるで渉ちゃんと二人だけにしようとしているように思えて」

何て鋭いのだろう。
いや、部屋を出ようとした私は何も演技できず、泣きそうな顔をしていたのかも知れない。

「だからきっと渉ちゃんがそこにいると思って伝えたの。
ずっと大好きだったこと、そして私は今幸せで何も心配ないからと」

無理なんてしていない、心からの笑顔を彼女は浮かべていた。
そしてそっと赤ちゃんの頬に自分の頬を寄せる。

「この子、渉矢っていうのよ。
しょうやって呼んで渉は渉ちゃんと同じ字。
彼が言い出したの、渉ちゃんのように素敵な男性になるよう一文字入れようって」

彼女の穏やかな笑みも、さっきの言葉も、今の旦那さんが引き出した物なんだ。
彼女の愛した男性の名を子供につける、なんて器の大きな優しい旦那さんなのだろう。
それだけ二人には深い絆があって、この赤ちゃんがいる。
それを知って鹿島さんはこの世に未練が無くなったのだろう。
それが悲しみなのか、安心なのかは聞けなかった以上わからなかったけれど。

「また、会えるかしら」

千世さんは遠慮気味に声をかけてきた。
それに私は笑顔で応える。

「もちろんです。
今度は旦那さんにもご挨拶させてください」

彼女は笑顔で私が改札から見えなくなるまで手を振ってくれ、私も何度も振り返りながら手を振った。

そして自分の乗る電車のホームに向かう階段を上がりながら、頭の中はぼんやりしてしまう。
だって私の側に、もう鹿島さんは居ない。
あまりに消えるときはあっけなかった。
せめてお礼ぐらい言いたかったのに。

違う、あなたが、鹿島さんが好きでしたって言いたかった。

だけど彼にとっては私なんかより千世さんとの事が解決すれば良かっただけで。
それを私だって最初はそれを願って千世さんと会う為に行動したのだ。

きっとこんなに好きだと思った男性は初めてだと思う。
その相手が既にこの世にはいなくて、幽霊で、そして知らぬ間に成仏して消えて。
初めてここまで好きになった人とこんな別れ方、なんて馬鹿馬鹿しいのだろう。
意地を張らずに昨日話しをしたいと言えば良かった。
どうせ駄目でも思いを伝えておけば。

私は彼が幽霊でも消える可能性を予測できた。
だからその前に行動することだって出来たのにそれをしなかった。
千世さんは、そして鹿島さんはそんなことも出来ずに突然永遠の別れとなった。
それなのに、わかっていたのに。
やっぱり自分は馬鹿だ。
気を抜いてしまえば一瞬で大量の涙が出そうだ。

「ほんと馬鹿だな、私」
「何が馬鹿なんだ?」

勢いよく振り向けば、そこには少し向こうが透けて見える鹿島さんが首をかしげていた。

「な、なんで、成仏したんじゃ」

周囲のことなど忘れ指を指す。
何で鹿島さんがいるの?
成仏したんじゃ無かったの?
というかさっきまでいなかったのに!!

「それがさ、俺もあ、これ成仏したなって思った訳よ、ふわーって空に吸い込まれる感じがあってさ。
なのになんか知世が泣いてる気がして、心配だな、様子見に行かなきゃって思ってたらここにいた」

へら、と笑う彼を見て膝が崩れる。
なんだそれ。
私が彼が成仏しかかったのをこの世に引き留めてしまったととでもいうの。

「おい!こんなところでしゃがめば不審に思われるぞ!」

ちょうど人がいなかったので私はよろよろしながら何とかホームに行き、その端っこにあるベンチに腰を下ろすと前に立っている鹿島さんを見上げる。
彼は居心地が悪いのか私と目を合わせない。

「千世さんに会ったのに、何で成仏しないんでしょうか」

周囲に人がいないことを確認して小さく声をかけると鹿島さんも頭をかいて、

「何でだろ、俺もわかんないよ。
今日消えるんだろうなって覚悟してたから肩透かしにあったというか」

息を吐き、彼自身もやはり今日消えると覚悟していた事を知り、それなら先に私へ別れの言葉くらいくれてても良かったんじゃないだろうか。
それだけ千世さんの事しか頭になかったと言っている自覚は無さそうだ。

「なんかさぁ、千世が結婚して子供がいることに実感が湧かないんだよ。
まだ俺に未練無いのかな、ありそうとか考えちゃって」
「やっぱり千世さんに未練あるから成仏出来ないんじゃ無いですか。
私が心配だったみたいなの、ただの言い訳でしょ。
現に私泣いて無かったですし」
「そこまで言われると傷つくんだけど」

呆れた。
さっき私が泣いていると思って心配だった、なんて言っていたけれど、成仏しそうになったのにやはり千世さんに未練があって戻ってきただけなのだろう。
帰ってきてくれて嬉しい、それも私のために戻ってきてくれたって思った私はやはり馬鹿だ。
彼の一番は千世さん、それは揺るがないのだろう。

「じゃぁきっと鹿島さんの気持ちに完全に整理が付けば成仏できるんでしょうね」
「そうなるのかなぁ」

鹿島さん自身が理由を一番わかっているはずなのに、それに気付きたくないのかもしれない。
成仏してしまえば千世さんの声も顔も見ることも出来ない、それがまだ嫌だからというのなら、成仏出来ない理由としては筋が通る。

「まだ少しくらいならいてくれて構いませよ。
きっと鹿島さんの気持ちに整理がつけば自然と時が来るんでしょうし」

私のフォローに鹿島さんが眉間に皺を寄せる。

「何だよ、消えてせいせいしたのに戻ってきたから、とりあえず早く消えて欲しいような言い方だよな。
知世が泣いてる気がしてして気になったのは本当だぞ?
あんなにアドバイスしたり、勉強してて寝落ちしないよう見張ったりしたのに冷たいヤツだ。
それに腹出して寝てる誰かさんのパジャマ直してるのは誰だと思ってんだ」
「最後の!最後の初耳!!」

そんなことをされていたなんて!
羞恥心で顔を赤くしている私を、いたずらっ子のような顔で鹿島さんが私をのぞき見る。
きっと彼の心の中で見ていたいのは私では無い。それでも。

彼はいつもと変わらない笑顔を見せて、

「もうしばらく頼むな、可愛い妹よ」
「お兄ちゃんは私がいないと駄目なんだから。仕方がないなぁ」

わかりきった彼の思いに、私はわざとらしく呆れた風な妹を演じる。
そうするしか、演技を続けるしか私は好きな人には見てもらえないのだから。
電車がまもなく到着するというアナウンスがホームに流れる。
私は鹿島さんを見て、帰りましょうと笑顔で声をかけた。